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播磨富士 笠形山 登山 兵庫県市川町

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笠形山。南山麓から。大鳥居登山口から往復。上り1時間20分、下り57分。
兵庫県市川町。平成26530日(金)。昨日の雪彦山に続き、本日は笠形山への登山。翌日は氷ノ山を予定していたので、幕間つなぎのようなもの。とはいえ山頂から播州平野を一望する一等三角点というフックに釣られて眺望には期待できる。標高939m。播磨富士。関西百名山、近畿百名山、ふるさと兵庫50山の一つ。
西脇市の道の駅「北はりま」から西に進み、舟坂峠のトンネルを越え、瀬加の集落に着くと、大駐車場があり、笠形山登山者はここに駐車してほしいという表示があった。ヤマケイの登山ガイドもここを起点にした周回コースを推奨している。おそらく、その方が笠形山を満喫できるのだろうが、下山後の観光時間を考慮すると、ピストンにならざるをえない。
1㎞ほど先に大鳥居があり、駐車スペースに駐車。他に車はなく、帰りにバイクが1台来て、若い男が携帯で長い時間話をしていたぐらいだった。登山道として舗装された林道が続いているが、土木工事のため大鳥居地点でフェンス閉鎖中。迂回登山道はその横から通じている。
822分大鳥居登山口出発。迂回登山道の標識にしたがい、こんなところにと思う笠形寺の石段を登ると、迂回させられて林道に出て、ブルドーザーの脇を通り、大規模な土木工事中の林道を進む。九十九折の舗装林道や短絡歩道を繰り返して登ると、休み堂に出て、林道が終点になったところに、笠形神社の境内地が広がっていた。93分到着。
 
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笠形山。笠形神社。本殿・中宮・拝殿などの社殿は横長に削平された境内地に列なり、登山道はその左横を進む。境内には数百年を経た杉や檜が生い茂る。
 
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笠形山。笠形神社。約
1300年前、孝徳天皇の時代に創建されたと伝えられる。建造物の装飾彫刻は日光東照宮の彫刻を源流とする江戸時代後期の作という。
 
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笠形山。笠形神社。ヒノキ伐採跡。昭和34年の国宝姫路城の大修理の際に天守閣の心柱とするため、笠形神社のご神木であったこの檜が伐採された。兵庫県中学校道徳副読本「心かがやく」の中で「運命の木」として紹介されているという。
登山道を進み、933分笠ノ丸に到着。休憩所があり、一応山頂なのだが、ジャンクション・ピークになっていて、ここから笠形山へは大きく東へ迂回して、途中のピークを越えて登山道が付けられているので、アップダウンを繰り返しながら、笠形山の山頂へ向かうことになる。
 
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笠形山。山頂。標高
939m。一等三角点。951分到着。崩壊した東屋の廃墟がある。
 
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笠形山。山頂。南の瀬加集落。遠望はきかない。
 
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笠形山。山頂。右の笠ノ丸から左のピークを周回して笠形山へ至る。直線距離としては長い。
 
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笠形山。山頂。播州の山並み。遠望はきかない。
108分下山開始、往路を下る。登山者6人ほどと対向。大鳥居登山口へ115分に帰着。
南麓の市川町せせらぎの湯温泉で入浴。600円。快適で客も多い。紙おむつ禁止の表示を初めて見た。1245分、多可町加美区奥荒田の平成の名水百選「松か井の水」へ向かう。

兵庫県多可町 松か井の水 杉原紙研究所 朝来市 赤淵神社 池田古墳

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松か井の水。新松か井の水公園。平成の名水百選。兵庫県多可町加美区奥荒田。平成
26530日(金)。市川町の笠形山登山と温泉入浴のあと、松か井の水へ向かった。上り坂を山の中へ入って行くと、新松か井の水公園はすぐ分かる。広い駐車場と多くの取水口が整備されている。自動車で横付けできて便利。
松か井の水は室町時代末期、播磨の国を治めていた赤松義村が定めた「播磨十水」のひとつ。土砂により所在不明になっていたが、地元古老等の確認により約30年ぶりに復活した。また、高坂トンネル工事着手の折、工事現場から大量の湧水が出たため、県道8号加美宍粟線沿いに新松か井の水公園として整備された。
国道427号を北進し、杉原紙研究所へ向かう。
 
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杉原紙発祥之碑。多可町加美区鳥羽。杉原紙研究所の玄関前に立つ。道の駅「かみ」から橋を渡った対岸にある。昭和15年
寿岳文章と新村出が杉原紙のルーツを求めて杉原谷を訪ね、この地が発祥の地であると明確にした。昭和41年「杉原紙発祥之碑」が杉原谷小学校内に立てられた。
昭和47年町立杉原紙研究所が設立されて以降、本格的に再興された。
杉原紙は夏目漱石の「吾輩は猫である」に出ていて、覚えている。「杉原(すぎはら)と書いて、‘すい原’と読むのさ」「妙ですね」「なに妙な事があるものか。名目(みょうもく)読みと云って昔からある事さ」という一節である。
杉原紙は播磨国多可郡杉原谷で漉かれた和紙のことである。平安時代中期から室町時代まで杉原谷は藤原摂関家の荘園であり、ここで漉かれた紙は「椙原庄紙」とよばれ、贈答・献上品として貴族や幕府に珍重された。本格的に普及したのは鎌倉時代に入ってからで、奉書紙や檀紙よりも厚さが薄く、贈答品の包装や武家の公文書にも用いられた。ただし、書札礼によれば重要な文書では杉原紙は使わないものとされていた。だが、杉原谷は京都に近く、大量に製品が流入したことから、比較的低廉であったため、高級紙の代用品として用いられた。明治に入ると、洋紙の普及により、紙漉き業者が減少し、大正末期に一旦途絶した。
 
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杉原紙研究所。工房見学と紙すき体験ができる施設。
隣接には杉原紙販売、工房「紙匠庵でんでん」、和紙博物館「寿岳文庫」がある。寿岳文庫では杉原紙にまつわる寿岳文章蔵書や展示のほか特別作品展も開催している。
 
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杉原紙研究所。内部では様々な工程が行われている。奥へ進むと、楮みだしという不純物やチリを除く工程や調整・染色の部屋があった。
国道427号線遠坂峠を経て和田山へ向かう。私の前に大型トラックが走り、カーブのたびにすれ違いで停止したため、神経と時間を減らした。
 
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赤淵神社。朝来市和田山町枚田上山。鳥居から石段を登った丘の上に神社の境内がある。右の狭い道路を登った左側に駐車場がある。
赤淵神社は。但馬で勢力をもった日下部一族の氏神で、祖先神である赤淵足尼命を祀っている。越前朝倉氏が。但馬日下部氏の一族であることから、朝倉義景が氏神の当神社に宛てた手紙が残る。
 
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赤淵神社。社殿。
祭神の赤渕足尼命は表米宿禰命の祖で、表米宿禰命は日下部氏の祖。表米宿禰命が外寇討伐のおり、沈没しかけた船を大海龍王がアワビの大群を用いて救ったという伝説が残る。
 
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赤淵神社。本殿覆屋。重文の本殿は、鎌倉時代末期から室町時代初めの建築で、県内最古級の神社建築である。覆屋のため、内部はよく見えない。
 
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赤淵神社由来記。境内の石碑。「號日下部表米宿禰命 赤淵宿禰五世孫而忠功有奉聞 丹後丹波但州三箇國可為
守賜宣使本國也 然而惣名日下部姓始祖神表米御子在所分附給 朝倉 絲井 奈佐 日下 八木 本山 太田垣 宿南 姓是也 是皆在所名也 」などの文言があり、戦国時代の朝倉氏、八木氏、太田垣氏などの名が見られる。
 
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池田古墳。朝来市和田山町平野。但馬地域で最も大きな古墳で、但馬の王墓と推定される。全長が約
130mを超える前方後円墳で、5世紀初めの築造とされる。発掘調査により、周濠や造り出し・渡土堤・埴輪列などが確認された。
出土した水鳥形埴輪から畿内中心部の大王墓と共通する要素がみられ、畿内との密接なつながりを感じさせる古墳である。
古墳の上の国道9号線にアーチ橋をかけて保存されていたが、騒音の苦情のため撤去されたという。後円部墳丘上には民家が建っており、立ち入りはできない。
なかなか見つけにくい古墳であった。
 
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池田古墳。平野区青年部有志の案内看板。なかなか立派である。
5世紀に朝来市和田山町で池田古墳や茶スリ山古墳を作った地域には、大薮古墳群クラスの横穴式石室を持つ古墳はない。こうした事から、6世紀になって朝来市和田山町から養父市養父地域に但馬最大の政治権力の中心地が移ったとする説がある。
このあと。翌日の氷ノ山登山に備えるため、道の駅「ハチ北」へ向かった。道の駅に着いて、しばらく様子をうかがっても、登山基地という雰囲気はなかったので、思い切って登山口の福定親水公園へ向かい、1730分過ぎに登山口の駐車場へ到着した。

登山 氷ノ山 福定親水公園・東尾根周回コース

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氷ノ山。登山口の福定親水公園。福定親水公園・東尾根周回コース。歩行時間上り2時間5分、下り1時間36分。所要時間4時間6分。
平成26年5月31日(土)。
氷ノ山は超人気の200名山だが、私は初登となる。8年前の4月下旬に中国地方の2・300名山を制覇しようと、三瓶山から那岐山まで登頂したあと、鳥取県若桜町側から氷ノ山にアタックしたが、残雪のためルートを迂回して笹薮と灌木の山腹を登って苦闘、3時間後に諦めて敗退した因縁の山である。そのときは、扇ヶ山もあきらめて帰宅した。
1996年夏から登山を始めて、遭難のニュースに敏感になっていたとき、19971月下旬に氷ノ山で6人が遭難死したことは記憶に残っている。しかし、日本海に近い豪雪の山も無雪期は初心者レベルの山になる。
 
前日、道の駅「ハチ北」で車中泊しようとしたが、登山基地という雰囲気に乏しかったので、思い切って登山口の福定親水公園へ向かい、1730分過ぎに登山口の駐車場へ到着した。2・3台が駐車していたが、車内に人の気配はない。金曜日の夜なのに、人が少ないどころか、無人とは登山ブームなんて本当にあるのかと感じた。15分ほどすると、バンと車が着て6人ほどの男子学生と40代の男性が、大きなザックをかついで、登山口から駆け足で登っていった。これから、大荷物で登山かと思いながら、車内でカレーを食べていると、40代ほどの男性が下ってきて、車で駐車場を出て行った。数百mほど登った地点から話し声が聞こえ、20時ぐらいから先ほどの学生たちが、トイレにやってきたのでテン泊してると分かった。
 
5月31日(土)。4時30分頃になると明るくなり、周りを見渡すと、夜中のうちに5台ほど来ていた。その後も続々と到着して6時過ぎには20台ほどとなり、ようやく人気山域らしい雰囲気になってきた。帰路の11時ごろには、すぐ横の駐車場も満車になっていて、合計60台ほどのスペースは埋まっていた。
食事をしたり、準備したりしているうちに、30人ほどが出発していった。
6時58分福定親水公園登山口を出発
 
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氷ノ山。氷ノ山越避難小屋。単独は少なく、複数が多い。小石の多い河川敷を進むと、聞くともなしに中年男性2人組の会話が耳に入ってきて、その人たちの登山レベルが判別でき面白かった。滝の案内看板が重なる個所は九十九折の登りになり、往路では一番厳しい区間だった。前方に熟年夫婦がいた。5年ほど以上前であれば、姿をロックオンしてから離間距離を考えて、ウサギとカメ算方式で、あと何分で抜けるか大体計算できる。しかし、なかなか抜けずに、計算より倍の時間を要して、歩行能力の衰えを痛感させられた。抜いたときに、夫から、早いな、と嘆かれたが、嘆くのは私の方だった。
7時31分地蔵堂を通過。この近辺は緩やかな道で楽勝かと思ったら谷川の渡渉があった。両側は崖で下って、川を渡り、上る。上りは鉄梯子が用意されていて、久し振りに使用した。といっても、全く容易な通過箇所にすぎなかった。
8時17分氷ノ山越避難小屋に到着。ここまでくればゴールは見えてくる。給水して2分休憩。
8時19分出発。氷ノ山の山頂台地を左に見て、反時計回りに稜線を緩く登って行く。すると、前方から昨夕の学生団体が走り下りてきた。引率者が走り方の指導をする声も聞こえた。下る速度は私と同じぐらいだが、50ℓほどのザックでは私にとっては危険である。早朝のうちに移動して、東尾根から登ってきたのか。山頂台地へは山腹を左へ回り込んで、右へ斜登するかっこうに登山道が付けられていて、傾斜はきつくない。
 
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氷ノ山。山頂。標高1509m。9時5分到着。三角形の小屋は本や雑誌でなじんでいて、これかと感動した。周辺には20人ほどいて、小屋の中にも7人ほど青年のグループがいた。
 
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氷ノ山。山頂。北北西の方向。氷ノ山越までの稜線が見える。右奥のなだらかな山が扇ヶ山のようだ。
 
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氷ノ山。山頂。北東方向。鉢伏高原(ハチ高原
スキー場)と鉢伏山。
9時23分東尾根登山口へ下山開始
 
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氷ノ山。神大ヒュッテ。15分余りで到着。入口に休憩する人多し。通過する。下ってみると、ここで休憩したくなる気持ちが分かった。
しばらくは山腹横の巻道のような道が続く。結構、東尾根から登る人が多いと分かった。福定親水公園よりも短時間という理由だろう。下山する若い男性二人を抜いたら、一人が追いかけてきたが、じきに気配はなくなった。尾根から左へ下る階段道が急降下で、大変だった。奇声がすると思ったら、20人ほどの団体の先頭の青年が気合を入れて登っていたところだった。
東尾根登山口が見えだしたときに、左足後大腿部に痙攣の前駆症状が2回ほど現れた。当然ながら芍薬甘草湯は事前に服用していたにも関わらず、久し振りの長時間の山行だったせいか。スピードを落とし、騙し騙し下らざるを得なくなったが、ほんの5分程度で東尾根登山口に着き、ケイレン症状は治まった。
 
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氷ノ山。東尾根登山口10時30分到着。ちょうど30人ほどの学生風男女の団体が登るところだった。一応、挨拶は交わすが相手が多すぎる。といっても、山で挨拶は基本だ。さすがに、ポカリスエットの粉末を含んで、水で流し込んだ。
10時35分出発。舗装道を福定親水公園へ向かう。脇に、水道施設があり、車が10台ほど駐車していた。ロッジを通過するときに、また昨夕の学生団体が走ってきて、東尾根登山口へ向かっていた。後ろから、別の指導者が、この道は走るんだ、と檄を飛ばしていた。彼に、大学生ですかと、尋ねると、高校生ですと回答を得た。国体競技か何かだろうか。山を走る若者が育ってほしいと願いつつ、頑張って下さい、と声をかけた。
舗装道は曲がりくねって、距離が長く感じられた。
11時4分福定親水公園へ帰着。まだ、帰る車はなく、上下の駐車場は満車だった。
道の駅ハチ北で見かけたハチ北温泉へ向かう。
 
