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モンゴル チンギス・ハン生誕伝承地ビンデル クリルタイ跡 匈奴貴族の墓 新石器時代の遺跡 ウスユキソウ  

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チンギス・ハン生誕伝承地の一つモンゴル北東部ヘンティー県ビンデルの村周辺。2014年7月14日(月)。7時30分にゲルを出発し、11時頃にバイカル湖へと北流するオノン川の橋を渡り、北東に進むとビンデルの村に近づいた。
新石器時代から狩猟民が居住した肥沃な大草原には湖が多い。
 
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ビンデルの村のゲート。商店や住居がまばらに並ぶ小さな村である。中心広場にある簡単な観光地図を参考に、クリルタイ跡、チンギス・ハン馬つなぎの地のある南方面へ向かった。
 
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クリルタイ跡。クリルタイはモンゴル諸部族合同の大会議のことで、1206年の春にこのオノン川の畔に諸部族の代表者が召集され、テムジンをチンギス・ハンに推戴したとされる。
ただ、最近史跡として作られたということで、ここかどうかは確証がない。
 
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クリルタイ跡。記念碑のプレートには1206年、チンギス・ハンの文字などが記されている。
 
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チンギス・ハン馬つなぎの地。クリルタイ跡から東南約2kmほどの丘の上に木柱があり、テムジンがここで馬をつないだという記念碑となっている。
 
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チンギス・ハン馬つなぎの地。丘の端には岩があった。
 
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村の外れの丘の上からの風景。頂上にはオボーがある。新石器時代の遺跡が村の南外れの小高い岩山にあると書いてあるので、村の外れの丘に麓から歩いて登っていった。頂上付近を捜してもそれらしいものがなかったので諦めて下りた。
 
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ウスユキソウ。村の外れの丘。高山植物があちこちで咲いていた。エーデルワイスと同種。岩手の早池峰山でハヤチネウスユキソウを見たのは15年ほど前だ。
 
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フウロソウ。村の外れの丘。
 
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ワレモコウ。村の外れの丘。
 
西から北へ村の周りを回り、村の中心地へ戻った。運転手が交渉して、商店にいた現地人をガイドとして同行案内してもらうことにして、車で南東へ向かい、橋付近を通り過ぎて、さらに東へ数km進むと、鹿石が2本ある地点に着いた。
 
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鹿石。付近の墓と同じく、BC3世紀頃の匈奴時代のものとされる。
 
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鹿石。鹿石は新石器時代から立てられたという。本来は鹿などが描かれているのだが、ほとんど磨滅していて、何が彫られていたのか分からなくなっている。
 
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匈奴貴族の墓。鹿石の周辺には多数の墓が残存している。立石を起点として長方形の区画に板石が並んでいる。
 
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匈奴貴族の墓。
 
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匈奴貴族の墓。
 
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鹿石と匈奴貴族の墓。
 
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新石器時代の遺跡のある岩山と説明碑。鹿石から500mほど東の道路沿いに説明碑がある。
 
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説明碑。ラシャン・ハド(ハタ)が遺跡名らしい。数千年前から遊牧民がこのあたりに居住を始めた。多くのシンボル、鹿・馬・サイなどの動物の絵、古文字が岩山とその周辺に残されている。
 
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岩山の麓の岩。動物や人のような記号が彫られている。はっきり分かる石刻はこの岩ぐらいであった。
 
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岩山の麓の岩と岩壁。ガイドが岩壁にも何かあると言ったが分からなかった。
 
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岩山の頂上。銃を持った現地の青年が二人座っていた。
 
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岩山からオノン川方面の草原を眺める。新石器時代からの人々の営みが繰り広がれていた。チンギス・ハンの時代は歴史の舞台となったと思うと感慨深い。
 
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岩山に咲くウスユキソウ。このあたりも高山植物の宝庫であった。
ビンデル村へ戻る。
 
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オノン川に架かる橋。橋へ向かうオートバイが見える。
橋の北の道路を通りビンデル村へ戻る。
 
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オノン川に架かる橋。
ビンデル村に戻り、現地ガイドへ5千TGを支払った。
16時40分にビンデル村を出発し、北東にあるチンギス・ハン生誕伝承地ダダルへ向かった。
ダダルへはダイレクトに行けないので、先ほどのオノン川の橋を渡り、再度川の東岸を北上した。

モンゴル チンギス・ハン生誕地ダダル オノン川の人力フェリー チンギス・ハンの泉

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オノン川の渡し場を渡る人力フェリー。2014年7月14日(月)。チンギス・ハン生誕伝承地の一つモンゴル北東部ヘンティー県ビンデルを見学。村外れの給油所でガソリンを給油。13万8千TG。16時40分にビンデルを出発し、通常チンギス・ハン生誕地といわれるダダルへ向かうと、19時頃、突然前方に大きな川が見えた。車が3台ほど停車しているので、その後にUAZも停車した。事前には知らなかったが、オノン川の渡し場に着いたのだった。
 
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オノン川の渡し場を渡る人力フェリー。停車している車に乗っている家族たちが岸辺で川を眺めているので、私も見ると、車を乗せた筏が対岸に渡っているところだった。両岸に張られたロープを人力で引っ張り移動する方式なので、時間がかかる。筏は狭いので車は1台程度しか載せられない。
 
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人力フェリーの筏の上。鉄製のロープを引く。
オートバイの客もいる。
 
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人力フェリーの筏の上。運転手が引いている。昨日見たチンギス・ハン関連の番組でも東出昌大が引いていた。客の中で若くて力のありそうな奴が引かされる慣習でもあるのか。
筏に車を乗せてから対岸へ渡り終えるまで10分ほどかかった。料金は1万5千TG。
20時頃に渡し場からダダルへ向かう。オフロードは暗闇の丘陵地を走る。対向車や順行車を見つけると必ず情報交換をする。道標はめったにない。当然ナビもない。しかし、何とか、ダダルへの峠を越えることが出来、街中に入っていった。
21時30分、食堂兼売店の店に到着。遅い夕食をとる。40歳ぐらいの主人はブリヤート族だろうか、中学時代の同級生に似ていた。中学生ぐらいの娘二人もいた。
宿はその食堂一家の家だった。食堂から車で数分の距離にあった。久し振りに普通の住居で、布団で寝た。トイレは敷地内の小屋で、足の踏み板が渡してある形式。宿代は1万TG。
 
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ダダルの食堂兼売店。7月15日(火)。メインストリートに面した東端にあり、広場はバスの発着所のようであった。同じような店が広場を囲んで数軒ある。右側200mにチンギス・ハンの子供時代博物館がある。
ここで洋風の朝食をとっていると、若い女性二人連れも朝食にやってきた。一人はフランス人であった。壁にはヘンティ県の地方ナーダムのポスターが貼ってあり、1週間後に開催されるようだった。
 
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ダダルのメインストリート。食堂兼売店の前。プロトレックの高度計で測ると、標高1000mほどだった。オノン川は西から標高の低いバイカル湖へ東流しているということになる。心なしか暖かい。
9時頃、地元民のガイドに同行してもらい、チンギス・ハン関連史跡の見学に出かける。
メインストリートを出て北西に向かった。
 
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テムジンの遊び場。丘の上にあり、オボーとなっている。伝承なので、本当かどうか。
 
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私設博物館。テムジンの遊び場から小川を渡り、西の草原へ。食堂での打合せで、子供時代の博物館へ連れて行けと、言ったのだが、開いていないというので、その代わりに案内された。民家の敷地内にあり、宿泊ゲルも併設していた。
施設を案内した男性は、イギリスの中学校生徒の団体が来たときの、ノートを見せてくれた。帰りに5千TGほどを支払った。動物の剥製ばかり展示している建物を、まず見学した。
 
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オオカミの剥製。牙は迫力があった。
 
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毛皮。
 
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毛皮。貂(テン)もある。古代から北アジアでは毛皮交易が盛んだったことを思い出した。
 
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毛皮。うまいこと剥いでいる。足の爪がリアルだった。
 
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モンゴル騎兵の甲冑と鎖帷子。別棟に展示。
 
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モンゴル騎兵の弓矢。
毛皮が参考になった程度だった。東へ戻り、チンギス・ハンの泉へ向かう。
 
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シラカバ樹林帯の中を車は抜けていく。
 
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チンギス・ハンの泉。山の麓の窪地にあり、柵で囲まれている。駐車場と東屋があり、階段を下ると泉がある。チンギス・ハンも飲んだ水飲み場として伝えられている。
 
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チンギス・ハンの泉。モンゴル人の聖地であり、水汲みに来る人も多い。水は柵の真ん中あたりで湧いており、小川となって柵付近まで流れ、柵の外側に流水口が設けられている。
聖水なので、手ですくって舐めてみた。
 
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チンギス・ハンの泉。水の流れは続いており、灌木帯ができている。ガイドが灌木帯の中へ案内し、木の実があると教えてくれた。
 
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赤い木の実。グミみたいもので、食べると甘酸っぱい味がした。
次は、また西の草原に戻り、匈奴貴族の墓の見学に向かった。

モンゴル チンギス・ハン生誕地 ダダル 匈奴貴族の墓 デリウン・ボルタグ チンギス・ハン生誕記念碑 

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ダダル。西の草原から東を望む。2014年7月15日(火)。チンギス・ハン生誕地とされるモンゴル北東部ヘンティー県ダダルの見学が続く。チンギス・ハンの泉から再び西の草原に戻り、匈奴貴族の墓の見学に向かった。
小高い山の右後ろにダダルの町があり、山の左側の麓にチンギス・ハンの泉、デリウン・ボルタグ、山の反対側にチンギス・ハン生誕記念碑が建てられた湖がある。
 
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匈奴貴族の墓。細長い石板がほぼ直立にそそり立っている。
 
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匈奴貴族の墓。この辺りにはいくつかの墓が点在している。後ろでは牛が放牧されている。
 
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匈奴貴族の墓。
 
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匈奴貴族の墓。
 
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匈奴貴族の墓。長方形の区画の中央は石が蓋のように覆っている。
さらに、西へ進むと樹林地帯の中に匈奴時代の住居が復原されている。
 
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匈奴時代の住居。復原。
 
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匈奴時代の住居。入口。トーテンポールのような柱が両側にある。
 
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匈奴時代の住居。内部。
 
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匈奴時代の住居。外にある飾り柱。動物の頭蓋骨が置かれている。
東へ戻り、山の麓のチンギス・ハンの泉を越えてデリウン・ボルタグへ向かった。
 
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デリウン・ボルタグ。チンギス・ハンの生誕地とされる小高い丘。頂上付近には20年近く前に建てられた記念の石碑がある。
頂上から少し西に下った場所に木造の展望台がある。牛の一群が草を食んでいた。
 
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デリウン・ボルタグ。聖所なので、立ち入る前の作法として、モンゴル人ガイドがひざまずいて祈っている。
 
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デリウン・ボルタグ。五体投地のように、体全体を伏している。
 
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デリウン・ボルタグ。石碑。後ろに柱を組み合わせたオボーになっていて、参拝した人々が置いた無数の石が重なっている。
 
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デリウン・ボルタグ。右回りで3回回るのが作法である。その前には馬乳酒をオボーに振り撒いて捧げる。
 
