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ウランバートル ザナバザル美術館 清朝に服属したモンゴル王家の活仏ザナバザル

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ザナバザル美術館。ウランバートル
201475日(土)。モンゴル国内旅行の手配がうまくいかないまま、宿泊していた「ゴールデン・ゴビ」へ13時頃帰ると、手配役の男性スタッフがいなかったので、徒歩10分圏内にあるザナバザル美術館と国立歴史民族博物館を見学するために外出し、まずザナバザル美術館へ向かった。場所は目抜き通りに面してして容易に発見できた。
「地球の歩き方」には、写真撮影12Tgと書いてあるので心配したが、やはり間違いで単なる写真撮影料だった。入館料と合わせ25Tgを支払って入場。客は私以外いなかった。
 
ザナバザル美術館といっても、事前知識はなく、ザナバザルとは何者かも知らなかった。しかし、帰国後、宮脇淳子「モンゴルの歴史」山川出版社「中央ユーラシア史」を読み進むと、彼を取り巻く歴史は現代中国とモンゴル・チベット問題に大きな影響を与えていることが分かってきた。
 
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ホワイト・ターラー菩薩。鍍金青銅製。
21ターラー菩薩の一つ。ザナバザル作。
ザナバザルはアジアのミケランジェロとも称され、モンゴル芸術発展に寄与した。特に継ぎ目にない鋳造技術を用いたブロンズ像はザナバザル派彫像とよばれ、仏教の哲学・美・慈悲を表象しているといわれる。
 
「地球の歩き方」にはザナバザル美術館は、こう紹介されている。「ザナバザルとは1635年にウブルハンガイ県の貴族の家に生まれたモンゴル初の活仏で、ここはその名を冠した美術館。ザザバザルは15歳のときチベットでダライ・ラマ5世に宣言され、モンゴル人初の活仏となり、モンゴルのダ・ヴィンチとよばれ、優れた仏教美術を数多く生み出した。代表作はボクドハーン宮殿博物館にある21ターラー菩薩。1318世紀頃のチベット仏教の曼荼羅や仏像も展示されている。」
 
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仏塔。鍍金青銅製。ザナバザル作。
別のネットでは、「モンゴルの初代活仏ザナバザルの作品を始め、曼陀羅画や石器時代の岩絵、壁画の模写の他、ウランバートルの西方を流れるオルホン川河畔で発見されたチュルク語最古の碑文の拓本、1318世紀のチベット仏教の美術品など多くの絵画や仏像が展示されています。ザナバザルは稀代の芸術家だった人物で、その名を冠しています。」と紹介されている。
 
美術館の中の英文紹介で、ザナバザルは北京で亡くなったと書いてあったので、どういうことかと、気になってはいた。
ザナバザルは貴族の家に生まれたという記述は間違いを起こしやすい。ザナバザルはチンギスハーンの末裔として15世紀後半にモンゴルを再統一したダヤン・ハーンの6世の孫にあたり、ハルハ部トゥシェート・ハン王家の二男として生まれたというのが、正確であろう。
 
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ザナバザル。自画像。綿下地に鉱物顔料
活仏ザナバザルはチベット仏教のモンゴルにおける最初の宗教的指導者であるとともに、政治的動乱の主体となった人物である。1686年にジュンガル部のガルダンはハルハ部を襲い、ハルハ部が清朝へ逃げ込むと、ハルハのハーンであるトゥシェート・ハンとその弟ザナバザルの身柄を求めて清の領域まで攻め込む事態となった。これに対して清朝は三度にわたる親征をおこなってガルダンを1697年に滅ぼした。これを受け、ハルハ部は清朝に服属することになった。
 
ザナバザルはジェプツンタンパ1世のモンゴルでの通称である。
ジェプツンタンパ116351723)は、ハルハ部3人のハーンの一人であるトゥシェート・ハンのゴンボドルジの子として誕生した。4歳で戒をうけジニャーナヴァジュラという僧名(梵語)を授けられた。彼に対するモンゴル語の通称のひとつ「ザナバザル」はこの名称のモンゴル訛りである。
1649年にチベットに留学し、パンチェン・ラマ、エンサ・トゥルク等に師事、1650年、ダライ・ラマ5世よりチョナン・ターラナータの転生者としての認定をうけ、1651年ハルハに帰国した。ここに化身ラマの名跡ジェプツンタンパが成立する。
ハルハ3部のうち、ジャサクト・ハン部とトゥシェート・ハン部の間が険悪となり、1680年半ばに至り、清朝の康熙帝、チベットのダライ・ラマ、オイラトの盟主でジュンガル部の首長ガルダンらが仲介し、ジャサクト・ハン部とトゥシェート・ハン部の講和をはかるフレーンビルチェール会盟1686年に開催された。
この際、ジェプツンタンパ1世がダライ・ラマの名代としてこの会盟に派遣された使者と同じ高さの座にすわったことがガルダンの激しい怒りを招いた。ガルダンは、エンサ・トゥルクの転生者としてチベットのラサにのぼり、出家してダライ・ラマ5世に師事していたので、ガルダンにとってジェプツンタンパ1世は自分の前世の弟子にすぎず、それがダライ・ラマの名代と対等に振る舞ったことは、師たるダライ・ラマを侮辱したと受け取ったのである。
 
フレーンビルチェール会盟が破れ、1687年、ジェプツンタンパ1世の兄であるトゥシェート・ハンは、ガルダンに救援を求めようとしたジャサクト・ハンを追跡して殺害、救援にかけつけたガルダンの援軍を破り、指揮官だったガルダンの弟も戦死させた。
1688年、ガルダンは弟殺害の下手人であるトゥシェート・ハンと、ダライ・ラマの名代に無礼をはたらいたジェプツンタンパ1世の引き渡し要求を目的としてオイラト軍を率いてハルハに侵攻した。
 
ジェプツンタンパ1は兄の妻子をともない、清朝の勢力圏である南モンゴルのスニト部の境界まで逃れ、清朝の保護を求めた。ジェプツンタンパの兄トゥシェート・ハンは軍勢を率いてガルダンに決戦を挑んだが敗北、清朝の領内に逃げ込み、清朝の保護を求めた。
1690年、ガルダンはトゥシェート・ハン=チャグンドルジとジェプツンタンパ1世の引き渡しを清朝の康煕帝に求めたが康煕帝は拒否、ガルダン軍は清朝勢力圏の南モンゴルに侵入、清朝軍と交戦したのち、ハルハに引き上げた。翌1691年、ハルハ諸侯が清朝への服従を誓うドロンノール会盟が開催され、ジェプツンタンパ1世もこれに参加した。
ドロンノール会盟ののち、ジェプツンタンパ1世は10年あまり北京に滞在して活動し、そののちハルハへ帰還した。1722年、康熙帝の死去の知らせを受けて再び北京を訪問した際、病の床につき、翌1723年に89歳で逝去した。
 
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仏塔。鍍金青銅製。ザナバザル作。
ザナバザルはチベットから帰国後チベットからともなってきた多数の職工によってラサのガンデン寺をモデルに寺を建立した。その寺を核に発展した街フレー(庫倫)が現在のウランバートルである。ザナバザル作と伝わる作品はザナバザル支配下の工房にいた職工が製作したと思われる。
 
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ソヨンボ。ザナバザルは
1686年にソヨンボ文字を発明し、モンゴル語を表記するだけでなく、チベット語やサンスクリット語を表記するのにも用いることができた。
このソヨンボ文字の中でも、ソヨンボと呼ばれるシンボルはモンゴル国の国家の象徴となっている。1921年から国旗に、1992年から国章や紙幣、印璽などにも使用されている。

ウランバートル ザナバザル美術館 モンゴルの先史時代

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ザナバザル美術館。ウランバートル。201475日(土)。美術館の展示は先史時代の考古資料から始まる。
 
古代モンゴル文化の最初期は、動物の姿形を簡略化・形象化して洞窟の壁に先史遊牧民が描いたものから始まる。BC2000年頃には青銅器文化が現れる。この頃に出現した鹿石は特別な価値を有し、後の文化期にも勢威を示すために造られ続けた。
 
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壁画。ビデオ放映から。
 
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青銅の大鍋(コールドロン)。青銅器時代
BC2000年。北部フブスグル県出土。
 
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鹿石。青銅器時代
BC2000年。中部出土。
鹿石の年代については、スキタイ時代とする説もあるが、鹿石にはカラスク型の短剣やπ字形製品が彫り込まれていることからカラスク時代の文化とみなすことができる。
鹿石には耳飾り、首飾り、弓矢、楯など人が身に着けるものが表現されているため、人間を表したものとみなすことができるが、鹿石が何のために立てられたのかは不明。
また、鹿石は円形あるいは方形の石囲いを伴う積石塚の近くに複数で立っていることが多い。
 
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青銅製の矢じりと長釘。青銅器時代
BC2000年。
 
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剣。青銅器時代。
BC2000年。南部ウムヌゴビ県出土。
 
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壺。匈奴時代
BC3世紀。中部トゥブ県出土。
 
「中央ユーラシア史」山川出版社、2000年。
青銅器時代の文化。
アンドロノヴォ文化BC1700年頃。南シベリア、中央アジア。
夏家店下層文化。BC1615世紀。モンゴル高原。ラッパ形耳飾り、内反りナイフ、家畜化された馬、戦車、鏡など草原地帯から商代の中国へ伝わった可能性が高い。
カラスク文化BC1312世紀。モンゴル高原。商代後期・西周時代の中国の文化と関係が深い。柄の先端に動物の頭が表現された短剣。π字形青銅製品。鹿石。
先スキタイ文化BC109世紀。草原の乾燥化が進み、草原地帯の南方では定住農耕民、北方では遊牧民が登場。騎乗が一般に普及。木の骨組みをもつテントの原型が登場。
 
スキタイ・シベリア文化圏。
スキタイ文化。南シベリアのアルジャン積石塚。BC98世紀。南シベリアから黒海北岸へスキタイ文化が伝播したという説。BC8末~7世紀に西アジアへ侵入。スキタイの三要素は馬具・武器(アキナケス剣)・スキタイ風動物文様。西はイラン系、東はテュルク系ないしモンゴル系の民族。
 
サルマタイと匈奴の時代。
サルマタイ文化BC4世紀。カスピ海北方の草原。イラン系遊牧民。
匈奴BC3世紀後半。モンゴル高原。冒頓単于による統一。冒頓はモンゴル語のバートル(勇士)を写す。漢の高祖(劉邦)を破り、貢納させる。漢の武帝による西域制覇。匈奴の衰退と分裂。
遊牧国家は不安定な遊牧のほかに農耕、交易、手工業、略奪などのため、集落や交易拠点などの定住施設を必要とした。匈奴は人間と家畜の略奪を繰り返した。のちの鮮卑・柔然・突厥や中国の遊牧民出身王朝も定住民を集団で強制移住させる政策(徙民)をとった。ノヨン・オール(ノイン・ウラ)遺跡。