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ハチ北温泉湯治の郷。兵庫県美方郡香美町村岡区大笹。土日祝の季節営業期間だった。入浴料620円。駐車場は暑い。浴場内にはミストルームがあり、霧状の源泉を浴びた。客が少なくてゆったりできた。
このあと、平成の名水百選「かつらの千年水」へ行くので、場所を尋ねたら、すぐ上の北の地区だったので、運が良かった。
翌日の扇ヶ山で今回の9山の山旅は終わる

兵庫県香美町 かつらの千年水 

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かつらの千年水。平成の名水百選。香美町村岡区和池。平成26年5月31日(土)。氷ノ山登山後、ハチ北温泉湯治の郷で入浴。温泉街の狭い道を北上し、平成の名水百選「かつらの千年水」へ向かった。但馬高原植物園近くの道路脇に自動販売機コーナーが建てられ、20リットル100円でかつらの千年水が販売されている。
すぐ北西に樹齢千年の和池の大カツラがあり、根元から大量の水が湧き出すように見えることから名付けられた。
かつらの千年水。1日に約5千トンの水が、こんこんと湧き出て、水温は年間を通じて約10度。色、透明度、におい、味などどれをとっても優れた名水である。
 
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かつらの千年水。
無料の水を捜すと、カツラの大株の後ろに取水口があった。沸騰して飲むように注意書きがある。
「木の殿堂」に寄ったが、駐車場が満車で立ち寄りはあきらめて、国道9号へ戻り、村岡の猿尾の滝へ向かった。
 
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猿尾の滝。日本の滝百選。香美町村岡区日影。上下2段に分かれた滝で、下段の滝が猿の尻尾に似ていることからこの名前が付いたという。上段の落差39m、下段の落差21m、総落差60mの大瀑布である。
国道9号から東に入ると、売店と大駐車場がある。そこから滝壺までは徒歩5分ほどと、日本の滝百選では珍しく楽なアクセス。しかも入場無料とはありがたい。左の上の滝壺へ登る道は閉鎖されている。
 
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猿尾の滝。猿尾の滝は妙見山にある名草神社参道から眺望される滝として古来より知られていた。江戸時代、この地を治めていた村岡藩主の8代藩主山名義方は、この滝を描くことが好きで夏にはソーメン流しをして楽しんだと伝えられる。
熱心な写真愛好家が二人いて、景観を占拠していた。
 
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猿尾の滝。売店で入手した「猿尾の滝の七不思議」というチラシには、上段の滝の中ほどに仏様、マリア様、岩ザル、観音様、3人のマリア像が見えるという。前者3像は下の滝壺から見えるというのだが、岩の形はそれらしくてもなかなか特定できない。上下段の交点の右側は確かにゴリラの頭に見えなくはない。数々の仏様を拝んで御利益があったという話もチラシには書かれていて、面白い。親しみやすいのは滝百選の中でも珍しい。
 
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山名陣屋跡。御殿山公園。香美町村岡区村岡。村岡藩は山名宗全の末裔で因幡を本拠とした山名豊国が、関ヶ原の戦の功により、七美庄6700石を徳川家康から拝領し、慶長9年(1604)に村岡区福岡に陣屋を構えたことにはじまる。寛永19年(1642)3代山名矩豊が黒野村を村岡と改称し、現在の民俗資料館「まほろば」付近に移した。
文化3年(1806)8月に御殿山に城郭造りの陣屋を新築し、明治維新の廃藩に至った。
山名氏は3代矩豊のときに寄合衆に列せられ、外様大名待遇とされた。明治元年11代義済のとき加増されて11000石となり、村岡藩と呼ばれるようになった。義済公は廃藩に際して、いち速く自ら陣屋を壊して尊皇恭順の意を示したといわれる。
平成3年に山名氏入部350周年を記念して、御殿山公園が整備された。
道の駅「村岡」横の観光案内所で御殿山公園と山名蔵のアクセスを尋ねた。手描き印刷の地図を貰って、JA南東側の交差点を戻り気味に右折し、狭い山道を登ると、公園に出た。塀があるだけで特に施設はない。展望を求め、さらに狭い舗装道を登ると、頂上台地のグラウンドに出た。案内所で言っていたとおり、10人ほどがグラウンドゴルフをしていたが、それだけだった。下界の町並みへの眺望もそれほどないが、小さい城下町という雰囲気はある。
山名蔵へ向かった。
 
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法雲寺。香美町村岡区村岡。天台宗。山名蔵(山名史料館)が境内にある。法雲寺は村岡山名3代矩豊が福岡から陣屋を村岡に移した際に在郷の禅院であった報恩寺を法雲寺と改めて街の中心に据え、山名氏祖山名義範以来の歴代当主の位牌を祀り、山名氏の総菩提所と定めた事に由来する。
報恩寺は当地の多くを荘園とした妙心寺の第2世宗弼(藤原藤房の出家後の名)が荘園の政所として建立した寺という。
 
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山名蔵(山名史料館)。村岡山名氏所縁の武具・書画を展示している。法雲寺のベルを鳴らしても応答がなかったので、入館できなかった。事前に予約すれば、良かったのだろうが。
案内所の女性職員が勤務していたという村岡民俗資料館へ向かった。
 
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香美町立村岡民俗資料館「まほろば」。香美町村岡区村岡。建物は明治27年に建築された旧美方郡役所で、昭和63年に解体復原し、資料館とした。入館料150円。
1階は子供の遊び場で、資料館は2階にあり、村岡区内で発見された考古資料を展示している。
 
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村岡民俗資料館。展示。金銅装頭椎大刀。金銅装大刀。文堂古墳出土。
文堂古墳は村岡区寺河内に所在する。墳形・規模は不明だが、古墳時代後期に築造された円墳と推定される。埋葬施設は南に開口する横穴式石室(両袖型)で、全長約10.4m、玄室部は長さ約4.6m、幅約2m、高さ約2.1mを測る。出土遺物に金銅装頭椎太刀、金銅装環頭柄頭、金銅装方頭柄頭、銅鏡、玉類、馬具、土師器、須恵器などがあり、県の重要文化財(考古資料)に指定されている。
金銅装頭椎太刀は兵庫県内で最も豪華絢爛な出土品といわれ、復元品が兵庫県立考古博物館にある。
 
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村岡民俗資料館。展示。金銅装双龍環頭柄頭。金銅装方頭柄頭。文堂古墳出土。
重文級の出土品を鑑賞できるとは思わなかった。
氷ノ山登山後で、翌日の扇ノ山登山を控えているので、道の駅「村岡」へ向かった。

日本300名山 扇ノ山 諸鹿越往復 兵庫県新温泉町

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扇ノ山。登山口。諸鹿越。兵庫県新温泉町。歩行時間上り53分、下り39分
平成26年6月1日(日)。扇ノ山は300名山で、昨日登った氷ノ山と同じく、8年前の4月下旬に登頂予定だったが、氷ノ山の若桜町側からの残雪撤退により、同じ状況とみて諦めた因縁がある。
ヤマケイの分県登山ガイドを見て、兵庫県側から最短時間で往復できる登山口を捜すと、諸鹿越だった。畑ヶ平林道でのアクセスとなる。長距離ドライブだが、所詮ドライブ。
 
道の駅「村岡」を出て、国道を北西に進み、新温泉町の湯村温泉を過ぎてから、左折して南進、高原地帯へ向かう。広い道路が集落の中の狭い道になったりしながら進むと、菅原集落の家並みに感慨を覚えると、ここから本格的な山登りの九十九折の道路になり、下界がどんどん視野の下になっていく。工事車2台を追い抜くと平地があり、車を下りて確かめると畑ヶ平で、目的地はまだ先だった。
 
高原の中を走ると、諸鹿越らしき場所に来て、登山口を捜す。道路の突き当りまで行くと、扇ノ山登山口の表示があった。道路は続くがこの地点で未舗装となっている。駐車スペースというより、転換スペースなので、100m余り戻った三差路のコーナーに駐車した。
三差路の先の道路は地元所有地で進入禁止の表示がある。車の外でストレッチをしていると、軽トラが来て、運転手の50歳代の男性が、山菜を採りに来た地元民と名乗り、進入禁止道路の先には大根畑があると教えてくれた。
 
8時27分登山口出発。広葉樹の中の登山道は道幅が広く、迷うこともない。しばらくすると、分岐に出て、標識に従い左折。中国自然歩道の一部なので緩やかな道が続く。6人ほどのグループと対向。どういうコースをたどっているのかは聞かなかった。ややきつい上りが続くと山頂への登山道に突き当たる。南へ緩い上りを進むと山頂は近い。
 
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扇ノ山。山頂。標高1309m。9時20分到着
2階建ての避難小屋がある。入ってみると、狭いロビーがある。2階へ昇るには、靴を脱ぐ必要があるので、ロビーに座って飲食した。単独の若い女性が外に見えたが、中には来ない。飲食を終えて、外に出ると、女性は姿を消して、熟年男性がいた。挨拶をしたが、男性はすぐに姫路登山口方面へ下ってしまった。
滞在する気にならない山頂広場のようだ。展望も余りない。
9時35分下山開始
 
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扇ノ山。展望台。鳥取県側への展望。日本海、鳥取平野が何とか見えていた。山頂から北へ3分ほどの地点にある。
往路を下る。登山口手前で2人の熟年女性が山菜採りをしていた。東側をよく見ると、開墾された畑地が広がっている。登山道を進むと監視役の熟年男性が座っていて、挨拶した。
10時14分登山口帰着。このコースの登山者は私一人。あっけない登山だった。9日間で9山登った登山の部はこれで終了した。
自分へのご褒美として、但馬牛を食べて打ち上げにしようと、手近な道の駅「村岡」のレストランへ急行した。日曜日の昼時は混雑するのは必至だ。
 
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但馬牛。牛焼肉膳とコロッケ。道の駅「村岡」。11時30分頃に着くことができ、まだ空席が多くて安心した。メニューを見ると但馬牛のステーキは高く、手がでなかったので、適当な所で手を打った。本物の但馬牛なのかは分からない。牛焼肉膳1728円、コロッケ205円。値段通りの味だった。サラダバーは無料お代わり自由だったので、5回ほど往復した。
このあと、温泉へ向かった。国道を戻って村岡温泉へ入浴。500円と安かったが、シャンプーはなく、湯質も薄くて、余り感心できない温泉だった。
このあと、養父市の名草神社へ向かった。

養父市八鹿町 名草神社 三重塔 本殿 拝殿

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名草神社。三重塔。重文。養父市八鹿町石原。平成26年6月1日(日)。
但馬妙見名草神社は、標高1139mの妙見山の8合目にある。主祭神は名草彦大神。妙見山は、山陰随一の妙見信仰の大本山として栄え、福島県の相馬妙見、熊本県の八代妙見と並んで、日本三妙見のひとつとされ、「妙見さん」と呼ばれ人々に尊崇された。
妙見信仰は、北極星(北辰)や北斗七星(北斗)を神仏として祀るもので、武家の守護神として、山名宗全など多くの武家の信仰を集めた。千葉周作の北辰一刀流も妙見信仰の表れである。
 
9日間で9山登った登山の旅も本日午前の扇ノ山で終わり、達成感と疲労感を混在させながら、村岡温泉から名草神社へ向かった。トンネルを抜けて神鍋高原、植村直己冒険館付近から南進、トンネルを抜けて、名草神社への道路を右折する手前で、名草神社への道路通行止めの看板を見た。集落を進み、端でようやく地元の女性歩行者に確認したら、冬季は通行止めで、それ以外は走行可能だが悪路だから注意して、といわれた。確かに、山を登る道路は落石が多かった。終点の駐車場付近には古い建物が点在し、清掃作業の家族数人が作業中で、おかしな雰囲気だった。参拝者はまばら。14時前に着いたが、下界の真夏のような暑さに、体が休息を求めていた。この辺りは標高が700mほどなので、確実に4度は低い。木陰を選んで車を停め、窓を開けて2時間近く車内で横になった。
16時前になり、少しは日も落ちてきただろうと、神社の見学に向かった。境内には今も樹齢250年から400年とされる妙見杉の巨木が繁る。三重塔まで5分ほどの妙見杉に囲まれた坂を上ると、鮮やかな丹塗りの塔のシルエットが徐々に大きく浮かび上がり、神秘的な光景に神々しさを感じた。
 
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名草神社。三重塔。標高760mと日本一高いところにある三重塔である。杮葺で、高さは約24m。
 
三重塔は出雲大社の境内に出雲守護尼子経久が願主となって大永七年(1527)に建立したもので、神仏習合の名残りである。妙見社が出雲大社本殿の用材として妙見杉を提供した縁によって、出雲大社から三重塔を譲り受けた。寛文五年(16651月に解体が始められて、船で日本海を渡り、名草神社の境内に5月に上げられ、雪に備えた突貫工事により9月に竣工した。
 
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名草神社。三重塔。三層目の軒下には四隅に「見ざる、聞かざる、言わざる、思わざる」を表した四匹の猿の彫刻が置かれている。
 
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名草神社。三重塔。一層目の力士の彫刻。
 
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名草神社。三重塔。一層目の力士の彫刻。
 
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名草神社。三重塔。蟇股の彫刻。梵字、蓮、牡丹、琵琶、雲の透かし彫り。
 
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拝殿。重文。元禄二年(1690)建築
。入母屋造、屋根杮葺。本殿の前に庭を隔てて相対し、正面は石垣からせり出すように崖の縁に建てられている。正面が5間で側面が2間あり、中央1間を通路とした割拝殿の形式。厳島神社を模したという。
最近の雪害により、本殿とともに応急保存の木材で養生されている。
 
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本殿。重文。宝暦4年(1754)建立。桁行9間(17.6m)、
梁間5間(9.0m)、一重、入母屋造、千鳥破風付。向拝3間(6.5m)、唐破風付、屋根杮葺。
平面は桁行7間、梁間2間を内陣とし、その前面を外陣とする。正面の向拝廻りは意匠を凝らして華やかな彫刻が用いられ、躍動感のある構成となっている。正面には千鳥破風があり、その前には唐破風をつけた豪華な造りで、正面から見た姿は日光東照宮を模したという。出石の大工と地元の大工が棟梁を務めた。
16時30分すぎ、本日の泊地である養父市八鹿の道の駅「但馬蔵」へ向かった。

兵庫県養父市 八鹿町 八木城跡 大屋町 日本の滝百選「天滝」

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八木城跡。国史跡。登城口。養父市八鹿町八木。平成26年6月2日(月)。
八木城跡は、八木川の中流域に立地する山城で、石城とよばれる織豊期の山城と土城とよばれる中世の山城の二つで構成されている。
 
八木土城は平安末期に閉伊頼国がこの地を与えられて築城したと伝わる。鎌倉時代初期八鹿町朝倉に住した日下部一族但馬朝倉氏の朝倉高清が土城の城主閉伊行光と戦い勝利をして、三男重清を初代城主に置いたのが八木城の始まりといわれ、以来15代豊信まで約400年にわたり一大勢力を保持した。
室町時代になると、八木氏は但馬守護山名氏の傘下に入り、同族で竹田城主の太田垣氏や垣屋氏、田結庄氏と共に山名四天王に数えられた。
しかし、戦国時代織田信長の命を受け中国の毛利攻略に向かった羽柴秀吉は姫路城を拠点として先ず毛利勢の及ぶ播磨・但馬を平定する。天正5年(1577)に行われた羽柴秀長の第1次但馬攻めで、城主の八木豊信は秀長に降伏し。羽柴秀吉の部下になった。天正8年(1580)には八木豊信は鳥取若桜城に移され、八木家の支配は終わった。
 
