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岡山県美咲町 柵原ふれあい鉱山公園 旧片上鉄道吉ケ原駅駅舎 柵原鉱山資料館 月の輪古墳

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旧片上鉄道吉ケ原駅駅舎。岡山県美咲町。国登録有形文化財。平成
26513日(火)。和気町の見学を終え、国道374号線を北上し、美咲町の柵原ふれあい鉱山公園へ向かった。案内標識から右折し、旧片上鉄道吉ケ原駅駅舎の左にある広い駐車場に駐車。片上鉄道は柵原鉱山の硫化鉄鉱を輸送するために建設された。1919年に鉄道会社が設立され、1923年に片上・和気間が開通し、1931年柵原までの営業距離338㎞の全線が開通した。鉱石は片上港から船で近県の硫酸工場へ輸送された。片上鉄道は地域住民の通勤・通学の足としても利用されたが、鉱山の閉鎖や利用者数の減少により1991年に廃止された。
現在、旧片上鉄道吉ケ原駅駅舎と線路を含めた駅構内一帯が柵原ふれあい鉱山公園として整備保存されている。駅舎の多くはとんがり屋根の山小屋風の建物であった。
 
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旧片上鉄道吉ケ原駅駅舎。駅構内には片上鉄道のディーゼルカー・ディーゼル機関車・客車・貨車計
11両が展示され、客車の中に入ることができる。
 
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柵原鉱山資料館へ向かう。
 
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旧片上鉄道吉ケ原駅駅舎。車両は毎月第
1日曜日には動態展示され、試乗もできる。鉱山資料館へ向かう。
 
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鉄鉱石輸送貨車と貨車兼車掌車(ワフ
102)。鉄鉱石の積み込み風景が再現されている。柵原鉱山資料館横。
 
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柵原鉱山資料館。展示。旧片上鉄道のタブレット式閉塞器。資料館では、昭和
30年代の柵原鉱山の様子や坑夫の生活を紹介するとともに、実物大の坑道と地下400mでの採掘作業を再現し、採掘から輸送までの工程を紹介している。
 
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柵原鉱山跡。ふれあい公園の北西
500mから鉱山跡を眺める。柵原鉱山は東洋一の硫化鉄鉱の産地として知られた。硫化鉄鉱には硫黄が52%と鉄が45%含まれており、大正時代以降は化学肥料(硫安)や化学繊維製造に必要な硫酸の原料として採鉱された。191530年は藤田組(のちの同和鉱業)が採掘権を買収していた。石油精製時に硫黄が得られるようになったことなどで、1991年に閉山した。
かつてのシンボルであった竪坑の巻き揚げ機の大きな櫓は取り壊され、面影は少ない。旧坑道の一部は農業生産に利用されているという。鉱山跡入口には、同和鉱業系の会社の工場などが現在も稼働しているようだった。
 
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月の輪郷土館美咲町。月の輪古墳の出土品が展示されている。柵原鉱山資料館で郷土館を見学したいというと、受付の女性が電話してくれたが、地元の鍵の管理者と連絡がとれなかった。
とりあえず、郷土館に着いて、記載の連絡先に電話したが、やはり不通であった。1週間以前に日時を依頼する方式だと、見学する機会は逸してしまう。
旧飯岡小学校付近で月の輪古墳への道案内を見つけたので、徒歩で歩きかけたのち、車で月の輪古墳へ向かった。
 
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月の輪古墳。入口。林道は整備されているが、麓からは結構遠い。発掘調査作業時の苦労が偲ばれた。ここから100mほどに墳丘登り口がある。
 
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月の輪古墳。県史跡。
5世紀前半に築造された大型の円墳で、墳丘の直径約60m、墳頂平坦部の直径約17m、墳丘の中腹に幅約1mの段をめぐらしている。
 
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月の輪古墳。墳丘斜面には角礫の葺石が葺かれている。
 
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月の輪古墳。墳頂に設けられた角礫による方形区画の中には、楯・兜・甲・家型などの埴輪が配置され、墳頂下約
1.5mには木棺粘土槨が2基埋められていた。中央の棺からは勾玉の首飾り・鏡、短甲・刀・鉄鏃などが、南側の棺からは首飾り・石釧・漆塗りの竹製櫛・鉄製縫い針などの副葬品が出土した。
 
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月の輪古墳。墳頂から東の吉野川(吉井川支流)方面を眺める。
北側の造り出しからは舟形土製品が出土し、古代の吉井川における河川交通輸送と被葬者の関係が考えられる。また。麓の集落からは古墳時代の鉄製品の鍛冶場が発見されている。
昭和28年から、岡山大学の近藤義郎など研究者の指導のもと、地域住民・教師・生徒が協力して発掘調査にあたった様子は「地域考古学の原点・月の輪古墳 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)」新泉社で読んだ。三笠宮崇仁が発掘現場を視察する場面が面白かった。終戦直後の民主化教育の熱意は今はない。
このあと、国道を戻り、和気町の天神山城跡へ向かった。

岡山県和気町 浦上宗景の居城・天神山城跡、赤磐市 ピラミッドに似た熊山遺跡

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天神山城跡。岡山県和気町。平成
26513日(火)。岡山県美咲町の月の輪古墳見学を終え、国道を南へ戻って、和気町北部の吉井川左岸にそびえる天神山城跡へ向かった。
天神山城は、備前の戦国大名浦上宗景の居城であった。三石城を本拠とした浦上氏は浦上村宗のとき、主君赤松義村を幽閉暗殺して実権を握り,細川高国を擁して上洛し覇権を掌握しようとしたが,義村の子政村(のちの晴政)が三好元長に内応したことにより摂津大物で敗死した。
浦上宗景は浦上村宗の次男で、父の死後、侵攻した尼子晴久と結んだ播磨室津城主の兄政宗と対立し、本拠を和気郡天神山に移して、備前・美作を支配した。天文~元亀年間(153273)には尼子氏次いで毛利氏と美作・備中を舞台に覇を競った。その間,備前西半を中心に重臣宇喜多直家の勢力が伸張するに及び,1573(天正1)足利義昭追放後の織田信長に款を通じ,播備作3国安堵の朱印を得た。その結果,宇喜多氏の離反を招き,翌年毛利氏と結んだ宇喜多直家と対立,天正31575)年天神山城を攻略され,没落した。
宗景の子の与次郎は直家の娘婿であったが、直家に毒殺されたという。
 
天神山城跡への登城道は川岸からもあるが、比高300mもあるので、比高差の小さい南東高台の和気美しい森からの登城道を選択、和気鵜飼谷温泉方面から北上し、1440分頃に美しい森ビジターセンターの広大な駐車場に到着した。道標に従い、建物群の間を通り抜けると、根小屋跡を通り、ほとんど高低差もなく堀切や郭や本丸跡などのある太鼓丸城(前期天神山城)の城域に達する。
 
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天神山城跡。太鼓丸城(前期天神山城)。軍用石。尾根道には巨岩の重なりがあり、軍用石の表示がある個所が
2か所ほど連続する。
 
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天神山城跡。太鼓丸城(前期天神山城)。太鼓の丸。虎口。太鼓丸城は、元は室町時代以前に日笠氏が築いた出城であったが、享禄
41531)年に浦上宗景が天神山城に移ったとき、最初に整備した城で、天文21533)年に、北西に天神山城を本格的に築いたあとは、東の砦程度の扱いとなった。連槨式の山城であるが、太鼓の丸や郭のあたりは、標高405m前後で、北西の天神山城本丸の標高は337mと、こちらの方が高い。
虎口の周囲には高さ2m、延長20mほどの石塁が廻っている。
 
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天神山城跡。太鼓丸城(前期天神山城)。太鼓の丸。太鼓丸城の東端にある。時々太鼓を打った所といわれ、狼煙台としても使われたようだ。
ここから、標高310mの鞍部までの急降下となる。
 
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天神山城跡。太鼓丸城(前期天神山城)。上の石門。帰りの登りを予想しながら、痩せ尾根の石混じりの道を下っていく。
 
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天神山城跡。太鼓丸城(前期天神山城)。亀の甲。ここから鞍部までは近い。
鞍部から天神山城の城域へ入る。
 
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天神山城跡。南の段と馬屋の段の間にある南櫓台。はっきりとわかる造成地。
 
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天神山城跡。馬屋の段
 
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天神山城跡。本丸跡。標高
337m
 
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天神山城跡。本丸跡。北方向への眺望。
 
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天神山城跡。本丸跡。東側には天神社の祠がある。
 
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天神山城跡。二の丸跡と長屋の段
 
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天神山城跡。桜の馬場。城内で最大の曲輪。北側には大手門があり、西端には鍛冶場があった。
 
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天神山城跡。桜の馬場
 
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天神山城跡。鍛冶場跡。城の拡幅工事に必要な器具の製造・修理、武具・武器に確保のため鍛冶職人を常に置いていた。
 
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天神山城跡。三の丸跡
 
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天神山城跡。三の丸跡西端の東屋
 
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天神山城跡。三の丸跡西端から眺める吉井川。この地を選定したのは吉井川の舟運と、北方の尼子氏への対応のためという理由があったようだ。
ここから、往路を帰る。戦国大名浦上宗景にふさわしい大規模な山城であった。
1615分頃駐車場に帰った。管理棟には人の気配がなかった。
帰路の登り返しで大汗をかいたので、和気鵜飼谷温泉に立ち寄り入浴した。登山帰り風の熟年団体がいた。
日程を考慮して、赤磐市奥吉原の熊山遺跡を見学することにした。
 
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熊山遺跡。赤磐市奥吉原。国史跡。ピラミッドを思わせる特殊な三段方形の石積遺構で、岩盤上に基壇を築き、その上に三段の石積を構築している。古来より信仰の対象となっていた熊山(標高
508m)の山頂付近にある。
吉井川を南に渡り、JR熊山駅付近から林道に入った。狭い舗装道だったが、17時過ぎだったので、通行車両は少なく助かった。山上の駐車場に着き、熊山神社には寄らず、遺跡へまっすぐ向かい、1750分頃に遺跡に着いた。
 
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熊山遺跡。流紋岩を正方形に組み上げており、全高は約
3.5メートル、各辺の長さは基底部が約12m、下段が約7.7m、中段は約5.2m、上段は約3.5mである。
 
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熊山遺跡。二段目には四方に龕がみられ、三段目の頂部中央には方形の竪穴が設けられている。方形竪穴の中には、陶製筒形容器と奈良三彩小壺が納められていた。
出土した陶製筒形容器や奈良三彩小壺、仏龕の存在等から、頭塔や土塔と同様に奈良時代の仏塔と考えられている。
遺跡一帯の山塊には、33ヵ所に及ぶ石積遺構が確認されている。
南側100mほどにある展望台へ。
 
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熊山展望台からの展望。南西方向。吉井川、児島湾と金甲山。
 
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熊山展望台からの展望。南東方向。小豆島。
18時頃、駐車場を出て、道の駅「黒井山」へ向かった。

岡山県備前市 伊部 伊部南大窯跡、天保窯跡、天津神社、備前市歴史民俗資料館

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伊部南大窯跡。備前市伊部。国史跡。平成
26514日(水)。本日は備前市伊部地区、瀬戸内市邑久町の長島愛生園、竹久夢二の生家、長船町の備前長船刀剣博物館、福岡の市跡を見学した。
伊部は「六古窯」の一つ、備前焼の代表的な産地である。平安時代に熊山の麓で生活用器の碗・皿・盤や瓦などを生産したのが始まりとされ、12世紀頃からは伊部地区を拠点として、須恵器から発展した備前焼の本格的生産が始まり、現在のような赤褐色に焼き締めたものになったのが鎌倉時代後半からで、品質の良さから室町時代には西日本一帯に備前焼のかめ・壺・すり鉢が流通した。
南大窯跡は伊部駅南側の榧原山麓の丘陵斜面にあり、室町時代後期から江戸時代中期に築造された共同窯で、3基の窯(東側窯跡、中央窯跡、西側窯跡)と巨大な物原からなる。
道の駅「黒井山」を出て、伊部駅南東のコンビニでネットを1時間ほどしてから、南大窯跡へ向かった。伊部駅南口にも近辺にも案内標識はなく、橋を渡って、ようやく窯跡に着いた。
 
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伊部南大窯跡。東側窯跡は全長
53.8m、全幅35m、傾斜角度17度の半地下式の登り窯で単房の窯としては国内で最大規模とされる。
床面を若干掘り下げた上に天井を架けて、トンネル状にした穴窯と呼ばれる構造で天井を支えるため土柱が設けられていた。この窯では、一回の焼成で、製品約35千個を35日ほどかけて焼いていた。製品は壷、瓶、擂鉢などの日常雑器類が主であった。
国道2号線へ行き、備前陶芸美術館の東に駐車。美術館は高いので、パスし、伊部駅や備前焼伝統産業会館へ行き、パンフレットなどを収集、産業会館で備前焼の作品を見た。その後、2号線北側に渡り、伊部の町並みを散策し、天津神社や窯跡などを見学。備前焼骨董店の店先には藤原啓の作品も並んでいるので、美術鑑賞もできる。
 
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備前焼の窯元。薪の並べ方が芸術的。
 
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備前焼の窯元。現在も稼働している窯元の窯の姿が美しい。
 
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天保窯跡。備前市指定文化財。江戸時代後期まで、南・北・西の三大窯で多量生産していた備前焼も、需要の減少や燃料の問題で頻繁に焼成できなくなった。それを補完するために、規模を縮小した
3基の小窯を築き、徳利・壺・灯明皿・すり鉢など小型の製品が生産された。
天保窯はそのうちの一つで天保31832)年頃に築窯され、昭和15年頃まで焼き継がれた。全長175m、幅6m、高さ2.5mの連房式の登窯であった。
 
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天保窯跡。構造はそれまでの窖窯(あながま)形式のものより燃焼効率がよく、大窯の四分の一程度の十数日で焼き上げられ、経費節減や品物の回転を早めることができた。
焼成室は多いときには8室あったといわれている。
 
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天津神社。応永
181411)年以前の創建で、天正71579)年にこの地に移ったとされる神社。楼門の壁には備前焼の陶板が嵌め込まれている。
 
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天津神社。拝殿に至る石段の横の壁にも備前焼作家のサインを刻んだ陶板がびっしりと嵌め込まれている。
 
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伊部北大窯跡。国史跡。天津神社裏手の不老山の南斜面にある。
3基の窯跡と物原が確認されている。北側の1基は全長約33m、幅45mの窯で、室町時代中期の「応永の大窯」とする説もある。
遊歩道はさらに、忌部神社まで登って行き、展望所に至る。
 
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伊部の町並み。忌部神社の東にある展望所から眺める。南方向の正面には麓に伊部南大窯跡の残る山がそびえている。
町並みの見学を12時前に終え、2号線の駐車場へ戻り、西へ走ってガソリンを給油したのち、東へ戻って、備前片上駅の南にある備前市歴史民俗資料館へ向かった。
 
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備前市歴史民俗資料館。展示。「金備前・銀備前」。金青といい、青備前の一種。匣鉢(さや)に入れて強力還元すると黄金の焼成を見る。
備前焼は釉薬を掛けずに焼成するのが基本で、土そのものの魅力が生かされているのが特徴である。作品に掛けた藁が燃えて模様になった「緋襷」や、還元焼成による「窯変」などの技法がある。
歴史民俗資料館は入場無料のうえに、各種パンフレットが豊富に入手できた。
 
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備前市歴史民俗資料館。展示。「牡丹餅」。焼成時に他の器物が覆ってできたもので、焔がじかに当たらないところに緋色が生じる。皿等に粘土(ボタ)を丸くして置いて焼くことから牡丹餅という。
 
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備前市歴史民俗資料館。展示。三石城二の丸跡出土品。備前焼片。
 
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備前市歴史民俗資料館。展示。三石城二の丸跡出土品。古銭。小皿。
このほか、登り窯の断面模型、三石の耐火煉瓦関係資料、備前市出身の作家である正宗白鳥、柴田錬三郎のコーナーもあった。
このあと、藤原啓記念館へ。
 
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藤原啓記念館。人間国宝であった故藤原啓の作品などを展示する美術館。有名作家の窯元らしい建物が並んでいた。
 
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藤原啓記念館。片上湾を見下ろす高台にある。
入館料金は高いし、20年ほど前の「日曜美術館」で藤原啓の人生や作品を見ているので見学せず。
14時に長島愛生園歴史館の見学を予約しており、時間の余裕もなくなったので、長島へ向かった。

岡山県瀬戸内市 ハンセン病施設・長島愛生園 竹久夢二の生家 備前長船刀剣博物館 黒田氏ゆかりの備前福岡 

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長島愛生園歴史館。岡山県瀬戸内市。平成
26514日(水)。備前市伊部地区の見学を終え、瀬戸内市邑久町の長島愛生園歴史館へ向かった。
長島愛生園は、日本で最初の国立のハンセン病()療養所で、昭和5年に竣工した。当初の収容定員は400人で翌31年多磨全生園から転園した85人を収容したのがはじめである。36年,劣悪な待遇に耐えきれず逃亡をはかった患者を監禁したことに端を発して,患者が待遇改善や患者自治の確立などを要求した長島事件が起きているが,愛生園のあゆみは日本の癩病対策の歴史を凝集したものともいわれる。昭和20年頃特効薬ができ、やがて完全に治癒させることができるようになったが、隔離政策は平成8年の「らい予防法」廃止まで続いた。平成13年の「ハンセン病違憲国家賠償請求訴訟」でハンセン病に対する理解は向上した。
歴史館の見学はHPによると、予約制なので、1週間前に電話で予約した。個人なので申込書は不要と言われた。一応、14時に来園しますと約束したので、時間に間に合うようにした。長島は船でしか渡れなかったが、昭和63年に邑久長島大橋が開通して、陸続きになった。道路にはゲートや警備所などが残り、隔離地域の痕跡を感じながら、歴史館裏に駐車した。
 
