Quantcast
Channel: いちご畑よ永遠に
Viewing all 1170 articles
Browse latest View live

モンゴル 世界遺産「オルホン渓谷の文化的遺産」 ビルゲ・ハーン碑文、キョルテギン碑文 ホショーツァイダム博物館  

$
0
0
イメージ 1
 
ホショーツァイダム博物館。ハラホリン(カラコルム)近郊。20147月8日(火)。世界遺産「オルホン渓谷の文化的遺産」の見所の一つであるホショーツァイダム博物館はハラホリンの北東約40km、オルホン川東岸にあり、8世紀の第二突厥王国のビルゲ・ハーンとキョルテギンの霊廟が営まれた中間地点に建設され、オルホン碑文ともよばれる有名なビルゲ・ハーン碑文、キョルテギン碑文の実物を中心とした資料を展示している。
 
イメージ 2
ホショーツァイダム博物館。2000~03年のモンゴル・トルコの共同発掘調査に基づいて博物館が建設されたようだ。突厥などのトルコ系モンゴル帝国が自らのルーツとしているトルコ共和国が援助して調査を行い、ハラホリンからこの博物館に至る約45kmの舗装道路も建設したという。
 
イメージ 3
ホショーツァイダム博物館。舗装道路が通じているためか、韓国人団体客がいた。モンゴル人はまばらである。日本人は私一人であった。
 
イメージ 4
ホショーツァイダム博物館。ロビー。内装や展示は日本が関与したハラホリン博物館の方が垢抜けている。
 
イメージ 5
ビルゲ・ハーン霊廟模式図。
 
イメージ 6
ビルゲ・ハーン霊廟。推定模型。門、亀趺、霊廟が直列に並び、石人や山羊などの動物像が各所に置かれている。
 
イメージ 7
ビルゲ・ハーン霊廟跡出土の王冠。
ビルゲ・ハーン(ビルゲ・カガン、毘伽可汗)(在位716~734)は東突厥第二可汗国期のハーンである。
東突厥は、582年に突厥が東西に分裂した際の東側の勢力で、第一可汗国期、唐による羈縻(きび)支配下期、682年に始まり744年にウイグル(回紇)に滅ぼされるまでの第二可汗国期に分けられる。
突厥王族阿史那氏のクトゥルグ(骨咄禄)は682年に唐から独立、モンゴル高原の聖地ウテュケン山(カラコルム周辺)を奪還して、イルテリシュ・カガンと名乗った。イルテリシュ・カガンは690年に病死し、その子の默棘連はまだ幼かったので、弟の默啜が後を継いでカプガン・カガン(在位690頃~ 716年)と号し、しきりに中国の北辺へ侵入し、略奪をおこなった。696年には唐の則天武后に領土と農民などを要求するなど、各地を攻略したが、716年に戦死した。
後継者をめぐりカプガンの直系と初代のイルテリシュ・カガンの子たちの間で対立し、結局後者の兄弟が勝利を収め、兄の默棘連が即位してビルゲ・カガン(毘伽可汗)と号し、即位に重要な軍事的役割を果たした弟のキョルテギン(闕特勤)を左賢王に封じ、東突厥軍の兵馬を統帥させた。
 
開元8年(720)突厥軍が唐の北辺を侵略したため、唐の玄宗は契丹など周辺の諸民族とともに攻囲しようとしたのに対し、ビルゲ・カガンは機先を制して攻撃の芽を摘んだ。
唐に対しては、その後略奪から交易を重視するようになり、玄宗から毎年国境で大量に絹馬交易をおこなう許可を得ている。
開元22年(734年)、ビルゲ・カガンは大臣の梅録啜に毒を盛られるが、すぐには死ななかったので、梅録啜を斬り、その一味を滅ぼしたうえで死んだ。国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。
 
イメージ 8
ビルゲ・ハーン碑(左)とキョルテギン碑(右)。
 
イメージ 9
ビルゲ・ハーン碑。表面(東面)には突厥文字(テュルク語)で初代ブミン・カガンからビルゲ・ハーン、キョルテギンまでの歴史が刻まれている。
 
イメージ 10
ビルゲ・ハーン碑。冒頭に近い部分にみえる一節は、突厥可汗国の建設を描く。
上に蒼色なる天、下に褐色なる地の創られしとき、二つの間に人の子生まれたり。人の子の上に、我が祖宗ブミン・カガンとイステミ・カガンと坐したり。(この二人)坐して、突厥の民の国と法とを保ち終えたり、造り終えたり。四方すべて敵なりき。(彼ら)軍旅ひきいて、四方なる敵をすべて奪いたり、すべて服せしめたり。
これにつづけて、「その後の可汗、重臣たちの「無知」、首長と民衆との争い、それらにつけ込んで中国の弄した策略などのため、第一可汗国が瓦解して突厥諸族が唐の羈縻(きび)支配に服するに至ったこと、そこからイルティリシュ・カガンによって突厥が再興されたこと、などを描き、イルティリシュ・カガン時代からビルゲ・カガン、キュル・テギン兄弟の死に至るまでの彼らの功績を、それぞれの年齢、または十二支獣紀年によって編年して記し、彼らがいかに「賢明」で「勇気ある」「猛き」遊牧騎馬民族の英雄であったか、そして「死すべかりし民」を「生かし養い」、「裸の民」を「衣服持てる者」とし、「貧しき民」を「富裕」たらしめるのにどれほど力を尽くしたか、を讃えている。
 
イメージ 11
ビルゲ・ハーン碑。裏面(西面)には唐の玄宗から贈られた漢文が刻まれている。
 
イメージ 12
キョルテギン碑。キョルテギンは731年に亡くなった。高さ335㎝、幅は東・西面が132㎝、北・南面が46㎝。東面には突厥文字で40行、北・南面にはそれぞれ13行の文が刻まれている。
3面はビルゲ・ハーンの孫のヨルギテギンが刻み、西面は玄宗の甥の張将軍が刻んだ。
東面の表面にはチュルク系民族の象徴と信じられていたヤギのシンボルがあり、上部にはオオカミが突厥族の始祖である子供を育てている姿が彫刻されている。
落雷により、西面と北面の一部が欠けている。
 
イメージ 13
キョルテギン碑。東面には突厥文字で40行の文が刻まれている。始祖から初期のカガンの事績、当代の隆盛を記し、カガンたち英雄の死にさいしては、チベット、ビザンツ、中国、キルギスなどから弔問を受けたと記す。
 
イメージ 14
キョルテギン碑。北面には各地を転戦したキョルテギンの戦績を記している。
 
イメージ 15
キョルテギン碑。裏面(西面)。故闕特勒之碑。「闕特勤」の誤記とされる。
 
イメージ 16
キョルテギン碑。裏面(西面)には唐の玄宗から贈られた漢文が刻まれており、キョルテギンの優れた人格や平和の重要性が讃えられている。
大唐開元廿年(732年)の文字が見える。 のちに2行の突厥文字が追刻されている。
闕特勤が死去したため、玄宗は詔で金吾将軍の張去逸,都官郎中の呂向に勅書を持たせて弔問に赴かせ、同時に闕特勤のために石碑[3]を立てさせ、玄宗自ら碑文を書いた。また、祠廟を立て、石像を作り、周囲の壁には闕特勤の戦陣の状景を画かせた。
 
イメージ 17
ビルゲ・ハーン碑の亀趺台座。
 
イメージ 18
キョルテギン碑の亀趺台座。
 
イメージ 19
キョルテギン碑の旧状写真。
博物館の見学後、博物館の南東約800mにあるビルゲ・ハーン霊廟跡と北西約800mにあるキョルテギン霊廟跡を見学した。

モンゴル 突厥帝国遺跡 ビルゲ・ハーン霊廟遺跡 キョルテギン霊廟遺跡 ホショーツァイダム博物館

$
0
0
イメージ 1
黄金製装飾品。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。ホショーツァイダム博物館。ハラホリン近郊。6~8世紀。
20147月8日(火)。
 
イメージ 2
黄金製耳飾り。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 3
銀製カップ、ポット。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
                       
イメージ 4
銀製動物形装飾品。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 5
石人。ビルゲ・ハーン、キョルテギン霊廟遺跡。
 
イメージ 6
屋根瓦。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 7
排水管。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 8
石室。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 9
石室の壁。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 10
発掘風景
 
イメージ 11
発掘風景
 
イメージ 12
出土品。トルコ、モンゴル共同調査。
 
イメージ 13
石人
 
イメージ 14
石人
 
イメージ 15
ビルゲ・ハーン霊廟遺跡。ホショーツァイダム博物館の南東約約800mに位置する。
 
イメージ 16
ビルゲ・ハーン霊廟遺跡。霊廟礎石と入口の門。左奥にホショーツァイダム博物館。
 
イメージ 17
ビルゲ・ハーン碑文石碑。複製。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡。敷地は門と塀で囲まれている。入口の門は見学者が開けて自由に入ることができる。
 