天正13年(1585)秀吉の配下であった別所重棟が新たに12000石の大名として八木城に入り、子吉治の二代わずか十五年の間在城した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに西軍に属した吉治は敗戦で所領を没収され、八木城は廃城となった。なお、八木豊信と別所吉治の子孫はいずれも幕府旗本として続いた。
 
但馬朝倉氏の居城朝倉城は八木城の東約6㎞にあり、日下部一族の氏神である赤淵神社は朝倉城の南東約10㎞に位置している。日下部一族のうち最有力であったのは但馬朝倉氏であったが、早くに歴史から姿を消し、庶家の越前朝倉氏が有力大名へと成長した。
 
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別所氏が楽市楽座を奨励して、整備したのが八木の城下町で、現在の上八木、中八木、下八木を含む東西800m、
南北では最大300mの範囲である。北側に八木城、東側には今滝寺川、そして南側を流れる八木川を城下町を守る外堀として利用した総構えという防御方法をとっていた。但馬国養父郡を治める経済の中心となった政治都市、さらに秀吉政権から任命された大名が住む軍事都市であった。
中央には東西に一本街路と呼ぶ大通り(山陰道)があり、道路は「折れ」「クランク」で見通しのきかないように工夫し、町屋が配置された。その上側には、現在は西方寺・永照寺・柳谷寺・実行寺などの寺院があり、付近には寺院や武家屋敷があったと思われる。別所氏吉治は関ケ原の合戦で西軍に属したため慶長6年(1601)に丹波由良(兵庫県丹波市氷上町)に移され、八木城と城下町は廃止となった。
 
養父市八鹿の道の駅「但馬蔵」から国道9号線を3㎞ほど西進し、八木城跡への推奨駐車場がある下八木集会場へ左折しようとしたら、国道への右折車がいて、進入できなかったので、仕方なく西進し、信号から左折して、道脇に小川が流れる城下道の旧道に入り、東進した。登校中の児童の横を進むと、北側に下八木集会場の駐車場があった。5・6台ほどの広さがあり、北側に駐車した。すぐ東に城の案内所があるとのことだったが、閉鎖中のようだった。なお、帰ってくると、車の窓に立派なパンフレット2種が挿し込まれていたので、見学者の存在には注意が払われている。
 
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八木城跡。案内図。山城への登山道は3本あるが、今滝寺への道を110mほど
入った所から尾根筋にそって登る下八木ルートが一般的である。中八木・上八木ルートは踏み跡が薄い印象があった。下八木ルートの距離は本丸まで約1㎞で、看板地点から35分ほどで本丸に到着し、土城も合せて1時間半ほどで看板地点へ帰った。
 
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八木城跡。三の丸。登城口から登城道を登ると東屋があり、中八木コースの道が下に下っている。さらに進むと、台地状の崖下に秋葉さまがある。その横からさらに登ると三の丸に着く。
三の丸は八木城で最も大きな曲輪で、長さ66m、最大幅は17mある。
 
八木城跡は、西から東へ伸びる細い尾根上に築かれた山城で、東西340m、南北260mに広がる。標高330mの最も高い位置に本丸を作り、そこから東側に7段の曲輪を作った。これが登山道に直接とりつく主尾根になる。一方、北側にも6段、さらに南側にも9段の曲輪があり、放射状に曲輪が広がる縄張りは16世紀の戦国期に発達し、山名氏とその四天王クラスの城など、大規模な城にみられる。但馬では天正3年ごろから8年にかけて多く竪掘群をめぐらせて城郭を防御する山城が増えたが、八木城には竪掘を造っていない。
 
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八木城跡。本丸。八木氏時代には本丸に石垣はなく、別所氏が八木城の中心部を現在のような石垣に改修した。このため本丸とその周辺部は、豊臣時代に改修された織豊系城郭の特徴を示している。
本丸の南側には高さ9.3m、長さ40mにわたって山石を荒割りした石材により9.3mの高い石垣を積んで防御の要とし、文禄年間(1592~1596)の構築と推定される穴太流の城郭石垣を作っている。さらに本丸には天守台や矢倉台、石塁を築いており優れた技術をみることができる。
 
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八木城跡。本丸。八木城の本丸の石垣には3つの特徴がある。第1に中央で石垣が「く」の字に折れていること、第2に高石垣にそって幅訳3.5m、
内側の高さ1.3mの石塁があること、第3に長さ14.9m、幅9.8m、高さ8.3mの櫓台石垣が付属することである。
 
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八木城跡。本丸。虎口付近。山石を荒割りした石材で9.3mの高い石垣を積んで防御の要とし、文禄年間(1592~1596)の構築と推定される穴太流の城郭石垣を作っている。さらに本丸には天守台や矢倉台、石塁を築いており優れた技術をみることができる。
 
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八木城跡。本丸。本丸は長軸47m、短軸23m
のいびつな長方形をしている。
本丸の最も奥まった所に2段の平坦地があり、天守台と思われる。
 
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八木城跡。本丸。天守台付近。並んでいるのは八木一族の供養塔という。
 
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八木城跡。本丸。南下の石垣を見下ろす。
土城への通路となっている。
 
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八木城跡。本丸。石垣を土城方向から眺める。
 
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八木城跡。土城。八木城から200mほど尾根を
奥に登ったところに土城がある。
八木土城は細い尾根上に一直線に曲輪が続く。きますので、南北朝時代に起源をもつ城郭でしょう。標高409mの高所に主郭をおき、全長は370mある。いくつかの曲輪には高さ1.01.5mの土塁が作られており、但馬の中世城郭では例を見ない大きなもので、これらは織豊期の改修だと考えられている。
 
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八木城跡。土城。主郭から下へ。主郭は16m×12mの規模で、
その縁に低い土塁を作っている。八木氏が城主となって完成した戦国時代の城郭は、八木土城と八木城が一連の城郭として機能したものであり、その中心部が土城だという。
つまり、土城の主郭が天正5年の八木氏の八木城時代には2城の両方を押さえた主郭であったと見られる。
土城には主郭を含めて看板類は設置されていないのが残念。
往路を下山し、下八木集会所から養父市大屋町筏の日本の滝百選「天滝」へ向かう。
 
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天滝。日本の滝百選。養父市大屋町筏。兵庫県最高峰の氷ノ山を源とする落差98mの
豪快な滝である。渓谷入口の駐車場から、渓流沿いの登山道を約1.2kmの往復となり、往路24分、復路16分を要した。まさに登山道で、汗だくになる。天滝までには、夫婦滝、鼓ヶ滝、糸滝などの滝群があり、最後の階段を登ると天瀧三社大権現に出て、その横に展望所がある。
 
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天滝下部。氷ノ山後山那岐山国定公園の区域にあって、原生林に覆われた渓谷沿いの遊歩道は「森林浴の森100選」に
選定されている。
天から降り注ぐかのような荘厳さからその名が付けられたとされる。弘法大師所縁とする伝承が残り、「大和長谷寺縁起」や「役の行者本記」などにもその名を残す。1996年度のNHK連続テレビ小説「ふたりっ子」のオープニングに登場した滝でもある。
 
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天滝。天瀧三社大権現
往復中は、登山スタイルの女性一人に出会っただけで、ひっそりとしていた。
汗をかいたので、八木の西にある関宮温泉「万灯の湯」へ入浴。12時前だったので100円割引の500円。
ゆったりしたあと、丹波市の黒井へ向かった。

丹波市春日町 黒井城跡 春日局生誕地の興禅寺

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黒井城跡。国史跡。丹波市春日町。南麓の丹波市役所春日分所付近から。
平成26年6月2日(月)。黒井城跡は典型的な戦国時代の山城跡で、竹田城跡と同じく雲海の城として知られる。
黒井城では天正3年(1575)と天正7年の2度にわたり、黒井城城主赤井(荻野)直正らと明智光秀の軍勢が攻城戦を繰り広げた。黒井城落城をもって丹波が織田方により平定された歴史の舞台である。
 
黒井の町並みのすぐ北側にそびえる黒井城跡は、猪ノ口山にある山城で、標高356mの頂上の本城部分を含め、山全体が巨大要塞となっており、広さは周囲8kmにも及ぶ。山中の至るところで曲輪跡や土塁、堀切りなど、戦国時代の遺構が残る。
 
黒井城は建武2年(1335)に春日部荘を領した赤松貞範(則村の次男)が山頂に砦を築いたことに始まるという。応仁・文明の乱(146777年)頃からは荻野氏が居城した。天文11年(1542)荻野氏の同族赤井直正は荻野十八人衆の盟主として請われ荻野姓を称した。天文23年(1554)直正は叔父の黒井城城主荻野秋清を殺害して黒井城主となり、「悪右衛門」と号し、勇猛ぶりから「丹波の赤鬼」と恐れられた。
荻野直正は永禄11年(1568)頃には、多紀郡を除く丹波国を支配し、戦国大名となった。この頃に黒井城に大改修が加えられたとみられる。
 
織田信長が台頭すると、元亀元年(1570)本家の赤井忠家と共に信長に降るが、翌2年に氷上郡へ侵攻してきた山名祐豊を打ち破り、逆に山名氏が治める此隅山城・竹田城を占拠。祐豊は信長に救援を頼んだことから、信長の丹波侵攻を招くこととなった。
 
天正31575)織田信長は明智光秀に赤井直正討伐を名目に丹波攻略を命じた。光秀は八上城主波多野秀治ら丹波の国人衆を味方につけ黒井城を包囲した。翌年115日、かねての密約どおり波多野秀治が赤井方に寝返って、光秀の陣を急襲すると、光秀率いる織田軍は総崩れとなり、光秀は京へ逃げ帰った。これは後世「赤井の呼び込み戦法」とよばれる。
赤井直正は毛利氏の提唱する「三道併進策」に呼応し、反織田勢力の毛利・武田・石山本願寺と同盟を結んで対抗した。
 
明智光秀は天正5年(157710月から、第二次丹波征討戦を開始すした。天正63月に八上城と氷上城の包囲を完成させた。この時に赤井直正が39日に病没し、丹波国人衆は再び光秀に降っていった。赤井家では直正の弟の幸家が後見となり統率することになる。
 
天正715795月に氷上城が落城、61日に八上城が落城し、光秀は7月に再び丹波に入国して、最後の城、黒井城の攻城にとりかかった。
戦いは89日早朝開始、光秀は慎重に攻め込み、陣地に火をかけたり、ほら貝を吹いて混乱を装い、攻めると見せかけて退いたり、勢いに乗って追う黒井城兵を誘い込み挟撃した。明智軍の四王天政孝隊が手薄になった千丈寺砦から攻め落とし、主曲輪に向けて総攻撃を仕掛けた。明智軍の誘導作戦で主曲輪には僅かな手勢しか置いておらず忠家も奮戦したが、最後は自ら火を放ち敗走して落城し、織田信長の丹波平定は完了した。
 
明智光秀は黒井城南麓に陣屋を設け、家臣の斉藤利三に氷上郡の統治にあたらせた。天正10年に豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴が入城した。天正12年小牧・長久手の戦いのさい、赤井直正の弟赤井時直が徳川家康に通じ、黒井城に立て籠もったことを最後に廃城となったとされる。
 
養父市八鹿町の八木城跡見学を終え、但馬の国から丹波の国に入り、丹波市春日町黒井史跡。登城口の詳細を知ろうと、JR福知山線黒井駅の東にある歴史民俗資料館に向かった。閉鎖されていたので、敷地内の丹波市役所春日分所を訪れ、案内を乞うと、女性職員がパンフレット類を頒けてくれて、大変参考になった。
黒井小学校北東の民家の間に登城口の駐車場があった。最初の長い階段が一番つらい。そこからは尾根道が大半になり約25分で本丸に着いた。登城道も標識も整備されている。
 
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黒井城跡。三段曲輪。大手道である正面の南尾根に設けられていた。
 
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黒井城跡。石踏の段。南尾根の7合目あたりに設けられた
規模の大きな曲輪。休憩所があり、展望所ともなっている。
 
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黒井城跡。石踏の段。南側への展望。黒井小学校のグラウウンドの先に、町並みが広がっている。
 
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黒井城跡。石踏の段。段の下には帯曲輪が設けられている。
 
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黒井城跡。東曲輪跡。城の中心部の南端に当たる。手前に虎口があった。
ここから荒々しい野面積みの石垣群が残存するが、斉藤利三、堀尾吉晴の時代に築かれたと推定されている。
 
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黒井城跡。三の丸跡。櫓台と城門が設けられていた。
 
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黒井城跡。本丸跡。石垣。
 
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黒井城跡。本丸跡。虎口の手前に空堀が設けられていた。
 
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黒井城跡。本丸跡。標高356mの
猪ノ口山山頂を削平して設けられた。48m×22mの広さがある。
荻野直正は信長包囲網の一翼を担っており、足利義昭や吉川元春の使者安国寺恵瓊、武田勝頼の使者跡部勝資や長坂光堅、石山本願寺の顕如からの密書、密使が再三この地を訪れていたという記録が残っている。
また、天正62月に羽柴秀吉の命により脇坂安治が直正に開城交渉をしたが、直正は応じず、安治の勇気と厚意を謝して、赤井家重代の家宝「貂の皮」を贈った。
 
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黒井城跡。本丸跡。南西への眺望。春日市街地は東西に広がっている。
 
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黒井城跡。本丸跡。南東への眺望。
 
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黒井城跡。本丸跡。北東への眺望。
往路を下り下山。麓の興禅寺へ向かう。
 
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興禅寺。国史跡。丹波市春日町黒井惣門。背後に黒井城跡。曹洞宗。徳川家光の乳母として有名な春日局の生誕地でもある。水濠の南に駐車場がある。
黒井城の南麓にあり、もとは城主赤井直正の下館であった。天正7年の落城後、明智光秀の重臣斎藤利三がここに居住し、氷上郡一円を支配して、陣屋として居住した。娘のお福(春日局)はここで生まれ3歳まで育ったとされる。
この寺の前身は誓願寺といい、今の位置から150m下った場所にあった。現在の場所に移転したのは、寛永3年(1626)のことで下館跡に、本堂等を移転し、宗派を真言宗から曹洞宗に、寺号を興禅寺と変えた。
惣門は寛永3年に移転のさい、黒井城の門材を使って建てたといわれる。
 
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興禅寺。参道正面に楼門。背後に黒井城跡。右に、休憩所兼NHK大河ドラマ時のミニ資料館がある。
楼門は宮津市の智源寺から移築された門で、創建年代は不明だが、元禄年間改修の記録が残る。
 
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興禅寺。楼門の右に鐘楼がある。鐘楼は、赤井直正の子で伊賀藤堂家に仕えた赤井直義が、寛永年間に先祖供養のために建てて寄進した。現在の鐘楼は大正2年に原形どおり改築された。
水濠を隔てる高石垣の高さは約5mほどで、中央の石橋付近は黒井城と同様の野面積みである。高石垣と水濠は、下館をそのまま再利用したのではないかと言われている。
 
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興禅寺。水濠の長さは約80mで、
「七間堀」と呼ばれている。
 
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興禅寺。高石垣の中央以外の部分は切込みハギで、後世の改修によるものとされる。
 
