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倉敷市 阿智神社・古代庭園 浅口市 金光教本部 笠岡市 笠岡市立カブトガニ博物館

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阿智神社本殿南の鶴石組。倉敷市鶴形山。平成
26520日(火)。総社市北部の鬼ノ城を見学後、倉敷に向かった。美観地区には35年前から複数回訪れている。倉敷民芸館で外村吉之介が織機で織っている姿は印象的だった。
今回は美観地区北東部鶴形山の阿智神社の磐境、磐座のみを見学することにしていた。山上にある阿智神社へは自動車で登ることができるとネットで調べていたが、山の周辺は歩行者専用道や一方通行が多く、車用登り口が発見できなかったので、アイビースクエア北の駐車場に駐車した。
駐車料金が高いので、1311分入庫、1337分出庫、料金150円で済ませた。南側の参道石段を昇っていった。石段手前に自動車道が右折して登っていたが、表道からは分かりづらい。
 
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阿智神社には磐境、磐座のほか蓬莱思想にもとづく鶴亀の石組、陰陽思想的な磐座が遺され、日本庭園における石組の起源を探る貴重な存在として注目されている。
かつて岡山平野は吉備の穴海と呼ばれる海域で、当時は窪屋郡阿智郷であった現在の倉敷市鶴形山周辺は交通の要衝であったといわれ、そのため海上交通の守護神である宗像三女神を祀ったと考えられている。
 
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阿智神社本殿西の亀石組。本殿西脇には戌亥(北北西)の方向へ一線に連なる磐境(鶴亀の石組ー古代庭園)が営まれた。
応神天皇の時代に東漢氏の祖先とされる、阿知使主(あちのおみ)が漢人を率いて帰化したと書かれており、その一部がこの地方に定住したらしい。この神社が阿知使主族の奉斎するものであることは和名抄に阿智の明神と記されていることからも推定できる。
このあたりは備中府志等によると阿知潟、社記には吉備の穴海と称される浅海で、その中の小島に漁民が社殿を奉祀したとある。
 彼らは帰化するにあたってその帰属意識を明らかにするため、日本に古来から伝わる磐座や磐境を設け、更に彼ら民族の先進的文化を盛り込むべく中国から伝来した鶴亀の神仙蓬莱思想や陰陽思想を導入したものといわれている。
 
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社殿東側の磐座。天照皇太神。
応神朝に朝鮮半島より渡ってきた漢の霊帝の曾孫、阿知使主(あちのおみ)一族。彼等は「製鉄」「機織」「土木」等の先進文化を担う技術集団として、吉備国の繁栄の礎を築き、当時、島(内亀島)であったこの鶴形山に神々の天降られる斎庭として、日本最古の蓬莱様式の古代庭園を造ったと伝えられている。
 
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阿智神社から眺める倉敷美観地区。南西方向。
その後。倉敷市内の業務スーパーで食品購入。県西部・北部には安売りスーパーはないと予想。総社見学を終えたので、一段落した心象。雨が降りはじめ、浅口市金光町の金光教本部地区へ向かった。
 
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金光教本部広前会堂。浅口市金光町。金光教は安政
61859)年、備中国浅口郡大谷村にて赤沢文治(後の金光大神)が開いた創唱宗教である。同じ江戸時代末期に開かれた黒住教、天理教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。
金光教では、信者は本部および各教会の広前に設けられた結界の場において、生神金光大神の代理となる取次者を通じて、各人それぞれの願い・詫び・断り・お礼を天地金乃神に伝えることにより、その願い・祈りを神に届け、また神からの助かりを受ける。これを「取次」という。
広前会堂は、金光教の神をまつり、取次を行う中心的な建物で、正面に天地書附を奉掲して「天地金乃神 生神金光大神」を祀った神前がある。
 
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金光教本部案内図。国道
2号線から一つ東の信号で北進し、JRの駅まで行って迷った。ナビでは探せず。道を戻り、周辺をさまよった末、金光教図書館の駐車場に駐車して、施設見学。
 
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立教聖場と修徳殿。右の修徳殿は信奉者の研修のための施設。左の立教聖場は、金光教の教祖である金光大神の自宅(
1850年建築)を1933(昭和8)年に復元した建物。金光大神は、安政61859)年から逝去するまでの24年間、この家をほとんど離れず、取次に専念した。現在の本部広前会堂の原点となる建物とされる。
文久31863)年「表口の戸をとり、戸閉てずにいたせ」との神命に従い、入口の戸はない。これにより、神をまつり、金光大神が取次を行う広前が世間に常時開放されることとなった。この伝統に従い、現在も本部広前会堂の表口は、常時開放されている。
このあと、笠岡市立カブトガニ博物館へ向かった。国道2号は工事個所があり、渋滞。165分頃、駐車場に到着。冠水した園路を5分ほど歩いて入館。
 
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笠岡市立カブトガニ博物館。翌日、笠岡諸島行き旅客船から眺めた外観はカブトガニの甲羅の形をしていた。NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」での紹介映像がちょうど放送されたあとだった。
165分頃、駐車場に到着。冠水した園路を5分ほど歩いて入館。
 
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笠岡市立カブトガニ博物館。カブトガニ水槽。大型水槽には成体が飼われている。ほとんど動かない。館内はスロープ式に展示順路が進んでいく。
 
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笠岡市立カブトガニ博物館。恐竜の模型。カブトガニは古生代に発生し、恐竜が跋扈した中世代も生き抜いた。
 
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笠岡市立カブトガニ博物館。内部のつくりと血液。カブトガニは甲殻類ではなく、カニよりはクモやサソリに近い。
カブトガニの血液はアメーバに似た動きをする血球と、ヘモシアニンを含んだ血漿からできている。ヘモシアニンには銅を含んでいるので血液が空気に触れると青くなる。
また、血液は体外に取り出すと、短時間に寒天のような塊になる。この凝固の仕組みを調べていくうちに、血液内のたんぱく質が人類にとって有用なことが分かってきた。
 
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笠岡市立カブトガニ博物館。カブトガニの血液は医療に応用されている。カブトガニ類の血液から得られる抽出成分は、菌類のβ
-D-グルカンや細菌の内毒素と反応して凝固することから、これらの検出に用いられる。
 
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笠岡市立カブトガニ博物館。血液中の凝固因子、凝集素、抗菌物質の働き。
 
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笠岡市立カブトガニ博物館。アメリカカブトガニの墓。日本以外では東アジア、北アメリカに同科の動物を見ることができ特に北アメリカ東海岸の一部ではアメリカカブトガニを無数に見ることができる。
蚊を駆除するための薬剤が空から散布されて海水を汚染し、産卵に来たカブトガニを大量に殺してしまった。
 
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笠岡市立カブトガニ博物館。飼育展示室。動き回っている成体前の個体を観察できる。
 
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笠岡市立カブトガニ博物館。対岸は大干拓地で、水路は笠岡諸島行き旅客船の航路となっている。
17時閉館直前に退館し、雨の中、近くの道の駅「かさおか」へ向かった。翌日は笠岡諸島行き旅客船に乗船して、真鍋島へ向かった。

海賊の城・真鍋城跡 岡山県笠岡市 笠岡諸島・真鍋島 真鍋中学校  

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笠岡港。笠岡市。平成
26521日(水)。道の駅「かさおか」で起床。本日はまず、笠岡諸島の真鍋島見学を予定し、810分発の旅客船に乗船するため笠岡港へ向かった。北へ進んで、港近くに無料駐車場を見つけて駐車し、港の待合所へ着いた。様子がおかしいので、居合わせた男性に尋ねると、この港ではなく、国道2号線のトンネルを北に越えた別の港だとのこと。徒歩でトンネルを歩いて2号線から左折すると。港に着いた。正式には住吉港といい、先ほどの港は伏越港で、いずれも笠岡港として括られている。
行程は、笠岡港810分発、真鍋島本浦港95分着、本浦港1130分発笠岡港1214分着で、運賃は往路が旅客船1020円、復路が高速船1760円。
笠岡諸島は、岡山県の西端、笠岡市に属し、高島・白石島・北木島・真鍋島・小飛島・大飛島・六島の7島で構成されている。諸島の人口は2,166人で、北木島(1,027人)と白石島(581人)が中心である。
待合所は古びたいかにも離島向けといった建物。20人ほどが乗船し、810分に出航した。
 
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カブトガニ博物館を通りすぎる。
 
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客室外の有蓋開放室。高島への入港前。
 
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高島港。
 
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北木島港。
 
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北木島。
 
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真鍋島本浦港へ到着。
 
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真鍋島の観光案内図。真鍋中学校は港の南、城跡は中央部と北東端の
2か所、石塔は北部と大体分かる。
まず、真鍋中学校へ。本来は西からが正門だが、東から裏口入学する格好になり、給食室の横を通って、校庭に入った。
 
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笠岡市立真鍋中学校。夏目雅子主演映画「瀬戸内少年野球団」のロケ地として有名。
通常の校舎とは雰囲気が違う。窓が小さいのは、海辺の強風を考慮してのことか。壁が黒いのが印象的。
 
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真鍋中学校。校庭の脇に「岡山県近代和風建築総合調査報告書」の抜き刷りが掲示してあった。木造二階建、切妻造、セメント瓦葺。昭和
24年建築。昭和22年真鍋村立中学校として開校。校舎は昭和24424日に落成式挙行。多少の改築はあるが、ほぼ建設時のまま、現在も校舎として使用。笠岡諸島7島の有人島はどの島も面積が小さく、平地面が少ない。真鍋島も万葉の歌にも名前があるほど古くから知られているが、人口が少ない半農半漁の島である。戦後という経済的にも困難な時、少ない平地を切り開き、石垣を積み上げて校地を確保するなど大変な苦労が偲ばれる。高さ3.2mの石垣擁壁を積み上げ、その頂部に石を敷いて土台とした。1階は桁行42m、梁行8m、2階は38m×8mの規模で、外壁は南京下見板張。柱材はヒノキ、梁材はマツ。
設計者・施工者ともに不明であるが、地元の大工等が関わったものと考えられる。真鍋島の経済的交流を考えれば、四国の多度津周辺から建材を入れたのではないかと思われる。
 
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真鍋中学校。校地平面図。「岡山県近代和風建築総合調査報告書」所載。
 
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真鍋中学校。小学校の門柱の横には二宮金次郎像が置かれている。
真鍋城跡へ向かう。 
 
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マンホールの蓋。デザインはカブトガニ。
 
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本浦港東端の分岐。正面の山に上り坂の道が見える。島の中央部を通る稜線へ至る遊歩道を登る。
 
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本浦港東端の峠道途中から眺める本浦港。
 
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真鍋城跡手前の巨石。島の中央部を通る遊歩道を進むと城跡に関わると思われる巨石が現れる。門跡ないし防御施設か。ここから
1分ほど歩くと主郭に出る。
 
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真鍋城跡。「じょうやま」の城跡。主郭。(標高
84m)。真鍋島では平安時代末期に藤原氏の一族が水軍の根拠地を置いて真鍋氏を名乗り、全盛期には付近の島々をことごとく支配下に治めていたという。真鍋水軍の本拠地であった真鍋島の東部には、中世の城跡が2カ所残っている。地元では島の東端の山を「しろやま」、その南西にある山を「じょうやま」と呼ぶ。島の最高峰である東側の城山にあった城が、本城といわれ、より規模の大きい城跡があったと思われるが、明治以後の採掘で頂上は原形を失っている。
 
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真鍋城跡。「じょうやま」の城跡。主郭。山頂には平坦面があり、周囲を石垣が巡る。今日では真鍋島
88ヶ所の12番と13番の石仏がまつられている。
 
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真鍋城跡。「じょうやま」の城跡。主郭。石垣。主郭からの眺望はない。
遊歩道を東へ進む。
 
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遊歩道の道標。遊歩道は踏み跡はあるが、下草が多い。畑が現れると、右に海を眺める交差点に出た。東端の城跡は直進である。
 
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真鍋城跡。「しろやま」の城跡。主郭。東端の島の最高地点(標高
127m)にある。周囲への見晴が良い。真鍋水軍の版図は、「全盛期には、その領土は塩飽、笠岡諸島はもとより、北は備後蓑島、南は讃岐国の一部、東は備前長島、西は伊予の伊吹島に及んだ。」と伝えられており、毛利氏と織田信長が対抗したとき、真鍋水軍は毛利方に付いた。石山本願寺攻略の時、信長から荒木摂津守(村重)に宛てた書状に。真鍋水軍に警戒するようにとの文言が残っている。
 
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真鍋城跡。「しろやま」の城跡。主郭。真鍋城終焉の哀話が伝わっている。真鍋城では、代々、三層の本丸の最上層に白蛇を飼っており、この白蛇に餌をやることは城主の妻の勤めであった。最後の真鍋城主の奥方は讃岐高松の松平家の姫君であったが、ある日、いつものように
白蛇に餌をやりに行った時、閉じこめられている蛇と我が身を重ねたのか、可哀そうになり、窓を開いてやった。白蛇は窓から抜け出ると、真鍋島の沖あいにある大島に逃げていった。ところが、まもなく、その白蛇は、大島で死んでいるのが見つかった。それからのち真鍋家は不幸が続き、城主夫妻も病没してしまい、ついに真鍋家は城を出て民間に下り帰農したという。
 
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真鍋城跡。「しろやま」の城跡。東方向への眺望。佐柳島、多度津方面。
水軍としては絶好のの物見台であった。
 
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真鍋城跡。「しろやま」の城跡。西方向への眺望。中央部に西の真鍋城跡。その右側に本浦港。
奥の左に六島、右に大飛島・小飛島。
 
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真鍋城跡。「しろやま」の城跡。北西方向への眺望。本浦港。北木島。中央奥は走島、沼隈半島(広島県福山市)方面。
 
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真鍋城跡。「しろやま」の城跡。南方面への眺望。遠く香川県三豊市詫間町、粟島方面。
瀬戸内の水上交通の要衝であることが分かる。
 
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真鍋城跡。「しろやま」の城跡入口。花を栽培しているという
80代の女性。南方面の眺望を尋ねた。大阪から20年ほど前に来たといい、夫婦で農業をしているという。
北の岩坪集落へ下る。途中の墓地にあるという五輪石塔群を捜す。分かりにくかった。
 
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五輪石塔群。平安時代末期から室町時代にいたる各時期の形式を備えており、真鍋氏一門代々の墓と伝えられている。もとは62基を数えたという。中央の大きなものを、ヱ門大夫の墓と呼ぶ。これは、室町時代の領主・真鍋右衛門大夫貞友の墓という説がある。
 
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本浦港。岩坪集落の坂道を下り、海岸道を西へ
15分ほど歩くと本浦港が見えてきた。
 
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本浦港。待合所。味のある建物。
 
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本浦港。待合所。内部。児童・生徒が描いた絵が展示されている。「鶴瓶の家族に乾杯」の宣伝ポスターは初めて見た。
 
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本浦港。
1130分発笠岡港行きの高速船。
 
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遠ざかる真鍋島。左が東端の「しろやま」、その右・中央部に「じょうやま」がある。
笠岡港には1214分着。このあと、笠岡市立竹喬美術館や倉敷市真備町の横溝正史疎開宅などを見学。

岡山県笠岡市 大飛島遺跡出土品 竹喬美術館 倉敷市 横溝正史疎開宅

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大飛島遺跡出土品。重文。笠岡市立郷土館。平成
26521日(水)。笠岡諸島の真鍋島を見学し、1214分頃に笠岡港へ到着。「シャコ丼」で有名な店があるので、車で訪れると、シャコが獲れなかったので数日休業の貼り紙があり、がっかり。真鍋島の西に位置する大飛島の祭祀遺跡出土品を展示している笠岡市立郷土館へ向かう。
郷土館は笠岡市内の考古・歴史・民俗資料を展示している。入館料50円。
大飛島遺跡は海上の安全を祈願した奈良時代から平安時代の祭祀跡。校庭にありる。昭和37年飛島小学校の校庭に鉄棒を設置しようと地面を掘っていたところ、銅鏡・銅鈴・銅銭・土器類などが偶然発見された。その後、5回の発掘調査が行なわれ、大きな岩の周りで「まつり」が行なわれていたことが判明した。特に、奈良~平安時代の出土品には、奈良三彩・皇朝銭・ガラス製品など全国的にみても宮廷や大寺院などでしか出土しない貴重な品々が含まれており、中央朝廷が祭祀に関与していた可能性が指摘されている。遣唐使の航海の無事を祈る国家レベルの祭祀場であったとも推定されている。出土品のうち811世紀の遺物308点が重文に指定されており、「瀬戸内海の正倉院」の名にふさわしい遺跡とされる。
 
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須恵器・甕。大飛島遺跡出土品。重文。笠岡市立郷土館。祭祀に使われる土器は意図的に毀損される特徴が共通的にみられる。この須恵器も底部・胴部に孔が開けられ、口縁部に打ち欠きがみられる。
竹喬美術館へ。
 
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笠岡市立竹喬美術館。笠岡市で生まれた近代日本画を代表する日本画家小野竹喬の画業を紹介する美術館。日本の自然の美しさを描き続けた小野竹喬の永い展開の間には二つの頂点がある。一つはセザンヌなどの影響により洋画的手法を果敢に取り入れた
30歳前後の《島二作(しまにさく)》に代表される時代、また一つは、日本の伝統的な大和絵を新たに解釈し、象徴的な世界に到達した晩年の「奥の細道句抄絵(昭和51年)」に代表される時代である。
竹内栖鳳にともに弟子入りし、行動をともにした土田麦僊ともに好きな画家なので入館した。パステルカラー風の色彩と抽象画風の画面構成が面白い。
倉敷市真備町の横溝正史疎開宅へ向かう。
 