オルホン碑文石碑の存在は13世紀の歴史書にすでに言及されていた。1772年にはスエーデン人が報告、19世紀末にはロシア人学者、フィンランドの学会、ロシア人トルコ語学者などにより報告された。
突厥文字の解読は1893年デンマーク人トムセンにより成された。彼は頻繁に出現する「テンリ(カガン)」という単語を解読したのを手始めに「テュルク」、「キョルテギン」などの単語の解読に成功した。
突厥碑文の重要性はトルコ系言語で最初にトルコ系民族を表す「テュルク」という単語の存在を証拠立てたことにある。さらに、トルコ系民族出現期の民族、国家、生活文化、闘争、習慣などの解明の端緒となっていることも重要である。
突厥遺跡はトルコ民族のルーツに関わる遺跡であるため、現トルコ共和国は突厥関係遺跡の発掘・調査・保存に全面的に援助を与えている。
 
イメージ 18
キョルテギン霊廟遺跡。ホショーツァイダム博物館の北にある。入口の門から自由に入れる。
 
イメージ 19
キョルテギン碑文石碑。複製。
 
イメージ 20
キョルテギン霊廟遺跡
遺跡の見学を終え、次にウイグル帝国の首都であったハル・バルガス遺跡へ向かった。ハル・バルガス遺跡は歩き方の地図によると、オルホン川の向こう岸すぐ近くにあるので、ここから行けるのではないかと思い、その旨を運転手に話したが、15分ほど話しても全く噛み合わなかった。オルホン川には橋がないので、ハラホリンに戻って、ムンフスール・ゲストハウスで地元ガイドを便乗させて向かうことになった。

モンゴル ハラホリン(カラコルム)へ ムンフスール・ゲストハウス 馬頭琴と唄

$
0
0
 
 
イメージ 1
ハラホリン(カラコルム)方面へのドライブ
201476日(日)。本日からハラホリン(カラコルム)方面へ34のツアー。車と運転手兼ガイドをチャーターして、私一人が客である。12時頃、ナサン・ゲストハウスへ戻り、ナサンさんと打ち合わせ。車代が1日90ドル4日分360ドル、ガソリン代は概算前払いで170ドルを前払いで支払った。ガソリン代は給油ごとの実費支出でもよいが、現地通貨の持ち合わせに不安があったので、前払いとした。支払い過ぎたかもしれないので、後半のダダルツアーでは実費支払いとしたが、実際どちらが得かは計算していない。
宿泊と食事は実費となる。
 
ナサンで同宿となった日本人男性はハラホリンへは定期バスで行った。バスが着くと、ゲストハウス数軒が客の誘致をしていたという。エルデニ・ゾーや博物館は徒歩圏内にある。ただし、離れた見学地への車が手配できるかどうかが問題となる。
 
ドライバーは「インケ」という名前の20歳代前半の男性で、日本語を習っているということだったが、あとで聞くと、週に2回ほどモンゴル人に教えられている程度で、余り役に立たなかった。英語も少し話せる程度だった。ダダルツアーの時はこの若者の兄だったが、英語はほとんど話せなかったので、弟の方がましだった。学校教育がほとんどないような感じで、発音は全く金釘流である。二人とも、英語会話集を持参していたので、なんとか意図を通じさせようとしたが、なかなか困難であった。
12時30分頃に弟と父親が来て、20分ほどナサンさんと行程の打ち合わせをしてから、階下の駐車場へ下りて、車に乗り込み13時頃出発した。
 
ウランバートルから順調に西へ進み、晴天から曇天になると同時に快適な舗装道路の舗装部分が不快になりだしたときに、道路が遮断されて迂回し始め、道路左の地道を走りだした。
 
イメージ 2
交通事故現場。道路の真ん中に車がひっくり返っており、反対側の道路下にも車が飛び出している。
 
イメージ 3
交通事故現場。事故原因は不明。交通事故は日本より多い。インド並みか。運転が荒い。ダダルツアー初日で、私の車が接触事故を起こした。ドライバーが割り込みをした車に、わざとぶつけるように幅寄せをする状況を助手席から見ていた。
 
イメージ 4
馬と山羊の大群。道路を横断していた。
 
イメージ 5
郊外道路では家畜の横断は実に多い。他人の家畜を損傷させると、賠償責任が生ずるので、うまくかわすしかない。
 
イメージ 6
ハラホリンの手前。19時過ぎ、ようやく目的地が近づいた。料金所で入境料800Tgを支払った。
道路インフラが悪く、道路が穴だらけなので、回避運転にせまられ、時速20㎞程度の走行が数時間続いた。本道から脇の地道へ回ることも多い。
 
イメージ 7
ハラホリン。エルデニ・ゾーの右側を抜けて数分走ると、本日の宿泊地であるゲルのゲストハウスに20時頃着いた。ウランバートルから約7時間かかった。まだ、明るい。
 
イメージ 8
ムンフスール・ゲストハウス。ここにはツーリスト用のゲルしかない。ホテル代は夕朝食付きで1万5千Tg(830円)。寝袋はドライバーが持参している。
 
イメージ 9
ゲストハウスの夕食。ゲルに荷物を置いて、入口の食堂へ向かう。出来あいの定食が出てきた。不味くも美味くもない。
 
 
イメージ 10
馬頭琴と唄。食堂に入る手前で、民族衣装を着た熟年男性が立っていて、21時から食堂でコンサートをするので来てくれと呼び込みをしていた。
21時すぎに食堂へ入ると、10人近くの客が聴いていた。
 
イメージ 11
歌手。5・6年前の地球の歩き方に本人の写真が載っている。それなりに裏付けのある人だろうと思うが、名前は忘れた。
 
イメージ 12
歌手が出したCDの日本語曲紹介。
2日後にもここに泊ったので、この人の他に2人の歌手を併せた3人バージョンをまた聞いた。
歌が終わったあと、6000Tgを最後に払った。
 
イメージ 13
ムンフスール・ゲストハウス。柵で囲まれていて、夜間は番犬が外にいる。回りは何もない。
 
イメージ 14
ムンフスール・ゲストハウス。10棟ほどのゲルが並んでいる。食堂のほか、トイレ・シャワー棟、従業員・運転手宿泊棟がある。翌日泊まった現住ゲルに比べると、かなり快適であった。
宿の選定はガイドが決める。
翌日はエルデニ・ゾー僧院の見学から始まる。

モンゴル 世界遺産オルホン渓谷 ハラホリン エルデニ・ゾー僧院  

$
0
0
イメージ 1
エルデニ・ゾー僧院。ハラホリン。
201477日(月)。9時頃、ハラホリン村のムンフスール・ゲストハウスから車で数分のエルデニ・ゾーへ向かった。
 
チベット仏教の僧院エルデニ・ゾーは、108個の白い仏塔で囲まれた400m四方の敷地の中に建つ寺院群で、世界遺産オルホン渓谷の文化的景観の中心的な遺跡である。
 
エルデニ・ゾーの北東にモンゴル帝国の首都カラコルムの遺跡が一部発掘公開されている。カラコルムの遺跡は現在地表上には見るべきものがない。ハラホリンはカラコルム遺跡のすぐ西にある村で、小村ながら世界遺産オルホン渓谷観光の拠点となっており、近くにオルホン川が流れている。
 
オルホン渓谷は、昔から豊かな草原が広がる肥沃な土地で、北アジアの遊牧民族国家は必ずここを本拠地とした。そのため、石器時代からモンゴル帝国の時代までの数多くの考古学遺跡が残っている。
世界遺産オルホン渓谷の文化的景観の遺跡は、オルホン碑文という8世紀初頭の突厥王国のビルゲ・ハーンおよびキョルテギンの石碑群、ハル・バルガス遺跡という8世紀後半のウイグル帝国の王都、モンゴル帝国の首都カラコルムの遺跡、エルデニ・ゾー僧院などで構成されている。
今回は以上の4遺跡を見学することができた。石碑群とハル・バルガス遺跡は徒歩圏内ではない。
 
イメージ 2
エルデニ・ゾー僧院。ゴルバン・ゾー(三寺)入口。この区域だけが有料。
 
イメージ 3
エルデニ・ゾー僧院。ゴルバン・ゾー(三寺)。中央の寺がゴル・ゾーとよばれ、左右に東寺・西寺がある。
ゴル・ゾー1585年にエルデニ・ゾーで最初の寺として、アバダイ・ハーンが建設した。
アバダイはモンゴル民族中興の祖ダヤン・ハーンの末子で外モンゴルの原型となった七旗ハルハの創設者ゲレセンジュの孫で、1580年代にアルタイ山脈の北でオイラト軍を破って有名になり、チベット仏教を初めてハルハに導入して、1585年夏かつての帝都カラコルムの地にエルデニ・ゾーを建立した。
アバダイの子孫がハルハ左翼の盟主トシュート・ハーン家となり、アバダイの曾孫がジェブツンダンバ1世(ザナバザル)である。
東寺・西寺はザナバザルの兄であるトシュート・ハーンが17世紀初めに建立した。
アバダイの時代はチベット仏教ゲルク派は優勢ではなく、サキャ派のラマ僧の指導のもとに建立した。そのため、ゴルバン・ゾーは中国建築風の様式となっている。
 
イメージ 4
寺院装飾。
 
 
イメージ 6
ゴルバン・ゾー(三寺)。寺院入口。
 
イメージ 5
ゴルバン・ゾー(三寺)。韓国人ツアー客が多い。
 
イメージ 7
ゴルバン・ゾー(三寺)。東寺。
 
イメージ 8
ゴルバン・ゾー(三寺)。基壇の上から。
 
イメージ 9
エルデニ・ゾー僧院。チンギス・ハーンが陣営で煮炊きに使用したとされる大きな鉄鍋。
 
イメージ 10
エルデニ・ゾー僧院。僧院内のゲル内部の祭壇部。
 
イメージ 11
エルデニ・ゾー僧院。ソボルガン塔。境内中央にある仏舎利塔。第
4代ボクド・ハーンの25歳の記念として1799年に建立された。堕落した僧侶を太喝する目的もあったという。
 