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長島愛生園歴史館。昭和
5年、開園に先駆けて竣工した事務本館は長島愛生園の事務所として平成8年まで使用された。園内は昭和30年代半ばまで、職員と患者の居住地区は厳しく分けられており、入所者は職員地区に建てられた事務本館に立ち入ることはできなかった。また、この場所は長く日本のハンセン病政策を指揮していた場所であり、情報発信基地でもあった。平成15年、事務本館は内部を改修し、長島愛生園歴史館として生まれ変わった。
 
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長島愛生園歴史館。窓と蔦の風景。展示は豊富で、患者の証言映像コーナーもあるので、時間を要した。関東の医科大学の学生
30人ほどが見学しており、学芸員の解説を横で聞くことができた。彼らは別棟で患者からの話を聞くために30分余りで移動していった。
島の施設のジオラマでは、患者地区と職員地区が分離されている状況が具体的に分かる。TV番組の「知ってるつもり」だったと思うが、ハンセン病患者の実態が紹介されて、知ったのは1990年代の終わり頃と記憶している。厚生官僚の無為無策・不作為による犯罪はエイズ・緑十字事件と共通している。
 
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長島愛生園歴史館。玄関から海を眺める。特別展「医師
神谷美恵子が見た世界~長島愛生園の人々とのふれあい~」のコーナーがあった。美智子皇后の先生であり、ベストセラー・ロングセラーの著書であるとは知っていたが、具体的な生涯は知らなかったので、参考になった。
神谷美恵子は昭和33年から14年間、長島愛生園で精神科医として勤務し、精神疾患の診療を行いつつ、悩みを持つ多くの入所者に静かに寄り添い、自らの思索を深め、その中から名著「生きがいについて」「人間をみつめて」等がうまれた。
神谷美恵子は、内務官僚出身の政治家前田多門の娘で、その才媛ぶりには驚嘆させられる。隔離政策に反対しなかったとして批判されることもあるようだが、時代的背景から考えれば、精一杯のことをしたのではないか。長く長島愛生園の園長を務め、文化勲章まで得た光田健輔こそ、批判されるべきだ。光田らにより進められた断種・隔離政策に反対し学会から抹殺された小笠原登医師のことは、愛知県甚目寺出身なので、新聞記事などで目にすることがある。
 
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長島愛生園。歴史館の東方向。園内には隔離政策が実施されていた当時の収容所(回春寮)跡や収容者が上陸した専用の桟橋跡、また、園から逃亡を図った人を収監した監房跡が残っており、歴史回廊として見学することもできるが、
係員も時間もなかったので、見学しなかった。
 
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長島愛生園。歴史館の北方向。
以前見学したタスマニアの流刑地跡を思い出した。世界遺産に登録する動きがある。国家政策の誤りを反省する手掛かりとなれば良い。
1時間余り見学したのち、邑久町の竹久夢二の生家へ向かった。
 
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竹久夢二の生家。邑久町本庄。夢二郷土美術館分館。竹久夢二は明治
17年にこの地で生まれ、16歳まで過ごした。庭には田舟なるものも展示されていて、周辺が低湿地であったことを物語る。
茅葺の生家は代々酒造業を営んでいたせいか、当時としては裕福な家で内部も広い。別棟で夢二の絵画が展示されていた。
 
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少年山荘(山帰来荘)」。竹久夢二の生家近くには、大正
13年に夢二みずからが設計した、東京松原(現世田谷区)に建てたアトリエ兼住居が復元されている。
アトリエは天井が高く広い。内部は洒落た構成になっている。萌えの元祖的存在である竹久夢二は忘れられた存在に近くなっている。
雨が降り出す中、長船町の備前長船刀剣博物館へ向かった。
 
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備前長船刀剣博物館。備前長船鍛刀場。瀬戸内市長船町。備前は砂鉄の産地である中国山地や美作から吉井川の水運により豊富な原料が持ち込まれ、平安時代から多くの刀匠が居住した。吉井川左岸にある長船には鎌倉から室町時代にかけ多くの刀匠が居住して鍛冶屋千軒とよばれるほど繁栄したが、安土桃山時代に吉井川の氾濫により、大打撃を受けた。
1630分頃に入館し、刀剣の制作過程を紹介する映像コーナーや「今泉俊光刀匠記念館」を見学して、備前長船鍛刀場へ向かった。
 
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備前長船刀剣博物館。備前長船鍛刀場。
1300度の高熱と職人が打ち延ばす圧力で、玉鋼から不純物を取り除く鍛錬の工程を見学した。
閉館15分前だったが、見学できた。古代から百錬といわれ、中世には主要輸出産品であった日本刀の優秀なる所以を実感できた。
 
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備前長船刀剣博物館。備前長船刀剣工房。日本刀制作には様々な伝統工芸の技術がちりばめられている。金工・鍔の工房には猫が座っていた。
17時になり、福岡の市跡・妙興寺へ向かうが、邑久の市役所方面で捜し回って、地元の人におそれは長船の方だと教えられ、道を戻ったので、時間を無駄にした。
 
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福岡の市跡。備前福岡は山陽道と吉井川が交わる物資の集散地として、中世は備前一の商都として繁栄した。鎌倉時代の「一遍聖絵」にはその市の様子が描かれ、室町時代初めの武将今川了俊はその道中記に「家ども軒を並べて民のかまどにぎはいつつ」と記している。
吉井川の堤防沿いに「福岡の市跡の碑」が立っている。
近くに妙興寺がある。
 
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妙興寺。備前福岡。寺伝によると、応永
151350)年に播磨守護であった父赤松則興の菩提を弔うために子の日伝上人が当地に草庵を結んだのが始まりとされる。その後、備前や播磨の名流の武家の子が住持となった名刹である。
 
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妙興寺。宇喜多興家の墓。赤松氏の臣浦上氏に仕えていた直家の祖父能家が砥石城(邑久町)で島村氏に討たれたさい、落ち延びた興家・直家父子は福岡の豪商阿部氏のもとに身を寄せた。興家は当地で没し、その供養塔と伝えられるものが妙興寺境内に残っている。宇喜多直家はその後、浦上宗景に仕えたが、永禄
41561)年に宗景を和気天神山城に攻めて没落させ、岡山城を拠点として備前一帯を制圧する戦国大名となった。
 
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妙興寺。黒田家の墓所。黒田官兵衛の曽祖父高政は近江からこの地に移住し、その子重隆は福岡で育ち、姫路へ移住したと伝わる。官兵衛の子黒田長政が、慶長
5年に筑前52万石の大名として博多の西の地に築城したとき、その城下を黒田氏発祥の地備前福岡にちなんで「福岡」と名付けたとされる。墓所には曽祖父高政・祖父重隆のものが含まれているという。
宇喜多興家の墓に比べると、扱いは小さいが、司馬遼太郎「播磨灘物語」に取り上げられた物語なので、興趣は湧いてくる。
 
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備前福岡の町並み。白壁や格子戸が残る町並みには広い街道が通っている。
宇喜多直家・秀家により、岡山城の城下町が整備される過程で、福岡の商人の多くが岡山城下に移住したとされる。また天正時代の大洪水により荒廃したともいわれる。
18時になり、本日の見学を終え、道の駅「一本松」へ向かった。

岡山市東区 古代山城・大廻小廻山城跡 赤磐市 両宮山古墳・備前国分寺跡 岡山市北区 牟佐大塚古墳 

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大廻小廻山城跡。岡山市東区。国史跡。一の木戸跡入口。平成
26515日(木)。本日は、ほぼ雨の中、岡山市東区の大廻小廻山城跡(おおめぐりこめぐりさんじょうあと)、赤磐市の両宮山古墳、備前国分寺跡、山陽郷土資料館、岡山市北区の牟佐大塚古墳、北区御津金川の玉松城跡、御津郷土歴史資料館、東区の西大寺を見学した。
 大廻小廻山城跡は、岡山市東区草ヶ部にある古代朝鮮式の山城跡で、総社市にある鬼ノ城と同じく、築造はほぼ7世紀後半と推定されている。北東部瀬戸町と境を接する標高約200mの大廻山・小廻山に築造され、備前国分寺の南東部約2kmに位置し、山頂からは瀬戸内海を展望でき、古代山陽道に近い要所に築かれている。
城跡は、土塁築成の城壁が山頂部から谷部を取り囲んで山塊を約3.2㎞に亘って一周しており、城壁が谷を渡る3ヵ所には水門石垣が築かれ、一の木戸では通水施設をもつ石塁構造などが確認された。城門遺構や城内建築物などの遺構は見つかっていない。
 
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大廻小廻山城跡。岡山市東区。国史跡。一の木戸跡。岡山市東区瀬戸町観音寺にある瀬戸町郷土館に駐車して、南に歩くと一の木戸に至るということだったので、瀬戸町郷土館に行くと、駐車場がなく、道なりに上へ登ると、施設から若い職員が出てきて、何をしているというので諦めて、直接観音寺湯谷の集落にある入口まで進み、路肩に駐車した。標識に従い谷筋の小道を歩くと、右側に池があり、さらに数分登ると一の木戸跡が見えてきた。
 
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大廻小廻山城跡。一の木戸跡。城壁の土塁が廻る谷川部分に水門として築造されている。土塁は外側下部に列石を整然と積んで基礎を固め、その上を版築盛り土で覆っており、版築を含むと盛り土の幅
510m、高さ約2mであった。
列石の石材は、現地で採ることのできる砂質ホルンフェルスを中心としたものであるという。
 
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大廻小廻山城跡。一の木戸跡。一の木戸は、現状で高さ
2.4mを測り、石塁主軸に対して72度で斜交する通水施設を持っている。通水施設は、吸水口で高さ0.4m、幅1.0mを、排水口で高さ0.7m、幅0.7mの規模を測る。
 
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大廻小廻山城跡。一の木戸跡から
200mほど先の地点。ここから先は草で覆われて、ズボンの水濡れが激しくなることが予想されたので断念した。南側の車道から山の頂上台地にアクセスできるようだが、この方面には遺構は少ないようだ。
一の木戸跡以外にも、折れを伴った列石線、谷部分の二の木戸跡の石塁構造などが確認されている。また、土塁線の比高差は約110mで、89箇所の折部を伴うことも確認されている。
 
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大廻小廻山城跡。一の木戸跡手前の池から。中央の谷部に一の木戸跡があり、右が小廻山、左が大廻山。水が豊富な地帯のようだ。
見学施設としては、整備が進んでいなかった。北にほど近い両宮山古墳へ向かう。
 
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両宮山古墳。赤磐市穂崎。国史跡。中堤南西部から。岡山県内では5世紀前半に造られた造山古墳(岡山市新庄下:
350m)、作山古墳(総社市三須:283m)に次ぐ第3位の大きさの前方後円墳。築造は5世紀後半と推定され、周濠をもち、全長は206m。平成1416年の調査により、周濠の外側をめぐる新たな周濠が発見され、築造当初は2重の周濠をともなっていたことが明らかになった。2重の周濠までを含めると、古墳の総延長は主軸線上で349mにも及ぶ。
墳丘は前方部幅約120m、後円部径約100m、前方部、後円部ともに高さは約20m。内部主体部などは不明である。
墳丘の平面形は大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の5分の2の大きさに設計されており、両宮山古墳に埋葬された人物は大和政権の有力首長と強い結びつきをもっていたと推測される。
両宮山古墳の墳丘には、一部が埋没して水田化しているものの、水をたたえた周濠が巡っている。江戸時代以降、周濠は農業用のため池として改修・再利用されてきた。こうした景観を美しく残す古墳は、岡山県内ではこの古墳のみというが、築造当時から水濠であったかは不明のようだ。
赤磐市の観光案内所「稚媛の里」に駐車し、南西部から中堤へ登る。
 
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中堤南西部から南西の岡山市方向を眺める。「稚媛の里」前を通る県道は、ほぼ古代山陽道のルートを踏襲しているようだ。両宮山古墳のすぐ西には備前国分寺跡があり、両側に山が迫った隘路を抜けると、牟佐大塚古墳がある。
 
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両宮山古墳。中堤南東部から。墳丘は三段築成であり、前方部の南西側は保存状態が比較的よく、中段と下段のテラスが残っている。墳丘の両側のくびれ部には極めて高い造り出しがある。
 
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両宮山古墳。中堤東部中程から南西方向
 
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両宮山古墳。南の前方部には両宮(伊勢)神社が祀られている。民家の脇の狭い道をたどって墳丘に登る。
墳丘上の調査は実施されていないが、これまでに葺石も埴輪もみつかっていない。このことは古墳築造の最終作業が行われなかった可能性があり、両宮山古墳の謎となっている。何らかの原因で通常の埋葬が実施されなかったと推定されている。また、両宮山古墳が築造された以降は、この地域で同規模クラスの大形古墳が認められなくなり、吉備の政治的衰退と結び付けられて語られる。
被葬者を吉備上道臣田狭とする説がある。日本書紀によれば、稚媛の夫、吉備上道臣田狭は宮廷で自分の妻の稚媛が魅力的な女性であると自慢していた。これを聞いた雄略天皇は、田狭を「任那国司」に任じて国外に追いやり、稚媛を奪ってしまったという。
雄略天皇7(463)年に吉備上道臣田狭が、雄略天皇が崩御した同23年には、稚媛・星川皇子が、大和政権に対して反乱を起こしたとされる。しかし、いずれの反乱も鎮圧されてしまい、これらを機に吉備の政治的衰退が始まったとされ、田狭が任那に追いやられた時点で寿陵の築造が中断し、そのままになってしまったという可能性がある。
この地域が吉備上道氏、西の造山・作山古墳地域が吉備下道氏の勢力圏であったようだ。
 
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両宮山古墳。前方部と後円部の境にある造り出しの部分。
 
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和田茶臼山古墳。国史跡。両宮山古墳の北側には和田茶臼山古墳とよばれる陪塚がある。帆立貝式の前方後円墳で墳丘全長は
55m。二重の周濠を廻らしている。
両宮山古墳の西側にある備前国分寺跡へそのまま歩いて向かう。
 
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備前国分寺跡。国史跡。石造七重層塔は国分寺に建てられていた七重塔跡の心礎の上に鎌倉時代後期に建てられた。国分寺は天平
13741)年に建てられたとみられる。七重塔は寺域の南東部にあり、西には金堂や講堂が並んでいた。平安時代中頃には塔が失われ、平安時代末には講堂が焼失し、金堂も使われなくなった。講堂は建て直され、規模は縮小されながらも続いていたが、16世紀後半には廃絶したと推定されている。
南側には山陽新幹線の路脚が通っている。
県道を西の岡山市方向へ進み、牟佐大塚古墳へ向かう。
 
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牟佐大塚古墳。岡山市北区牟佐。国史跡。備中のこうもり塚古墳
(総社市)・箭田大塚古墳(倉敷市)と並んで,岡山県における三大巨石墳の一つ。牟佐は旭川が平野部へ流れ出る位置にあり、古代の山陽道が旭川を渡る地点で、水路と陸路が合流する交通の要衝の地といえる。
墳形は前方後円墳や方墳という見方もあるが、現況では径30mほどの円墳である。6世紀末の築造とされる。
古墳周辺は道が狭く、県道近くへ戻って路肩に駐車した。
 
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牟佐大塚古墳。石室全長
18.0m、玄室部の長さ6m、同幅2.8m、羨道の長さ12.0m、同幅1.82.4mである。両袖式である。
 
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牟佐大塚古墳。玄室部には長さ
2.9m、幅1.6mの家形石棺があり、石材は井原市白山で産出する貝殻石灰岩である。
本墳は、両宮山古墳などの遺跡が密集する山陽町の盆地と、旭川東岸の平野部との中間に位置しており、両地域を押さえる立地といえる。いずれも古代の有力豪族である上道氏の拠点であり、本墳も上道氏の古墳と考えられる。なお、吉備上道氏の本拠地は、旭川下流東岸の高島・竜操学区の地域とされる。
このあと、赤磐市の山陽郷土資料館へ向かった。 

岡山県赤磐市 赤磐市山陽郷土資料館 単龍環頭大刀 雁木玉 装飾付陶棺

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赤磐市山陽郷土資料館。展示。岩田
14号墳出土単龍環頭大刀。
平成26515日(木)。本日は岡山市東区の大廻小廻山城跡、赤磐市の両宮山古墳、備前国分寺跡、岡山市北区の牟佐大塚古墳を見学したあと、赤磐市山陽郷土資料館へ向かい、その後岡山市北区御津金川の玉松城(金川城)跡、御津郷土歴史資料館、東区の西大寺を見学した。
 
赤磐市山陽郷土資料館は入場無料。赤磐市役所敷地片隅のビル内1階にある。
岩田古墳群は、両宮山古墳東の岩田大池から北西の丘陵上に位置している。このうち14号墳は、直径30m、高さ約4mをはかる6世紀後半の円墳で、長さ11.8m、幅2.7m、高さ2.7mの横穴式石室を持つ。石室内には7基の木棺が納められ、副葬品は、須恵器・土師器・大刀・鉄鏃・馬具・耳輪・玉類と質量ともに豊かであった。
                                                        
