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三重県四日市市 重文・近代化遺産・四日市旧港港湾施設 末広橋梁

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重文・近代化遺産・四日市旧港港湾施設。四日市市高砂町地先。稲葉翁記念公園から対岸の潮吹き防波堤を眺める。
2017510日(水)。
四日市旧港港湾施設は総延長199mの湾曲した防波堤、総延長77mの直線状の西防波堤などからなり、明治27年の建設で、明治期に建設された港湾施設の姿を良く残しており、わが国の築港技術の近代化の過程を示すものとして貴重である。とくに防波堤は、他に類例を見ない水抜穴を持つ二列構造をとっており、技術的に見てきわめて価値が高い。
 
西防波堤の側の陸地に顕彰碑、同じくその付け根に「明治廿七年五月建立」の銘をもつ記念碑がある。
 
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四日市旧港港湾施設。説明板。

古くから良港として知られた四日市湊が、近代港湾としての形を整えたのは明治15年(1882)のことである。1854年の安政の大地震以降、大きく破損し、衰退した四日市港を再建するため、地元の廻船問屋稲葉三右衛門が私財を投じて開始した改修工事は、途中三重県への移管を経て三右衛門自身の手により完成し、このとき現在旧港とよぱれる港湾施設のおおよその形が整えられた。その後明治22年の暴風雨と翌年の台風によって防波堤が破損したため、同26年から公営による改修工事が着手され、翌年に竣工している。
 
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潮吹き防波堤。レプリカ。
防波堤は高低差のある2つの堤を平行に並べ、内側の高い堤に5角形の水抜き穴をつくる特異な構造をもつ。その特異な構造から「潮吹き防波堤」の名で知られている。
 
防波堤は、総延長199mで、旧港湾内を包み込むように湾曲して延びる。埋立て高4.7m(以下大堤という)と3.7m(以下小堤という)の防波堤が平行する二列構造をとり、大堤には五角形の水抜穴が49か所設けられている。
 
後年、大堤の上部にコンクリートによるかさ上げが行われ、水抜穴も埋められているが、先端部約14.7mはかさ上げと水抜穴の封鎖がなされなかったために、旧状を残している。
 
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潮吹き防波堤。レプリカ。
この特徴的な防波堤の構造は明治27年の改修時に設けられた。改修工事を請け負ったのは服部長七であり、彼が発明したとされる人造石工法がこの防波堤にも用いられている。

港外側の小堤を越えた海水が両堤の間にある溝にたまり、水抜穴から港内に流れ出すようになっており、波の力を弱める構造により、波の力を直接受けて防波堤が破損することを防いでいる。

水抜穴から海水が流れ出す様子から「潮吹防波堤」の名で親しまれている。この特徴的な形態の考案者は、服部長七ともオランダ人土木技師ヨハネス・デ・レーケとも伝えられるがいずれも確証はない。
 
イメージ 2潮吹き防波堤。説明板。
 
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稲葉三右衛門君彰功碑。
顕彰碑は、私財を投じて四日市港築港に貢献した稲葉三右衛門の功績をたたえるため、明治37年に建てられた(本体には「明治三十六年六月建」の銘がある)もので、石積基壇の上にフルーティングのある西洋古典様式風の柱身が載る。
 
直線距離で1㎞ほど南にある末広橋梁へ移動。
 
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重文・近代化遺産・末広橋梁。四日市市末広町。
末広橋梁は、三重県四日市港に所在する跳開式の鉄道可動橋で、四日市港修築工事による第一号埋立地(末広町)と第二号埋立地(千歳町)間の千歳運河に架けられている。
 
全長58m、全体では五連の桁より成るが、鉄道起点寄りの第二連目から第四連目の三連が可動橋本体部にあたり、中央の一連(第三連目)が第二橋脚上に建てられた門型鉄柱側に跳ね上がる可動桁となる。
 
可動橋型式は、門型鉄柱の頂部に架け渡されたケーブルにより可動桁の一端を持ち上げるケーブル・タイプで、設計製作は、アメリカ留学の経験を有する山本卯太郎の主宰する山本工務所で、昭和612月の製作になる(可動桁主桁側面中央及び門型鉄柱頭部の銘板による)。
 
中央の可動桁は、回転軸廻りを除けば標準的な50フィートの単線下路式鋼鈑桁で、可動桁前後の第二連目と第四連目の鋼鈑桁も標準的な40フィートの単線下路式鋼鈑桁であるが、第五連目の鈑桁は、いわゆるポーナル型の20フィート上路式鈑桁になる。
 
門型鉄柱は高15.62mで、100mm角のアングル材で組み立てられている。また、鉄道起点寄りの第一橋台と第一橋脚の間は跳上装置の機械室となっており、機械室の脇に木造平屋建の運転操作室を建てる。橋台及び橋脚はコンクリート製になる。
 
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末広橋梁。説明板。
末広橋梁は、四日市旧港港湾施設(平成八年十二月十日重要文化財指定)とともに四日市港の発展過程を示す土木遺構として貴重であり、陸上輸送と運河舟運とが拮抗していた時代状況を物語る典型的な橋梁遺構としての歴史的価値を有する。また、日本近代における橋梁コンサルタントの草分け的存在であり、可動橋を専門とした山本卯太郎の代表的橋梁作品として橋梁技術史上の価値が高い。
 
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末広橋梁。
「鉄の橋百選」に選ばれている。線路に近付く見学者もいるようだ。
 
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末広橋梁。
実際に貨車が通る風景が想像される。
 
1630分頃だったが、橋梁方向へ入る通勤車を数台みかけた。
このあと、四日市市内のスーパー銭湯「満殿の湯」で入浴(500円)し、道の駅「津河芸」へ向かった。

三重県津市 浄土真宗高田派本山専修寺 一身田寺内町の館

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一身田寺内町の館。浄土真宗高田派本山専修寺(せんじゅじ)の寺内町。津市一身田町。
2017511日(木)。
道の駅「津河芸」で起床。8時に道の駅がオープンしたので、観光パンフレットを多数入手。安濃温泉(300円)があるのを知った。三重県総合博物館で史跡情報を確認するのが、本日の最大目標。
伊勢上野城が近くにあるが、930分開館とあった(のちに日曜のみと判明)ので、830分では早すぎる、寺内町のある専修寺に立ち寄ろうかと迷った。専修寺には、15年ほど前に近鉄のフリー乗車券で時間が余ったので、途中下車して、長い距離を歩いて見学した記憶がある。このときは、建物が修理中のため覆われていた。
 