イメージ 12
エルデニ・ゾー僧院。ラプラン・ゾー。チベット様式の寺。
18世紀にモンゴルの人々の寄付により建立された。大講堂では10人ほどの仏教僧が勤行していた。
20世紀初めのエルデニ・ゾーでは1万人を超す僧が居住していたといわれるが、1930年代の仏教弾圧により、多くの僧が殺害され、残った僧も還俗されて、エルデニ・ゾーは閉鎖された。
 
イメージ 13
エルデニ・ゾー僧院。ラプラン・ゾー。五体投地をする私。ガイドが見本を示したので私もやってみた。モンゴル人客もやっていた。
ラプラン・ゾーの中で馬乳酒を飲まされたが、酸っぱさにとても1杯は飲めなかった。
 
イメージ 14
エルデニ・ゾー僧院。銅塔かと思われる。
 
イメージ 15
エルデニ・ゾー僧院。境内中央やや南から北方面を眺める。オルホン川の向こうには低い山並みが続いている。山が北風を防ぎ、水が豊かな草原の地である。
1時間ほど見学ののち、エルデニ・ゾー僧院を出て、日本のJICAの援助で2011年に新設されたハラホリン博物館へ向かった。エルデニ・ゾー僧院の見学だけでは、ハラホリンに来た意味はない。

世界遺産 モンゴル帝国の首都カラコルム遺跡 ハラホリン 亀石 鷹

$
0
0
 
イメージ 1
鷹の肩のせ。エルデニ・ゾー僧院入口。ハラホリン。
201477日(月)エルデニ・ゾー僧院を出て、僧院北東裏の亀石へ向かったときに、道路反対側の土産物街の外れに鷹がいることに気が付いた。車を停めて、様子を尋ねると、鷹を肩に乗せるアトラクションだという。
 
イメージ 2
鷹の肩のせ。エルデニ・ゾー僧院入口。2000
Tgの料金を支払うと、革の長手袋をはめさせられた。手首あたりに鷹の足が乗っかる。鷹も鳥の中では大型なので2~3㎏ほどの重量感があった。
チンギス・ハーンか徳川家康になったような気分で面白かった。
僧院北東裏の亀石へ向かう。
 
イメージ 3
僧院北東裏の亀石・カラコルム遺跡方面入口。車は入れないので、徒歩で10分ほど歩くと、亀石に至る。
 
イメージ 4
僧院北東裏の仏塔。隅部が装飾が特に豪華になっている。
 
イメージ 5
亀石。亀趺という石碑の台石が残っている。
 
イメージ 6
亀石付近。土産屋が机に商品を並べている。
 
イメージ 7
モンゴル帝国の首都カラコルム遺跡。亀石の北100mほどに、発掘されている一画がある、カラコルムの中でも大規模な敷地を占めていた寺院の一画と思われる。
 
イメージ 8
カラコルム遺跡。
 
イメージ 9
カラコルム遺跡。亀石、エルデニゾー方面。
車で5分ほど南のハラホリン博物館へ向かう。
 
イメージ 10
ハラホリン博物館。2011年に日本の
JICAの援助で開館した。
 
イメージ 11
カラコルムの推定復元模型。ハラホリン博物館。モンゴル帝国の首都カラコルムは、
1235年チンギスハーンの息子第2代ハーンオゴタイハーンによって建設された。
 
イメージ 12
カラコルムの推定復元模型の説明。手前下は寺院・宮殿地区でその右下にキルン(煉瓦窯)がある。上部右側が、職人居住区。その左上がモンゴル人が居住するゲル地区。
 
イメージ 13
カラコルムの説明。ハラホリン博物館。
政治の中心はハーンのオルド(帳殿)にある。都市は商人や職人がそこからハーンの移動宮殿に出張してハーンに法師する補給基地であった。
モンゴル帝国第4代モンケ・ハーンの時代にカラコルムを訪れた、カトリックのルブルク修道士は次のように報告している。
「モンケはカラコルムに大きなオルドを持っているが、それは都城の城壁の近くにあり、煉瓦の壁で囲まれている。その中には大きな宮殿があって、モンケはそこで、年に2回、大宴会を開く。そのほか、そこには納屋のように細長い建物がたくさんあって、ハーンの食糧・財宝がしまわれている。」
「カラコルムには二つの市区がある。一つはイスラム教徒の地区で、そこには多くの市場が開かれていて、多くの商人がここへ集まる。他の一市区は、みな職人であるキタイ人(北中国から連れてこられた人々)の市区である。この二市区のほかに、宮廷の書記たちの大邸宅がある。この町は土の城壁で囲まれて、4つの門がある。東門では黍などの穀物、西門では羊と山羊、南門では牛と車、北門では馬が売られている。
 
イメージ 14
カラコルム遺跡周辺の航空写真。中央やや下の方形区域がエルデニ・ゾー僧院。そのすぐ右上に亀石とカラコルム遺跡発掘地区がある。

モンゴル 世界遺産カラコルム 遺跡出土品 ハラホリン博物館

$
0
0
イメージ 1
ハラホリン博物館。ハラホリン。
201477日(月)。
エルデニ・ゾー僧院の西500mに博物館がある。
 
イメージ 2
ハラホリン博物館。ロビー。日本とモンゴルの国旗が飾られている。日本のJICAの援助により、2011年に開館した。
日本人として誇らしく入場できる。
モンゴル人客も多いが、韓国人、日本人団体も多い。
 
イメージ 3
オリエンテーション・プラザの案内。説明などに日本語表示があるので、気を楽に展観できる。
 
イメージ 4
オリエンテーション・プラザ。電光パネル展示やビデオ映像のほか、足下のガラスの下にはキルンが展示されている。
 
イメージ 5
オリエンテーション・プラザ。キルンが展示されている。
 
イメージ 6
オリエンテーション・プラザ。キルンの図説。カラコルムの南西地区にあった寺院の南東端に設置されていた。
 
イメージ 7
迦陵頻伽。
 
イメージ 8
イメージ 9
カラコルムの暖房設備模型。
 
イメージ 10
 
イメージ 11
阿弥陀如来像。
 
イメージ 12
 
イメージ 13
故事鏡。
 
イメージ 14
 
 
イメージ 15
 海獣葡萄鏡。
イメージ 32
イメージ 16
 軸受、留めねじ。
イメージ 17
 
イメージ 18
カラコルムの工業化を示す遺跡出土物。
イメージ 19
 
イメージ 20
金製腕輪と型。
 
イメージ 21
イメージ 22
パスポート。
 
イメージ 23
イメージ 24
アーユシュリーダラ・ハーンの印。
 
イメージ 25
イメージ 26
カラコルムのペルシア語碑文。
イメージ 27
 
イメージ 28
勅賜興元閣碑断片。
 
イメージ 29
イメージ 30
炉。
イメージ 31

御嶽山の展望台 寺田小屋山 岐阜県下呂市

$
0
0
イメージ 1
噴煙を上げる御嶽山。平成26年10月10日(金)。
岐阜県下呂市の寺田小屋山(1505m)に登った。
歩行時間は、白草山登山口横の林道ゲートから往復で、上り1時間22分、下り1時間4分。
この山の魅力は「なんといっても秀麗な御嶽山を間近にする眺望」にある。周辺で御嶽山の眺望の良い山は日本200名山の小秀山、300名山の奥三界岳、夕森天然公園、南木曽岳、夕森山、白草山、下呂御前山などがあるが、いずれも18~10年ほど前には登っているので、先週の御前山に続き未踏峰を捜すと、寺田小屋山が浮上した。以前にも検討したが、「名古屋周辺・続山旅ガイド」には、御嶽山の展望台と紹介されているが、稜線上はササを掻き分けての道と書いてあったので、後回しにしてそれっきりになっていた。
 
地図はヤマケイ「名古屋周辺の山200」を使用。登山口はネット情報によると、林道に車乗り入れ禁止区間が追加されたため、白草山と共通となっている。
 
10月9日15時30分に名古屋市守山区の自宅を出て、41号線の道の駅「白川」で車中泊。10月10日7時過ぎに道の駅を出て、乗政温泉方面へ向かう。温泉を過ぎたあたりから、樹林で暗くなり、ライトを点けて坂道を登る。左折して幅広の道を進むと、黒谷林道入口に到着。左の寺田小屋山方面への林道はロープで閉鎖されているので、道路を戻って、路肩の臨時駐車場に駐車。この道路には他に5台停まっていたが、寺田小屋山の往復で誰とも出会わなかったので、白草山へ登っていたのだろう。白草山は人気がある。
 
イメージ 2
登山口(取付点)。
8時47分に駐車帯を出て、8時51分に白草山登山口横の林道ゲート通過。舗装林道を歩いて「登山口まで1.7㎞」ポストの林道ゲートを9時5分通過、左右に案内板のある登山口(取付点)に9時30分に着き、未舗装林道から左の山腹に取り付いた。
 