ウランバートル ザナバザル美術館 突厥時代の美術

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ザナバザル美術館。ウランバートル。201475日(土)。古代資料編。
 
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騎乗者。突厥時代
7世紀。中部トゥブ県出土。粘土製。
 
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人体像。突厥時代
7世紀。中部トゥブ県出土。木製。
 
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人体像。突厥時代7世紀。中部トゥブ県出土。木製。
 
 
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仁王像。
Makhranza or Guard.突厥時代7世紀。中部トゥブ県出土。
古テュルク時代には宗教が伝播した。突厥第一可汗国の佗鉢可汗(在位572581)のときに仏教が伝来し、中部アルハンガイ県のブグトに廟堂遺跡と石碑が残る。
 
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石人。突厥時代
67世紀。中部アルハンガイ県出土。
石人の起源には定説がないが、突厥時代とされる。石人にはさまざまなタイプがあり、モンゴル高原からアルタイ、天山、カザフスタンにかけてみられる。
その一つのタイプは右手で容器をもつもので、東か南東を向いて立ち、その前から東方に低い立石が点々と並び、背後に正方形の石囲いがある。石囲いには葬送の跡が見られる。
モンゴル高原西端からアルタイにみられる両手で腹の前で容器をもつタイプは年代的にはウイグル以降の可能性がある。このタイプは石囲いや石列をともなわないため、葬儀とは結びつかず、祖先崇拝儀礼の可能性がある。
 
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寺院壁画。突厥時代
78世紀。複製。
 
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貴族の肖像画。寺院壁画。契丹時代
1011世紀。複製。
契丹4世紀から14世紀にかけて満州から中央アジアの地域に存在した半農半牧の民族で、10世紀初頭に現在の中国の北部に帝国を建国し、国号を遼と号した。10世紀に耶律阿保機が登場し、916年に唐滅亡後の混乱に乗じて自らの国を建て、国号を契丹とし、契丹国皇帝となった。
契丹は勢力を拡大して、北の女真や西の西夏・ウイグル・突厥諸部・沙陀諸部を服属させ、東の渤海や西の烏古を滅ぼした。
1004年、南下した遼と北宋は盟約を結び、北宋から遼へ莫大な財貨が毎年送られるようになった。経済力を付けた遼は東アジアから中央アジアまで勢力を伸ばした強国となった。
 
「中央ユーラシア史」山川出版社、2000年。
鮮卑。北匈奴に続いてモンゴル高原に覇を唱える。
2世紀中頃、壇石槐が首長となる。中国は後漢末で混乱。3世紀初め、兵器・文字など中国文化の流入。鮮卑や匈奴系諸族が中国へ侵入、五胡十六国時代(304439)が始まる。
高車34世紀モンゴル高原へ南下。テュルク系。西方へ移動。541年滅亡。
柔然5世紀初めモンゴル高原を支配。北魏へ侵入。
 
突厥。柔然に従属して鉄鍛冶を業としていた。
6世紀中頃、西魏と通商。552年首長が柔然を攻め、自ら伊利可汗と号す。
三代木杆可汗(在位553572)のとき領域拡大。青海の吐谷渾、東方の契丹、北方のキルギスを征服。西方ではトゥルファンなどのオアシス諸都市を支配下の納め、ササン朝ペルシャと共同してエフタルを滅ぼした(558年)。
木杆可汗はモンゴル高原中央部のウテゥケン山とよばれる聖地に本拠をおいた。叔父の西面可汗(イステミ)は中国の絹をシルクロード経由でビザンツと交易。
沙鉢略大可汗(在位581587)以降、隋に臣属する。
583年、突厥西部のイステミの子の達頭可汗が独立する。
630年、突厥東部の可汗が唐に降伏し、滅亡した。東突厥(突厥第一可汗国)の滅亡。
唐の羈縻(きび)支配が始まり、北方諸族の族長が支配される。
682年、王族一門のクトゥルグがイルテリシュ可汗となり突厥第二可汗国を復興。
カプガン可汗(在位691716)。唐に侵入。則天武后から種子と農機具を与えられる。
ビルゲ可汗(在位716734)。弟キョル・テギンが軍事権を握る。唐との交易を重視。玄宗から絹馬交易をおこなう許可を得た。
745年、ウイグルに攻略され突厥滅亡。
 
ウイグル。鉄勒諸部の一部族。廻紇、回紇、回鶻などとも称される。
744年、ウイグルの部族長・骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)がキョル・ビルゲ可汗となり、唐に遣使して懐仁可汗の称号を賜った。
745年には最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥を滅ぼしモンゴル高原の覇者となった。
葛勒可汗(在位747759)。北方と西方を征服。バイ・バリク。都城をモンゴルボルガン県のセレンゲ川北岸に建設。ソグド人と中国人を居留させ、交易の拠点とした。唐の安史の乱(755763)に介入、唐に援軍を送り、貢献。絹馬交易の拡大。
牟羽可汗(在位759779)。唐から4人のマニ教僧を連れ帰り、マニ教が広まっていく。
760年代、モンゴル中央部オルホン川西南岸に新都城を建設。オルドゥ・バリク、ハル・バルガスとよばれる。ソグド人を重用し、その勧めで大規模な唐への侵入を企てると、従兄で宰相の頓莫賀達干(トン・バガ・タルカン)が牟羽可汗とソグド人官僚を殺害し、代わりに頓莫賀達干が立って4代可汗の武義成功可汗(在位779789)となった。
7代目から可汗家がヤグラカル氏族からエディズ氏族に変わる。
都城の建設とその周辺での大規模な農耕の展開、上層部の定住、略奪から交易の重視、マニ教の導入など定住文明化が進む。
840年、ウイグル国内で内紛が起こり、北方のキルギスが12代可汗を殺し、ウイグルは滅亡した。ウイグル部族は河西や天山のオアシス地帯に移住し、新たな国家をつくった。
10~12世紀モンゴル高原は契丹(遼)の支配を受けた。

チベット、新疆、青海が中国領なのは、チベット仏教の信者・満州族皇帝のおかげ

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チベット、新疆、青海が中華人民共和国の領土となったのは、チベット仏教の信者であった満州族皇帝のおかげであったという歴史的背景がある。
 
チベット仏教世界の形成と展開。石濱裕美子
「中央ユーラシア史」山川出版社、2000年。
 
仏教と王権は深い関係を有している。チベット仏教が伝播した地域チベット、モンゴル、満州は政治的、文化的に緊密な一体性があった。
菩薩思想と王権が結びつき菩薩王思想が生まれた。菩薩が化身して転輪聖王になる。菩薩は修行により仏の境地を得た者なので、理論上は複数人が同時に出現することが可能である。複数の菩薩王がそれぞれの王国に君臨し、全体として一つのまとまりをもつ複眼的世界像を生み出す。
 
菩薩王の例として、古代チベットのソンツェンガンポ王、モンゴルのクビライ・カアンとアルタン・ハーン、清朝の康熙帝と乾隆帝がある。
 
古代チベットのソンツェンガンポ王581649)。仏教を導入。7世紀のチベット高原に君臨。吐蕃。古代中央ユーラシア最強の国家。安史の乱に長安を占領。8世紀後半から敦煌を支配下に収める。
 
チベットの仏教教団は特定の氏族を施主に戴き、教団はその氏族の影響下にあったが、13世紀ころからカルマ・カギュ派に寺院財産を前任者の転生者に寺院財産を相続させる方式が広まり、氏族は教団に対し劣勢となっていく。
 
クビライ12151294)。チベットの高僧パクパを国師に任命。大都(のちの北京)の崇天門の金輪は転輪聖王の最高位である金輪王を示す。
 
アルタン・ハーン15071582)。ゲルク派の化身僧ソナムギャツォにダライラマという称号を献じた。実質的には初代であったが、三代目の転生者であったためダライラマ三世と称す。アルタン・ハーンも転輪聖王号をダライラマから授けられた。陰山の南にチベットの大昭寺をモデルにした寺を建立した(のちのフフホタ)。アルタンは前世の記憶を蘇らせて自らがクビライの転生者であると自覚したと年代記に記される。
 
転生思想とモンゴル社会。アルタン・ハーンの時代にもチンギス・ハンの直系を名乗るチャハル王家が存在していたが、当時のモンゴルにおいて、チンギス・ハンやクビライの権威に比して微々たるものであった。輪廻思想では祖先と子孫が同時に在世することを可能にする。アルタン・ハーンをクビライの転生者と認める者にとっては、アルタン・ハーンの権威はチャハル王家の権威をしのいだ。従来チンギス・ハンの血筋の遠近で権威の高下が生じていた価値観を、過去世の貴さの程度で権威の高下が生じる価値観に変えていった。
 
チベットの高僧がモンゴルの王家に転生するというパターンが繰り返され、チベットとモンゴルの社会は急速に一体化を進めた。
モンゴルにおいても、世俗が超俗に従属し、世俗勢力は宗教的権威を支持するか一体化することによってしか権力を握れない社会に変質していった。
17世紀中頃以降、ダライラマ5世の権威はチベット、モンゴル、満州などのチベット仏教世界を制した。ダライラマ5世はモンゴルの王侯たちにハーン号を授与した。
 
仏典において文殊は東方を司る仏で、中国は文殊の加護を受ける地とされたため、清朝皇帝は文殊菩薩皇帝とされた1682年にダライラマ5世が亡くなると、清朝やジュンガル部などの間で転生者の認否で対立が起きた。
1717年ジュンガルがラサを占領すると、1720年にダライラマ7世を奉じた清朝と青海ホショト(チベット王家の傍系)がチベットへ侵攻して、チベットを平定した。グシ・ハーンの家系が占めていたチベット王の座をめぐり、青海ホショトが反乱したとみなされ、侵攻した清朝に制圧されて青海地区は併合された。
チベットをめぐるモンゴル軍と清朝軍の動きは。ダライラマ位に影響の与えるポジションを満州人とモンゴル人が奪い合ったものといえる。
 
乾隆帝クビライと吐蕃最盛期の王ティソンデツェンを自らの前世者として認識していた。乾隆帝は、ジュンガル、新疆を制圧し、グルカ戦役を戦った。中華人民共和国は清朝の版図をほぼ引き継いでいるため、康熙帝、乾隆帝の軍事活動が現代に与えた影響は大きい。乾隆帝の征服活動とチベット仏教思想は深い関係を有している。
 