9時頃、国道23号線中勢バイパスを初めて走行し、三重県総合博物館を目指していたら、案内看板やナビに専修寺が目に付いたので、思い切って立ち寄ることにした。
 
専修寺北側道路に広大な専修寺参拝者用駐車場があったので、ここで駐車しなければならないのか、しかし、遠いな、「寺内町の館」にPがあったような気がするな、と専修寺南側道路を東端まで進み、「寺内町の館」前で停車すると、裏側に無料駐車場があったので駐車した。
 
開館930分の少し前だったが、入館すると、私しか入館者がいないので、受付の男性が説明やら話の相手になってくれた。同じ浄土真宗とはいえ、高田派は知られていないと嘆きながら、「一身田寺内町」という立派な小冊子を含めたリーフレット類を、大型な封筒に入れて渡してくれた。数本ビデオを見ていると、学生団体が先生やガイドとともに2グループ30名ほど入場してきた。2グループとも三重大学の学生と名乗っていた。
 
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一身田寺内町の館。江戸時代中期から明治時代初期の寺内町の復元模型。
高田本山専修寺を中心として、大きな寺や古い町並みが残る環濠に囲まれた町が「一身田寺内町」で、「寺内町」とは、15世紀の終わり頃から16世紀の中頃にかけて、浄土真宗の寺院を中心として造られた自治都市のことで、その多くは周囲に濠などがめぐらされている。
500m四方の寺内町の周囲は、毛無川や濠で囲まれている。南半分には、専修寺の末寺のほか、寺の用人や商人が居住していた。ガイドの説明には、「寺侍」という言葉も使われていた。
 
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一身田寺内町の館。
1010分頃、学生たちと同じく、専修寺などの見学へ向かった。
 
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専修寺。重文・山門。手前は釘貫門。
山門は、御影堂の正面にあって、専修寺伽藍の総門。五間三戸二階建て二重門の形式。これは山門として最高の格式を誇る。瓦に宝永元年(1704)の銘があり、これが建築年時とされる。
釘貫門は矢来で、この門を境に坊官などの住む寺内と、町屋がある地下に分かれていた。
 
専修寺は、浄土真宗10派のうちのひとつの真宗高田派の寺院。山号は「高田山」。本山は三重県津市一身田町に、本寺は栃木県真岡市高田にあり、本寺の住職は本山専修寺の住職が兼任している。「専修寺」の名の由来は浄土系宗派の特徴である専修念仏に基づく。
 
本寺専修寺は、親鸞が関東各地の教化に入って十余年、1225年(嘉禄元年)、親鸞53歳のとき明星天子より「高田の本寺を建立せよ」「ご本尊として信濃の善光寺から一光三尊仏をお迎えせよ」との夢のお告げを得て、現在の栃木県真岡市高田の地に専修念仏の根本道場(如来堂)を建立したのが起源とする。
本寺は東国における初期の浄土真宗の教団活動上重要な役割を果たした寺で、門徒衆は、関東各地の門徒が作る教団の中で最も有力な教団(高田門徒)となり、京都へ帰った親鸞からしばしば指導の手紙や本人が書き写した書物などが送られている。
 
その後、この教団は次第に発展し、「高田の本寺」と呼ばれて崇敬を集めるようになった。15世紀半ばごろに蓮如によって本願寺教団が次第に勢力を拡大していく。それに対して高田派教団はむしろ沈滞化の傾向にあったが、それを再び飛躍させたのが、東海・北陸方面に教化を広めた十代真慧(しんね)であった。
 
現在の三重県津市一身田町にある専修寺は、1470年代から真慧が伊勢国の中心寺院として建立した。当時この寺は「無量寿院」と呼ばれており、文明10年(1478年)には真慧は朝廷の尊崇を得て、「この寺を皇室の御祈願所にする」との後土御門天皇綸旨を得ることに成功した。
 
高田の本寺が戦国時代に兵火によって炎上したことや教団の内部事情から、歴代上人がここへ居住するようになり、しだいにここが「本山専修寺」として定着した。
 
専修寺には親鸞直筆の国宝西方指南抄、三帖和讃など、現存している親鸞の真筆文書の4割強を収蔵しており、これは東西本願寺よりも多い数である。
 
織田信長の時代には各地で一向一揆が弾圧されたが、一身田寺内町が残ったのは、信長政権と深いつながりがあったとされる。その傍証とされるのが、専修寺庭園にある茶室「安楽庵」である。二畳半に半畳の鱗板を入れた少人数の席で、主人と客席との間に太鼓張りの襖を入れるなど、珍しい趣向が凝らされている。これについては、千利休の長男道安と織田信長の弟有楽齋の合作のためといわれ、安楽庵の名前もこの二人の名前から取られた、との言い伝えがある。
 
また、江戸時代には藤堂藩2代藩主高次の娘を門主の嫁にもらったり、藤堂家から広大な土地を寄進してもらうなど、時の為政者と深いつながりを持っていた。
 
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重文・唐門。右奥は、案内所と納骨堂。
如来堂正面にある四脚門。すべて良質の欅を用い、しかも装飾で空間を埋め尽くしたような豪華な建築。天保15年(1844)の上棟。棟梁高木光規は如来堂を建てた但馬の孫。
 
多くの人が境内の雑草取りなどの作業中であった。
 
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重文・如来堂。
「証拠の如来」と呼ばれる阿弥陀如来立像を本尊とする堂。屋根を二重とししかも仏殿らしい各種の装飾を多用して、本堂としての偉容を示す。亨保6年(1721)に着工してから27年かかって、寛延元年(1748)に完成した。棟梁は近江八幡の名匠高木但馬。
 
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重文・御影堂。
開山親鸞聖人の木像を中央に、歴代上人の御影を両脇に安置する御堂。間口42.73m、奥行33.5m50、畳は725畳を敷き、その巨大さは現存する木造建築では全国では5番目の大きさ。寛永6年(1666)の上棟。
2000年から2008年にかけ大修理が行われた。
 