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興禅寺。本堂
 
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興禅寺。お福腰かけ石。本堂の前にあり、お福が腰をかけて遊んだと伝わる石。お福は、陣屋で産声をあげ物心のつく3歳の冬までこの地で過ごしたのち、亀山城に移った。お福は城下の野山をかけ回り、その可憐さと利発さは領民たちの目をひき誰からも「斉藤屋敷のお福さま」と呼ばれ愛されたという。
後年、徳川三代将軍家光の乳母となり、大奥で権勢を振うようになってからも、幼い頃この地で過ごした年月を懐かしく思い出していたと伝わっている。
 
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興禅寺。お福産湯の井戸。経蔵の裏手にあり、深さ1.7mで、
お福が初湯に使ったと伝わる井戸。
 
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興禅寺。庭園。本堂西の客殿前にある。近衛前久がこの地に流遇したとき、自ら指導設計して庭園を造らせた。
 
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興禅寺。庭園。近在の船城郷稲塚村出身の娘が関白近衛家の女中として奉公して、近衛前久の子信基を懐妊し、永禄8年(1565)
稻塚村の実家で出産し、8歳まで育てた。
足利義昭と不仲になって出奔した近衛前久はこの縁もあって、黒井城主赤井直正の庇護を受けた。直正は下舘の中に前久の屋敷を構え近衛屋敷とよんだ。直正の内室は前久の息女か妹であったと伝わる。
信基はのちに近衛信尹と改名し、慶長10年(1605)に関白となった。三藐院と号し、寛永の三筆として知られる。
このあと、本日の泊地である道の駅「春日」へ向かった。翌日は柏原、篠山、三田を見学。

兵庫県丹波市  織田信長末裔の柏原藩陣屋跡 柏原歴史民俗資料館

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伝織田信長所用硯箱。柏原歴史民俗資料館。兵庫県丹波市柏原町
平成26年6月3日(火)。
硯箱は栢原藩主織田家に伝来し、信長所用と伝わる。黒漆地に高蒔絵で川畔に戯れる八羽の鳥を生き生きと描いており、小型ながらも信長愛用品とよぶにふさわしい優品である。
 
丹波市春日の道の駅「春日」から、織田家の城下町柏原にある柏原歴史民俗資料館へ向かい9時に着いた。館の横の駐車場は2台ほどの狭さだった。入館料200円は柏原藩陣屋跡と共通。田ステ女記念館が併設されている。芭蕉と同時期の俳人で柏原に生まれたステ女は6歳のとき「雪の朝 二のじ二のじの 下駄のあと」の俳句を詠み、その後も女流俳人として名を知られた。その子孫に田健次郎・田英夫がいる。
 
織田家末裔の藩は信長の弟・長益の系統が大和芝村藩と大和柳本藩、信長の次男信雄の系統が丹波柏原藩と羽前天童藩の4家が明治維新まで続いた。柏原は「かいばら」と読む。
 
織田信長の弟・信包は慶長3年(1598)伊勢国安濃津から柏原36000石に移封され柏原藩が立藩した。信包の孫で第3代藩主・織田信勝は慶安3年(16505月嗣子無く亡くなり、柏原藩は廃藩となり、所領は幕府領となった。これが前期柏原藩である。
元禄8年(16954月信長の次男信雄の五男高長から始まる大和宇陀藩の織田信休が、お家騒動により減封されて2万石で柏原に入部し、後期柏原藩が立藩されて、10代信親のときに廃藩置県を迎えた。
 
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柏原藩陣屋復元模型。幕末期。柏原歴史民俗資料館。柏原藩陣屋藩邸は、正徳4年(1714)にはじめて造営されたが、文政元年(1818)に焼失した。その後再建され、明治5年の学制発布により、翌年、豊岡県より払い下げられて崇広小学校の校舎となった。現在に残る建物は、玄関・式台と、これにつづく書院上段の間・同次の間・御使者の間・同次の間と、これをとりまく入側の部分にすぎない。しかし、大名陣屋として原位置に残るものは他にないので、きわめて貴重である。
 
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柏原藩陣屋跡。国史跡。藩邸の長屋門は、陣屋の表御門にあたる。火災に合わず造営当初のものといわれる。桁行13間半、梁間2間で、内部は番所、馬見所、砲庫になっていた。
陣屋の防御施設としては、石塁の上に高塀を廻らすだけで、堀や土塁は築かれていなかったが、陣屋の正面付近には枡形などを備え、7か所に門が設けられていた。
 
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柏原藩陣屋跡。玄関と表御殿。陣屋は背後を大内山に抱かれた緩やかな傾斜地上に立地しており、当時の城下町では最高所に位置した。陣屋の規模は東西130m、南北160mで、自然地形を巧みに取り込んだ池泉回遊式の庭園が築かれていた。
表御殿は文政3年(1820)に再建された建物で、外観は桃山時代風の書院造りで、玄関より北側の棟は大正期の改築であるが、玄関と大書院は再建当時の姿を残している。正面の玄関唐破風と千鳥破風は檜皮葺きである。
 
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柏原藩陣屋跡。式台と玄関
 
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柏原藩陣屋跡。書院次の間
 
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柏原藩陣屋跡。書院上の間
 
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柏原藩陣屋跡。書院上段の間
山に囲まれて、織田信長の子孫が暮らした城下町であった。
最近、重伝建地区に指定された篠山市の福住地区へ向かう。

篠山市 福住重要伝統的建造物群保存地区 雲部車塚古墳

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福住地区。一里塚。重伝建地区。篠山市。平成26年6月3日(火)。
篠山市福住伝統的建造物群保存地区宿場町として発展した町並みと、街道沿いに形成された特徴ある農村に、妻入を主体とした厨子(つし)二階建瓦葺や平家建茅葺の伝統的建造物が、周囲の田園及び特徴ある灌漑施設等の環境と一体となって、宿場町とそれに隣接する農村集落の歴史的風致を良く伝えている。
丹波市の柏原藩陣屋跡の見学を終え、篠山市の東端にある福住地区へ向かった。篠山市中心部の南外れを国道372号を通って東に向かい、八上を過ぎて、三差路を東に進むとすぐに福住地区に着く。脇本陣跡という市営福住本陣団地に車を停めるが、よく分からない。案内標識を捜すため国道に戻り、東へ向かうが案内はない。適当に南へ右折すると、一里塚に出た。貧相な一里塚だった。
地区内道路を西へ戻ると、篠山市役所多紀支所があり、駐車場があった。支所に入り、案内パンフレットを入手。これで、糸口がつかめる。支所の道路向かい側は本陣であったが、今は面影はない。重伝建地区だと、核になる町屋などがあり、見学案内をしている例が多いが、ここにはなく、散策しにくい。要所には案内看板は見かけたが、分かりづらい。B級グルメもショッピングもない。観光客もいない。電柱・電線は美観を害している。
 
福住周辺には、平安時代の昔から古代山陰道が通り、交通は多かったようだ。保存地区は、東西約3,260メートル、南北約460メートルで、篠山城下から京都に向かう西京街道沿いに位置し、東西に流れる籾井川南岸を通る街道に沿って西から福住、川原、安口、西野々の4集落からなる。このうち福住は、江戸時代に宿場町として整備された。一方、川原、安口、西野々は宿場町の外で、周辺に田園が展開し、宿場の機能を補完する農家集落であったと考えられる。
 
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福住地区。福住では、宿場町のほぼ中央に本陣、西端に脇本陣が配され、西京街道に面して町並みが形成される。敷地は街道に沿って短冊形に配され、敷地内には主屋の他に、離れ、納屋、土蔵が建ち、塀で敷地を囲み、門を構えるものもみられる。
家屋は妻入で桟瓦葺の屋根を基本とし、1階軒下部分に格子を備え、半間ほど下がった位置から厨子二階が立ち上がる。切妻面に一文字の庇が設けられ、開口部は虫籠窓となっている例が多い。
 
厨子は本来は仏像を収納する空間のことだが、物置の意味でも使われる。厨子(つし)二階は中二階ともいい、虫籠窓など明取り窓のある屋根裏部屋のことで天井が低く、本格的な2階は「町人が武士を見下ろす」ことから建築されず、外からは物置風に見えることが要求された。近世後期に完成し、明治後期まで建築された様式で、のちに本二階が一般的になる。
 
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川原(かわら)地区。川原、安口、西野々でも、街道に沿って敷地が並ぶが、福住に比べて、間口に比して奥行きが浅い。宿場町では街道に面して主屋が建てられるが、他の部分では、街道と主屋の間に空地や庭を設けるものがある。
 
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安口(はだかす)地区。妻入り瓦葺の家が並ぶ。
 
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安口(はだかす)地区。立派な茅葺屋根の家が残る。修理工事中であった。右横は電気屋。
街道には住吉神社などが点在する。集落間は離れていて、見学にはかなりの徒歩時間を要する。茶店のようなものがないので、楽しさは少ない。
国道を戻り、北西の雲部車塚古墳へ向かった。
 
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雲部車塚古墳。篠山市東本荘。5世紀前半の築造と推定される全長140mの大規模な前方後円墳。丹波地方では最大、五色塚古墳(神戸市垂水区)に次いで兵庫県内第2位の大きさである。
幅約30mの周濠を巡らす楯型の墳形を持ち、竪穴式石室内に長持型石棺が確認され、頸鎧、短甲、衝角付冑等の武具、刀剣、鉾、鉄鏃等の多量の武器を副葬していた。濠の外に周庭帯が確認された。
古代の丹波地域の政治的体制およびヤマト王権との関係を探る上で欠くことのできない古墳で、明治33年(1900)に、宮内庁によって陵墓参考地となった。被葬者は崇神天皇のころ四道将軍の一人として派遣された丹波道主命という説がある。
篠山盆地の東辺に位置し、籾井川の北岸にある。前方部を東向きに築かれている。西側の後円部側に駐車したが、周辺道路は狭いわりに、交通量が多い。
このあと、篠山市八上の八上城跡へ向かった。

篠山市 八上城跡 波多野秀治と明智光秀の戦いの舞台

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八上城跡。藤の木坂登山口。篠山市八上。国史跡
平成26年6月3日(火)。
戦国合戦の舞台となった八上城は、多紀郡を中心に丹波一帯に勢力を誇った波多野氏が本拠とし、その美しい形から「丹波富士」とも呼ばれる高城山に築かれた。京から山陰、播磨へと抜ける交通の要衝であった篠山盆地のほぼ中央の街道を見下ろせる要衝に位置する。
明智光秀によって波多野氏が滅んだ後、慶長7年(1602年)、前田茂勝(前田玄以の子)が八上五万石を領して入城する。慶長13年(1608年)に茂勝が改易され、入封した松平康重が篠山城を築城したため八上城は廃城となった。
 
波多野氏は、15世紀後半に、細川政元から波多野清秀が丹波多紀郡に領地を与えられてから、天正7年(1579)に八上城で滅亡するまで4代に渡って、丹波地域一帯で勢力を誇った一族である。
 
波多野清秀は応仁の乱(14671477)の際に細川勝元に従って石見から京都へ上洛し、応仁の乱の功績で細川政元多紀郡を与えられた。永正年間(150420)には幕府管領細川高国の重臣と姻戚関係を結ぶなど、中央政権での地位を固めた。大永7(1527)細川晴元側につき、細川高国追放に協力し、晴元政権の成立に寄与した。天文7(1538)三好政長とともに守護代内藤氏を攻略して、波多野氏は勢力を拡大したが、弘治3(1557)細川氏綱を擁する三好長慶や松永久秀と対立し、八上城を奪われ、波多野秀治は父元秀とともに10年間の流浪の生活を送る。その後、黒井城主の荻野直正などの支援を受けて、永禄9年(1566)に八上城を奪い返し、再び丹波一円に勢力を広げた。
 
永禄11年(1568)、織田信長が上洛すると、秀治は太刀や馬を献上して、信長に服従する姿勢をみせた。しかし、信長と将軍足利義昭との関係が悪化するにつれて、信長から離れて、将軍側につくようになる。同様に他の丹波の戦国武将内藤氏、赤井・荻野氏らも反信長の姿勢をとり始め、その動きに怒った信長は明智光秀を総大将として丹波攻略に乗り出した。
 
天正3(1575)6月より信長の命令を受けて明智光秀による丹波攻めが開始された。第1次の丹波攻めでは光秀が氷上郡の赤井・荻野氏を攻めたが、背後に位置する波多野秀治が突如反旗を翻したため、光秀の軍は敗走を余儀なくされた。
 
天正6年、第2次丹波攻めでは、明智光秀は丹波亀山城を軍事拠点として西へ攻め入り、八上城の波多野秀治を攻め立てた。10数回にわたる壮絶な戦いの末、天正7年6月、波多野秀治は降伏し、安土城下の寺院で処刑され、戦国武将としての波多野氏は滅びた。
 
一方の明智光秀は八上城の落城後、間もなく黒井城も落城して丹波攻略を成し遂げ、信長からは「天下の面目をほどこし候」と絶賛され、織田家家臣団トップの地位に上り詰めた。
 
八上城跡への登城ルートは北西麓の春日神社口から山頂本丸まで登り、北東麓の藤の木坂口へ下山するコースが推奨されている。
重兵衛茶屋バス停から少し南に歩くと春日神社口があるが、この時点では重兵衛茶屋の南から登るという事前知識しかなかった。北東の雲部車塚古墳の見学を終え、八上城北麓の国道を東端から西端へ車で進んだが、登城口の案内標識が見当たらない。東へ戻り、東端まで来たが、やはりないので、北麓の旧道に入った。
電気工事店の店先で私と同年代の男性を見かけたので、重兵衛茶屋はどこかと尋ねてみたら、重兵衛茶屋はかなり西にあり、それよりも200mほど西に登城口があり、先日も登ったのでそこからで問題ないとのことだった。
山頂まで行って、重兵衛茶屋方面へ下り、徒歩で戻ってくればいいともいわれた。その人は明智光秀を大河ドラマに取り上げてくれれば、八上城が話題になるなどと話をした。
私が、城歩きで汗をかいた後で立ち寄る温泉は近くにないですか、と尋ねると、温泉の無料招待券があると言って家の中へ行き、あったと言って温泉の招待券を渡してくれた。謝意を告げて、200m先まで行き、路肩に駐車した。
 
12時15分藤の木坂道入り口という道路脇にある標石の所から歩き出した。渓谷に沿った急坂を登ると、芥丸跡という見晴らしの良い曲輪跡に出る。本丸には12時50分に着き、13時23分に春日神社口へ下山、旧道を十数分歩いて藤の木坂登城口に帰着した。
 
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芥丸跡。谷筋から稜線尾根へ登った地点にあり、芥川悪衛門の砦跡である。
 
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芥丸跡。東南への眺望。芥丸は東南、曽地方面、福住街道に対し、遠くは、本庄、村雲方面を監視し、野々垣、西荘口よりの攻撃に備えた重要陣地で、眺望は全山第1であるという。
ここからは、緩やかな尾根歩きとなる。
 
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はりつけ松跡。なかなか八上城が落とせないことに腹をたてた織田信長の命令により、明智光秀は母を人質にして八上城に送った。そのかわりに波多野秀治らを城から誘い出し、講和会談中に捕らえて、光秀が止めるのを無視して処刑してしまった。
秀治らの処刑を知った城兵たちが、人質の明智光秀の母や腰元、付き人の侍3人を松につるして磔の刑に処し、その勢いで城外に討って出て、全員が討ち死にしたという。
その時の信長に対する光秀のわだかまりが、本能寺の変の一因であったという説もある。
直径1m以上もあった老松の根株が昭和初期まで残っていたという。
 