乾隆帝はチベット仏教世界では文殊菩薩が化身した転輪聖王として知られていた。仏教をもって四方を征服し、日輪のごとく臣下を育む帝王として、四方の国を自分の支配下にいれるという世界観をもっていた。
乾隆帝は1780年にパンチェンラマ(阿弥陀仏の化身)を招請したときは、自らと同格に遇した。パンチェンラマの死を契機にして、ネパールのグルカ兵と戦ったグルカ戦役で多大な出費をして以来、仏教熱が冷めていった。化身僧の腐敗の根源を断つため、籤による化身僧選定制度である金瓶制度を導入した。
 
 
WIKIから。
クビライが即位すると、座主サキャ・パンディタの甥パクパは元朝の帝師として篤く遇され、この時代にチベット仏教はモンゴル諸部族に広く浸透した。
1368年の元朝崩壊後はサキャ派に替わってカギュ派系のパクモドゥ派が中央チベットに政権を確立した。パクモドゥ派政権の衰退後は、同じくカギュ派系のカルマ派と、新興のゲルク派が覇権を争った。サキャ派やパクモドゥ派は、宗教貴族と化した一族が座主や高僧を半世襲的に輩出する氏族教団であったが、対してカルマ・カギュ派は化身ラマ(転生ラマ)制度を導入した。
ゲルク派ものちに化身ラマ制度を取り入れ、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの二大活仏を中心として勢力を伸ばした。この時代の有力宗派は、モンゴル諸部族や明朝と代わる代わる同盟関係を結んだ。特にモンゴルの諸ハーンは、元朝の後継者としてチベット仏教の保護者となることで権威付けを図った。
 
ゲルク派ツォンカパ1400年頃に立宗した。ツォンカパは、過度のタントラ主義を否定して、密教を中観の「無自性」を深く観ずるための禅定体系と位置づけた。また、従来の在家密教行者や氏族中心の宗派に対して、厳格な戒律に基づく出家修行を重視し、僧院を基盤とする教団を組織した。
 
1642年までにオイラト・モンゴルのグシ・ハンがチベットの大部分を征服してグシ・ハン王朝を樹立し、ダライ・ラマ5を擁立して宗派を越えたチベットの政治・宗教の最高権威に据えた。以来、ダライ・ラマを法王として戴くチベット中央政府が確立された。これにともない、ダライ・ラマが元来所属していたゲルク派は、グシ・ハン王朝のみならず、隣接するハルハ、オイラトなどの諸国からもチベット仏教の正統として遇され、大いに隆盛となる。
 
モンゴルと交流のあった女真族(満州族)から出た清朝は、モンゴルの諸ハーン王朝の後継者としてチベット仏教の保護者を以て任じ、雍正帝によるグシ・ハン王朝滅亡後は、ダライ・ラマ政権の直接的バックボーンとなった。一方で、チベットの内外政の他、法王位の継承なども清朝の干渉を受けるようになった。しかし清皇族をはじめとする満州族にはチベット仏教に篤く帰依する者も多く、宗教活動自体は保護を受ける面が強かった。

ウランバートル ザナバザル美術館 仏画 仮面舞踊ツァム

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ザナバザル美術館。ウランバートル。201475日(土)。
 
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仏画。ツォンカパ。
19世紀作。
ツォンカパ(13571419)は青海地方に生まれたチベット仏教最大の学僧であり、ゲルク派の開祖である。仏教思想に含まれるさまざまな見解を体系化して、他宗派の教えを包括することを可能にする思想を提唱した。彼の思想を奉じた弟子たちはゲルク派という宗派を形成し、包括的な教学を武器に他宗派の取り込みを積極的に図ったため、のちにチベット仏教界随一の勢威を誇った。
ゲルク派は転生相続制を取り入れ、歴代ダライラマなど多くの化身僧を生み出した。
 
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仏画。タンカ。
20世紀作。
 
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ツァム
Tsam。ビデオ放映映像から。ビデオ料金は払っていなかったので、ビデオ撮影はできなかった。5分ほどの映像だった。古代インドに源流をもつといい、日本の伎楽との関連もありそうだ。
 
ツァムはモンゴルに古くから伝わる仮面舞踊で、仏教の守護神を表現した種々の仮面をつけた僧侶たちが、音楽に合わせて踊りを披露する。通常は、仏教の神々が悪霊にどのように対処するのかを観衆に見せるために行われる。
各地の僧院で行われているが、年に数回、首都ウランバートルのガンダン寺で開催される舞踊が有名である。小規模な公演も含め随時開催されている。
 
仏教儀式の仮面舞踊ツァムは、18世紀以降、様々な宗派のモンゴルの僧院で発展するようになったが、1930年代から70年間は、思想検閲のためにほぼ忘れ去られていた。1990年からこの伝統は復興の道を歩み始めている。
 
ツァム舞踊はインドから仏教が伝来する以前のチベットに起源を持っており、その中で元々は守護神のような存在であった「白い老人」などの主だった登場人物が、ラマ教儀式で上演されていた奇跡劇の中に滑稽なキャラクターとして取り入れられた。ツァム舞踊は18世紀にモンゴルに伝えられた。
モンゴルでの上演は、通常は死の神ヤマ(エルリク・ハン)、その信者、仮面をつけた恐ろしい魔物が、円錐の塑像を中心に据えた複数の白い同心円から成る曼荼羅の周りを回る踊りが中心となっていた。
ツァム舞踊の仮面は種々の神々とその側近を表している。一回の上演に108種の神と獣の仮面が必要とされたため、その準備には相当の時間と手間を要した。ツァムの仮面は張子で造られ、珊瑚玉で装飾されている、踊り手は象牙の装飾を付け鰐皮の靴を履いている。
 
死の神が登場すると、人の形をした小さな塑像が人間の生け贄を象徴するものとして剣でめった切りにされる。ツァム儀式の踊り手はその衣装と芸術的な大型の仮面をもって、ラマ教信仰の対象である友好的な神々と恐ろしい神々だけでなく、骸骨、頑強な兵士、狩人、そして雄牛、牡鹿、大からす等の動物やヒンズー教信仰の対象である鳥類の王ガルーダにも扮する。ウルガ(ウランバートルの旧称)やモンゴルの他の僧院でのツァム舞踊の際には、仮面をつけた108人もの人々が大観衆の前で踊りを披露した。
 
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ツァム。フーレー(ウランバートルの旧名)時代の様子。
1966年作。
 
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ツァムの衣装。
 
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ツァムの衣装。
 
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時輪タントラの立体曼荼羅。
Mandala of kalachakra19世紀初頭作。
Kalaは時間を意味し、Chakraは存在を意味し、「時輪」と漢訳される。最後の密教経典である時輪タントラに基づいた世界観を表現している。
神とその世界を象徴し、727の神々が表わされている。
 
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現代の仏画。四頭の仲良しな動物。
Damdinsuren191019841963年画。
 
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現代の仏画。
Damdinsuren191019841963年画。
 
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馬頭琴。
19世紀作。
 
ザナバザル美術館は仏教美術とツァムの展示が充実していた。ツァムの野外公演が前日夜にチョイジンラマ寺院博物館で開催されていたことを翌日知った。こういう情報はピアみたいなものがなく、ゲストハウスも関心がなく、観光案内所も教えてくれないので、観光客には不便な都市である。
 
このあと、東へ200mほどにあるモンゴル国立博物館へ向かった。

噴火する御嶽山 飛騨萩原・御前山頂上から

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噴火する御嶽山。飛騨萩原・御前山頂上から。平成26年9月28日(日)。
岐阜県下呂市飛騨萩原の御前山は霊峰御嶽山遥拝の頂として有名な山である。御嶽山の黒沢口を開いた覚明行者がこの山に登って開山の祈願をしたと伝わる。
御嶽山には毎年1回は登ることにしており、本年は8月の降雨が多かったため、遅れに遅れて2週間前の9月14日に登ったばかりであった。当日はやはり晴天を待ち望んだ登山者が集中して、27日とは比較とならないぐらい田ノ原駐車場も登山道も大混雑していた。
 
登山の数日前に新聞で火山性震動が観測されていることを読んでいた。1979年の噴火も勿論知っていた。しかし、まさか噴火するとは思っていなかった。ただ、王滝頂上前で、カップルで登っていた20代後半の女性が、火山のことをつぶやいたので、火山性震動のことを教えたが、知っている人は少なかったろうと思う。田ノ原から王滝村からの放送が流れてきたが、火山性震動のことを伝えていたような気がする。
 
晴天を狙って、次の連休や2728日も御嶽山に登ろうかと思ったが、未踏の手頃な山にしようとして、26日(金)に飛騨萩原の御前山を選定した。御前山は17年ほど前から登山対象に考えていたが、登りづらい印象から後回しにしていた。27日(土)の昼から準備をしようとしていた時に、御嶽山噴火の情報が入り、驚いた。YOU TUBEの動画を見た時には、さほどひどい状況とは思わなかったが、15時頃からマイカーに乗りながらNHKテレビを見続けていると、7人が心肺停止という続報が入り、これは只事ではないと実感した。
 
27日(土)1530分にヤマケイ分県登山ガイドのコピーを終え、名古屋市諸山区から本日の泊地とした道の駅「白川」に向かい、1755分に到着。
 
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飛騨萩原・御前山。桜洞登山口駐車場
928日(日)、530分に起床。袋ラーメンを煮て食べたりして、7時に登山口へ向かった。ネット情報により、4合目の桜洞登山口まで車のアクセスが可能と判断していた。飛騨萩原駅から広域林道に入った。道標が要所に完備され迷うことはなかった。
3合目の水洞に着くと、東屋の方に作業車らしい車が数台いた。50m手前の山側坂道で悪路と書かれている林道を登った。石の多い箇所もあるが通行に支障はなく、林道終点の桜洞登山口に8時に到着した。8台ほどの駐車枠がラインどりされているが、1台もいなくて拍子抜けした。準備をしようとした時に、先ほどの車が2台到着。地元の人たちで、登山道整備とのことで、8時15分頃に登山口を出発していった。
 