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赤磐市山陽郷土資料館。展示。岩田
14号墳出土単龍環頭大刀の説明図。環頭大刀の柄頭は百済武寧王(523年没)陵出土の柄頭と類似した単竜の装飾を持っていた。
 
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赤磐市山陽郷土資料館。展示。雁木玉(がんぎだま)。岩田
14号墳出土。
胴径11.0㎜、高さ8.1㎜、孔径4.3㎜。白・緑・黄・緑・黄・赤・黄・緑色を一単位として3回繰り返し、計24条の斜めにねじられた文様をもっている。材質はガラス製だが透明度は低い。
国産ではなく、地中海東岸の西アジアから中国を経て日本にもたらされたとされる。
 
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赤磐市山陽郷土資料館。展示。岩田
14号墳出土雁木玉。説明図。
現在同タイプの雁木玉は日本国内で、岐阜・愛知・福岡・宮崎の計5か所の古墳から出土している。岐阜県・福岡県の古墳からは2個ずつ出土しており、2個で対になっていた可能性がある。
なお、奈良県橿原市の新沢千塚126号墳出土の雁木玉は重文に指定されている。
 
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赤磐市山陽郷土資料館。展示。装飾付陶棺。
7世紀中頃。吉井町小枝2号墳出土。土師質の家形切妻式陶棺。身部172㎝、棺全高8890㎝、身部最大幅52㎝、蓋部最大幅62㎝。身・蓋とも中央部を切断して2分割している。片側に蓋妻部は中央を突帯で区画した左右に1個ずつの円盤状、棺身には蓮のつぼみを連想させる紐状のレリーフを配している。装飾付土師質陶棺は吉井川とその支流吉野川流域の古墳に類例が見られる。
 
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赤磐市山陽郷土資料館。展示。装飾付陶棺。古墳時代後期。岩田
8号墳出土。
 
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赤磐市山陽郷土資料館。展示。特殊器台。特殊壺。弥生時代後期。是里塚風呂遺跡出土。
 
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赤磐市山陽郷土資料館。展示。鉄鉱石。磁鉄鉱。古墳時代後期。赤磐市奧吉原。猿喰池製鉄遺跡出土。熱を加え徐々に小さく割ってから使用した。 遺跡は猿喰池北岸の斜面にあり、周辺は鉄滓や鉄屑が多く散らばっていた。調査では古墳時代後期のうち、時期が異なる5基の製鉄炉を発見した。
 
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赤磐市山陽郷土資料館。展示。銅印。
10世紀。備前国分寺、僧房跡出土。31×31×30㎜。鶏頭紐をもち、印篆で「常」と読める。
このあと、北西の岡山市北区御津金川に向かった。金川に着いたときに、山陽郷土資料館に傘を忘れたことに気づき、ガソリン代の方が安く、雨も止みかけだったので、資料館に戻ると、運良く傘が残っていた。同じ道を金川に向かった。 

岡山市北区 備前松田氏の居城・玉松城(金川城)跡 不受不施派・妙覚寺 東区 西大寺

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七曲神社。岡山市北区御津金川。平成
26515日(木)。本日は岡山市東区の大廻小廻山城跡、赤磐市の両宮山古墳、備前国分寺跡、岡山市北区の牟佐大塚古墳、赤磐市山陽郷土資料館を見学したあと、岡山市北区御津金川の玉松城(金川城)跡、御津郷土歴史資料館、東区の西大寺を見学した。
七曲神社の背後の山域が標高225mの臥龍山で、戦国時代に備前松田氏が玉松城(金川城)を築いて居城とした。七曲神社は松田氏が郷里相模国から氏神の七曲神社を勧請し、相模国の神奈川(金川)の地名をこの地に移したと伝えられる。社殿は高台にある。
江戸時代、金川には岡山藩の家老で16千石を知行した日置氏の金川陣屋が置かれた。
 
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玉松城命名五百年記念碑。七曲神社の境内に、玉松城命名
500年を記念した碑が建っている。
實隆公記の永正6(1509)年閏827日の条に「泰首座今日下向備中云々 松田城名事先日所望之間麗水 玉松 二書遣之了」とある。内大臣三條西實隆は当時を代表する文化人で、応仁の乱頃から63年間にわたる日記「實隆公記」は、この時代の根本史料と評価されている。
備前松田氏中興の祖・第8代金川城主元成のあとを継いだ元勝は、西備前の武備と経営と、日蓮宗の広宣につとめた。左近将監に任じられ、奥方は、三條右大臣實光公女と系譜に記されている。城名は麗水・玉松のうち玉松が選ばれた。平成21年(20094月吉日に玉松会が建立した。
 
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妙覚寺。日蓮宗不受不施派本山。江戸時代末期から日蓮宗不受不施派の公認を訴えていた御津出身の名僧釈日正により明治
9年竜華教院として創建された。その後、玉松城跡の石垣を買収して境内を整備し、明治15年に派祖の日奥がいた京都妙覚寺にちなんで寺号を改めた。
不受不施とは信仰心のないものから布施は受けず、他宗には参詣・布施をしない法華宗の作法であった。法華信仰は玉松城主松田氏の庇護を受けて備前に広まった。文禄31594)年に京都方広寺での供養をめぐって、出仕を拒否した不受不施派と権力と妥協した受不施派に分裂し、妙覚寺の日奥は迫害追放された。寛文51665)年、幕府が不受不施派を禁教とすると、岡山藩は徹底的に弾圧し、転宗を拒んだ僧侶・信者は斬首・入牢・追放されたが、転宗を装った内信者や不受不施僧は信仰を守り続けた。
 
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岡山市御津郷土歴史資料館。妙覚寺の西にある。玉松城跡を眺める。登城口に近いので、入館して、資料や情報を入手した。登城の駐車スペースとしても利用できる。
 
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岡山市御津郷土歴史資料館。岩井山古墳群出土陶棺
12号墳からは土師質亀甲形陶棺、13号墳からは須恵質家形陶棺が出土した。古墳時代後期に使われた陶棺は岡山県と畿内で集中的に出土し、美作地方で全国の半分が出土している。
 
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玉松城(金川城)跡。登城口。妙覚寺の西側。
JR津山線のレール下を潜り、坂を上る。本丸跡まで約25分。
 
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玉松城跡。案内図。南と西に宇甘川、東に旭川が天然の濠となっていた。この二つの川を利用する水運の基地であり、備中高梁へ向かう松山往来の基点でもあり、水陸交通の要衝であった。江戸時代には日置氏の陣屋町として栄え、街道宿や高瀬舟の発着する川湊として賑わった。
 
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玉松城跡。道林寺丸跡付近の尾根から北西を眺める。宇甘川と北の山並み。
 
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玉松城跡。本丸跡。本丸跡は約
33aの平坦地で山頂の中央に位置している。
 
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玉松城跡。本丸跡の縄張り図。玉松城は岡山県内の山城のなかでも最大級の規模をもつ。本丸の南側にある二の丸跡は、城内でも一番広い平坦地で、杉の木井戸がある。本丸跡・二の丸跡の石垣は明治時代初期、妙覚寺の造営にあたり取り壊されて原型を留めていない。本丸跡の南西には三の丸跡には、松田氏が日蓮宗に凝り過ぎたため、滅亡のもとになった道林寺跡がある。
 
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玉松城跡。本丸跡。松田一族供養塔。玉松城の城主は西備前の雄松田氏であった。松田氏中興の祖といわれた元成は、備前守護代として勢力を広げた。播磨の赤松政則は松田氏を攻めて、文明
151483)年に福岡の合戦がおこった。元成は、初め富山城にいたが、赤松氏との関係悪化により、山間の金川に引いて本拠とした。元成は備後の管領山名政豊と結び、赤松・浦上連合軍と戦って福岡城(長船)を攻め落し、翌年浦上則国を破るが、吉井川の天王原(長船)で大敗し、敗死した。その後、元成の子元勝が跡を継ぎ、西備前で勢力を振るったが、永禄111568)年、4代後の元賢が宇喜多直家と家臣虎倉城主伊賀久隆に攻められて滅亡した。
松田氏滅亡後、宇喜多直家の弟春家が入城、同氏滅亡後は岡山藩家老日置氏が入城したが、元和の一国一城令により破却された。
 
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玉松城跡。天守の井戸。本丸跡から北へ下った場所にある。
 
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玉松城跡。天守の井戸。直径約
8m、深さ約10.5mと巨大である。これほどの井戸は見たことがない規模であった。
 
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玉松城跡。本丸跡下の虎口。二の丸跡との間にある。時間がないので、本丸跡に戻り、往路を下った。
今夜の宿も道の駅「一本松」を予定していたので、帰路途中にある岡山市東区の西大寺へ向かった。
 
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西大寺。本堂と観覧席
2月の第3土曜日に開催される会陽は有名だが、こんな席があるとは知らなかった。
 
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西大寺。牛王所殿。明治
13年再建の、拝殿・本殿・奥殿と分かれる神仏習合の鎮守堂。当殿は複合社殿と言われ、本殿には楼閣を乗せ、軒垂木部分では国内でも唯一の構造を持つなど、極めて珍しい社殿である。奥殿には一山の守護神で当殿の本尊牛玉所大権現が祀られ、本殿には白玉文殊菩薩と牛玉所大権現の前立てと共に、金毘羅大権現を合祀している。
この金毘羅大権現は、本来は讃岐の象頭山に金毘羅大権現のご本体として安置されていたものである。
新しく整備された奥殿にパワースポットがあるという看板に釣られて、本堂右奥に進むと、牛王所殿があった。金毘羅に行ってきたという女性の観光客がいて、金毘羅大権現がここにあると聞いたので来たと言っていた。
 
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西大寺。活力のクスノキ。パワースポットは有料だったので、近くにある楠に代わりに祈願した。
 
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西大寺。石門。文政
2(1819)年に完成したこの門は、会陽の裸群が身を清める、垢離とり場にかかる竜鐘楼のことである。下の構えが石で、上が木材を使う門として古建築史上、国内では数例しか確認されておらず、特にその中でも文化財的価値は最高位に位置づけられている。変わった建築物なので印象に残った。竜宮城のように見えた。
1730分を過ぎたので、道の駅「一本松」へ向かった。

岡山県瀬戸内市 日本のエーゲ海 牛窓の風景 牛窓海遊文化館 本蓮寺 しおまち唐琴通り 牛窓オリーブ園 

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牛窓海遊文化館。岡山県瀬戸内市。平成
26516日(金)。道の駅「一本松」から牛窓へ。瀬戸内海に面する牛窓はオリーブ栽培とからめて、日本のエーゲ海といわれる。古くは万葉の時代から風待ち・潮待ちの港として栄え、江戸時代には参勤交代の大名や朝鮮通信使が寄港している。
コンビニの無料WIFIでネットを見ていたので、牛窓海遊文化館へ着いたのは9時直前だった。
牛窓海遊文化館は明治20年に建てられた擬洋風の旧牛窓警察署本館を改造した施設。だんじり展示室と朝鮮通信使資料室の2室がある。
 
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牛窓海遊文化館。だんじり展示室。毎年
10月下旬の牛窓神社の祭礼で引き回されるだんじりが展示されている。江戸時代末期から明治時代初めにかけ邑久大工の棟梁田淵氏らが制作した豪華なだんじりは牛窓の繁栄ぶりを物語る。
10分ほどの祭礼の様子を描いた映像を見た。
 
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牛窓海遊文化館。朝鮮通信使資料室。「松雲大師」が紹介されていた。惟政(いせい、ユ・ジョン、
1544 - 1610年)は、李氏朝鮮(朝鮮王朝)の僧で、居所にちなみ「四溟堂」とも号する。文禄・慶長の役で、義僧兵の総指揮官として日本軍と果敢に戦い、また加藤清正と会談して講和交渉を行うなど外交面でも大きな役割を果たした。慶長101605)年に京都伏見城で徳川家康と会談し、家康が朝鮮侵略の意図がないことを確認し、朝鮮通信使が派遣されることのきっかけとなった。
車を海遊文化館に駐車して、町並み散歩を開始。まず、裏手の本蓮寺へ。
 
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本蓮寺。国史跡。石段を登って山門に至る。本蓮寺は法華宗の寺で、南北朝時代の正平
21347)年に京都妙顕寺の座主であった大覚大僧正が法華堂(本堂)を建立したことに始まるという。
朝鮮通信使は8回牛窓に宿泊し、そのうち4回をこの寺で宿泊したことにより、境内全域が史跡に指定されている。
 
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本蓮寺。客殿。山門の向かいに客殿があり、さらに東の石段を登って本堂へ至る。
朝鮮通信使が宿泊し岡山藩の饗応を受けたのは客殿で、小堀遠州作といわれる庭園があるが、拝観は事前予約制になっている、
 
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本蓮寺。本堂。重文。室町時代の明応元年(
1492年)に再建された。方5間の寄棟造。
 
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本蓮寺。番神堂。重文。法華経を守護する三十番神を祀る。室町時代後期の建築で、東祠・中祠・西祠の
3棟が並ぶ。全国でも三ヶ寺しか指定されていない重文の一つである。
 
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本蓮寺。三重塔。県文化。元禄
31690)年の建築。規模は3間四面、高さ16m。塔の向こうには瀬戸内海が広がっている。
ここから下へは降りられないので、山門へ戻って町並みを西から東へ向かって歩いた。
 
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牛窓の町並み。「映画「カンゾー先生」牛窓ロケ地
1997年夏 今村昌平監督」の小さな記念碑が左下に見える。
江戸時代から昭和30年代ごろの面影を残す約800mの通りは「しおまち唐琴通り」とよばれている。
 
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牛窓の町並み。かつての造り酒屋の蔵が牛窓の繁栄を物語る。
 
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牛窓の町並み。街角ミュゼ牛窓文化館。旧中国銀行牛窓支店。大正
4年に牛窓銀行本店として建てられたもので、外観はドイツ製レンガを小口積みにした洋風の銀行建築。内部ではミニ展示会場となっており、観光案内所ともなっている。
 
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牛窓の町並み。牛玉宝印。ほとんどの住家の軒先に牛玉宝印が貼られていることに気が付いた。これは金剛頂寺
真光院の牛玉宝印だが、いずれも本蓮寺など牛窓の諸寺院の牛玉宝印が貼られているようだ。
 
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牛窓の町並み。ともづな石と五香宮への石段。ともづな石は神功皇后ゆかりの史跡のひとつで、皇后がこの地の住吉明神に
お参りをしたとき、船をつないだと伝えられている。五香宮はもとは住吉宮と称したが、のちに京都伏見の御香宮を勧請し、改称したという。社宝の大鎧は中世のものだが、神功皇后が着用したと伝える。
 
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牛窓・五香宮からの風景。灯籠堂と前島。燈籠堂は備前藩が瀬戸内海を航行する公・私船舶の夜間通行の標識として延宝年間(
167381)に岡山藩主池田綱政により建設された。明治維新後に取り壊され、4か所造られたうち、牛窓と大多府島に残る。昭和63年に現在の灯籠堂が復元された。
灯篭堂から西の区画には岡山藩の湊番所、足軽屋敷、御茶屋が建てられていた。
 
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牛窓・五香宮からの風景。東方向。東町・牛窓海水浴場方面。
 
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牛窓・五香宮からの風景。西方向。「しおまち唐琴通り」の町並み。
猫が多かった。実は11時に宝伝港から犬島への定期船に乗る予定だった。この時点で1010分だったので、牛窓オリーブ園に行こうかと迷ったが、行くことにした。
海遊文化館へ戻り、山の上にあるオリーブ園へ急いだ。中腹にある第一駐車場に1020分過ぎに到着。坂道の遊歩道を登り、さらに展望台に階段を駆け上がり、1028分にオリーブショップ5階の展望スペースに着いた。
 
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牛窓オリーブ園・展望台からの風景。東方向。山頂広場とバスの駐車場。
 
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牛窓オリーブ園・展望台からの風景。南方向。牛窓の町並み、前島、小豆島。
 
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牛窓オリーブ園・展望台からの風景。南西方向。牛窓の町並み、前島、黒島。背後に小豆島と豊島。
 
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牛窓オリーブ園・展望台からの風景。牛窓の西市街、前島、黒島。背後に小豆島と豊島。
1035分頃にオリーブ園駐車場を出て、海沿いの山間部を走って、宝伝港の駐車場に1050分頃着くことができた。

岡山市 犬島 ベネッセ・アートミュージアム 犬島精錬所美術館 家プロジェクト 定紋石 

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ベネッセのアートミュージアムのある犬島行き定期船が出航する宝伝港。岡山市東区。平成
26516日(金)。牛窓の町並み見学を終え、さらに1035分頃に牛窓オリーブ園駐車場を出て、11時に犬島行き定期船が出航する宝伝港へ海沿いや山間部を縫って走り、宝伝港の駐車場状況はどうかなと考えているうちに1050分頃、港に近づくと駐車場の表示があり、無料で置く場所を捜す余裕もないので、そのまま車を停めた。駐車料500円を支払うと、おばさんはまだ時間がありますよ、と安心させた。宝伝老人クラブ名義の領収証を貰った。
港までは3分ほど。乗船券売場はなく、車掌カバンを持ったおばさんから購入する。船賃は片道300円。運航時間は10分と短い。
 