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御影堂・内陣厨子。開山親鸞聖人の木像と思われる。
 
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御影堂・脇内陣。桃山文化を髣髴とさせる。
 
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御影堂。入口上の高浮彫り。
 
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御影堂。入口上の高浮彫り。龍の雌雄か。金色の牙にキッチュ感があった。
 
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御影堂。入口上の高浮彫り。龍の雌雄か。
 
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御影堂。入口上の高浮彫り。鳳凰か。
 
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重文・通天橋。寛政
121800)年棟上。御影堂と如来堂を結ぶ。
 
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如来堂。内陣。御影堂より簡素だった。
 
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御影堂。東面。重厚感がある。
 
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鼓門。
専修寺の東側にある左右に長屋が付く四重の櫓門。建築年代は不明だが、1760年頃の絵図に描かれている。元は二重櫓であったが、幕末に現在の形に改築された。
寺内町に付き物の櫓門であった。
 
一身田寺内町の館に戻り、西端の桜門跡に向かう。
 
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毛無川。一身田寺内町の南の環濠として利用された川。西南端なので、東南端ほどの興趣はない。
 
予想以上に時間を使ったので、三重県総合博物館へ急いだ。

愛知県の山 駒山 豊田市旭地区

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駒山。登山口。愛知県豊田市旭地区。
登り1時間28分(コースタイム1時間45分)、下り57分(本堂跡から)。歩行合計2時間27分。所要時間2時間35分。
201763日(土)。
ヤマケイのHPによると、「分県登山ガイド愛知県の山」が、2017623日に改訂新版が発行される予定。「佐久島富士」「くらがり渓谷」などの新顔もある。
 
山と渓谷社の新分県登山ガイド「愛知県の山」が2006年、2010年に出版された。旧版は1995年の発行で、翌年購入し、1996年の山歩き開始から夏山へのステップアップ用、冬の体力維持用として折にふれて登った。改訂のたびに、新しい山がいくつか追加される。
2010年版の中で、6山ほどの未踏の山をコピーして準備していた。本年5月は三重県の未踏峰を登る予定だったが、足のむくみが続いたので諦めた。
 
昨年書いたブログの「愛知百名山」にアクセスがたまにある。具体的な山名は書いていない。分県登山ガイドに追加された山を全部登ったわけではないからだ。そのため、梅雨入り前に少しでも登っておこうと考えていた。
62日(金)の夕方、天気予報を見ていると、土・日・月は快晴とのことだったので、急遽、山行に出かけることにして、コピーしておいた山の中から、「駒山」、「三国山」、「丸山」、「古町高山」、「出来山」を選んだ。
 
63日(土)、11時過ぎに名古屋市守山区の自宅を出て、1245分頃に登山口周辺に到着。矢作川の上流にある奥矢作湖には来た記憶がない。中部電力の発電所関連施設が湖岸には多い。「相走橋」のたもとに登山口があるのだが、橋は見えないので、川が狭まった地点に来ると、右側に大駐車場があり、橋に通じる狭い脇道を確認して停車。
駐車場道路脇、山側電柱横に鉄塔22への黄色い標識と駒山登山口の表示があった。
 
登山口1330分発。麓の墓の前を通過し、鉄塔22への標識に従い、左の山腹を登る。途中、右上へ登る枝道があるが、広い道をそのまま登る。
 
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浅い沢は、かなり登った地点にあった。記事では麓近くのように書かれているので、印象が違った。
 
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送電線鉄塔
22。コースタイムでは20分だが、26分要した。登山体力の衰えを痛感した。とにかく、この鉄塔の下を通ることが、登山道を間違っていない証拠となるので安心した。この地点の下、倒木2本には巻道があった。
 
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山腹と尾根道の分岐。下りのさい初心者は直行する間違いを犯し易いので、指導標が必要な場所。目印に、黄色の輪というのは初めて見た。
 
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山腹と尾根道の分岐。同じような地点がもう一か所あった。山腹をジグザクに登る個所と尾根道を登る個所が混じる。
 
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林道。右上に駒山らしき山体が見えてきて、山腹脇から左へ登ると、
1435分、ススキの多い林道末端広場に到着。山肌の崩壊個所を通過すると、林道の作業場跡らしき広場に到着。ここからは、小川に沿った林道歩きとなる。今までの山道とは全く違う楽園のような別世界が面白い。
 
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駒山山頂へ通じる林道との出合。ここからは、舗装のある林道の歩きとなる。自動車で充分に入ってこられるほどの車道。
 
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頂上台地に残る小馬(こま)寺跡。右の車道を緩く登ってくると、おそらく庫裡であったであろう宏大な建物が残存している。今にも倒壊しそう。
 
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頂上台地に残る小馬(こま)寺跡。中央が本堂跡のようで、バラバラに倒壊している。右が庫裡、左は現役の休憩所。
山頂は左の裏手の道を回り込んだ地点にある。
 
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山頂手前のブナ。裏手の道を回り込んで、かなり歩くと、右の高台に看板が見えたので、登ると、文化財のブナだった。樹高約
21m、胸高囲約2.8mは豊田市内でも屈指の巨木らしい。
山頂と違ったので、山頂はどこかと思うと、横の高台にあった。
 
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駒山。山頂。標高
855m。
1458分に到着。山名標が置いてあるだけ。時間も遅いので、すぐに下山する。眺望があるような反射板へは、かなりの下りと登り返しになりそうだったのでパス。
本堂跡へ戻って、写真を撮る。今でも、参拝に訪れる人がいるような雰囲気があった。
登山ガイドは周回ルートで石仏の道を下っているが、そのまま往路を下る。
本堂跡から158分に下山開始。
 
尾根道から山腹へ下る分岐に注意しながら下り、登山口に165分に帰着。
稲武の夏焼温泉岡田屋の日帰り温泉へ入浴。料金400円。
道の駅稲武で車中泊。翌日は「三国山」、「丸山」、「古町高山」。

愛知県豊田市の山 三国山 登れず

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亀甲岩。三国山付近。長野県根羽村。愛知県豊田市稲武地区。
201764日(日)。
本日最初の目標は信濃・美濃・三河の三国境に位置する三国山である。新分県登山ガイド「愛知県の山」のコピーを持参。前日、道の駅稲武で「いなぶ軽登山・ハイキングガイド」を流し読み。亀甲岩横に林道入口と駐車場があるのを確認。「モトクロスコースには入らないこと」といのが気になったのだが。
 