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飛騨萩原・御前山。桜洞登山口。8時42分に出発。
30分後に鳥居地点で地元の人たちに追いついた。渓流の左岸を登っていく。赤テープを見失わなければ問題なく登山道は続くが、7合目手前のガレ地で高巻く箇所があり、赤テープを上部に見つけるのに苦労した。ここから岩伝いの渡渉が数か所ある。
苔の着いた岩や木の根が滑り易い。しばらくすると、30歳代のカップルに追いついた。3合目水洞に車を置いて登ってきたとのこと。あっという間に追い越して、9時51分屏風岩の眺望地に到着。左を振り返って屏風岩を確認。
岩と木の根の間をさらに登ると、10時15分に「あと30分」表示地点を通過。15分ほどして、右上に山頂部らしきものが見えてくるのに、登山道は逆に左に振られていくので、本当かと思いながら、ササでズボンをずぶ濡れにしながら登っていく。
左右どちらかかなという地点に出て、右に登山道を見つけると、登り易くなって山頂部が見えてきて、10時44分に山頂へ到着。私が本日の一番乗りのようだ。桜洞から山頂までの歩行時間2時間2分、コースタイムは2時間30分。
 
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御前山。山頂。標高1646m。一等三角点御嶽山の真西に当たる。山頂下に雲があるが、ほぼ快晴。噴煙が南にたなびいている。ここは御嶽山の絶好の眺望地であった。
 
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御前山。山頂。観音堂織田信長が岐阜城在城中、鬼門除けとして建立したもの、背後に山頂より高い岩が聳える。左から回り込めば、簡単に岩上に達することができる。古代人の巨岩信仰の地でもあるようだ。
 
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御嶽山の噴火。御前山山頂から
山頂の南西下部に噴火口が認められる。
動画も撮影していると、11時10分頃、先ほどのカップルが到着。美濃加茂市から来た夫婦らしく、まだ登山を始めて3か月ほどという。やはり、御嶽山登山を予定していたが、急遽変更したとのこと。昨夜は飛騨萩原駅前で車中泊。水洞登山口を7時に出て、山頂まで4時間以上かかった。途中、道間違えをして、帰ろうかと思ったという。私は色々アドバイスして差し上げた。
11時40分頃、反対側の上村ルートからやはり地元の人たち8人ほどが登山道整備をしながら、山頂に到着したので、雑談タイムがまた延長してしまった。
 
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御前山登山案内図。上村ルート登山口。上村ルートはネットで読んでいたので、様子を尋ねると、尾根通しで歩きやすく、尾根を下って基幹林道を3㎞歩けば水洞に着くとのことなので、予定を変更して上村ルートを下ることにした、桜洞ルートは滑り易く、危険に感じたせいもある。ただ、地図はない。
12時2分に上村ルートを下山開始。
 
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焼ケ原から御前山山頂部。右に御嶽山。上村ルート9合目にある焼ケ原は古代山岳寺院の跡という。送電塔のほかには何も痕跡はない。上村ルートは高原状の登山道が続き歩きやすいが、距離は長い。危険な箇所がないので安心。
 
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焼ケ原から御嶽山の南西部噴火口を望む
地元の人から分岐は右へ(西方向へ)行けと言われたことを参考に下っていく。ただし、上部を過ぎてからは、途中右下へ下る枝道が数か所あったが、分からないので上村への本道を下っていった。途中、プラロープの補助がある地点が急傾斜だが、それほど続くわけでもない。観音や展望所も数か所ある。
 
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上村ルート。峠登山口。尾根を下って、右下に林道が見えた地点で、分岐があり、右の峠登山口へ13時35分頃到着。ここには駐車場がある。この先は登山道はなく、林道のみ。ただ、峠登山口から右へ歩いたのが間違いで、舗装道ではなかったので、引き返し13分ほどのロス。
 
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上村ルート。基幹林道登山口。峠登山口から左へ砂利敷きの林道を下っていくと、14時頃、舗装道に着き、安心した。ここから基幹林道を3㎞歩けば、水洞へ着く。しかし、さすがに足は重くなって、14時40分ようやく、水洞に到着。地元の人たちの車が20台近く駐車していた。坂道の入口で、休憩中の地元の人から、これから登山かと尋ねられたので、周回して桜洞で車の回収だと答えた。
15時00分に桜洞登山口に到着。地元の人の車2台はまだ残っていた。登山口にあるアンケート用紙に記入して、長い一日が終わった。

ウランバートル モンゴル国立博物館 青銅器時代

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モンゴル国立博物館。ウランバートル。
201475日(土)。ザナバザル美術館の見学を終え、東へ5分ほど歩いてモンゴル国立博物館へ着いた。正面玄関手前の屋外には鹿石などが展示されている。ザナバザル美術館と違って、客は多い。日本人のツアー客もいたが、数人が興味がないといってロビーの椅子に座りこんでいた。
写真撮影込みで1万5千Tg。歴史資料は多い。15時頃入館して16時45分まで見学。
 
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洞窟壁画。写真。西部ホブド県。旧石器時代の4万~1万2千年前。洞窟の壁と天井にラクダ、シカ、野牛、野生のヤギ、マンモス、ダチョウなどの動物が描かれている。数字を示すとみられる点がいくつかみられる。
 
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石製護符。4~3千年前。新石器時代。東部ドルノド県出土。
 
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器。青銅器時代初期。2500年前。西部ホブド県出土。
 
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器。青銅器時代初期。2500年前。西部ホブド県出土。
 
 
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青銅製刀
。青銅器時代。1200~800年前。西部ホブド県出土。
 
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ペアのアンテロープの装飾品。青銅器時代後期。700~500年前。出土地不明。
 
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青銅器時代の墓制。2000~1000年前。積石塚が全土に多くみられる。積石塚には馬の頭蓋骨を埋葬した小さい供物用の塚が東側に随伴していることが多い。馬の首や蹄の骨、羊や牛の骨が随伴することもある。
 
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青銅器時代の墓制。積石塚。
 
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方形墓室。方形墓室は青銅器時代を通じて重要な形式である。モンゴル北方の草原地帯から西方のアルタイ山地、バイカル湖地方からゴビ砂漠地方へ広まった。石板を直立させて方形墓室を造っている。地面から1
m下の人体が東向きに置かれ、石板や土で覆われている。壺、装飾品、狩猟具が副葬されていることも多い。
 
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石製鋳型。青銅器時代。1500~400年前。西部ホブド県出土。
 
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青銅製兜。青銅器時代。1300~1000年前。中央北部ボルガン県出土。

ウランバートル モンゴル国立博物館 青銅器・鉄器時代  鹿石

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モンゴル国立博物館。ウランバートル。201475日(土)
 
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穀物の植え付け。新石器時代。
BC7000~2000.
 
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パジリク文化。
BC6~2世紀。アルタイ山地はモンゴル、ロシア、中国、カザフスタンにまたがり、数千年にわたる遊牧民の遺跡を残している。その一つがパジリク文化とよばれ、スキタイ時代のクルガン型墳墓群に内部には木製の墓室があり、大きな積石で覆われている。ノボシビルスクの南にあるアルタイ山中のパジリク渓谷で最初に発見された。
パジリク文化の担い手は草原の騎馬遊牧民で、ペルシア、インド、中国の商人との交易により巨富を得たとみられる。墳墓中の遺物にはフェルト製壁掛け、中国の絹織物、絨毯、装飾品を付けた馬、木製家具などの住居用品が出土した。いくつかの墓からは入れ墨されたミイラが出土している。
アルタイ山地の盆地では120か所から600基の墳墓が発見され、そのうち83か所400基以上がモンゴルに属している。 
 
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青銅製装飾品。青銅器時代後期および鉄器時代。BC700~300年。出土地不明。
 
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荷車。壁絵。青銅器時代後期。BC1000~400年。
 
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狩猟図。青銅器時代。BC3000年。中部ウブルハンガイ県。
 
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青銅製大鍋(コールドロン)。鉄器時代初期。BC700~300年。出土地不明。
 
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青銅製大鍋(コールドロン)。鉄器時代初期。BC700~400年。北部フブスグル県出土。
 
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鹿石。青銅器時代中期。BC1300~600年。北部フブスグル県出土。
突厥時代(552~740年)に人面を追刻されたとみられている。
 
鹿石はアジアから東欧で発見されている。BC2000~1000年までの青銅器時代初期から鉄器時代初期からにかけての遺物とされる。現在までに約700の鹿石が発見され、うち550がモンゴル領内のものである。
鹿石は石柱の一面及び複数面に鹿が彫刻されていることから名付けられた。太陽、月、鏡、ベルト、五角形、ナイフ、斧、弓矢などの図形をも伴う。また、イノシシ、ウマ、トラなどが刻まれているものもまれにある。
鹿石の多くは石列に囲まれており、ウマの頭蓋骨、首、蹄の骨も同時に出土する。

ウランバートル モンゴル国立博物館 突厥王族の石碑 「漢民族の甘言に惑わされるな」 匈奴、突厥 

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モンゴル国立博物館。ウランバートル。201475日(土)。
第2室。モンゴルの古代国家。
匈奴。BC3世紀~AD1世紀。
突厥。6~8世紀。
ウイグル。8~9世紀。
遼(契丹)10~12世紀。
 
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棺の装飾。黄金製。匈奴時代。BC3~AD1世紀。北東部ヘンティー県出土。
 
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太陽と月。黄金製、匈奴時代。BC3~AD1世紀。北東部ヘンティー県出土。
 
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石碑。突厥およびウイグル時代。約60基の石碑が発見され、ほとんどは解読されている。
 
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石碑。突厥およびウイグル時代
 
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ブガット石碑。6世紀。突厥時代。中部アルハンガイ県。
ソグド文字とサンスクリット文字で刻字されている。上部にはオオカミが子供に乳を吸わせる光景が描かれ、突厥の祖先はオオカミだったという始祖神話が暗示されている。
 
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キョルテギン石碑。碑文の一部。732年。突厥時代。複製。
キョルテギン石碑。732年8月1日。キョルテギンは突厥第二可汗国の初代可汗イルテリシュの息子で、後継者争いで兄がビルゲ可汗となるのを助け、自身は軍事権を握った。
キョルテギンは731年2月27日に47歳で亡くなり、11月1日に埋葬された。約1年後に廟所と亀趺が墓地に建立された。
亀趺の上部は龍で装飾されている。古代トルコ文字(ルーン文字)が前面と両側面に刻まれている。68行約1万文字は親族のロリグテギンが20日をかけて刻んだ。背面には唐の明華王が弔辞を述べている。
 
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キョルテギン石碑。複製。現地。中部ウブルハンガイ県。カラコルム(ハラホリン)近郊。
7月8日に、突厥帝国の聖地であるオルホン川畔の現地を見学。
 
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キョルテギン石碑。実物。中部ウブルハンガイ県。カラコルム(ハラホリン)近郊、ホショーツァイダム博物館。
 