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デリウン・ボルタグ。展望台からはオノン川に合流するバルチ川の流れとロシアにつながる森林と草原が一望ののもとに広がっている。
チンギス・ハン揺籃の地に来たことを実感する。
 
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デリウン・ボルタグ。西側にはチンギス・ハンの泉のある灌木の茂みが見える。
デリウン・ボルタグを出て、山の東麓から南のチンギス・ハン生誕記念碑方面へ向かう。
 
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エネルグ。太陽のエネルギーを受ける場所らしい。
 
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チンギス・ハン生誕記念碑。湖のほとりに別荘地群のような地域があり、駐車場から5分ほど湖方向へ歩くと、白い大きな石碑がある。チンギス・ハン生誕800年を記念して1962年に建立された。建立にさいしては、社会主義政権からの弾圧により、建立に携わった学者や政治家が失脚したという。
 
 
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チンギス・ハン生誕記念碑。石碑の先には小さな湖がある。
 
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チンギス・ハン生誕記念碑。石碑の手前には行事用の青いテントが立っていた。周囲には保養地のような建物が点在している。
見学後は、保養地の建物の横で、昼食を食べた。
14時30分頃に、見学を終了し、元の食堂兼売店に戻った。ガイドに1万TG支払った。
 
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チンギス・ハンの子供時代博物館とテムジン像。食堂兼売店の西200mほどにあり、見学できないということはどういうことかと訪ねてみると、内外とも工事中であった。
 
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広場西の花壇。ポピーのような黄色い花が群れていて、綺麗だった。
15時15分ウランバートルへの帰路に着く。17日昼まで、2か所ほど立ち寄りながらの帰路となった。
 
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ダルの西の丘。町外れの境界の丘に10本ほどの木柱が立っていた。
 
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ダダルの西の丘。ダダル方面を眺める。
 
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ダダルの南東を流れるオノン川に架かる橋。この辺りは山が多い。結構まともな橋だった。人力フェリーの地点からはかなり北東に離れた地点にある。ウンドゥルハーン方面へ向かい、途中のゲルに宿をとった。

モンゴル 草原のゲルに泊まる 牛の乳搾り 

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草原のゲル。2014年7月16日(水)。前日、モンゴル北東部ダダルからウランバートルへ帰る途中、日が暮れてきたのでウンドゥルハーンの手前で、途中のゲルに宿をとった。実はその前にあるゲルに寄ったのだが、ゲルの中でスーテイ・ツァイ(ミルクティー)を飲んでいると、運転手が来て出ようといったのだ。理由は宿代が高かったためという。
そこで、30分ほど走った末に、ゲルを見つけて泊まることになった。宿代は1万TG。
 
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乳搾りにかかる主婦。朝食を済ませ、トイレも済ませてゲルに帰る途中で、主婦に会い、牛の群れの方へ招かれた。母牛を選定し、乳搾りの準備を始めている。
 
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今朝生まれた子牛と母牛。先ほど生まれたという子牛が乳を飲んでいる。
 
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今朝生まれた子牛と母牛。
 
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仔牛が生まれた場所。羊水と血が残っている。
 
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乳搾り。母牛の後ろ脚が縛られていた。
その後、ウンドゥルハーンに向かう。1時間ほどで「バットノロの匈奴(フン)のファーザーストーン」という岩の聖所に立ち寄った。
 
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「バットノロの匈奴(フン)のファーザーストーン」という岩の聖所。
 
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岩の聖所の頂上から下を眺める。
 
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「バットノロの匈奴(フン)のファーザーストーン」。モンゴル人には知られた聖所らしく、私たちと入れ替わりに5人ほどの家族連れが参拝に訪れていた。
 
その後、ウンドゥルハーンに向かい、12時頃に着いた。中層アパートや低層ビルが並ぶだだっ広い街路の町。首都ウランバートルの東方290kmに位置し、人口は約15,000人で、ヘンティー県の県庁所在地というだけはある。立派なテーブルやトイレのあるレストランで昼食。しかし、お定まりのモンゴル料理しかない。客の男性が日本人かと尋ねてきた。日本人はよく見かけるのだろう。
街路の中心部にハーンバンクがあったので、100ドルを両替し、182,800TGを得た。並んでいた列の窓口の職員が急にいなくなったので、別の列へまた並び直さなければならないという、日本では考えられないこともあり、30分以上も運転手を待たせた。レートはウランバートルとほぼ同じであった。預金を下ろした主婦が分厚い札束を抱えていたのが印象的だった。
久し振りに、ガソリンを給油。8万TG。この辺りからは舗装路が続くので快適なドライブとなった。
 
時間があれば、トゥブ県(中央県)エルデネ村の「13世紀村」というモンゴル帝国時代を再現したテーマパークを見学すると、事前に打ち合わせていたので、19時頃、エルデネ村で宿をとることになった。
エルデネ村には結構普通のホテルがありそうだったが、運転手はどうしてもゲルに泊らせたかったようだ。宿代が1万5千TGと安いのはありがたいが、羊料理はまずくて閉口していた。
 
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馬に乗ってゲルへ向かう。交渉したゲルの主婦が馬を引いていたので、馬に乗ってゲルへ向かった。手綱を持ってくれているので安心だ。
 
 
 
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乳搾り。乳搾りをするから見に来いと主婦に連れられた。今朝も見たばかりだったが。
 
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母牛と仔牛を連れてきて、仔牛にしばらく吸わせたのち仔牛を離して柵につなぐ。イスとバケツを用意して、乳を搾る。
 
 
 
 
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乳搾り。このあとも牛を替えて、乳を搾っていた。
 
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ゲルの室内。
7月17日(木)。エルデネ村の「13世紀村」へ向かった。

モンゴル エルデネ村のテーマパーク「13世紀村」 山の砦 モンゴル文字

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エルデネ村のテーマパーク「13世紀村」。2014年7月17日(木)。ウランバートルから東へ約100kmにあるトゥブ県(中央県)エルデネ村周辺のゲルを出発し、「13世紀村」へ向かった。
 
地球の歩き方を参考にして、ツアー出発前の打ち合わせで、時間があれば、エルデネ村の「13世紀村」というモンゴル帝国時代を再現したテーマパークを見学することにしていた。
 
内容はエルデネ村ヨル山にある13世紀のモンゴルを再現し、当時の生活様式を体験するテーマパーク。仏教流布以前の宗教的な施設やハーンが使ったゲルなどが再現され、馬頭琴演奏やモンゴル文字の書き方などの体験ができる、という程度の記述しかない。
 
入場料は1万TGとあるが、実際にはメイン施設で6万2千TG支払った。メイン施設だけなら1万TGだが、他に4か所ほど分散している施設を見学したからかも知れないが、よく分からない。
ウランバートルから遠い順、つまり最後にメイン施設という裏から表へ4施設ほどを見学するという逆順に回ったせいか、途中では入場料を取られることはなかった。
 
幹線道路から南のオフロードへ入り、丘陵地帯の中を登って行くと、台地状の場所に出て、8時50分頃、13世紀風の再現ゲルの入口に着いた。
ゲルの入口は、鳥居に似ていて、鳥が2羽止まっている形状をしている。吉野ケ里遺跡に似たような門がある。東アジア文化との共通点を感じた。
 
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13世紀風の再現ゲル。
 
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ゲルの内部。
台地上を次の施設へ移動。
 
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砦のようなゲル群。山岳地帯に造られた要塞のような施設の入口。
 
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砦のようなゲル群。
 
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砦のようなゲル群。木製のデッキが続く。
 
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砦のようなゲル群。先の高みまで登ることができる。その向こうは取り立てて何もない。
 
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砦のようなゲル群。谷の反対側の奇岩群。
 
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砦のようなゲル群。高山植物が群生している。
 
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砦のようなゲル群。高山植物が群生している。
山の麓を回り込んで、別の施設へ移動。
 
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モンゴル文字書道のゲル施設。入口の門。
 
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モンゴル文字書道のゲル施設。山裾に大きなゲルがある。
 
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モンゴル文字書道のゲル施設。若い女性がいて、私に姓名のアルファベットを書いてくれというので、教えるとモンゴル文字で紙に書き、竹筒に入れてお土産として渡してくれた。
さすがに、無料ではなく2千TGを支払った。
 
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モンゴル文字書道の道具。
 
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モンゴル文字書道のゲル施設。内部。多くの毛皮の敷物が床に敷かれている。
 
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モンゴル文字書道のゲル施設。内部。毛皮の敷物。
 
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モンゴル文字書道のゲル施設。内部。奥の飾り物と敷き皮のある主人の座。
 
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モンゴル文字書道のゲル施設。内部。陶器などの日用品。
 
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モンゴル文字書道のゲル施設。内部。チェスに似た遊戯具。
山を下って、草原のゲルに至る。
 
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草原のゲルの入口。再現された移動用ゲルがある。
 
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移動用ゲル。ハラホリン博物館の展示模型では牛が引いている。
 
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移動用ゲル。内部では毛皮コートを着用できる。
 
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草原のゲル。ラクダに乗ることもできる。エジプト・トルコでも駱駝に乗ったが、馬よりも動きが急で危険な動物である。
 
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草原のゲル。とりあえず、無料。
メイン施設の方面へ移動する。

モンゴル トゥブ県エルデネ村のテーマパーク「13世紀村」 シャーマニズムのゲル群

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シャーマニズムのゲル群。ウランバートルから東へ約100kmにあるトゥブ県(中央県)エルデネ村のテーマパーク「13世紀村」。2014年7月17日(木)。メイン施設の反対側から4施設見学し、メイン施設一つ手前の施設に着いた。これが、仏教流布以前の宗教的施設にあたる。つまり、シャーマニズムの施設である。山裾の斜面に10棟近くのゲルが再現展示されている。
 
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シャーマニズムのゲル群。入口の鳥居。アニミズムの世界である。日本の神道とルーツは同じ。
 
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中央の広場。オボー。周囲にはトーテムポールのような柱が林立している。
 
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トーテムポールのような柱とシャーマンが住んだ再現ゲル。
シャーマンは山の中で修行をして一人前のシャーマンとなった。日本でも、修験道があった。空海も最澄も山の中で修行をした。
 
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ゲルの内部。
 
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ゲルの内部。シャーマンの衣装。
 
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ゲルの内部。仮面が着けているのは鳥の羽。シャーマンの神はスカイ(天)である。天を自由に飛ぶ鳥は神に近い存在であった。
 
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ゲルの内部。チベット仏教のタンカが壁に並んでいる。シャーマニズムとチベット仏教が習合していく。
 
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ゲルの内部。シャーマンの衣装。
 
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ゲルの内部。変わった動物の壁掛けがある。
 
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ゲルの内部。シャーマンの衣装。
 
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ゲルの入口から施設の入口方向を眺める。
 
 
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ゲルの内部。このゲルは三角錐に近い。
 
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ゲルの内部。中央に壇がある。
 
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シャーマニズムのゲル群。5つほどのゲルを見学し、近くにあるメイン施設へ移動。
 
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13世紀村のメイン施設。入口。物見台が両翼にある。
 
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13世紀村のメイン施設。山の麓にゲルが並んでいる。中央にメインのゲルがある。
 
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13世紀村のメイン施設。中央にメインの見学用ゲルがある。
 