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横溝正史疎開宅。倉敷市真備町岡田。笠岡からは国道
2号線から外れて北東へ向かったが、道が分かりづらく、15時過ぎに到着した。駐車場が狭いので、付近に路駐。開館日が火・水・土・日なので、どうしても本日に見学する必要があった。閉館時刻は16時なので焦った。入場は無料で地元の人がボランティアで管理している。周辺は濃茶の祠など小説の舞台となった。
 
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横溝正史疎開宅。座敷。昭和
204月から3年半を過ごし、「八つ墓村」「本陣殺人事件」「獄門島」などを執筆した。
 
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横溝正史疎開宅。横溝正史夫妻の遺品。横溝正史の着物とはかま。夫人の横溝孝子さんは平成
2311月に105歳で亡くなり、親族から帯と着物が倉敷市に寄贈された。
 
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横溝正史疎開宅。電燈。ボランティアの女性が古いタイプの電燈を補充するのは困難になってきたと言っていた。
 
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横溝正史疎開宅。庭。妙に華麗な庭に驚いた。
車で数分の真備ふるさと歴史館へ。
 
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真備ふるさと歴史館と金田一耕助像。倉敷市真備町岡田。 岡田藩支配時代の古文書を公開し、当時の村の支配や村人の暮らし、産業興しの工夫、災害を防ぐ努力などを紹介。真備地区ゆかりの推理作家横溝正史の遺品を展示する「横溝正史コーナー」も設けている。
右側に岡田藩陣屋があった。岡田藩は同地に江戸時代初期から廃藩置県まで伊東氏が10代にわたり藩主を務めた。石高は1万石余。藩主家の備中伊東氏は、源頼朝の命を救った伊東祐清の後裔で、日向国飫肥藩主家の日向伊東氏と同族。
16時閉館直前に入館し、遠来の客ということで展示を見せてもらった。開館日時は横溝正史疎開宅と同じ。
 
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大池と弁財天。真備ふるさと歴史館の北に隣接。このあたりは横溝正史の散策路らしく、弁財天も小説の舞台となっている。
1630分になり、道の駅「かさおか」へ向かった。翌日は北条早雲が生まれた井原市の高越城跡、矢掛宿、吉備真備関連の史跡などを見学。

岡山県笠岡市 井笠鉄道記念館 井原市 北条早雲が生まれた高越城跡

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笠岡市井笠鉄道記念館。笠岡市山口。平成
26522日(木)。道の駅「かさおか」から北へ向かい、北条早雲が生まれた井原市の高越城跡、矢掛宿、吉備真備関連の史跡などを見学。
井笠鉄道は軌間762mmの軽便鉄道として設立され、大正21913)年1117日に本線笠岡・井原間が開業した。その後、矢掛支線が開通、神辺支線を買収し、総延長37㎞となったが、昭和42年に両支線を廃止、昭和461971)年331日に井笠本線も廃止された。現在の井原鉄道は井笠鉄道の道床を利用している。
井笠鉄道記念館は井笠鉄道により昭和56年に設置され、井笠鉄道にゆかりの資料を保存・展示してきた。平成14年には産業考古学会の推薦産業遺産に認定された。しかし平成2411月に井笠鉄道が事業を清算したため地元の新山地区自治会が記念館の管理を引き受けることになり、記念館の資産を笠岡市が買い取り、平成26330日にリニューアルオープンした。笠岡市と新山地区自治会が共同で運営している。
記念館の建物は、井笠鉄道が開業した大正2年に建築された旧新山駅の駅舎である。横の県道は旧井笠鉄道の線路敷跡。
 
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井笠鉄道の社紋プレート。記念館の展示。
 
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井笠鉄道の票券閉塞方式の通票(スタフ)。右側先端が丸、三角、四角に区別されている。タブレット方式が多いが、スタフ方式は珍しい。
 
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開業時の通券箱。通票と通券を併用していた。かなり珍しい。
 
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号機関車の銘板。1913年の井原-笠岡間19.4kmの開業に備え、機関車3両が同年10月にドイツのオーレンシュタイン・ウント・コッペル-アルトゥール・コッペル(Orensteim & Koppel-Arthur Koppel A.-G.)社で製造された。これらは井原笠岡軽便鉄道の資材調達を請け負った三井物産からコッペル社の日本総代理店であった東京のオットー・ライメルス商会(Otto Reimers & Co.)を経由して発注されており、製造銘板下部には日本における取り扱い代理店としての同商会の名が明記されていた。
 
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号機関車。1913年、オーレンシュタイン・ウント・コッペル-アルトゥール・コッペル社(ドイツ)製の蒸気機関車。鉄道線全廃翌々年の1973年から5年間、西武山口線で「おとぎ列車」の牽引に使用されていた。
 
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号機関車。運転整備重量9.14t、軸距1,400mm、出力50PSB型飽和式単式2気筒サイド・ウェルタンク機。
転車台は鬮場(くじば)駅のものを移転。
 
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号機関車。開業以来特に大きな不具合も発生せず、1961年の除籍まで半世紀近くに渡って井笠鉄道の主力機関車としてほとんど改造されることもないまま、重用され続けた。
 
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号機関車。運転室。弁装置は大型機関車で一般的なワルシャート式であり、簡易なコッペル式や複雑なアラン式などを避けて堅実かつ動作の確実な機構を選択している。
シリンダは煙突よりやや後退した位置に取り付けられており、また加減弁はこの種のコッペル社製小型機関車としては珍しく大型の蒸気ドーム内に内蔵されているため、左右各2本の蒸気管がSカーブを描いてシリンダと煙室を結んでいる。
 
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ホハ
1。木造客車。1913年、日本車輌製。
 
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ホハ
1。内部。定員50人、座席26人。立入はできない。
 
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ホワフ
1。木造貨車。1914年、日本車輌製。井笠鉄道の保存車両の中で唯一保存されている貨車。井笠鉄道は多いときには47両の貨物列車を保有し、沿線で収穫した農産物などを輸送していた。
 
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客車と貨車の連結器。ピン・リンク式連結器。リンクとピンによって連結する連結器で、先端に穴が空いた受け板があり、リンクを穴に差し込み、落とし込みピンを入れて連結する。主に黎明期のアメリカの鉄道や、軽便鉄道、産業鉄道などで用いられた簡易型の連結器で、鎖やロープなどを除けばもっとも簡素な連結器である。日本の営業路線でこのタイプの連結器が現存するのは黒部峡谷鉄道のみである。
展示室で、昭和46331日付の硬券のコピー券を貰って、井原市の高越城跡へ向かった。
 
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井原鉄道の列車が踏切西の「早雲の里荏原駅」へ向かう。高越城跡へ向かう道路から南方向の風景。
 
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高越城跡。井原市東荏原町・神代町。高越城は戦国大名家・後北条氏の初代北条早雲(伊勢
盛時)が生まれ育った城である。
北条早雲は一介の素浪人から戦国大名にのし上がった下剋上の典型とする説が通説とされてきたが、近年の研究で室町幕府の政所執事を務めた伊勢氏を出自とする備中荏原荘の領主伊勢氏の伊勢盛時とする説が確定的になった。近年の研究で早雲の父・伊勢盛定が幕府政所執事伊勢貞親と共に8代将軍足利義政の申次衆として重要な位置にいた事も明らかになってきている。早雲は伊勢盛定と京都伊勢氏当主で政所執事の伊勢貞国の娘との間に生まれた。決して身分の低い素浪人ではない。
井原市法泉寺の古文書を調査した藤井駿が1956年に早雲を備中伊勢氏で将軍足利義尚の側近であった「伊勢新九郎盛時」とする論文を発表し、1980年前後に奥野高広、今谷明、小和田哲男が史料調査の結果として「伊勢新九郎盛時」を後の北条早雲とする論文を発表して確定的となった。
生年は、長らく永享4年(1432年)が定説とされてきたが、近年新たに提唱された康正2年(1456年)説が有力視されつつある。
登城口へ行くための道標は整備されており、荏原小学校東の道を北進し、東方向へ山間部に入り、交差点から南進すると、広大な駐車場に着く。駐車場には北条五代観光推進協議会などの資料が置いてある。
 
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高越城案内図。駐車場から舗装道を歩き、途中から左の坂道を登る。城跡は本丸も含めて
5段の郭で構成されており、当時の状況をよくとどめている。
 
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高越城跡。冠木門のある坂道を登る。
 
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高越城跡。本丸跡。公園として整備されすぎていて、雰囲気に乏しい。
高越城は、鎌倉時代末、蒙古襲来に備えて幕府が宇都宮貞綱に命じて作らせたと伝えられる。戦国時代には、京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、伊勢新九郎盛時(北条早雲)は享禄4(1432)年伊勢盛定の子としてこの地に生まれた新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺で学んだといわれる。その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕え、応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国の守護今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となった。
備中伊勢氏は、その後、後裔の貞信の代に至った天文910154041)年、尼子氏の南下攻勢政策を阻止し、又五郎は永禄91566)年に毛利氏に従って、出雲富田城攻めに参加し、当地で戦死を遂げたといわれる。備中伊勢氏が没落したのは、その後と思われるが、天正91581)年からは毛利氏の持城となり、慶長51600)年頃に廃城となった。
 
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高越城跡から南の眺望。高越城は備中における山陽道の要害地としては、猿掛山城(矢掛町)に次ぎ、山陽道と小田川を足下に見下ろして、東は山陽道を矢掛から猿掛山城辺りまで、南は毛利氏の軍港であった笠岡から矢掛方面に北上する人馬の行き来が山陽道に合流する地点を俯瞰することができた。
 
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高越城跡から西の眺望。
高越城は山陽道を東上する軍勢だけでなく瀬戸内海を船で下り笠岡の港へ上陸した毛利勢が、備中・備前の境界地点に展開する上で重要な補給基地であった。
このあと、山陽道の宿場町矢掛へ向かった。

岡山県矢掛町 矢掛宿 圀勝寺 下道氏墓 吉備真備公園 倉敷市真備町 まきび公園 箭田大塚古墳 吉備中央町 大嘗会主基田伝承地 鷺の巣温泉  

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宿場町矢掛。岡山県小田郡矢掛町
 平成26年5月22日(木)。笠岡市井笠鉄道記念館、北条早雲が生まれた高越城跡の見学を終え、山陽道の宿場町矢掛へ向かった。
矢掛町は山陽道18番目の宿場町として栄え、本陣と脇本陣がともに残され、両方が国の重要文化財であるのは全国でもここだけである。約750mに渡って江戸末期から明治時代にかけて建てられた町屋が並び、白壁・鬼瓦・虫籠窓・なまこ壁などが風情を残している。
やかげ郷土美術館の裏に駐車して見学。
 
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旧矢掛本陣石井家。重文。矢掛本陣は、大庄屋で酒造業を営む石井家が寛永
12年(1635年)に本陣職を命じられ、以降世襲で伝えた。天璋院篤姫はこの矢掛本陣に泊り、薩摩から徳川十三代将軍家定に嫁いだ。
現存する本陣の建物は江戸時代中期に建てられた裏門・西蔵・酒蔵などを除き、本陣施設としての御成門・玄関・御座敷をはじめ主屋の主要建物は江戸時代後期(天保年間~安政年間)にかけて再建されたものである。本陣の屋敷地は間口20間(約36m)、奥行50間(約90m)、面積1000坪(約3200㎡)で、十数棟の建物が建っており、それらはほとんど改変されていない。
 
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御成門と玄関。御成門は天保 3(1832)年の再建。棟門で、扉は両開き。ケヤキの一枚板を張っている。大名や幕府役人等が出入りした門で、休泊した時には、門の脇に宿札を掛けた。
 
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座敷。
 
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衝立と障子の絵
 
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上段の間。御座敷の南西隅に一段高く設けられた8畳の部屋で、床と違い棚、付け書院が設けられている。
 
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上段の間。質素な造りに見えるが、使用された資材には当時の粋をこらしたものを用いており、凝った造りとなっている。
 
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欄間。葡萄の透かし彫り。上段の間の欄間には真桑瓜と蝶、葡萄と栗鼠をたくみに彫ったものが用いられている。モダンなデザインで洗練された意匠と評価が高い。桃山時代のものと伝えられている。
 
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。簡素。
 
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土間。石井家の母屋。土公神様(カマドの神様)。
 
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酒蔵。母屋の裏には家業であった酒造関係の施設が建ち並んでいる。酒蔵の中には巨大な酒の絞り器が設置されている。
 
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酒蔵内の展示。篤姫関連の資料も展示されている。
30分余り見学して、町並みを歩いたが、意外に見所や食べ物がないので車に戻り、吉備真備関連の史跡を求めて東進した。
 
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圀勝寺。矢掛町東三成。真言宗の寺院。天平勝宝 8(756)年、吉備真備の開創と伝えられ、享保151730)年、真備の父の名にちなんで現在の名称に改称された。また、下道氏墓から元禄121699)年に出土した「下道圀勝弟圀依母夫人之骨蔵器/和銅元年十一月二十七日在銘」の重文の銅壺を所蔵している。
狭い道路を北の山麓へ向かうと寺が見える。路駐したが、寺の西に駐車場があった。
 
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下道氏墓。国史跡。矢掛町東三成。 元禄12年に当地で石櫃から銅製骨蔵器が発見された。骨蔵器は、身の口径12cm、高さ15.8cm、蓋の径24.7cm、高さ8.8cm。蓋の銘文から、下道朝臣圀勝(くにかつ)・圀依(くにより)が和銅元(708)年に母を火葬して納骨したことが判明した。下道朝臣圀勝は、吉備真備の父であり、被葬者は真備の祖母にあたり、骨蔵器が出土した墳墓は下道氏の墓であることが判明した。
下道氏は現在の矢掛町・真備町周辺の小田川流域地域の有力豪族で、奈良時代には朝廷の下級官僚をつとめた。
国道486号線北側の下道公園に駐車場がある。西入口に祠があり、坂道を登ると高台に史跡地がある。
 
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吉備公ゆかりの地。吉備公館址。矢掛町東三成。吉備真備公園の駐車場近くにある。
この地には屋敷跡とみられる土塁に囲まれた「だんのうち」と呼ばれる平地があり、このあたりから奈良時代の瓦片が出土している。地元では吉備公館址と称され、下道氏の館址と伝えられている。
真備町箭田にも吉備公館址がある。
 
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吉備真備公園。矢掛町東三成。吉備真備を顕彰する目的で、吉備公ゆかりの下道氏の館址と伝えられる地に整備した。中央は吉備真備公像、右の建物は館址亭。
 
 
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吉備真備公園。吉備大臣産湯の井戸。矢掛町東三成。井戸らしい雰囲気はない。真備町箭田にも吉備公産湯の井戸がある。
 
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まきび公園。倉敷市真備町箭田。吉備真備を顕彰し後世に伝えるため開園した。緑に囲まれた小さな谷の緩やかな傾斜地を利用して、中国風の公園が造られている。
 
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吉備寺。真言宗。飛鳥時代の創建といわれるが、開基は不明。吉備氏の菩提寺とされる。この地には飛鳥時代に箭田廃寺があり、鬼瓦や礎石が出土している。吉備寺は箭田廃寺の跡に建てられており、礎石は現在、庭石に利用されている。この寺院の南西に真備の祖父の墓と伝えられている場所があり、吉備様と呼ばれている。現在の本堂等は江戸時代の建造である。まきび公園の一角にある。
 
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吉備公墳。まきび公園の南端の丘上に八田神社があり、境内奥の墳墓を、江戸時代、岡田藩主伊東長貞が吉備真備公のものと確認するため発掘した記録が残る。領主伊東氏が撰文した墓碑銘がある。
 
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まきび公園一帯。八田神社から眺める。右下のまきび記念館も見学した。
公園の北東1㎞ほどにある吉備公館址へ向かう。
 
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吉備公館址。倉敷市真備町箭田。真備公が生まれた屋敷跡と伝わる。
石碑は明治33年の建立。傍らには、珍しいラテン語の顕彰碑が立つ。
 
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真備公産湯の井戸。小田川支流子洗川上流の湧水。吉備公館址のすぐ北にある。中国風に整備されている。江戸時代の学者古川古松軒は子洗川を真備ゆかりの川と推定した。
西500mにある箭田大塚古墳へ向かい、道路東の駐車場に駐車し、徒歩で西へ数分歩く。
 
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箭田大塚古墳。国史跡。倉敷市真備町箭田。高梁川との合流点に近い小田川の北岸に位置する。6世紀後半の築造とされる。張り出しを持つ円墳で、直径54
m、高さ7m。県下三大巨石古墳のひとつで、権力の強大さを示す刀剣・馬具・金環などが出土しており、被葬者は有力豪族と考えられ、下道氏との関連が推定される。
 
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箭田大塚古墳。石室。巨大な石を精密に組み合わせた横穴式石室、入口の羨道とその奥の玄室に分かれている。石室全長は
19.1m、うち玄室の長さ8.4m、幅3m、高さ3.8m。天井石は4枚の巨石で構成されている。石室内には3基の組み合わせ式石棺が置かれている。
岡山県南部の見学を終え、内陸部の行程に入る。
 
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大嘗会主基田伝承地。吉備中央町豊野。賀陽庁舎から県道を矢野川沿いに
2㎞ほど北上すると、案内標識がある。
 
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大嘗会主基田伝承地。主基田は、天皇が践祚大嘗祭のさいに献上する米を栽培した斎田のことで、西日本の各地から占いにより選定された。平成
2年の今上天皇の即位の礼にも、この水田から収穫した新米が庭積机代物として献上された。
 