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宝伝港
10人ほど乗船して、11時に出港した。
 
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犬島港
10分ほどで到着。背景は宝伝港付近。すぐ横にチケットセンターがあり、犬島精錬所美術館と犬島「家プロジェクト」のチケットを購入。2060円と高い。欧米人夫婦も来島していたが、欧米並みの国際価格。直島と同じく福武財団・ベネッセグループ。強気の価格設定。
犬島は宝伝の沖約3kmにある岡山市唯一の有人島。古くから花崗岩の産地として知られ、鎌倉八幡宮の大鳥居、岡山城、大阪城、江戸城などにも犬島産の石が使われている。明治30年代の大阪港築港のための採石業と40年代の銅の精錬業などで隆盛を極めた時代があり、最盛期は5,000人から6,000人あまりが生活していた。昭和44年には岡山市と合併、その後は企業撤退、住民の減少や高齢化により小・中学校ともに平成3年には廃校となった。銅精錬所跡や採石場跡が当時をしのばせ、独特の雰囲気を持ったユニークな島であるため、テレビドラマ「西部警察」や映画「瀬戸内少年野球団」「カンゾー先生」「鉄人28号」のロケに使われたこともある。
面積0.54㎢、周囲3.6km、標高36m、人口54人。平成20427日に、財団法人直島福武美術館財団による犬島アートプロジェクト「精錬所」が開館した。
 
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犬島精錬所美術館。入口。チケットセンターから徒歩
5分ほどで着いた。銅精錬所跡は近代化産業遺産に選定されている。
入口のドアにガイドが待機していて、随所でガイドの説明がある。内部は撮影禁止。現代美術にはそれほど興味はないが、鑑賞していないわけではない。インスタレーションが全般的に主流になっていると感じる。鏡を使ったトリックアートにより火が燃えるイメージを覚えている。作品は大規模とはいえず、10分ほどで、三島由紀夫を題材とした作品スペースを最後に終わる。何故、三島由紀夫かが分からない。
 
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犬島精錬所美術館。展示室を出て、美術館の屋上から銅精錬所跡を散策する遊歩道が造られている。三島由紀夫の住んでいた家の部材を使用したスペースの上に来た。
 
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犬島精錬所美術館。このスペースはガラス張なので、内部が見える。三島由紀夫が使っていた巨大な旅行鞄が宝物のように置いてある。
 
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犬島精錬所美術館。美術館の屋上から。左上にチケットセンターの建物と宝伝港方面が見える。
 
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犬島精錬所美術館。美術館の屋上から。反対側の丘には発電所跡の煙突が残る。
犬島製錬所は、煙害対策や原料輸送の利便性から1909年に地元資本によって建設されたが、銅価格の大暴落によってわずか10年で操業を終えた。
 
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犬島精錬所美術館。美術館の屋上から。丘には発電所跡の煙突が残る。
 
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犬島精錬所美術館。美術館の上から。美術館上の煙突。
 
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犬島精錬所美術館。丘には発電所跡と煙突が残る。
 
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犬島精錬所美術館。発電所跡と煙突。
 
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犬島精錬所美術館。銅の製錬過程で発生する鉱滓から造られたカラミ煉瓦。工場などに使用された。
 
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犬島精錬所美術館。一周して海岸沿いの遊歩道を歩く。
犬島「家プロジェクト」の建物群に向かう。
 
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石職人の家跡。「太古の声を聴くように、昨日の声を聴く」浅井裕介。2013年。
 
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S邸。「コンタクトレンズ」。荒神明香。
2013年。透明アクリルの壁に焦点が異なる無数の円形レンズ。
 
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A邸。「リフレクトゥ」。荒神明香。
2013年。アクリルの壁に多彩な色の造花の花びら。
 
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定紋石(じょうもんいし)への入口。神社、廃屋、石柱、鐘突き柱などが残る場所から、山道を
2分ほど進むと定紋石に着く。
 
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定紋石。大阪城修築時の残石といわれている石に彫られた左巻き三つ巴の紋。佐賀の鍋島氏のものとされる。昭和
25年、島民によって発見された。ベネッセとは無関係のものにホットする。
 
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C邸。「
The Master and Slave:Inujima Monogatari」。ジュン・グエン=ハツシバ。2013年。かつてこの場所にあった築200年以上の建物に使用された松材を使用したギャラリー。内部では映像作品を公開。島の石切り場で男二人がピッチャーとバッターとなって石をバットに当てる光景が繰り返される。採石業が盛んであった島へのオマージュを描く。アート的には面白い。
 
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I邸。「プレーンミラー」「リバース」。小牟田悠介。
2014年。
前庭の草花が美しい。
 
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犬島の入江とボート
 
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犬島。港近く。石切りの残照が濃厚な地帯。
 
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犬島港近く。商店が並ぶ。岸壁の浪の下に浮かび上がる雁木風の石畳列は興趣がある。
 
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犬島港周辺の風景
1320分発の船で宝伝港へ戻る。左からチケットセンター・シーサイドギャラリー、銅精錬所跡の煙突が立ち並ぶ。
 
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犬島。高い山はなく、扁平な島影。
1330分に宝伝港へ着いて岡山市内へ向かい、八角園舎、岡山県立博物館、岡山大学、備前国庁跡などを見学した。

岡山市 旧旭東幼稚園園舎(八角園舎) 旧陸軍第十七師団の遺構 旧岡山偕行社 旧陸軍第17師団・歩兵第33旅団司令部庁舎 備前国庁跡 

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旧旭東幼稚園園舎(八角園舎)。重文。岡山市北区二日市町
平成26年5月16日(金)。
犬島見学を終え、13時30分過ぎに岡山市内方面へ向かった。重文の八角園舎は岡山市立中央図書館の敷地内にあるので、図書館の駐車場を目指した。旭川沿いの道路に駐車場があったが、有料だったので躊躇したが、そこしかないので、入ってみると、90分まで無料だった。八角園舎は図書館の東側にあり、現在は子供の遊戯室となっており、受付で記帳して入館した。
旧旭東幼稚園園舎は,岡山市旭東尋常小学校附属幼稚園の園舎として,小学校校舎とともに,明治41年6月に竣工した。設計は,岡山県工師の江川三郎八である。
昭和55年に解体保存され、現在地に移転の上、ほぼ明治末期の通りに平成10年に復元された。
 
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旧旭東幼稚園園舎。模型。展示室。八角形の遊戯室を中心に四方に保育室が出ている構造が分かる。
園舎は,木造平屋建で,八角形平面の遊戯室の四方に保育室などが取り付く,いわゆる梅鉢型の平面とする。遊戯室は,中心に八角形断面の柱を建て,周囲には当時では珍しい多数のガラス窓を巡らせるなど,採光に配慮したつくりとする。
屋根は直線部分が途中で折れ曲がったマンサード風の宝形屋根とし,保育室の小屋組は,洋小屋を組む。旧旭東幼稚園園舎は,梅鉢型平面を最初に採用した幼稚園園舎建築であり,梅鉢型園舎の原型となったことで,幼稚園史上,高い学術的価値が認められる。なお、明治時代末期から大正時代にかけ、岡山県下では8棟の幼稚園舎が建てられた。
 
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旧旭東幼稚園園舎。骨組模型。旧遷喬尋常小学校校舎(
岡山県真庭市)内展示。
 
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旧旭東幼稚園園舎。中央の遊戯室。一辺5.46mの
正八角形の部屋。遊戯室を中心として保母の目がたえず四方の部屋に行き届くように設計された室内保育重視型の建物で、創建当時の保育観がよく表れている。また、「円に近い八角形は人の心を落ち着かせる」と、江川は考えていたという。
 
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旧旭東幼稚園園舎。現・会議談話室。解体当時の板をそのまま利用した床。
 
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旧旭東幼稚園園舎。展示室。写真。大正7年
遊戯室でお話を聞く
 
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旧旭東幼稚園園舎。展示室。写真。昭和15
卒園式会食。遊戯室の床板が張りかえられている。
 
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旧旭東幼稚園園舎。展示室。写真。昭和54
年解体時遊戯室小屋組。
 天井板をとり除いたところ。和小屋にトラスを組み合わせている。
 
 
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設計者江川三郎八について。旧遷喬尋常小学校校舎内展示室。
旧私立閑谷中学校本館・旧遷喬尋常小学校校舎(重文)・倉敷市歴史民族資料館など学校や近代建築の設計を多数手がけた。63歳で辞職した後も金光教など民間建築も多く手がけた。
14時50分頃、岡山県立博物館へ向かった。
 
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岡山県立博物館。朱千駄古墳石棺。屋外展示。朱千駄古墳は赤磐市の両宮山古墳から南西約600m
にある前方後円墳で、墳丘長は約65m。5世紀後半の築造とされる。明治の初め頃に後円部の内部主体が発掘され、組合せ式の長持型石棺内から銅鏡2面、蛇行状鉄器、勾玉・管玉、鉄槍などとともに大量の朱が発見された。石棺は6枚の石を組み合わせた長さ2.1m、幅約90㎝、高さ70の見事な長持型石棺で、石材は兵庫県の竜山石。
博物館の室内展示資料は撮影禁止であった。玄関横に数点の考古資料が展示されている。博物館は結構良質な内容だった。駐車場は後楽園と共通なので、遠くに駐車することになる。1時間ごとに100円なので、1時間以内に出庫した。後楽園は2回見学しているので、今回は省略。
県営総合グラウンドへ向かった。
 
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旧陸軍第十七師団の遺構。旧岡山偕行社。旧陸軍第十七師団は明治40
年に創設され、現在の岡山大学津島キャンパス構内及び周辺に当時建設された施設の遺構が残されている。キャンパスの南にある県営総合グラウンドは岡山練兵場の跡で、その敷地内に岡山偕行社は陸軍の将校社交場として明治43年に建てられた。昭和43年に元の位置からやや西に移築され、現在は総合グランドクラブとなっている。
建物の前では女子高生たちが、ラジカセでダンスの練習をしていた。駐車場は60分まで無料。
 
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旧岡山偕行社。内部。螺旋階段。内部には入館できる。レストランらしき設備があったが、16
時30分頃だったので、誰もいなかった。施設所有者は転々としたが、細部に面影は残っている。
 
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旧岡山偕行社。内部。螺旋階段。親柱のデザインは五芒星。星形五角形は陸軍採用の文様。
 
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旧岡山偕行社。内部。扉横の壁隅部にも草花文様がデザインされている。
 
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旧陸軍第17
師団・歩兵第33旅団司令部庁舎。岡山市北区津島中。岡山大学津島キャンパス内。陸軍第17師団司令部庁舎として明治40年建設されたが、第17師団が大正14年に廃止されると、歩兵第33旅団司令部庁舎として使用された。平成14年まで岡山大学事務局として使用されていたが、事務局の建て替えにともない、建物の一部が元の敷地近くに移築された。現在は研究推進産学官連携機構として使用されている。
道路を道なりに真っ直ぐ北のキャンパスに入ったが、見つからないので、守衛所で尋ねると、南西の本部キャンパスにあると教えられた。
 
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旧陸軍第17
師団司令部衛兵所。国登録。同じ敷地内の道路沿いに建っている。岡山大学情報展示室の看板はあったが、内部に入館することはできなかった。
北東の備前国総社宮方面へ向かう。
 
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備前国総社宮。岡山市北区祇園。備前国内128
社の祭神などを祀る。平安時代の創建と推定されている。平成4年に随身門以外の本殿・幣殿・拝殿などが焼失した。
その随身門も修理中だったので、境内には入らなかった。周辺は狭い道の住宅街で駐車に困った。
総社宮の800mほど南にある備前国庁跡へ向かう。
 
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備前国庁跡。岡山市中区国府市場。旭川の東岸にあり、総社宮あたりから丘陵となる手前の平地にある。国長宮という小社があり、その周辺から古代・中世の建物跡や土器が出土していることからこの地区が備前国庁跡と推定されている。また、国長宮の参道前を東西に貫く里道は古代山陽道を踏襲しているという。一帯が古代中世の備前の中心地であったことは間違いない。
南側の道路は狭く駐車できない。北から回り込んで空地に駐車した。
17時40分を過ぎたので、本日の見学を終え、玉野市の道の駅「みやま公園」へ向かった。翌日は宇野港から直島・豊島を見学した。

岡山県 宇野港 香川県 直島 地中美術館 豊島 豊島横尾館

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岡山県玉野市宇野港。香川県直島行きフェリー。平成
26517日(土)。本日は玉野市の宇野港を起点として、直島と豊島を見学した。前日は犬島を見学したので、ベネッセ・アートサイトの常設3島を見学できた。ただし、全部は無理で、直島は地中美術館、家プロジェクト、直島銭湯、豊島は豊島横尾館のみ。
直島・豊島は香川県だが、岡山側からの方が近い。直島の地中美術館は出来たときから知っているし、トリエンナーレも日曜美術館などのテレビ映像は見ている。現代美術にもさして興味がないので、混雑した様子を見ると行く気にはならなかった。コンセプチュアル・アートははまれば面白いが、波長が合わなければ全くつまらない。今回の中では豊島の横尾忠則の作品が面白かった。
 
玉野市の道の駅「みやま公園」を出て、822分発直島行きのフェリーに乗ろうと宇野港へ向かった。JRの線路に沿って突き当りのフェリーターミナルに行くと、東の埠頭前に直島行きと案内があった。駐車場に入ろうとすると、料金が高い。ターミナルの職員に尋ねると、ヤマダ電機裏の駐車場1500円で、しかも直島行きの乗船場はそこではなく、西にあると教えてくれた。駐車場から、宇野駅前を通り、5分ほどで乗船場のビルに着いた。欧米人も含め大勢の客が待っていた。船賃は往復560円。
実は、豊島に行くことは考えていなかったが、入手した時刻表を検討すると、1155分直島・宮浦港出航の高速船に間に合えば、豊島を往復して、直島に帰り、家プロジェクト見学も可能と気が付いた。そのためには、島内バスの本数も限られているので、地中美術館を早めに見学することが必要であった。822分に宇野港からフェリーは出航した。
 
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年前に高松行き宇高連絡船に乗って以来の宇野港。
 
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島の間の狭い水道を進む。
 
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直島の宮浦港が見えてきた。
20分で到着。
 
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宮浦港。草間彌生の「赤かぼちゃ」がある。中に入る人もいた。
96分発の町営バスに乗車、つつじ荘918分着。地中美術館方面への無料シャトルバスもあるが、しばらく便がない。屋外展示作品を見ながら徒歩で地中美術館へは30分ほどで着けるらしいので、海岸沿いに遊歩道を歩くことにした。
 
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屋外作品。草間彌生。「南瓜」。
1994年。ベネッセハウス・ビーチ。
 
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屋外作品。ニキ・ド・サンファール。「らくだ」。
1991年。
 
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屋外作品。ニキ・ド・サンファールのオブジェとダン・グラハムの「円筒」。
 
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ベネッセ・ハウスと修景された池。
 
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屋外作品。ニキ・ド・サンファール。「腰掛」。
1989年。ベネッセハウス・ショップの入口。
 
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ベネッセハウス・ミュージアム付近の高台から西の海岸線。しばらく歩くと、出勤する職員や欧米人夫婦に出会った。
 
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地中美術館。チケットセンター
950分頃に到着。シャトルバスは到着していたらしく、窓口に客はいなかった。2060円の入館料は高い。急いで地中美術館の入口へ向かった。
 
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地中美術館の入口。チケットセンターから
2分ほどで着いた。15人ほどが10時の開館を待っていた。奥の坂道から係員が10時に来て、入場案内をした。昨日の犬島精錬所美術館で少人数ガイド制見学を経験していたので、先頭を歩き、コンクリート壁の間を登って、展示室へ一番最初に着き、ジェームズ・タレルの作品室を一人だけで体験することができた。作品には光のトリックが仕掛けられていた。部屋を出ると、やはり行列していた。
次はクロード・モネの部屋。睡蓮の展示。これは大したものではない。次の展示室へは順路が分かりにくい。ウォルター・デ・マリアの作品展示室。階段の上に球体が置いてある。球体に反映される自分の姿が面白い。ただそれだけだ。日の出から日没まで作品の表情が変わると書いてあるが、そんな長時間鑑賞できるわけがない。
中庭に石が並べてあり、段差のある石の間を歩く。白人の子供が楽しげに遊んでいた。
2060円とは思えない作品量のため、あっという間に美術館の見学を終え、シャトルバスのバス停があるチケットセンターへ向かった。
 
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地中美術館の遊歩道。道路下に遊歩道があり、その脇を小川が流れ、西洋風の花が咲いている。
 
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地中美術館の遊歩道。チケットセンター寄りの起点にある池。睡蓮の池をモチーフにしているようだ。
宮浦港1144分着のバスはつつじ荘1130分発で、チケットセンターから11時に出るシャトルバスに乗ればよいことを、チケット購入のときに聞いておいたので、余裕でシャトルバスに乗れた。
 
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「崇徳院の歌碑」。 「松山や まつの浦風吹きこして しのびてひらふ 恋わすれ貝」。つつじ荘の中にある。崇徳上皇は保元の乱に敗れて讃岐に配流となり、その途中の三年間を直島の行在所で過ごしたという。琴弾の浜で、恋を忘れられるという忘れ貝を拾い京の都を恋うる想いを詠まれたという伝承が残っている。
つつじ荘のバス停で待つ間、「おやじの海」歌碑で歌を聴いたりする人もいる。
 
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豊島経由犬島行き高速旅客船
1144分に宮浦港で町営バスを降り、海の駅に入って、豊島に行きたいと尋ねると、ビル内の券売機で乗船券を買って、北へ3分ほどの小型船桟橋へ行けと言われたので、急いだ。
1155分に出航。
 
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直島北部の工場地帯。直島は、江戸時代には幕府の天領となり、瀬戸内海の海上交通の要衝を占め、海運業や製塩業の島として栄えた。大正
6年になると三菱鉱業、現在の三菱マテリアル直島製錬所が設立され、島は発展を遂げたが、島の北半分および周囲の島々の木々は煙害でほとんど枯れて禿山となってしまった。
 