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メインの見学用ゲル。中に入ると入口右側に受付があり、施設の入場料6万2千TGを支払った。食事付きだと7万2千TG。数十人は収容できるほどの広いゲルだった。
 
たまたま、受付の近くに家族で来ていたモンゴル人の若い女性客が日本語を話せるということが周囲から教えられた。質問があれば尋ねてほしいということだったので、二三話をかわした。
なぜ日本語を話せるのか尋ねると、愛媛県松山市の山本製作所で数年間働いていたとのこと。ネットで調べると、確かに数年前までモンゴルから実習生を受け入れていた。
 
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ゲルの内部。中央にチンギス・ハンの玉座が再現されていた。その前には食卓が並んでいる。
 
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ゲルの内部。豪華なデールを纏うこともできる。
 
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ゲルの内部。モンゴル軍の軍装。
 
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ゲルの内部。入口方向。中央には食事用のテーブルが置かれている。
 
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ゲルの外側に置かれている青銅砲。
 
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ツーリスト用の宿泊用ゲル。内部。
いくつかのゲルを見たが、たいしたものはなかった。
 
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施設の外側を眺める。
11時30分頃に施設を出て、ウランバートルへ向かった。
 
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チンギス・ハーン像テーマパーク。
13時頃に着いた。高さ12mの台座の上に高さ40mのチンギス・ハーン騎馬像が立っている。特に希望したわけでもないので、写真だけ撮ってウランバートルへ向かった。時間がありそうだったので、7月10日に見学できなかったジューコフ博物館へ立ち寄るように頼んだ。

ウランバートル ジューコフ博物館 ノモンハン事件

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ウランバートルのジューコフ博物館玄関から平和大通り方面を眺める。
2014年7月17日(木)。トゥブ県(中央県)エルデネ村のテーマパーク「13世紀村」からウランバートルへ帰り、14時30分頃に平和大通りから中心部へ向かった。7月10日に見学しようとしたが、閉館していたジューコフ博物館に再度チャレンジする時間は充分あったので、事前に運転手には伝えたはずだったが、何故かその手前で南の通りへ向かったので、声や身振りで平和大通りへ戻れと怒鳴ったが、無視してチンギス大通りから北のナサン・ゲストハウスへ向かった。彼は、渋滞を避けて、当初のツアー目標にはないジューコフ博物館には行かずに帰着したということだろうか。とにかく、ナサンさんに私の気持ちを話して、ジューコフ博物館へ向かうことになった。
 
15時20分頃にジューコフ博物館へ到着。今回は開館していた。プレートには火曜休館。9~17時。と記してある。撮影料込で1万3千TG。展示室は受付を除きコの字型に3室。ノモンハン事件の部屋が大きく、第二次世界大戦以後は2室。モンゴル語の説明がほとんどなので、文字は分からない。
ジューコフ(18961974)は、ノモンハンの戦いやベルリン攻略など、第二次大戦で英雄となるものの、スターリン、フルシチョフにより二度失脚、復権するという波瀾の生涯を送った。
 
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戦場風景。ノモンハン事件がどのように展示されているかの関心だけで来たようなものだが、結局はよく分からなかった。ただ、写真があるので雰囲気は分かる。銃砲の展示もあるが、後年代の兵器が混じっているようだ。
 
1939年のノモンハン事件(モンゴルではハルハ川戦争という)では、日本軍に対抗したモンゴル・ソ連軍が優勢な機械化部隊により勝利した。ただ、日本軍が大敗したわけではなく、ソ連軍も相当な死傷者を出したことがソ連崩壊後に分かってきた。
 
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ノモンハン戦場での日本軍の遺留品。
半藤一利「ノモンハンの夏」はかなり以前に読んでいる。辻政信ら参謀の横暴・無能な作戦指導により、多くの連隊長が自決させられた。この戦闘でソ連軍を指揮したジューコフ元帥は回想録で、「日本軍は下士官・兵は優秀だが、高級司令官は無能」と述べている。
 
ノモンハンの戦いののち、スターリンはノモンハンでの日本軍への勝利は、日本軍のある弱さを示すものではあるが、そのことがただちに日本軍全体の弱さを語るものではないと理解した。
モスクワに呼ばれたジューコフは、スターリンとの会話で、日本軍の歩兵の動きと、日本兵の規律の厳しさと若い士官たちの能力を非常に高く評価した。
 
司馬遼太郎はノモンハン事件を題材に小説を書きたかったようだが、断念した。1月11日のBS-TBSで半藤一利が、司馬は日露戦争時代は爽やかな日本人を描けたが、この事件では描けないと判断したという趣旨の発言をしていたが、もう定説になっている。当時の日本陸軍上層部が醜悪すぎたということだ。近年は「本当は日本側が勝っていた」とか「よくぞあれほど善戦・敢闘したものだ」と讃えることで自らを慰める論調があるらしい。手術は成功したが患者は死んだの類。
 
戦闘におけるソ連側の損害も日本側と比べ少なくなかった。しかしソ連の戦術は基本的に、圧倒的な兵力と物量で戦場の制圧を狙うもので、その勝利の基準は損害の多寡ではなく、目的を達成できたかどうかである。
 
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1939年5月28~29日戦闘要図。中央左(西)にハルハ川が流れる。東岸の一部を含む黄土色部分がソ連の主張するモンゴル領、右(東)上の白色部分が満州領(内モンゴル)。日本・満洲国はハルハ川を国境と主張していた。右上境界の屈曲部にノモンハンの地名が見える。
黒が日本軍、赤がソ連軍の陣地と動向。
 
日本軍司令部は、ソ連軍の主要軍力が日露戦争の頃と同じくヨーロッパ・ロシアに集中していることを承知していた。モンゴルに駐留しているソ連軍は弱小で、ソ連とモンゴルの間には近代的な交通網が敷かれていなかった。こうした状況は日本軍指揮官たちも赤軍との武力作戦において成功を収めるのは自分たちであるという自信を高めた。
 
第一次ノモンハン事件(1939年51131日)では、521日に小松原師団長が再度の攻撃を命令。兵力は、歩兵第64連隊第3大隊、東捜索隊など兵力2082人で山県支隊とよばれた。
ソ連・モンゴル軍も525日にハルハ川東岸に入り、半円形に突出する防衛線を作った。兵力は、第11戦車旅団に属する機械化狙撃大隊などで兵力約1450人。歩兵・騎兵の数は少ないが、火砲と装甲車両で日本・満州国軍に勝っていた。
山県は包囲撃滅作戦を実施し、先行する東捜索隊は、528日早朝に突破に成功し、ハルハ川渡河点3か所のうち中央の橋の1.7キロ手前に陣取った。これとともに主力部隊の前進がはじまった。ソ連・モンゴル軍は山県・東の部隊に立ち向かい、日本軍主力の前進は第一線の陣地を突破したところで停止し、東支隊は孤立した。29日にソ連・モンゴル軍は東捜索隊への攻撃を強め、その日の夕方に全滅させ、東中佐は戦死した。日本軍主力は30日に兵力の増援を受け取り、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。
 
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戦場風景。
 
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戦場風景。
 
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1939年8月20~31日戦闘要図。第二次ノモンハン事件。
事前の入念な作戦準備、特に後方の整備と兵站を重視していたジューコフはまず輸送体制を組織し、充分な戦争資材が集積されるのを待ったのち、820日から関東軍に対する反撃を開始した。砲兵の支援のもと、自動車化された歩兵と、2個戦車旅団が戦線の両翼を進撃する大胆な機動を行って第6 (日本軍)を包囲し、第23師団を壊滅させるなど大打撃を与えた。2週間の内に関東軍は撤退し、その後、国境線はほぼソ連・モンゴルの主張通り確定された。
 
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戦場風景。
 
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戦場風景。
 
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戦場風景。
 
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戦場風景。
 
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戦場風景。
 
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戦場風景。
この武力衝突において、第一段階では日本空軍の空中戦における完全なる優位と、陸上戦でのほぼ拮抗している状況であった。
「人事がすべてを決める」と言ったスターリンは、指揮官をジューコフ将軍に入れ替えた。彼は判断力に優れた指揮官で、彼の決定はしばしば赤軍の軍事マニュアルと対立するものであった。
ジューコフ将軍の指揮の下、スペイン市民戦争において独伊のパイロットを撃墜した経験豊かなソ連軍のパイロットたちにより編成された特別航空隊を秘密裏にモンゴルに投入したソ連軍は制空権を握り始めた。
 
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戦場風景。
ジューコフは戦車の大量投入を望んだ。多くの戦車部隊の指揮官たちは、スペイン内乱での経験を持つつわものたちで、こうした人事の結果、ソ連軍にとって戦況が好転した。
 
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オラホドガ事件。昭和
101935)年12月から翌年2月の間、日本・満州国とモンゴル国との間で起きた軍事紛争。
 
ノモンハン事件の舞台となった旧満洲国興安北省ホロンボイル地方はホロン湖とボイル(ブイル)湖にちなみ名付けられた。ブリヤートから移住したモンゴル・バルガ族と先住のダグール族などが住み、満洲国により自治権を与えられていた。
 
昭和101219日、ボイル湖西方の国境付近を警備中の満州国軍(満軍)は、外蒙軍から攻撃を受けた。翌昭和11年(1936年)17日、外蒙古は軽爆撃機を飛ばして偵察する。
28日、日本の関東軍は、杉本泰男中佐を司令官とする杉本支隊を出動させた。12日に杉本支隊はオラホドガに到着し、約2時間の激戦の末、外蒙軍を撃攘した。任務を終えて帰還しようとする杉本支隊に対し、外蒙軍は装甲車部隊で追撃し、爆撃も行った。
 
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モンゴル軍は1945年8月10日に日本に宣戦布告して参戦した。
 
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 7.62mmカービン銃。ソ連製。騎兵銃M1938か。
 
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 7.62mmカービン銃。ソ連製。VINTOV。
 
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 7.62mm機関銃。ABC-36。ソ連製。
 
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7.62mm機関銃。DP28軽機関銃。ソ連製。1929年採用。
 
16時頃退館し、ナサン・ゲストハウスへ帰った。
帰国便は7月18日7時の関西空港行きモンゴル航空OM505便なので、午前4時にナサンさんにタクシーを頼んで空港へ向かった。
7月18日12時頃に関西空港へ到着。南海と近鉄を乗り継ぎ名古屋の自宅へ帰った。

メキシコシティー 国立人類学博物館 先古典期 トラティルコ遺跡 日本人宿「サンフェルナンド館」

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メキシコシティー。国立人類学博物館。2014年11月10日(月)成田空港15時25分発のアエロメヒコ航空便で同日の13時過ぎにメキシコシティーの国際空港に着いた。
入管で入国カードの半券を渡される。以前は半券を渡されることがよくあったが、最近では珍しい。見つからないと騒いでいる人が宿にいた。数千円の罰金が課されるらしい。
空港ロビーで両替屋が簡単に見つからなかったので、ATMで当座の分をキャッシングした。帰国するときには、良く見たら2軒ほど銀行があったので、ドルに交換した。
 