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大嘗会主基田伝承地。水田は平安時代からの主基田といわれ、直径25
mの円形をしている。周囲の水田より数10㌢程高い位置にあり、矢野川からきれいな用水が直接給水されている。
 
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大嘗会主基田伝承地。地元ではこの水田を「ゆりわ田」とよんでいる。ご飯を竃から出して保管するお櫃(おひつ)の竹の輪を「ゆりわ」と称していたことからという。
1630分頃に道の駅「かよう」へ向かい出発したが、時間に余裕があるので、立ち寄り湯はないかと、賀陽庁舎に寄って職員に尋ねると、すぐ西に「鷺の巣温泉」が利用できるかも知れないという情報を得た。
 
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鷺の巣温泉。湯本屋旅館。吉備中央町賀陽。玄関に、
12時~17時、700円の案内があった。17時頃だったが、尋ねると、どうぞと言われた。湯船は小さいが、アルカリ性単純温泉は肌触りが柔らかく、下呂温泉並みに成分が濃い温泉で、満足した。宿の接客の雰囲気もよかった。
 
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鷺の巣温泉。湯本屋旅館。古くからの名湯らしく、頼山陽、山田方谷も入湯し、山田方谷が近在の田植えの様子を詠った漢詩が紹介されている。
近くにある道の駅「かよう」へ向かった。翌日は高梁市の備中松山城からの旅となる。

岡山県高梁市 天空の城塞・備中松山城跡 藩校有終館跡 成羽陣屋跡 成羽美術館 三村氏居館跡  

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備中松山城跡。国史跡。重文。岡山県高梁市。平成
26523日(金)。道の駅「かよう」から西進し、国道484号線が高梁市街地へ下るループ橋地点からの絶景を楽しんで、備中松山城跡へ向かった。35年前の5月以来2度目となる。前回は高梁駅から頼久寺庭園を経て松山城跡へ徒歩で登ったので、全身が汗だくになったが、今回は車なので楽に見学できた。
車道には整理員がいて、進入を規制していた。最終の駐車場であるふいご峠駐車場には95分頃着いた。駐車場は狭く14台が定数で、5台ほど先着していた。満車の場合や土・日・祝日などは下の駐車場から有料のシャトルバス利用となる。
駐車場から坂道を10分ほど登って、本丸前の広場に着くと、杖を手にした老夫婦が休んでいた。
備中松山城跡は市街地の北端にそびえる臥牛山(標高約480m)のうち小松山の山頂(標高約430m)ににあり、天守の現存する山城としては随一の高さを誇る。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存し、平成6年~9年にかけて本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、土塀などが復元された。
 
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備中松山城跡。この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2(1240)年に有漢郷の地頭に任ぜられた秋庭重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まる。その後、元弘元(1331)年に備中守護高橋九郎左衛門が初めて小松山に築城した。城主は上野氏、庄氏、三村氏と変遷し、戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった。三村氏が滅んだ後は毛利氏の東方進出の拠点となり、江戸時代初期には、備中国奉行として赴任した小堀正次・正一(遠州)父子により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っていた。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えた。
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備中松山城跡。現在見られる天守などは、天和31683)年水谷勝宗が修築したものと伝えられている。天守は、22階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守である。現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができる。1重目屋根には、西面に千鳥破風、北面・東面に入母屋破風、南面に向唐破風が付けられている。天守の高さは約11mで、現存天守の中では最も低い。
 
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備中松山城跡。
1階。囲炉裏。板石造り、長さ1間、幅3尺。調理や冬の暖をとるために掘られている。籠城戦の経験から造られたといわれるが、天守閣の中にあるのは全国的にも珍しい。
 
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備中松山城跡。
1階。装束の間。城主一家の居室。一段高い部屋となっており、床下には隙間なく石を入れ、忍びの者の侵入を防いでいる。また落城のさい城主一家が自害をするための場所である。
 
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備中松山城跡。
1階。展示。映像コーナー。備中兵乱が紙芝居式に紹介されている。
元亀元年(1570)年には三村元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つ為に出撃した際に、直家と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を占拠されるという事態が起こったが、翌元亀22月に穂井田元清の協力の元で庄高資を討ち、松山城を奪還した。
天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。最後に残った玉野の常山城も落城した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。
 
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備中松山城跡。
1階。展示。
元和3年池田長幸が入城し、63千石で立藩。寛永181641)年、2代長常が嗣子なく没し同家は廃絶。寛永191642)年水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元(1681)年から3年をかけて天守建造などの修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、元禄6年に無嗣子により、水谷家は断絶した。水谷家断絶後は赤穂藩主浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。元禄81695)年、安藤重博が65千石で入封、正徳元年(1711)年、石川総慶が6万石で入封したのち、延享元年(1744)年、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。
慶応41868)年118日戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者山田方谷の決断により無血開城した。
 
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備中松山城跡。
2階。御社壇。天和3年城主水谷勝宗が松山城を修築したさい、松山藩5万石の守護として三振の宝剣に天照皇太神を始め、水谷氏の守護神羽黒大権現等の神々を勧請し、この御社壇に安置し、事ある毎に盛大な祭典を行い、安康を祈った。
 
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備中松山城跡。
2階。西方面への眺望。高梁川と高梁市街地が見える。
 
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備中松山城跡。大手門石垣崩落の危険監視システム。大手門跡の後方にそそり立つ巨岩と、その上に載る厩曲輪石垣は崩落の可能性が指摘されている。巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっている。更に巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じている。これらの影響で上部の石垣が変形しつつあり、将来崩落する危険を孕んでいる。このため、平成
11年より高梁市教育委員会は京都大学防災研究所と共同で、岩盤斜面にペルー・マチュ・ピチュ遺跡などで地滑りの観測をしているのと同様の不安定岩盤斜面監視システムを設置し、調査・観測している。
松山城跡の見学を終え、高梁市街地へ向かう。
 
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備中松山藩藩校有終館跡。紺屋川沿いにあり、現在は市立高梁幼稚園の敷地となっている。山田方谷は幕末に有終館の学頭となった。板倉勝静が藩主に就任すると、藩政の中心に抜擢され財政や兵制などの改革に取り組み成果を上げた。勝静が老中に就任すると、顧問となり幕政にも携わった。
 
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高梁基督教会堂。明治
22年の建築。現存する県下最古の教会。明治12年に始まった高梁でのキリスト教布教活動は、翌13年に新島襄が来高すると急速に発展し、信者の浄財によって教会が建築された。県下初の女学校・順正女学校を創設した福西志計子や社会福祉事業家の留岡幸助らを育てた教会でもある。
西の成羽へ向かう。
 
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成羽陣屋跡。高梁市成羽町。山崎氏
5千石の御殿跡で鶴首城址のある鶴首山の山麓に北向きに築営されている。万治元(1658)年山崎豊治が旗本・交代寄合としてお国入りし、直ちに御殿造営と陣屋町の構築を始めた。御殿は巨大な石垣に囲まれた正面に御庫門・大手門・作事門の三つの門跡があり、屋敷内はお庫・書院・お作事場の三区割になっており、外側は外園・下馬場・お壕がめぐらされていた。御殿は東西に約276m、南北に広いところは約90m、御殿の裏に(南側)幅約3.9mのお壕があった。
  現在、お庫跡は成羽小学校、書院等跡地西側は高梁市成羽地域局、お作事場と書院等東側は成羽美術館となっている。
 
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成羽陣屋跡。左の階段を登り、高梁市成羽美術館へ向かう。
 
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高梁市成羽美術館。昭和
28年に成羽町美術館として開館。平成6年に安藤忠雄の設計により新築開館。コンクリート打放しの建物と流水の庭が設けられている。灰色の壁はマンネリ、内部室内も移動がしづらかった。
成羽町に生まれた児島虎次郎のエジプト美術コレクションや成羽の植物化石群の展示は秀逸。
 
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高梁市成羽美術館。児島虎次郎の多才さを痛感。
 
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高梁市成羽美術館。「
RESTART はじまりの場所―向井修二記号展」を見学。全面記号のインスタレーション。黒住教宝物館で見学を薦められた。
 
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高梁市成羽美術館。館外のトイレ。記号で埋め尽くすモチーフはジャン・デュビュフェに似ているのではないか。
北西約500mにある三村氏居館跡を捜すが、分からず。成羽美術館近くの観光案内所へ戻り、地図を書いてもらった。
 
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三村氏居館跡。備中松山城で滅んだ三村氏の居館跡。天文
21533)年に星田郷(現:井原市美星町)より入部した戦国の武将三村家親が成羽川の北岸の平地に築営した平城で、成羽城とも呼ばれている。高い土塁(高さ4m、幅8m)に囲まれ、その外側には深い壕をめぐらせた堅固で広大な構えの中世の武家屋敷であった。
城主は三村家親、三村親成、三村親宣と三村氏滅亡後は小早川隆景(本陣とする)、毛利氏(代官)、山崎家治である。山崎豊治からは別邸として月見・菊見等の宴に使用されたといわれる。
現在は土塁、石垣の一部と壕の遺構が当時の名残をとどめている。
成美コミュニティセンターの敷地内にある。
このあと、ベンガラの町・吹屋へ向かい北進した。

岡山県高梁市 吹屋 広兼邸 笹畝坑道 ベンガラ館 吹屋郷土館

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広兼邸。岡山県高梁市
平成26年5月23日(金)。成羽町から広域農道を通って北進して吹屋の南隣する中野地区に入り、広兼邸へ近づくと、道路正面の山腹に石垣が見えてきた。
 
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広兼邸。駐車場から。左へ廻って坂道を登る。横溝正史原作の1977年松竹映画「八つ墓村」のロケ地として有名。
広兼氏は大野呂の庄屋で、同家2代元治が享和、文化の頃小泉銅山とローハ(ベンガラの原料)製造を営み巨大な富を築き、規模、構造とも雄大な城郭を思わせる構えが今もそのままに残る。敷地は781坪(2,581㎡)、母屋は98坪(323㎡)に及ぶ。二階建ての母屋、土蔵3棟、楼門、長屋、石垣は文化7(1810)年の建築。
 
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広兼邸。石垣から見下ろす。山並みに囲まれた土地である。邸宅の向かいには明治初期、天広神社が建てられ、広兼氏個人の神社として祀られていた。社務所もあり、境内には池、築山がつくられ花木が植えられた。
 
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広兼邸。楼門。民家では珍しい城郭風の門。
 
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広兼邸。楼門。門番部屋からは、下を見張ることができる。
吹屋ふるさと村周遊券を購入。広兼邸、郷土館、旧片山家住宅、ベンガラ館、笹畝坑道の入館料合計1200円が850円に割引されている。
 
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広兼邸。座敷。神棚の飾りが面白い。鉱山関係の神様であろうか。人形の展示を片付けていた。
 
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広兼邸。客間。床の間の神飾りが面白い。その他は季節的な展示。
 
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広兼邸。台所から座敷方向。山間部の民家の雰囲気がある。
下男・下女の長屋もよく残存している。内部立入りはできないので、10分ほどで見学を終えた。
 
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笹畝坑道。吉岡(吹屋)銅山は古文書によると大同2(807)年「大深谷に鉱気これあり銀鉱を得」とあり,何時の頃か銅山にかわり採鉱師によって採掘され戦国時代地方の豪族尼子氏,毛利氏の領有するところとなったが,江戸時代は天領となり,代官の支配下で諸国の銅山師が請負採掘した。まず、泉屋(住友)が天和元(1681)年から30余年採掘経営。最も栄えたのは元禄年間で日本6大銅山の一つとなり,町も大いに栄え人口も数千人に及び多くの商人や芸人も集まり,遊女屋も開かれたと伝えられている。
次いで大塚宗俊の子孫代々が吹屋銅山を経営し幕末に至るまで約100年間これに関係している。備中一の宮の吉備津神社の大鳥居は宝暦12年に大塚理右衛門が独力建立寄進したものである。この頃が吹屋は第二期の繁栄期である。
明治6(1873)年岩崎弥太郎(三菱)に移り,水力自家発電により選鉱,精錬,坂本から成羽まで,トロッコ専用道路を敷設するなど近代鉱業として明治年間大いに栄えた。町も第三次の繁栄をしたが,昭和期に入り次第に衰え現在は閉山されている。
この笹畝坑道は多くの銅山抗口の中でも比較的変化に富み,当時の面影を残す坑道跡で,昭和54年から公開されている。
坑道の復元延長は320mで中央部は蜂の巣のように採掘されており,また鉱石搬出用軌道も残されているなど見所が多く,内部気温は15℃と夏は涼しく冬は暖かい別天地である。
 
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笹畝坑道。笹畝坑道は支山であるが、後年は地下で本坑道(坂本)と連絡した。黄銅鉱、磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)が産出されていた。
 
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笹畝坑道。江戸時代の採鉱風景復元。江戸時代には、この地から馬の背にのせて成羽町下原の総門まで運ばれ、高瀬舟に積んで玉島港まで行き、海路を利用して大阪の銅役所へ運ばれていた。
 
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笹畝坑道。江戸時代の採鉱風景復元。内部は意外と奥行があった。
18世紀初頭(元禄年間)には、産銅が年間120tないし180tに達した。当時全国で有名な銅山は20カ所あったが、年間120t以上産銅した所は、わずか6カ所であったことからも分かるように、吹屋は西国一の銅山であり、全国的に有名な銅山の一つであった。
 
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笹畝坑道。坑道の一部は、アルコール飲料の長期熟成に使用されている。
北近くのベンガラ館へ。
 
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ベンガラ館。ベンガラ(弁柄)は赤色顔料で古くから陶磁器の赤絵,漆器,衣料の下染,家屋,船舶の塗料など色々の方面に使われた。
弁柄は宝永41707)年に全国で初めて吹屋で生産された。ベンガラは酸化第二鉄を主成分とし、吉岡銅山の捨て石である磁硫鉄鉱から偶然発見されたといわれる。ローハ(硫酸鉄)を原料として安永6年(1777年)から工業化し,早川代官の指導による株仲間をつくりその特権と合理制,製品の特異性により日本でただ1ヵ所の特産地として繁栄したが、昭和40年の銅山の閉山に続いて昭和49年に製造を終えた。
この地は吹屋ベンガラ工場跡で,明治時代頃のベンガラ製造工程が分かるように,残された製造用器具とともに保存展示されている。工程ごとに建てられた作業場を周回する。
 
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ベンガラ館。第1工程。
窯場室。原料のローハをよく乾燥して、ホーロクに少量ずつ盛り、それを200枚前後土窯の中に積み重ね、松の薪で700℃位の火力にて1日~2日焼くと、赤褐色の焼キができる。ローハは緑礬ともいい、磁硫鉄鉱を加工して製造される緑色の結晶体である。
 
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ベンガラ館。第2工程。
水洗い碩臼(ひきうす)室。焼キを水洗碩臼室に運び、水を加えかきまぜる方法で、粗いものと細かいものにより分ける。それをより細かくするために水車を動力とした石臼で碩く。
 
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ベンガラ館。第3工程。
脱酸水槽室。含まれている酸分を抜くために脱酸水槽室に送り、きれいな水を入れてかきまぜる方法を数10回から100回位繰り返して酸を抜く。
ベンガラと水は絶対に溶け合わないので時間がたてばベンガラは沈殿し、酸の溶けたうわ水を捨てるという方法である。
 
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ベンガラ館。第4工程。
干棚。酸のぬけたものを干板にうすくのばして、干棚の上に並べ天日乾燥をすると、製品の弁柄になる。
吹屋の町並みに向かう。西端の無料駐車場に駐車。
 
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吹屋の町並み。重伝建地区。吹屋郷土館周辺。標高550mの山あいに赤銅色の石州瓦とベンガラ格子塗込造りの堂々たる町屋が建ち並んでいるのは、江戸時代から明治にかけて中国筋第一の銅山町に加えて江戸後期からベンガラという特産品の生産がかさなり、鉱工業地として大いに繁栄したからである。
幕末から明治にかけて吹屋はむしろ「弁柄町」として全国に知られていた。しかも吹屋街道の拠点として銅や中国山地で生産される砂鉄、薪炭、雑穀を集散する問屋も多く、備中北部から荷馬の行列が吹屋に続き、旅籠や飲食店の山間の市場町として吹屋は繁栄した。
吹屋の特異な点は、個々の屋敷が豪華さを纏うのではなく、旦那衆が相談の上で石州から宮大工の棟梁たちを招いて、町全体が統一されたコンセプトの下に建てられたという当時としては驚くべき先進的な思想にある。
 
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吹屋郷土館。中庭。この家は、ベンガラ窯元片山浅次郎家の総支配人片山嘉吉(当時吹屋戸長)が分家し、石州の宮大工・島田網吉の手により明治12年
に建築された。間口5間、奥行き16間、中級の商家の定型で、店から通り庭で母屋の奥に味噌蔵、米倉を配し、母屋の採光のため中庭をとっている。