キョルテギン石碑の正面は漢文で、唐の玄宗皇帝がキョルテギンの死に際して寄せた弔辞が刻まれている(ママ)。キョルテギンの勇気を讃えたものだという、しかし、その石碑の側面と裏面に突厥は自分たちの文字でひそかに子孫への言葉を刻み込んだ。「この地より良い場所は他にない。漢民族の甘い言葉や柔らかい絹に惑わされてはいけない。この地を離れずに生きよ。」と、「司馬遼太郎の風景(NHK街道を行くプロジェクト)」には、こう記載されている。
 
なお、兄のビルゲ可汗碑文にも、突厥の民衆にたいして、唐人の甘言にのせられて破滅に陥らないようにというビルゲ可汗の警告が、突厥文字できざまれている。
 
三十姓タタル。モンゴル部族。キョルテギン石碑の碑文には「バイカル湖の東岸方面のクリカンとシラムレン河辺のキタニ(契丹)の間にオトズ・タタル(三十姓タタル)がいた」という記述がある。
三十姓タタルはモンゴル部を含んだ多数の部族で、当時はケルレン川中流下流域、アルグン川、オノン川、シルカ川方面にいたことになる。
「唐書」などによると、モンゴル部族は室韋とよばれ、大興安嶺山脈の北アルグン河畔に住み、西は突厥、東は契丹。北はバイカル湖に臨み、突厥に付属していたとされる。
 
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石碑。契丹時代。南西部ドルノゴビ県
契丹文字で刻字されている。

ウランバートル モンゴル国立博物館 攻城用カタパルト モンケ・ハーン記念碑

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モンゴル国立博物館。ウランバートル。201475日(土)。
 
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モンゴル軍の白い旗印と黒い旗印。
 
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攻城用カタパルト。
 
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モンケ・ハーン記念碑。1257年建立。フブスグル県出土。
高さ144㎝、幅78㎝、奥行20㎝。
憲宗(モンケ)第4代皇帝(在位1251~59)に捧げられた記念碑。義理の息子バムトゥと妻のイシルにより、現フブスグル県のデルジェル川流域にあったモンケ・ハーンの宮殿近くにバムトゥが建てた寺院の中に建立された。
 
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モンケ・ハーン記念碑。部分。
刻字はモンゴル語が3行、漢字が12行268文字。文章はモンケ・ハーンを讃え、長幸を祈ったもの。1953年モンゴルの学者により発見された。
 
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モンゴル書道。緊急に保護が必要と認定されたユネスコ無形文化遺産。2013年12月4日付け。 
モンゴル書道はモンゴル古典文字の手書き技法で、90種の文字を垂直に連続して文章を書く。文字の書き方は頭、歯、茎、腹部、弓、尾として知られる6種類の筆さばきがある。
師範は弟子に5年から8年かけて伝習させるのが通例であるが、近代化により、現在では3人の中年の学者が自発的に20人余りの青少年に教えているに過ぎず、報酬面でも援助が必要である。
 
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モンゴルの印刷文化。
13世紀からモンゴル語の文書が登場する。文字として、ウイグル文字、ソヨンボ文字、キリル文字が様々な文書に使用された。16世紀中頃から仏教文化が繁栄すると、大小の印刷工房が開設され、木版・銅板・鉛版による印刷されたが、多くは木版であった。
 
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Jadamba sutra
金字による写本。
 
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馬頭琴。
 
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鍛冶屋。
 
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鍛冶用ふいご。
 
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ゲル。古典的なスタイル。
 
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ゲルの内部。

ウランバートル モンゴル国立博物館 清朝・中国からの独立運動

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モンゴル国立博物館。ウランバートル。201475日(土)。
 
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清朝治下のモンゴル人への拷問
叩く、鞭打つ、焼く、重い鎖で拘束するなど特殊な器具による9種類の拷問が知られていた。さらには、成長する竹の中に入れる、濡れた皮で体を包む、馬の毛の鞭で打つなどの拷問も行われた。
 
後金のホンタイジ(清の太宗)は元朝帝室の直系であるチャハル部のリンダン・ハーンを撃破し、1634年に元朝歴代皇帝が保持していた「国璽」を手に入れたことにより、モンゴル帝国の皇帝権、すなわち中国や中央ユーラシアへの支配権が満州族のホンタイジへ委譲されたという象徴となり、1636年にホンタイジは配下の満州人、モンゴル人、漢人から推戴されて皇帝の位に就き、大清帝国が成立した。清帝国はこれら三民族の連邦という性格を持っていた。
 
清朝のモンゴル支配の目標は初期においては、モンゴルの遊牧社会を漢人社会と接触させないことであった。しかし、清朝の意図をこえて、漢人勢力はモンゴル高原へ進出した。モンゴル経済は漢人商人の手に握られ、モンゴル王公から一般牧民にいたるまで、その収奪にあえぐことになった。
 
とくに、内モンゴルでは、モンゴル王公が共有地に漢人に開墾させて現金収入を得たため、漢人農民がモンゴル牧地に入植し、土地の荒廃と牧地の狭隘化が進行し、モンゴル人と漢人の間で民族間対立感情が生じた。清朝末期に内モンゴル各地で発生したモンゴル人の反漢蜂起は漢人農民・商人への襲撃をともなっていた。
 
20世紀に入ると、清朝の政権内部では漢人官僚が実権を握り、対モンゴル政策が転換されていく。とくに、外モンゴルのハルハ地方ではこれに対する反発が、王公・仏教界を中心に起こった。モンゴルは中国の省と同じになると懸念し、伝統的な社会構造と生活環境を防衛するために立ち上がろうとした。
 
清朝は満州人とモンゴル人が連合して漢人を統治して、チベットとイスラム教徒を保護する建前だったが、1860年代のカシュガルにおけるイスラム教徒の反乱と制圧を契機に新疆省を設置して、漢人が清の辺境統治に関与して以降、満州人は連合の相手を漢人に切り替えて、「満漢一家」と言い出した。
 
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清朝の拷問・処刑用具と清朝の旗。
 
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鞭。革・木製。17~20世紀。
 
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モンゴル軍の大隊指揮官旗。1910年代。
1911年12月、外モンゴルのハルハはジェブツンダンバ8世を皇帝に推戴して清朝から独立を宣言した。ジェブツンダンバ3世から8世までは、清朝がハルハ王公の結束を恐れて転生者をチベット人から選んだ。ジェブツンダンバ8世はこれ以降ボクド・ハーンとよばれる。8世はチベット生まれであるが、チンギス・ハーンの子孫であった1世と2世の転生者であり、どの特定のハーン家出身者でもなかったため、全モンゴル民族統一にふさわしい象徴と考えられた。
 
内モンゴルの多くのモンゴル人も参加したが、張作霖や袁世凱などの軍閥との戦闘で、モンゴル軍は劣勢となった。日本の川島浪速が、モンゴル王公に武器弾薬を援助した第一次満蒙独立運動が開始された。
結局、1915年のキャフタ会議で外モンゴルは自治権を認められたが、中国の宗主権を認めさせられ、中華民国は庫倫(現ウランバートル)に都護使を置き、1920年には自治を撤廃させた
 
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ノモンハン事件(1939年)当時のモンゴル軍の機関銃
このあたりで、常設展示室は終わる。最後にロビー横の特別展示室を見学。チンギスハーン時代の武器類が展示されていたが、ほとんどが撮影禁止であった。
 
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鉄の矢じり。590~670年。西部ホブド県出土。突厥時代。
 
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モンゴル帝国時代の弓矢。
 
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モンゴル帝国時代の矢。
 
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アルタイ・ハープ。2013年制作。アルタイ地方の音楽は古代トルコ人王国のシンボルとされた山羊と関連が深い。初期のハープの頭部は馬の頭部の形が遺物に多いが、現代に至るハープの頭部は山羊の頭部の形をしている。
山羊の角は楽器の弦の修理に使用された。ハープのデザインには遊牧民の特性が反映されている。
 
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アルタイ・ハープ。
全体的に樺の木で造られているが、胴体の前面カバーとブリッジは柳製である。ネックの曲りがシャープで傾きは40度に達している。柄の部分は馬頭型をしている。胴は空洞で楕円形で、船または白鳥の形に似せている。
胴の背部には6頭の鹿、山羊、5頭の犬、矢をつがえる人間が時代を追って彫られていった。胴の底部に彫られた長い首の鹿は他の彫刻に比べて摩耗しておらず、埋葬直前に彫られたものと推定される。胴の外側に彫られた突厥時代のルーン文字が解読され、この楽器は古代トルコ語でヤヤリグ(メロディーの意味)とよばれ、所有者であった戦士の名はチューレであったことが分かった。
 
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アルタイ・ハープ。ボン大学研究者スザンナ・シュルツにより復元。
特別展示室を出て、博物館を退館したのは16時45分頃で、南東に歩いてすぐのスフバートル広場と政府宮殿へ向かった。

ウランバートル 政府宮殿 スフバートル広場 チョイジンラマ寺院博物館 政治粛清祈念博物館

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政府宮殿。ウランバートル。
201475日(土)。
モンゴル国立博物館を出たのは16時45分頃で、南東に歩いてすぐの政府宮殿とスフバートル広場へ向かった。政府宮殿正面玄関の中央にはチンギス・ハーン像が鎮座し、左右にはモンゴルの騎馬武者像が置かれている。
 
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政府宮殿。新婚カップルの記念撮影の場所になっていた。
 
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政府宮殿からスフバートル広場を眺める。中央にはスフバートル像が置かれている。近代的なビル群が並び、背後には山がそびえている。
 
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政府宮殿。17時になり、警備兵が玄関階段部以上への立ち入りを制限した。
 
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スフバートル広場。スフバートル像の周りに佇む人も多い。
 
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スフバートル広場と政府宮殿。横断歩道が少ないので道路を適当に渡る人も多い。南北方向への交通量は多くない。
 
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ロシア・モンゴル友好のポスター。エンフタイヴァン(平和)大通り。1939年はノモンハン事件の起きた年で、モンゴルではハルハ川戦争とよばれている。
モンゴル軍にとっても、侵略者を撃退した最初の戦争として位置づけされており、建国神話的な扱いを受けている。
もっとも、街中を歩いた限り、ロシア人は見かけないし、ロシアの経済的影響も感じられない。現代日本へは友好的な感じであることは言うまでもない。
ノモンハン事件75周年を記念してのポスターというだけのことであろうと思うが。
 
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トロリーバス。平和大通りのバス停。古くて人気がないというが、他の普通のバスの車内も同じようなものだった。韓国製のバスが多いのは陸続きのせいなのだろうか。
ノミンデパートで食材を購入し、ゴールデンゴビ・ゲストハウスへ帰った。
 