イメージ 3
御嶽山展望地。登山口からは緩い上り坂が続く。10分して、何でもない岩盤で滑って、両手を着き、苔むした岩に注意する必要を再認識した。苔岩が続く区間を過ぎると、ササの枯葉が岩を隠す危ない区間があり、笹原を登り切って、10時1分頃稜線に到達。数分後に左にコンクリートブロックのある地点に着いて、振り返ると御嶽山山頂南西下部から噴煙を上げる姿が大きく見えた。帰路では雲がかかって隠れるということがあるので、念のために往路で御嶽山を撮影した。
帰路でこの地点に来たら、雲が山頂付近を続けて流れていく状態だったので、取りあえず撮影しておいて良かった。
 
イメージ 4
乗政集落が左下に広がり、コンクリート土台のみが散乱する地点を登っていく。
 
イメージ 5
寺田小屋山の山頂に10時13分到着。登山道の途中のような山頂には、二等三角点がある。展望はほとんどない。
10時17分に下山開始。
 
イメージ 6
乗政集落。5分ほど撮影に要した。
御嶽山展望地のコンクリートブロック地点へ10時26分到着。スニッカーズを食べたりしながら、雲が取れないか待ったが、北から雲が続いているので、諦めた。
10時39分に出発。岩で滑らないよう慎重に足を置く地点を選ぶ区間を経て、11時9分登山口(取付点)に到着。未舗装林道を歩いて、11時30分に上のゲート通過、11時40分に下のゲート(登山口)に到着。11時43分に駐車帯へ帰着。
乗政キャンプ場で昼食にカレーを食べ、12時40分に自宅へ出発、15時10分に帰宅した。
白草山のように山頂から御嶽山を見られないので人気はないが、稜線上からは雄大な御嶽山を見ることが出来たので、満足した山行となった。

モンゴル 世界遺産カラコルム ハラホリン博物館 考古資料編

$
0
0
ハラホリン博物館。ハラホリン。201477日(月)。
カラコルム遺跡出土資料のほかに、考古資料も展示されている。
 
イメージ 10
匈奴の文化財。
 
イメージ 11
 
イメージ 1
くつわ。青銅製装飾品。BC3000~BC800年。スキタイ文化以前の騎馬遊牧民の青銅器時代。
 
イメージ 2
イメージ 3
スタンプ。青銅製装飾品。BC3000~BC800年。
 
イメージ 4
留め具。鐘。青銅製装飾品。BC3000~BC800年。
 
イメージ 5
馬形の飾り。青銅製装飾品。BC3000~BC800年。
 
イメージ 6
ナイフ。錐。青銅器。BC3000~BC800年。
 
イメージ 7
ハンマー。斧。青銅器。BC3000~BC800年。
 
イメージ 8
バガ・エレーンの石人。レプリカ。突厥時代。
イメージ 9
 
イメージ 12
ハル・バルガス碑文断片。ウイグル時代(8~9世紀)。
黒い城という意味のハル・バルガスはウイグル帝国の首都であった。その遺跡は、本博物館より35㎞北東の草原、オルホン川のそばに今も残っている。
この断片は、遺跡のなかの支城と思われる部分から発見された。碑文はルーン文字、ソグド文字、漢字で書かれ、その建立が832年であったことを伝えている。
この碑文は、マニ教の勝利を讃えている。ある説によると、この支城はマニ教の中心地であった可能性がある。
ウイグルはその領土に25の街を建てたが、首都以外で規模が最大であったのがカラコルムであった。川沿いにあり、流通の便が良かったという理由による。
すなわち、チンギス・ハーンがカラコルムを自らの帝国の首都に定めたこの場所には、既に都市基盤があったのである。
 
ハル・バルガス遺跡は翌日に見学した。
 
イメージ 13
土器片。契丹時代(10~12世紀)。
 
イメージ 14
イメージ 15
契丹時代の窯模型。
イメージ 16
 
イメージ 17
モンゴル帝国時代の貴人層のゲルの移動模型。
30分余り見学して、退館。12時を過ぎ、昼食を摂ったあと、西のアルハンガイ県ツェツェルレグ方面へ向かった。

モンゴル アルハンガイ県 ツェツェルレグ ボルガン山 アルハンガイ県立博物館

$
0
0
イメージ 1
ホーショール。
201477日(月)。12時頃、ハラホリンのハラホリン博物館見学を終え、西のアルハンガイ県へ向かうことになったので、ハラホリンで鄙びた食堂に入り、昼食を食べた。
ホーショールとは揚げ餃子のことで、中の肉は羊なので不味い。
スーテイ・ツァイというミルクティーは食事には付き物なのだが、薄いミルクという感じで、じきに飽きてしまうのだが、強制的に大量に飲まされることになる。
 
イメージ 2
アルハンガイ県への道中。オルホン川の向こうに、エルデニ・ゾー僧院が見えている。
 
イメージ 3
アルハンガイ県への道中。羊の横断。
 
イメージ 4
アルハンガイ県への道中。ハラホリンはウブルハンガイ県にあり、その北西にアルハンガイ県がある。これが何かは分からないが、県境の標識ポイントかもしれない。
 
イメージ 5
アルハンガイ県への道中。県境の標識ポイントらしき場所の風景。岩山の下に道路が走り、その横にゆったり川が流れ、牛が水を飲んでいる。川の先の赤い屋根の建物はレストランである。何故分かるかというと、何とその奥にかすかに見えるゲルが本日の宿となったからである。
 
ところで、ハラホリンツアーを依頼したとき、地球の歩き方のコピーを示して、エルデニ・ゾー僧院、ホショーツァイダム博物館、ハル・バルガス遺跡のほかに、ツェンケル温泉も依頼したのだが、あいまいなままだった。
ツェンケル温泉はアルハンガイ県の県都ツェツェルレグから東南へ約28㎞、車で1時間半と書いてあるので簡単に行けそうなのだが、打ち合わせ時点で難しそうだった。
前日宿泊した夜のゲルで、運転手に行けないのかと尋ねると、泥濘がひどく、迂回しても四駆でなければ無理という。車が二駆では仕方がない。しかし、日本人経営の宿は、ツェツェルレグまで有料送迎すると書いてあることを説いたが、一向に話が通じなかったので諦めた。温泉の1ページ前に記載されていたのが、アルハンガイ県立博物館とタイハル岩だったので、その二つを見学することになったようだ。
 
イメージ 6
アルハンガイ県の県都ツェツェルレグ。県都だけあって、さすがに近代風の民家が密集している。
 
イメージ 7
ボルガン山。ツェツェルレグの北にそびえる岩山で、標高1980m。町を見下ろす南東側斜面の中腹に大仏が建てられている。
門から長い階段が登り、山の麓に僧院らしき建物が見えている。
門の近くに、アルハンガイ県立博物館がある。
 
イメージ 8
アルハンガイ県立博物館。ツェツェルレグ。入口。入口の建物を出た右の小さい建物に受付のおばさんがいた。
 
イメージ 9
アルハンガイ県立博物館。今は博物館だが、元々はエルデニ・ゾー僧院と同じ1586年にモンゴルの高僧ザヤ・ゲゲーンのために建てられた寺で、ツェツェルレグはこの寺を中心とした門前町であった。
1937年の仏教弾圧により多くの寺院が破壊されたが、残った寺院を博物館とした。
内部の展示はこの地方の民俗を紹介している。
 
イメージ 10
オオカミの石碑。博物館の中庭に展示されている。582年建立。雌オオカミが人間の乳児を育てている姿を上部に表現し、突厥の祖先はオオカミだったという始祖神話を記念している。
中部アルハンガイ県のブガットで1956年に発見された。
 
イメージ 11
オオカミの石碑。下部。ソグド文字により、突厥時代の王、ニヴァル(527年)、ブマン(552年)、ムクハン(552~572年)、タスパル(572~581年)の事績が刻まれている。
このあと、街外れの樹林帯の坂道を下って、タイハル岩へ向かった。

モンゴル  草原のゲルに泊まる タイハル岩

$
0
0
イメージ 1
タイハル岩。
201477日(月)。アルハンガイ県の県都ツェツェルレグから峠越えをして、樹林帯の坂道を下って草原帯を走り、本道から右へ逸れると、ツーリストキャンプが並び、さらにその先にタイハル岩が佇立しているのが見えてきた。
人気観光地らしく、家族連れの車が10数台ほど駐車していた。入場無料で係員もいない。観光客相手の地元民が待っているだけだ。柵の前に駐車して、タイハル岩に近づいていった。
 
イメージ 2
タイハル岩。高さは約26m。BC
6000年頃から、シンボルや動物が刻まれている。文字もチベット文字、古モンゴル文字、契丹文字、ウイグル文字、満州文字、漢字、ルーン文字が刻まれ、年代的にも突厥時代からの歴史的人物が言及されている。
 
イメージ 3
タイハル岩。現在見られるものは、20世紀半ば以降の観光客の落書きが多い。岩の頂上付近まで落書きされているので、登って書いたということだろう。裏側に登り易いルートがあって、少し挑戦してみたが、ケガをするわけにいかないので、諦めた。
 
イメージ 4
タイハル岩。仔馬(ロバかも)とヤクがチョイ乗り用に用意されている。
 
イメージ 5
タイハル岩。仔馬でタイハル岩を一周した。2000
Tg
 
イメージ 6
タイハル岩。ヤクに乗ったのは初めてだった。1000
Tg
16時30分頃となり、やや暗くなってきた。本日の見学はここまで。車はツェツェルレグへ戻り、さらにハラホリン方面へ進み、昼に休憩した県境の岩と川のそばの現住ゲルへと辿り着き、今夜の宿とすることになった。全て、運転手まかせである。
 