岡山県高梁市 吹屋 旧片山家住宅 吹屋小学校 吉岡銅山跡 西江邸 新見市 新見美術館 山田方谷記念館 方谷庵 

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旧片山家住宅。吹屋。岡山県高梁市。平成
26523日(金)。吹屋の重伝建地区のメインの町屋建築だが、作業場の蔵にある展示に見応えがある。
片山家は宝暦9(1759)年の創業以来、200年余にわたって吹屋弁柄の製造・販売を手がけた老舗である。その家屋は、弁柄屋としての店構えを残す主屋とともに弁柄製造にかかわる弁柄蔵をはじめとする付属屋が立ち並ぶ「近世弁柄商家の典型」と高く評価されている。
赤い石州瓦で葺かれた二階建(一部三階建)の主屋は江戸時代後期に建てられた後、江戸時代末に仏間、明治時代には座敷が増築され、片山家が弁柄商いによって隆盛していく様を今に伝える。
また、主屋は切妻造り・平入りで、通りに面した外観は一階に腰高格子を飾る袖壁や繊細な出格子を配し、二階を海鼠壁で仕上げるなど、吹屋の町並のなかでも、ひときわ意匠を凝らしたつくりとなっています。主屋と宝蔵は通りに面して並び建ち、主屋の後ろに米蔵、弁柄蔵、仕事場及び部屋が連なっている。
 
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旧片山家住宅。主屋。通り土間にある展示コーナー。磁硫鉄鉱、緑礬(ローハ)、ベンガラ。
 
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旧片山家住宅。主屋。神棚。
 
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旧片山家住宅。主屋。
2階、家族居間。
 
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旧片山家住宅。主屋。
2階。一段高いところに後継者居間があり、さらに高い段差のある奥の部屋が当主夫妻寝室。見たことがないわけではないが、こういう空間構成は珍しい。備中松山城にも装束の間という段差のある部屋があったが、地方色なのだろうか。
 
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旧片山家住宅。弁柄蔵。土蔵造、桁行
17.3m、梁間7.9m、二階建、切妻造、西面庇付、桟瓦葺。
 
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旧片山家住宅。弁柄蔵と主屋。
 
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旧片山家住宅。弁柄蔵。内部展示。商品の包装デザイン。
 
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旧片山家住宅。弁柄蔵。内部展示。商品の包装デザイン。
 
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旧片山家住宅。弁柄蔵。内部展示。引き札。宣伝ポスター。
 
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旧片山家住宅。弁柄蔵。内部展示。作業の様子。胡屋の弁柄商品化の最後の仕上げ作業。北側の「入れ場」から「弁柄箱」に仕分けして送られた弁柄粉を、規定の銘柄、等級
(松・竹・梅等)に分別して計量し、袋詰め、木箱詰等の作業をした。スコップや匙で計り分け、詰め終わると、量目、価格等の印字型(木箱には焼印)を打ち、レッテルを貼って、発送用の荷造り場へまわした。
奥にはさらに蔵が並んでおり、見学するのに時間を要した。充実した内容であった。
吹屋の町並みを歩いたが、雰囲気は良いが見どころやB級グルメもない。駐車場へ戻り、裏山にある吹屋小学校へ向かう。
 
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旧吹屋小学校校舎本館。開校は明治
61873)年で、木造2階建の本館は明治421909)年に竣工した。繁栄した吹屋の町の、いわば絶頂期に建設された小学校校舎で、20123月に廃校となるまでは、現役で使用される日本最古の小学校として、数々の映画・テレビのロケ地となった。
 
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吉岡銅山跡。入口。坂本の本部・本坑道跡。吹屋ふるさと村から坂本に降りる県道の途中に「吉岡銅山跡」の看板がある。
明治6年になって、岩崎彌太郎が買収して以来、近代的な技術を導入、地下水脈を制して日本三大銅山に発展させた。最盛期には1600人以上の従業員がいたが、次第に粗鉱の品位が下がり昭和6年に休山した。戦後になって再開し、ほそぼそと続いたが、昭和47年、ついに長い歴史に終止符を打った。笹畝坑道も本坑につながっており、竪坑は吹屋小学校の北にあったというので、かなり広範囲に銅山が広がっていたようだ。
矢印から狭く急な道路を下る。途中、マムシを轢きそうになったので、降りて移動させた。
 
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吉岡銅山跡。選鉱場、精錬所への道標がある。明治以降、三菱金属の経営となり、付近の小銅山を吸収合併し、自家発電所を設け、日本で初めて洋式溶鉱炉を造り、精錬などの作業を機械化した。
背部に沈殿池が見える。銅鉱石を精製するときに出る鉱滓(からみ)煉瓦で造られている。
 
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吉岡銅山跡。選鉱場・三番坑口への道標がある。
道路にも雑草が生い茂り、マムシ注意の看板もあるので、冬ならまだしも、これ以上の探索は無理だった。
 
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西江邸。ベンガラの大量生産を行った豪農商西江家の邸宅。
6代目兵右衛門が宝暦年間(1751 1761年)、本山鉱山から採掘された鉄鉱石から、日本で初めて弁柄(酸化第二鉄)の精製に成功した。以来350年にわたり、弁柄の原料となる緑礬(ローハ)と弁柄(酸化鉄)の生産で富を成した。また、西江家は惣代庄屋で代官を兼ねて天領地の支配を許され、代官御用所を兼ねており、白洲跡・郷倉・駅馬舎・手習い場・式台などを残している。
敷地は約3000坪、部屋数は41部屋,161畳を数える。邸宅としては珍しく櫓門がある。現存する建物の創建は宝永・正徳年間(17041715)である。
 
 
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西江邸。吉岡銅山跡から下って、すぐ南に駐車場がある。道路反対側の坂道を
5分ほど登ると玄関の門に出た。邸内の一部を公開しているが、当日は臨時休館となっていた。
1550分頃、北の新見市へ向かう。
 
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新見美術館から眺める新見市街地。新見美術館は中世新見庄名主屋敷跡に建つ。新見は、中世、京都東寺の荘園・新見庄として栄えた。中世史を学ぶ施設として、館内に新見庄展示室があるはずなのだが、「生誕100年佐藤太清展」が開催されており、受付で尋ねると、新見庄展示室の見学はできないとのことだったので、入館は諦めた。歴史展示のあり方に疑問を感じた。
寛正41463)年、東寺から代官として派遣された祐清は飢饉にもかかわらず厳しい年貢催促をsたため現地で殺害された。新見の荘官惣追捕使福本盛吉の妹たまがきが荘園領主東寺に宛てて祐清の形見を求める手紙が東寺百合文書に残っている。
大佐の方谷庵へ向かう。
 
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方谷庵。新見市大佐小南。明治3年山田方谷66歳の時、小阪部(現新見市大佐)に移寓し、母の実家西谷家の墓地がある金剛寺の境内に小庵継志祠堂を建て、外祖父母の霊を祠った。方谷は、毎月何回かこの継志祠堂にお参りして瞑想にふけっていたという。方谷はこの継志祠堂を「方谷庵」と命名した。
仏間3畳、床の間3畳を中心にした平屋の簡素な建物である。
山田方谷記念館から山側に200mほど入った場所にある。
 
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山田方谷記念館。新見市大佐小南。山田方谷の人となり、財政改革の手法、教育者としての山田方谷、年表などのグラフィックパネル、方谷山田先生遺蹟碑拓本複製、ビデオコーナー、山田方谷が書いたとされる大政奉還上奏文の草案、書などが展示されている。
月・火休館、16時までなので入館できなかった。ランドマークにはなっている。
 
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夏日の極上水。平成の名水百選。新見市大佐上刑部夏日。大佐山の北側に位置する。夏日地域の地滑り防止工事による取水工事によって、地表に湧き出した水。ミネラル分を多く含んだ美味しい極上の水ということで、この名が付けられた。
県道から遠いが、道標があり、分かりやすい。坂道の途中だが、数台分の駐車スペースがある。取水はしやすい。
備中の旅を終え、美作の新庄村にある道の駅「新庄」へ向かった。翌日からは登山が主体の旅となる。

岡山県新庄村 毛無山登山 真庭市 神庭の滝 星山登山 湯原温泉 勝山の町並み

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毛無山。山頂。上り
59分、下り38分。岡山県新庄村。平成26524日(土)。本日からは登山が主体の旅となる。予定では、525日から63日までの10日間に、毛無山(岡山県新庄村)、星山(岡山県真庭市)、泉山(岡山県鏡野町)、矢筈山(岡山県津山市)、後山(岡山県美作市)、雪彦山(兵庫県姫路市)、笠形山(兵庫県市川町)、氷ノ山(兵庫県養父市)、扇ノ山(兵庫県新温泉町)の9座をほぼ毎日登ることにしていた。
8年前の4月中下旬に中国山地の300名山を登ったが、氷ノ山・扇ノ山は残雪のため登れなかった。
週間天気予報では月・火が雨天だったので、土日で4座登ることにした。もともと、往復23時間程度の山を選択している。
道の駅「新庄」から15分ほどで7時頃、田浪の登山口に着く。駐車場は広く、数台が先着していた。立派な休憩所もある。登山地図には3合目まで林道らしきものがある。掃除のおばさんに尋ねると、使わないでほしいとの回答。通常通り、山の家の登山口から登ることにした。旅行モードから登山モードへの切り替えには時間がかかる。
832分、登山届の箱に用紙を入れて出発。平坦な道を進み、3合目に来ると、左上に林道への道が分かれていた。さして苦労もなく登り、9合目の休憩舎を通ると、山頂は近いと安心する。
931分に毛無山(標高1218m)山頂に到着。駐車場で30分ほど先に出発していった3人組の男性たちと一緒になった。数分して、反対側から軽装の男子高校生10人ほどがやってきて、写真を撮ってくれと頼まれた。
毛無山は展望の良い山である。男性の右側にうっすらと浮かんでいるのが大山である。
 
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毛無山山頂からの展望。日本海方向。鳥取県米子市・弓ヶ浜方面。
 
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毛無山山頂からの展望。北東方向。蒜山。
 
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毛無山山頂からの展望。南東方向。田植えシーズンの田浪地区。
947分に下山開始、1025分に登山口帰着。
星山の西に位置する日本の滝百選「神庭の滝」へ向かう。
 
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神庭の滝。日本の滝百選。岡山県真庭市。勝山市街地から北上、観光センターの駐車場に着いた。猿に注意の看板が各所にあり、菓子を手にして歩くと危険と書いてある。
11時過ぎだったので、菓子を食べながら遊歩道を歩いた。幸い、本日は猿の群れは山の中にいて、遊歩道にはいないとのことだった。猿を見たかった、という声も聞こえてきたが。10分ほど歩くと料金所があり、300円支払った。西日本では無料が多かったが、関西に近いと有料になってくる。
滝見橋では全体は見られないので、その先の小高い滝壺手前の丘にある展望所まで行く。神庭の滝は落差110m、幅20mだが、それほどのスケール感はなかった。
星山へ向かう。
 
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星山登山口。岡山県真庭市。神庭の滝へ向かう県道に何やら迂回路案内があったと思ったら、神庭の滝付近から星山登山口の勝山美しい森へ東進できる道路が通行止めになっていた。そのため、県道を戻り、国道
313号線から山道へ入り、高原の牧場経由で迂回したが、かなりの山間道路で時間を要した。1230分頃、勝山美しい森の登山用駐車場に到着。5台ほど乗用車が停まっていた。
登山口はその上の道路脇にあり、車が1台停まっていた。
1252分登山口から出発。
 
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星山。山頂。標高
1030m。一等三角点。上り52分、下り30分。岡山県真庭市。記念植樹が多数植えられた尾根道を登る。樹木が茂って展望はない。途中、数組の登山者と対向した。林を抜けると前山手前のトラバース道へ入り、山腹から右に前山山頂を眺めながら進んでいく。西登山口からの道と合流する地点が鞍部で、いったん緩い下りになる。このとき、右下のササ原からゴソゴソという音が聞こえてきた。クマかもしれないと思った。今回の旅はクマよけ鈴を持ってこなかった。ヤマケイの分県登山ガイドでは全く表記されていなかったからだが、中国山地にはクマが生息しているのは常識だ。後悔先に立たず。一抹の不安を持って登山することになった。鞍部の先からは急坂になる。大岩の展望所に男性がいるのを横目に見て、山頂への緩い坂を上る。
1344分、山頂に到着。
 
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星山。山頂。蒜山方向への展望。
 
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星山。山頂。眼下に集落を望む。
1356分。下山開始。往路を下る。クマにおびえながら鞍部まで下るが、今度は音が聞こえず安心した。トラバース道を下るときに、左足を踏み外して、ササ原の崖を1回転し、1mほど落ちた。ササをつかんで攀じ登った。腕に擦り傷を負った程度だったが、ズボンが1ヶ所小さく破れたのが痛かった。膝上のポケット部分で2重になっている部分だったのが不幸中の幸いだった。3分ほどのロスを経て、1429分に登山口へ帰着。
往路と同じく高原牧場経由で国道313号に戻り、北上して湯原温泉へ向かった。
 
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湯原温泉。砂湯。岡山県真庭市。混浴露天風呂で有名。湯原温泉奥の河川敷上の駐車場に駐車し、砂湯へ向かう。土曜日なので、多くの入浴者がいる。入口で写真を撮るだけにして引き返し、共同湯へ向かった。
 
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湯原温泉。薬師堂。温泉街の中央にあり、薬師堂のすく横からは、湯原温泉の源泉がこんこんと湧き出ている。薬湯と書いてあり、無料で飲泉できる。飲泉できる温泉は本物である。道路向かい側にある湯本温泉館で入浴した。
600円。
 
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勝山の町並み。岡山県真庭市。城下町勝山は古くは出雲街道の要衝として繁栄。土蔵はもちろん、白壁や格子窓の古い町並みが残ることから、昭和
60年に岡山県初となる「町並み保存地区」に指定された。昔ながらの酒蔵に、旧家、武家屋敷といったノスタルジックな建物に加え、古民家、蔵などを活用した工房、カフェ、ギャラリーなどが軒を連ねる。
 
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勝山の町並み。湯原温泉から私の車の後ろを付いてきた広島ナンバーの車から降りた観光客二人は駐車すると、まっすぐ酒蔵へ入っていった。
 
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勝山の町並み。寅さんロケ地石碑。「男はつらいよ」の
48作目にして最後の作品となる「男はつらいよ 寅次郎 紅の花」での1シーンにこの通りが舞台としてロケ地となった。
津山よりも伝統的な町並みらしい古い景観が残っていた。
 
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勝山の町並み。船着き場。室町時代に始まったとされる高瀬舟による旭川の船運において、勝山は最上流の船着場としてにぎわっていた。江戸時代までの船着場が城下から少し下流の「浜」にあって不便であったため、明治になって航路を改良し、問屋の蔵がある「町裏」まで遡上させたのが、現存する船着場である。
船着場は、約700mにわたって続く玉石(たまいし)積みの護岸と、現在3カ所で確認できる水制からなり、蔵へ連なる階段がそこここに造られている。こうした景観は、全国的にも稀な土木遺産に、大きな付加価値を与えている。
大正14年、勝山から岡山までが鉄道で結ばれて旭川の船運は衰退し、昭和9年の室戸(むろと)台風で航路が荒廃したため、廃止された。
 
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勝山城跡。真庭市役所勝山支局庁舎の背後にそびえる城山には、中世には高田城が築かれていた。勝山は古くは「高田の庄」と呼ばれ、南北朝時代に真島郡の地頭職に任ぜられた関東の名族三浦貞宗が高田城を築城、
以来三浦氏の城下町として栄えた。戦国時代になると、高田城は尼子氏や毛利氏により何度も落城の憂き目にあい、その都度三浦氏も奪還を繰り返すが、天正時代に三浦氏は滅んだ。その後、毛利氏・宇喜多氏・小早川氏・津山藩森氏の支配下に置かれ、城番が置かれたが、元禄101697)年に森氏が改易されると、勝山は天領となり、いったん廃城となった。
明和元(1764)年三河国西尾城より譜代大名の三浦明次が23千石をもって真島郡を領して勝山藩が成立、かつての高田城の西山麓を中心に御殿などの整備が行なわれ勝山城と名付けられた。修築された勝山城は二ノ丸に二重櫓が上がり、三ノ丸には御殿があった。以後、明治維新まで三浦氏の居城となった。
現在も山頂から中腹にかけて曲輪や堀切が、また城山グラウンド(旧・二の丸)の西隅にはかつて二重櫓が立てられていた櫓台の石垣が残っている。
時間がなくなったので、城山を見るだけに留め、久世の旧遷喬尋常小学校へ向かった。

岡山県真庭市 木造ルネッサンス風小学校 旧遷喬尋常小学校 

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旧遷喬尋常小学校。重文。岡山県真庭市鍋屋。平成
26524日(土)。毛無山・星山登山、勝山の町並み見学を終え、旧久世町にある旧遷喬尋常小学校へ向かった。旧久世町は真庭市の東南部にある歴史の古い町で、旭川の左岸に町並が続き、役場・郵便局・中央公民館など公的機関が集中する。真庭地方では勝山と並んで古くから行政面での中枢地域であり、真庭郡以前の大庭郡時代は、郡内の中枢であった。江戸時代には、出雲街道の宿場、天領の久世代官所の陣屋町として栄えた。
1720分頃、国道181号線脇のエスパスホール駐車場に駐車。旧遷喬尋常小学校は敷地内北西にある。広いグラウンドの奥に横長のクラシックな建物が身を横たえていた。
「迎賓館を思わせる豪奢な洋風建築」、「木造ルネッサンス風小学校」と評される旧遷喬尋常小学校校舎は明治401907)年に完成した二階建ての木造建築で、シンメトリー(左右対称)のデザイン。スレート及び桟瓦葺で、建築面積は601.2㎡。玄関と職員室、講堂(2階)からなる中央棟の東西両翼に教室棟が伸びている。設計は県の江川三郎八工手、建築材は真庭市木山国有林の優れた檜、杉材を選定し使用している。
入場は無料で、18時まで開館している。
 