 
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ナサン・ゲストハウスから西のバガ・トイロー通りを眺める。
7月6日(日)。
9時頃ナサン・ゲストハウスへ行き、ナサンさんにハラホリンとダダルへの車を手配してもらい、安心した。
ハラホリンへは本日の12時に出発することにして、それまで二つの博物館を見学するため町へ出た。
 
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チョイジンラマ寺院博物館。チベット仏教寺院の伽藍が残っており、ツァム(仮面舞踊)の仮面が豊富に残っている。南へ歩き過ぎて、寺院の西を南から北へ歩いたが、開館している様子はなかった。
「歩き方」には夏期無休とあるが、実際は日・月休みで9時~17時30分であった。
 
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チョイジンラマ寺院博物館。北面から。現代的なビル群の中に異様な雰囲気で存在している。
 
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ツァム公演の告知。チョイジンラマ寺院博物館。入口は敷地中央の東西にある。東入口の扉にツァム公演の告知が貼ってあった。ナイト・ミュージアムという公演名で2万5千
Tgと低料金。21時から24時までで、歌や馬頭琴、ジャズまである。
7月4日とは、私がウランバートルへ着いた当日の夜だが、全く知らなかった。ゲストハウスの掲示板にでも書いてあれば、行ったかもしれない。モンゴルのゲストハウスはイベント案内に熱心ではない。
東のオリンピック通り沿いにある政治粛清祈念博物館へ。
 
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政治粛清祈念博物館。1930年代に行われた政治的粛清とチベット仏教界への弾圧を示す資料を展示した博物館。
1921年にモンゴル人民政府がソ連および極東共和国の軍事的援助を得て設立された。1924年11月に国号はモンゴル人民共和国となる。一方、同年5月の中ソ大綱協定において、外モンゴルに対する中華民国の主権が承認され、ソ連は外交上矛盾した姿勢を示している。中央アジア地域がソヴィエト連邦に参加したのは、旧ロシア帝国属領であったためだが、外モンゴルは中国の宗主権が及んでいたことをソ連も認めており、過渡的状況が続いた。
しかし、1927年の蒋介石による反共クーデターにより、コミンテルンの方針が転換し、モンゴル国内では極左路線が採用され、急激な社会主義的改造が強行されていき、旧王公勢力、仏教界に対する財産没収、牧民の強制集団化が始まった。同時に「モンゴルのスターリン」とよばれたチョイバルサンが独裁者としての地位を固めた。
1935年首相兼外相であったゲンデンはスターリンに呼びつけられ、翌36年に解任された。ゲンデンはその年に処刑されたといわれ、粛清された政治家は4万人とされる。
 
見学者が少ないせいか、入口を入っても受付はなく、しばらくして男性が奥から出てきた。入館料2500Tgのみ払って、写真代5000Tgを払わなかったので、内部はこっそり撮影するしかなかった。英語の解説は少ない。
 
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政治粛清祈念博物館。展示。
 
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政治粛清祈念博物館。展示。粛清された政府要職者の説明が多くあり、英文が付けられているものもある。
1895年生まれのウルジット・バドラーは1924年にモンゴル人民革命党に入党、25年まで財務大臣、党中央委員の部長、書記、3234年厚生大臣。1937年に政治犯として処刑され、1963年に名誉回復。
 
 
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政治粛清祈念博物館。チベット仏教弾圧コーナー。
2003年発掘。600体以上の人骨、木製カップ、ソヴィエトの印が付いた金属製カップ、ラマ僧衣などが出土した。
 
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政治粛清祈念博物館。チベット仏教弾圧コーナー。
最後に、復元されたゲンデン首相の執務室を見学して退館した。
ハラホリンツアーへ持参する飲食物を購入するために、ノミンデパートへ向かった。
 
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ノミンデパート。1階のスーパーは品揃えは満足できるレベル。インスタントラーメンやスパゲッティもある。パンコーナーの巻き寿司があり、3回ほど購入したが、旅行後半数日に買おうとしたがなかったので、不定期の仕入れのようだ。
 
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ノミンデパート南の街路。サーカス場方向。歩く人は多い。
12時に近づいたので、ナサン・ゲストハウスへ戻る。

ハラホリン(カラコルム)方面へのドライブ ムンフスール・ゲストハウス 馬頭琴と唄

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ハラホリン(カラコルム)方面へのドライブ。
201476日(日)。本日からハラホリン(カラコルム)方面へ34日のツアー。車と運転手兼ガイドをチャーターして、私一人が客である。12時頃、ナサン・ゲストハウスへ戻り、ナサンさんと打ち合わせ。車代が1日90ドルで4日分360ドル、ガソリン代は概算前払いで170ドルを前払いで支払った。ガソリン代は給油ごとの実費支出でもよいが、現地通貨の持ち合わせに不安があったので、前払いとした。支払い過ぎたかもしれないので、後半のダダルツアーでは実費支払いとしたが、実際どちらが得かは計算していない。
宿泊と食事は実費となる。
 
ナサンで同宿となった日本人男性はハラホリンへは定期バスで行った。バスが着くと、ゲストハウス数軒が客の誘致をしていたという。エルデニ・ゾーや博物館が徒歩圏内にある。ただし、離れた見学地への車が手配できるかどうかが問題となる。
 
ドライバーは「インケ」という名前の20歳代前半の男性で、日本語を習っているということだったが、あとで聞くと、週に2回ほどモンゴル人に教えられている程度で、余り役に立たなかった。英語も少し話せる程度だった。ダダルツアーの時はこの若者の兄だったが、英語はほとんど話せなかったので、弟の方がましだった。学校教育がほとんどないような感じで、発音は全く金釘流である。二人とも、英語会話集を持参していたので、なんとか意図を通じさせようとしたが、なかなか困難であった。
12時30分頃に弟と父親が来て、20分ほどナサンさんと行程の打ち合わせをしてから、階下の駐車場へ下りて、車に乗り込み13時頃出発した。
 
ウランバートルから順調に西へ進み、晴天から曇天になると同時に快適な舗装道路の舗装部分が不快になりだしたときに、道路が遮断されて迂回し始め、道路左の地道を走りだした。
 
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交通事故現場。道路の真ん中に車がひっくり返っており、反対側の道路下にも車が飛び出している。
 
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交通事故現場。事故原因は不明。交通事故は日本より多い。インド並みか。運転が荒い。ダダルツアー初日で、私の車が接触事故を起こした。ドライバーが割り込みをした車に、わざとぶつけるように幅寄せをする状況を助手席から見ていた。
 
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馬と山羊の大群。道路を横断していた。
 
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郊外道路では家畜の横断は実に多い。他人の家畜を損傷させると、賠償責任が生ずるので、うまくかわすしかない。
 
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ハラホリンの手前。19時過ぎ、ようやく目的地が近づいた。料金所で入境料800
Tgを払った。
道路インフラが悪く、道路が穴だらけなので、回避運転にせまられ、時速20㎞程度の走行が数時間続いた。本道から脇の地道へ回ることも多い。
 
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ハラホリン。エルデニ・ゾーの右側を抜けて数分走ると、本日の宿泊地であるゲルのゲストハウスに20時頃着いた。ウランバートルから約7時間かかった。まだ、明るい。
 
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ムンフスール・ゲストハウス。ここにはツーリスト用のゲルしかない。ホテル代は夕朝食付きで1万5千
Tg(830円)。寝袋はドライバーが持参している。
 
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ゲストハウスの夕食。ゲルに荷物を置いて、入口の食堂へ向かう。出来あいの定食が出てきた。不味くも美味くもない。
 
 
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馬頭琴と唄。食堂に入る手前で、民族衣装を着た熟年男性が立っていて、21時から食堂でコンサートをするので来てくれと呼び込みをしていた。
21時すぎに食堂へ入ると、10人近くの客が聴いていた。
 
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歌手。5・6年前の地球の歩き方に本人の写真が載っている。それなりに裏付けのある人だろうと思うが、名前は忘れた。
 
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歌手が出したCDの日本語曲紹介。
2日後にもここに泊ったので、この人の他に2人の歌手を併せた3人バージョンをまた聞いた。
歌が終わったあと、6000Tgを最後に払った。
 
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ムンフスール・ゲストハウス。柵で囲まれていて、夜間は番犬が外にいる。回りは何もない。
 
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ムンフスール・ゲストハウス。10棟ほどのゲルが並んでいる。食堂のほか、トイレ・シャワー棟、従業員・運転手宿泊棟がある。翌日泊まった現住ゲルに比べると、かなり快適であった。

モンゴル 世界遺産オルホン渓谷 ハラホリン エルデニ・ゾー僧院  

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エルデニ・ゾー僧院。ハラホリン。
201477日(月)。9時頃、ハラホリン村のムンフスール・ゲストハウスから車で数分のエルデニ・ゾーへ向かった。
 
チベット仏教の僧院エルデニ・ゾーは、108個の白い仏塔で囲まれた400m四方の敷地の中に建つ寺院群で、世界遺産オルホン渓谷の文化的景観の中心的な遺跡である。
 
エルデニ・ゾーの北東にモンゴル帝国の首都カラコルムの遺跡が一部発掘公開されている。カラコルムの遺跡は現在地表上には見るべきものがない。ハラホリンはカラコルム遺跡のすぐ西にある村で、小村ながら世界遺産オルホン渓谷観光の拠点となっており、近くにオルホン川が流れている。
 
オルホン渓谷は、昔から豊かな草原が広がる肥沃な土地で、北アジアの遊牧民族国家は必ずここを本拠地とした。そのため、石器時代からモンゴル帝国の時代までの数多くの考古学遺跡が残っている。
世界遺産オルホン渓谷の文化的景観の遺跡は、オルホン碑文という8世紀初頭の突厥王国のビルゲ・ハーンおよびキョルテギンの石碑群、ハル・バルガス遺跡という8世紀後半のウイグル帝国の王都、モンゴル帝国の首都カラコルムの遺跡、エルデニ・ゾー僧院などで構成されている。
今回は以上の4遺跡を見学することができた。石碑群とハル・バルガス遺跡は徒歩圏内ではない。
 
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エルデニ・ゾー僧院。ゴルバン・ゾー(三寺)入口。この区域だけが有料。
 