630分頃、道の駅稲武を出て、7時過ぎに亀甲岩に到着。
 
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亀甲岩の説明板。
 
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一本東の林道入口。
亀甲岩から車をゆっくりと東へ向かい、登山口の林道と駐車場を捜す。すぐ東に林道入口があるが、駐車場はなかったので、そのまま東へ500m以上走ると、林道入口があり、路肩にスペースがあるので、ここが登山口に至る林道かと思い込んだ。分県登山ガイドでも亀甲岩から300mは離れているので、ここかと思った。
741分に林道入口へ入る。「下り坂の林道を進んで、十字路に着く」とあるが、T字路の枝道は2か所あったが、十字路はない。コースタイムでは林道入口から山頂まで30分なのだが、30分近く歩いても十字路に出会わない。間違った記述かと思い、引き返して枝道に入るが、どうも違う。
 
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枝道入口。
もう一つの枝道から入り、草の多い山道を登ると、左下の谷間を黒い動物が逃げていく姿が見えた。
色から熊かも知れないと思った。10分近く登ると、終点に着いたがその先に踏み跡がなかったので、これは違うと引き返し、林道終点に帰ったら、9時を過ぎていた。
 
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林道入口。
亀甲岩方向へ引き返し、先ほどの林道入口を検討する。分県登山ガイドの白黒コピー写真をよく見るとここだった。ただし、写真では車が停まっているが、現状は車止めの木材が置かれ、進入できず、雑草で覆われている。亀甲岩から100mほど東の位置だった。駐車スペースはないので、100mほど西の路肩に駐車した。
 
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林道終点。モトクロス道から。
林道を下ると、確かに十字路があったので、左折すると林道終点に着いた。
 
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林道終点。左のモトクロス道。
左側に赤・黄テープがあり、モトクロス道があるので、モトクロス道へ入った。分県登山ガイドによると、「三国山へ10分の案内板がある。ここから山道となり、」と記されているので、林道終点の左ではない地点に案内板や山道があるのを見落とした可能性はある。
しかし、赤黄テープがあるモトクロス道方向しか目に入らなかった。
 
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林道終点左、モトクロス道から左へ
100mほどの踏み跡入口。
モトクロス道から高い方向の右側を登ると、見晴らしの良い地点に着いたが、山頂のある雰囲気ではなかったので戻り、林道終点右近くの踏み跡へ入った。再びモトクロス道に出たので、高い方向の左へ進むと、何と、先ほどの見晴らしの良い地点に出てしまった。リングワンデルングは初めての経験だった。再び戻って、モトクロス道から左へ100mほどの崩壊がある踏み跡がそうかなと思ったので、緩い上りを登っていった。道が二又になり、踏み跡が靴でなく、爪の跡になり、先にあるヤブから音が聞こえたので、諦めて引き返すことにした。
林道入口へ戻ったのは11時頃で、3時間余りも無駄な時間を過ごしてしまった。
 
「いなぶ軽登山・ハイキングガイド」を良く見てみると、林道終点からはヤブコギ有りと記されていた。ヤブコギがあるような登山道は一般登山道としては不適格。山頂が見えていれば、GPSなどで山頂が分かっている、以前登ったことがあるなどの条件であれば、登山対象にはなるのだが。
このあと、「丸山」、「古町高山」を登頂。
 

愛知県の山 丸山 設楽町津具地区

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丸山。登山口に至る林道の状況。愛知県設楽町津具地区。
201764日(日)。
登り(道の駅から)58分。下り46分。歩行合計1時間44分。所要時間1時間46分。
この山は「名古屋周辺 続 山旅徹底ガイド 裏木曽・東濃・奥三河」(中日新聞、1996年)で知っていたが、登高欲をそそられなかった。新分県登山ガイド「愛知県の山」に新規搭載されたので、今回登ってみた。稲武の「三国山」登山に敗退したのち、道の駅「つぐ高原」へ転進。
県道から麓の登山口まで林道があり、自動車で入っている前例もあったので、道の駅で尋ねると、入れることは推薦しない雰囲気だったので、道の駅に駐車して歩くことにした。
1154分出発。
 
パターゴルフ場の横から林道に入り、500mほど登ると、樹木が道路を横切っていた。細いので簡単に折れるかと、掴んでみると、折れそうではなかったので、通行不能。林道はおおむね良好だが、落石が落ちている箇所もあった。
 
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丸山。登山口。
1227分、登山口のある広場到着。左手に作業道を見て、進むと、道路が広くなった個所に出た。舗装がここから先はなくなっている。左を見ると、U字溝の上の枝にペットボトルと赤布があったので、記述どおり登山口と確認した。
ルート上にマムシが登っていくところだったので、石を少し上部に投げてやると、退散していった。
 
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丸山。山頂。標高
1160m
登山道は終始はっきりして良好だった。ただし、急傾斜なので、下りは注意する必要がある。初心者向きではない。
最初はヒノキの間を登り、直登が続く。さすがに、ジグザグの登路になると、赤黄テープが増えてきた。ゆるやかになると、頂上台地に来たと実感するが、山頂まではやや距離があり、ツツジの群落を越えると、山頂の三等三角点に1252分到着。展望はない。
 
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丸山。山頂付近のツツジ群落。
1254分下山開始。
 
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丸山。登山口近くのヒノキ林。
急傾斜の下りを慎重に通過し、1317分登山口に到着。林道を下り、1340分、道の駅駐車場へ帰着。
 
次は、古町高山へ。

愛知県の山 古町高山 設楽町津具地区

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古町高山。登山口。愛知県設楽町津具地区。
201764日(日)。
登り42分。下り33分。歩行合計1時間15分。所要時間1時間21分。
この山も「名古屋周辺 続 山旅徹底ガイド 裏木曽・東濃・奥三河」(中日新聞、1996年)で知っていたが、登高欲をそそられなかった。新分県登山ガイド「愛知県の山」に新規搭載されたので、今回登ってみた。丸山登頂後、道の駅「つぐ高原」から登山口へ。
 