宿はイダルゴ駅付近の日本人宿「サンフェルナンド館」を予約していたので、メトロバスで行けると判断。タクシーは高いに決まっている。空港ロビーをバスの標識に従い向かいと、プリペイドカードの自販機があった。スペイン語が分からないので、購入方法を思案していると、先に女性がチャージしたのを見て、何とか工夫してカードを購入。「歩き方」にはメトロバス専用と書いてある。空港線3回分で90ペソ。あわてて200ペソ紙幣を投入して後悔。そんなに使うことはないと思ったので。しかし、この記述は間違いで、実際には地下鉄にも使用できることが分かった。
 
4号線メトロバスの発着所は自販機に近い場所にあり、発車直前のメトロバスに乗車。幸い近くに日本人青年が乗っていて、イダルゴ駅付近のバス停を通過すると教えてくれた。歩き方の4号線バス路線図は不正確であった。彼は雑貨ビジネスで数十回メキシコに来ているとのこと。地下鉄は危険と本に書いてあるがと尋ねると、そんなことはないとのこと。10数分ほど会話し、ここで降りるようにと教えてくれて下車。
北西方向へ向かい、この辺だろうと街角を曲がり、歩道を歩き切ると、角に「サンフェルナンド館」を発見。空港到着から1時間ほどで宿に着いてしまい、自分でも驚いた。
 
「サンフェルナンド館」の門柵のブザーを鳴らすと、日本人青年が柵とドアを開けてくれた。ここは、フロントもないし、宿側の人間もいない。白ボードに部屋と宿泊予定者が書かれているが、私の名前はない。青年がボード下に置いてある宿の携帯で女主人に電話してみたらというので、電話すると、あと1時間ほどで帰るという。女主人一人で切盛りしているのだが、朝と夕方・夜に顏を見せる程度。3階に家族用の部屋があるようで、そこで宿を支払いにいった。
宿代はシャワー・トイレ付き個室で1泊23ドル。1階にドミトリーもあるが、個室でも安い。朝食は無料でパンとコーヒー。基本的にバナナと茹で玉子も出してくれるが、日本への電話代を払えと言われて、俺じゃないと答えて揉めた青年がいた翌日はバナナがなかった。
 
イダルゴ駅は交通に便利。地下鉄は2路線あり、バス停も至近距離。ソカロも徒歩圏内。北西徒歩20分にウォルマートがある。スパゲティを購入し、宿で自炊して持参した粉末パスタソースを混ぜて、簡単で安い夕食を済ませた。コールスロー、ヨーグルトも購入。寿司も食べたがチーズが入っているのには違和感がある。
30年ほど前にロサンゼルスのメキシコ人街でタコスを食べて不味さに閉口した記憶があり、トウモロコシ類は小麦粉より不味いと思っているので、無理にメキシコ料理を食べるつもりはなかった。
 
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国立人類学博物館。入口を入った場所にある噴水。11日・12日はメキシシティーの市内見学を予定していた。まず、国立人類学博物館へ行くことにした。各地の古代遺跡見学地は決めていたが、展示を見て、追加する遺跡があるかどうか判断する材料にもなるので。
11月11日(火)。メトロのオーディトリオ駅で下車。並木道を東に歩く。意外と距離があり、入口へは無駄な迂回をさせられる。10時30分から4時間ほど見学し疲れた。人類誕生から歴史順に1階を見て行った。
 
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ベーリング地峡時代の生活。
 
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バハ・カリフォルニア州から出土した石器。BC
1万~14千年。
 
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南バハ・カリフォルニア州サンフランシスコ山地の岩絵。シカと人間が描かれている。BC
1世紀からAD14世紀までこの一帯で暮らしていたコチミ族は、いくつもの洞窟の壁面に400にも及ぶ岩絵を描いた。世界遺産に登録されている。
 
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半乾燥地帯バハ・カリフォルニア州の住居。BC7000~2500年。
 
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展示室。多くの児童が見学していた。
 
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第3室。先古典期。現在のメキシコシティーを含む地域にあったテスココ湖。
手前が西で右が南。アステカ帝国の首都であったテノティトランは西岸沖の島にあった。
地域は盆地状で、周囲から河川が流れ込み湖水が豊富であった。気候変動が起きる以前は現代よりも湿潤な気候が続いた。7000年前から農耕が始まり、BC1700~1250年頃に集住文化が発達し、西岸・南岸にトラティルコなどの古代文化が生まれた。
 
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土器。トラティルコ出土。トラティルコはメキシコシティー西郊にある古代の村落遺跡で、先古典期早期・中期のBC1400~600年の間に栄えた。
 
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土器。トラティルコ出土。
 
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石器。トラティルコおよび中央高原で出土。
 
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土偶。ベビーフェイスとして知られ、オルメカ文化の影響が考えられている。
 
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アルマジロ型の土器。水差し。BC1500年頃。
 
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トラティルコ遺跡。メキシコシティー西郊にある古代
(BC800~500年頃) の村落遺跡で、豊富な副葬品を伴った墳墓が有名。特に豪華な硬玉製品,地母神,踊り子,戦士などの小土偶,ジャガーの文様をもつ鉢,あぶみ形の注口壺などは,オルメカ文化やチャビン文化の影響ないしは関連を示すもので,中南米の各地で広く文化交流の行われていたことを示している。
死体は地上および家の内外にマットで包まれそのまま置かれた。特別な死体の方向はない。人体には頭蓋骨変形、差し歯、赤色顔料の塗布が認められる。流行感染症・風土病の病歴も認められる。整骨術の発達が人口の維持に寄与したと考えられる。また、シャーマンの存在も確認できた。

メキシコシティー 国立人類学博物館 先古典期室 第5室テオティワカン

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先古典期室。人物像。白粘土製。メキシコシティー。国立人類学博物館。2014年11月11日(火)。
モレーロス州アトリワヤン出土。メキシコシティーの南。力強い男性を象徴する眉と目はL字型をしている。広いと厚い唇。背後には想像上の四つ足動物がいる。オルメカ文化の影響がある。
 
 
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 土偶。
 
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火鉢。
上の多面体の物体はフランス・リヨンのガロ・ロマン博物館の青銅製の謎の中空12面体に似ている。フランス各地のケルト人居住地域で出土しているが、何かは不明。計測用、黄道十二宮を現わすものとか、実用・宗教などの用途が考えられている。
 
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出現期の神殿。先古典期中期になると農業生産の増加により社会の階層化が進み集落に大型建造物や神殿などが出現した。
Tepalcate hillか。
 
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トラパコヤ。神殿建築の出現。先古典期後期。メキシコ州東部のトラパコヤ。メキシコシティーの南東にあり、チャルコ湖岸の集落。BC1500~300年先古典期中期。
 
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第5室テオティワカン。太陽の円盤。太陽のピラミッド前の広場から発見された。髑髏は太陽神トナティウで、周囲は太陽光線を表していると考えられている。

テオティワカンは先古典期終末期(BC150~AD200年)から古典期(200~650年)にかけて栄えた都市遺跡である。最盛期の都市面積は20㎢におよび、メキシコ盆地人口の半数以上12万から20万人が居住した。
メキシコ盆地の北東部に位置し、盆地と外部を結ぶ交通の要衝であった。グアテマラの翡翠、オアハカの雲母など広域のネットワークがあり、都市の東側には商人地区とよばれるメキシコ湾岸民、西側にはオアハカ地方のサポテカ人居住区が建設された。
 
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実物大に復元されたテオティワカン遺跡のケツァルコアトル神殿の一部。
 
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ケツァルコアトル神殿。ケツァルコアトルとは、アステカ人の言葉であるナワトル語で「羽毛の生えた蛇」という意味である。
ケツァルコアトルは雨や水を支配する神、その右側にある大きな目玉と牙のある像が雨の神トラロックで、マヤではチャックとよばれる。
 
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ケツァルコアトル神殿への奉納品。
 
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ケツァルコアトル神殿への奉納品。
 
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ケツァルコアトル神殿裏の第5番墓地の復元。生贄として後ろ手を縛られた9体が発見された。人間の顎骨・貝で作られた首輪を身に着けていた。
 
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ウェウェテオトル神。アステカ文化の神。神々のうちで最も古い神とされる。火と血に関する信仰と関連がある。
 
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壁画。テオティワカンのアパートメント・コンパウンド。2000に及ぶアパートメント・コンパウンドは複数世帯が住む集合住宅という一面のほかに、生産活動や祭祀の場という側面もある複合的な施設であり、都市民の大半がこれに入居した。
AD3世紀頃から建設が始まり、6世紀に最盛期を迎え、12万から20万人が居住した。
内部は通路、部屋、小さいプール、儀式用の中庭などがあった。
数か所が発掘され、宗教や神話に関連した壁画が発見された
 
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壁画。1970年代サンフランシスコのデ•ヤング美術館にワグナー氏が多数のテオティワカンの壁画を遺贈した。のちに、1960年代に盗掘されたものと判明し、メキシコ側と協議した結果、半数以上の壁画が返還され、人類学博物館が所蔵している。
 
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黒曜石。テオティワカンの近くに黒曜石産地があり、テオティワカンは加工地であった。
 
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ほら貝。儀式用。
 
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仮面。儀式用。碧玉、アラバスター製。
 
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グアテマラのティカル遺跡の石碑31。複製。ティカルは、グアテマラのペテン低地にあった古典期マヤの王国で、マヤ文明の政治、経済中心都市として紀元4世紀から9世紀ごろにかけて繁栄を極めた。
石碑31にはマヤ風の正装の王と両脇にテオティワカン様式の装いの戦士が描かれている。この石碑を建立したティカル王はシャフ・チャン・カウィール2世(在位411-456AD)である。
碑文の解読により、テオティワカンの支配層と関連する集団がティカルの王位を継いだことが分かった。378131日にテオティワカンと関係のあるシヤフ・カックと呼ばれる人物がティカルへ征服したという記述がある。
当時ティカルを治めていたチャク・トク・イチャーク1世王が殺され、その後テオティワカンの支配層と関連する集団がティカルの王位を継ぐことになる。この征服によりそれまで建てられた多くのモニュメントが破壊され、新しい建造物を作る際の盛土となった。
379年、ティカルではシヤフ・カックに従属する新しい王としてヤシュ・ヌーン・アイーン1世が即位し、ペテン地域がテオティワカンの支配下に入ったという。

メキシコシティー 国立人類学博物館

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テオティワカン遺跡の模型。メキシコシティー。国立人類学博物館。中庭。2014年11月11日(火)。第6室トルテカ室の屋外にある。
テオティワカンではAD2世紀半ば頃に国家が誕生し、4世紀頃にかけてメキシコ中央高原地域で覇権国家として成熟していった。都市の建設当初から、中心部に三大ピラミッドの雛形が存在し、都市全体が一つの軸と方向性をもとに整然と設計された。
テオティワカンは650年頃に衰退し、メキシコ中央高原内では人口移動、長距離交易網と商人集団の発展が起き、複数の都市が勃興した。
 
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トゥーラ遺跡のピラミッド建設想像図。
トゥーラ盆地はメキシコ盆地北方の現イダルゴ州に位置し、北方から南下した狩猟採集民族とテオティワカン系の集団を母体として750年頃に都市が形成された。トゥーラは900年から1150年頃に最盛期を迎え、6~8万の人口を数える中央高原の後古典期トルテカ文明最大の都市となった。
中央広場の祭壇を囲んで、ピラミッド、宮殿、球戯場などが建設され、特に北側に位置する多柱回廊の「焼かれた宮殿」とトルテカ戦士像の置かれたピラミッドBが主要な建造物であった。
展示室内の復元された宮殿は工事中であった。
 