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エルデニ・ゾー僧院。ゴルバン・ゾー(三寺)。中央の寺がゴル・ゾーとよばれ、左右に東寺・西寺がある。
ゴル・ゾー1585年にエルデニ・ゾーで最初の寺として、アバダイ・ハーンが建設した。
アバダイはモンゴル民族中興の祖ダヤン・ハーンの末子で外モンゴルの原型となった七旗ハルハの創設者ゲレセンジュの孫で、1580年代にアルタイ山脈の北でオイラト軍を破って有名になり、チベット仏教を初めてハルハに導入して、1585年夏かつての帝都カラコルムの地にエルデニ・ゾーを建立した。
アバダイの子孫がハルハ左翼の盟主トシュート・ハーン家となり、アバダイの曾孫がジェブツンダンバ1世(ザナバザル)である。
東寺・西寺はザナバザルの兄であるトシュート・ハーンが17世紀初めに建立した。
アバダイの時代はチベット仏教ゲルク派は優勢ではなく、サキャ派のラマ僧の指導のもとに建立した。そのため、ゴルバン・ゾーは中国建築風の様式となっている。
 
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寺院装飾。
 
 
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ゴルバン・ゾー(三寺)。寺院入口。
 
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ゴルバン・ゾー(三寺)。韓国人ツアー客が多い。
 
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ゴルバン・ゾー(三寺)。東寺。
 
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ゴルバン・ゾー(三寺)。基壇の上から。
 
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エルデニ・ゾー僧院。チンギス・ハーンが陣営で煮炊きに使用したとされる大きな鉄鍋。
 
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エルデニ・ゾー僧院。僧院内のゲル内部の祭壇部。
 
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エルデニ・ゾー僧院。ソボルガン塔。境内中央にある仏舎利塔。第
4代ボクド・ハーンの25歳の記念として1799年に建立された。堕落した僧侶を太喝する目的もあったという。
 
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エルデニ・ゾー僧院。ラプラン・ゾー。チベット様式の寺。
18世紀にモンゴルの人々の寄付により建立された。大講堂では10人ほどの仏教僧が勤行していた。
20世紀初めのエルデニ・ゾーでは1万人を超す僧が居住していたといわれるが、1930年代の仏教弾圧により、多くの僧が殺害され、残った僧も還俗されて、エルデニ・ゾーは閉鎖された。
 
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エルデニ・ゾー僧院。ラプラン・ゾー。五体投地をする私。ガイドが見本を示したので私もやってみた。モンゴル人客もやっていた。
ラプラン・ゾーの中で馬乳酒を飲まされたが、酸っぱさにとても1杯は飲めなかった。
 
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エルデニ・ゾー僧院。銅塔かと思われる。
 
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エルデニ・ゾー僧院。境内中央やや南から北方面を眺める。オルホン川の向こうには低い山並みが続いている。山が北風を防ぎ、水が豊かな草原の地である。
1時間ほど見学ののち、エルデニ・ゾー僧院を出て、日本のJICAの援助で2011年に新設されたハラホリン博物館へ向かった。エルデニ・ゾー僧院の見学だけでは、ハラホリンに来た意味はない。

世界遺産 モンゴル帝国の首都カラコルム遺跡 ハラホリン 亀石 鷹

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鷹の肩のせ。エルデニ・ゾー僧院入口。ハラホリン。
201477日(月)エルデニ・ゾー僧院を出て、僧院北東裏の亀石へ向かったときに、道路反対側の土産物街の外れに鷹がいることに気が付いた。車を停めて、様子を尋ねると、鷹を肩に乗せるアトラクションだという。
 
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鷹の肩のせ。エルデニ・ゾー僧院入口。2000
Tgの料金を支払うと、革の長手袋をはめさせられた。手首あたりに鷹の足が乗っかる。鷹も鳥の中では大型なので2~3㎏ほどの重量感があった。
チンギス・ハーンか徳川家康になったような気分で面白かった。
僧院北東裏の亀石へ向かう。
 
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僧院北東裏の亀石・カラコルム遺跡方面入口。車は入れないので、徒歩で10分ほど歩くと、亀石に至る。
 
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僧院北東裏の仏塔。隅部が装飾が特に豪華になっている。
 
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亀石。亀趺という石碑の台石が残っている。
 
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亀石付近。土産屋が机に商品を並べている。
 
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モンゴル帝国の首都カラコルム遺跡。亀石の北100mほどに、発掘されている一画がある、カラコルムの中でも大規模な敷地を占めていた寺院の一画と思われる。
 
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カラコルム遺跡。
 
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カラコルム遺跡。亀石、エルデニゾー方面。
車で5分ほど南のハラホリン博物館へ向かう。
 
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ハラホリン博物館。2011年に日本の
JICAの援助で開館した。
 
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カラコルムの推定復元模型。ハラホリン博物館。モンゴル帝国の首都カラコルムは、
1235年チンギスハーンの息子第2代ハーンオゴタイハーンによって建設された。
 
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カラコルムの推定復元模型の説明。手前下は寺院・宮殿地区でその右下にキルン(煉瓦窯)がある。上部右側が、職人居住区。その左上がモンゴル人が居住するゲル地区。
 
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カラコルムの説明。ハラホリン博物館。
政治の中心はハーンのオルド(帳殿)にある。都市は商人や職人がそこからハーンの移動宮殿に出張してハーンに法師する補給基地であった。
モンゴル帝国第4代モンケ・ハーンの時代にカラコルムを訪れた、カトリックのルブルク修道士は次のように報告している。
「モンケはカラコルムに大きなオルドを持っているが、それは都城の城壁の近くにあり、煉瓦の壁で囲まれている。その中には大きな宮殿があって、モンケはそこで、年に2回、大宴会を開く。そのほか、そこには納屋のように細長い建物がたくさんあって、ハーンの食糧・財宝がしまわれている。」
「カラコルムには二つの市区がある。一つはイスラム教徒の地区で、そこには多くの市場が開かれていて、多くの商人がここへ集まる。他の一市区は、みな職人であるキタイ人(北中国から連れてこられた人々)の市区である。この二市区のほかに、宮廷の書記たちの大邸宅がある。この町は土の城壁で囲まれて、4つの門がある。東門では黍などの穀物、西門では羊と山羊、南門では牛と車、北門では馬が売られている。
 
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カラコルム遺跡周辺の航空写真。中央やや下の方形区域がエルデニ・ゾー僧院。そのすぐ右上に亀石とカラコルム遺跡発掘地区がある。

モンゴル 世界遺産カラコルム 遺跡出土品 ハラホリン博物館

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ハラホリン博物館。ハラホリン。
201477日(月)。
エルデニ・ゾー僧院の西500mに博物館がある。
 
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ハラホリン博物館。ロビー。日本とモンゴルの国旗が飾られている。日本のJICAの援助により、2011年に開館した。
日本人として誇らしく入場できる。
モンゴル人客も多いが、韓国人、日本人団体も多い。
 
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オリエンテーション・プラザの案内。説明などに日本語表示があるので、気を楽に展観できる。
 
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オリエンテーション・プラザ。電光パネル展示やビデオ映像のほか、足下のガラスの下にはキルンが展示されている。
 
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オリエンテーション・プラザ。キルンが展示されている。
 
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オリエンテーション・プラザ。キルンの図説。カラコルムの南西地区にあった寺院の南東端に設置されていた。
 
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迦陵頻伽。
 
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カラコルムの暖房設備模型。
 
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阿弥陀如来像。
 
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故事鏡。
 
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 海獣葡萄鏡。
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 軸受、留めねじ。
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カラコルムの工業化を示す遺跡出土物。
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金製腕輪と型。
 
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パスポート。
 
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アーユシュリーダラ・ハーンの印。
 
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カラコルムのペルシア語碑文。
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勅賜興元閣碑断片。
 
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炉。
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御嶽山の展望台 寺田小屋山 岐阜県下呂市

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噴煙を上げる御嶽山。平成26年10月10日(金)。
岐阜県下呂市の寺田小屋山(1505m)に登った。
歩行時間は、白草山登山口横の林道ゲートから往復で、上り1時間22分、下り1時間4分。
この山の魅力は「なんといっても秀麗な御嶽山を間近にする眺望」にある。周辺で御嶽山の眺望の良い山は日本200名山の小秀山、300名山の奥三界岳、夕森天然公園、南木曽岳、夕森山、白草山、下呂御前山などがあるが、いずれも18~10年ほど前には登っているので、先週の御前山に続き未踏峰を捜すと、寺田小屋山が浮上した。以前にも検討したが、「名古屋周辺・続山旅ガイド」には、御嶽山の展望台と紹介されているが、稜線上はササを掻き分けての道と書いてあったので、後回しにしてそれっきりになっていた。
 
地図はヤマケイ「名古屋周辺の山200」を使用。登山口はネット情報によると、林道に車乗り入れ禁止区間が追加されたため、白草山と共通となっている。
 
10月9日15時30分に名古屋市守山区の自宅を出て、41号線の道の駅「白川」で車中泊。10月10日7時過ぎに道の駅を出て、乗政温泉方面へ向かう。温泉を過ぎたあたりから、樹林で暗くなり、ライトを点けて坂道を登る。左折して幅広の道を進むと、黒谷林道入口に到着。左の寺田小屋山方面への林道はロープで閉鎖されているので、道路を戻って、路肩の臨時駐車場に駐車。この道路には他に5台停まっていたが、寺田小屋山の往復で誰とも出会わなかったので、白草山へ登っていたのだろう。白草山は人気がある。
 
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登山口(取付点)。
8時47分に駐車帯を出て、8時51分に白草山登山口横の林道ゲート通過。舗装林道を歩いて「登山口まで1.7㎞」ポストの林道ゲートを9時5分通過、左右に案内板のある登山口(取付点)に9時30分に着き、未舗装林道から左の山腹に取り付いた。
 
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御嶽山展望地。登山口からは緩い上り坂が続く。10分して、何でもない岩盤で滑って、両手を着き、苔むした岩に注意する必要を再認識した。苔岩が続く区間を過ぎると、ササの枯葉が岩を隠す危ない区間があり、笹原を登り切って、10時1分頃稜線に到達。数分後に左にコンクリートブロックのある地点に着いて、振り返ると御嶽山山頂南西下部から噴煙を上げる姿が大きく見えた。帰路では雲がかかって隠れるということがあるので、念のために往路で御嶽山を撮影した。
帰路でこの地点に来たら、雲が山頂付近を続けて流れていく状態だったので、取りあえず撮影しておいて良かった。
 
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乗政集落が左下に広がり、コンクリート土台のみが散乱する地点を登っていく。
 
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寺田小屋山の山頂に10時13分到着。登山道の途中のような山頂には、二等三角点がある。展望はほとんどない。
10時17分に下山開始。
 