イメージ 7
ゲル。何もやることがないので、伝統服を着せられた。羊毛製と思われ、大きい、厚みがあるので暖かい。
.
イメージ 8
ゲル。ストーブを焚くぐらいなので、温度は低い。朝の気温は13度だった。ベッドに運転手持参の寝袋を敷いて寝た。反対側のベッドには住人が寝る。
宿泊料は1万5千Tg(約830円)。運転手は車の中で車中泊。トイレは草原の窪地。夜間は犬が見張っているので、外に出るなと注意された。
 
イメージ 9
食事。夕食は道路沿いのレストランで、野菜と羊肉の炒め物。上等な食事である。ここは幹線道路なので食堂があるが、ある方が珍しい。残念ながら、食堂にはトイレはない。街中の食堂にはトイレはあるが、ゲルで生活しているような地帯では食堂はない。あってもトイレは用意されていない。あっても、中国式厠。
 
イメージ 10
現住ゲル。オートバイや乗用車が乗り物になっている。幹線道路に近いということもある。家族はおばあさんから幼児まで8人ほどだったか。
 
イメージ 11
仔牛。子供たちが面倒を見ていた。
 
イメージ 12
羊の群れ。これが、この家族のメインの家畜。
 
イメージ 13
柵の中の羊たち。立っているのも座っているのもいる。子供たちが羊の群れを移動させていた。
オオカミはいるとのこと。
 
イメージ 14
草原。道路の反対側にも川が流れていて、夕方は子供たちが近くで遊んでいた。
 
イメージ 15
朝のゲル。衛星テレビはどの現住ゲル住民も持っていて、夜の1時間ほど家族で見ていた。
 
イメージ 16
ゲルの食事。パンは購入したものをストックしているようだった。パンに付けて食べるのが、乳製品のウルムで、これが定番の朝食スタイルである。不味くはないが、それほど食べたいものではなかった。
運転手が、車に飲料水タンクを載せているので、歯磨き用や顔を洗うために使用した。住民が用意していることもある。
7月8日(火)。9時頃、ゲルを出てハラホリンへ向かった。
 
イメージ 17
草原の中の御馳走。牛の胴体を鳥がついばんでいた。
 
イメージ 18
ハラホリンとオルホン川。たしかに、この辺りは水が豊かで、遊牧民には生活しやすかったことが分かる。
 
イメージ 19
ハラホリンのナーダム会場。音楽が聞こえて、馬が走っている様子が見えていた。町の西外れが会場となっていた。地方のナーダムの開催時期はウランバートルの中央ナーダムの前後に分散している。
 
イメージ 20
ハラホリンとオルホン川。
 
イメージ 21
ボーズ。肉餃子。12時頃、ハラホリンのレストランで。羊の肉なので、豚肉に慣れた舌には不味く感じる。8個で5500
Tg
 
イメージ 22
エルデニ・ゾー僧院。僧院の西の道路を通り、北東方向のホショーツァイダム博物館へ向かった。

モンゴル 世界遺産「オルホン渓谷の文化的遺産」 ビルゲ・ハーン碑文、キョルテギン碑文 ホショーツァイダム博物館  

$
0
0
イメージ 1
 
ホショーツァイダム博物館。ハラホリン(カラコルム)近郊。20147月8日(火)。世界遺産「オルホン渓谷の文化的遺産」の見所の一つであるホショーツァイダム博物館はハラホリンの北東約40km、オルホン川東岸にあり、8世紀の第二突厥王国のビルゲ・ハーンとキョルテギンの霊廟が営まれた中間地点に建設され、オルホン碑文ともよばれる有名なビルゲ・ハーン碑文、キョルテギン碑文の実物を中心とした資料を展示している。
 
イメージ 2
ホショーツァイダム博物館。2000~03年のモンゴル・トルコの共同発掘調査に基づいて博物館が建設されたようだ。突厥などのトルコ系モンゴル帝国を自らのルーツとしているトルコ共和国が援助して調査を行い、ハラホリンからこの博物館に至る約45kmの舗装道路も建設したという。
 
イメージ 3
ホショーツァイダム博物館。舗装道路が通じているためか、韓国人団体客がいた。モンゴル人はまばらである。日本人は私一人であった。
 
イメージ 4
ホショーツァイダム博物館。ロビー。内装や展示は日本が関与したハラホリン博物館の方が垢抜けている。
 
イメージ 5
ビルゲ・ハーン霊廟模式図。
 
イメージ 6
ビルゲ・ハーン霊廟。推定模型。門、亀趺、霊廟が直列に並び、石人や山羊などの動物像が各所に置かれている。
 
イメージ 7
ビルゲ・ハーン霊廟跡出土の王冠。
ビルゲ・ハーン(ビルゲ・カガン、毘伽可汗)(在位716~734)は東突厥第二可汗国期のハーンである。
東突厥は、582年に突厥が東西に分裂した際の東側の勢力で、第一可汗国期、唐による羈縻(きび)支配下期、682年に始まり744年にウイグル(回紇)に滅ぼされるまでの第二可汗国期に分けられる。
突厥王族阿史那氏のクトゥルグ(骨咄禄)は682年に唐から独立、モンゴル高原の聖地ウテュケン山(カラコルム周辺)を奪還して、イルテリシュ・カガンと名乗った。イルテリシュ・カガンは690年に病死し、その子の默棘連はまだ幼かったので、弟の默啜が後を継いでカプガン・カガン(在位690頃~ 716年)と号し、しきりに中国の北辺へ侵入し、略奪をおこなった。696年には唐の則天武后に領土と農民などを要求するなど、各地を攻略したが、716年に戦死した。
後継者をめぐりカプガンの直系と初代のイルテリシュ・カガンの子たちの間で対立し、結局後者の兄弟が勝利を収め、兄の默棘連が即位してビルゲ・カガン(毘伽可汗)と号し、即位に重要な軍事的役割を果たした弟のキョルテギン(闕特勤)を左賢王に封じ、東突厥軍の兵馬を統帥させた。
 
開元8年(720)突厥軍が唐の北辺を侵略したため、唐の玄宗は契丹など周辺の諸民族とともに攻囲しようとしたのに対し、ビルゲ・カガンは機先を制して攻撃の芽を摘んだ。
唐に対しては、その後略奪から交易を重視するようになり、玄宗から毎年国境で大量に絹馬交易をおこなう許可を得ている。
開元22年(734年)、ビルゲ・カガンは大臣の梅録啜に毒を盛られるが、すぐには死ななかったので、梅録啜を斬り、その一味を滅ぼしたうえで死んだ。国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。
 
イメージ 8
ビルゲ・ハーン碑(左)とキョルテギン碑(右)。
 
イメージ 9
ビルゲ・ハーン碑。表面(東面)には突厥文字(テュルク語)で初代ブミン・カガンからビルゲ・ハーン、キョルテギンまでの歴史が刻まれている。
 
イメージ 10
ビルゲ・ハーン碑。冒頭に近い部分にみえる一節は、突厥可汗国の建設を描く。
上に蒼色なる天、下に褐色なる地の創られしとき、二つの間に人の子生まれたり。人の子の上に、我が祖宗ブミン・カガンとイステミ・カガンと坐したり。(この二人)坐して、突厥の民の国と法とを保ち終えたり、造り終えたり。四方すべて敵なりき。(彼ら)軍旅ひきいて、四方なる敵をすべて奪いたり、すべて服せしめたり。
これにつづけて、「その後の可汗、重臣たちの「無知」、首長と民衆との争い、それらにつけ込んで中国の弄した策略などのため、第一可汗国が瓦解して突厥諸族が唐の羈縻(きび)支配に服するに至ったこと、そこからイルティリシュ・カガンによって突厥が再興されたこと、などを描き、イルティリシュ・カガン時代からビルゲ・カガン、キュル・テギン兄弟の死に至るまでの彼らの功績を、それぞれの年齢、または十二支獣紀年によって編年して記し、彼らがいかに「賢明」で「勇気ある」「猛き」遊牧騎馬民族の英雄であったか、そして「死すべかりし民」を「生かし養い」、「裸の民」を「衣服持てる者」とし、「貧しき民」を「富裕」たらしめるのにどれほど力を尽くしたか、を讃えている。
 
イメージ 11
ビルゲ・ハーン碑。裏面(西面)には唐の玄宗から贈られた漢文が刻まれている。
 
イメージ 12
キョルテギン碑。キョルテギンは731年に亡くなった。高さ335㎝、幅は東・西面が132㎝、北・南面が46㎝。東面には突厥文字で40行、北・南面にはそれぞれ13行の文が刻まれている。
3面はビルゲ・ハーンの孫のヨルギテギンが刻み、西面は玄宗の甥の張将軍が刻んだ。
東面の表面にはチュルク系民族の象徴と信じられていたヤギのシンボルがあり、上部にはオオカミが突厥族の始祖である子供を育てている姿が彫刻されている。
落雷により、西面と北面の一部が欠けている。
 
イメージ 13
キョルテギン碑。東面には突厥文字で40行の文が刻まれている。始祖から初期のカガンの事績、当代の隆盛を記し、カガンたち英雄の死にさいしては、チベット、ビザンツ、中国、キルギスなどから弔問を受けたと記す。
 