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貝製胸当て
Coraza 。トゥーラ遺跡。赤い巻貝、真珠貝などで装甲されている。1993年に「焼かれた宮殿」の箱の中から発見された。10世紀頃の制作とされる。
 
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球戯場のゴール。石輪。ゴム製のボールを手を使わず腰や尻などに当てて、中央部分に設けられた石輪の穴に通すことで得点を競い合ったという。宗教儀式でもあり、勝者または敗者のチームのリーダーが神への使者として斬首されたとされる。
マヤ文化が発祥とされるが、メソアメリカ各地に球戯場は造られている。
第6室トルテカ室を出て、第7室に向かう回廊に展示されている。壁のモニターに球戯の様子が復原されており、言葉ではなく映像で理解することができた。
 
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カカシュトラ遺跡の壁画。神官。カカシュトラ遺跡はメキシコ盆地から東のポポカテペトル山群を隔てたトラスカラ州にあり、プエブラへ向かう途中にある。トゥーラと同じくテオティワカン衰退以降の続古典期の古代都市で壁画は650~900年の間に描かれたとされる。色彩豊かな壁画として名高い。
第7室メヒカの入口に展示されていた。
 
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トゥーラの戦士像とチャックモール。トゥーラのピラミッドBの頂上になった部屋はアトランテとよばれる高さ4.6mのトルテカ戦士像によって支えられていた。
チャックモールは生贄の心臓を置く台でメソアメリカ各地に残る。

メキシコシティ  国立人類学博物館 第7室メヒカ(アステカ)

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第7室。メヒカ(アステカ)。入口。メキシコシティ。国立人類学博物館。2014年11月11日(火)。
アステカ王国はメシーカ人が建設したメソアメリカ最大の王国で、首都は現在のメキシコシティにあった。
部屋の中央には太陽の石「アステカ・カレンダー」が展示されている。右奥に首都テノチティトランの都市模型の部屋がある。
 
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首都テノチティトランの都市模型。上図は想像図で、西岸から東の方向を見たもの。右奥に富士山型のポポカテペトル山が聳える。テスココ湖上に浮かぶ島に建設されたテノチティトランには幾つもの堤道が走り、市街には宮殿や神殿が建ち並び、大きな市場で賑わっており、最盛期の都市人口は20~30万人と推定されている。
 
メシーカ(アステカ)人は北方の狩猟民族でメキシコ盆地へ14世紀前半にたどりつき、テスココ湖西岸の小島に都市テノチティトランを築いて定住し、都市国家として成長を始めた。当時のテスココ湖沿岸各地では有力な諸部族が都市国家を築き、各都市の王たちが同盟していた。12世紀から14世紀にはテスココ、アスカポツァルコ、クルワカンの三都市連合が有力であった。
15世紀初め、当時の覇権都市アスカポツァルコの王が動乱を起こしたのち、1428年に滅ぼされて、以降はテスココ、テノチティトラン、トラコパンの三都市同盟が形成され、アステカ王国となった。
 
このときのテノチティトランの王は第4代イツコアトル(在位1427~1440年)であった。
イツコアトルは、首都テノチティトランの道路・水路整備、政府や宗教の位階制度の構築など、大国として繁栄するための礎を築いた。
その後、テノチティトランは優勢な軍事力により、メキシコ湾岸や太平洋岸を征服していき、各都市から朝貢させた。1516年にはテスココに王を送り込んで、実質的にテノチティトランのアステカ人がアステカ王国の支配者となった。
 
第9代モクテスマ2世(モンテスマ)(在位1502~1520年)は積極的な遠征と中央集権化をすすめ、アステカの最大版図を築いた。1519年コルテスがメキシコ湾から上陸し、アステカに敵対するトラスカラ人らの部族と共に進軍すると、テノチティトランで会見したのち幽閉され、翌年アステカ市民から無数の石を投げつけられて亡くなった。
アステカ王国が完全に滅ぼされたのは1521年のことで、モクテスマ2世の従兄弟の第11代
クアウテモックはコルテスがアステカの首都テノチティトランを包囲すると、3ヶ月の攻防戦に耐えて勇敢に立ち向かったが、スペイン軍に捕らえられて降伏し、アステカは滅んだ。クアウテモックはコルテスにより1524年に殺害された。
 
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テノチティトラン。中心部には500m四方の聖域があり、そこには様々な神殿、髑髏を並べたツォンパトリ、球戯場などが建ち並んでいた
中心の大神殿の頂上には右(南)側にメシーカ独自の守護神ウィツィロポチトリ、左(北)側には地域の伝統的な雨神トラロックを祀る神殿があった。
ウィツィロポチトリは太陽神の一側面を持ち、太陽と雨は乾季と雨季という一年の季節の循環を象徴している。春分と秋分の日には頂上に並ぶ二つの神殿の間から太陽が昇るように建設された。
 
スペイン人によるアステカ王国の征服後、これらの神殿は破壊され、テスココ湖も埋立てられて現在のメキシコシティが造られた。
 
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交易用のカヌー。
 
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石の台座。第4代イツコアトルの孫の第7代の王ティソク(在位1481~86)が、征服戦争の勝利を記念して火の神に捧げたもの。側面には征服した町の記録や戦う戦士が刻まれている。捕虜を台座の上で生贄としたので、血を流すための溝が掘られている。
 
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神殿への奉納物。変形された幼児の頭蓋骨や生贄用のナイフも見られる。
 
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商業都市トラテロルコからの出土品。太陽と熱を象徴する儀式用容器の火桶と土偶。
テノチティトランから分かれた人々が1388年に交易都市トラテロルコを建設したという。
テノチティトラン第6代の王アシャヤカトル(在位1469~81年)により、トラテロルコの最後の王が殺された。
 
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アステカ王国の交易。最盛期はアメリカ合衆国南西部からグアテマラにいたる広大な領域を交易網としていた。
アステカの商人(ポチテカ)の商人の中には、特別な法や神殿を持つ特権集団を形成する集団もいた。諸国を旅する商人は時に偵察部隊としての役割も果たし、敵情視察や反乱情報の収集に従事した。
 
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テノチティトランには、食料や日用品のほかに、黒曜石、オアハカ地方やメキシコ西部の金・銀・銅製品、アメリカ南西部の産のトルコ石、メキシコ湾岸低地のジャガーの毛皮、マヤ高地のケツァル鳥の羽根や翡翠など、様々な威信財が搬入された。
 
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交易品。
 
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「太陽の石」。アステカ・カレンダー。
直径3.58m、厚さ98cm、約24トンの玄武岩製で、中央の太陽神の周りに神話的図像や暦を表すアステカ文字が刻まれている。
第6代の王アシャヤカトル(在位1469~81年)が作らせ、1479年に奉納したとされている。
破損部のある未完成品ではあるが祭日に剣闘士が戦う舞台としての犠牲壇であったという説もあり、単なる天文学的な石盤であったかは説が分かれている。
 
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「太陽の石」。アステカ・カレンダー。図解。
地面の穴から顏を出した太陽神は一組の人間の心臓を持ち、生贄用のナイフに変容した舌を突きだして生贄を求めている。彼は5番目の太陽に相当し、先行する図上では正方形で区画された4つの太陽に囲まれている。次には20個の日の絵文字が順次刻まれている。星々は天を支える火の蛇神に囲まれている。
メソアメリカの暦は260日暦と365日暦で併記されている。260日暦は20個の日の名前と13の数字が組み合わさっている。
365日暦は1ヶ月が20日の18の月の最後に5日だけの月があり、52年の周期で循環する。52年周期の最後の年は太陽の死の年と畏れられ、「新しい火の儀礼」という儀礼により太陽の再生と存続を祈願した。
メシーカ人の神話では現在までに5人の神が交代で太陽となり、現在は第5の太陽の時代である。太陽が代わるたびに世界は崩壊したという。
 
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コアトリクエ。「ヘビの婦人」を意味するアステカの大地母神で、メシーカ人ををテノチティトランに導いた最高神ウィツィロポチトリの母とされる。
頭の部分は2匹のヘビが向かい合うような形で表わされ、口からはヘビの牙と先が2つに分かれたヘビの舌が出ている。2匹のヘビは斬首された頭の代わりに置かれたもので、首から両肩にかけて流れ出す血がヘビの頭の形で表され、腕を形作っている。切り取られた人間の手と心臓と頭蓋骨が女神のペンダントで、スカートは曲がりくねった無数のヘビでできている。
 
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コアトリクエ。首から流れ出すヘビは豊穣祈願を、手・心臓・頭蓋骨でできたペンダントは太陽を養うために人の血と生贄が必要なことを表し、この像は人の誕生と死を象徴しているという。
 
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オセロトル・クアウイシカリ。大地の神ジャガーの石像。生贄の首と心臓を捧げる台。
 
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ケツァル鳥の羽根で作った王冠。コルテスに贈呈した王冠のレプリカ。
 
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金製品。中央はコルテスらスペイン人が金製品を運搬しやすくした金塊。
 
金製品。
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赤く磨かれた陶器。
 
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扇。
 
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黒曜石の壺。雨を降らす雲を象徴している猿は両手で尾をつかむ仕草をしている。
 
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黒曜石の壺。一つの黒曜石を彫り込んでいる。テスココの職人が制作した。
 
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第7室入口の全景。

メキシコシティ  国立人類学博物館  第8室 オアハカ

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モンテアルバン遺跡の想像図・復元模型。第8室。オアハカ。メキシコシティ。国立人類学博物館。2014年11月11日(火)。オアハカのモンテアルバン遺跡とミトラ遺跡は11月18・19日に見学した。
 
メキシコ中央高原、マヤ、オアハカの各地域のなかで、最も早く国家が誕生したと考えられているのがオアハカ地域である。オアハカではモンテ・アルバンを首都として国家が形成された。
 
オアハカ地域では、BC700~500年頃に戦争が激化し、紛争による社会不安から避難するため、BC500年頃から周辺集落のサポテカ人によって、オアハカ盆地から比高差400mのモンテ・アルバンとよばれる山頂で都市建設が始まった。山頂部を平坦にし、広場やいくつかのピラミッド群、基壇、貯水・下水施設が造られ、BC100年頃には1~2万人の人口を抱える都市に発展した。

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神殿の復元模型。
メソアメリカで最初の国家が誕生したのはBC100~AD200年頃とされ、サポテカ王国が成立していく。その後古典期前期(200~500年)にテオティワカンと交易や外交関係を密接にして絶頂期を迎える。その繁栄は古典期後期(500~750年)まで続くが、この時期の終わり頃に衰退した。
 
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陶器。オルメカ・マヤの影響が見られる。哺乳類動物のモチーフは豊穣祈願とされる。
 
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踊る人。BC300~100年前頃に、基壇建築の石壁面に彫られた。戦争捕虜やモンテ・アルバンの指導者の男性像が等身大で彫刻されたものであり、その左下にはサポテカ人で人物名を示す暦の数字や出来事が刻まれた。
 
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104号墳墓。山頂の北西地域にある。500年頃の墳墓。墳墓の壁にはジャガーなどサポテコの神をテーマにしたレリーフが施されている。
 