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旧遷喬尋常小学校校舎。中央棟の正面中央には高瀬舟をかたどった校章の入った丸い屋根窓(ドーマー窓)がある。玄関左右を前面にせり出して破風
2つを組み合わせ、その上に大きなマンサード屋根(二重勾配)を乗せている。
正面左右の壁にはベネチア窓風の飾り窓があり、軒下の壁に筋交いを組み化粧している。窓間の板壁は水平に下見板が張られ、窓下は垂直の縦羽目板である。一階と二階の間に胴コーニス(蛇腹)が入っている。
 
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旧遷喬尋常小学校校舎。玄関右にある石碑。昭和
471974)年に創立百周年を記念して建立された。
旧遷喬尋常小学校の前身は、明治3年町内の有志が発起して作った明親館という塾で、命名は備中聖人の山田方谷である。遷喬尋常小学校は明治7年(1874)栄町にあった久世代官所御蔵(年貢米倉庫)を校舎として開校した。
校名の由来は中国の古典・詩経の一節「出自幽谷遷于喬木」からで、中から2文字をとって山田方谷が名付けた。「ゆうこくよりいでてきょうぼくにのぼる」と読む。ウグイスが深山の暗い谷間から飛び立ち、高い木に移ることに例えて、学問に励み立身出世することと解釈されている。
 
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中央棟。
2階へ昇る階段。
 
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教室。映画・テレビのロケ地としても多数活用され、これまでも
NHK連続テレビ小説「カーネーション」、「ALWAYS 三丁目の夕日」、「火垂るの墓」、「大病人」などの名シーンが撮影されてきた。
 
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教室と廊下。廊下は分厚い松材、戸の板壁は全面無節の杉材と、建築材は選りすぐったものを使用した。
 
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教室。
 
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階講堂。二階中央の講堂は、二重折り上げの洋風格(ごう)天井となっており、鏡板はすべて無節の檜柾目板である。透明ガラスは、角度によって景色が変わるものがあり、短い期間しか造られなかった貴重な手造りである。講堂の風格は訪れる者を圧倒する。
 
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階講堂。入口。平成17年、ドラマ「火垂るの墓」のワンシーンに使用された。
 
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校舎端の回り階段は幅広くゆったりとしており、上下には橋の欄干を思わす細かい細工が施されている。
 
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展示室。写真。新築校舎落成式。明治
40720日。
 
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展示室。写真。講堂内部の絵葉書。明治
40年頃。落成まもない講堂内部の写真を絵葉書にしたもの。北側中央に奉安庫が見える。
 
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展示室。扁額「出自幽谷遷于喬木」。複製。明治
7年山田方谷揮毫。原品は真庭市所蔵。
 
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展示室。当時の机と椅子。
 
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展示室。江川三郎八コーナー。設計者・江川三郎八の略歴。
 
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展示室。江川三郎八コーナー。模型。旧倉敷町立倉敷幼稚園。大正
41915)年建築。
 
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展示室。江川三郎八コーナー。模型。旧倉敷町役場(現倉敷館)。大正
5年建築。
江川三郎八の偉業は、要求された機能を重視した平面計画、木造で大スパンの空館構成にあるという。このコーナーには旧旭東幼稚園(岡山市、重文)や岡山県立矢掛高等学校など8点の模型と、数十点の写真が展示されている。
江川三郎八の現存する代表作・旧遷喬尋常小学校校舎を見ることができて感動した。
18時近くになり、翌日の登山対象である泉山の登山口に近い鏡野町の道の駅「奥津温泉」へ向かった。

泉山。岡山県鏡野町。笠菅峠から往復。

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泉山。標高
1209m。笠菅峠から往復、上り58分、下り36分。道の駅「奥津温泉」から泉山を眺める。岡山県鏡野町。平成26525日(日)。道の駅で起きると、東に泉山が見えた。左の峰が泉山山頂。右の峰が中央峰で標高1198mと山頂より10m低いが手前にあるので高く見える。
翌日は雨の予報なので、本日は泉山と津山市の矢筈山を登らねばならない。したがって、泉山を最短時間で往復できる笠菅峠からの往復登山とする。笠菅峠は標高850mで山体の左肩にあたる。
730分頃に道の駅を出て。15分ほどで笠菅峠に着いた。
 
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泉山。笠菅峠登山口。左の駐車スペースには
56台は駐車できる。この時点では私の車のみ。
登山口は右の林道入り口。奥津からの道路は基幹林道美作北線といい、程好いカーブが多いので、オートバイのドライブに最適らしく、この近辺が折り返し点になっていて、盛んに爆音を響かせている。
822分登山口を出発。林道を数分進むと、登山口の表示があり、右へ登山道を登って行く。樹林帯を登ると、電波反射板があり、858分通過、所々急登があるが、920分に山頂到着。
 
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泉山。山頂。一等三角点。山頂は驚くほど平地が広がっていた。
100人は大丈夫だ。
 
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泉山。山頂。山頂から奥津温泉方面を眺める。北の岩の上に登り、四周を眺めるが、顕著な山はわからなかった。
 
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泉山。山頂から南西の中央峰を眺める。登山道ははっきり分かるが、人影はない。
946分下山開始。
 
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泉山。山頂台地を下り切った辺りの次の小ピーク山腹に、泉山という文字が刈られていた。
 
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泉山。電波反射板。横を通る時は大きく感じた。ここを越えた台地端に
20人ほどの老若男女の団体が休憩していた。
1024分登山口へ帰着。駐車スペースには2台しかいない。奥津方向の100m下に先程の団体を乗せてきたらしいバスが停まっていた。
次は、津山市加茂町知和の矢筈山である。ナビでルートを検索すると、基幹林道をこのまま東進すればよいとのご託宣であった。津山市街方面へ廻らなくて済むので、かなりの時間短縮になる。基幹林道は実際快適で、途中バイクの群れとすれ違いながら、加茂町へと向かい、11時過ぎに知和地区に到着した。

岡山県津山市 草刈氏 難攻不落の山城 矢筈城 矢筈山登山

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矢筈山(矢筈城跡)登山口。岡山県津山市加茂町。平成26年5月25日(日)。
鏡野町の泉山に登頂後、矢筈山(矢筈城跡)を登るため、笠菅峠登山口から基幹林道を東進し、22世紀の森を経て加茂町へと向かい、11時過ぎに知和地区に到着した。知和駅を過ぎても西登山口の千磐神社が見当らないので、北の脇道に入り、民家で尋ねると、すぐそこだと教えてくれた。県道の南に広い駐車場があったが、千磐神社下の駐車場に駐車した。
矢筈城跡はヤマケイの分県登山ガイドで矢筈山として紹介される登山対象の山であり、ネットで事前に調べると、マムシが出る登山道ということなので、登山靴に履き替えた。また、登山道は砂混じりで下山時は滑り易いので、登山靴は有効であった。西の千磐神社と北の美作河井駅・若宮神社を縦走するコースがベストだが、時間がないので、千磐神社からの往復とし、千磐神社から山頂の本丸まで1時間12分、往復所要時間は2時間40分だった。
 
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矢筈城想像図。駐車場および山頂に掲示。
矢筈城(高山城)は、南北朝以来因幡・美作の両国に勢力を有した草刈氏の居城で、天文元年(1532)から翌2年にかけて、11代草刈衡継(ひらつぐ)が矢筈山(標高756m)に築いた県内最大ともいわれる中世山城として築城以来一度も落城することのなかった難攻不落の堅城として知られている。
草刈氏は初代城主草刈衡継のあと景継、重継と続く。「作州半国主」とよばれ、所領2万石とも3万石ともいわれた三代城主の草刈重継は、毛利氏に属して宇喜多氏や羽柴秀吉などからたびたび攻撃を受け、その都度撃退したが、毛利氏の要請によって天正12年(1584)に矢筈城から退去し、その後廃城となったと考えられている。
矢筈城は、比高差426mの要害の地に築かれ、東西1600m、南北500mの壮大な規模を誇る。東郭群(古城)は山頂(大筈)の本丸・二の丸・三の丸を中心に北の土蔵郭・馬場などからなり、西郭群(新城)は山上に御殿が築かれた石垣段や成興寺丸・西尾根曲輪などからなる。矢筈山北西麓の大ヶ原には「内構」と呼ばれる城主草刈氏の大規模な居館跡がある。また矢筈山の北側を西へ流れる加茂川が天然の濠となっていた。
 
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矢筈山(矢筈城跡)登山口。千磐神社。神社には、矢筈城跡保存会作成の登山マップとパンフレットが置いてあり、ありがたく頂戴した。詳細な縄張り図も記載され、これほど立派なおもてなしはない。地元の熱意を感じた。矢筈城跡保存会は会報『矢筈山』の発行やパンフレットの作成、登山会の実施、説明看板や遺構表示板の設置、登山道の草刈作業などを行い、城跡の保存整備と顕彰活動に取り組んでいるという。
1149分に千磐神社を出発。
 
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矢筈城跡。大岩。堀切から稜線尾根に出て、ひたすら登って行くと
30分余りで大岩に着く。ここからが、城域とされ、西郭群の西端にあたる。
 
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矢筈城跡。西郭群の石垣。各所に石垣が残存している。
とりあえず、山頂の本丸へ急ぐ。
 
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矢筈城跡。山頂。本丸。東西
15間、南北6間。山頂部分からはみだして四方へ懸け造りをしなかればならない大規模な建物があったと伝わる。
 
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矢筈城跡。山頂。本丸。右奥に薄らと見えるのが、那岐山のようだ。
8年前に登っている。矢筈山の大筈の部分に当たるが、かなり削平されている。
戦国時代、因幡・美作地方に勢力を振るった草刈氏は、藤原秀郷の後裔で、陸奥国斯波郡草刈郷の地頭職を得て草刈氏と名乗ったと伝わる。
草刈貞継は、延元元年(1336)足利尊氏が京都から九州に敗退したとき、備前の三石城にとどまり新田義貞の追討軍を防ぎ、その戦功により、暦応元年(1338)因幡国智頭郡を賜わり、淀山城(智頭町)を築いて、そこに拠ったという。その後、貞継の子氏継の時代までに美作国苫東郡加茂郷および苫西郡などの地頭職を賜ったといい、美作にも所領を拡大した。
草刈景継の代には智頭郡の大半を押領し、播磨の赤松氏、出雲の尼子氏とも戦った。永正51508)年、大内義興が上洛の陣を起こすと景継も従軍した。
景継の子草刈衝継は、天文元年(1532)美作国加茂郷に高山城(矢筈城)を築き、本拠を因幡の淀山城から移したという。衝継は大内氏・毛利氏に与して、因幡では尼子氏と、美作では進出してきた備前の浦上村宗・宗景父子と戦い、美作のうち苫北・苫西を支配下に治めた。
衝継は天文22年尼子氏に高山城を包囲攻撃されたが退けた。尼子氏が衰退すると、因幡では毛利氏と組んだ武田高信が台頭して美作へ侵攻し、衝継を継いだ景継と対立する。
永禄12年(1569)、再興を図る尼子勝久と山中鹿之助は因幡の山名豊国と結んで毛利方の武田高信を攻め、豊国を鳥取城主とし、尼子党は若桜鬼ケ城に入って毛利氏と対峙した。毛利氏は草刈景継と武田高信を仲裁したが、和議の条件が草刈氏に不利であったため景継は毛利氏に不満を抱いた。天正2年(1574)、織田信長の密使として山中鹿之助が矢筈城を訪ねてくると、景継は織田氏に転じた。信長は誓文書を作成し景継のもとへ送らせたが、使者が毛利方に捕えられ、景継宛の朱印状も押さえられた。小早川隆景は、景継の家来を呼んで事態の収拾を命じ、景継は切腹して自害、矢筈城の山麓に葬られた。景継の自害後は、弟の重継が継いで毛利氏に属した。
宇喜多直家は毛利氏と結んで、三村元親を備中松山城に滅ぼし、ついで美作西部の高田(勝山)城主三浦貞弘を滅ぼした。直家が天正6年(1578)織田信長方に寝返ると。美作の国衆は美作東部の三星城主後藤勝基を盟主に結束し宇喜多勢と毛利氏旗下の後藤勢は随所で合戦を展開。吉野郡では宇喜多方の新免宗貫と、毛利方の草刈重継が合戦を繰り返した。
天正10年本能寺の変のあと、毛利・羽柴の間に和睦が成立、高梁川以西の美作国は宇喜多秀家の所領となった。その結果、草刈重継の居城高山城や所領も宇喜多領となったが、重継はこれを不満として宇喜多氏に加担する美作の国衆たちと激戦を繰り返した。しかし、天正1112月、毛利輝元から退城勧告の書状が届くと、重継は高山城を退去して父祖の地を去った。以後、草刈氏は毛利氏に仕え、萩藩士として続いた。
 
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矢筈城跡。山頂本丸からの眺望。北麓を流れる加茂川に沿って東に進むと、草刈氏の所領があった鳥取県智頭町は近い。北には支流の阿波川沿いに集落が連なっている。
写真を撮りながら、往路を下って行く。
 
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矢筈城跡。三の丸。上部には天然の岩盤を利用した
L字型の土塁が残る。
 
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矢筈城跡。三の丸。北の崖側には岩盤が並んでいる。
 
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矢筈城跡。三重堀切。西郭群の東端にある。二重堀切はよくあるが、三重とは珍しい。
 
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矢筈城跡。西郭群。石垣段。西郭群の東端。
 
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矢筈城跡。西郭群。石垣段。石垣。
 
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矢筈城跡。西郭群。石垣段。磐座と祭壇。
 
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矢筈城跡。西郭群。石垣段北の下部に城主居館の御殿と客殿が設けられていた。
 
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矢筈城跡。西郭群。櫓台と狼煙場。
 
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矢筈城跡。西郭群。櫓台から北の眺望。
 
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矢筈城跡。西郭群。虎口。櫓台の西にある。
 
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矢筈城跡。西郭群。虎口付近。
 
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矢筈城跡。西郭群。成興寺丸への入口から西尾根方向。
 
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矢筈城跡。西郭群。成興寺丸への入口付近から北西方向への眺望。知和地区の民家が見える。
大岩を経て下る途中で、マムシ1匹に遭遇。
1430分頃、千磐神社に帰着。地元の人が枝刈りをしていた。
転車台など鉄道遺産が残る美作河井駅へ向かう。
 
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矢筈山。城主草刈氏の大規模な居館跡がある北西麓の大ヶ原あたりから眺める矢筈山。
矢筈とは矢の最後部のことで、弦に嵌め込み固定するためにV字状に切込みされた部分のこと。高校時代は弓道部に所属していたので、懐かしい言葉だ。山の用語でいえば、ごく近接した双耳峰に相当する。全国にも矢筈山とよばれる形の山は多い。
 
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矢筈山。県道から美作河井駅へ向かう橋の上からの眺望。
このあと、美作河井駅、津山三十人殺しの現場である加茂町行重地区、美作滝尾駅を見学。

岡山県津山市 美作河井駅 津山事件の加茂町貝尾 掘坂暗渠 美作滝尾駅 院庄館跡 美和山古墳群 久米南町 誕生寺 

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美作河井駅。JR因美線岡山県津山市加茂町。平成26525日(日)。鏡野町の泉山、津山市加茂町の矢筈城跡(矢筈山)へ登ったのち、西登山口の千磐神社から県道を東進し、西登山口付近にある美作河井駅へ向かった。
JR因美線・美作河井駅の開業は昭和6912日で、当時は鳥取と津山を結ぶ因美線のうち、津山から延びる因美南線の終点駅であった。昭和771日の智頭-美作河井間の開業によって、因美線は全線開通し、美作河井駅は列車の折り返し駅としても賑わった。平成91997)年11月の急行「砂丘」廃止により、タブレット閉塞区間の見直しが行われ、美作河井駅でのタブレット交換と駅員配置は廃止され、無人駅となった。
 
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美作河井駅。転車台。近代化産業遺産。美作河井駅には折り返し列車の方向転換・給水のため、転車台や給水塔などを備えた転向給水所が設けられていた。しかし、ディーゼル車の登場などで転向給水所は廃止された。その後、長く放置されて草と木で覆われ、真ん中からは数本の木が伸びている状態であったが、平成19年4月に全国から集まった鉄道ファンにより発掘された。
この転車台は、ピットの直径が約12.4メートル、桁の全長が約12.19メートル(40フィート)の、上路式転車台である。明治5年に開業した東京・新橋駅のものと同じサイズの輸入品で、国内に40フィート転車台は明治村東京駅の転車台、美作河井駅の転車台、津軽中里駅の転車台の3件が国内に現存するうち、完全な形で残っているのはここだけという大変貴重な鉄道遺産である。
津山三十人殺し事件の現場である加茂町行重の貝尾集落へ向かう。
 
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津山三十人殺し事件。加茂町行重の貝尾集落。美作河井駅から県道を西進し、美作加茂駅北の交差点を北へ右折、商店街を抜けて西へ進む。田園地帯を南西へ徐々に丘陵地を登り、山が近くに見えてくると、貝尾集落へ入る登り坂が続く。水田では田植えの最中であった。民家の間を進むと、行き止まりになり、折り返しを迫られた。どこにでもある中山間地の農村地帯である。
 
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加茂町行重の貝尾集落津山三十人殺し(津山事件)は昭和13年(1938)5月21日未明に貝尾・坂元両集落で発生した大量殺人事件で、2時間足らずで30名が殺害されるという日本の犯罪史上に残る事件である。横溝正史の小説「八つ墓村」で取り上げられている。
21歳の犯人都井睦雄は、まず、自宅で就寝中の祖母の首を斧ではねて即死させた。彼は詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭には鉢巻きを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえ付けた。首からは自転車用のナショナルランプを提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持った。その後、近隣の住人を約1時間半のうちに、次々と改造猟銃と日本刀で殺害していった。夜明け前、都井は山中で猟銃により自殺した。
都井は事件の数日前に自ら自転車で加茂町駐在所まで走り、難を逃れた住民が救援を求めるのに必要な時間をあらかじめ把握しておくなど周到な準備を進めている。それを思い出しながら、貝尾に向かうと臨場感を感じる。
 