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乗政集落。5分ほど撮影に要した。
御嶽山展望地のコンクリートブロック地点へ10時26分到着。スニッカーズを食べたりしながら、雲が取れないか待ったが、北から雲が続いているので、諦めた。
10時39分に出発。岩で滑らないよう慎重に足を置く地点を選ぶ区間を経て、11時9分登山口(取付点)に到着。未舗装林道を歩いて、11時30分に上のゲート通過、11時40分に下のゲート(登山口)に到着。11時43分に駐車帯へ帰着。
乗政キャンプ場で昼食にカレーを食べ、12時40分に自宅へ出発、15時10分に帰宅した。
白草山のように山頂から御嶽山を見られないので人気はないが、稜線上からは雄大な御嶽山を見ることが出来たので、満足した山行となった。

モンゴル 世界遺産カラコルム ハラホリン博物館 考古資料編

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ハラホリン博物館。ハラホリン。201477日(月)。
カラコルム遺跡出土資料のほかに、考古資料も展示されている。
 
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匈奴の文化財。
 
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くつわ。青銅製装飾品。BC3000~BC800年。スキタイ文化以前の騎馬遊牧民の青銅器時代。
 
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スタンプ。青銅製装飾品。BC3000~BC800年。
 
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留め具。鐘。青銅製装飾品。BC3000~BC800年。
 
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馬形の飾り。青銅製装飾品。BC3000~BC800年。
 
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ナイフ。錐。青銅器。BC3000~BC800年。
 
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ハンマー。斧。青銅器。BC3000~BC800年。
 
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バガ・エレーンの石人。レプリカ。突厥時代。
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ハル・バルガス碑文断片。ウイグル時代(8~9世紀)。
黒い城という意味のハル・バルガスはウイグル帝国の首都であった。その遺跡は、本博物館より35㎞北東の草原、オルホン川のそばに今も残っている。
この断片は、遺跡のなかの支城と思われる部分から発見された。碑文はルーン文字、ソグド文字、漢字で書かれ、その建立が832年であったことを伝えている。
この碑文は、マニ教の勝利を讃えている。ある説によると、この支城はマニ教の中心地であった可能性がある。
ウイグルはその領土に25の街を建てたが、首都以外で規模が最大であったのがカラコルムであった。川沿いにあり、流通の便が良かったという理由による。
すなわち、チンギス・ハーンがカラコルムを自らの帝国の首都に定めたこの場所には、既に都市基盤があったのである。
 
ハル・バルガス遺跡は翌日に見学した。
 
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土器片。契丹時代(10~12世紀)。
 
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契丹時代の窯模型。
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モンゴル帝国時代の貴人層のゲルの移動模型。
30分余り見学して、退館。12時を過ぎ、昼食を摂ったあと、西のアルハンガイ県ツェツェルレグ方面へ向かった。

モンゴル アルハンガイ県 ツェツェルレグ ボルガン山 アルハンガイ県立博物館

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ホーショール。
201477日(月)。12時頃、ハラホリンのハラホリン博物館見学を終え、西のアルハンガイ県へ向かうことになったので、ハラホリンで鄙びた食堂に入り、昼食を食べた。
ホーショールとは揚げ餃子のことで、中の肉は羊なので不味い。
スーテイ・ツァイというミルクティーは食事には付き物なのだが、薄いミルクという感じで、じきに飽きてしまうのだが、強制的に大量に飲まされることになる。
 
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アルハンガイ県への道中。オルホン川の向こうに、エルデニ・ゾー僧院が見えている。
 
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アルハンガイ県への道中。羊の横断。
 
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アルハンガイ県への道中。ハラホリンはウブルハンガイ県にあり、その北西にアルハンガイ県がある。これが何かは分からないが、県境の標識ポイントかもしれない。
 
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アルハンガイ県への道中。県境の標識ポイントらしき場所の風景。岩山の下に道路が走り、その横にゆったり川が流れ、牛が水を飲んでいる。川の先の赤い屋根の建物はレストランである。何故分かるかというと、何とその奥にかすかに見えるゲルが本日の宿となったからである。
 
ところで、ハラホリンツアーを依頼したとき、地球の歩き方のコピーを示して、エルデニ・ゾー僧院、ホショーツァイダム博物館、ハル・バルガス遺跡のほかに、ツェンケル温泉も依頼したのだが、あいまいなままだった。
ツェンケル温泉はアルハンガイ県の県都ツェツェルレグから東南へ約28㎞、車で1時間半と書いてあるので簡単に行けそうなのだが、打ち合わせ時点で難しそうだった。
前日宿泊した夜のゲルで、運転手に行けないのかと尋ねると、泥濘がひどく、迂回しても四駆でなければ無理という。車が二駆では仕方がない。しかし、日本人経営の宿は、ツェツェルレグまで有料送迎すると書いてあることを説いたが、一向に話が通じなかったので諦めた。温泉の1ページ前に記載されていたのが、アルハンガイ県立博物館とタイハル岩だったので、その二つを見学することになったようだ。
 
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アルハンガイ県の県都ツェツェルレグ。県都だけあって、さすがに近代風の民家が密集している。
 
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ボルガン山。ツェツェルレグの北にそびえる岩山で、標高1980m。町を見下ろす南東側斜面の中腹に大仏が建てられている。
門から長い階段が登り、山の麓に僧院らしき建物が見えている。
門の近くに、アルハンガイ県立博物館がある。
 
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アルハンガイ県立博物館。ツェツェルレグ。入口。入口の建物を出た右の小さい建物に受付のおばさんがいた。
 
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アルハンガイ県立博物館。今は博物館だが、元々はエルデニ・ゾー僧院と同じ1586年にモンゴルの高僧ザヤ・ゲゲーンのために建てられた寺で、ツェツェルレグはこの寺を中心とした門前町であった。
1937年の仏教弾圧により多くの寺院が破壊されたが、残った寺院を博物館とした。
内部の展示はこの地方の民俗を紹介している。
 
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オオカミの石碑。博物館の中庭に展示されている。582年建立。雌オオカミが人間の乳児を育てている姿を上部に表現し、突厥の祖先はオオカミだったという始祖神話を記念している。
中部アルハンガイ県のブガットで1956年に発見された。
 
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オオカミの石碑。下部。ソグド文字により、突厥時代の王、ニヴァル(527年)、ブマン(552年)、ムクハン(552~572年)、タスパル(572~581年)の事績が刻まれている。
このあと、街外れの樹林帯の坂道を下って、タイハル岩へ向かった。

モンゴル  草原のゲルに泊まる タイハル岩

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タイハル岩。
201477日(月)。アルハンガイ県の県都ツェツェルレグから峠越えをして、樹林帯の坂道を下って草原帯を走り、本道から右へ逸れると、ツーリストキャンプが見えると、その先にタイハル岩が佇立していた。
人気観光地らしく、家族連れの車が10数台ほど駐車していた。
 
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タイハル岩。高さは約26m。BC
6000年頃から、シンボルや動物が刻まれている。文字もチベット文字、古モンゴル文字、契丹文字、ウイグル文字、満州文字、漢字、ルーン文字が刻まれ、年代的にも突厥時代からの歴史的人物が言及されている。
 
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タイハル岩。現在見られるものは、20世紀半ば以降の観光客の落書きが多い。岩の頂上付近まで落書きされているので、登って書いたということだろう。裏側に登り易いルートがあって、少し挑戦してみたが、ケガをするわけにいかないので、諦めた。
 
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タイハル岩。仔馬(ロバかも)とヤクがチョイ乗り用に用意されている。
 
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タイハル岩。仔馬でタイハル岩を一周した。2000
Tg
 
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タイハル岩。ヤクに乗ったのは初めてだった。1000
Tg
16時30分頃となり、やや暗くなってきた。本日の見学はここまで。車はツェツェルレグへ戻り、さらにハラホリン方面へ進み、昼に休憩した県境の岩と川のそばの現住ゲルへと辿り着き、今夜の宿とすることになった。全て、運転手まかせである。
 
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ゲル。何もやることがないので、伝統服を着せられた。羊毛製と思われ、大きい、厚みがあるので暖かい。
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ゲル。ストーブを焚くぐらいなので、温度は低い。朝の気温は13度だった。ベッドに運転手持参の寝袋を敷いて寝た。反対側のベッドには住人が寝る。
宿泊料は1万5千Tg(約830円)。運転手は車の中で車中泊。トイレは草原の窪地。夜間は犬が見張っているので、外に出るなと注意された。
 
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食事。夕食は道路沿いのレストランで、野菜と羊肉の炒め物。上等な食事である。ここは幹線道路なので食堂があるが、ある方が珍しい。残念ながら、食堂にはトイレはない。街中の食堂にはトイレはあるが、ゲルで生活しているような地帯では食堂はない。あってもトイレは用意されていない。あっても、中国式厠。
 
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現住ゲル。オートバイや乗用車が乗り物になっている。幹線道路に近いということもある。家族はおばあさんから幼児まで8人ほどだったか。
 
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仔牛。子供たちが面倒を見ていた。
 
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羊の群れ。これが、この家族のメインの家畜。
 
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柵の中の羊たち。立っているのも座っているのもいる。子供たちが羊の群れを移動させていた。
オオカミはいるとのこと。
 
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草原。道路の反対側にも川が流れていて、夕方は子供たちが近くで遊んでいた。
 
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朝のゲル。衛星テレビはどの現住ゲル住民も持っていて、夜の1時間ほど家族で見ていた。
 
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ゲルの食事。パンは購入したものをストックしているようだった。パンに付けて食べるのが、乳製品のウルムで、これが定番の朝食スタイルである。不味くはないが、それほど食べたいものではなかった。
運転手が、車に飲料水タンクを載せているので、歯磨き用や顔を洗うために使用した。住民が用意していることもある。
7月8日(火)。9時頃、ゲルを出てハラホリンへ向かった。
 
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草原の中の御馳走。牛の胴体を鳥がついばんでいた。
 
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ハラホリンとオルホン川。たしかに、この辺りは水が豊かで、遊牧民には生活しやすかったことが分かる。
 
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ハラホリンのナーダム会場。音楽が聞こえて、馬が走っている様子が見えていた。町の西外れが会場となっていた。地方のナーダムの開催時期はウランバートルの中央ナーダムの前後に分散している。
 
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ハラホリンとオルホン川。
 
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ボーズ。肉餃子。12時頃、ハラホリンのレストランで。羊の肉なので、豚肉に慣れた舌には不味く感じる。8個で5500
Tg
 
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エルデニ・ゾー僧院。僧院の西の道路を通り、北東方向のホショーツァイダム博物館へ向かった。
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