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ミシュテカ及びその影響を受けたサポテカの金銀細工。14~15世紀頃になると、アステカの圧力を背景にミシュテカ人がサポテカ人を圧迫して、オアハカ盆地の大半に進出すると、サポテカ人はオアハカ盆地南部に勢力を移転し、モンテ・アルバンはミシュテカ人の墳墓として利用されることになった。
山頂北東部にある第7号墳墓からは貴人と従者の遺骸が、数百点の宝石や金銀の財宝とともに発見された。
胸飾りにはパナマやコスタリカの影響がみられる。
 
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ミシュテカ及びその影響を受けたサポテカの金銀細工。
 
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ミシュテカ及びその影響を受けたサポテカの金銀細工。
 
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ミシュテカ及びその影響を受けたサポテカの金銀細工。
 
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ミシュテカ及びその影響を受けたサポテカの金銀細工。
 
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ミシュテカ及びその影響を受けたサポテカの金銀細工。
 
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ミシュテカ及びその影響を受けたサポテカの金銀細工。
 
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ミシュテカ及びその影響を受けたサポテカの金銀細工。
 
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モザイクの仮面と石盤。

メキシコシティ  国立人類学博物館  第9室メキシコ湾岸

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オルメカの巨石人頭像。メキシコシティ。国立人類学博物館。2014年11月11日(火)。第9室メキシコ湾岸。オルメカ文化は先古典期のBC1200年頃からメキシコ湾沿岸南部地域で栄えた。初期の大遺跡サン・ロレンソからは複雑化した階層化社会を前提とした大規模な土木工事が発見されている。巨石人頭像は現在までに湾岸南部地域で17体発見されサン・ロレンソから10体出土している。石材はサン・ロレンソから約80km離れた山地の玄武岩が利用された。
 
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ベビーフェイス。
 
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上部の二つの装飾品にはジャガーや子供の横顔が描かれている。
 
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玉製の磨製石斧は墓への奉献品としてタバスコ州ラ・ベンタ、ベラクルス州セロ・デ・ラス・メサス、エル・マナティでも見られる。
ラ・ベンタはサン・ロレンソが衰退したのちに勢力を得た都市である。
 
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オルメカの巨石人頭像。

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メキシコ最古のカレンダー。トレス・サポーテス遺跡。BC600~100年。先古典期後期になると、ラ・ベンタが勢力を失い、代わりに石材原産地に近いトレス・サポーテスが勢力を得た。
トレス・サポーテスが放棄されると、オルメカ文化は姿を消した。
以前はオルメカ文化をメソアメリカ文明の母とよんだが、現在は他の地域との相互関係が重視されている。
 
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古い神。ベラクルス州セロ・デ・ラス・メサス。AD100~900年。
セロ・デ・ラス・メサスはベラクルス州中部にあり、古典期前期(100~600年)に最も発展した。住民はトトナカ人と推定されている。
 
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水の神。メキシコ湾岸地方の伝統的な陶器作成技法はプエブラ州のトラシュカラやアステカ地方へも影響を及ぼした。口から牙を出す水の神は雨の神トラロックでもあり、各地の要素が影響しあっている。プエブラ州テワカン。後古典期(900~1521年)。
 
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金属製品、黒曜石製品、碧玉製品。後古典期。ベラクルス州中部。トトナカ文化およびワステカ文化。白石製の口輪ペンダントを下唇に着けるのはトトナカ文化の特徴であった。
次はマヤ室へ。

メキシコシティ  国立人類学博物館 第10室 マヤ

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第10室。マヤ。メキシコシティ。国立人類学博物館。2014年11月11日(火)。
マヤ文明はBC1000年頃から16世紀まで繁栄した都市文明であったが、統一王国はなかった。古典期後期(600~800年)には大都市が周囲の中小都市を統括して八つほどの広域国家が形成されたのちに、60から70ほどの小都市国家が林立していた。
パレンケもマヤ文明の古代都市で、マヤ低地の西端にあたるメキシコ南東部のチアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた。パレンケ遺跡の碑文の神殿から発見されたパカル王の墓が有名で、復元展示されている。
 
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パカル王の墓へ下る階段入口。

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2階から見下ろすマヤ室。
チチェン・イツァー遺跡は11月15日、パレンケ遺跡は11月17日に見学した。
 
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幼児の甕棺墓。
 
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復元されたパカル王の墓。
1952年メキシコの考古学者アルベルト・ルスが「碑文の神殿」の地下室に辿り着き、室内の壁面にはめ込まれていた巨大な石板を取り外したところ、鍾乳石の垂れ下がる広い洞窟のような部屋がその向こう側に確認された。そこには殉死者と目される数体の遺体に加え、肖像画やマヤ文字、また生命樹の図柄の浮彫が施された石の蓋、そしてその下に石棺が埋もれており、数多の装飾品を脇にした遺体が内部に発見された。
 
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翡翠の仮面をまとったこの遺体は、
7世紀に在位したパカル王(位615~683年)と解明された。
マヤの古代都市遺跡にはピラミッドが多く見られるが、それは頂上の神殿を置くための台座に過ぎないと考えられてきた。この発見はその定説を覆し、当時の考古学界に大きな旋風を巻き起こすこととなった。
 
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パレンケ王のヒスイの仮面。ルスがパカル王の石棺を発見した時、王の顔には豪華なヒスイの仮面がつけられていた。ヒスイをモザイク状に組み合わせた仮面で、ヒスイの緑色は、マヤ人にとって最も高貴な色とされ、祈りと運命のしるしであった。
 
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若干12歳で王位を継承したパカル王は68年の治世を誇り、パレンケは目覚ましい発展を遂げた。
 
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パカル王墓に埋葬された殉死者たち。
 
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浮彫。古典期(250~600年)。プラセレス遺跡。カンペチェ州。カラクルム遺跡のことか。
 
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チチェン・イツァー遺跡のチャックモール。
 
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奉納品。黄金製品、銅製品、金銅製品。チチェン・イツァー。後古典期(1000~1250年)。
 
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奉納品。黄金製品、銅製品、金銅製品。チチェン・イツァー。後古典期(1000~1250年)。
 
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奉納品。黄金製品、銅製品、金銅製品。チチェン・イツァー。後古典期(1000~1250年)。
 
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奉納品。黄金製品、銅製品、金銅製品。チチェン・イツァー。後古典期(1000~1250年)。
 
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奉納品。黄金製品、銅製品、金銅製品。チチェン・イツァー。後古典期(1000~1250年)。

メキシコシティ  国立人類学博物館 第11室西部、第12室北部、2階民族学フロア

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チャック・モール像。イワツィオ。ミチョアカン州。後古典期。第11室。西部。メキシコシティ。国立人類学博物館。2014年11月11日(火)。
メキシコ西部地域で発展したタラスコ王国は15世紀中頃に、ミチョアカン州全域とその周辺のグアナファト州・ゲレロ州・ハリスコ州の一部を支配し、アステカ王国と争った。支配者層のプレペチャ人は13世紀初頭にパツクアロ盆地に定住を始め1325年頃に王国となった。その後、パツクアロ、イワツィオ、ツィンツンツァンの三都市同盟の構成となり、うちツィンツンツァンが有力な都市国家として栄えた。タラスコ王国は1530年に滅んだ。
ツィンツンツァン遺跡の竪穴式墳墓は南米ペルーなどの墳墓と似ているという。チャック・モールの顔の線は入れ墨を示しているのかもしれない。
 
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チャック・モール像。ミチョアカン州パツクアロ出土。
チャック・モール像にも多くのバリエーションがあると知った。
 
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第12室北部。サンフランシスコ山地の岩絵。南バハ・カリフルニア州。赤・黒・白・黄の4色で描かれている。動物の群れと豊穣の象徴であるシャーマンの女性と鹿の神が描かれている。赤と黒の使い分けは生と死と再生という対照的な概念を表現している。
 
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世界遺産パキメ遺跡の復元住居。古代都市パキメ
はメキシコ北東部のチワワ州にあり、カサス・グランデス川沿いの開けた肥沃な渓谷に位置し、北米のプエブロ文化とメソアメリカの先住民文化の交流を示す。パキメは交通の要衝として、また塩や鉱石の産地として、現在の米国ニューメキシコ州の辺りに住んでいたモゴヨン人が南下して8世紀頃から発展し、14世紀頃に最盛期を迎え、人口は1万人に達したと推測されている。
11世紀半ばか12世紀半ば頃までは、アドベ(日干しレンガ)を使った草葺き屋根の竪穴住居で暮らしていた。その後、14世紀頃までに集落は飛躍的に拡大し、アドベを使ったアパートのような区画割された住居群が建てられるようになった。屋根には松の板や泥を使ったものになり、壁は白く塗られるか彩色されるかして仕上げられるようになった。
入り口は頭でっかちなT字型で、下端が上端よりも細く狭まっている。この奇妙な形は外敵の侵入を警戒した結果とされている。
最大の集落は今日パキメないしカサス・グランデスとして知られている一階建てのアドベの住居には、共同の水利システムが存在していた。
アドベの建築物は北米のプエブロ文化との共通性を感じさせるものであり、よく似た遺跡は、米国ニューメキシコ州のヒラ やサリナス・プエブロ近郊のほか、コロラド州にも残っており、いずれもモゴヨン文化のグループに属するものである。他方でメソアメリカ式の球戯場やケツアルコアトルの図像なども見付かっており、幅広い文化的影響が反映されている。
 
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テネク・ワステカ族の年長者の家。2階。民族学フロア。
テネク・ワステカ族の年長者の家。メキシコ湾岸北部地域。サン・ルイス・ポトシ州。
壁は木を編んでいるが、一部は荒土でできている。
ワステカ族(テネク・マヤ)はメキシコ中東部、ベラクルス州北部とサン・ルイス・ポトシ州北西部に居住するマヤ語系の民族集団で、言語はマヤ・トトナカ語群に属し、マヤ文化の北限にあたる。紀元前1500年ごろ南方から移住し、前2世紀から後8世紀にかけて古典期文化を開花させた。
アステカやスペイン人の侵入により海岸の肥沃な地帯から内陸部へ追いやられた。
 
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テネク・ワステカ族の年長者の家。内部側。メキシコ湾岸北部地域。サン・ルイス・ポトシ州。中央の卓上には花輪が飾られている。
伝統的な政治・宗教組織はほぼ消滅しているが、一部で長老会議が勢力を保っている。宗教はカトリックで、祭りの際には多くの民族舞踊が演じられる。
 
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2階。民族学フロア。先住民の住居。
 
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2階。民族学フロア。
 
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2階。民族学フロア。

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2階。民族学フロア。
10時50分頃に入館し、14時45分過ぎに博物館を出た。疲れ果てたので、2階の展示はざっと見ただけだった。博物館の前庭に腰掛け、持参の羊羹を食べて昼食とした。
この地区にある近代美術館とチャプルテペック城を今日中に見学するべく、まず近代美術館へ向かった。

メキシコシティ   チャプルテペック城   メキシコ近代史の舞台

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チャプルテペック城と英雄少年記念塔。メキシコシティ。2014年11月11日(火)。国立人類学博物館を見学後、同じ地区にある近代美術館チャプルテペック城の見学をめざし、まず近代美術館へ向かった。大通りを横断して、美術館の門をくぐり、玄関で城の入場時間をふと確認すると、16時までで、17時閉館となっていた。すでに15時頃だったので、美術館を見学したら間に合わないと思い、先にチャプルテペック城へ向かうことにした。実際には16時過ぎにも城への坂道を登る人はいたのだが。