登山ガイドの記述どおり、井口坂橋を渡り、幹線道路なみの林道を進むと、橋の手前右側に、目立つ登山口表示を発見。路肩に駐車。下りで分かったが50mほど先に駐車スペースがあった。
 
1433分登山口出発。
 
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登山道入口。
分県登山ガイドの記述にすっかり迷わされた。林道をとりあえず登り切ると、ナンバー42鉄塔が目の前にある。鉄塔の奥まで歩いて、登山道があるのか数分ほど捜したが、ない。
登山道は鉄塔方向へ歩いて、すぐ左にある踏み跡のようだった。
 
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登山道入口。
鉄塔巡視標識しかないので、これでいいのか不安になったが、登山道の雰囲気が見受けられたので進むことにした。
 
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ナンバー
39鉄塔の地点。
ガイドには39で右へ登るという記述がないので、不安になりながら2本式鉄塔の下を越して、さらに巡視路を進むと、1457分にナンバー39鉄塔と古町高山への指導標に出会い、安堵した。
 
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古町高山。山頂。
1055m
通常の登山道となり、夥しい赤黄テープに導かれて、山頂台地に至り、踏み跡を辿ると、1519分山頂に到着した。周りを見渡しても展望はない。
1521分下山開始。
 
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巡視路から。
2本式鉄塔とナンバー42鉄塔が見える。
1554分登山口帰着。
稲武の夏焼温泉岡田屋の日帰り温泉へ入浴。料金400円。
道の駅稲武で車中泊。翌日は出来山へ。

愛知県の山 出来山 設楽町

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出来山。登山道の木材運搬車。愛知県設楽町。
201765日(月)。
登り1時間25分。下り1時間20分。歩行合計2時間45分。所要時間2時間57分。
この山も新分県登山ガイド「愛知県の山」に新規搭載されたので、登ることにした。
 
道の駅稲武を出て、段戸湖に8時頃到着。池の中には釣り人がいた。駐車場には数台しか停まっていなかったが、帰る頃にはがほぼ満車になっていた。土曜日なら朝から満車だったろう。
 
833分に駐車場横ゲートを出発。
終始林道歩き。登山ガイドの記述は正確だった。道路状況の変更もない。出来山への指導標も要所にあるので迷うことはない。
栃洞林道付近で木材運搬車に遭遇。実際の林業に出会うのは珍しい。
 
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材木置き場。栃洞林道付近。大量に積まれていた。幹の細い木材が多い。道路周辺の針葉樹も幹の細い樹木が多い。
 
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牛渡橋右側の指導標。
924分通過。
牛渡林道を進むと、左上に出来山が大きく見えだす。
 
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字路。林道出合地点の指導標。
ここからはアスファルト舗装の車道となり、出来山山頂まで続く。
 
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出来山山頂。
広い山頂に到着。正面に通信設備が見える。三角点は左の高みにあり、地道を30mほど歩けば、山頂に到着。
 
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出来山山頂。一等三角点。標高
1052m
周りの展望はない。
1010分下山開始。1130分登山口帰着。
ビジネスシューズでも登れる山だった。トレイルランの練習路になっているのもうなずける。裏谷のあたりで林道を横切るシカ1頭を目撃。

土曜日から愛知県の山5座に登った。いずれも、後回しにしていただけの展望の楽しみのない山だったが、登山体力の涵養には役に立った。
自宅には1330分頃帰った。

名古屋市守山区 東谷山 国史跡 志段味古墳群 尾張戸神社古墳 中社古墳 南社古墳 東谷山白鳥古墳 勝手塚古墳

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瀬戸市・猿投山・岩巣山方面。東谷山山頂展望所から。名古屋市守山区。
2017616日(金)。午後から、名古屋市守山区にある名古屋市最高峰の東谷山(198m)に登り、尾張戸神社古墳および登山路(散策路)途中にある中社古墳、南社古墳を見学し、あわせて、東谷山白鳥古墳と勝手塚古墳を見学し、2013年以来見残していた主要な志段味古墳群すべてを見学した。
 
6月初旬に登山靴の靴底張替を依頼したため、使える登山靴がなくなった。アルペンでローカットのトレッキングシューズの特売があったので、購入し、試し履きのため安全な山に登ることにした。
東谷山は20年前に登って以来で、本来登山対象の山とはいえないような山だが、今でも分県登山ガイドには所載されているようだ。前回は南登山口からの往復で、山頂に横穴式石室が置かれていたことを覚えている。
 
ネットで調べると、東谷山フルーツパーク第1駐車場から中社古墳、南社古墳を経由する散策路(登山道)がある。駐車場はイベント時以外無料だが、1630分に閉鎖される。
 
1430分前に着き、駐車場向い側の散策路入口から1433分に登山開始、丸太で土留めされた山道を登り、古墳見学は後回しにして、1451分に山頂到着。
20年前に比べて、展望所や展望台や古墳案内板などが、整備されていた。
東側には展望所があり、瀬戸市・猿投山・岩巣山方面への展望が得られた。
山頂には気軽に登ることができるので、犬の散歩で来る人など5人ほど見かけた。2人は展望所で弁当を食べていた。北側から未舗装の車道があり、自動車で来る人もいて、山頂は賑やかであった。
 
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尾張戸神社古墳。国史跡。
円墳(径約27.5m)。築造時期は4世紀前半とされる。墳丘は2段築成で、墳丘の上部は神社の本殿造営にともない、削平されている。斜面の葺石上には、白鳥塚古墳と同じく多量の石英が撒かれていたと推定され、テラスの敷石の一部にも石英が使われている。
 
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尾張戸神社。
熱田神宮の奥の院ともいわれる。式内社。祭神は天火明命(尾張氏祖神)、天香語山命(天火明命の長子)、建稲種命(天火明命十二世孫、日本武尊の妃・宮簀媛の兄)の3柱。いずれも尾張氏の遠祖とされる神々である。祭神のうち天香語山命(高倉下命)は、大和国高尾張を出て、庄内川対岸の高蔵山に降り立ち、のちにこの東谷山に移ったという。この際に白鹿に乗って川を渡ったといい、その地に架かる「鹿乗橋」に伝承の名残を残している。
 
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展望台。山頂神社北西側。
 
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展望台からの眺望。鈴鹿山脈の御在所岳、鎌ガ岳など。左端に名古屋駅のタワー群。
 