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直島北部の工場地帯
2003年以降は香川県直島環境センター(豊島産業廃棄物等中間処理施設)などが建設されている。
 
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直島北部の工場地帯
 
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豊島横尾館。横尾忠則と建築家永山裕子により、集落の中にある古い民家を改修して造られた美術館。
豊島の家浦港に1217分に着き、1335分に直島の宮浦港行きに乗船するまでの1時間ほどを利用。唐櫃地区の美術館へは、バスはあるが不便。レンタサイクルは家浦港で利用可能だが、船便が少ないので、島全部回るのは時間を要す。
船着き場に案内図はなく、豊島横尾館の場所が分からなかったが、東に歩いて家浦港に行くと案内地図があった。港から南西へ5分ほどの場所に横尾館はあった。
 
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豊島横尾館。入口。赤いガラス壁が眩しい。中庭の糸杉が見える。母屋・倉・納屋を展示スペースとして、絵画作品
11点を展示している。庭や母屋には彩色された川が流れ、鳥や魚がいる。「死の島 ベックリンに基づくⅡ」2012年など、「生と死」を想起させる絵画群は素晴らしかった。Y字路の絵画もあった。70年代までとY字路シリーズは知っていたが、横尾忠則の作品に感動した。
港へ戻る途中、雑誌の付録を無料配布している商店に立ち寄った。
 
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遠ざかる豊島・家浦港。犬島から高速船が入港し、
1335分に出航した。発券所と乗船場が離れているので焦った。
 
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豊島。右側の島北西端地区に産業廃棄物の不法投棄場所があるようだ。私には豊島といえば、産廃の島としてしか思い浮かばない。
 
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直島の北東の海。産廃積載船なのか、変わった船型の船が航行していた。
1357分に直島・宮浦港へ戻り、直島銭湯や家プロジェクトを見学した。

香川県直島 直島銭湯 家プロジェクト 直島町役場

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直島銭湯。香川県直島町。平成
26517日(土)。岡山県玉野市宇野港から直島へ行き、地中美術館を見学したのち、直島宮浦港へ戻り、豊島へ渡って豊島横尾館を見学後、直島宮浦港へ戻ったのは1357分。家プロジェクト最寄バス停農協前方面の町営バスは1355分に出たばかりで、次便は1450分。徒歩なら30分ほどかかる。それならばと、直島銭湯Iラブ湯にでも入るかと考えた。この銭湯もできた頃話題になり知っていたが、重点目標とはしていなっかたが、せっかくなので入ろうと、港から数分歩いて銭湯に着いた。
現代美術的に装飾された外観に高揚感を覚える。
 
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直島銭湯。銭湯の前にも、面白いオブジェが用意されている。
券売機を見て、目が凍りついた。タオルも何も持っていなかったからだ。入浴料500円はいいとして、タオル・ボディーソープ・シャンプーのセットが1000円。今回の旅行は石鹸類は持ってこなかったが、必要なときはやはりあるなと実感したが、入浴する時間はないと思っていたので仕方がない。せっかくなので、オリジナルタオル300円を購入して入ることにした。学生風の男は迷っていたが、結局諦めたので、番台のおばさんは内部の写真を見せてやっていた。
 
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直島銭湯。浴室。入ってから出るまで客は私一人だけだった。入ってから
10分ほどして、脱衣所を掃除する人が来ただけだった。
 
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直島銭湯。浴室。色々置いてあるが、色彩感に乏しい。ローマ建築のモザイク画の方が優れているし、テルマエ・ロマエの方が面白かったような気がする。
 
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直島銭湯。浴室。秘宝館から持ち込んだ象の置物。
 
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直島銭湯。浴室から脱衣所
 
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直島銭湯。脱衣所。洗面所。猥雑さが少ない。
 
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直島銭湯。脱衣所。洗面所。染付の藍色だけでは、いくらデザインだけでも無理がある。
 
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直島銭湯。トイレ
 
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直島銭湯。トイレ。便器。
30分ほどして、外に出た。宮浦港のバス停から1450分のバスに乗り、家プロジェクトの拠点がある農協前で下車し、チケットセンターのある本村ラウンジで共通チケット1030円を購入。151分だった。このときに、「南寺」は入館整理券が必要だといわれたので、まず南寺方向へ歩いていった。
 
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極楽寺。八幡神社の別当寺。開基は平安初期、聖宝尊師(理源大師)によると伝えられる。後に、来島した僧が配流された崇徳院追福のために御堂を建立したという。
戦国時代末期の直島では、水軍の将高原次利が直島の八幡山に直島城を築き、その城下町として本村の町並みや寺院群、神社などを整備した。高原次利は、豊臣秀吉に仕え備中高松城水攻めの際に秀吉軍の水先案内をした功績により男木島、女木島、直島の3600石の領主となった。関ヶ原の戦いのときは東軍に味方し江戸時代に入っても所領を守ったが、子孫は6代目の時に改易され、1671年に天領となった。
山門は町文化財で、元禄141701)年の建築。高原家の家紋と船印が印されている。旧領主高原家の分家で福岡藩士高原利定が寄進したもの。
 
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八幡神社鳥居。県文化財。八幡神社参道入口に建つ明神鳥居で、高さ
385cm、柱の直径50cm、直島産の花崗岩製で、全体として重厚な印象を与えるのは桃山から江戸の作風の特徴。
高原次利が慶長6(1601)年に八幡神社の神殿などを再興した。
祭神の応神天皇については、吉備国に向かう際に直島に立ち寄り、その上陸地が「宮ノ浦」だという説が日本書紀にある。
 
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ANDO MUSEUM
1510分頃、南寺に着いて、行列の先頭に行くと、係員から1530分の整理券も貰った。時間があるので道を戻って、ANDO MUSEUMへ入った。時間が足りるがどうか分からなかったが、見学時間は10分程度で終わってしまった。510円は高い。バカにしている、安藤忠雄の建築は10棟ばかり見てきたが、どれも高いコンクリート壁が共通して、マンネリズム。過大評価されているのではないか。彼がオマージュしたル・コルビュジェの建築はインドのチャンディガルで実見したし、作品は写真で見ているが、色彩・デザインともはるかに優れている。安藤忠雄が評価されていることは、日本の建築家の創造性が退化している証明である、と感じながら南寺へ向かった。
 
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家プロジェクト。南寺。ジェームズ・タレル。安藤忠雄。真っ暗な空間に入り、わずかな光の物体を徐々に感覚していくという仕掛け。トリッキーなインスタレーションというだけのもの。
角屋を見て、護国神社へ向かう。
 
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家プロジェクト。護国神社。本殿へ登る階段がガラスでできている。地下には石室があるらしいが、地元の人がいて良く分からなかった。ガラスの階段により地下と地上を一つの世界に結ぶというコンセプトらしい。大体、日本の神話世界では地上ではなく天であろう。
 
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家プロジェクト。碁会所。内部には作品「椿」が展示されている。家プロジェクトは
1630分までなので、残り30分もない。「はいしゃ」へ向かった。途中に町役場があった。
 
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直島町役場。離島の町役場にしては巨大豪華な建物に驚いた。この町役場は昭和
58年に建築家・石井和紘の設計により、建設費47300万円をかけて建設された。
 
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直島町役場。別名直島飛雲閣と称されるモダンな町役場といわれるように、豊臣秀吉が聚楽第に建設した飛雲閣上部のモチーフをアレンジしている。
愛知県庁本庁舎、名古屋市役所本庁舎は城郭を意匠した帝冠様式だが、その亜流ということか。単なる四角い箱物よりは面白い。
 
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家プロジェクト。「はいしゃ」。かつて歯科医院兼住居であった建物を、直島銭湯を手掛けた大竹伸朗が作品化。
 
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家プロジェクト。「はいしゃ」。ノスタルジックなコラージュが面白い。
農協前発宮浦港行きのバスが1622分なので、それに合わせて農協前に戻った。1628分に宮浦港へ到着。海の駅で土産を購入し、1640分発の宇野港行きフェリーに乗船。
 
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宇野港行きフェリー。遠ざかる宮浦港
 
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宇野港行きフェリー。宇野港から来たフェリーとすれ違う。
 
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宇野港行きフェリー。直島の余韻に浸る乗船客。左のテーブルでは韓国人数人が談笑していた。
17時頃、宇野港に到着。まだ明るいので、玉野市八浜町の硯井の井戸へ向かった。
 
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硯井の井戸。玉野市八浜町大崎。菅原道真が左遷され大宰府へ船で向かう途中、八浜周辺に上陸した際、砂浜のくぼみに水がふき出しているのを見つけ、それを飲むと、不思議なことにもとは海中であるはずの場所にもかかわらず塩気の無い清水であったという伝説の湧水。
環境省のHPに岡山県の名水の紹介があり、現在も取水可能のように整備されていると書いてあったので、期待したが、全く取水不能の状態にがっかりした。翌日に岡山市中区の「雄町の冷泉」に行く必要を感じながら、道の駅「みやま公園」へ向かった。翌日は常山城跡、備中高松城跡などを見学。

岡山県玉野市 女軍の城 常山城跡 

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常山。岡山県玉野市。平成
26518日(日)。玉野市の道の駅「みやま公園」で起床。北西へ進み、常山へ向かった。常山は児島半島で3番目に高い山で、標高は307m。秀麗な山容から児島富士ともよばれ、山頂の常山城は戦国時代の常山合戦で有名である。現在でも本丸・二の丸・三の丸跡や底無し井戸、常山合戦で悲惨な最期を遂げた女軍の供養碑が残っている。
 
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常山城跡。登城口。桜並木の車道出合。友林堂上。山頂付近の駐車場まで車道が通じていたが、近年の土砂崩壊により全面通行止めになっており、登山道を登るしか登城の道はない。近くに駐車スペースがあるが、民間所有らしいので、表示のない箇所に駐車した。標識を右に石段をのぼる。
729分に登城口から登り、800分に本丸跡に着いた。熟年男性が一人先行していたが、途中で抜き、帰途に熟年夫婦と行き合った。道なりに底無し井戸まで登って、その先で右折して車道に出て、山頂下の栂尾二の丸跡にある駐車場へ行き、石段を順次登ると本丸跡に着く。
 
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常山城跡。底無し井戸。今でも水は溜まっている。周囲はコンクリートで囲われている。
 
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常山城跡。案内図。栂尾二の丸跡の駐車場に案内板がある。北の曲輪群だけでなく、東にも曲輪群があり、山頂の本丸を中心に合計
14の曲輪で構成される連郭式山城である。
 
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常山城跡。女軍の墓。北二の丸跡。城主上野高徳と妻の鶴姫、高徳の母の墓を囲んで
34人の女軍戦士の墓が並ぶ。
旧盆前の日曜日には地元の婦人会などが鎮魂の踊りを墓前に奉納するという。
 
上野高徳の妻鶴姫は備中松山城(岡山県高梁市)の三村元親の妹である。三村元親の父家親は毛利氏の傘下に入り、備中を勢力下に収める戦国大名として成長した。それを恐れた宇喜多直家は刺客を放ち、永禄91566)年に家親を暗殺した。翌年三村元親は父の弔い合戦と称し約2万の軍をもって備前に進攻したが、待ちかまえた宇喜多軍に敗れた。
 
天正2年(1574年)毛利氏の山陽道守将・小早川隆景は宇喜多直家と同盟を結ぶ。このため、宇喜多氏に遺恨を持つ三村元親は義憤を以って毛利氏より離反し、織田信長に内通した。この年の冬、三村氏の離反に危機を感じた毛利輝元は小早川隆景を総大将として備中に8万の大軍を派兵し、備中兵乱の口火が切られた。信長の命を受けた羽柴秀吉は、毛利に味方する中国諸将の反撃により救援できず、三村氏は孤立した。天正35月備中松山城は陥落。城を脱出した元親は自刃し、三村氏は滅んだ
 
備中松山城落城後の64日、毛利軍6500は三村元親の妹(鶴姫)の婿・上野隆徳が拠る三村一族最後の城である常山城を包囲した。二日後、大手の木戸が破られ、敵が二の丸に攻め寄せた。味方はわずか200余騎。高徳は一族の自決を決断した。7日明け方、城内で酒宴が開かれ、互いに別れを惜しむ女たちの声が聞こえた。午前8時、高徳の57歳になる継母は、縁の柱に刀を固定させ、刃先に突進して胸を貫いた。15歳になる嫡子の高秀も自刃し、8歳の二男は高徳が刺し殺した。
 
この光景を間近にした33歳になる鶴姫は武将の娘として一戦もせず、ただ自害するのは口惜しいと思った。鶴姫は鎧をつけ、身の丈にもなる長い黒髪に白綾の鉢巻をし、三枚甲の緒を結び、三尺七寸の太刀をはき、白柄の長刀を小脇にはさむと、広庭に躍り出た。驚いた女房たちが「女は五障三従の罪が深く、ただでさえ成仏できぬというのに、その上戦えば、あの世での修羅の責め苦は免れますまい」と制止すると、鶴姫は「おのれは邪正は同じと観念し、この戦場を西方浄土とし、修羅の苦しみも極楽の営みと思えば、なんぞ苦しいことがあろう」と妖艶な笑みを浮かべた。
「ならば我らもお供を」と、女房たち34人は鉢巻きを締め、ここかしこに立て掛けてあった長柄の槍を取った。
 
これを見た家僕たち83人も、最後の奉公と鶴姫の先陣を務めて門を開き、毛利軍の先鋒・浦宗勝の率いる700の軍勢の真っ只中に斬り込んだ。士気あがる女軍戦士は毛利勢数十人を討ち取る。鶴姫は馬上に大将の宗勝を見つけ、「我と一勝負を」と一文字に斬り込んだ。一撃をかわした宗勝は「そなたは強きにせよ、女なれば勝負はできぬ」と退いた。宗勝との勝負をあきらめた鶴姫は腰の刀を抜くと、「これは父家親が秘蔵の国平の名刀、そなたに差し上げる。後生を弔って下されよ」と言い残して、引き揚げを命じた。
 
夫の元に戻った鶴姫は南無阿弥陀仏を念じながら、太刀を口に含んで、身をうつ伏せにして、血の中に命を絶った。その妻の最期を見届けて高徳も自刃したのだった。
 
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常山城跡。本丸跡。上野高徳公碑、腹切り岩、展望台がある。
上野氏は足利氏の庶流で、足利泰氏の六男上野義弁に始まる。義弁の孫上野頼兼は、足利尊氏に従って転戦し、功により石見守護に補任され、西国における北朝勢力の拡大に尽力した。上野氏は、京都にあって奉公衆三番頭となるなど、足利将軍家の近臣として幕府の中枢の業務を担った。
足利義稙は永正51508)年に将軍に返り咲くと、備中を固めるため永正6年、近臣の上野信孝(尚相弟)らを当国へ下した。信孝は備中国下道郡下原郷鬼邑山城に入り、義稙方の拡大に奔走した。その後、永正年中に信孝は鬼邑山城に一門の上野高直を入れ、上野頼久をして備中松山城に封じたのをはじめ、近郷の諸城に諸将を配し、自らは帰洛して再び幕府に近侍した。
備中松山城主の上野氏は天文21533)年上野頼久の子頼氏のときに、庄為資によって攻め滅ぼされた。
一族の上野高直は信孝の後を受け継ぎ喜村山城(鬼邑山城)に入り、高直の後は嫡子高徳が家督を継ぎ喜村山城主となった。高徳は弘治年中(1555-1558年)に備前常山城に移り、この城を居城としたという。
高徳は、備中松山で無残な最期を遂げた一族上野頼氏らの仇敵である庄為資の嫡子高資を討ち備中松山城主となった三村家親の娘を室とし、備中一円に勢力を広げる三村氏との縁故を深めていった。
 
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常山城跡。本丸跡。腹切り岩。上野高徳が自害した岩という。
 
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常山城跡。本丸跡。展望台から南東の眺望。左はみやま公園、豊島、小豆島。右は直島方面。児島半島の先に、瀬戸内海を一望する。
 
常山合戦ののち、常山城は毛利氏の支配下に置かれたが、毛利氏の築城技術と言われる竪掘や堀切の遺構は発見されていない。毛利氏以後城主となった宇喜多氏家老の戸川氏の手により、現存する常山城が整備されたと推定されている。
常山城は児島半島が島であった時期には、備前本土との海峡を抑える軍事上の重要な拠点であったが、やがて瀬戸内海の航路が重視されるようになり、慶長8年に廃城となった。城は解体され、廃材の一部は新たな監視の拠点となった下津井城の修理に利用されたと伝えられている。
 
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常山城跡。本丸跡。展望台から北東の眺望。児島湾干拓地、児島湖、児島湾方面。
 
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常山城跡。東の曲輪群。本丸跡から方向を東に変えて下りていくと、北の曲輪群に勝るとも劣らない曲輪群があった。児島半島・瀬戸内海方面への眺望があった。
途中で北に道を変え、底無し井戸を経て、登城口に下りた。
このあと、岡山市の雄町の井戸へ行き、備中高松城方面へと向かった。