堀切や曲輪跡が点在する尾根道は頂上台地に向け高度を上げていく。途中には血洗池、蔵屋敷、朝路池などがあり、本丸へ近づいていく。
朝路池は本丸の東南、下の谷間にあり、落城のとき、朝路姫がこの池に身を投げて死んだといわれ、この池に「1人行きて、水鏡に自分の姿を写し、それが美女に見える人は、その人年内に死す」との伝説もある。現在は小さな水溜まり程度の池である。
 
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本丸跡。中央に昭和7年建立の波多野秀治の表忠碑が建っている。石垣上の平地は東西45m、南北24m、天守閣については永禄年間、松永久秀が始めて造ったものといわれ、明らかでないが、すでに秀経時代にここに望楼が築かれていて四囲に号令していたと思われる。天守台下の周囲には軍兵を集合するに充分な平地がある。
 
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本丸跡。北への眺望
天正6年(1578)光秀軍による八上城包囲戦が始まり、波多野氏は八上城に籠城して、徹底的に抗戦した。天然の要害である八上城の攻略は至難の業で、籠城は1年を超える長期戦となった。八上城の周囲は光秀軍により完全に包囲され、補給路は完全に断たれる状況になり、城内には餓死者が多く出るなど、壮絶な籠城戦の様子が様々な史料や伝承として今に伝わる。
 
長期に渡る籠城に兵たちが疲弊した結果、城内で内部分裂が起こり、和平派により波多野秀治が捕らえられ光秀方に差し出されたのが史実に近いとされる。
 
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本丸跡。石垣が残る。
 
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本丸跡。
 
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岡田丸。本丸の北側下にひろがる曲輪で、波多野秀治の重臣岡田某の屋敷跡。東方及び北側に対する防備陣地で、眺望がよい。1000人が集結できる広さがある。周囲に塀を築いていたと思われる礎石が発見されている。また貯蔵用の大小各種の壺類の破片が出土し、全山の守備用具に使ったものと思われる。
 
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上の茶屋丸跡。本丸跡から西の春日神社方向へ下る。二の丸、三の丸、右衛門丸と下り、上の茶屋丸へ至る。西からの敵に備えた防御陣地が続く。
 
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下の茶屋丸跡。西の篠山城方面への展望が素晴らしい。
さらに下り、麓に着く。
 
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主膳屋敷跡。主膳屋敷は春日神社の上の平坦地で、東西140m南北40m。昔の政庁の跡で、落城後は明智光秀、前田玄以(主膳)ら、最後には松平康重の居館舵あった所である。
この上に波多野氏の居館があったといわれる。
 
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春日神社登城口。旧道から神社の鳥居方面へ登城道が続いている。北西に重兵衛茶屋がある。
旧道を東に歩いて、藤ノ木道登城口へ帰った。途中誰とも会わず、観光的には無視されている。
汗をかいたので、招待券を頂いた天然温泉「まけきらいの湯」へ向かった。
 
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天然温泉「まけきらいの湯」。篠山市河原町。王地山という山の上にあり、北の中学校近くから狭い山道を昇っていくと、施設下に駐車場があり、階段をかなり登って施設の入口に着いた。「まけきらい」の由来を書いたチラシには、江戸時代の将軍上覧相撲で、負けず嫌いの篠山藩主お抱えの力士たちがいつもと違い優勝したが、彼らは城下の稲荷たちの変身した姿だったという伝説が書かれていた。
帰るときに、受付で呼び止められたので、何かと思ったら、入る前の玄関で帽子を落としていたのを誰かが届けてくれていたらしい。親切2連発であった。
以前からの重伝建地区である河原町地区に向かうと、麓へ下ってすぐ近くにあって、ラッキーだった。

篠山市 河原町妻入商家群 篠山城跡 御徒士町武家屋敷群 三田市 花山院

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篠山。河原町妻入商家群。重伝建地区。篠山市。平成26年6月3日(火)。篠山城跡の南東にある河原町妻入商家群は、約600mの間に、間口5~8m・奥行40mの商家が京街道に沿って千本格子や荒格子、袖壁、うだつなどの特徴を持つ妻入りの商家が立ち並び、近世から近代にかけての町並みをよく保存している。篠山城築城後まもなく町造りがはじめられ、城下町篠山の商業の中心として栄えた。
八上城見学、王地山の温泉入浴後、河原町西端の駐車場に着いた。町並みには観光客がちらほらいて、賑わいがあった。篠山市街地は25年ぶりの再訪である。1989年に丹波古陶館開館20周年の招待が会社にあり、出張で訪れ、篠山城跡なども散策した。10分ほど町並みを歩いて、駐車場に戻り、以前にはなかった篠山城大書院の見学に向かう。短時間なら無料の市営駐車場に駐車し、城へ向かった。
 
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篠山城跡。国史跡。篠山城大書院。上段の間。
慶長14年(1609)徳川家康は、松平康重を常陸国笠間城から丹波国八上城に移し、さらに新城の築城を命じた。これは、山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築くことによって、大坂の豊臣氏をはじめとする西国諸大名のおさえとするのが目的であったとされる。笹山を築城地と定め、藤堂高虎が縄張を担当した。普請総奉行を池田輝政が務め、15か国20の大名の助役による天下普請により6か月で完成した。以後、松平三家八代、青山家六代の居城として明治を迎えた。
篠山城大書院は天守閣のなかった篠山城の中核をなす建物であった。昭和19年に焼失後、平成12年に再建された。
篠山城大書院は一大名の書院としては破格の規模と古式の建築様式を備えたものである。
上段の間は、最も格式の高い部屋であり、幅3.5間(6.9m)の大床、その左手に付書院、右手に違い棚、帳台構が設けられている。往時の雰囲気を再現させるため、江戸時代初期の狩野派絵師が描いた屏風絵を障壁画として転用している。
築城時の様子を再現したビデオ映像を鑑賞後、本丸を散策。
 
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篠山城本丸跡。天守台。篠山城は内堀と外堀を有し、内堀内に本丸と二の丸を設ける。外堀の外周は
1辺約400メートルのほぼ正方形で、東・北・南に馬出を設けていた。
築城当初より天守台はあるが天守は建設されなかった。これは石垣や堀をはじめとする城の造りがあまりにも堅固すぎることを幕府が懸念したためと伝えられている。
 
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篠山城本丸跡。天守台から南東方向への眺望。中央奥が八上城跡。左手前が王地山公園。
駐車料金が気になり、見学を終えたが、城の南部に見所が多い。
 
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篠山・御徒士町武家屋敷群。重伝建地区。慶長
15年に篠山城が完成するとともに城下の町割が行われ、城の西側の外堀の堀端道に平行して南北の通りが設けられ、その両側に徒士を住まわせたのが御徒士町の始まりであった。このときに割り当てられた間口は、平均8間であったことが、現状の境界などから復元的に確かめられている。
江戸時代後期の天保元年(1830)に火災があって、御徒士町の大部分が焼失したと伝えられ、復興に際して屋敷は道路より六尺後退させ、火除地をつくって火災に備えたという。明治の廃藩置県によって、江戸詰の家臣を中心として多くの家臣が篠山から転出していったが、御徒士町に住む人々は転出する者が少なく、以後も手入れを怠らなかったことが、かつての武家屋敷の面影をよく今に伝えることになった。
 
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篠山・御徒士町武家屋敷群。安間家史料館。天保元年(
1830)以降に建てられた武家屋敷である。安間家は高123人扶持の禄を得る下級武士の一家で、茅葺曲屋形式の母屋と茅葺の門、瓦葺の土蔵が残っており、当時の武家の暮らしを伝えている。
入館はせずに、馬出し方向へ向かう。
 
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篠山城跡。東門につながる東馬出し付近の堀と堤。幅は
30m以上もあり、かなり広い。
日本で唯一残る土塁馬出しは南西の南馬出しであるが、見落としてしまい、東馬出しで満足してしまった。
 
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篠山城跡。東門外にある馬出跡。篠山城の縄張は、中心部に本丸と二の丸を梯郭式に置き、それを三の丸が輪郭式に取り囲む縄張で、外堀の三方に出入口としての馬出ししを設けている。方形の城は出入口が弱いため、そこに手厚い防御施設である馬出しを構えた。この馬出しが篠山城の縄張の特徴となっている。
虎口の外側を守る必要から工夫された防御構造の一つが「馬出し」という施設で、虎口の前面、堀に架かる橋の外側に、防御・出撃の拠点となる堀と土塁で区画されたもの。元々は、この内側に騎馬武者がそろって、打って出たことからこの名がついたといわれる。
三田市の花山院へ向かう。  
 
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花山院。花山院廟所。三田市尼寺。正式名は東光山菩提寺。真言宗。白雉2年(651)法道仙人の開基と伝わる。西国33カ所霊場を再興した花山法皇隠棲の地として知られる。寛弘5年(1008)41才で亡くなると遺詔に従い当時の桜本坊の北に葬られた。今の花山院御廟所がそれであるという。花山法皇を慕って女官たちが花山院を訪れたが、女人禁制であるため願いが叶わず女官たちは尼となって山麓に住み、琴を弾きその音色で想いを伝えたと伝わり、付近の地名を尼寺村と称した。
廟所の中心には花山法皇の宝篋印塔が立てられている。
三田駅から北上し、有馬富士を西に見て丘陵地帯へ進むと、花山院麓に着いた。16時20分頃だったが、看板には入山は16時30分まで、駐車料金500円と書いてある。急坂の自動車道を登り、有馬富士を見下ろす駐車場へ駐車し、山門をくぐり境内に入った。終い支度をしていた人から、ご朱印ですかと、尋ねられた。違うと答えると、入山料は不要、ご朱印のためでもないので、駐車も無料ということだったので安心した。境内を囲んで廟所・仏殿が点在している。
 
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花山法皇殿。花山院の本堂。法皇が帰依した十一面観音像、花山法皇像、弘法大師像が奉祀されている。
65代天皇花山天皇は安和元年(968)生、寛弘5年(1008)没。在位は永観2年(984)から寛和2年(986)。冷泉天皇の第一皇子。母は摂政藤原伊尹の娘懐子。三条天皇の異母兄。永観2年(984)円融天皇の譲位を受けて即位。即位時には既に伊尹は亡く、有力な外戚をもたなかったことは、2年足らずの在位という後果を招いた。
寛和2年(98619歳で宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位した。突然の出家について、『大鏡』などは寵愛した女御藤原忯子が妊娠中に死亡したことを素因とするが、『大鏡』ではさらに、藤原兼家が、外孫の懐仁親王(一条天皇)を即位させるために陰謀を巡らしたことを伝えている。
蔵人として仕えていた兼家の三男道兼は、悲しみにくれる天皇と一緒に出家すると唆し、内裏から元慶寺に連れ出した。元慶寺へ着き、天皇が落飾すると、道兼は親の兼家に事情を説明してくると寺を抜け出してそのまま逃げてしまい、天皇は欺かれたことを知った。
出家し法皇となった後には、奈良時代初期に徳道が観音霊場三十三ヶ所の宝印を石棺に納めたという伝承があった摂津国の中山寺でこの宝印を探し出し、紀伊熊野から宝印の三十三の観音霊場を巡礼し修行に勤めたという。この花山法皇の観音巡礼が西国三十三所巡礼として現在でも継承されている。この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十数年間は巡礼途中に気に入った場所である摂津国の東光山(兵庫県三田市)で隠棲生活を送っていたとされ、西国三十三所巡礼の番外霊場となっている。
出家後の有名な事件としては、長徳2年(996)花山法皇29歳のとき、藤原伊周・隆家に矢で射られた花山法皇襲撃事件がある。伊周が通っていた藤原為光の娘三の君と同じ屋敷に住む四の君に花山法皇が通いだしたところ、それを伊周は三の君に通っていると誤解した。隆家は武士を連れて法皇の一行を襲い、法皇の衣の袖を弓で射抜いた。事件の噂が広がり伊周・隆家はそれぞれ大宰府・出雲国に流罪となった(長徳の変)。
『栄花物語』によれば皇女のうち、平平子腹の皇女一人のみ成長したという。しかし万寿元年(1024)にこの皇女は夜中の路上で殺され、翌朝、野犬に食われた酷たらしい姿で発見された。この事件は京の公家達を震撼させ、検非違使が捜査にあたり、翌万寿2年(1025)に法師隆範を捕縛、その隆範は伊周の息子藤原道雅の命で皇女を殺害したと自白した。
本日の見学を終え、泊地の道の駅「猪名川」へ向かった。

兵庫県猪名川町 豊臣秀吉埋蔵金伝説 多田銀銅山

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多田銀銅山代官所跡。多田銀銅山悠久の館。兵庫県猪名川町銀山。
「近代化産業遺産」。
平成26年6月4日(水)。悠久の館は北摂の山並みに広がる多田銀銅山の中心として栄えた銀山地区(旧銀山町)の歴史を紹介する施設である。敷地からは石垣が残されている対岸の代官所跡を望むことができる。
 
多田銀銅山は猪名川町を中心に箕面・池田・宝塚・川西・豊能・能勢にまたがる東西20㎞、南北25㎞の広大な鉱山地帯で、鉱脈にそって、約2000の間歩(坑道)があり、中でも特に品位の高い銀を有する鉱脈が発見された地域が猪名川町銀山であった。
多田銀銅山からは、奈良時代、大仏造立の際に銅が寄進されたといわれ、平安時代には多田源氏の源満仲が銀銅山を目当てに多田庄を開いたともいわれるが、伝承にとどまる。
本格的に鉱山開発と経営が始まったのは、豊臣秀吉の時代で、陣屋を置くなど積極的な開発で大量の銀が採掘され、大坂城の台所を潤すほどの産出量があったといわれ、豊臣秀吉の埋蔵金伝説などが残されている。
江戸時代の万治3年(1660)、大口間歩で銀の大鉱脈に到達し、翌年、幕府の直轄地となり、代官所が置かれて第二の隆盛期を迎えた。銀山の入り口4ヶ所には抜荷などをされないように口固番所が設けられ、通行税も徴収されて厳重な警護体制が敷かれた。地元に残る古絵図には4つの神社と7つの寺や、相撲場・四軒茶屋・芝居小屋などの娯楽施設も描かれ、小都市を形成していたことがうかがい知れる。
「大口間歩」を中心に採掘された銀や銅は、寛文4年(1664)には、産出高が、銀1,500貫(約5.6トン)、銅70万斤(約420トン)に達したという。その後産出高は次第に減少した。寛永年間からは南蛮吹による精錬が行われ、荒銅から灰吹銀が採取され、抜銀された精銅は大坂銅吹屋へ送られ、長崎御用銅とされた。
明治301897)から明治41年にかけ、島根県津和野の鉱山家・堀藤十郎が採掘権を取得し、選鉱機械や洋式製錬所など最新設備により近代化を進めた。昭和19年に日本鉱業が鉱区を買収して引き継いだが、昭和481973)に閉山した。
 