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貝尾集落の墓地。集落には、昔ながらの墓所が各所に点在している。集落内を部外者が歩き回るのは気が引けるので、人目を気にしながら、人気のない墓地を捜した。
 
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貝尾集落の墓地。墓石の没年月日は昭和十三年五月二十一日と刻まれているので、事件の被害者の墓と分かる。「津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇」(筑波昭著)で被害者を照合すると、岸田勝之方の岸田吉男(14歳)、岸田守(11歳)と年齢は符合するが、姓名が微妙に違う。著作中の姓名は仮名であったと知った。
田植えを一服した主婦から挨拶されるが、詳しく話を聞く訳にもいかず、貝尾集落をあとにした。
加茂町の中心部に戻り、通りかかった百々温泉めぐみ荘で入浴した。料金500円。受付で抽選があり、資源袋をもらったが使い道がないので、中年夫婦に譲ると、感謝された。
鉄道遺産になっている美作滝尾駅へと津山市街地方面へと南進した。ナビに従って、幹線道路から加茂川沿いの脇道に入ると、道路の脇に「掘坂暗渠」という案内看板があったので、車を降りて見学した。
 
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掘坂暗渠。説明看板。津山市堀坂
 
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掘坂暗渠。津山市堀坂
中村周介と甥の嘉芽市が設計施工した暗渠事業では、簡素な測量器、曲尺や夜は提灯を利用、和算能力の全力を駆使して延長百mの大墜道を両側から掘って貫通させた。両方からの岩盤をくり抜いた誤差は、ごく僅かであったという。
中村嘉芽市は、のちに江戸に上り幕府天文方の高橋景保に師事した。高橋景保がシーボルト事件に関与して獄死すると、帰省し、「田熊算仙」といわれて二百余名の門人を持ち、また里正となり帯刀を許された。明治1173歳で没した。
道路を進むと、民家が密集した地点に出て、左折すると、滝尾駅に着いた。
 
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美作滝尾駅。
JR因美線。津山市堀坂。昭和3年(1928315日開業。因美南線として美作加茂~東津山~津山間が開業した際に設置された。平成7年には、映画「男はつらいよ 第48寅次郎紅の花」の冒頭部分の撮影が行われた。内部の切符売場や改札口などかつての全国でみられた木造駅舎がそのまま残っており、平成20年国の登録有形文化財に登録された。
 
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美作滝尾駅。
1719分、津山方面へ列車が発車していった。上下115本の列車に偶然遭遇した。
 
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美作滝尾駅。待合室に展示してある新聞記事。
土日に4座登山できたので、満足しながら津山市の西部にある道の駅「久米の里」へ向かった。
 
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院庄館跡。国史跡。津山市神戸平成26526日(月)。予報通り、雨となった。道の駅「久米の里」からすぐ東にある院庄館跡から見学を始め、久米南町の誕生寺を経て、津山市内の見学をした。博物館・図書館などの多くが休みの月曜日で雨というのが、日程上つらい組合せである
院庄館跡は鎌倉時代から室町時代にかけての美作守護職の館(平城)があったところで、津山盆地の西端、吉井川左岸の微高地に所在し、現在は明治時代に建てられた作楽神社の境内になっている。
発掘調査で、館の規模は東西200m、南北150mほどと推測され、東・北・西側に残っている土塁は、最初の館の構築から少し後に築かれた往時の土塁を踏襲したもので、中には井戸、掘立柱建物があったことが判明した。青磁、白磁、墨書磁器、備前焼なども出土している。ここは元弘2年(1332)後醍醐天皇が隠岐に配流される際、天皇の行在所となり、備前郷士の児島高徳が天皇をなぐさめるために桜の幹に「十字の詩」を記して忠誠を表したという伝説の地として有名である。
さらに、東へ進み、美和山古墳群へ向かう。史跡公園西側の駐車場から見学。
 
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美和山古墳群。国史跡。津山市二宮。津山市街地の西方の丘陵上にあり、大型の前方後円墳1基、円墳2基で構成されている。築造は4世紀と考えられる。一号墳は墳長約80mの前方後円墳で、これまでに知られる美作地方最大級の古墳とされる。後円部直径が約48mあり、前方部の占める比率は比較的小さく、墳丘上には河原石を用いた葺石が認められ、墳丘の形状がよく残っている。古墳群としての規模は小さいが、当地方最大級の前方後円墳、同じく円墳を擁していることなど、美作地方の古墳文化究明に欠くことのできない内容をもつ古墳群として貴重な存在である。
現在は、古墳公園として見学路などが整備されている。
 
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美和山古墳群。一号墳の墳丘上から東方の津山市街地を眺める。吉井川左岸沿いの丘陵から派生した一支丘上にあり、景勝の地を占めている。
久米郡久米南町の誕生寺へ向かう。
 
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誕生寺。御影堂。重文。久米南町。法然上人生誕地に建立された浄土宗の寺院。坂東武者・熊谷直実は浄土宗の開祖法然の弟子となり、出家して法力房蓮生と名乗った。蓮生は建久4年(1193)法然の徳を慕い、法然の父である久米押領使・漆間時国の旧宅、すなわち法然生誕の地に念仏道場を開いた。これが誕生寺の始まりである。
漆間氏は美作国の豪族で、漆間時国は久米郡稲岡荘の押領使で、妻は秦氏である。保延7年(1141)、対立していた預所の明石定明に夜討ちを掛けられて、時国は重傷を負った。時国は瀕死の床の中で、勢至丸(法然)に決して仇を討たないようにと諭し、出家を望んだという。
小規模ながら門前町の雰囲気はある。母親の実家が浄土宗信者なので、堂内に入り参拝すると、同時期に来ていた一家族も参拝していった。
御影堂は二度の損壊の後、現在のものは元禄8年(1695)に再建されたもの。
 
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誕生寺。法然上人産湯の井戸。境内の裏手にある。
 
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誕生寺。森忠政の長男森重政と忠政の養母大野木の墓。境内の裏手にある。大野木は柴田勝家の娘。本堂南側にある観音堂は寛永8年(1631)津山城主初代・森忠政の寄進によるものである。
八百屋お七の遺族が振袖等を預け、観音堂の観音菩薩の前で、お七の菩提をねんごろに供養したことから「お七観音」として信仰をあつめている。
11時を過ぎ、駐車場から津山ホルモンうどんを食べるため津山市街地へ向かった。

岡山県津山市 津山ホルモンうどん 美作国分寺跡 津山市城東地区 城東むかし町家・旧梶村家住宅 衆楽園 中山神社 津山高校本館

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橋野食堂。岡山県津山市。平成
26526日(月)。院庄館跡、美和山古墳群、誕生寺の見学を終え、津山ホルモンうどんを食べるため津山市街地へ向かった。「津山ホルモンうどん地図マップ」を入手していたので、まず一番近い津山駅前の金村食堂へ向かった。昼の混む時間前に着きたいからだ。しかし、開店しておらず、休業のようだったので、有名老舗店で東津山駅近くの橋野食堂へ向かった。場所は分かりやすく、1145分頃に到着。店前の駐車スペースは狭く、店の人にアソコといわれて、道路向かい側の駐車場に駐車した。店内は予想より広く、奥の小上がりに座った。先客は10人ほど。
 
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津山ホルモンうどん。ピリ辛
2890円。平成21年のB-1グランプリ3位のころから、名前は知っている。しかし、味は味噌だれが合わないのか,いまいちだった。ホルモンよりも豚肉の方が良い。もやしは味が薄い。醤油味の方が合う。色がベージュの単色。赤や緑の色が欲しいなどと感じた。
加茂川を渡って南にある美作国分寺跡へ向かった。
 
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美作国分寺跡。国史跡。津山市国分寺。吉井川左岸、加茂川合流点近くの台地上に位置する。北に向かって南面して建てられていた。。出土遺物から、天平
13年(741)の国分寺建立の詔からほどなく造営され、平安時代末には衰退したものと推定される。中央政府との強い関係が想定され、国分寺造営の実態をよく示すとともに、古代美作国の政治情勢を示すうえでも貴重とされる。
左の建物は国分寺公会堂で、この場所は金堂の南東端に相当する。一帯は空き地で、史跡公園への整備待ちの状況。すぐ東に国分寺があり、その手前の駐車場に駐車。
 
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美作国分寺跡。配置図。典型的な東大寺式の伽藍配置をもち、南から南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、回廊が中門と金堂を結び、その東南に塔を配したことが明らかになった。寺域はほぼ
2町(約218m)四方である。
 
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美作国分寺跡。史跡整備イメージ図。出土した創建期の軒瓦の文様が平城宮東区の朝堂院上層の礎石建物の瓦と酷似する。瓦の分析から、奈良の瓦工人が国分寺から北西約
5㎞に位置する美作国府を建設するさいに招かれてこれらの瓦を製作し、美作国分寺にもその瓦を使用したと考えられている。
美作国は、和銅6年(713)に備前の北部6郡を分割してつくられた新しい国で、その国府は津山市総社に置かれた。美作国分寺の特徴である都との密接な関係は、そういった事情を反映している可能性がある。
なお、美作国府跡は8年前の山陰旅行のさい、見学した。市街地北西の台地上にある。
 
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美作国分寺跡。国分寺の山門前。美作国分寺の巨大な礎石が残る。
 
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龍寿山国分寺。天台宗。美作国分寺跡の東にある。現在の建物は津山藩松平氏の援助により、文政
11年(1828)に再建された建物。境内は庭などが整備されて美しい。鳥居が二つ並んでいるのが珍しい。聖天堂と弁財天の鳥居という。
津山駅へ向かった。
 
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旧津山扇形機関車庫。
JR津山駅。駅北西の道路脇から。1936年に建設された津山扇形機関車庫は、奥行22.1m17線構造で、地方での鉄道が全盛期を誇った雄大な風景を残す、日本で13箇所しか残っていない扇形機関庫の1つで、20線を有す梅小路機関車庫に次ぎ日本で2番目の大きさ。
ほんの一部分しか見られなかったが、片鱗をうかがうことはできた。内部公開の日程に合わせるのは難しい。
城東の町並み保存地区へ向かい、散策した。
 
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津山市城東地区。重伝建地区。平成
258月に選定された。
慶長8年(1603)に美作国に封ぜられた森忠政が津山城を築き、城下町を整備した。城の周囲に武家地、城下町の南半部を東西に通る出雲往来に沿って町人地が形成された。城の東を流れる宮川の東側にも城下町が形成され、出雲往来に沿った町人地が保存地区に当たる。地区の東部には、国指定史跡箕作阮甫旧宅がある。
保存地区は、東西約1050m、南北約480m。出雲往来には、道路が折れ曲がる枡形が2か所あり、東西端と中程に木戸が設けられた。屋敷地は、往来に沿って間口2間から4間程度の幅で割り付けられ、大規模なものでは10間を越えるものもある。奥行きは17間程度で規格的に割り付けられた。
各敷地では、往来に面して主屋が建てられ、その背後に附属屋や土蔵が建つ。江戸時代から明治に建築された二階部分が低いつし二階建ての主屋が数多く残り、一階の屋根には本瓦を使用しており、低く重厚な軒が連なる特徴ある町並みを形成している。主屋の一階、二階ともに、窓に様々な意匠の出格子が使用される。二階では、むしこ窓もみられ、腰になまこ壁を使用するものや、意匠を凝らした袖壁をもつものが多い。角地では、屋根を入母屋造としたり、往来に直交する小路に面する壁面にも様々な意匠を凝らしている。
 
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城東むかし町家。旧梶村家住宅。入場無料。火曜日休み。
旧梶村家住宅は、江戸後期から昭和初期にかけて建てられた複合的な商家で、町並み保存地区の中心施設である。旧藩時代に札元をしていた豪商梶村家の屋敷跡は間口31.5m奥行34mと大規模な町家で,幕末期の主屋、大正時代の座敷・蔵・洋館、昭和初期の蔵・茶室・庭園かた構成され、変化に富んだ内部を構成していて飽きない。
 
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城東むかし町家
(旧梶村家住宅)。庭園。国登録記念物。主屋と座敷から鑑賞するように配置されている。
 
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城東むかし町家
(旧梶村家住宅)。左が座敷(大正期)、右が東蔵(大正期)と西蔵(昭和初期)。正面が茶室の千草舎(昭和初期)。明治中期の当主梶村平五郎は銀行業や県会議員を務める傍ら和歌を得意とし、美作地方の歌壇の発展に尽くした。千草舎の名は歌壇活動にちなんで付けられた。
 
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作州城東屋敷。津山町家の典型として復元された建物で、休憩所・案内所・展示場となっている。
真横には復元された火の見櫓が聳え立ち城東地区のシンボルになっている。「男はつらいよ」シリーズの寅さんロケ地では観光休憩所になった。内部で最近描かれた襖絵を見た。
入場無料で水曜日休み。
 
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くくり猿。城東屋敷付近を中心にした民家の軒先に吊るされている。「きんちゃいざる」(来なさい猿)ともいう。軒先に吊るすと縁起が良い、願いを書いて吊るすと願いが叶うといい、中之町の婦人会の皆さんが作っている。城東地区の知人宅を度々訪れていた俳優のオダギリジョーさんの母親が飛騨高山のさるぼぼの作り方を習得して始まったという。
衆楽園へ向かう。
 
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衆楽園(旧津山藩別邸庭園)。国名勝。年中無休。入園無料。衆楽園は、津山藩2代藩主森長継が明暦年間
(16551658)に京都から作庭師を招いて造営した近世池泉廻遊式の大名庭園である。元禄11年(1698)に松平家が藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の私的な別邸として使われ、明治3年(1870)に「衆楽園」と命名、一般公開された。
この庭園は京都の仙洞御所によく似ており、島の配置や水面に映る島影の美しさ、四季折々の樹木の枝ぶりにも、洗練された美を感じることができる。庭園内の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っている。
 
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衆楽園。睡蓮と橋。庭園の大半を南北に長い池が占め、四つの島が施されている。
 
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衆楽園。東側には全長
210メートルの曲水が設けられている。
水の占める割合の多い雄大な庭園であった。
市街地を外れた北西にある中山神社へ向かう。
 
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中山神社。津山市一宮。式内社(名神大社)。美作国一宮として崇敬を受けた。。主祭神鏡作神。本殿(重文)は中山造と呼ばれる構造で、永禄
2年(1559年)尼子晴久による建造。
折口信夫・池田彌三郎らは、「古今和歌集」にみえる「吉備の中山」を当社に比定し、平安時代、吉備津神社(岡山市吉備津)の社格が上昇するとともに、「備中の中山」にある同社を指すようになったという。
川沿いに狭い道を進み、丘陵地に出会う場所に鳥居がある。駐車場に駐車してから、しばらく境内を歩くことになる。
市街地の外れで見かけたコインランドリーで、久しぶりに洗濯。短時間の乾燥を含めて300円という亭料金で済んだ。
津山高校へ向かう。
 
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岡山県立津山高等学校本館。重文。設計,施工者は不明であるが明治
33年(1900),岡山県津山中学校の新校舎として建設されたものである。木造2階建,寄棟造,桟瓦葺の洋風建築で,屋根棟に瓦製の装飾をつける。屋根の正面中央には,切妻造鉄板葺の軒に飾りをつけた時計台,更にその背後に一段高く,鉄板葺の塔屋を置き,避雷針がそびえる。また,マンサード風の切妻形明かり窓が屋根の左右前後に置かれている。
津山中学校の初代校長菊池謙二郎は夏目漱石と親交があり、「吾輩は猫である」の八木独仙のモデルとされる。B’zの稲葉浩志の母校としても知られる。外観のみ見学できる。
翌日は津山城などを見学するので、道の駅「久米の里」で連泊。

岡山県津山市 日本100名城 津山城跡

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津山城跡。表中門。国史跡。日本100名城。
平成26527日(火)。道の駅「久米の里」から津山城へ向かった。南側の無料駐車場に駐車し、840分の開場時間に合わせ、入場した。津山郷土博物館との共通券は400円。江戸時代初期の本格的な近世城郭の高石垣に圧倒される。
表中門は三の丸から二の丸に繋がる大手虎口にあり、巨大な櫓門が建てられていたとされる。内部は大型の枡形になっている。
 
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津山城復元模型。津山郷土博物館。文献や古写真に基づいて製作された津山城の復元模型。
津山城は比高40mの鶴山に築かれた平山城で、5層の天守を戴き櫓や城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ大規模な近世城郭で、複雑な縄張りによる堅固な防御を誇っていた。
往時は外郭を含めると77棟の櫓を持ち、広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ櫓の多さであったが、明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され、現在は天守台・石垣のみが残り、平成17年に備中櫓が復元された。
慶長8年(1603)信濃川中島藩から森蘭丸および長可の弟森忠政が美作一国186500石にて入封し、津山藩が立藩した。この地は従来、鶴山と呼ばれていたが、忠政により津山と改められた。翌年から津山城の築城に着手し、元和2年(1616)に完成した。元禄10年(1697)に森氏は断絶した。元禄11年(1698)、結城秀康を祖とする越前松平家の分家の松平宣富が10万石で入封、廃藩置県まで松平氏が治めるところとなった。
鶴山には、嘉吉年間(1441 - 1444年)美作守護山名教清が一族の守護代山名忠政に鶴山城を築かせたが、応仁の乱後は廃城となっていた。
 