岡山市 備中高松城跡 蛙ヶ鼻築堤跡 最上稲荷 おまちアクアガーデン 

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おまちアクアガーデン。岡山市中区雄町。平成
26518日(日)。玉野市の常山城跡を見学し、おまちアクアガーデンへ向かった。ここは水汲み場を備えた公園で、現在は水汲みができない名水百選「雄町の冷泉」の近くにある。
いずれも旭川の伏流水が湧出しているものであり、雄町の冷泉は岡山藩池田家の御用水として使われていた。
北西約1.5㎞には16日(金)に見学した備前国庁跡があり、一帯は水に恵まれた地帯と言える。アクアガーデンは13金曜日は休園なので、前々日は訪れなかった。日曜日の午前中とあって、車や自転車で水汲みに来る人が絶えなかった。
西へ進み、備中高松城址公園へ。
 
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高松城址公園資料館。岡山市北区。高松城水攻め陣立ての模型。天正
101582)年5月、羽柴秀吉率いる軍勢3万は備中高松城を囲んだが、力攻めができず、黒田官兵衛の進言により水攻めにとりかかった。約2.7㎞の堤防を築き、足守川の水を引き入れ高松城を湖の孤城にしたのである。62日の本能寺の変を3日に知った秀吉はそのことを隠して、安国寺恵瓊と交渉し、4日高松城主清水宗治は切腹した。
 
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高松城址公園資料館。
1985年の大雨時の写真。高松城本丸跡を残して周辺は水没している。高松城は深田や沼沢に囲まれた平城で水面との比高がわずか4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。
 
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高松城址公園。高松城本丸跡。国史跡。水攻めのときは梅雨の頃で、増水した足守川の水が流れ込むと、たちまち
188aの大湖水ができて城は孤立した。
 
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高松城址公園。高松城本丸跡
 
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高松城址公園。高松城本丸跡。清水宗治首塚。宗治の切腹後、秀吉は石井山に供養塔を造らせたが、明治になって現在地に移された。首塚の横には。宗治の辞世の句「浮世をば 今こそわたれもののふの 名を高松の 苔に残して」の碑が立っている。
高松城址公園だけでは水攻めの状況が分からないので、南東にある蛙ヶ鼻の築堤跡へ向かった。。
 
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蛙ヶ鼻の築堤跡。国史跡。蛙ヶ鼻は石井山の南に位置し、堤防の跡が唯一残っている。ここから西に堤防が造られた。現在は史跡公園になっており、南北に駐車場がある。
  
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蛙ヶ鼻史跡公園の説明図
 
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蛙ヶ鼻史跡公園の説明図。水攻め築堤跡の調査。平成
10年に、築堤の遺構状況を確認する発掘調査が実施された。その結果、築堤の大半はすでに削り取られていたものの、現在の水田の下約1mのところで、基底部が確認された。
堤防の盛土は、周辺の丘陵部から運び込んだとみられる花崗岩風化土が主であった。盛土の最下層では杭列とともに土俵(つちだわら)の痕跡が確認された。さらに、その下は深い粘土層が堆積しており、築堤以前には一帯が湿地であったと判断された。
 
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蛙ヶ鼻史跡公園。復元された築堤の基底部。杭列など。
 
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蛙ヶ鼻史跡公園。高松城跡高さ表示板。最上部「現存築堤高 標高
8.4m」、二段目「本丸最上段高70m、三段目「本丸上段高6.6m」の表示が示されている。
 
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蛙ヶ鼻史跡公園。築堤跡の側面。史書によると堤防の長さは蛙ヶ鼻から約
27㎞、規模は高さが約7m、幅は底部が約24m、上部が約10mと伝わる。
最近では。延長約300m、高さ約2mという説が有力という。
 
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蛙ヶ鼻史跡公園。築堤上部
北の龍王山中腹にある最上稲荷へ向かった。
 
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最上稲荷。仁王門。岡山市北区。有料駐車場から
10分ほど商店が立ち並ぶ参道の石段を昇ると、ようやく境内の一画にある仁王門の前に着いた。旧仁王門が昭和25年の山火事で焼失したため、昭和33年に再建完成した。インドの殿堂様式で建造された石造りの仁王門は珍しく、平成21年に登録有形文化財に指定された。平成25年に改修工事が行われ、本年、落慶法要が営まれた。ボタンを押すと金色仁王尊像に照明が当たる仕掛けになっている。
 
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最上稲荷。神宮形式の本殿(霊光殿)。昭和
54年に完成。本殿前には長さ約 12m、総重量1.5tの大注連縄がかけられている。
最上稲荷の歴史は、天平勝宝4年(752)、報恩大師に孝謙天皇の病気平癒の勅命が下り、龍王山中腹の八畳岩で祈願を行った。すると白狐に乗った最上位経王大菩薩が八畳岩に降臨。大師はその尊影を刻み祈願を続け、無事天皇は快癒されたという。その後延暦4年(785)年、桓武天皇ご病気の際にも、大師の祈願により快癒。これを喜ばれた天皇の命により、現在の地に「龍王山神宮寺」が建立された。
以来、「龍王山神宮寺」として繁栄を極めたものの、備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇を焼失し、本尊の「最上位経王大菩薩」の像のみが八畳岩の下に移され難を免れた。この像をもとに慶長6年(1601)、新たに領主となった花房公が関東より日円聖人を招き、霊跡を復興。寺名も「稲荷山妙教寺」と改めて、今日の興隆の礎を築いた。
当日は「鑽仰茶会」が開催執行されました。この行事は、昭和55年の本殿落慶を記念して開催され、和服姿の女性が多かった。
 
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最上稲荷。旧本殿(霊応殿)。寛保元(
1741)年に再建された建物で、新本殿建立の際に曳家工法で当地に移された。当山最古の木造建築物。
 
 
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 最上稲荷。旧本殿(霊応殿)。御祈祷を受ける高齢の女性が家族に連れられて来ていた。
 
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最上稲荷。旧本殿(霊応殿)から本殿と駐車場方面を見下ろす。
 
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最上稲荷。八畳岩への登り口。予定はしていなかったが、折角なので登る気になった。
 
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最上稲荷。登り出すと、すぐに滝と水垢離場が石段左にある。
 
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最上稲荷。八畳岩。登り口から
15分ほどで到着。道標が各所にあり分かりやすい。
報恩大師の修行によって、最上尊が降臨した霊地。岩上部の平面は畳が八畳敷ける広さがあるためこの名が付いたといわれる。
 
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最上稲荷。八畳岩。南無妙法蓮華経と彫られている。最上稲荷は日蓮宗の寺でもある。
 
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最上稲荷。八畳岩からの眺望備中高松城の水攻めのさい、秀吉の本陣は初めこの近くに設けられた。のちに、中央の石井山という小高い丘陵に移された。
 
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最上稲荷。八畳岩からの眺望。中央に備中高松城本丸跡がある。周囲が低地であることが良く分かる。中央奥左の丘陵に小早川隆景の陣があった。その向こうは倉敷の美観地区である。
このあと、足守川沿いに北西に遡って、旧足守藩の城下町へ向かった。

岡山市 足守 旧足守藩陣屋跡 近水園 木下利玄生家 岡山県古代吉備文化財センター

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旧足守藩侍屋敷遺構。岡山市北区。平成
26518日(日)。本日は、玉野市の常山城跡、岡山市のおまちアクアガーデン、備中高松城跡、最上稲荷を見学し、足守川沿いに北西に遡って、旧足守藩の城下町足守へ向かった。
足守藩は、豊臣秀吉室・北政所の兄で姫路城主25千石の木下家定が、慶長61601)年に当地に同じ25千石で転封されて立藩、足守に陣屋を構えた。慶長13年に家定が死ぬと幕府は遺領を子の勝俊と利房に分与するよう指示したが、勝俊がこれを独占したことから幕命違背を理由に慶長14年に改易された。その後、浅野長政の二男長晟が入部したが、元和元(1615)年に木下利房が大坂の陣での功により、再び25千石で足守に入部。以後明治維新まで木下家が領した。
足守には城下町の風景が今もなお色濃く残され、歴史的、文化的資料も多いため岡山県の町並み保存地区に指定されている。
足守プラザに駐車し、町並みを散策する。案内図などが少なく、足守川沿いを無駄に歩いてしまった。
旧足守藩侍屋敷遺構は家老杉原氏の旧宅で江戸時代中期に造られた長屋門・母屋などが残っている。
白壁となまこ壁の長屋門、御成門、取り囲む塀が侍屋敷の重厚さを醸しだしているが、母屋は茅葺の質素な造りである。
歴史資料館足守文庫を見学するつもりだったので、外観を見ただけで、中には入らなかった。
足守川沿いに回り込んで、歴史資料館足守文庫を発見。しかし、開館していなかった。仕方がないので、近水園へ向かった。
 
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近水園(おみずえん)。足守町並み保存地区の北端にある県指定名勝、。俗に御殿山と呼ばれる背後の宮地山の麓に築かれたこの木下家の庭園は、足守川の水を引き入れた池泉を中心に回遊式をとる小堀遠州流の庭園である。園内では熟年男女の団体が風景を写生していた。
 
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近水園。
園内の池泉に浮かぶのは、藩主の長寿と繁栄を象徴する鶴島と亀島。鶴島には木下家十四代当主利玄の歌碑が建てられている。池畔に建つ吟風閣は、六代木下定(きんさだ)が、京都の仙洞御所と中宮御所の普請を仰せつかった折、その残材を持ち帰って建てたもの。
 
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木下利玄生家。木下利玄は武者小路実篤や志賀直哉らとともに雑誌「白樺」を発刊し、利玄調といわれる歌風を完成させ、明治大正の文学史に大きな足跡を残した。明治
19年足守藩最後の藩主木下利恭の弟利永の二男として生まれた。5歳の時、利恭の死去により宗家木下子爵家の養嗣子となり家督を継ぐために上京した。
母屋は4月から11月までは第13日曜日のみ開門されるが、内部立入はできない。
 
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木下利玄の生家。長屋門。重厚な感じ。意匠は変わっている。
4月から11月までは金・土・日・祝日のみ開門。
 
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足守藩陣屋跡。
5代藩主木下利貞の時代の寛文21662)年から延宝71679)年の間に築かれたといわれる。陣屋跡は足守小学校の北隣にあり、陣屋の建物は現存していないが、陣屋を取り囲んでいた堀と石垣が残っている。
 
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足守の町並み。白壁や海鼠壁の商家が並んでいる。
緒方洪庵誕生地は少々離れているので、割愛した。この時点で14時であった。行程上、倉敷市児島の旧野崎家住宅へ16時までに着く必要があった。また、吉備中山にある岡山県古代吉備文化財センターも月曜日が休館ではないかと疑ったので、先にここへ行くことにした。
 
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岡山県古代吉備文化財センター。事前に調べていた通り、年末年始以外無休であった。珍しい。しかも入場無料。展示室は広くはないが、簡にして要を得た展示内容。吉備津神社付近の道は狭い。
 
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岡山県古代吉備文化財センター。展示。特殊器台と特殊壺。壺と器台。特殊器台と特殊壺は新見市西江遺跡出土。弥生時代後期末頃。特殊器台は大きく発達した脚部、口縁部と装飾が多く描かれているのが特徴。特殊器台が円筒埴輪のルーツである。
壺と器台は倉敷市上東遺跡出土。弥生時代後期中頃。器台の上に壺をのせて安定させている。
 
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岡山県古代吉備文化財センター。展示。特殊器台。特殊器台には透し孔が開けられており、合わせて平行する弧状の線を組み合わせた帯からなる弧帯文という文様が描かれている。弧帯文のモチーフは翌日見学した楯築遺跡の神石などと共通している。
 
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岡山県古代吉備文化財センター。展示。弧帯文を描いた土器。倉敷市上東遺跡。弥生時代後期。
 
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岡山県古代吉備文化財センター。展示。素焼きの陶棺。赤磐市弥上古墳出土。古墳時代。
 
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岡山県古代吉備文化財センター。展示。顔が描かれた分銅形土製品。岡山市北区加茂政所遺跡出土。弥生時代。
 
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岡山県古代吉備文化財センター。展示。卜骨。岡山市足守川加茂B遺跡。弥生時代後期。
15分ほど見学し、1445分頃だったので、短時間で見学できそうな吉備津彦神社に向かったが、道路が錯綜して狭い箇所もあり、意外と時間がかかった。
 
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吉備津彦神社。備前国一宮。現在の本殿は元禄
101697)年に岡山藩主池田家の援助で建てられた。三間社流造、檜皮葺き。
広大な駐車場から社殿に向かうと、随身門あたりでボランティアの地元女性が案内をしていた。安産を願うのか女性の参拝客が多かった。なお、備中国一宮の吉備津神社へは翌朝参拝した。
駐車場を出たのは1510分、児島の旧野崎家住宅へ急行し、1555分頃に到着できた。

岡山県倉敷市児島 旧野崎家住宅 下津井城跡 鷲羽山

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旧野崎家旧宅。重文。倉敷市児島味野。長屋門。平成
26518日(日)。本日は、玉野市の常山城跡、岡山市のおまちアクアガーデン、備中高松城跡、最上稲荷、城下町足守、古代吉備文化財センター、吉備津彦神社を見学後、倉敷市児島味野の旧野崎家住宅へ向かった。
 
旧野崎家旧宅は、江戸時代後半に児島半島の南側を中心に広大な塩田開発を行い、「塩田王」とよばれた野崎武左衛門17891864)の居宅で,低い丘陵を背景に長屋門,御成門の門建築が配され,その奥に南北に連なる広大な敷地が画されている。
敷地面積は約3000坪・建物延床面積は約1000坪ある。長屋門を入ると、濃い緑を背景とした本瓦葺の主屋群が軒を連ねて美しく、これに並んで威風堂々と軒を連ねる土蔵群がある。
建物と庭園がこれほど創建のままに保存されている民家は稀であり、山陽道の代表的民家と言える。
また、土蔵内の展示室では塩業の歴史資料も展示されている。
 
長屋門は桁行約26mの堂々とした構えで、石垣は鉢巻積みの工法によるもの。七段の石段を上がると右に桃座敷、左に南座敷がある。このような門造りは江戸時代の大庄屋建築のなかでも特に壮麗であり、天保9(1838)年に竣工している。
16時頃に入館したが、1630分まで受付け、17時閉門であった。
順路は時計回りに指定されており、まず表書院からの見学となる。
 
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表書院。玄関
 
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表書院。野崎家住宅の中心となる建物で、貴賓の応接にあてられた。1年半の工期をかけ嘉永
51852)年に竣工した。
 
昆陽野(こやの)武左衛門(のち野崎)は味野村に生まれで、父親の事業失敗のため貧苦の中で育ち、足袋の製造販売をてがけたのち、塩田開発に着手し、文政101827)年から文政12年にかけて、味野村・赤碕村の沖に488反歩の塩田を最初に完成させた。両村から1字ずつとって野崎浜とよばれ、野崎という姓はここからとったもので、JR児島駅付近は野崎浜の跡地である。
その後も文久3年(1863)年までの間に日比亀浜、東野崎浜、久々井浜など終生161haの入浜式塩田を開発した。
その間、岡山藩の命によって、福田新田652haの大干拓事業も完成させ、備前きっての大地主となった武左衛門はその功により、嘉永61853)年に大庄屋格に取り立てられた。
 
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表書院。庭園。奇石・巨石を組み,松やツツジ,苔を巧みに配した美しい枯山水の庭園が広がっている。陰陽石は
19対あるという。武左衛門が最初に築いた野崎浜塩田によく似ているお駕籠石が前庭に配されている。
 
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表書院。菊模様の襖と波模様の欄間。
 
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表書院。庭園。観曙亭(かんしょてい)。
庭内には、観曙亭・容膝亭・臨池亭の三席の茶室がある。観曙亭は、庭の築山にある二畳台目の茶室で、杉材を用いて建てられている。
 
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中座敷
野崎家が住まいの中心とした主屋は天4年(1833)年頃の建築である。中座敷から向座敷まで23間(42m)にわたり9つの座敷が連続している。
 
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台所。従業員食堂として昭和初期まで使われていた。
 
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味噌蔵。内部。
 
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土蔵群。主屋の右手にある。右から岡蔵・新蔵・書類蔵・大蔵・内蔵と並ぶ。
広い内部には、塩業の歴史資料が展示されている。
 
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溜石(ためいし)。塩を煮詰めるために使用する石炭の重量を量るため、船に積んで吃水線の印を付ける用途に使用した分銅用の石。
1個は16貫、約60㎏の重さがある。
 
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長屋門。館の内側から。土産品の塩袋を片付けていた。30人ほどの熟年男女の団体が、私より遅れて入場し、酔っぱらた爺さんが私にトイレはどこかと尋ねてきた。
1645分頃に退館し、下津井港方面へ向かった。
 
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下津井城跡。大手付近。倉敷市下津井。下津井城は宇喜多秀家が文禄年間(
159296年)に築城したといわれる近世前期の平山城で、下津井港北方の瀬戸内海を見下ろすに城山(標高89m)の南端に位置している。
関ヶ原の戦い後、小早川秀秋の家臣平岡石見守が在城したころに瀬戸内海の制海権を考慮して城を強化、さらに岡山藩主となった池田忠継のとき、城代の池田長政が徳川家康の意をうけて、下津井城の縄張りを行い、常山城(玉野市)の資材を用いて改築し、近世城郭として整備した。城主は代々、ほぼ32千石を領したが、一国一城令により、1639(寛永16)年に廃城となった。
現在は瀬戸大橋架橋記念公園として整備され、城跡に残る石垣や土塁が面影を伝えている。
瀬戸大橋架橋記念公園を目標に進み、海側の舗装道を東進、標識に従い、山側の狭い道を急登すると、大手に当たる場所に着いた。残存する石垣は近世城郭らしく立派なものである。
 