近代美術館の西横から城の入口までの園路は露店が多く賑わっていた。城は右上に見えるので、方角はよく分かる。かなりの比高差がある、バスも運転されているが頻発していないので、徒歩で坂道を登ることにした。麓から少し登ったところに、荷物預かりがあるが、無視して登った。標高2200mを超しており、人類博物館で4時間歩いたあとで息苦しかったが、10分ほどで何とか登りきった。と同時に、バスが通りこしていった。
 
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チャプルテペック城から西の入場口方向を見下ろす。
入場料59ペソ。入口で荷物チェックがあり、「アグアは駄目」と言われたので、500ccのペットボトル半分ほどの水を飲みほしてペットボトルを捨てた。帰るときに、欧米人の娘が私と同じようにペットボトルを飲んでいたので、苦笑した。麓の荷物預かりに食べ物・飲料を預けることが望ましいらしい。

チャプルテペック城といっても本格的なヨーロッパの城とは違うので、見学するか迷った。しかし、メキシコの近代史において、特にアメリカとの関係において重要な場所であるとに、のちに気づいた。しかし、チャプルテペック城というネーミングはどうかと思う。チャプルテペック宮殿の方が観光客を引き付けると思う。
 
フランス革命後、スペイン本国が動揺し、メキシコでも1810年にイダルゴ神父が蜂起して、メキシコ独立戦争がはじまり、1821年にメキシコは独立した。1833年以降、カウディーリョ(軍閥)の一人サンタアナが断続的に大統領を務める時代となった。
 
一方、アメリカは当時メキシコ領だったテキサスなどへの領土的野心を持っていた。1820年代からテキサスへアメリカ人が入植しはじめ、30年代にはテキサスの住民の多くはアメリカ人になってしまった。1835年にサンタアナが中央集権体制を規定した基本法を公布すると、テキサスの住民が独立を宣言したため、1836年サンタアナの率いるメキシコ軍はテキサスのアラモ砦を陥落させる。しかし、結果的にテキサスはメキシコから独立してテキサス共和国となった。
 
1845年にアメリカがテキサス編入を布告すると、翌年5月から両国は戦争状態に陥った。アメリカ軍はメキシコ北部、メキシコ領カリフォルニアから進撃、メキシコ湾ベラクルスに上陸した一隊はハラパ近郊でサンタアナ軍を包囲し、1847年9月にアメリカ軍はメキシコシティを占領した。
 
この首都における攻防戦は最後に陸軍士官学校のあったチャプルテペックの丘で繰り広げられ、10代の士官学校の生徒6人が最後まで戦って死んだ事件は「英雄少年」の物語として教科書で教えられ、記念碑の前では毎年メキシコ大統領が参拝する国家的行事が行われているという。
1848年の条約により、メキシコは旧領土の約半分に相当するテキサスからカリフォルニアにいたる北部領土を割譲した。。この敗戦と領土喪失はメキシコ人に深い反米感情を植え付けた。
 
「英雄少年記念塔」というのは、士官学校生徒殉職碑というか白虎隊の記念碑のようなもので、6人を表す6本の柱が立っている。
 
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チャプルテペック城から見下ろす風景
チャプルテペック公園の森に立つ英雄少年記念塔の先には、メインストリートのレフォルマ大通り・独立記念塔が真正面に見え、メキシコシティが一望できる。
スペイン人がアステカ王国を倒すまでは眼前に広大なテスココ湖が広がっていた。
アステカ王国の支配部族となった本来は北方の狩猟部族であるメシカ族が1276年にメキシコ盆地に到達したとき、1325年に、テスココ湖中の小島テノチティトランへ移住する前、最初に住んだのが、このチャプルテペックの地であった。
アステカ王国時代には王の避暑地であったチャプルテペックはバッタの丘という意味である。
 
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チャプルテペック城の建築模型。
1785年スペイン副王の夏の別荘として建築が始まり、メキシコ革命後、陸軍士官学校や、天体観測所として使用された。その後、フランス侵略戦争により、1864年から3年間のフランスの統治時代マキシミリアン皇帝がメキシコへやってきて、この建物を自身の住まいとして増改築して華麗な王宮に改装した。その後は1939年まで大統領官邸として使用され、1944年に国立歴史博物館としてオープンした。
 
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チャプルテペック城と西側の噴水。ベルサイユ風の庭園がある。
 
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チャプルテペック城から眺める北西側の風景。池と動物園があり、賑やかな歓声が聞こえてきた。その先には人類学博物館があり、その向こうにはポランコ地区の高級ホテルなどのビル街がある、
 
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チャプルテペック城から眺める東側の風景。運が良ければ、ポポカテペトル山に連なる高峰群を眺められるらしい。
 
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チャプルテペック城から眺める北側の風景。

メキシコシティ   チャプルテペック城 マキシミリアン皇帝 フアレス大統領 ディアス大統領 

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チャプルテペック城。内部。メキシコシティ。
2014年11月11日(火)。城の内部は国立歴史博物館として公開されている。スペインの侵略以後の植民地時代、独立戦争、アメリカの侵略戦争フランスの侵略戦争フアレス大統領の改革政治、ディアス大統領の独裁政治、そしてメキシコ革命と歴史を追って展示がある。
オゴルマン、オロスコ、シケイロスなどの歴史を描いた壁画もある。マキシミリアン皇帝(在位1864~67年)やディアス大統領に関連した部屋、美術品、家具などが展示公開されている。
入口・順路が分かりづらく、西側1階から入場したら最後に入る部屋だといわれたので、2階に上がった。
 
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西側2階の踊り場にある壁画。今回の旅行で最初に見た壁画だった。誰のどういう作品か調べたが確証は得られなかった。画題の中心は上部中央の白馬に乗る紳士である。
この画題は同じくチャプルテペック城にあるというファン・オゴルマンの壁画「公正な選挙と(ディアスの)再選阻止」で描かれているフランシスコ・マデーロ大統領(在任1911~1913年)を描いたものと似ている。
 
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美術品の間。フランス風の豪華な部屋。
ポルフィリオ・ディアス大統領は、フランス好みで、ロシアからのマラカイトの石でイタリア製のものをフランスから仕入れたという。
ディアス長期独裁体制時代は1876年から1911年までの約35年間続いた。軍事力を背景にした「ディアスの平和」とも呼ばれることになるメキシコ史上初の長期安定を実現した。
ディアスは実証主義を信奉するシエンティフィコ(科学主義者)と呼ばれるエリートを登用し、権威主義体制の下でフアレス政権から続いていた国家の近代化=西欧化が推進された。
積極的な外国資本の導入が行われ、工業化が進み、銀、銅、石油の開発を軸に進んだ鉱山の開発、鉄道の敷設、輸出作物用のプランテーションの建設などが外国資本によって行われ、経済は発展した。
ディアスは経済の発展や治安の回復を実現したが、他方で農村部は大きく疲弊し、労働者は困窮した。外国資本の進出による工業化やプランテーション大農園の成立によって、多くは奴隷的零細賃金労働者としての厳しい生活を強いられることになった。このため、インディオの反乱や労働争議が相次いだが、それらの殆どは軍隊によって弾圧された。また、1892年の鉱山法によって地下資源の国家所有の原則が見直されると外国資本が鉱山開発に殺到し、1910年には国内の鉱山の3/4が外国人の所有となったように、経済の体質が非常に従属的かつ脆弱なものになった。
ディアス体制は経済拡大によってメキシコ史上初めての長期安定体制を築いたが、他方では大多数の民衆や労働者は植民地時代以来の貧困状態に置かれており、独裁制への不満を背景に、1906年に中産階級と労働者階級によってディアス独裁の打倒を目指す蜂起が起き、メキシコ革命へと時代は移った。
 
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北東側の塔を望む。
 
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イダルゴ神父に関連した展示
告解室。18世紀。箱時計。18世紀。ミゲル・イダルゴ・イ・コスティージャ(イダルゴ神父)の肖像画。アントニオ・セラーノ画。1931年。洗礼用聖水盤。18世紀。

 
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壁画「レフォルマと帝政の瓦解」。オロスコ。
1948年制作。ベニート・フアレスを描く。
フアレスは、先住民族から選出された初のメキシコ大統領で、1861~63年、1867~72年に大統領を務めた。フアレスは最も敬愛されるメキシコの指導者であり、「建国の父」とよばれる。
 
レフォルマの時代は1855年から1867年までをさす。
自由主義に基づいた「レフォルマ」と呼ばれる改革が行われ、保守勢力の後ろ盾となっていたカトリック教会と国家の政教分離、司法制度の近代化、法の下での平等を実現し、教会財産の没収、さらに自由主義的な憲法の制定などが行われた。
このレフォルマはメキシコ社会に大きな影響を与え、近代的な価値観がメキシコにもたらされたが、先住民共同体の解体やカトリック的価値観の喪失を伴ったため、既存の保守派の猛反発が起きて、1856年から保守派との内戦となる。結果的には、自由主義が勝ってフアレスが1861年に大統領となった。

フアレスが英仏へ債務不履行を宣言すると、1861年からイギリス、フランス、スペインがメキシコへ武力介入し、フランス第二帝政のナポレオン3はメキシコ全土の占領を計画して、1863年メキシコシティを陥落させた。
ナポレオン3世はオーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の弟マキシミリアンをメキシコ皇帝として送り込み、第二次メキシコ帝国が樹立した。しかし、普仏戦争の勃発により1866年フランス軍の撤退が決定されると後ろ盾を失った皇帝マキシミリアンは自由派軍に敗れて銃殺され、メキシコ帝国は崩壊し、フアレスが帰還してメキシコに共和制が復活した。
 
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ゴンサレス大統領の時代。1880~84年。ディアスの腹心の部下で、実権はディアスにあった。
鉄道は1873年にベラクルスからメキシコシティへ開通していたが、1884年に中央高原からアメリカ・テキサス州のエル・パソ方面へセントラル鉄道が開通したのを始めとして、ディアスの時代に1万9千kmの鉄道網が完成した。
 
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陸軍の近代化。
陸軍長官の軍人レイエスはディアス大統領の側近で、シエンティフィコ(科学主義者)とよばれた合理主義を追求するグループの一員であった。
 
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マキシミリアン皇帝の馬車
1864年頃、イタリア・ミラノのチェーザレ・スカラ社製。バロック様式。銀とブロンズで縁取られ、子供と天使の彫像、メキシコ帝国の紋章、「権利の平等性」という標語で飾られている。
1864年当時マキシミリアンは32歳、妻のカルロタは22歳の若さで、チャプルペテック城で繰り広げられる華麗な生活と若き皇帝夫妻の洗練された立居振舞はメキシコ人に強烈な驚きと憧れを呼び起こした。また、マキシミリアン自身は自由主義寄りの政治思想を持ち、保守派と教会勢力と対立した。
マキシミリアンはチャプルペテック城から市内へ通る道路を建設する。現在のレフォルマ通りであるが、建設当初は皇后通りとよばれていた。
 