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津山城跡。本丸下の石垣から城東の町並み保存地区方面の東南部を望む。城を囲む天然の濠として東側には吉井川支流の宮川と南側を流れる吉井川を取り込み、西側には藺田川を外濠として、内側に城下町の主要部を形成した。
 
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津山城跡。本丸下の石垣から眺める備中櫓。
 
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津山城跡。表鉄門跡。本丸への入口ある櫓門で、門扉全体が鉄板で覆われていた。表鉄門は城門としてだけではなく、二階の櫓内部は本丸御殿への正式な入口としての役割も持っていた。本丸の面積が狭く、限られた敷地を有効に利用するためと考えられる。
 
 
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津山城跡。表鉄門。南から見た表鉄門のCG画像。門の二階櫓内部を左から右に向かうと本丸御殿の大広間につながる。
文化6年(1809)の火災により、本丸御殿のすべての建物や表鉄門などは焼失したが、8年後に表鉄門と両脇の石垣が再建された。
 
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津山城跡。表鉄門周辺の絵図。表鉄門から本丸御殿へ向かうルートが赤矢印で示されている。
表鉄門を北向きにくぐると、西向きに石垣がある。石段を登り、南に180度方向を変えると、本丸御殿の玄関がある。この玄関は、先にに門をくぐった表鉄門二階の櫓部分にあたり、全体は北に向かってのびる「コ」の字の形をしていた。玄関の石段を東向きに登ると、式台とよばれる板敷きの部屋があり、42畳の広間へ続く。東南隅の小部屋を過ぎて北に折れると旗竿の間があり、さらに西に折れると鑓の間へと続く。ここから北に向かうと、御殿の大広間につながる。
 
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津山城跡。本丸の石垣から南を眺める。
 
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津山城跡。備中櫓。内部。1階の「御茶席」。
受付の先の小部屋で津山城に関するDVD映像を視聴し、内部を見学した。
備中櫓の名の由来は、津山森藩の基本史料にある「備中矢倉 池田備中守長幸入来之節出来」という記載から推測される。池田備中守長幸は鳥取藩主であり、初代津山藩主である森忠政の長女「於松」はこの長幸に嫁いでいる。於松が亡くなると四女の「於宮」が長幸に嫁いだ。つまり、忠政にとって備中守長幸は娘を2人も嫁にやった娘婿にあたる。その長幸が津山城を訪れるのを機に造られたとされるのが「備中櫓」であると伝わる。
 
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津山城跡。備中櫓。内部。1階の「御茶席」。
反対側から。窓の下には城下町が見える。風流だなと思ったら、この窓は出格子窓で、その下に鉄砲狭間、横には弓狭間が取り付けられている。
 
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津山城跡。備中櫓。内部。2階。「御上段」。
 
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津山城跡。備中櫓。屋根瓦。揚羽蝶紋棟込瓦。「軒丸瓦」に見えるが、丸い部分の直径が通常の軒丸瓦の半分程度しかなく、これは屋根の「棟」の部分を飾る「棟込瓦」の一種で「菊丸瓦」と呼ばれる種類の瓦である。
本丸の発掘調査のさい、備中櫓の周辺でしか出土しない特異な瓦があった。瓦の文様は「蝶」であり、森家の家紋は「鶴丸」と符合しない。「揚羽蝶」文の瓦は池田長幸がいた鳥取城や池田家が藩主であった岡山城で使用されており、文様は池田家の「揚羽蝶」と推測された。
森忠政は、娘婿にちなんだ名前の櫓を建てるにあたって、棟に池田家由来の「揚羽蝶」文様の瓦を使用したと思われる。また、備中櫓周辺から出土した「蝶」の文様は、岡山城出土の「揚羽蝶」文様と比べて随分省略され、簡単な表現となっていて、森家お抱えの瓦師が、ふだん製作したことのない「揚羽蝶」の文様を、記憶を頼りに製作したため、簡略化された表現になったと考えられる。
 
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津山城跡。天守台から眺める備中櫓。
 
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津山城跡。天守台から西を眺める。吉井川が流れる北の低い丘陵に美和山古墳群があり、その向こうに院庄館跡がある。
 
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津山城跡。天守台付近の石垣。築城にあたり、穴太衆が石垣を築造した。天守台にはハート形の石があり、「愛の奇石」とよばれている。捜しても見つからなかったが、ハート形の石は各所にある。
1時間以上滞在し、中途半端な見学となったが、先を急いで、津山郷土博物館へ向かい下っていった。

岡山県津山市 津山郷土博物館 箕作阮甫旧宅 津山洋学資料館 美作市 湯郷 武蔵の里

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津山郷土博物館。国登録。岡山県津山市。平成
26527日(火)。津山城跡を見学し、東の坂道を下って南麓にある津山郷土博物館へ向かう。
津山郷土博物館は津山市役所庁舎として昭和8年(1933)に建てられ昭和57年まで使用された建物を増改築して開設された。鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建、塔屋付。中央正面に車寄を付け,背面には議場を張り出す。腰に花崗岩を貼り,頂部にはスクラッチタイル貼のパラペットを四周に巡らす。中央には当時流行したアールデコのデザインを取り入れた5層の塔屋を設け、中心性を強調した左右対称の外観が特徴で、昭和初期の典型的な官庁建築である。
 
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津山郷土博物館。展示。伝森忠政奉納鉄楯。森忠政が大坂城攻めで使用した鉄楯で、徳川家康から拝領した可能性がある。楯の重さは約
15㎏、一対で約30㎏。横幅44㎝、縦91㎝。幅11.5㎝、縦91㎝の縦長の鉄板を重ねて並べ、鋲で留めたもの。森忠政が大坂の陣の後に徳守神社に奉納したと伝えられる。楯の表面に残された多くの窪みや貫通穴が激戦を物語る。
大坂城攻めで、攻め手は竹束うぃ弾避けとして濠際に陣取ったが、城内からの銃撃により多くの死傷者を出した。そのため、鉄楯10張ずつが諸大名に授けられたと記録されている。
 
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津山郷土博物館。3階。天井の優美な曲線はアールデコそのもの。徳川家康の次男秀康に始まる松平家旧蔵大名駕籠と熊毛槍が展示されている。
 
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津山郷土博物館。3階。円柱が壁に取り込まれるデザインが面白い。
 
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津山郷土博物館。展示。四つ重ね土器。
中宮1号墳出土。津山市福田にある中宮1号墳は全長23mの前方後円墳で、6世紀前半~中頃の築造とされる。四つ重ね土器は、石室内から四つ重なった状態で出土した。下から須恵器器台、須恵器広口壷、須恵器はそう、土師器坩の順に重ねられていた。
中宮一号墳が属す佐良山古墳群は津山市の南西,東は神奈備山,笹山,高鉢山,西は嵯峨山,大平山に囲まれた皿川の流域の山頂,山腹,山麓に営造された。
 
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津山郷土博物館。展示。陶棺。粘土を焼き固めて作った棺で、6・7世紀に古墳内の埋葬施設で用いられた。陶棺には土師質と須恵質の2種類があるが、出土している土師質陶棺のおよそ70%は美作地方から出土しており、古墳時代の美作を代表する特徴的な遺物である。
 
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津山郷土博物館。展示。人物埴輪。日上畝山古墳群出土。日上畝山古墳群は美作国分寺跡北西の丘陵上にあり、大半が
5世紀後半から6世紀前半に築造された円墳・方墳56基が現存する古式群集墳で、そのうち、日上天王山古墳は,全長56.9mの美作最古の前方後円墳の一つである。
 
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津山郷土博物館。展示。鉄滓(金くそ)。古墳時代。津山市金井。美作は古代からの製鉄コンビナートと評される。
 
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津山基督教図書館。国登録。大正15年(
1926)建築。木造3階建,銅板葺。津山城跡の前面の角地に建つ。内村鑑三の弟子森本慶三が創設した建物で,設計は桜庭駒五郎。イオニア式の壁付柱を持ちゲーブルを設けた南面中央入口部の構え,東面にある時計付の塔屋,壁面各所の浮き彫り等に特徴がある。
月曜日休みの多い城東地区を再訪。
 
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箕作阮甫旧宅。国史跡。幕末の洋学者箕作阮甫が生まれ、少年期を過ごした生家。箕作家では阮甫の曾祖父定辨が最初に医業を営み、父貞固は町医者から藩医に取り立てられた。
箕作阮甫は寛政11年(1799)に生まれ、京都で医術を習得した。文政6年(1823)藩主の供で江戸に行き、津山藩医宇田川玄真の門に入り、蘭学の習得に努めた。天保10年(1839)幕府天文台に出役し、「蛮書和解御用」を命ぜられた。嘉永6年(1853)ペリ―来航時に外交文書の翻訳にあたり、同年、ロシアのプチャ―チンが長崎に来航した際は、筒井政憲・川路聖謨について長崎に行き、外交書簡の翻訳に携わった。安政3年(1856)蕃書調所教授職となり、文久2年(1862)には幕府の旗本に取り立てられた。文久3年(1863)江戸で没した。
住居は普通の町屋で特徴はない。
 
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津山洋学資料館。津山が輩出した洋学者や、幕末の藩医箕作阮甫の偉業を紹介する。
有名な医学書「解体新書」に始まる江戸の蘭学。初めての解剖“腑分け”に驚く当時の様子や、木製の人骨模型、今も使われる医学用語の誕生秘話などを展示。白い建物は洋学に関係する図書を集めた図書室。さらにその後方が津山洋学資料館。
 
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津山洋学資料館。展示手法は最新で、分かり易い。
津山に本格的に洋学を紹介したのは、江戸詰の津山藩医宇田川玄随で、彼とその跡を継いだ玄真・榕菴の三代は、いずれも洋学研究の大家であった。宇田川榕菴は都市計画にも興味を示していた。
 
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津山洋学資料館。展示。「ターヘル・アナトミア」。ドイツ人医師クルムスの解剖学書のオランダ語訳書。題名は「オントレートクンディヘ・ターフェレン」。
 
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津山洋学資料館。展示。解体新書。安永
3年(1774)刊。ターヘル・アナトミアをもとに杉田玄白らが日本語に翻訳したもの。
このあたりで、館内撮影禁止に気がついた。
 
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津山洋学資料館。GENPOホ―ル。津山洋学を紹介した映像「素晴らしき津山洋学の足跡」を上映している。
津山の見学を終え、翌日の岡山県の最高峰・後山登山の登山口である西粟倉村を泊地とし、その間に美作市湯郷・大原を経由した。
 
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美作市歴史資料館。美作市林野。建物は大正
10年に妹尾銀行林野支店として建築されたもので、ルネサンス様式をとり入れた赤煉瓦造りの優美な外観である。
館内には資料が展示されているが、普段は開放されておらず、見学には予約が必要とのことで、内部には入れなかった。南1㎞ほどにある湯郷温泉の元湯「湯郷鷺温泉」へ向かい、入浴。湯質は薄くて残念な湯だった。
 
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岡山県美作ラグビー・サッカー場。湯郷ベルの本拠地。湯郷温泉の北近くにある。当日は公開練習日でもないので全体が休日モードだった。
美作市大原へ向かう。
 
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宮本武蔵生誕地の碑。美作市大原。吉川英治先生文恩記念碑もある。武蔵の里として様々な施設がある。宮本武蔵の出生地に関しては、播磨説があり、美作出生説では吉野郡讃甘村という。武蔵の父は平田無二斎といわれ、母は別所林治の女と、新免宗貞の女との二説がある。そして武蔵は新免武二の養子になったという。戦国時代、この地方では新免氏が有力な豪族であった。
武蔵神社の横を通り、鎌坂峠の一貫清水へ向かう。
 
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一貫清水。
鎌坂峠の頂上手前にある湧水で、一貫の価値があるといわれたことから名づけられたとされる。鎌坂峠は因幡街道の峠で、武蔵の義母が住む播磨・平福宿に通じる。旅立つ宮本武蔵と森岩彦兵衛が別れた場所と伝わる。
峠へ向かう道路は産業廃棄物が目立ち、雰囲気が悪いと思ったら、水汲み場は全く荒廃していた。
翌日水を汲んだ東粟倉の「愛の水」に負けてしまったせいだろうか。
がっかりしながら、西粟倉村の道の駅「あわくらんど」へ向かった。翌日は、「愛の水」経由で後山登山からスタートした。

岡山県美作市 岡山県最高峰 後山 登山 愛の水

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愛の水。岡山県美作市東粟倉。平成26年5月28日(水)。
本日は岡山県最高峰後山の登山から始まり、翌日登山目標の兵庫県姫路市北部に所在する雪彦山近辺の道の駅までの行程となる。
岡山県西粟倉村の道の駅「あわくらんど」で起床。前日、粟倉温泉・黄金湯の300円割引券を道の駅で入手。鳥取自動車道がすぐ上を通り、西粟倉ICから佐用平福ICまで無料区間と知る。
まず、昨日の一貫清水で得られなかった登山用兼自炊用の水の確保のため、後山登山口南にある美作市東粟倉の愛の水へ向かった。位置はヤマケイの分県登山ガイドで紹介されている。後山へのアクセスは分かりやすい。大規模林道を通り、道路地図案内にしたがい、後山登山口アクセス道を通過して、南に下って、すぐ西へ入ると、建物の手前向かい側に水汲み場があった。建物脇に駐車して、ペットボトルに給水した。ゴムホース1つしか取水口はない。
 
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愛の水。「愛の水」給水所。建物の裏側に回ると、こちらが正面で、広い駐車場があり、20ℓ単位の有料給水所が設置されていた。休日になると、多くの人が来るのだろう。
 
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愛の水。顕彰碑。愛の水の由来と事業化が分かる。愛の水というネーミングは良い。恋の水では普遍的な感じがしない。愛の村パークがすぐ南にあるらしい。温泉やレストランもあるようだ。どれほど賑わっているのか分からないが、愛という言葉だけで地域が活性化すれば安いものだ。
北へ戻って、後山の登山口へ向かう。
 
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後山。登山口。岡山県美作市東粟倉。歩行時間、上り1時間33分、下り1時間8分。
駐車場は分かりやすく、広い。私が一番の先着であった。右の赤い看板に、クマ出没注意とあり、熊鈴を持ってこなかったので、不安になりながら登っていった。
830分登山口から出発。
 
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沢の渡渉。登山道はたいしたことはないが、2日前の降雨で沢の水量が多くなっており、靴をどの岩の箇所で踏むかを確かめて渡ることになる。
 
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沢の渡渉。結構、幅が広くなっている大沢があった。対岸に赤テープがあるので、迷うことはないが、直進してしまう人もいるようだ。渡渉する沢は下にもう1か所
あって計3か所。ペースダウンを強いられる。
947分に船木山(標高1334m)を通過。眺望はよいらしいが、先を急ぐ。行く手には後山の山頂が見え隠れするのでペースは捗る。稜線の左右はネマガリササが密生している。登山道を見ると、動物の足跡がある。最近のものなので、クマが近くにいるのではとの疑念が湧く。
 
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後山。山頂。標高1344m。
岡山県の最高峰103分に到着。修験道の山であったらしく、祠がある。
 
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後山。山頂。西に船木山を望む。
 
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後山。山頂。西に西粟倉村方面を望む。瀬戸内海や周りの山はよく分からなかった。
1020分下山開始。途中で、単独者、グループなど13人と対向した。人気のある山と実感。
1128分登山口へ帰着。
粟倉温泉・黄金湯の300円割引券があったので、燃費を考えても安いと判断し、道の駅方面へ戻り、さらに西へ進んで、黄金湯へ向かった。入浴料500円。大広間で寝転んで、体を休めた。
岡山県域はこの辺りで終了。先ほどの林道へ戻り、志引峠を越えて、兵庫県宍粟市波賀町原の日本滝百選「原不動滝」へ向かった。

兵庫県宍粟市 原不動滝 伊和神社 山崎城跡

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原不動滝。日本の滝百選。兵庫県宍粟市波賀町原。平成26年5月28日(水)。
岡山県最高峰後山の登山で岡山県の旅を終え、志引峠を越えて、兵庫県宍粟市波賀町原の日本の滝百選「原不動滝」へ向かった。国道から西のアクセス道を進み、終点の門の前で駐車した。舗装道を進み、吊り橋を渡ると、不動尊があり、横に料金所があった。200円を支払うと、遠足がもうすぐ来るといわれ、あわてて遊歩道を登った。吊り橋と階段を経て、滝見用の吊り橋「奥かえで橋」の先端の展望ポイントへ到着。
 
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原不動滝。下部と滝壺。落差88mを3段に分かれて
落下する男滝と、男滝の最下段部の滝壺で合流する女滝が左脇にある。
 
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原不動滝。「奥かえで橋」から下る。急な階段が多く、途中で休む人を見かけた。
国道を南進し、道の駅「播磨いちのみや」へ駐車し、向かい側に参道がある伊和神社を見学。
 
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伊和神社。宍粟市一宮。播磨国一宮。式内社(名神大社)。主祭神は大己貴神。本来は「播磨国風土記」で活躍をする伊和大神を祀ったが、のちに出雲系の葦原志許乎命(大己貴神)と同化したようである。伊和一族の根拠地は揖保川上流のこの地域と考えられ、「播磨国風土記」によれば、もと宍粟郡の石作里を本拠とし、飾磨郡の伊和里に移り住んだとされる。
揖保川の左岸河岸段丘上に広がる境内には、夫婦杉をはじめ、杉・桧等の大樹が繁茂しており、古代の森の雰囲気が残る。
 