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下津井城跡。本丸下の石垣
石垣づたいに東へ進むと、二の丸跡に出る。
 
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下津井城跡。二の丸跡
 
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下津井城跡。二の丸跡。遺構図。連郭式の平山城で、西から西の丸、二の丸、本丸、三の丸、中の丸、東の丸が直線的に配されている。また、小さいながらも本丸には天守があった。城の北側の丘陵に侍屋敷が配されていた。
北へ一段上の本丸方向へ進む。堀切状の地点からは北側の民家へ続く道がある。
 
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下津井城跡。本丸跡。本丸には天守閣・櫓・門、北側の平地に城主の居館を配置したと伝わる。
 
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下津井城跡。三の丸跡。東の丘陵地は見晴らしがよく、瀬戸大橋や瀬戸内海の島々が見渡せる。
 
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下津井城跡。三の丸跡。南側に下津井の町並みを見下ろす。
城跡見学を終え、下津井港方面へ下る。
 
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下津井港付近の海辺から。瀬戸大橋・塩飽諸島の島々。
東進し、鷲羽山の展望台へ。
 
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鷲羽山山頂から。瀬戸大橋、塩飽本島、坂出方面。
駐車場から15分ほどで、標高134mの山頂に着いた。入れ替わり立ち代わり、人が登ってくる。鷲羽山山頂には35年ぶりに来た。当時は瀬戸大橋はなかった。
 
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鷲羽山山頂から。瀬戸大橋、塩飽本島方面。
 
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鷲羽山山頂から。ビジターセンター、釜島、大槌島、五色台方向を望む。
 
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鷲羽山山頂から。「日本の夕陽百選」にも認定されており、西に位置する下津井海岸・下津井城跡・鷲羽ハイランドの彼方に夕陽が沈んでいった。
 
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羽山山頂付近から。大槌島・小槌島。火山錐(ヒュート)。三角帽子に似た二つの島は火山錐の島で、昔活動した火山体は長い年月の間に浸食されて円錐状に残ったもの。
本日も道の駅「みやま公園」で泊まるつもりだったが、日没になったので鷲羽山駐車場で車中泊した。午前1時過ぎにパトカーが来て職質したので、文句をいってやった。
翌日は吉備中山、総社方面を見学した。

岡山市 吉備津神社 中山茶臼山古墳 黒住教宝物館 犬養木堂生家

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吉備津神社。本殿・拝殿。国宝。岡山市北区。平成
26519日(月)。本日は岡山市の吉備の中山周辺、総社市方面を見学した。鷲羽山駐車場から出発し、通勤ラッシュを抜けて、吉備の中山北西麓の吉備津神社に830分頃到着。吉備津神社には15年ほど前に訪れているが記憶に残っていない。
吉備津神社は岡山県を代表する神社で、吉備津造り(比翼入母屋造)の社殿、釜の鳴る音で吉凶を占う鳴釜の神事、また桃太郎伝説のモデルなどで知られている。
主祭神は大吉備津彦命で、本来は吉備国の総鎮守であったが、吉備国の分割により備中国一宮となった。大吉備津彦命は7代孝霊天皇の第三皇子で、崇神天皇10年に四道将軍の一人として山陽道に派遣されて吉備を平定した。その子孫が吉備の国造となり、古代豪族・吉備臣になったとされる。 
本殿と拝殿は後光厳天皇の命で将軍足利義満が応永121405)年再建し、応永321425)年に遷座した。比翼入母屋造の本殿の手前に切妻造、平入りの拝殿が接続し、合わせて1棟として国宝に指定された。比翼入母屋造とは、入母屋造の屋根を前後に2つ並べた屋根形式で、「吉備津造」ともいう。拝殿は本殿と同時に造営され、正面は切妻造、背面は本殿に接続している。
 
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吉備津神社。拝殿。朝拝。毎週月曜日は神職・巫女により朝拝をしているとのこと。偶然、その最後あたりを見学することができた。
内容は大祓詞奏上、明治天皇御製奉唱、敬神生活の綱領唱和。
 
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吉備津神社。回廊。天正
71579)年再建。全長360mにもおよび、自然の地形そのままに一直線に建てられているので高低差がある。
 
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吉備津神社。御釜殿。重文。慶長
171612)年鉱山師安原知種が願主となり再建。単層入母屋造の平入で、本瓦葺。南北に伸びた長方形で、北二間に釜を置く。鳴釜神事が行われることで有名。
鳴釜神事の起源伝説は次のとおり。吉備国の温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷の祝の娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという。
釜で水を沸かし、神官が祝詞を奏上、阿曽女が米を釜の蒸籠の上に入れ、混ぜると、大きなうなる様な音がする。この音は「おどうじ」と呼ばれ、音の強弱・長短等で吉凶を占う。
 
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吉備津神社。矢置石。境内の北端にある。矢立の神事が現在でも行われている。吉備津彦命は温羅との戦いのさい、吉備の中山に陣をとり矢を射ると、矢と温羅が投げた石が悉く空中で衝突し海に落ちたという。吉備津彦命が矢を置いた岩を矢置岩とよぶと伝わる。
 
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吉備津神社。社号標。犬養毅の揮毫。境内の北端にある。当地出身の政治家犬養毅は、犬養家の遠祖犬飼健命が大吉備津彦命の随神であったとして当社を崇敬していた。
中山茶臼山古墳へ向かう。
                                                               
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中山茶臼山古墳。吉備の中山の西南側山頂にある前方後円墳。
7代孝霊天皇皇子の大吉備津彦命の墓に治定されて、宮内庁の管理下にあり、立ち入りができない。古墳時代前期の築造とされ、墳長約120 m、後円部径約80m、後円部高約12m、前方部長40m。
採集されている埴輪は、最も古い埴輪である都月型とする意見と、後続する型式の埴輪であるという意見がある。また、墳丘も古墳時代前期中頃の奈良県天理市行燈山古墳(伝崇神陵)の2分の1相似形という意見もある。
登り口が分からなかったので、前日見学した古代吉備文化財センターに行き、教示を受けた。
 
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中山茶臼山古墳。古墳付近からの西方向への眺望。平地には弥生時代の墳丘・楯築遺跡、王墓山古墳、造山古墳があり、背後は日差山の山並み。
南側に黒住教本部があるので、立ち寄ってみた。
 
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黒住教本庁(本部事務所)。駐車場から参道方面を眺める。
黒住教は、岡山市今村宮の神官黒住宗忠が江戸時代後期に開いた教派神道で、天理教、金光教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられる。
文化111814)年病気のため死を覚悟した黒住宗忠は太陽を拝む中で天照太神と同魂同体となるという霊的体験をして、病気の治癒後、宗教活動を始めた。宗忠の死後、安政3年に神祇管領長上・吉田家より「宗忠大明神」の神号を与えられ、文久2年に京都の神楽岡に宗忠神社が創建され、慶応元年には孝明天皇によって勅願所となった。
祭神は「天照大御神」「八百萬神」「教祖宗忠神」の3柱。教団本部は岡山市北区尾上の神道山にある。かつては同区大元の宗忠神社の隣接地に本部を構えていたが現在地に昭和49年に移転した。
境内地約30万㎡(10万坪)の丘陵地に設けられた参道を進む。
 
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黒住教宝物館
案内板。参道脇にあり、教主奥津城のあとに寄ることにした。藤原啓記念館は入館料が高いので、ここで作品を鑑賞しようと考えた。
 
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黒住教。動く参道。エスカレーター。参道に脇に設けられており、これだけ大規模なのは珍しい。
 
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黒住教。大教殿。昭和
49年の大教殿神道山遷座に際し、神道と関連の深い米作の拠り所である農家を基本とした建築をモチーフとして、浦辺鎮太郎が設計した。
本殿は伊勢神宮内宮の古材でもって造営されている。大屋根は板状の玄昌石(宮城県産出)が葺かれ、その上には備前焼作家岡山県無形文化財保持者であった故藤原建氏制作献納の備前焼で千木鰹木棟瓦が設えられている。基壇石は石鎚山連峰から運ばれた安山岩が使われている。
 
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黒住教。教祖宗忠神をはじめ代々の教主の奥津城(墓所)。三つの山があり、正面は教祖神と妻の伊久比賣霊神、左右には祖神の父母をはじめとした先祖遠祖、二代から五代までの歴代教主並びにその夫人が祀られている。
 
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黒住教宝物館。黒住教教主の家に伝わる美術品の数々の展示室、教徒であり備前焼作家として人間国宝にも親子して認定された藤原啓、雄と藤原建の記念室、また戦後の京都で八木一夫らと前衛陶芸家集団「走泥社」を結成して世界的に活躍した鈴木治の記念室があり、それぞれ本教に献納された作品を常設展示している。さらに、現代美術家高橋秀や母親が教徒である横尾忠則から献納された作品の数々も陳列している。
予想を超えて素晴らしい美術館だった。鈴木治や高橋秀の現代美術に感動した。入場無料。火曜日が休館日なので運がよかった。学芸員が親切に同行解説してくれた。横尾忠則の「神庭の滝」をモチーフとしたタペストリーは絢爛豪華な迫力があり、近寄ると色彩豊かな布きれの重なりだったことに驚嘆した。また、向井修二の記号インスタレーションが制作されていた。
 
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黒住教本庁一階。高橋秀の作品「神みどり」。
高橋秀は昭和5年広島県新市町(現福山市)生まれ。1966年頃から整形したカンバスを明快な色調のアクリル塗料で着色するスタイルに至る。自然発生的イメージから展開した有機的形態と数種の限られた色彩により、心理的含蓄のある自由な空間イメージを生み出す。抽象的な作品ながら、その印象から「エロスの画家」ともいわれる。
1961年第5回安井賞受賞。1963年から2004年までローマに滞在した。 1979年には友人の版画家池田満寿夫に請われ池田満寿夫原作、監督の映画「エーゲ海に捧ぐ」の美術監督を務めた。2011年より倉敷芸術科学大学名誉教授。
 
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黒住教本庁一階。高橋秀作品を使用したポスター
直島の現代美術より日本人作家の日本の風土に根付いた現代美術の素晴らしさを味わうことができて眼福であった。
南西へ進み、犬養木堂生家・犬養木堂記念館へ向かう。
 
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旧犬養家住宅(犬養木堂生家)。岡山市北区。重文。主屋と土蔵は江戸時代中期の建築である。
犬養木堂(毅)は安政21855)年、大庄屋で儒学者の源左衛門の2男として生まれた。明治10年の西南戦争には記者として従軍、昭和6年に総理大臣となり、翌年の五・一五事件で「話せばわかる」の言葉を残して凶弾に倒れた。
山陽新幹線脇の道路横に駐車場が新設されており、徒歩5分ほどで着いた。
 
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旧犬養家住宅。土蔵と主屋。正直な話、何故重文か分からない。
西に小川を隔てて犬養木堂記念館が併設され、演説レコードの肉声なども聴ける。来館者は意外と多かった。
 
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旧犬養家住宅付近にいたサギ。自然が豊かな地区であった。
北西近くの楯築遺跡へ向かった。

倉敷市 ストーンサークルのある楯築遺跡 岡山市 全国第4位の巨大古墳・造山古墳

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楯築遺跡。国史跡。入口。倉敷市矢部。平成
26519日(月)。旧犬養家住宅から北西2㎞ほどの丘陵地にある楯築遺跡へ向かった。王墓の丘史跡公園として整備されており、遺跡の北西に駐車場がある。
楯築遺跡は弥生時代後期の弥生墳丘墓で、墳頂の巨大な立石群で知られる。円墳墳頂から北東側と南西部に突出部が築造されており、前方後円墳の形状創出の謎を解く鍵を握るとされ、埴輪のルーツとされる特殊器台の出土や弧帯文が刻まれた旋帯文石(重文)の存在など、古代の吉備勢力を研究するうえで不可欠の遺跡と位置づけられている。
 
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楯築遺跡。案内図。王墓の丘史跡公園のうち北端の楯築地区には楯築遺跡のほか、古墳群も残存している。楯築遺跡は北端にあり、南西の突出部は給水塔が建てられて破壊されてしまった。
墳形は双方中円墳である。直径約43m、高さ45mの不整円形の主丘に北東・南西側にそれぞれ方形の突出部を持つ。突出部両端の全長は72メートルで同時期の弥生墳丘墓としては日本最大級である。
 
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楯築遺跡。墳頂の巨石群。墳頂には木棺を取り囲むように5
個の巨石が立てられている。
主墳には2基の埋葬施設が確認され、墳頂中央部地下1.5mに埋葬されていた木棺がこの墓の主人のものと思われる。出土した木棺は全長約2m・全幅約0.7mで棺の底には30kgもの朱が厚く敷かれていた。木棺は全長3.5m、全幅1.5mの木槨に納められていた。副葬品として鉄剣1本、首飾り2個、多数のガラス玉と小管玉が出土した。もう1基の埋葬施設は中心埋葬施設の南東9メートルの位置に発見されたが僅かに朱が認められるのみで出土品は無かった。
 
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楯築遺跡。墳頂の巨石群。ストーンサークルの名残りであろうか。
 
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楯築遺跡。墳頂の巨石群。吉備津神社や鬼ノ城などのように温羅伝説が残っており、吉備津彦命が温羅との戦いに備えて石楯を築き、防戦準備をしたと伝わっている。
 
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楯築遺跡。墳頂の巨石群。注連縄のある後補の石の祠の中にご神体とされる旋帯文石が祀られていた。
 
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楯築遺跡。斜面にも列石がめぐらされている。墳丘は自然地形を利用し、盛り土を行って整えられた。
 
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楯築遺跡。斜面裾部の列石。
 
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楯築遺跡。北東側の突出部も団地造営工事のため破壊され、今ではその名残を一部にとどめているに過ぎないが、前方部状の突出で、およそ十数メートルほど伸びている。
 
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楯築遺跡。旋帯文石の収蔵庫。墳丘上には大正時代の初め頃まであった楯築神社に、代々伝世し、ご神体として神石(亀石)と呼ばれる弧帯文が刻まれた石が安置されていたが、現在はこの遺跡のそばの収蔵庫に祀られている。
二つの小窓が開けられ、見学することができる。
 
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楯築遺跡。旋帯文石。重文。
350㎏の石灰岩系の岩石に人面を刻み、体部全体に帯状の紐を旋回させ束縛したような文様を精緻に彫成したものである。この文様は弥生時代の祭祀儀式に用いられた大形器台と同種で、祭祀、呪術的な様相を漂わせた、他に例のない遺品である。弥生時代社会をみるうえに欠かせない重要な遺品であるとともに、原始工芸の一水準をも示している。
 
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楯築遺跡。旋帯文石。別角度から。
北西の鯉喰神社へ。
 
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鯉喰神社。倉敷市矢部。温羅伝説ゆかりの地であり、傷を負い、鯉に姿を変えて逃げる温羅を、鵜に変身した吉備津彦命が喰いあげて捕らえたという。それを祭るため村人達はここに鯉喰神社を建立した。
社殿は元禄14(1701)4月、天保133月に造営し現在に至る。大正64月、庄村矢部字向山村社楯築神社を合祀。楯築遺跡の所有・管理者。
 
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鯉喰神社境内からの風景。左端に楯築遺跡のある王墓山の丘陵が民家の間からわずかに眺められる。
北西近くにある造山古墳へ向かった。
 
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造山古墳。岡山市北区。国史跡。駐車場から眺める造山古墳。全長
350m、後円部の高さ31m、平面積約7.8haをもつ前方後円墳で仁徳陵・応神陵・履中陵に次ぐ全国第四位の規模。墳丘上まで上がれる,全国でも唯一の大型前方後円墳として知られている。上・中・下の三段からなり,円筒埴輪列を巡らせていた跡が確認されている。5世紀前半の吉備を支配した「王」の墓といわれている。
吉備津神社と同じく15年ほど前に見学した。
 
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造山古墳。前方部の墳丘にある石棺の蓋の破片。前方部は破壊されており、その跡に造山集落の荒神社が建てられている。同神社の鐘突堂の脇に置かれている手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜式の長持型石棺の身部分で、社の右横側後ろに石棺の蓋の破片が放置されている。この石棺は新庄車塚古墳より運ばれたものという説と後円部から移動したという説がある。
 
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造山古墳。前方部から後円部へ。
 
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造山古墳。後円部から前方部を眺める。
 
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造山古墳。後円部から西側の造り出し部を眺める。
 
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造山古墳。後円部から備中高松城・最上稲荷方面を眺める。戦国時代の高松城水攻めのさいには、毛利方が後円部に山城を築城した。
西近くにある備中国分寺へ向かった。

岡山県総社市 備中国分寺 こうもり塚古墳 作山古墳 総社市埋蔵文化財学習の館 備中国府跡 総社宮 宮山墳墓群 宝福寺 

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備中国分寺五重塔。総社市。重文。平成
26519日(月)。造山古墳から西近くにある備中国分寺へ向かった。
聖武天皇の発願によって創建された備中国分寺の建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、現在の建物は江戸時代中期以降に再建された。境内にそびえる五重塔は、吉備路の代表的な景観となっている。
備中国分寺五重塔は弘化元年(1844)頃に完成し、34.32mの高さがある。この塔は屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさの細長い造りで相輪も短く、江戸時代後期の様式を色濃く残し、県内唯一の五重塔でもある。
 
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備中国分寺跡の礎石。創建当時の境内は、東西
160m、南北178mと推定される、江戸時代に再興された現在の備中国分寺があるため、南門・中門以外の建物の位置は明らかではない。創建当時の礎石は多く残されている。
徒歩で東に10分ほどのこうもり塚古墳へ向かう。
 