道の駅「猪名川」から南進し、銀山口から西進、銀山川に沿った道路を進むと、開館時間の9時に悠久の館に着いた。入場無料。女性職員と男性ボランティアと話をしたら、「多田銀銅山を知る」という遺跡調査概要の小冊子を渡してくれた。展示や代官所跡を眺めたあと、付近の史跡散策に徒歩で向かった。なお、自動車での史跡見学はご遠慮下さいとのことであった。
 
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堀家製錬所跡。レンガ構造物の遺構。悠久の館のすぐ北の台地にある悠久広場に展示。
明治28年に、島根県の鉱業家で「鉱山王」と呼ばれた堀藤十郎が採掘権を得て銀・銅・鉛の生産をはじめた。明治39年、生産規模を拡大するために、選鉱機械や洋式製錬所など当時の最新設備を設置する等の近代化を図ったが、明治40年秋にはじまった銀・銅の価格暴落によって、機械選鉱場は使用されることなく休業に至った。
 
町の発掘調査によると、レンガ構造物の前でレンガ敷遺構が出土し、激しい振動を伴う選鉱機械を設置した選鉱場の跡と考えられている。5基の同形レンガ構造物と、それより約2.4m高いレンガ構造物の計6基で構成されている。右側(駐車場側)には煙道の吸込み口が2ヶ所残り、排煙施設として、溶鉱炉と焼鉱炉2ヶ所の吸込み口から煙道を通り排出される設計になっていた。
 
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 堀家製錬所跡。堀家製錬所の歴史案内板。
 
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堀家製錬所跡。堀家製錬所の施設概要。案内板。
 
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堀家製錬所跡。レンガ構造物の復元予想模式図。案内板。
当時の大通りであった本町通りを北に向かって歩いて行く。
 
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本町通りに残る石柱道標。
 
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代官所の門(広芝邸)。銀山の中心街、本町通りにある。明治の初めに銀山役所を廃止した際、門だけが広芝邸の門として移築された。当初の門は馬に乗ったまま通れるほど高いものであったと伝えられるが、移築の際低くされた。広芝は、銀山に古くからある地名でもあり、秀吉時代広芝陣屋として重要な役割も担っていた。
 
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平炉跡。この遺構は鉱石を精錬するための吹床跡で,金属を取り出した後の鉱滓(カラミ・金糞)が、石垣の下の川原のあちらこちらに散在しているという。金山彦神社の手前の対岸にある。石を積み上げた石垣があり、上部が平地となっている。
 
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金山彦神社。鉱山の神様である。大同2年(807)建立され、天禄2年(971)に源満仲および鉱山師金瀬五郎により社殿が修造されたと伝わる。現在の本殿は銀銅山の最盛期であった江戸時代の寛文年間に建立された。鉱山繁盛期には、秋祭りの折に4年に一度、「銀鉱石」をご神体としている御輿が町内を巡行した。
ハイキングの団体が見学していた。
 
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金山彦神社。参道北。古い井戸が釣瓶とともに残っている。
 
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青木間歩。史跡内では体験入坑できる唯一の間歩。山地の中に生える常緑低木の「アオキ」が間歩の周辺に密生していたところから、「青木間歩」と名付けられたといわれる。
 
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青木間歩。江戸時代に採掘されたと思われる手掘りの露頭掘りと、昭和
38年日本鉱業によって開坑された削岩機による機械掘りの採掘を見学できる。全長52メートル、坑口は大きく、大人二人が並んで歩ける。
 
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水抜き通風穴跡。青木間歩から少し北の川沿いの山腹に設けられている。水抜き、通風は鉱山では大事な設備だが、分かり易い箇所にあるとは意外であった。
川沿いの道路を歩き、リサイクル工場などのある三叉路から左折して北進。
 
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日本鉱業多田鉱業所跡。昭和19年以来、日本鉱業が瓢箪間歩周辺を中心に機械を使って採掘を行い、最深で地下約270mまで掘り下げた。昭和48年に閉山した。
 
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大露頭。鉱脈が地表に露出している部分を露頭といい、この部分には瓢箪𨫤の鉱脈が露出している。
今から約7000万年前、地下深くにマグマが形成され、マグマの上の部分に金属や色々な物が溶け込んだ熱水が集まった。約6500万年前、この熱水が非常に高い圧力によって岩の割れ目や断層に沿って上昇し、地表近くの浅い場所で冷やされ、石英と共に銀、銅、鉛等の鉱石が出来た。鉱脈を含む地下の地層は長い年月の間に盛り上がって山となり、山の頂が浸食作用によって削られ、鉱脈が地表に現れる。
 
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台所間歩。秀吉時代に開坑された間歩で、銀・銅が豊富に採掘され、大坂城の台所(財政)を賄うほどだったことから「台所間歩」という名がついたという。
 
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瓢箪間歩。秀吉の採掘時期(天正〜慶長期)の代表的な間歩で。銀山地区で最大規模の坑道を有す。大富鉱の銀鉱で、秀吉が採掘していた当時の山師、原丹波、原淡路の親子二代にわたる銀銅の採鉱で盛山となったことで、秀吉から褒美として多大な金子や刀剣を拝領した伝わる。秀吉の馬印の千成瓢箪を間歩の入口に立てることを許されたことから、「瓢箪間歩」と呼ばれるようになったといういい、秀吉が馬上のままこの間歩に入ったともいわれている。
 
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優良鉱脈絵図。瓢箪間歩入口に設置。
悠久の館から瓢箪間歩まで徒歩約30分の道のり。台所間歩南の川沿いの左岸に久徳寺跡の看板がある。
 
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久徳寺跡。山中鹿之助一族の墓。古記録によると、戦国時代の武将山中鹿之助の死後、弟三蔵坊が当時の長谷村(現宝塚市佐曽利)に隠棲し、主君尼子義久と兄鹿之介の菩提を弔うために千本鉱山の近くに建立した。しかし瓢箪間歩全盛の折、湧水が強くなった長谷の千本間歩から砿民が移って来る時、久徳寺も勧請されたと記されている。
また、鹿之介の兄幸正が久徳寺として開山し、鹿之介の母堂が葬られたという記録も残る。
 久徳寺は鴻池財閥一族に関わる寺だとのこと。
 
悠久の館へ帰り、ボランティアの男性に、多田銀銅山は国の史跡でもおかしくないと言うと、敷地の多くが民有地になってしまい、今さら難しいという。確かに、リサイクル工場などが途中に点在し、雰囲気が中途半端になっている。
このあと、多田銀銅山の銅精錬所を営んだ平安家の邸宅「旧平安邸」を中心施設とした川西市の川西郷土館と源満仲関連史跡である多田院の多田神社方面へ移動。

近代和風建築 旧平安邸 川西市郷土館 銅精錬所遺構 兵庫県川西市

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川西市郷土館。旧平安邸。国登録有形文化財。兵庫県川西市下財町。平成26年6月4日(水)。川西市郷土館は、多田銀銅山の銅精錬所を営んでいた平安家の邸宅「旧平安邸」を中心施設として、精錬所跡の広大な敷地内に、「旧平安邸」のほか、西洋館の「旧平賀邸」、現代建築の美術館「ミューゼレスポアール」、洋館風の「アトリエ平通」や製錬所跡遺構が点在する。
 
旧平安邸は日本庭園の中庭を取り囲むように主屋、離れ座敷、浴室、蔵4棟が配置され、その東側に米蔵・納屋が南北一列に並ぶ二重の構成をもった大きな屋敷で、全景は旧平賀邸から眺められる。
 
旧平安邸は、この地方の伝統的民家の特徴と、明治以降広まった数寄屋風の造り、そして技術的な革新と近代性を備えた近代和風建築の建物として、大正中後期に建てられた。
 
玄関部分には接客用の部屋(現在の事務室)があり、接合部に金属の補強が見られるなど、近代的特徴が見受けられる。また、中庭に面した屋根を一文字瓦葺とするほか、廊下や縁側に化粧垂木を用い、床柱にも銘木を用いるなど、数寄屋風の造りがうかがる。
内部には鉱山資料展示室や一色八郎コレクション「箸の展示室」がある。
なお、平成23年のNHK 連続テレビ小説「カーネーション」のロケ地になった。
 
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川西市郷土館。駐車場。多田銀銅山の史跡見学を終え、猪名川町から東進し、川西市郷土館付近へ来た。ナビに従って西北から近づいたが、狭い坂道に閉口した。南の空き地に駐車して、郷土館に歩いて行き、駐車場を尋ねると、東側にあるとのこと。道路脇にはミニ案内図もあるが、初めてだと、こんなところに駐車場があるのかと、また10台ほどのスペースもあるのかと驚く。
門と塀の向こう側が、郷土館の敷地で、赤い屋根の洋館はアトリエ平通という建物だった。工場跡地にミニ開発された住宅街を歩いて郷土館へ向かった。
この郷土館はたしか洋館めあてに選定しただけで、多田銀銅山関連とは予想外で、しかも郷土館というネーミングから想像する内容からして、入館料300円は高いと思ったが、意外やお得な博物館であった。
受付の女性が、中学校生徒の団体が社会実習をしていますからと言った。10数人の男女が掃除などをしているようだったが、あけすけな会話が聞こえてきて、面白かった。
 
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旧平安邸。主屋は、土間に沿って三間が並ぶ六間取りの平面構成で、細部意匠もこの地方の伝統と考えられる。素材は桧と欅が中心で、しかも無節の厳選されたものが使われている。
 
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旧平安邸。廊下の板は10mつなぎ目なしの松の木が使用されている。
 
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旧平安邸。庭園。中庭を取り囲むように蔵・離れ座敷・浴室がある。釣瓶式の井戸も残されている。
 
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旧平安邸。離れ座敷。
 
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旧平安邸。離れ座敷。立ち蹲踞。
 
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旧平安邸。庭園。多層石塔がある。
 
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旧平安邸。庭園。祠、井戸もある。
 
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旧平安邸。庭園。蹲踞と石塔。
 
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旧平安邸。風呂場。
 
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旧平安邸。一色八郎コレクション。箸の展示室。一色八郎氏が長年収集した箸のコレクションを展示している。収集された箸は920点に及び、日本各地の箸だけでなく、中国やモンゴルなど外国の箸にまで広がっている。
7月にモンゴル旅行を予定していたので、モンゴルの箸が気になった。現地に行っても、このような箸は見かけなかったが。
 
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旧平安邸。一色八郎コレクション。箸の展示室。六角知能箸は1988年に開発され、子供用の矯正箸として知育発展を目的としているという。
一色氏は、手の動きと脳の発達について大きな関心をもち、手を使うことが脳の発達を促すとして箸に着眼した。
 
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旧平安邸。鉱山資料展示室。平安製錬所で用いられた道具類や発掘調査の成果を展示している。平安家は、明治以降も銅製錬を行なっていたが、明治期と大正・昭和期の二期の精錬所があったことが分かっている。
明治期の製錬所は、現在の旧平賀家住宅の北側にあり、展示資料の吹子はこの時代のもので、近世と同様の製錬技法で操業していた。
 
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旧平安邸。鉱山資料展示室。大正・昭和初期の製錬所は、ミューゼレスポアールの南側の位置にあった。
多田銀銅山の最盛期は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての頃で、猪名川町銀山地区を中心に、川西市郷土館周辺の山下町下財屋敷も製錬町として栄えた。
下財屋敷北部の平安家は明治以降も製錬を行ない、大正時代には新たに近代化された製錬所を旧平安家住宅の北東側に建設し、昭和10年頃まで操業した。製錬所は溶鉱炉・真吹炉・送風機小屋・煙突からなっていた。しかし、溶鉱炉や送風機等、近代化された施設を持つとはいえ、製錬の仕上げは近世以来の真吹炉が用いられてい。当時転炉を導入した近代化製錬所はすでにあり、これに比べると伝統的な小規模製錬所であったといえる。
 
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旧平安邸。北東隅。旧平賀家住宅、ミューゼレスポアールへと通路が続く。
 
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川西市郷土館。銅精錬所遺構。からみ(鉱滓)捨て場。江戸時代から昭和初期までの銅精錬の鉱滓が捨てられた。旧平安邸北側、ミューゼレスポアール西側の谷地。
 
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川西市郷土館。平安精錬所跡。大正から昭和初期。左の建物が美術館のミューゼレスポアール。左に、真吹き炉跡。奥の石碑には、当主の母堂が遺構の保存を望んだとの記載があったと記憶する。文化財保存には強い意識が必要なのは言うまでもない。
つぎは、旧平賀邸。

イギリスの田園住宅風洋館 旧平賀邸 川西市郷土館 兵庫県川西市

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川西市郷土館。旧平賀邸。国登録有形文化財。兵庫県川西市下財町
平成26年6月4日(水)。
旧平賀家住宅は、日本最初の工学博士平賀義美が大正7年に猪名川沿いの川西市小戸に建設した、イギリスの田園住宅の形式を極めて良く遵守した住宅である。
設計は大林組の建築部長であった松本兎象、施工は鴻池組が行った。松本兎象は東京高等工業学校を卒業し、代表作に曾根崎新地歌舞練場などがある。
 
洋館は平屋建(実験研究棟は2階建)で、延べ床面積は約200㎡(実験研究棟含む)。天然スレート葺の屋根に玉砂利洗い出しの外壁、基礎は御影石積みである。出窓と煙突がアクセントとなっている。また、二重窓など合理的な設備と的確な装飾で引きしめるなど、端正で洗練された意匠で統一されている。
平成2年に移築された。背後は実験研究棟で、そのほか旧邸内にあった東屋・門・橋・胸像なども移築復元された。
大正期の住宅の典型として、日本の近代建築史上重要な建物といえる。ひょうご近代住宅100選。
 
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旧平賀邸。平賀義美博士の銅像。平賀博士は、1857(安政4)年福岡に生まれ、東京帝国大学を卒業後、イギリスで染色技術を学び、帰国後は最新の織物・染色技術の指導を行う。また、織物業界だけでなく、関西の幅広い企業のブレーン役を果たし、その発展に寄与した。日本晟初の工学博士で、化字者であった。イギリス等欧米に外遊7回を重ねている。
 
手前に、映画「繕い裁つ人」主演中谷美紀の記念植樹がある。平成26929日から始まるNHKの朝ドラ「マッサン」のロケ地にもなり、7月に収録された。
 
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旧平賀邸。中央は客間。左がサンルーム。右が玄関。イギリスの田園邸宅の庭のように花が咲いている。
 
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旧平賀邸。玄関ロビー。室内に入ると、床は板張り、壁は腰板の上部がクロス貼り、天丼は漆喰塗りである。華美な装飾はないが窓の上部に設けられているステンドグラスが洒落ている。
 
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旧平賀邸。玄関ロビー。ステンドグラス。小川三知の作品という。
 
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旧平賀邸。客間。内部は、客間・書斎・寝室等の部屋が配され、出窓・暖炉が付けられ、イギリス流の形式を忠実に守っている。
客間にも暖炉がある。天丼にはごく簡素で上品な漆喰のモールディングが施されている。主な窓は二重であり、窓台部分が手前に取り外せ、腰壁の中に網戸が収納されている。
また各部屋はスチーム暖房が取り入れられていた。
 
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旧平賀邸。客間。壁紙はウィリアム・モリスのデザイン。
ウィリアム・モリスのデザインのよく似たネクタイを1980年代後半にNYのメトロポリタン美術館で購入した。そのネクタイはカラフルだが、ここの壁紙は単色という違いがある。
 
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旧平賀邸。書斎。暖炉と、その上部の寄木細工が見事である。
 