イメージ 14
キョルテギン碑。北面には各地を転戦したキョルテギンの戦績を記している。
 
イメージ 15
キョルテギン碑。裏面(西面)。故闕特勒之碑。「闕特勤」の誤記とされる。
 
イメージ 16
キョルテギン碑。裏面(西面)には唐の玄宗から贈られた漢文が刻まれており、キョルテギンの優れた人格や平和の重要性が讃えられている。
大唐開元廿年(732年)の文字が見える。 のちに2行の突厥文字が追刻されている。
闕特勤が死去したため、玄宗は詔で金吾将軍の張去逸,都官郎中の呂向に勅書を持たせて弔問に赴かせ、同時に闕特勤のために石碑[3]を立てさせ、玄宗自ら碑文を書いた。また、祠廟を立て、石像を作り、周囲の壁には闕特勤の戦陣の状景を画かせた。
 
イメージ 17
ビルゲ・ハーン碑の亀趺台座。
 
イメージ 18
キョルテギン碑の亀趺台座。
 
イメージ 19
キョルテギン碑の旧状写真。
博物館の見学後、博物館の南東約800mにあるビルゲ・ハーン霊廟跡と北西約800mにあるキョルテギン霊廟跡を見学した。

モンゴル 突厥帝国遺跡 ビルゲ・ハーン霊廟遺跡 キョルテギン霊廟遺跡 ホショーツァイダム博物館

$
0
0
イメージ 1
黄金製装飾品。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。ホショーツァイダム博物館。ハラホリン近郊。6~8世紀。
20147月8日(火)。
 ホショーツァイダム博物館の続き。
 
イメージ 2
黄金製耳飾り。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 3
銀製カップ、ポット。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
                       
イメージ 4
銀製動物形装飾品。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 5
石人。ビルゲ・ハーン、キョルテギン霊廟遺跡。
 
イメージ 6
屋根瓦。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 7
排水管。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 8
石室。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 9
石室の壁。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡出土。
 
イメージ 10
発掘風景
 
イメージ 11
発掘風景
 
イメージ 12
出土品。トルコ、モンゴル共同調査。
 
イメージ 13
石人
 
イメージ 14
石人
 
イメージ 15
ビルゲ・ハーン霊廟遺跡。ホショーツァイダム博物館の南東約約800mに位置する。
 
イメージ 16
ビルゲ・ハーン霊廟遺跡。霊廟礎石と入口の門。左奥にホショーツァイダム博物館。
 
イメージ 17
ビルゲ・ハーン碑文石碑。複製。ビルゲ・ハーン霊廟遺跡。敷地は門と塀で囲まれている。入口の門は見学者が開けて自由に入ることができる。
 
オルホン碑文石碑の存在は13世紀の歴史書にすでに言及されていた。1772年にはスエーデン人が報告、19世紀末にはロシア人学者、フィンランドの学会、ロシア人トルコ語学者などにより報告された。
突厥文字の解読は1893年デンマーク人トムセンにより成された。彼は頻繁に出現する「テンリ(カガン)」という単語を解読したのを手始めに「テュルク」、「キョルテギン」などの単語の解読に成功した。
突厥碑文の重要性はトルコ系言語で最初にトルコ系民族を表す「テュルク」という単語の存在を証拠立てたことにある。さらに、トルコ系民族出現期の民族、国家、生活文化、闘争、習慣などの解明の端緒となっていることも重要である。
突厥遺跡はトルコ民族のルーツに関わる遺跡であるため、現トルコ共和国は突厥関係遺跡の発掘・調査・保存に全面的に援助を与えている。
 
イメージ 18
キョルテギン霊廟遺跡。ホショーツァイダム博物館の北にある。入口の門から自由に入れる。
 
イメージ 19
キョルテギン碑文石碑。複製。
 
イメージ 20
キョルテギン霊廟遺跡
遺跡の見学を終え、次にウイグル帝国の首都であったハル・バルガス遺跡へ向かった。ハル・バルガス遺跡は歩き方の地図によると、オルホン川の向こう岸すぐ近くにあるので、ここから行けるのではないかと思い、その旨を運転手に話したが、15分ほど話しても全く噛み合わなかった。オルホン川には橋がないので、ハラホリンに戻って、ムンフスール・ゲストハウスで地元ガイドを便乗させて向かうことになった。

モンゴル ウイグル(回乞)帝国の首都ハル・バルガス遺跡 

$
0
0
イメージ 1
8~9世紀ウイグル(回乞)帝国の首都ハル・バルガス遺跡。ハラホリン(カラコルム)近郊。
 
20147月8日(火)。
ホショーツァイダム遺跡からハル・バルガス遺跡へ向かうには、ハラホリンへ一旦戻って、ツェツェルレグ方面への道路を辿らねばならない。歩き方には、オルホン川を挟み反対側の西岸にあるというので、オルホン川を渡れば行けるように思っていたが、違った。
ハラホリンの2日前に泊ったムンフスール・ゲストハウスに寄り、従業員の地元ガイドを便乗させて向かうことになった。
ハラホリンのオルホン川に架かる橋を渡って、ツェツェルレグ方面への幹線道路を10kmほど進むと、看板も標識もない場所から北東へ草原の中の轍だけの道を走っていった。
30分近く走ったところで、ようやくハル・バルガス遺跡が彼方に姿を現した。
遺跡の北西に駐車し、城壁跡の土手を乗り越えて、遺跡内に入った。私たち3人の他に、人の気配はなかった。
 
イメージ 2
ハル・バルガス遺跡。城壁内中央北の宮殿跡とされる小高い丘。
ハル・バルガス遺跡はオルドゥ・バリク(宮殿の町)ともよばれ、ウイグル帝国の第3代君主であるブグ(牟羽可)汗(在位759779年)によって建設された都城である。
ウイグル帝国は突厥帝国を滅ぼしたチュルク系部族のウイグル部族が建国したモンゴル高原を主な領域とした遊牧国家である。
オルホン川北部に接するセレンゲ川北岸に第2代モユンチョル可汗が建設した都城の「バイバリク」から、本拠地を移した。ハル・バルガスは840年にキルギスに侵攻されて破壊され、ウイグル帝国は滅亡した。
 
イメージ 3
ハル・バルガス遺跡。城壁内中央北の宮殿跡とされる小高い丘。
宮殿は木造の美しい建物であったが、陥落の際に焼失した。
高さは約20mほどあり、東側に付けられた坂道から頂上へ登ることができる。
 
イメージ 4
宮殿跡の頂上。オボーがあり、木の枝とハダクが巻かれている。
 
イメージ 5
宮殿跡の頂上から。南側。左がオルホン川方向。中央がハラホリン方向。
城郭址は東西に長い長方形で、420m×335mの広さ。城壁の高さは約7mで、東南部の突出部は高さ約12m
 
イメージ 6
宮殿跡の頂上から。北東方向。
 
イメージ 7
宮殿跡の頂上から。東方向。オルホン川の流れが見える。
 
イメージ 8
宮殿跡の頂上から。南西方向。南西端には土塁で囲まれた方形の城郭跡が残る。
 
イメージ 9
宮殿跡の頂上から。南方向。中央部には建物基壇の跡が残る。
 
イメージ 10
宮殿跡。壁穴が穿たれており、風化による崩壊が心配される。
 
イメージ 11
宮殿跡。中段から南西角の城郭跡を見る。
 
イメージ 12
宮殿跡南の建物基壇跡。陶器の破片が散乱している。
城内で発見された軒丸瓦の文様は唐代に典型的な蓮華文で、中国人職人の関与が想定されている。
 
イメージ 13
南西の城郭跡から宮殿跡方向を眺める。
 
イメージ 14
南西の城郭跡から北方向へ城内の中央から北の部分を眺める。
 
イメージ 15
西側の城壁上部。西下の道路を進み、北西部に駐車した。
 
イメージ 16
西側の城壁上部。西洋人らしい若い男女が見学に来ていた。車は見ていない。
 
イメージ 17
西側の城壁から西方向への眺め。都城の西側約25k㎡に町があったという。
 
イメージ 18
南西隅の城壁から東側の眺望。城郭址から南に数㎞にわたって市街区が広がり、都市と上層部の定住化という従来の遊牧国家にはみられない現象が起こっていたという。
城外の南には巨大な石碑の断片が散乱しており、碑文は突厥文字による古テュルク文、漢文、ソグド文の三体で記されているという。
 
イメージ 19
南西隅の城壁。発掘調査中の区画がある。
 
イメージ 20
西側の城壁の下部にも調査中の区画があった。
 
イメージ 21
西側の城壁下部の調査中の区画。排水路のようなものか。
運転手と現地ガイド。ガイドには短時間なので5000Tgを支払った。
 
イメージ 22
西側の城壁。高さ約10mほどはある。
 
イメージ 23
西側の城壁。
 
イメージ 24
仏塔らしき遺構。
高校世界史で出てくる回乞の首都跡を実見し、その場に立つことができて感動した。
17時から40分ほど見学し、ハラホリンのゲストハウスへ向かった。