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こうもり塚古墳。
6世紀後半に築造された吉備の大首長の墓と考えられる前方後円墳で、今は松林に覆われた自然の丘陵を利用して築造されている。墳長約100m・後円部径約5560mで二段に構築されていたと推定される。墳丘、石室は岡山県最大規模の後期古墳で、全国的にも有数の規模を誇る。
 
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こうもり塚古墳。後円部南側に花崗岩の巨石を組み合わせた横穴式石室が開口している。石室は両袖式で全長
19.4m、巨大な石を組み合わせて造られており、岡山県下三大巨石墳の一つに数えられ、全国でも、確認されている横穴式石室の中では第4位の規模を誇る。
 
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こうもり塚古墳。玄室は奥行
7.7m・幅3.61m・高さ3.6m、天井石は3枚の巨石で構成されている。玄室には長さ2.38m・幅1.4m・高さ1.31mの刳抜式家型石棺がある。石棺は貝殻石灰岩製で岡山県井原市浪形山で産出されたものである。発掘調査では土師質亀甲形陶棺残欠や鉄釘が出土した。鉄釘の存在から石棺、陶棺のほかに木棺も埋葬されていたと推定されており、複数の被葬者があったと思われる。単鳳環頭柄頭・大刀・鉄鏃など武具、馬具、ガラス小玉・水晶製切子玉・金環など装飾品、鉄滓、須恵器類なども出土した。
 
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こうもり塚古墳。
石室から外を眺める。羨道の広大さが実感できる。内部は涼しい。
西近くにある作山古墳へ向かい、西側の駐車場に駐車。
 
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作山古墳。国史跡。説明板写真・図面。作山古墳は、全国第
9位、岡山県下第2位の規模を誇る前方後円墳で、全長286m、後円部径約174m・高さ約24m、前方部前面幅約174m・高さ約23m岡山市の造山古墳(全国第4位、岡山県下最大)に次いで、5世紀中ごろに築造されたとされる。
 丘陵を三段に整形加工した斜面と平らな面からなる墳丘は、現在草と木で覆われ一見山にしか見ないが、築造当時は平らな面に5千本以上もの埴輪が立て並べられ、斜面には石が敷き詰められており、南方に存在したと推定されている古代山陽道に先行する道を行き交う人々に、吉備の大首長の権力を誇示したものと思われる。
作山古墳は畿内の大王墓と異なり、後円部は正円ではなくだ円形で、前方部も台形状の突出がみられるなど、不整な形態をしている。また、前方部の前面には丘陵の一部が、取り除かれないまま残されていることから、作山古墳に葬られた吉備の首長は、畿内の大王ほど、古墳築造にかける余力がなかったのではないという見方もある。
 
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作山古墳。墳丘上。天皇の墓とされていないため、中に立ち入ることができる最大級の古墳だが、登ってみても墳丘の形ははっきりしない。
12月に下草刈りをするころは古墳の形がよく分かるという。
備中国府跡へ行く前に、その500mほど東に総社市埋蔵文化財学習の館で情報を入手しようと向かった。
 
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総社市埋蔵文化財学習の館。展示。こうもり塚古墳出土土器。総社市南溝手にあり、土・日・祝休館、入館無料。総社市内から出土した古代吉備全般に関する遺物等を展示。
 
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総社市埋蔵文化財学習の館。展示。鬼ノ城の模型。展示室への廊下には全国の古代山城が写真とともに紹介されており、ほとんど見学済みなので懐かしかった。
 
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総社市埋蔵文化財学習の館。展示。鬼ノ城の模型。女性職員に尋ねられたので、旅行の目的・予定などを話した。日生諸島大多府島への航路はやはりよく揺れるらしい。備中国府跡の大体の位置を確認。鬼ノ城は市内からもよく見える、三輪・宮山墳墓群の三笠山古墳の比高差が半端ではないなどの話を聞き、展示概要の小冊子も頂いて、備中国府跡へ向かった。
 
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伝備中国府跡。総社市金井戸。備中国は、
997郷が管轄下にあり、国府はそのうちの賀陽郡に置かれたと記録されている。国府が置かれた場所については定かではないが、「国府」「国府西」「北国府」などの小字名がみられる金井戸の地の中でも、「御所」の地名が残るこの場所が、有力な候補地となっている。
 
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伝備中国府跡付近から北に鬼ノ城を眺める。
50mほど北へ歩くと、北の山上に鬼ノ城の城壁がはっきりと見えた。鬼ノ城へは翌朝から見学した。
 
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総社宮。総社の地名の由来となったといわれる社。古代、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していた。これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はその
1つで備中国の総社にあたる。国司が力を失うとともに多くの国々で総社は廃れていったが、当社は現代までその姿を維持する全国的にも珍しいものである。現在、祭られている祭神の数や社殿規模などでは全国の総社で最大である。備中の総社は324社の神を合祀している。
 
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総社宮。神池・神島。前庭の三島式庭園は、古代様式を今に伝え、長い回廊が美しい影を水面に映している。三ッの島が品の型に配島されていて、中の一つには磐境的石組遺構が残っているという。吉備系の配島数は本来五島または七島とされる。
南約1.5㎞の三輪にある宮山墳墓群へ向かった。
 
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宮山墳墓群・三輪山古墳群。案内図。宮山墳墓群・三輪山古墳群は三輪山の西端にある弥生時代後期から古墳時代初頭にかけての墳墓群で,箱式石棺・土壙墓・特殊器台棺等多様な埋葬を伴う集団墓と,前方後円墳状の墳丘墓、東方の三輪山古墳群から構成されている。
三輪山の南西端にある百射山神社は式内社の古社である。神社には駐車場がある。
 
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宮山墳墓群。西端の集団墓群。
 
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宮山弥生墳丘墓。中央の「宮山墳墓群」と書かれた碑の奥側に墳墓群の中心となる宮山弥生墳丘墓がある。手前が前方部、奥が後円部となる。盛土で造られた墳丘は全長
38m、直径23m、高さ3mの円丘部に地山を削りだした低い方形部がついた形で、前方後円墳の原型ではないかと評価されている。
 
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宮山弥生墳丘墓。墳丘墓の後円部には竪穴式石室が築かれ、石室内からは中国製の鏡、直刀、剣、銅の矢じり、鉄の矢じり、ガラス小玉などが出土した。
 
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宮山弥生墳丘墓。後円部。この墳丘墓に立てられていたと思われる特殊器台と同様の文様をもつ特殊器台が、最古級の古墳とされる箸墓古墳をはじめ奈良県の古い古墳から出土している。弥生時代の終わりごろ、吉備の葬送儀礼に使用された特殊器台は、古墳に立て並べる円筒埴輪へと変化していったことは、古墳時代の葬送儀礼の成立に吉備が大きく関わったことを示す。
 
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三輪山古墳群。三笠山古墳。後円部から前方部を見る。三輪山の尾根を奥に進むと、宮山墳丘墓の後継者のものと考えられる2基の前方後円墳が並んでいる。全長
55mの天望台古墳と全長70mの三笠山古墳で、4世紀後半頃から系統的に築かれた首長墳と考えられ、三笠山古墳は5世紀初めの築造とされる。
 
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三輪山古墳群。三笠山古墳。後円部を見上げる。天望台古墳と三笠山古墳は継続して築造されたが、その後、前方後円墳はこの地域では造られていない。
周遊路を下り、百射山神社へ戻る。本日の宿を道の駅「かよう」に予定していたので、その途中にある雪舟修行の寺・宝福寺へ向かった。
 
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宝福寺。方丈。総社市井尻野。宝福寺は臨済宗東福寺派の中本山。画聖雪舟が幼い頃修行した中国地方屈指の名刹。
備中国赤浜(現在の総社市赤浜)に生まれた雪舟は修行もそこそこに絵ばかり描いていた。修行に身を入れさせようと禅師は雪舟を方丈の柱に縛り付けた。夕刻、様子を見に来た禅師は逃げようとする一匹の鼠を見つけ捕まえようとしたが動かなかった。よく見るとそれは雪舟が流した涙を足の親指で描いたものであった。以来、禅師は雪舟の絵を咎めなくなったといわれている。
天正3(1575)年の備中兵乱のさい、その方丈は焼失し、雪舟ゆかりのものは残っていない。
 
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宝福寺。仏殿と池。
道の駅「かよう」へ向かった。

岡山県総社市 日本100名城の古代山城・鬼ノ城  豪渓

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豪渓。天柱山。国名勝。岡山県総社市・吉備中央町。豪渓寺南側の駐車場から。平成
26520日(火)。吉備中央町の道の駅「かよう」から鬼ノ城へ向かう途中で豪渓へ立ち寄った。豪渓総社市と吉備中央町にまたがる槇谷川の上流にあり、中天にそびえ立つ330mの天柱山・剣峰など数知れない奇岩絶壁のいかつい岩石美と、清流と桜・新緑・紅葉の調和した渓谷が壮大な自然美をくりひろげている。
渓谷内を走る県道は道幅が狭い。通勤時間なので時々車に出会うので、余裕を持って走行できず、それらしい地帯に入っても豪渓の案内はなかったが、総社市域を進むと、豪渓寺南側の駐車場に出会った。
 
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豪渓。見返橋から。渓谷の全長はわずか
600メートルと小規模だが、その間に花崗岩の節理に沿って風化、浸食された奇岩、奇峰が連続する奇勝となっている。
豪渓寺の境内に立ち入ったが、無住のようだった。天柱山方面への遊歩道は通行止めになっていたので、車で少し戻って見返橋から奇岩群を眺めた。
鬼ノ城へ向かう。
 
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鬼ノ城。国史跡。総社市。鬼ノ城のジオラマ模型。鬼城山ビジターセンター。
日本100名城でもある鬼ノ城は、7世紀後半に築城されたと考えられ、標高400600mの吉備高原の南縁に築かれている。眼下には古代吉備の中枢地たる総社平野と足守川中流域平野を望み、快晴時には瀬戸内から遠く四国の山並みが望見される遠望絶景の地に立地しており、攻めるに難しく、守るに易い地に、堅牢で緻密な城づくりをした難攻不落の古代山城である。
鬼ノ城は、すり鉢を伏せたような形の山で、斜面は急峻だが頂部は平坦である。この山の八合目から九合目にかけて、城壁が2.8kmにわたって鉢巻状に巡っている。
左端に西門、下部中央に南門、下部右側に東門、上部中央に北門がある。
850分頃に鬼城山ビジターセンターの駐車場へ着いた。9時開館、私が最初の入館者。月曜日が休館日なので。昨日は麓の備中国府跡から城壁を眺めるに留めておいた。本日は午後から雨の予報で、湿気の多い気象条件であった。ビジターセンターには無料の名水ドリッパーがある。
 
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鬼ノ城。鬼ノ城のジオラマ模型。
城壁で囲まれた城内は比較的平坦で約30ヘクタールという広大なもので、4つの谷を含んでいるため、谷部には排水の必要から水門が6ヶ所に設けられており、また、出入り口となる城門が4ヶ所にある。城内には、食品貯蔵庫と考えられる礎石建物跡やのろし場、溜井(水汲み場)もある。
下が西側、右が南の総社平野方向。下部のビジターセンターから舗装された遊歩道を600m登ると、城壁の手前側西端部にある西門に至る。
ビジターセンターで入手した地図付きリーフを見ながら、930分頃、城内散歩へ出発した。
 
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鬼ノ城。西門。角楼跡。遊歩道の途中から。角楼跡の上部が鬼ノ城山の山頂で標高
397m。その直下に展望所がある。
 
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鬼ノ城。推定復元された西門。正面3間(
12.3m)、奥行2間(8.3m)の大規模な城門で、中央1間が開口する。12本柱で構成される堀立柱城門で、開口部の床面は大きな石を敷いており、その両側に6本の角柱が立つ。門扉のつく柱は、一辺最大60cmもあり、これに精巧な加工をした門礎を添わせている。門礎には方立・軸摺穴・蹴放しが刻まれている。両側の門礎とも原位置を保っていることから、開口部は間口約4mで、うち3mが出入口となる。
 
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西門。扉は内開きである。扉を開け、4段の石段を上がると城内となるが、ほぼ3mか間隔で4本の柱が立っている。この柱は、城内の目隠しと敵兵を分散させる板塀の柱と思われ、大野城(福岡県)大宰府口城門でも見つかっている。
 
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角楼跡。ここは、南北両方から入り込んだ谷の頭部にあたる背面側の要地で、正面側約
13m、奥行側約4mが前方へ突出した長方形の張り出し部が、城壁に付設されている。
張り出し部の下部は、推定高さ約3mの石垣とし、その上部は土積みであったようで、張り出し部の本来の高さは約5m以上と推定される。石垣の間にはほぼ4m間隔で、一辺約50cmの角柱が立つ。また、城内側には角楼への昇降のための石段もつけられている。
張り出し部をもつこの遺構=角楼は,背面からの攻撃に備えるとともに西門防備をも意図した重要な防御施設と考えられる。なお、角楼の存在、石垣の間に立つ柱、敷石が巡っていることは、日本の古代山城では初の発見例である。
 
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角楼跡からの眺望。総社平野。左の高い山が福山城跡。その右下に続く小高い山が宮山墳墓群のある三輪山。
 
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角楼跡上の山頂展望台にある眺望案内図。南東方向。
小豆島や四国方面は快晴であれば見られる。
 
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角楼跡上の山頂展望台にある眺望案内図。南西方向。
 
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西門。城壁の外・内側には平たい敷石が
1.5m幅で敷かれている。板状の石を敷き詰めて通路状としたもので、城壁に沿って内側と外側の両方にある。通路というよりも、城壁が流水によって壊されることを防ぐための施設であるらしく、日本の古代山城では鬼ノ城にしかみられない。
西門の上に登ることはできないので、東方向へ下りていく。
 
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西門東下。南東方向への眺望。
 
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西門付近。城壁は、一段一列に並べ置いた列石の上に、土を少しづつ入れてつき固めた版築土塁で、平均幅約7m、推定高は約6mもある。
 
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西門東下。要所には堅固な高い石垣を築いており、その威圧感は天然要害の地であることとあわせ、圧倒的な迫力をもっている。
 
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第2水門。
版築土塁や高い石垣で築かれた城壁は、数m~数十mの直線を単位とし、地形に応じて城内外へ「折れ」ていることに特徴がある。
谷部には排水の必要から水門が6ヶ所に設けられている。下半部が石垣、上部が土塁の構造で、城内の水を管理するための排水口として機能した。
水門は、外面の下部を石垣積み、上部は版築工法による土積みで、背面は石垣積みである。通水溝は石垣最上部につくられており、これは他の古代山城にみられない鬼ノ城の水門の特徴である
 
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南門跡。西門と同構造・同規模の
12本柱からなる堀立柱城門である。開口部の大きさも西門とほぼ同じだが、門扉の柱は一辺最大58cmでわずかに小さい。城内へは高低差があるため、7段の石段がつけられている。この門の正面は急斜面となっており、どの位置から出入したのかはっきりしない。
 
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東門跡を西の高石垣から望む。
 
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高石垣から足守川方向を眺める。吉備の中山、児島湾、楯築弥生墳丘墓、造山古墳を見下ろす。
 
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東門跡。開口部の床面を石敷きにしているのは、ほかの城門と同じだが、柱の数や種類は異なり、正面1間(
3.3m),奥行2間(5.6m)の6本柱からなる掘立柱城門である。柱の大きさは最大径58㎝の丸柱の多用が目立つ鬼ノ城では異質ともいえる。
 
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屏風折れの石垣。上空から見るとY字型に突出して張り出しており、鬼ノ城の石垣の中で最も著名な高石垣である。血吸川の尾根上に張り出した急崖上に舌状に構築されている。建物は存在しなかったと考えられている。
屏風折れの石垣には1030分頃に着いた。
 
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屏風折れの石垣から東門方面の尾根を眺める。
石垣周辺は人気があり、先客数人がいた。仕事を休んできたという地元の中年夫婦と15分ほど話をした。ここで食事をする人も多い。
 
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屏風折れの石垣の上にある記念碑。戦前から著名な観光地であったようだ。
北門へは周遊せず、中央部の礎石建物群へ向かう。
 
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池と湿地帯。まむし注意の看板。中央部は窪地が多く、水が溜まりやすいようだ。籠城には適している。
 
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礎石建物群。城内の中央部で、7棟が確認されている。礎石をもつ総柱の建物で、食品貯蔵庫などであったと推定される。
 
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礎石建物群。管理棟跡。倉庫群の北西に管理棟が設置されていた。
北門へは行かず、西へ進むと、山頂北側を回り込んで、角楼横に出た。
1115分頃に駐車場へ戻った。他の古代山城と比べて、残存石垣の壮大さや眼下を見下ろす景観の良さが優れていた。
ヤマケイの登山ガイドに載っている「鬼の差上げ岩」が北西近くにあるので、車で向かった。
 
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鬼の差上げ岩。ビジターセンターから狭い車道を北へ進むと、山の中に民家が多数あることに驚いた。道標に従い、
5分余りで駐車場へ到着。右側へ山道を登るが、正しい道なのか不明。右下には大きな民家がある。左へ山道を登ると、岩屋寺に着いた。その石段をさらに登ると、右側に鬼の差上げ岩があった。辺りは鬱蒼とした緑に包まれ、鬼がでそうな雰囲気だった。
歩き疲れたこともあって、そのまま往路を引返すと12時になっていた。
本日はその後、倉敷、浅口市金光町、笠岡市を見学し、道の駅「笠岡」で泊まった。
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