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伊和神社。本殿の裏にある「鶴石」。伝承では、欽明天皇25年
、豪族・伊和恒郷に大己貴神から「我を祀れ」との神託があった。一夜にして杉・桧等が群生し多くの鶴が舞っており、大きな白鶴2羽が石(鶴石)の上で北向きに眠っていたのをみて、そこに社殿を北向きに造営したとされ、現在の社殿も北向きである。
 
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伊和神社。鶴石。苔むした岩には鶴の足跡のような穴が開いているかのようだ。
国道を南進し、山崎城跡へ向かった。
 
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山崎城跡。紙屋門。宍粟市山崎町鹿沢。平山城。宍粟市の中心地山崎に初めて城が築かれたのは南北朝時代のことで、町の北の篠の丸山に赤松貞範が篠ノ丸城を築いたという。戦国時代末期の天正12年(1584)黒田官兵衛が
羽柴秀吉から宍粟郡を与えられ、居城したとされる。
天正15年(1587)木下勝俊が領主になり、篠ノ丸城の南側、現在の山崎城の場所である鹿沢の地に城を築いたとされている。
本格的な城郭が建築されたのは、元和元年(1615)に池田輝政の子輝澄が山崎38千石で入封した後である。
池田輝澄はお家騒動で改易、松井康映、池田恒元・政周・数馬と続き再度廃絶した。延宝7年(1679)、大和郡山から本多忠英が1万石で入り、廃藩置県まで譜代大名の本多氏8代の藩主が続いた。
 
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山崎城跡。絵図。揖保川と菅野川に挟まれた鹿沢と呼ばれる河岸段丘の南半分に築城した。川に面した崖の部分には石垣を築き、その南端に本丸を設置、続いて北側に東西に広がる形で二の丸・三の丸を設置し、その境目には揖保川から引いて構築した堀が巡らされた。更にその北側には武家屋敷、外堀を挟んだ北側には城下町が広がっていた。幕末期の設置とされる表門の紙屋門など一部が残っている。
 
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山崎城跡。本丸跡。本多公園として整備されている。建物は、明治22年に
建てられた龍野治安裁判所山崎出張所を移築したもので、山崎歴史民俗資料館となっているが、通常は立ち入りできない。
 
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山崎歴史郷土館。山崎闇斎坐像。江戸時代中期。山崎闇斎は江戸前期の儒学者・神道家で、闇斎の自著では祖父と父親は宍粟郡山崎村出身で。木下家定に仕えたと記して、苗字を山崎としたという。
江戸時代中期には古義学者伊藤善韶が所有していた。吉川英治が文化勲章を受章した昭和35年に吉川から山崎町に寄贈された。
山崎歴史郷土館は宍粟市立図書館の2階にあり、図書館の職員に申し出て見学することができた。
翌日は姫路市北部に所在する雪彦山登山を予定していたので、たつの市新宮町の道の駅「しんぐう」へ向かった。

姫路市夢前町 雪彦山 岩場と渡渉訓練の山

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雪彦山。展望岩。姫路市夢前町。平成26年5月29日(木)。
鉾立山周回コース。所要時間3時間42分。歩行時間3時間18
雪彦山は姫路市の夢前川上流に所在し、岩峰の迫力と日本三彦山として知られる。今回の旅で登った9山の中で一番きびしい山だった。高度感はないものの日本アルプス並みの鎖場と沢の渡渉を体験した。ロッククライミングの岩壁や今回コースとしなかった地蔵岳・不行岳付近では転落事故が起きているし、今回のコース上でも転倒事故が発生していることは、姫路市消防・救急課が平成267月に作成した「雪彦山事故発生場所マップ」で公表されている。
下りの沢は増水時は渡渉不可能になる。雨後2日間を置いてよかった。
たつの市新宮町の道の駅「しんぐう」を出発。夢前町前之庄から県道を北上、意外に民家が多く、アクセスも長い。740分ごろ登山口手前の雪彦山キャンプ場の駐車場に着く。30台ほどのスペーズに先着が1台。京都ナンバーのちょい痛車。準備を整え、登山口手前の管理棟に行くと、事故注意の看板があり、登山届の箱があったので、用紙に記入し提出した。A4の登山ルート図も貰う。左方向に登山口への赤矢印が路面に表示されている。ロッジの脇に登山口がある。
826分、登山口を出発。いきなり、岩でがれた道を登らされ、今回の旅で登ってきた山と違うことを覚悟させられる。道標や地点名の表示が多いので、現在位置の確認は容易。急坂を上り平行道を進むと展望岩に出る。大天井岳などの岩峰が天に突きだすさまにアドレナリンが出てきた。ここから大天井岳山頂まで岩場が続く。
 
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雪彦山。出雲岩。赤ペンキが豊富なので助かる。出雲岩を回り込むと最初の鎖場で、5mほどの鎖場があると書いてあるので、どんな所かと思ったら、意外にも下りの鎖場だった。ここから鎖場が10か所ほどあるが、無理な態勢をとらされるほどのものではなく、高度感もないので比較的簡単であった。
 
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雪彦山。チムニー。出雲岩から5分ほどのところ。狭い煙突状の空間を攀じ登る。鎖も足場もある。
 
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雪彦山。セリ。岩と岩の間の狭い空間を抜ける。九州の修験道の山では「針の耳」という。太った人は通り抜けられない。巻道があるらしい。
 
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雪彦山。大天井岳山頂。標高884m。
934分到着。雪彦山の表示があるが、北の三辻山が雪彦山とよばれ、最高点は鉾立山(950m)である。山頂は意外と広い。
 
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雪彦山。大天井岳山頂。南の眺望。麓の集落が見える。瀬戸内海までは見えない。
947分、三辻山へ向かう。5分ほどで下山道分岐に出る。この下山道は不行岳・地蔵岳を通り、転滑落事故が多い。直進する。
 
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雪彦山。三辻山。山頂。標高915m。
1017分到着。三角点がある。広場になっているが、展望はない。1020分出発。緩いササや灌木の中の道を進む。
 
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雪彦山。鉾立山。山頂から北への展望。標高950m。
1039分到着。このコースでの最高点。展望パネルがあるが、褪色して山名は不明。天気がよければ氷ノ山も見えるというが、よく分からない。
1047分出発。ジャンクションピークから右回りに下る。谷筋への下りは急降下の九十九折れでかなりの距離がある。谷筋に折りきると、沢沿いのゆるやかな下り道となり、下りは楽勝と思ったが、しばらくすると、沢の渡渉が続き、下に行くほど川幅が広くなって、岩への足の置き場を検討させられる機会が増えた。
 
 
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雪彦山。虹ヶ滝。滑落事故多発の注意看板がある。虹が出るくらいなので常時水しぶきが当たって岩は苔むしてぬめっている。川の中の岩伝いとなり、慎重に足場を確保して進む。
 
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雪彦山。虹ヶ滝。滝壺の中を歩かされた。
1136分通過。
 
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雪彦山。虹ヶ滝の下から岩峰群を見上げる。
このあとも、岸壁のへつりや渡渉が多くて、危険個所は続いた。賀野神社への分岐を過ぎると、ようやく単なるガレ道となる。若い男性と対向したので、通常は反対側から登ると言ってやったが、どうしてこの道を登ってきたのか不明。地図も持っていない様子。
砂防ダムに出て、ようやく終点が近くなり、128分登山口に帰着。
駐車場には10台ほど駐車していた。管理棟へ行き、登山届に帰着時間を記入。京都ナンバーの人よりも所要時間は数分短かった。しかし、私を含めたこの二人以外、登山届を提出していないことのは唖然とした。
県道を帰る途中、雪彦温泉で入浴。湯質はいいが、800円は高かった。このあと、柳田国男記念館のある福崎町へ向かった。

兵庫県福崎町 柳田国男記念館 もちむぎのやかた 加東市 朝光寺 西脇市 兵主神社 黒田城跡 西脇大橋ラーメン 

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柳田国男記念館。兵庫県福崎町。平成
26529日(木)。姫路市夢前町の雪彦山登山を終え、柳田国男生家のある福崎町へ向かった。近づくと、道路案内があり、旧辻川郵便局前の狭い道を東進し、北へ曲がると駐車場があった。西にも駐車場があって、観光客らしい客が群れていた。柳田国男なんてマイナーなのに不思議に感じたが、「もち麦」をテーマに観光振興をしていて、私も見事に食事をさせられてしまう仕掛けが存在していた。観光において「食」の比重は大きい。見学施設で貰ったパンフレット群もしっかりしていて、さすがに柳田国男の故郷は教育水準が高いと感心した。ただ、肝心な柳田国男の民俗学の存在感が薄れていることが問題ではある。
駐車場から柳田国男記念館のある北の丘へ歩いた。その横のグラウンドにも駐車場があった。
正式には柳田国男・松岡家記念館という。入館は無料。展示コーナーは広くはない。展示資料も少ないが、こんな程度にしかならないだろう。柳田民俗学を味わうためには柳田国男の著作を読むしか方法はない。
 
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柳田国男の生家。柳田國男は「私の家は日本一小さい家だ。この家の小ささという運命から、私の民俗学への志を発したといってよい」と書いている。生家は、記念館の西隣に移設・保存されている。柳田国男は明治
6年(1873)、医師で国学者である松岡操の六男としてこの家で生まれた。この家はもとここから8㎞ほど北の福本という場所に老医師夫婦が住んでいた建物を、松岡操が明治6年に買い取って辻川へ移築し、街道沿いに面して建てた。
 
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柳田国男の生家。家は間口
5間、奥行き4間、土間、3畳間と4畳半の座敷、4畳半の納戸、3畳の台所といったいわゆる「田の字型」の標準的な農家の間取りである。当時、ここには両親と長男夫婦、弟の7人が住んでいた。狭かったせいか、松岡家はこの家を売って、先祖代々の故郷を捨てて、母の実家のある加西市へ移り、ついで明治20年に兄・鼎が医院を開いていた茨城県北相馬郡布川村(現・利根町)に移住し、のち千葉県布佐へ移住した。
この家は明治18年に東約1㎞の大門へ移築され、昭和47年まで現地にあったが、顕彰会が買い取り、昭和49年現在の地に復元された。
 
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神崎郡歴史民俗資料館。記念館の北にある。入館無料。明治
19年に神東・神西郡役所として、神東郡西田原村辻川に建てられた木造の擬洋風建築である。明治29年に神崎郡役所に改称され、大正15年に郡役所としての使用を終えた。昭和573月に現在地に移築された。正面玄関にはギリシア様式を取り入れ、二階にはバルコニーを設け、アカンサスの葉が彫刻されたコリント式の円柱など、この地域の明治の文明開化を象徴する建造物であった。
 
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「もちむぎのやかた」と記念館のある丘。丘から南へおりて来ると、公園に池があり、河童の人形が池から顏を出して。子供を泣かせていた。花壇を抜けると。レストランと売店のある「もちむぎのやかた」に着く。
 
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もち麦の「揚げ出し麺」。
756円。入ってみると、もち麦の説明があり、健康によさそうなので、つい食べてしまった。女性職員の接客態度にも好感が持てた。
米にもち米とうるち米があるように、麦にももち麦がある。オオムギに属するもち麦は、紀元前3000年頃までに西南アジアで栽培化され、ユーラシア大陸に伝播した。モチ性のオオムギは日本・中国・朝鮮にしかない。日本では中国地方・四国地方・瀬戸内海に面した諸県と九州北部の諸県に僅かに栽培され、自家用として食されて、「もちむぎ」「だんごむぎ」などとよばれていた。福崎でも古くから栽培され黒紫色の麦を粉にして「だんご」として食べていたという。栽培は昭和30年頃に一度途絶えたが、昭和61年から試験栽培を行い、その後、生産組合中心に普及している。
貯蔵澱粉の種類がモチ性とウルチ性では違い、モチはアミロペクチンの含有量が多く、ウルチはアミロースの含有量が多い。もち麦は、食物繊維のひとつであるβ-グルカンを多く含んでいるため、コレステロールを低下させる働きがあるとされる。
食後、入手した地図を持ち、南の街道筋へ向かった。
 
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柳田国男生誕地の石碑。元々はここに生家があった。生家が面した街道は「銀の馬車道」とよばれ、姫路港から生野鉱山まで南北
49㎞に及ぶ日本初の高速産業道路が通っていた。生家前を東に進むと、辻川の四辻があり、生家側に旧神崎郡役所が建っていた。
 
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旧辻川郵便局と大庄屋三木家住宅。馬車道を交差点から東へ進むと旧辻川郵便局の前に出る。擬洋風建築の旧辻川郵便局は明治
15年頃に郵便局として竣工した。土地・建物ともに三木家の所有で、1階が郵便局、2階が電報局として使用された。
隣の大庄屋三木家住宅は現在修理工事中である。代々姫路藩の大庄屋であった三木家は英賀城主三木氏の後裔で、明暦元年(1655)に姫路藩主に新田開発を命じられ、辻川の地に移ったと伝えられる。江戸時代中頃の建築とされる住居には屋敷・門塀・蔵が現存する。柳田國男は10歳から12歳頃まで三木家で生活し、「三木家の四千冊余の蔵書を乱読したことが民俗学の基礎となった」と書き記している。
1520分頃、国宝本堂のある加東市の朝光寺へ向かった。
 
イメージ 9朝光寺。本堂。国宝。加東市畑。伝承によれば、651年、法道仙人が権現山に開基したとされる。法道は天竺)から紫の雲に乗って日本へやって来たと伝えられる。法道開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に多数あり、当寺もその1つである。
本堂は方七間、寄棟造、本瓦葺。宮殿裏の羽目板の墨書により応永20年(1413)に本尊を移し、正長元年(1428)に屋根の瓦葺きが完成したことがわかる。建築年代の明らかな、室町時代密教仏堂の代表作の1つであり、和様に禅宗様の要素を加味した「折衷様」建築の代表例でもある。
東条湖方面に北進し、西へ行くと二つほど寺院が見えてきたので、車から降りて確かめるが違う。南に駐車スペースがあり、バイクが1台停まっていた。見ると、朝光寺の看板があったので、ここへ駐車し、木立ちの中を南西へ進むと、朝光寺の境内に入った。こちらは、裏側で南の駐車場から滝の音を聞きながら、石段を登り、山門へ至るルートが望ましかったようだ。
 
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朝光寺。本堂。山門から眺める。
 
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朝光寺。本堂から山門を眺める。山号を鹿野山と称し、真言宗。本尊は平安時代後期と鎌倉時代後期の木造千手観音立像で、後者は京都蓮華王院
(三十三間堂)から移されたもの。
格子戸と菱格子欄間によって内陣と外陣に区切られ、内陣には須弥壇を置き、唐様の宮殿を安置している。
 
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朝光寺。本堂。礎石と柱。床下が現れていて見応えがある。
 
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朝光寺。本堂。礎石と柱。
 
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朝光寺。本堂。礎石と柱。豪快さに感動した。
1630分頃、西脇市の黒田庄町へ向かった。
 
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兵主神社。西脇市黒田庄町岡。兵主神社は式内社である。祭神は。 祭神は大国主命の別名大己貴命。社伝によれば、播磨の国衙に赴任した播磨掾岡本修理大夫知恒が延暦
3年(784)に創始したという。
 
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兵主神社。拝殿。戦国時代、豊臣秀吉が三木城の別所長治を攻める際、家臣の黒田官兵衛に戦勝祈願させた。その奉納金で改築された拝殿は、茅葺入母屋造の長床式で安土桃山時代の建築様式をとどめた貴重なもの。天正
19年(1591)の棟札がある。内部は吹き放ちで、正面中央部3間を広間床とし、両脇間境を円柱配列とした特異な意匠である。
 
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黒田城跡。西脇市黒田庄黒田。中世・戦国時代に築かれた山城で、黒田氏9代の居城。現在稲荷神社がある比高約
40mの半独立山上に城があったと考えられる。
黒田官兵衛の生まれは、黒田庄町黒田だという説が地元では古くから伝えられている。
黒田庄町の荘厳寺に伝わる黒田家系図によれば、黒田氏は赤松円心の弟円光を祖とし、その息子重光が黒田城に拠って黒田姓を名のったことが始まりとされる。初代重光の子孫が、代々黒田城の城主を継ぎ、八代・重隆の子として生まれた孝隆官兵衛尉(黒田官兵衛)が小寺職隆の猶子となって、姫路城を守ったとされる。官兵衛の兄・治隆が黒田城主を継いだが、近隣からの攻撃を受けて落城、宗家は断絶した。
JR本黒田駅から東へ進むと、官兵衛生誕の里石碑があり、稲荷神社の手前に駐車スペースがある。
黒田氏発祥の里を見学したので、夕食に有名な西脇大橋ラーメンを食べることにした。
 
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西脇大橋ラーメン。西脇市上野。かつて西脇大橋のたもとにあった一軒が播州織に従事した女性のために考案した、スープの甘い特製ラーメンが「播州ラーメン」の元祖と言われる。
道の駅「北はりま」から南へ進むと、交差点の角にあり、すぐ分かった。観光客と地元の客で賑わいかける時間帯であった。
 
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西脇大橋ラーメン。甘めのスープは醤油ベースで後味はさっぱりとしている。麺は中太のちぢれ麺で、具はアバラとモモのチャーシューが
1枚ずつ、モヤシと海苔、刻みネギ。特製ラーメン680円と小ライス120円を注文。美味かった。
すぐ北にある道の駅「北はりま」へ向かった。翌日は市川町の笠形山登山から始まる。
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