テスト

メキシコ個人旅行24日間 

$
0
0
イメージ 1
1111日(火)。メキシコシティー。近代美術館。フリーダ・カーロ画「二人のフリーダ」。
メキシコを20141110日(月)から123日(水)まで個人で旅行した。中南米は初めてだ。マチュピチュが目的だが、スペイン語の習得ができないままで過ぎた。メキシコなら、英語が通じやすいので、入門に良いと数年間考えていた。メキシコの旅行適期は11月の乾期から始まるので、この時期として、720日頃から、地球の歩き方などを参考に検討を始めた。3週間程度を期間とし、類似した世界遺産は省くことにして、目的地と行程を決め、航空券をネットで探した。
直行便のアエロメヒコを探すと、提携代理店経由が最安価格だったので、7月末に153,780円で購入した。
 
イメージ 2
1114日(金)。カンクン近郊。トゥルム遺跡。
 
メキシコシティー及び周辺、ユカタン半島方面、中央高原方面に分けて行程をほぼ決定し、移動など不安なユカタン半島を前半にすることにした。最初の2日間をメキシコシティーとして、バス予約を試みるなどとし、1114日にメキシコシティーからカンクンへ飛んで、バスでメキシコシティーへ戻る行程とした。ネットで探すと、ボラリス航空が安かったので8月初めに11391円で予約した。
その後10月下旬に、数冊の本を読んで、行程を微調整した。11月初めから宿泊を確定させる気になった。歩き方にメキシコシティーとカンクンに日本人宿が記してあるので、利用することにした。メキシコシティーは「サンフェルナンド館」を拠点とし、カンクンは「カサ吉田」とし、メールで予約した。残りの宿泊地はYHを優先し、ない所はネットで探して予約した。ホテルズコムは10泊で1泊無料になるのを考慮し、115日までに、全宿泊を予約した。
バスは閑散期なので、現地で何とかなると思い、無理に日本で探すことはしなかった。
メキシコシティーは結構分量が多く、6日ほどかけることとした。世界遺産ルイス・バラガン邸はメールで予約をしたが、返事がなかったので、直接押しかけて見学した。
 
旅行費用は宿代が123千円台で、あとはバス運賃が高くなったが、航空運賃を含んだ合計で33万円程度。
 
イメージ 3
1115日(土)。カンクン郊外。世界遺産「チチェン・イツァー遺跡」。
 
イメージ 4
1116日(日)。メリダ郊外。世界遺産「ウシュマル遺跡」。
 
イメージ 5
1117日(月)。チアバス州。世界遺産「パレンケ遺跡」。
 
イメージ 6
1118日(火)。オアハカ。世界遺産「モンテ・アルバン遺跡」。
 
イメージ 7
1119日(水)。オアハカ郊外。「ミトラ遺跡」。
 
イメージ 8
1120日(木)。ベラクルス港。
 
イメージ 9
1121日(金)。パパントラ。世界遺産「エル・タヒン遺跡」。
 
イメージ 10
1122日(土)。メキシコシティー。世界遺産「ルイス・バラガン邸」。
 
イメージ 11
1123日(日)。メキシコシティー。フリーダ・カーロ博物館。
 
イメージ 12
 
11
23日(日)。メキシコシティー。レオン・トロツキー博物館。暗殺現場。
 
イメージ 13
1125日(火)。世界遺産「サカテカス歴史地区」。
 
イメージ 14
1126日(水)。グアダラハラ。ハリスコ州庁舎。壁画「立ち上がる僧侶イダルゴ」。
 
イメージ 15
1127日(木)。世界遺産「グアナファトと銀鉱群」。
 
 
イメージ 16
11
29日(土)。プエブラ。サントドミンゴ教会ロサリオ礼拝堂。
 
イメージ 17
11
29日(土)。チョルーラ。トラチウアルテペトル遺跡。
 
イメージ 18
1129日(土)。チョルーラ。トナンツィントラ・サンタマリア教会。
 
イメージ 19
11
30日(日)。アカプルコ。支倉常長銅像。
 
イメージ 20
121日(月)。クエルナバカ。カテドラル。長崎26聖人殉教壁画。
 
イメージ 21
121日(月)。メキシコシティー近郊。世界遺産「テオティワカン遺跡」。

モンゴル ハラホリン 馬頭琴コンサート ホーミー オボー

$
0
0
 
 
 
 
 
イメージ 1
ハラホリンから帰る乗馬者。
20147月8日(火)。ハラホリンの北西にあるハル・バルガス遺跡からムンフスール・ゲストハウスへ帰った。ハラホリンへ近づくと乗馬で帰る途中の人たちが目に付いた。
ハラホリンで地方ナーダムが開催されているので、見学者であろう。
 
イメージ 2
ハラホリンの北の街外れを流れるオルホン川と橋。水量は多く、古代から営住地として適していたことが想像される。
 
イメージ 3
ムンフスール・ゲストハウス。周囲には柵が廻らされ、夜間は犬が警戒している。典型的なツーリスト用のゲル式宿泊施設。
1日目にも泊まったが、今夜は宿泊者が多かった。
指定されたゲルに入ると、20歳台後半の女性がいて、韓国人と名乗った。同行者で米人とカナダ人の男性が2人いて、米人は恋人で、もう一人は英会話学校の教師仲間。女性は恋人の生徒であった。
食堂へ行き、3人と同席。恋人の男性はメキシコ人のクオーターだという。しばらく、雑談をした。
 
イメージ 4
ムンフスール・ゲストハウス。施設内にはテントが1張張ってあった。欧米人男性が泊まっているようだった。テント持参旅行の欧米人は世界各地にいるが、ここにいるとは意外だった。料金は格安だろう。
 
イメージ 5
ムンフスール・ゲストハウス近くから眺めるエルデニ・ゾーの夕焼け。21時頃。
このゲストハウスはエルデニ・ゾーの南400mにある。
 
イメージ 6
ムンフスール・ゲストハウス。食堂での馬頭琴コンサート。2日前と同じ老人に男女2人が加わり豪華になった。男性はホーミーが歌える。
 
イメージ 7
ムンフスール・ゲストハウス。馬頭琴コンサート。21時頃から始まっていたようだが、私は21時30分頃に入室した。10人ほどの客がいた。
老人の弾く楽器は琴に似ている。
 
イメージ 8
ムンフスール・ゲストハウス。馬頭琴コンサート。この男性がホーミーを歌った。
 
イメージ 9
ムンフスール・ゲストハウス。馬頭琴コンサート。終了後、6000トゥグリクを徴収し始めた。私も払おうとしたが、ガイドが必要ないと言ったので払わなかった。2日前に払ったからなのか。
 
イメージ 10
ムンフスール・ゲストハウス。馬頭琴コンサート。老人はバーサンドルジュという名前で、地球の歩き方に紹介されていたと、見せてくれた。
 
イメージ 11
ムンフスール・ゲストハウス。馬頭琴コンサート。東京で製作したCDの曲名。買ってほしかったようだが、特に興味がなかったので、そのまま返した。
 
イメージ 12
ムンフスール・ゲストハウス。
7月9日(水)。右が宿泊用ゲル。左が駐車場。
8時頃、ウランバートルへの帰途につく。
 
イメージ 13
道路脇の仏教施設。オボーのようでもある。
 
イメージ 14
道路脇の仏教施設。マニ車があるのでチベット仏教か。
 
イメージ 15
道路脇の仏教施設。ゾウ、サル、ウサギ、タカ。いったい何を表しているのだろう。
 
イメージ 16
途中の昼食。羊肉中心でうまいものではない。
 
イメージ 17
道路脇のオボー。シャーマンらしき像。
 
イメージ 18
ウランバートルのナサン・ゲストハウスへ到着。ガイド兼運転手のインケ。チップ1万トゥグリクを渡した。
ウランバートル市内の渋滞は激しかった。15時45分頃帰着。
7月11日からナーダムが始まる。

モンゴル軍の行進 ナーダム前日のリハーサル

$
0
0
 
2014年7月10日(木)。ウランバートル。翌11日からモンゴル最大の祝典ナーダムが始まる。泊まっているナサン・ゲストハウスからナーダムの軍隊出発式会場となるスフバートル広場までは徒歩3分ほどの距離にある。
朝はゆっくり起き、市内のいくつかの博物館などを見学することにして、まず、9時45分頃、北200m余りにあるという自然史博物館に着いたが、様子がおかしい。入口が開いていない。作業員が数人いて、不思議そうな顔をしている。入口付近に貼り紙があり、改装中のため閉館しているようだった。
 
交差点からスフバートル通り沿いに南へ歩くと、士官が乗った軍隊のジープに遭遇した。スフバートル広場付近へ向かうと見物客で黒山の人だかりができていた。
 
イメージ 1
10時頃、広場を眺める位置に来ると、各種装備の兵隊が整列していた。
 
イメージ 2
翌日のナーダムのために、リハーサルをしていたのである。
 
イメージ 3
事前にネットでナーダムを検索した時に、前日に練習があるという記事を見たので、これかと思った。
 
イメージ 4
モンゴル帝国時代の騎馬兵に似た軍服の兵士もいる。
 
イメージ 5
10時15分ごろに、兵士たちは、広場を出てスフバートル通りを行進しだしたので、通りへ戻り、撮影できる位置を確保して撮影した。
 
イメージ 6
各種兵装を見ることができる。
 
イメージ 7
女性兵士は膝上のミニスカートだった。
 
イメージ 8
いかにも、実戦部隊。
 
イメージ 9
やはり、軍旗が中心になっている。
 
イメージ 10
モンゴル騎兵風の兵装。
 
イメージ 11
10時25分頃には、行進も終わり、見物客も帰りかけた。
いったん、ナサン・ゲストハウスへ戻り、居合わせたフランス人カップルに様子を伝えるが関心はなさそうだった。
翌日のナーダム本番でも行進風景を見たが、前日のように間近で見ることはできなかったので、良い機会となった。
その後、市内東部、平和大通り沿いにあるジューコフ博物館へ向かった。