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旧平賀邸。書斎。入口のステンドグラス。
 
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旧平賀邸。書斎。天井のシーリング・ファン。
 
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旧平賀邸。本邸から実験研究棟への階段渡り廊下。変わった構造をしている。
 
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旧平賀邸。実験研究棟
2階の展示。本館書斎の旧観写真と思われる。実験研究棟は廊下のような幅の狭い建物である。
 
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旧平賀邸。外観。本館から実験研究棟への階段渡り廊下部分。
 
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旧平賀邸。実験研究棟横の通路を旧平安邸へ戻る研修中の中学生たちと職員。
現代建築である美術館のミューゼレスポアールで絵画を鑑賞して、川西市郷土館を退出。
源満仲関連史跡である多田院の多田神社方面へ移動。

兵庫県川西市、伊丹市、宝塚市 多田神社 伊丹城跡 清荒神清澄寺

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多田神社。多田院として国史跡。川西市多田院多田所町。平成26年6月4日(水)。川西市郷土館の見学を終え、南下して、源満仲関連史跡である多田院へ移動。多田駅前から西へ狭い道を進み、手前で路駐。
 
多田神社は清和源氏の霊廟として、源満仲、源頼光、源頼信、源頼義、源義家を祀る。源氏の流れを汲む足利氏や、源氏を称した徳川氏も、多田神社を源氏霊廟と認めており、歴代将軍の遺骨を多田神社に分骨している。
多田院は源満仲が天禄元年(970)に建立した寺で、天台宗寺院として建立された。鎌倉時代に幕府から造営の督励をうけた僧忍性による再建以降真言律宗に転じ、明治以前までは多田院と称した寺院であった。域内には金堂・塔婆・学問所・法華堂・常行堂・御影堂が営まれて惣社六社権硯を祀り、荘厳を誇っていたが、天正5年(1577年)の津田信澄の手による焼失のため荒廃していたという。
江戸時代に入り、寛文7年(1667年)四代将軍徳川家綱のとき、幕府は新たに本殿・拝殿・釈迦堂などを設け、多田権現の神号を受けるなど、神社としての色彩を濃くし、明治維新後に多田神社と改称した。
社地は当初の位置を継承し、一万六千坪の境内は四方に石垣・堀をめぐらせて、内廓外廓の二重になっており、外廓南大門に楼門があり、内廓には、源満仲・同頼光の廟所、本殿、拝殿、隨神門などがある。南大門の南下には猪名川が流れる高台にある。
南大門は多田院のもとの仁王門であり、両脇に仁王像があった。明治4年神仏分離の折、仁王像は満願寺山門に移転され、安置されている。
 
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多田神社。随神門。重文。切妻造の三間一戸八脚門、本瓦葺。本殿と同時期の建立。両脇に築地塀が付き、三楝造と呼ばれる伝統的な手法により建てられた。
豊岩間戸尊、櫛岩間戸尊の二体の随神像が安置されている。
 
源満仲(延喜12年(912)~長徳3年(997))は清和天皇の孫源経基の嫡男で、当初は都で活動する武官貴族であった。天徳4年(960年)平将門の子が入京したとの噂があり、検非違使や大蔵春実らと共にこの捜索を命じられた武士の一人として現れたのが史料上の初見。武蔵権守や左馬助に在任。安和2年(969年)の安和の変では、左大臣・源高明を密告した恩賞により正五位下に昇進した。
藤原摂関家に仕えて、武蔵国・摂津国・越後国・越前国・伊予国・陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至り、莫大な富を得た。二度国司を務めた摂津国に土着。摂津国住吉郡の住吉大社に参籠した時の神託により、多田盆地(後の多田荘。現在の兵庫県川西市多田)に入部、所領として開拓するとともに、多くの郎党を養い武士団を形成した。
また寛和元年(986年)に起きた花山天皇退位事件に際し、花山天皇を宮中から連れ出した藤原道兼を警護した武者たちは、満仲の一族であったと考えられている。この政変後、満仲と主従関係にあったとみられる藤原兼家は一条天皇の摂政に就任した。
翌永延元年(987年)多田の邸宅において郎党16人及び女房30余人と共に出家して満慶と称し、多田新発意(しんぼち)とよばれた。この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。
 
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多田神社。拝殿。重文。
桁行7間、梁間3間の大規模な入母屋造、檜皮葺。寛文7年(1667年)本殿と同時期の建立。
 
多田庄は満仲の嫡子であった頼光が継承し、頼光の長子頼国を経て、その五男頼綱に継承されたとも、満仲から七男頼範とその子の頼綱に継承されたともされる。
多田庄は頼綱の時代に摂関家に寄進され、摂関家領荘園となる。そして、承暦3年(1079年)の延暦寺の強訴の際には、頼綱が多田荘の郎党を率いて都の防衛にあたっている。その後、多田荘は頼綱の長子明国が継承した。
院政期に至ると庶流の系統が北面武士などとして院に伺候したが、摂関家領である多田荘を継承した明国の系統は行綱(明国の曾孫)の代に至るまで院北面とはなっておらず、代々摂関家の私的武力としての性格を持ち続け、嫡流は「多田蔵人」を称した。
平氏政権下となると、多田行綱が鹿ケ谷の陰謀に加わりその謀議を密告したことで知られる。その後の治承・寿永の乱では、行綱が摂津武士を率いて源氏方の一翼として活躍したが、東国武士の棟梁となり清和源氏の嫡流を自認した源頼朝によって多田荘を奪われると多田源氏は没落した。
 
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多田神社。南大門から南への眺望。猪名川が流れる。
鎌倉時代以降の多田荘は、多田源氏の庶流や累代の家人たちによって構成される多田院御家人によって在地支配がなされ、多田源氏直系の子孫は塩川氏や能勢氏などとなったとされる。
正和5年(1316)に行われた多田院堂供養のさい警護にあたった多田院御家人は、渡辺・西村・塩河・黒法師・吉河・山問・能勢等の50数名が名を連ねている。
戦国時代になると、多田院御家人のうち能勢地黄に居城をもつ能勢氏と川西山下に居城をもつ塩川氏の二大勢力が争いった末、塩川氏は没落し、徳川側として関が原で功績をあげた能勢氏が勝ち残って、この地域を基盤とする幕府旗本として明治維新まで続いた。
なお、塩川氏の居城山下城は川西市郷土館の北側にある城山の上にあった。
南進して、伊丹城跡へ向かう。
 
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有岡城跡。伊丹城跡。本丸跡。国史跡。伊丹市伊丹。
有岡城跡は猪名川の西岸,伊丹段丘東縁部の一角に位置する。もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いていた。天正2年(1574)織田信長の武将荒木村重は,伊丹氏にかわって伊丹城に入城し、城の名を有岡城と改めて大改造をおこない、侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ惣構えの城とした。
天正6年(1578)秋,村重は織田信長に反旗をひるがえし,有岡城は包囲攻撃を受けた。10ヵ月の篭城の末,村重は嫡子村次のいる尼崎城に逃れ,有岡城は落城した。
天正8年信長の家臣池田信輝の嫡子之助が入城するが,天正11年に美濃へ移って,伊丹は秀吉の直轄領となった。その後大名は置かれず,城は放置された。明治に入ると,川辺馬車鉄道や阪鶴鉄道の建設工事により主郭部の東半分が失われた。国鉄伊丹駅前の整備事業にともない昭和50年から主郭部の発掘調査が始まり,北部の金光教跡からは本丸跡の石垣や建物跡が発見された。
 
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有岡城跡。城跡らしさを感じるのは石垣ぐらいだった。
JR伊丹駅前にあるのは分かっていたが、安い駐車場を捜すのに苦労した。30分で200円。
平日の午後であったが、観光客は少ないながらも途切れなく訪れ、ボランティアが説明していた。黒田官兵衛の牢はどこか尋ねようとしたが、ありそうもなかった。丘の一部であったことは分かる。
駅から徒歩2分ほどの場所に城跡があるのは珍しい。
北西へ進み、宝塚市の清荒神へ。
 
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清荒神清澄寺。寺号標。宝塚市米谷。清荒神清澄寺は真言三宝宗の大本山。寛平
8年(896)に宇多天皇の勅願寺として静観僧正により建てられた。本尊は大日如来。鎮守社として竃の神の荒神などを祀る三宝荒神社がある。
鉄斎美術館の存在により、30年ほど前から知ってはいたが、公共交通機関では遠くて、なかなか見学できなかった。国道から坂を登ると、広い無料駐車場があった。参道脇の商店街は平日はほとんど開いていなかった。しかし、参拝客は多い。山門を入ってすぐの、無料休憩所でお茶が飲めるのはありがたい。放映しているビデオも参考になる。
 
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清荒神清澄寺。天堂。天堂では毎日秘法が厳修されているという。布袋様が関西の庶民信仰を象徴している。
 
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清荒神清澄寺。荒神影向の榊。天堂の裏にある護法堂の裏にある。清澄寺開創のさい、荒神尊が降り立ったといわれる。
 
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清荒神清澄寺。池苑。池泉回遊式庭園。江戸時代初期から中期に作庭されたという。
 
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清荒神清澄寺。池苑。山号「蓬莱山」を形象した石組を中心として、滝、亀島、船着石などを組み合わせている。
 
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清荒神清澄寺。史料館。池苑横にあり、入館無料。平成
20年に開館。回廊や水盤などが印象的な建物であった。清荒神清澄寺の歴史などを紹介している。当日は「水と親しむ」というテーマ展が開かれ、荒川豊蔵、永楽即全、楽宗入、楽惺入などの茶碗が展示されていた。
鉄斎美術館は境内の一番奥にある。天井の高い展示室で、ゆったりと鑑賞できる。富岡鉄斎は渋い。深い教養がなければ理解できない。印章や香盆なども面白い。企画展のパンフ6種を入手。
清荒神を1時間ほど見学して、有馬温泉へ向かった。

神戸市北区 有馬温泉 太閤の湯殿館 北僧尾農村歌舞伎舞台

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有馬温泉。金の湯。神戸市北区。平成26年6月4日(水)。宝塚市の清荒神清澄寺から有馬温泉へ向かった。山登りの山間道路で、慣れない車が先頭を走っていたので時間がかかった。車の場合は駐車料金が大事だ。旅行前にネットで調べたら、芦有ゲート前から南へ200mほど南の
タイムズ駐車場が平日1時間100円と安いので、そこを目標としたら、運よく簡単に見つかった。問題なのは、到着した15時頃から強い雨が降り出したことだ。さらに、金泉などの方角がさっぱり分からないこと。橋を渡って、従業員住宅街に迷い込んだので、通行人に尋ねて、金泉の方向がようやく分かった。杖捨坂を下ると観光案内所があり、地図を入手できた。駐車場から案内所までは、迷わなければ10分ほどの距離だった。
 
案内所から金の湯までは5分ほど。観光客は多いし、中国系も多い。受付で「金の湯」「銀の湯」「太閤の湯殿館」の共通入館券1000円を購入。階段を上がり、金泉に入浴。中は意外と狭い。中国系などの外人は見かけなかった。温泉は鉄分があるので、赤銅色。さすがに湯質は良い。しかし。九州・東北・北海道などには、ここより鉄分の多い温泉はざらにあると思ったが、今回の旅行で入浴した10余りの温泉の中では最高の湯質であった。
時間もないので、早々に出て、太閤の湯殿館へ向かった。坂を登って温泉寺の境内を通ると、建物があった。
 
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有馬温泉。太閤の湯殿館。岩風呂遺構。説明写真。
神戸淡路大震災で壊れた極楽寺の庫裡下から、400年前に太閤秀吉が造らせた湯山御殿の一部とみられる湯ぶねや庭園の遺構、瓦や茶器などがが発見された。太閤の湯殿館は湯山御殿が発見された地に建てられ、秀吉がはいったとされる岩風呂遺構を出土した状態で展示するなど、発掘した資料を併せ展示している。
庭園は1mの土で埋め戻されている、その上に当時のままの状態が復元されている。
なお、秀吉の湯山御殿は徳川幕府によって取り壊され、その跡地に極楽寺と念仏寺が建てられた。
 
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有馬温泉。太閤の湯殿館。岩風呂遺構。
天正11年(1583)豊臣秀吉は有馬を訪れた。これが記録に残る秀吉入湯の最初で、合せて9回ほど有馬温泉を訪ねており、有馬に対してさまざまな援助を行っている。
秀吉の事蹟の特筆は、慶長2年(1597)に始まった大規模な改修工事である。この直接のきっかけは、前年に近畿一円を襲った慶長伏見地震で、地震の直後から温泉の温度が急上昇し熱湯となってしまい。湯治効果の大なることを熟知していた太閤は、英断をふるい有馬温泉の根本的な改修工事に着手する。
 
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有馬温泉。太閤の湯殿館。岩風呂遺構。温泉が岩の間を伝って流れた跡。
秀吉は地震後に新たに湧出した温泉に湯山御殿を造り、工事が完成した慶長3年の5月に入湯の予定であったが、激しい風雨のため中止となり、その後まもなく床に伏し同年の818日に没したため、秀吉はついにその成果をみることができなかった。
 
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有馬温泉。太閤の湯殿館。蒸し風呂遺構。蒸し風呂遺構を出土した状態で展示している。
湯殿館の受付を入った中には猫が数匹いるだけで、見学者はいなかった。湯殿館を出た道路から極楽寺には源泉があるのだが、修理工事中で立入り禁止であった。銀の湯へ向かう。
 
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有馬温泉。銀の湯。炭酸泉、ラジウム泉ということだが、湯質は薄く感じた。入浴客も少ない。
 
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有馬温泉。
炭酸泉源公園。銀の湯から道なりに坂を登ると公園がある。
 
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有馬温泉。
炭酸泉源。ここでは飲めない。
 
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有馬温泉。
炭酸泉源。飲泉場。公園の片隅にある。これは本物。間違いなく胃腸に良い。
タイムズ駐車場へ戻る。ほぼ2時間であった。200円で済んだ。
北区淡河町の北僧尾農村歌舞伎舞台へ向かう。
 
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北僧尾農村歌舞伎舞台。北区淡河町。現存する農村歌舞伎舞台の中で日本最古とされており、建築年を示す墨書が鏡柱の上部にあり、江戸時代中期の安永6年(1777)の建築であることが分かっている。
農村歌舞伎は江戸時代に、農閑期に行われていた。当初は田んぼなどに仮設の小屋をかけ上演されていたが、後に神社境内の長床などが舞台として使用されるようになった。「北僧尾農村歌舞伎舞台」も本来は、北僧尾厳島神社の神事で用いる長床として建てられたもので、社殿と向かい合って建つ舞台にはバッタリと呼ぶ床面拡張機構と太夫座という舞台機構がある。
 
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北僧尾農村歌舞伎舞台。神戸市北区は農村歌舞伎舞台の宝庫ともいわれ、丹生山を中心に多くの舞台が残っている。
1970年の兵庫県指定重要有形民俗文化財指定後も3度にわたり改修を施してきたが、建物全体がゆがんで、かなりの部分の修復が必要になったため、262月から10月までの予定で、全面改修工事を行っており、秋にも再度一般公開されることになっている。
この舞台での農村歌舞伎上演は昭和30年ごろまでは演じられていたものの、昭和57年に屋根の吹き替え修復工事の完成を祝って播州歌舞伎でこけら落としをしたのが唯一の上演になっていた。2012年、30年ぶりに地元中学生による歌舞伎が上演されたようで、今年秋の工事完了時にも予定されているようだ。
旅行前半に北区山田町の下谷上農村歌舞伎舞台(重文)を見学していたが、時間的都合で後半に回していたが、実際に見学ができて良かった。工事中は内部構造が垣間見れて、興趣深いものがある。
猪名川町の多田銀銅山見学から始まった長い日は雨の中で終わった。
1730分になり、本日の泊地である三木市の道の駅「三木」へ向かう。無料WIFIが利用できて、便利な道の駅であった。

