ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」特集、BS-TBS『SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜』が9月9日に15分の短縮版として放送された。
「Jump」は、アルバム『1984』からのシングルカットで全米1位となり、Van Halenの名を、世代を超え世界中に広めた一曲。シンセサイザーを大胆に取り入れ、新しいサウンドにチャレンジした意欲作でもあった。
作曲はエディ・ヴァン・ヘイレン。作詞はボーカルのデイヴィッド・リー・ロス。80年代を代表する一曲となった。
証言者。デイヴィッド・リー・ロス(Vo)、エディ・ヴァン・ヘイレン(G)、アレックス・ヴァン・ヘイレン(D)、テッド・テンプルマン(プロデューサー)、ブラッド・トリンスキー(音楽誌ライター)。
ロスアンゼルス北東の町パサデナでバンド活動をしていヴァン・ヘイレン兄弟。エディは10歳のときオランダから移住してきた。最初はエディがドラムで兄のアレックスがギターだったが、お互いの楽器のほうが得意だと気づいた。そこに、他のバンドでベースを弾いていたマイケル・アンソニー、そして、PAシステムを借りることで親しくなったデイヴィッド・リー・ロスが加入した。
パサデナで人気が出た彼らは、ロスアンゼルスの音楽の中心でもあったハリウッドへ本格的に進出。ウィスキー・ア・ゴーゴーなどの名門ライブハウスなどで演奏するようになった。
アレックス、「俺たちは、何年も、クラブであらゆる曲をライブ演奏してきた。色んな曲が俺たちの中に染み込み、好みにも影響を与えた。」
デイヴィッド、「クラブで毎晩演奏していたあの数年間が、俺たちの音楽人生のベースになっているのかもしれない。クール&ギャングのナンバーから「スモーク・オン・ザ・ウォーター」まで、何でも演奏した。
レッド・ツェッペリンからオハイオ・プレイヤーズまでカヴァーしたあの時代が、俺たちにとって「大学」時代だった。」
「Jump」のオープニングのメロディーは夜中にキーボードを弾くエディーに降りてきた。
テッド、「エンジニアのドンも一緒だった。アレックスとエディでレコーディングしてベースをダビングしたものを僕の前で流した。それは完璧なサウンドだった。」
エディ、「Jumpのオープニング・リフがどこからきたのかなんて分からない。
あの頃はキーボードをよく弾いていて、幼い頃からピアノを叩き込まれていたお陰で、どこかからキーボードのリフが俺を通して「出てきた」だけだ。
その源は、経験の積み重ねさ。イジメや失恋、マズいホットドッグ等の色んな経験が、俺という「フィルター」を通して出てきたんだ。人間は様々な経験を溜め込む「スポンジ」みたいなもので、それを絞ると、あの時は「ジャンプ」のメロディーが生まれた。」
アレックス、「創造の過程はどんなものかが分かる。無意識で作ったものに、後から意味付けをしようとするんだ。全ての曲が神秘的に生まれるわけじゃない。
デイヴィッド、「多くの者が、一発で決められたことに「罪悪感」を持ち、イジり過ぎて自滅する。」
ブラッド、「キーボードの部分は基本的にワンテイクで完成したそうです。」
テッド、「デイヴが来たので歌詞を書くよう頼んだ。この時のことが忘れられない。彼はクリップボードを腕に抱えて書き始めた。彼は当時49年か50年物の赤いマーキュリーのコンバーチブルに乗っていた。そのルーフを開けて、足を前の座席に乗せて書き始めた。彼は「こんな感じでどう?」と言った。そこには、「ジャンプ」の歌詞が書かれていた。僕は「ダメだ。誰かが窓から飛び降り自殺するみたいじゃないか」と言った。すると彼は「違うよ、挑戦しろ!チャンスを生かせということだ」と言った。それで僕は了解した。彼はスタジオに入り、完璧に歌いあげた。」
デイヴィッド、「ジャンプ」の歌詞には、俺を最も輝かせ、同時に苦痛を与えた「言葉」が入っている。
Might as well jump !(とりあえず飛んでみるか!)
状況で色々変わるけれど、前に進むという意志表示は変わらない。何日も思い悩まず、チェスみたいに何手も先を読まず、とにかく前進を続ける。そんな時に使うのが「とりあえず」だ。
「とりあえず」大きな挑戦して大失敗に終わることもあるが、人生を精一杯生きたという記憶は残る。」
英語版WIKIによると、Jumpのシンセ・リフは1981年にできていたが、他のメンバーから拒否されていた。ダリル・ホールはエディからKiss on My Listの一部をシンセに使ったと聞いている。
デイヴィッドは、付き人にマーキュリーを運転させながら曲を繰り返し聴いて、詞を書いた。彼は、前夜のテレビニューズでビルから飛び降りて自殺すると喚いた男のことを思い出していた。彼は、その場に居合わせた誰かなら「飛び降りてしまえ」と叫んだだろうと考えた。しかし、歌詞は自殺による脅迫ではなく、恋への誘いの歌詞として書かれた。
1983年12月リリース。1984年ビルボード1位。
JumpがベスヒットUSAで大ヒットになるまで、ヴァン・ヘイレンを知らなかった。とにかく、サウンドは新鮮だった。エディのライトハンド(タッピング奏法)が若いギタリストに影響を与えているといわれて、そうかと思った。デイヴィッドがやたら足を上げるのも変わっていた。
歌詞の部分のメロディを誰が作曲したのか分からないが、当時はこれが歌か、叫んでいるだけなのかと言われた。
カラオケで歌いづらいという意見が多かった。
次のシングルは「I'll Wait」らしいが知らない。次にヒットしたのが「Panama」で、曲もMVも出来がよかったので、一発屋では終わらなかった。Panamaはデイヴィッドが見たラスベカスのパナマ・エクスプレスという名前のカーレースから、またはデイヴィッドの愛車の名前からという。パナマ共和国の歌ではなかった。
その後の特集で「ユー・リアリー・ガット・ミー」「プリティー・ウーマン」など以前の曲を聴いたが、普通のハードロックバンドだったんだなと思った。ヘビメタではなかった。
その後のMVではデイヴィッドが新体操のリボンを回して披露してくれたが、笑ってしまった。バービーボ-イズの杏子もリボンをステージで回していたが、当時の流行だったようだ。
1985年7月頃、デイヴィッド・リー・ロスが脱退。後任のヴォーカリストに元モントローズのサミー・ヘイガーを迎える。
デイヴィッド・リー・ロスの「カリフォルニア・ガールズ」(1985年)はビルボード3位のヒットとなり、よくベストヒットUSAで見た。名バージョン。
バラードロックの名曲「When It's Love」(1988年)が出て、初めてまともな曲を聴いた。「Jump」、「Panama」は名曲だが、デイヴィッドの歌詞とメロディは歌と言いづらい。そこに、出てきたのが、サミー・ヘイガーが歌うこの曲。彼が対抗心で足を上げているのが面白かった。ビルボード5位。
当時、ヴァン・ヘイレンはアメリカ(世界)で一番高いギャラを要求するバンドとして有名だった。
BS-TBS『SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜』は2012年か2013年に見たが、デイヴィッド・リー・ロスを陽気なヤンキーだと思ってきたが、実は作詞能力のある才人だったのだと気づかせてくれた。