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展望台からの眺望。中央下に庄内川。志段味古墳群は河川交通権の掌握をもとに築造されたことを思い浮かべる。尾張平野中央に小牧山。その奥に伊吹山。
 
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展望台からの眺望。右側は尾張本宮山、尾張富士方面。
 
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東谷山
3号墳の石組み。山頂神社北東駐車場方面。
山頂神社北東駐車場へ歩くと、広い駐車場の手前左側に石組みが置かれていた。東谷山3号墳はこの地ではなく、北西の山麓にあった6世紀後半の径23mの円墳で、横穴式石室の一部が置かれている。
私の記憶では、20年前は神社の西側にあったような気がする。
 
往路を下りながら、古墳を見学した。
 
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中社古墳。国史跡。山頂側から。
後円部北側に、東谷山山頂からのびる尾根を切断した掘割がめぐっている。
 
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中社古墳。
4世紀中頃の前方後円墳(墳長63.5m)。円筒埴輪・朝顔形埴輪・楕円筒埴輪・家形埴輪・盾形埴輪が出土。
東谷山麓から運んできた円礫を用いた葺石の上には石英が撒かれ、後円部頂部には石英が敷かれていたと推定されている。後円部の北側では、4条の突帯がめぐり、各段に3個ずつ三角形の透孔があけられた円筒埴輪が極めて良好な状態で残存していた。
中社古墳の埴輪は、同時期の大王墓が営まれた大和盆地東南部からの影響が色濃く、東海地方では最古段階のもの。
 
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中社古墳。
2015年頃に案内板などが整備されたようだ。
 
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南社古墳。国史跡。
4世紀中頃の円墳(径約30m)。円筒埴輪・朝顔形埴輪・盾形埴輪が出土。
墳丘は2段築成で、葺石の石材を、上段斜面は円礫、下段斜面は角礫と使い分けている。円礫は東谷山麓の段丘から、角礫は東谷山上で採取したもので、山の下から古墳を見上げた時に目立つ上段斜面の葺石に、わざわざ山麓から運んだ石が使われていることは注目される。
 
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南社古墳。
円筒埴輪は中社古墳のものと形態・製作技法が共通するだけではなく、科学分析により使われている土の元素組成も類似することが判明しており、両古墳の埴輪は一体的に生産されたと考えられる。
 
1530分頃に散策路入口に帰着。時間が余ったので、東谷山白鳥古墳と勝手塚古墳を見学することにした。東谷山白鳥古墳はナビになく、場所を特定するのに時間がかった。グーグルマップには記載されていた。
 
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東谷山白鳥古墳。国史跡。
国道155線沿い、東谷橋南交差点東100mの山側にあった。案内看板はない。駐車場もないので、枝道の路肩に駐車。
 
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東谷山白鳥古墳。
6世紀末~7世紀初めの円墳(径約17m)。周溝あり。横穴式石室から馬具・大刀・刀子・鉄鏃・土師器・須恵器が出土した。
 
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東谷山白鳥古墳。横穴式石室。
横穴式石室が、志段味古墳群の群集墳のなかで唯一、ほぼ完全な状態で残っている。石室の平面形は、石室の幅が奥から入口に向かって徐々に狭まっていくもので、床面に並べた人頭大の石の石列で、被葬者を納める玄室と、通路の羨道を区分している。
 
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東谷山白鳥古墳。横穴式石室。
音声案内と内部照明が設置されている。
 
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東谷山白鳥古墳。案内板。
 
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勝手塚古墳。国史跡。
上志段味交差点南の勝手社が古墳の墳丘上に設けられている。南隣の空き地に駐車。
 
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勝手塚古墳。
6世紀初めの帆立貝式古墳(墳長約53m)。馬蹄形周濠と馬蹄形周堤あり。円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形埴輪・人物埴輪が出土。
勝手社の境内に、墳丘が良好な状態で残存している。周堤が墳丘北側を中心に全体の半分強残っており、愛知県下で唯一周堤の高まりが現存している点で貴重とされる。後円部テラスには密に埴輪列が並べられていた。
 
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勝手塚古墳。墳丘測量図。
 
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勝手塚古墳。
右側の円丘と左側の小さな方形の張り出し部分が残存している。左の高台にも小祠が置かれている。
 
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勝手塚古墳。北側に残存する馬蹄形周濠と馬蹄形周堤。
 
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勝手塚古墳。周濠・周堤部と方形張り出し部の祠。
 
1620分頃帰宅の途に着いた。
古墳群は案内板などの整備が進んでいる。白鳥塚古墳をちらっと見たら後円部墳丘へ石段が設けられているようだが、それぐらいなら石英で葺いてもらいたい。

三重県津市 三重県総合博物館 松阪市の奇祭「射止神事」 安濃津 地形・景観復元模型

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旧国名。三重県総合博物館。三重県津市。
2017511日(木)。
三重県総合博物館は20144月に、以前の津駅付近にあった県立博物館が移転して開館したという。三重県美術館と併せて県立博物館も一度見学した記憶がある。思い出したが、自然分野と人文分野が共存した博物館であることは受け継いでいた。
 
分野が広いと総花的な展示で薄い内容となりやすいし、古墳時代や戦国時代の歴史展示はほとんどなく、期待とは違っていた。
 
志摩と紀伊の境界については、戦国時代末期に新宮の堀内氏善が現紀北町までを支配下に入れて以後は、同町までが紀伊国になったとされる。
 
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月出の中央構造線露頭。国天然記念物。
松阪市飯高町月出付近から宮川河口付近を境界に、南北で全く異なった状況で変成した岩石が隣り合っている。
これらの岩石は、付加体の一部がプレートの動きによって圧縮されたり、マグマが発生したりすることにより、変成を受けたものである。
北側の領家帯(りょうけたい)の岩石は、地下10km程で形成された「片麻岩」と、マグマが固まったゴマ塩模様の「花崗岩」で、1億~7000万年前頃に活動したマグマと、その熱で変成した岩石である。
一方、南側の三波川帯(さんばがわたい)は、地下20kmで形成された「黒色片岩」などの変成岩である。
これらの境界は、中央構造線とよばれ、九州から、房総半島まで1000km以上続くと推定される西日本を分断する大断層である。現在の中央構造線は、海面下に沈んでいたり、折れ曲がったりしているが、もともと1億年ほど前に、大陸の東縁部に、南から来た海洋プレートの動きに引きずられて割れ目が生じ、アジア大陸の東縁に発達した巨大断層だったと推定される。
月出では、最大規模の中央構造線の露頭がみられる。
見学しようと思ったが、アクセス道路が通行止めの情報があったため、見合わせた。
 