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桂冠の形をした金冠。ルビー・ダイヤモンド・エメラルドを伴う。「共和国を救い、独立を強固にしたベニート・フアレスへ。1867年7月14日。」という刻銘がある。
マキシミリアン皇帝への勝利を記念したもの。
 
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マキシミリアン皇帝の読書・執筆室。マキシミリアン皇帝はオーストリア海軍少将の軍歴を持ち、チャプルペテック城をミラマール(海景)とすることを願い、ミラヴァジェと名付け、テラスの部屋を読書と執筆の部屋とした。
 
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食堂。マキシミリアン皇帝時代からディアス時代にかけての調度。
このあと、塔と屋上庭園へ。

メキシコシティ   チャプルテペック城  豪華な部屋 空中庭園と塔

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チャプルテペック城。内部。メキシコシティ。2014年11月11日(火)。北東隅の塔。
麓から見えているタワーの部分。
 
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北東隅の塔を廻る建物の下階部分。
 
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サロン・ド・テ。マキシミリアン皇帝に造られ、後代の大統領時代に至る。
 
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居室。
 
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化粧室。美麗なタイルが貼られている。
 
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タワー。
 
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張出しテラスから下界を眺める。
 
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空中庭園に建てられた塔。
 
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上階のステングラスの回廊。
ディアス大統領が造らせたギリシャ・ローマ神話を描いたステンドグラス。1900年頃にパリで制作された。
 
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空中庭園に建てられた塔。
16時15分頃に城を出て、フリーダ・カーロの名作を見るため麓にある国立近代美術館へ向かう。

メキシコシティ  近代美術館 フリーダ・カーロ 「二人のフリーダ」

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近代美術館。メキシコシティ。2014年11月11日(火)。チャプルテペック城を16時15分ぐらいに出て、麓の国立近代美術館へ向かったが、遊歩道が屈曲していて、城へ行く前に、美術館正門から来たときの道を失ってしまった。何人かに尋ねながら、英雄少年記念塔から向かうと、事務所棟があり、そこが裏口であった。
 
入場料26ペソを支払い、展示棟へ向かう。時間がないので入口で歩き方にある「二人のフリーダ」の絵を示して、どこかと尋ねると、階段の上の方向を教えてくれた。常設展示室の最初にある絵画が「二人のフリーダ」だった。フラッシュなしの写真は認められているものの、横に座っている監視員は気になった。
 
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「二人のフリーダ」。フリーダ・カーロ(1907~1954)。1939年制作。
フリーダ・カーロの絵画の中でも名作の一つと考えてよい。メキシコ壁画運動の時代に活躍した女性画家フリーダ・カーロの生涯には、魅惑的で危険な薫りが漂っている。若い頃の交通事故の災禍によって、絶えず死に脅かされながら、奔放な愛に生きたフリーダは、まさにメキシコ的な色彩に彩られた美しきヒロインである。
フリーダ・カーロについて、夫であり、画家でもあったディエゴ・リベラは「彼女は女性特有の、あるいは女性に普遍的なテーマを、仮借のない率直さと冷徹な厳しさをもって描いた、美術史上最初の女性である」と評している。
 
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「二人のフリーダ」。
「二人のフリーダ」は二つに引き裂かれたフリーダの二重自画像である。この絵が生まれた背景には、ディエゴとの離婚があった。
自画像の右側は、ディエゴに愛されているときのフリーダだ。一本の血管が延び、左側のフリーダの心臓へと繋がっているが、その血管はフリーダの心臓を潤してはいない。左側の心臓はひからびた空洞と化している。なぜならこのフリーダはもうディエゴに愛されていないからだ。外科鋏を持った愛されないフリーダは孤独と不安に苛まれ、血を流して苦悶する。
しかし、決して絶望することなく、愛を求めて不屈に生き続ける自己を、フリーダは冷徹に凝視している。
 
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「二人のフリーダ」。フリーダ・カーロのサイン。
 
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「二人のフリーダ」。キャプション。
Las dos Fridas
フリーダ・カーロはメキシコの絵画史上で、最高の画家だと思う。ディベラ、オロスコ・シケイロスらの壁画画家よりも、圧倒的な訴求力がある。芸術はそれを視聴する者にどれだけ感動を与えるかが大事だ。巧拙ではない。
 
フリーダ・カーロを知ったのは、NHK教育テレビの日曜美術館での45分間の特集映像だった。その時の感情をよく覚えている。朝の陽光に包まれた私の部屋に似つかわしくないコルセットと血に包まれた彼女の人生だったからだ。
正確な放送日時は忘れたが、20~30年前のような気がする。
日曜美術館は1979年頃から17年ほどは毎回見ていた。田中一村、長谷川利行、神田日勝、グランマ・モーゼス、丸木スマ・大道あやなどを教えてもらった。近年では2006年9月17日の放送で石田徹也を知った。亡くなった直後ぐらいで、2013年の回は見ていないが、これは2回目に取り上げたもの。最近は同じ画家の繰り返しが多くて見ることは少なくなった。
 
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「ルペ・マリンの肖像」。ディエゴ・リベラ(1886~1957)。1938年。
 
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「パウル・アンテビ
Paul antebíの肖像」。
ディエゴ・リベラ。1955年。
 
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「婦人(
Eve mayers)像」。シケイロス(1896~1974)。1934年。
シケイロスがトロツキー暗殺団の隊長だったと、最近知った。
 
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「春 L
a primavera」。オロスコ(1883~1949)。1945年。フレスコ画。
旅行前に読んだフエンテス短篇集「アウラ・純な魂」の「チャック・モール」の挿絵に使用されていたと記憶する。

中央の人物は葉で覆われ、像のように立っている。左手に赤い花を持ち、左側の人物は右手で枝を持ち、左手で中央の人物の背景となる布を持ち上げている。
医者の息子の証言では人間の病気を治すことがテーマであったようだ。また、再生と豊穣を象徴するという見方もある。

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「春 L
a primavera」のオリジナルの状態。
この絵は1945年オロスコのかかりつけの泌尿器科医であったホルヘ・モレノ・マウレ邸の私室に描かれた。私邸にあったので、世間的には知られず、1972年に未知の作品として再発見されて話題となり、1979年に国立美術研究所の所有となり、近美で公開された。

 
近美の常設展の展示点数は少ない。別室の現代美術も量は少ない。40分ほどで、館を出た。「二人のフリーダ」を見ることが出来て満足した。コヨアカンのフリーダ・カーロ博物館は11月23日にじっくり見学した。
 
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チャプルテペック公園から地下鉄チャプルテペック駅へ向かう。チャプルテペック城と英雄少年記念塔が見える。
下は高速道路が走っていて、下から煙が出ていて何かと思ったら、交通事故だった。この時間帯は天気予報どおり小雨が降っていた。メキシコ旅行中で雨に降られたのはこの時ぐらいだった。
この辺りは地下鉄駅の場所が分かりづらく、歩き方の地図もあいまいなので、近くにいた女の子に駅の位置を尋ねた。
歩き疲れたので、サンフェルナンド館へ帰り、昨夜徒歩20分のウォルマートで購入したスパゲティを茹でて夕食とした。
翌日はグアダルーペ寺院とソカロ地区の見学。

メキシコシティ  グアダルーペ寺院 聖母マリアが出現した聖地

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地下鉄。メキシコシティ。2014年11月12日(水)。
9時30分頃、無料の朝食を食べて定宿にしたサンフェルナンド館から徒歩3分ほどのイダルゴ駅から地下鉄に乗り、メキシコの守護神「聖母グアダルーペ」像を祀るカトリック信者の聖地であるグアダルーペ寺院へ向かう。
 
地下鉄の運賃は政策的に安くしてあるので、貧しい人が利用しやすい交通機関である。スリが多いとか危険だとか書いてある本があったので注意して乗っていたが、結果的には不安を持つようなことは一度もなかった。交通警察のような男女の警備員は多く配置されている。
 
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地下鉄。
通勤時間帯は満員状態のときもあり、ホームに女性専用コーナーが設けられている駅もある。無理して急いで乗ったらザックがドアに挟まれたときは、近くの若い男たちが、ドアを押して広げてくれたこともある。
物売りが多く、大音量でCDなどを売っているのは騒騒しい。本などを買う人もいる。数人の若い女性たちが乗り込んできて、交代で政治スローガンを演説したこともあった。
路線を乗り換えるための連絡通路は意外と長距離で時間を取られた。
土日は営業時間が短縮され、とくに日曜日は7時からなのをうっかり忘れていて、長距離バスの出発時刻に間に合わなくなると焦ったこともあった。 
 
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グアダルーペ寺院。
1531年に黒い髪と褐色の肌をもつ聖母マリアが人々の前に現れたとされ、バチカン教皇庁公認のカトリック三大奇跡の寺院の一つとされる。メキシコ国民の精神的な支えとなっている聖母像が祀られている。
地下鉄6号線ラ・ビジャ・バシリカ駅から歩く。駅前の道路を100mほど歩くと、広い参道に出た。両側は門前町らしく、聖具などを売る店が多い。
 
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グアダルーペ寺院。右が旧グアダルーペ寺院、左が現在のグアダルーペ寺院。
 
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旧グアダルーペ寺院。1709年に建設されたが、地盤沈下のため傾いたので、新寺院が建設された。
 
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旧グアダルーペ寺院。傾いてはいるが、内部に入ることはできる。
 
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旧グアダルーペ寺院。内部。聖母マリア出現の様子。
1531年12月9日グアダルーペのインディオ、フアン・ディエゴの前に聖母が現れたとされる。聖母は、司教に聖母の大聖堂を建設する願いを伝えるよう求めた。病気の親類の助けを求めにいこうとしていたディエゴが話しかける聖母をふりきって走り去ろうとした時、聖母は彼を制止し、親類の回復を告げた。ディエゴが戻った時、病気だった親類は癒されていた。
ディエゴは司祭に聖母が教会を建てるように求めた話をするが取りあってもらえずにいると、再び聖母が現れ証拠の品として、その季節には咲いていないバラを与えた。ディエゴはバラをマントにくるみ、司祭にマントを広げるとマントには褐色の聖母の姿が映し出されていた。司祭は聖母が現れたことを喜び、グアダルーペ寺院を建てた。

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旧グアダルーペ寺院。内部。祭壇。
 
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旧グアダルーペ寺院。内部。ステンドグラス。
 
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新グアダルーペ寺院。1976年に建設された。
 
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新グアダルーペ寺院。内部。おびただしい人々が説教に聞き入っていた。
 
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新グアダルーペ寺院。内部。祭壇横にも多くの人々が取り囲んでいた。
 
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「聖母グアダルーペ」図。祭壇の裏側の壁にある。立ち止まる参拝者が多いので、図像の前には動く歩道が設置されている。
 
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「聖母グアダルーペ」図。かなり上に置かれており、小さい。1531年のものにしては保存状態が良い。
この図像はのちほど旅行したメキシコ各地でよく見かけることになった。
 
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テペヤックの丘。寺院裏側の上にある丘が奇跡の起きたテペヤックの丘で、頂上には礼拝堂が建っている。この丘にはかつてアステカの神殿が建てられていた。
国立宮殿、テンプロ・マヨールのあるソカロ地区の見学時間を考慮し、グアダルーペ寺院をあとにした。
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