日本100名城 明石城跡 兵庫県明石市 

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明石城跡。薬研堀。日本100名城。国史跡。兵庫県明石市。
平成2665日(木)。
明石城は徳川家康の曾孫で明石藩10万石を領した小笠原忠真が将軍家と姫路藩本多家の強い支援をうけて、徳川2代将軍秀忠の時代にあたる元和5(1619)に築城した。
徳川幕府は西国の外様大名の抑えの城として、姫路城についで明石に着目した。明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国、但馬国への道が分かれ、淡路島、四国のルートがあり、古来より交通の要衝であった。
豊前小倉へ移封された小笠原忠真以降は松平庸直、松平光重、大久保忠職、松平忠国、松平信之、本多政利と続き、50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったが、天和2年(1682)越前松平家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として越前松平氏の居城となった。
 
本日が旅行最終日となり、名古屋へ帰宅した。道の駅「三木」から通勤ラッシュの中、南東へ進み、県立図書館北の県営駐車場へ8時頃到着。県営駐車場30分未満まで無料と調べておいたので、その範囲内での見学となる。本丸跡までの見学なら充分な時間であった。本丸跡までの道程は丘陵の谷地地形を通っていることを実感した。また、かなりの量で石垣が残存じていた。
 
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明石城跡案内図。
現在、中堀の内側は兵庫県立明石公園として整備され、園内には野球場や陸上競技場、県立弓道場などの運動施設、県立図書館や市立図書館などの文化施設がある。
城地は人丸山とよばれた丘陵舌端に築かれた。人丸山には大きな池があり城の防備に役立つとされたためという。
明石城は連郭梯郭混合式の平山城である。本丸を中心に配し、東側に二の丸、その東に東の丸が配され、南側に三の丸、西側には稲荷郭が設けられた。天守閣は無いが本丸の四隅に三重櫓4基が設けられていた。
築城にあたり、三木城、高砂城、枝吉城、船上城の木材を使用し着工され、坤櫓は伏見城、巽櫓は船上城の遺材が使用されたと伝えられている。元和5年(1619)正月から作事が始まり、元和6年(1620)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始された。このとき天守は台石まで積まれたが、建てられなかった。
 
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明石城跡。本丸跡。坤櫓。重文。天守閣が造られなかった明石城では最大の規模をもつ櫓である。天守台のすぐ南にあり、天守閣に変わる役割を果たしたとみられる。
桁行6(10.90m)、梁間5(9.09m)、高さ729(13.60m)、の入母屋造で、妻部を南北に向け、棟の方向が巽櫓と異なっている。昭和57年の大改修で、構造上、他から移されたものであることが明らかになり、伏見城からの移築説が裏付けられた。
 
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明石城跡。本丸跡。坤櫓。重文。北側天守台から眺める。北面は、城内に向かう面で窓は少なく、第一層、第三層にのみ窓がある。西面は播磨平野を展望する重要な面にあたり、巽櫓の南面をひとまわり大きくしたような造りで、天守閣に代わるにふさわしい威容がみられる。
 
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明石城跡。巽櫓。重文。巽櫓は本丸の南東端に築かれた三層の櫓である。桁行き
5(9.09m)、梁間4(7.27m)、高さ71(12.19m)の隅櫓で、妻部を東西に置く入母屋造である。昭和57年の大改修で柱や垂木、梁等の木材はすべて統一された規格品による建築物で、当時の最新技術で新築され廃材などは使われていないことが明らかになった。
明石城はJR明石駅北側に位置し、駅ホームを間近に望める。巽櫓の右に、明石大橋が見えている。
城地の高台からは淡路島や小豆島を眺めることができ、瀬戸内海の水運を眼下に見渡すことができる海上交通の監視哨の役割をももっていた。
 
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明石城跡。人丸塚。本丸跡にあり、人丸山とよばれる由縁となった柿本人麻呂を祀った人丸塚があった。弘仁3年(812)僧空海がここに楊柳寺を建てたといわれる。
仁和3年(887)に楊柳寺の覚証という住僧が夢中に柿本人麻呂の神霊がこの地に留まっているのを感得し、寺の裏の古塚がその塚であることが判明したために塚上に人麻呂を祀る祠を建てて寺の鎮守としたという。明石城築城後は、城の守り神として祀られてきた。
なお、人丸社は築城時に遷座し、柿本神社のある地を新たに人丸山とよぶようになった。
30分以内で駐車場を出て、神戸市垂水区の五色塚古墳へ向かった。

神戸市 尼崎市 五色塚古墳 JR福知山線脱線事故現場

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五色塚古墳。神戸市垂水区。国史跡。北側駐車場から。平成26年6月5日(木)。
五色塚古墳は全長194mの兵庫県下最大の前方後円墳で、4世紀後半に明石海峡を一望できる地に築造された明石地域を治めていた豪族の墓と考えられている。
この古墳は神戸市が、国の史跡整備の第1号として補助金を得て、昭和40年から10年の歳月をかけて発掘調査と復元整備を行い、全国で初めて築造当時の姿に復元した大王墓クラスの巨大古墳として知られる。
墳丘の大きさは、全長194m、前方部の幅82.4m、高さ13m、後円部の直径125.5m、高さ18.8mで、周囲に周濠を巡らしている。
明石城跡から国道2号線を東進、手前で北の住宅街へ回り込んで、南進したので簡単に駐車場へ9時頃に着くことができた。古墳見学ではない車が数台停まっている駐車場は広く、帰りには小学校の遠足バスが2台来て、余裕で児童を降ろしていた。古墳入口までは約5分。JR山陽本線から何度も見ているが、来たのは初めてである。
 
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五色塚古墳。古墳の周囲には幅約10mの濠を廻らしてるが、水は湛えられていなったという。3段に築かれた墳丘のうち、下段は、地山を前方後円形に掘り残し、中段および上段は盛土を行っている。下段の斜面には小さな石を葺き、中段および上段の斜面には大きな石を葺いている。築造当時の3段の斜面に使用した石の総数は、223万個・総重量2784tと推定されている。
西側に受付兼ミニ展示室の管理事務所がある。入場は無料で、名前を受付で記入するだけ。
 
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小壺古墳。国史跡。五色塚古墳の北隣にある高さ9m、直径60mの円墳。
五色塚古墳とほぼ同時期に築造されたが、築造当時から斜面には石は葺かれていなかったませんでした。周囲は濠で囲まれ、2段に築造されていた。この小壷古墳の西方500mのところには歌敷山東古墳、西古墳があり、ともに直径20~25mの円墳がかつて存在していた。
 
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五色塚古墳。管理事務所の展示。想像復元図。
3段に築かれた墳丘のうち、下段は地山を前方後円形に掘り残し、中段及び上段は盛土を行っている。
 
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五色塚古墳。管理事務所の展示。想像復元図。海上から見た五色塚古墳。緑の平野と青い海を背景に石で葺かれた灰色の巨大な人工物がそびえている景観が想像できる。
 
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五色塚古墳。管理事務所の展示。鰭付朝顔形埴輪。重文。出土した鰭付円筒埴輪・鰭付朝顔形埴輪・円筒埴輪のうち、全体の形が復元できた48点について、古墳時代前期に属する大型古墳に置かれていた円筒埴輪の実態を良く示し、当時の古墳祭祀を復元するうえで重要であり、その学術的価値が極めて高いものとして、重要文化財指定の答申を受けた。このような古墳の周囲に廻らされた円筒埴輪群が重要文化財として指定されることは全国でも初めてのことである。
埴輪の器高は93147cmで、大型である。
 
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五色塚古墳。
『日本書紀』神功摂政元年春二月の条に「播磨に詣りて山陵を赤石(明石)に興つ。仍りて船を編みて淡路嶋にわたして、其の嶋の石を運びて造る」という記事があり、これが、五色塚古墳に関する伝承と云われている。
中段及び上段の葺石は分析の結果、日本書紀の記述通り淡路島から運ばれたものであった。
 
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五色塚古墳。埴輪のほとんどは鰭付円筒埴輪で、4~6本に一本の割合で
鰭付朝顔形埴輪が立てられおり、ほかに蓋形埴輪や盾形埴輪が少数、出土している。
 
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五色塚古墳。後円部。この五色塚古墳はパワースポットで、北側の後円部の中心に立つとさらに強いパワーをもらえるという。
南側のすぐ下を山陽電鉄の電車が走っている。
 
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五色塚古墳。前方部。明石海峡大橋と淡路島が正面に見える。立地としては明石海峡とそこを行きかう船を見下ろすような場所にあり、海上交通の要衝を占めている。このことから海上交通と関わりの深い有力者の墓と考えられている。
 
 
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五色塚古墳。明石海峡方面への眺望。
 
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五色塚古墳。北側への眺望。駐車場が見える。
 
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五色塚古墳。前方部と後円部が接するあたりの東側の濠の中に
120m、高さ5mの方形のマウンドがある。葺石の上からは土師器、須恵器、埴輪などの破片が発見され、祭祀を行った場所であると考えられている。
 
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五色塚古墳。後円部の東側にも、外側から堀の中にむかって方形に突き出た部分が造られており、ここからは円筒棺が2個発見された。ほとんど地山を掘り残して造られており、斜面には石が葺かれていた。
 
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五色塚古墳。前方後円墳をあしらった史跡モニュメント。
早朝は雲が多かったが、この辺りから晴れて、風も強かったため、遠望がきいていた。遠足児童で賑わう前の930分には見学が終わり、尼崎のJR脱線事故現場へ向かった。
 
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尼崎の
JR福知山線脱線事故現場。エフュージョン尼崎。尼崎市。
2005425日午前918分、通勤、通学客らを乗せ、宝塚から京都府京田辺市へ向かっていた福知山線の快速電車(7両編成)が、兵庫県尼崎市のJR尼崎駅手前でカーブを曲がりきれずに脱線、運転士を含む107人が死亡、562人が負傷した。
 
電車が衝突した分譲マンション「エフュージョン尼崎」は、事故後にJR西日本が区分所有者らから買い取り、2006年にJR西日本が100%の所有権を取得した。現在、人は住んでおらず、1両目が突っ込んだ地下駐車場や、2両目が巻き付くようにぶつかった12階部分などが残っている。一方で風雨にさらされて外壁がはがれたり鉄筋がさびたりするなど、老朽化も進んでいる。
 
事故の記憶をどう保存するかは、まだ協議中のようだ。
11時過ぎに辿り着いたが、分かりづらい。線路のカーブ曲線が特に大きく曲がっているようには見えなかった。この時間帯だけ、突然雨が強く降ってきたので、線路反対側のマンション側に行く気にならなかった。
このポイントで今回の見学予定地を完了し、名阪国道経由で名古屋へ16時頃に帰り着いた。

ウランバートル 現地での旅行手配 ナサン・ゲストハウス

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「ナサンゲストハウス」。ウランバートル
201475日(土)。
モンゴルの旅行は予定を綿密に立てることができず、「地球の歩き方」やネット情報、ゲストハウスからのツアー案内を見ても、具体的ではなく、現地で判断するしかなかった。英語の旅行社サイトで歴史から旅行までの情報を旅行直前に通覧して、困難さが想像できた。
現地ツアーの相談の点では「ゴールデン・ゴビ」は役に立たない。75日朝にツアーのことを女性スタッフに尋ねると、男性スタッフが10時から出勤するので待てという。11時になっても来なかったので、宿を出て、東の角地にあるツーリスト・インフォメーションを訪れた。女性スタッフが相談に乗ってくれたが、価格が高そうだったので、店を出た。通常は旅行会社がツアーを催行しているが、モンゴルではないようだ。チャーターカーに分乗するスタイルが普通らしいと悟った。
 
北東近くにある「ナサン」へ向かったが、場所が分からない。表通りに面して部屋はあるのだが、入口となる裏手の駐車場を入って、一階のドアが開いていて横になっていると看板が見えない。駐車場番のおばさんにナサンと尋ねたら首を振ったので違う場所を探してしまった。タブレットの地図情報によると、先ほどのところしかないので、表通りの店に人に尋ねると、裏口から誘導された。「ナサン」のおばさんに現地ツアーを捜していると、車の手配は翌朝分かるので、また来てくれと言われた。「歩き方」に書いてあるように親切そうな人だったので、好感が持てた。
「ナサン」の入り口は駐車場側にある。
 
次に、北西にある「UBゲストハウス」へ向かった。ここもアパートの壁に看板が出ているだけなので、15分ほど同じ所を歩いてようやく見つけた。女性スタッフに尋ねると、ダダルは泥道なので行けないと答えてきた。びっくりしたのと、ツアー一覧表の価格が高いこと、韓国系などの理由で、嫌気がさして、宿泊予約をキャンセルした。
 
「ゴールデン・ゴビ」へ13時頃帰ると、男性スタッフはいなかったので、ザナバザル美術館と国立歴史民族博物館を見学するために、外出した。17時過ぎに、宿へ帰ると、30歳台後半の米人男性と話をすることになった。ドイツの大学にいて環境工学の博士課程を取得中。日本にも来たことがあり、東京と京都の環境を比較していた。カラコルムのツアーから帰ったばかりで、道路がひどくて、四輪駆動でないと行動できない、現地で車をチャーターするのは困難とのこと。この宿に翌朝のロシアへのバス便を依頼してあったが、乗車券を取得してくれていなかったと怒っていた。
 
76日(日)早朝、同室の米人男性がひっそりと、部屋を出ていった。地下談話室へ行くと彼がいて荷造り中だったので、さよならの挨拶をした。ロビーで食べていると、彼が来てタクシーが来ないと、女性スタッフに怒っていて、歩いて長距離バスターミナルへ行くと出て行った。この宿の手配は全く信用できない。
10時になり、男性スタッフが来たので、ダダルで観光したいというと、ダダルまで定期バスは運行しているというのみ。車の手配はしてくれそうにないので、ゴールデン・ゴビでの旅行手配を断念して、「ナサン」へ相談に行くことにした。
 
ナサンへ行くと、ナサンさんは、電話で打ち合わせしてくれて、カラコルムにもダダルにもチャーター車で行けることになった。カラコルムへは今日からでも、明日からでも可能という。そこで、昼からカラコルム4日間のツアーへ出かけることにした。12時からということにして市内見学にでかけた。
 
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「ナサンゲストハウス」。キッチン・ダイニング。自炊器具はそろっている。インスタントラーメンを買ってきて、お湯を注ぐのが一番簡単だが、私の場合はスパゲッティを買ってきて、持参した粉末スープでからめて食べることを事前に考えていて、その通りにした。
無料の紅茶はナサンさんに頼めば、ティーバッグ6袋ほどを貰える。
西側は大通りに面しており、窓を開ければ風が入ってくるが、窓がバタンと閉まらないように止め物をするように注意書きがある。
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