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北山川穿入蛇行。熊野市木津呂。
2月に新宮市島津の裏山から絶景を眺めた。この写真は空撮。
 
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射止神事のつくりもの。
松阪市上七見町の奈々美神社。毎年2月の射止神事では、お面をかぶった二人が男女をかたどった大根のつくりものを持って集落を歩く。
 
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射止神事のつくりもの。
 
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射止神事のつくりもの。
この民俗行事は知らなかった。
愛知県でよくニュースで放送されるものに、西尾市の「てんてこ祭」がある。毎年1月3日に行なわれる五穀豊穣を祈念するお祭では、赤装束の厄男が腰に男性のシンボルをかたどった大根を下げ、「てんてこ。てんてこ。」という小気味良い太鼓のお囃子に合わせて腰を振りながら町内を練り歩くもの。
 
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安濃津 地形・景観復元模型。
明の茅元儀の《武備志》日本考では博多津(福岡県)、坊津(鹿児島県)とならんで日本三津(さんしん)に数えられている。
安濃津は京に近く、平安時代から京の重要な外港・東国への玄関口として重要な位置を占めた。
古来、伊勢神宮への供米を送る積出し港であり、北からの神宮への供祭物輸送船の寄港地であった。
平安時代、平維衡が伊勢守となり、その子貞衡がここに土着し、平氏一族は桑名、白子の要港とともに根拠地とし勢力を広げた。
鎌倉時代も商港として繁栄した。室町時代、将軍足利義持・義教が参宮の途次宿泊したとき、すでに40005000軒の町並みがあったという。
明応7825日(1498911日)に発生した明応の大地震・津波で壊滅的な被害を受けて廃れたとされる。当地を通りかかった連歌師の宗長は45千の廃墟や堂塔の跡を残すのみの荒野となり、犬の姿や鳥の鳴き声すら稀であると手記に記録している。
 
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安濃津 地形・景観復元模型。説明図。
安濃津の町は現在の岩田あたり、港はその南方の垂水・藤方あたりにあったようだ。
 
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安濃津 地形・景観復元模型。説明図。
 
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安濃津の地形と景観。
 
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潟湖。
古代から中世にかけて、湊は潟湖(ラグーン)内の砂嘴に設けられることが多かった。津軽の十三湊が有名。
 
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安南(ベトナム)で活躍した角屋七郎次郎。
中世の伊勢には東国に多数分布する伊勢大神宮領から送進される年貢物の集散や陸揚げを行う大湊など港津が発達し,また畿内と東国を結節する地理的条件に恵まれたため桑名のような自治都市の成立もみられ,多くの廻船業者,問屋が輩出した。
さらには海外貿易港として発展し,これら商人の中には大湊の角屋氏のように海外貿易に進出するものも現れた。
 
角屋家の祖先は信濃国松本の出身で、永享年間に伊勢国山田に移住。七郎次郎元秀の代に伊勢国大湊に移住して廻船問屋を開始し、「角屋」と号する商人になった。元秀の子・秀持は本能寺の変において一揆に追われた徳川家康の危急を救い、徳川氏の御用商人となった。
2代目忠栄の代には蒲生氏郷の松坂城築城と城下町の楽市楽座の開始に伴い、松坂を拠点として活動するようになった。
 3代目忠祐の代、貿易中に鎖国令が出て帰国できなくなった忠祐の弟・角屋七郎兵衛栄吉がホイアンに永住することになるという出来事もあった。11代秀貞の代からは再びもとの山田の地に移住した。
ホイアンの名物料理「カオ・ラウ」は、三重の伊勢うどんがルーツで、日本人が伝えたといわれる。
 
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伊賀・伊勢・志摩・紀伊国の国印。復元品。
 
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藤堂高虎の書状。船で人を送るよう依頼した手紙。
 
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藤堂高虎の書状。
 
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藤堂高虎の書状。
 
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居宣長「玉勝間」刊本。
 
長時間の見学を予定していたが、短時間で終わってしまった。
 
このあと、津城跡、谷川士清旧宅、平氏発祥伝説地などを見学。

三重県津市 藤堂高虎が拡張整備した津城跡

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津城跡。お城公園東入口の模擬櫓。
2017511日(木)。
津城は三重県津市丸之内にあり、津市街の中心部に位置する。北は安濃川、南は岩田川に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた。江戸時代初期に築城の名手・藤堂高虎により近代城郭として大改修され藤堂家津藩32万石の藩庁となった。
2017年、続日本100名城に選定された。
 
三重県総合博物館の見学を終え、国道23号から津城跡方面へ向かうが、津警察署や高山神社付近には駐車スペースがないので、東入口の反対側道路にある有料路側帯に駐車した。
 
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津城跡概要図。
江戸期の津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が配された輪郭式の平城であった。
 
現在の城跡は「お城公園、お城西公園」として整備されている。また、その他の城址には津市役所や裁判所、津警察署などが建ち並んでいる。
 
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東鉄門枡形。説明板。
津城本丸の東側に位置した虎口。
 
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本丸跡の藤堂高虎像。
現在の津市の古称は安濃津(あのつ)であり、平安時代より伊勢国政治経済の中心地となっていた。鎌倉時代は藤原南家の流れの工藤氏を祖とする長野氏が支配していた。津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558 - 1569年)に、長野氏の一族の細野藤光が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。
 
永禄7年(1564年)から織田信長の伊勢侵攻が始まり、永禄12年に織田信包(信長の弟)が安濃津城に入城した。信包は天正8(1580)までに城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備し、5重天守と小天守を落成した。信包は母の土田御前や妹のお市の方、姪の茶々、初、江を引き取りこの城で養っていた。
 