ウランバートル駅

$
0
0
イメージ 1
ウランバートル駅。2014年7月12日(土)。ナーダム会場からバスに乗り、平和通りに帰ったのは、18時頃だった。
わずかな時間だが、ウランバートル駅へ向かうことにしていた。駅までのバス路線ははっきりしている。トロリーバスのT4番で、運賃は300TG(17円)。平和通りを西へ進み、架線の分岐に沿って南へ向かい、18時30分頃駅前の終点に着いた。
駅ビルは社会主義国に共通する建築様式である。
 
イメージ 2
ウランバートル駅。プラットホーム。改札はないので自由に出入りできる。ホームの全長は長い。
単式ホーム1面、島式ホーム1面を持つ地上駅である。
西側は外の道路と広場状につながっている。列車の発着がない時間帯だったので、閑散としている。
 
イメージ 3
ホーム西側の広場寄りにSLが野外展示されていた。大陸的な重厚感のあるSLである。
 
イメージ 4
島式ホームの向かい側にはディーゼル旅客車が留置されていた。
よく見るとヘッドマークはモンゴルの紋章ソヨンボであった。
 
イメージ 5
待合室。豪華なシャンデリアが吊るされている。簡素ながら清潔感がある。
レストランも営業していた。トイレも結構豪華だった。狭い入口ホールから外に出た。
駅前広場の北のバス停から、再度T4番のトロリーバスに乗り、ノミンデパート付近で降りて、翌日からのツアーに備えて飲み物を購入して、ナサン・ゲストハウスへ帰った。
 
イメージ 6
ナサン・ゲストハウス。キッチン・ダイニング。ラーメンやスパゲティ程度の自炊は簡単にできる。
翌13日からは17日まで5日間のダダル方面へのツアーが始まる。

モンゴル 草原の道 川の渡渉 ダダル方面へのツアー初日 

$
0
0
イメージ 1
事故現場のUAZ。2014年7月13日(日)。17日まで5日間のモンゴル北東部のチンギス・ハーン生誕伝承地ダダル方面へのツアーが始まる。
8時30分頃、ナサンさんの部屋で打ち合わせをした。運転手兼ガイドはハラホリンで同行したインケの父親ということだったが、部屋に入るとインケに似た青年がいた。インケの兄で、彼が今回の運転手ということだった。
 
ビンデルからダダルへ行くというルートの打ち合わせをして、ツアー代金の車と運転手代として1日90ドル、計450ドルを払った。ガソリンは今回を実費として、手付金15万TGを払った。
 
使用車はロシア製の4輪ミニバンUAZである。年式は古いが、泥道に強く、メカがシンプルなので故障修理に強い車である。
 
9時頃に、ナサン・ゲストハウスを出発。ウランバートルから南東へ向かい、郊外でガソリンスタンドと売店に寄り、10時頃ナライハあたりから幹線道路を東へ左折した小さな町で事故が起きた。右のガソリンスタンドから乗用車が道路に進入してきた。私は右側の助手席に乗っていたので、様子を見ていたが、それほど異常な割り込みではなかった。しかし、運転手は左の車線へ移り、その車の横に並んだ。ハンドルを右に切って幅寄せをしたかと思ったら、さらに右に切ったので、相手の左後部へ衝突した。明らかに異常行動であった。ウランバートル市内では、無理な割り込みは当たり前なので、この程度の割り込みで頭に血がのぼって、ぶつけるとは異常性格でしかありえない。
こいつの運転でこれから5日間ドライブかと思ってしまった。私の車は500mほど先で停車し、運転手は相手の車へ行き、話し合いを始めた。私は車の中や近くにいざるを得なかった。
UAZの側面を確かめると、さすがに頑丈でかすり傷程度だったのには感心した。1時間ほどして、警察の車がきて、二人を乗せて走り去り、30分ぐらいして戻ってきた。結局2時間ほど、事故地点で足止めを食らってしまった。
しかし、先は長い。
 
イメージ 2
食事。肉うどん。ゴルタイ・シュル。16時頃。昼食とも夕食ともつかない時間だ。しかし、舗装道路がなくなり、レストランというものがなくなる最終地点ということだったのだろう。
醤油味ではなく、肉も羊なので想像よりまずい。左はツァイという飲み物で、付き物なのだが、ミルクを腹一杯飲まされ続けることになる。
 
イメージ 3
草原の道。川を渡る。モンゴルでは舗装道路は約1200kmといわれるが、それは大都市間の連絡路であり、国土全部をカバーしていない。ほとんどの道はオフロードで、舗装路を外れると、草原の中のわだちで作られた道を走ることになる。通行量が多ければわだちが重なって地面が現れた地道が続く。道標がないことが多いので、大体の方向を決めて走ることになる。
やっかいなのは川で、橋がないのが普通なので、渡渉地点を捜すことに時間がかかる。
 
イメージ 4
草原の道。川を渡る。川の水量も日々変動があるので、毎日同じ地点で渡れるわけではない。大きく迂回したりすることもあり、時間はどうしてもかかってしまう。
渡渉できるかどうかの見極め、どの方向へ迂回しれ渡渉地点を捜すのか、かなりの経験が必要だ。
草原に川は多く、ひっきりなしに、現れる。
 
イメージ 5
草原の道。17時30分過ぎ、何度目かの川を渡ったところで、川を渡ろうと停車している車と出会う。4輪ではない普通の小型車は苦しい。
モンゴルでは、こういう困ったときは車同士で助け合うのが慣習になっている。
 
イメージ 6
草原の道。運転手が川の様子を見る。
 
イメージ 7
草原の道。泥でスタックし、前輪が空転している。
 
 
草原の道。運転手を残して、他の人たちで車を押しているうちに、何とか渡ってしまった。同乗の子供たちは靴を脱いで、歩いて川を渡っていった。
 
 
 
草原の道。その後も、川に遭遇しまくる。
 
 
 
イメージ 8
草原の道。一群の馬がわだちに出来た水溜りの水を飲んでいた。放牧の馬だろう。
 
 
 
草原の道を延々と進み、20時頃薄暗くなったときに、草原の中の遊牧民のゲルを見つけ、泊まらせてもらうことになって、本日の行程が終了した。

モンゴル 草原の道 ゲルでの宿泊 ビンデルへ

$
0
0
イメージ 1
ゲルの夕食。2014年7月13日(日)。ビンデルへ向かう途中の草原の中のゲルに泊まった。宿泊ゲルの選定と交渉は運転手がやってくれる。宿代は翌日1万5千TG(830円)支払った。
20時30分にゲルに入ると、21時頃に夕食を用意してくれた。
夕食はバターとチーズでだが、ガラス瓶に入った発酵野菜が美味かった。
 
イメージ 2
ゲルの前で寝る犬。7月14日(月)。夜中は犬が警備してるので、外に出るなといわれた。6時前に起きて、外に出た。トイレはないので、草原の窪みを捜す。
 
イメージ 3
ゲルと車。ゲルには2台のベッドがあり、左側のベッドに一人で寝た。運転手は車の中で寝ている。
ゲルの左にはソーラーパネルがあり、照明やテレビの電源になっている。右にはバケツがあり、水が入っている。
 
イメージ 4
馬がいる。
 
イメージ 5
羊の群れが柵の左で寝ている。
 
イメージ 6
犬がようやく起きてゲルの周囲を回っている。
 
イメージ 7
馬の鞍とバイク。ハラホリン方面は乗用車が必ずあったが、この地方はまだ貧しいのかバイクだった。
 
イメージ 8
羊の群れ。
 
イメージ 9
朝食。バター、チーズが主だが、茹でた羊の骨つき肉が出てきた。客人への御馳走なのだが、美味いものではない。
 
イメージ 10
ゲルの家族。中学生ぐらいの娘は人懐こい。夜にウォークマンで木村カエラの「スノードーム」と「
You」のPV動画を見せた。楽しそうに見ていたが、どう感じたのだろう。
英語を勉強しているということで、母親から英語で話してみたらと促されていた。宿から出発するときに、ようやく「グッドバイ」と言ってきた。
7時30分頃にビンデルへ向けて出発した。
 
イメージ 11
草原の川。川の渡渉は何度もあった。8時30分頃に遭遇した川は川幅が広かった。珍しく橋があるが、今にも崩れそうな頼りない橋で、歩行者ぐらいしか渡れない。
川の真ん中で、停まってしまった。先ほどの川でも停まり、運転席横のカバーを開け、車の底部を工具で操作して動いたが、今回はなかなか動きださなかった。
 
イメージ 12
草原の川。写真を撮っていると、いやな顔をされた。カバーの下に川の水が流れているのが見える。それほど深くはない。昨日のスタックした車のように、裸足になって川を渡ることになるのかも知れない。と考えていると、10分ほどして動き出した。恐るべきロシア製四駆である。
11時頃、立派な橋を渡るとようやくチンギス・ハン生誕伝承地の一つヘンティー県ビンデルの町が見える地点に着いた。
 
Viewing all 1170 articles
Browse latest View live