文禄4年(1595年)、織田信包に代わり、豊臣家家臣の富田一白が入城した。一白の子、信高は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで東軍につき、西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に城を攻撃された。迎える信高と援軍にきた分部光嘉の連合軍は1300人と劣勢であったため苦戦を余儀なくされ、城内の建造物の大半を焼失した。奮戦の末、木食応其の調停により開城となった(安濃津城籠城戦)。このときに、天守も焼失し、安濃津城も荒廃した。
天守はのちに富田氏が再建したが、寛文2年(1662年)の火災で焼失し、幕府への遠慮から再建されなかったと考えられている。
 
慶長131608)年、富田信高に代わり、藤堂高虎が伊予の今治から移封された。
関ヶ原の戦いの際の籠城戦で津城下は傷跡が大きい状況であった。城の規模も小さく、国持大名にふさわしい規模に拡張する必要があったが、高虎は命を受け他国の城の改修などに奔走して、なかなか自国の城に手を付ける余裕がなかった。
慶長161611)年になってようやく伊賀上野城と津城の修築に取り掛かることになり、まず伊賀上野城の大改修にかかり、高い石垣を持つ要害堅固な城を造り上げた。
一方、津城は平時の居城として必要な規模と、伊勢街道第一の町としての体面と美観とを備えるための町づくりを進めた。
城の周囲に武家屋敷をつくる一方で、参宮街道を城下に引き入れ、城の東に堀川を切り開いたりするなど、明治維新まで続く藤堂家津藩32万石の城下町の基礎を築いた。
 
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本丸跡南側の石積み。
津警察署北側の小公園へ下る石段がある。
 
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本丸跡南側の石垣。
藤堂高虎が、本丸の北側と東側を拡げて、さらに高い石垣を積み増しした痕跡が残る。
 
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本丸跡から西ノ丸跡へ向かう。
内堀が残る。左側に藩祖高虎を祀る高山神社がある。
 
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西ノ丸跡と内堀。
明治4年廃藩置県により津城は廃城となり、以後、建造物は破却されていった。現在では、本丸・西ノ丸・内堀の一部を残すのみとなったが、「お城公園」として西ノ丸跡に日本庭園が整備された。
 
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西ノ丸跡の入徳門。
日本庭園入口には藩校有造館の正門の入徳門が移築現存している。
 
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入徳門の説明板。
 
このあと、谷川士清旧宅、平氏発祥伝説地などを見学。

三重県津市 伊勢国が生んだ二大国学者の一人 谷川士清旧宅 谷川士清墓

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谷川士清(たにがわことすが)旧宅。国史跡。三重県津市八町。
2017511日(木)。
谷川士清(170976)は、本居宣長と同時代の医者・国学者で、五十音順の国語辞典を日本で初めて作ったことで知られる。通称、養順。号、淡斎。
旧宅は津市街地の西外れの八町通りにあり、津と伊賀上野を結ぶ伊賀街道沿いにあり、付近は津城下の西の入口として栄え、学者などの文化人が多く住んでいた。
建物は通りに面した北向きの桟瓦葺き2階建ての質素な町屋で、1775年(安永4)に建築または改装されたと推測される。明治時代は人手に渡ったが、その後津市が購入し、1979年に解体修理された。現在は士清の著書や年表、家系図などが展示されている。
 
旧宅東100mほどに専用駐車場がある。
入場無料。女性職員が説明してくれた。本居宣長と並ぶ伊勢国が生んだ二大国学者の一人谷川士清の知名度の低さを嘆いていた。
 
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1775
年(安永4)の銘のある瓦。
 
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連子窓。
 
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谷川士清の辞世の歌。「何故に砕きし身ぞと人問わば それと答えむ大和魂」。
谷川士清は、宝永61709)年226日、伊勢国安濃郡八町の恒徳堂という屋号の代々の町医者の家の長男として生まれた。父は義章といい、医者としての評判は高く、津藩7代藩主となった藤堂高朗が生まれるとき立ち会っており、このことが後に士清と高朗が親密な交わりを結ぶきっかけとなった。
 
士清は、小さい頃から福蔵寺の浩天和尚と父に教えられた。21才の時に医学の勉強のため京都に向かい、福井丹波守から医師免許を受けた士清は、医学の他に儒学や本草学など様々なことを学んだ。特に、国学と密接な関係のある神道については、松岡仲良について垂下神道を学んだ。他にも華道や歌道の許状や伝書を受けた。5年間の学問生活ののち、享保20年(17358月、父の義章から帰郷を促され津に帰った。
津に戻った士清は、河北景を補佐として洞津谷川塾を開いて教育にあたり、近くの社に神道道場を設けて神道を教授した。
 
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谷川家の家財道具類。
家業の町医者を継いだ士清は、父と同じく評判の名医で、内科と産婦人科を専門として地域に貢献した。
 
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「日本書記通証」。
士清は「日本書紀」本文批評に没頭し,「日本書記通証」35(1751年脱稿,1762年刊行)を北野天満宮に奉納した。これは『釈日本紀』以後初めての書紀全体の注釈書で、学者としての士清の名を高めた。
第一巻付録の「和語通音」は我が国最初の動詞活用図表であり、国語学史上特筆すべき業績である。
 
「和語通音」を目にして感心した20歳年下の本居宣長は、士清の偉業に驚喜し、「すこぶる発明あり」と賛辞を送り、刺激を受けた宣長は「古事記伝」の著に着手する。
宣長は,明和2(1765)年に初めて士清に書簡を呈し,書簡の往復が始まった。士清は「古事記伝」の稿本を閲読したり,自著の「倭訓栞」稿本を示したりして学問上の交流が続いた。

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「日本書記通証」を奉りける歌。
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「和訓栞
(わくんのしおり)」。全93巻。
日本初の五十音順国語辞典。士清は、日本語を研究する中で、言葉を一つひとつのカードに書き、その意味や使い方を詳しく記入していき、総語数208975語にも及ぶ古語・雅語・俗語までの言葉を集大成して辞書にした。
 
士清は安永5年、「和訓栞」の出版を目前にして、67才で亡くなった。その後、「和訓栞」の編纂は谷川家の人々や門人の手に引き継がれた。そして士清の没後110年余を経た明治20年『和訓栞』後編18巻が出版され、ようやく全93巻の刊行をみた。
谷川家はこの刊行事業達成のために代々の医師としての収入の全てを投入し、家屋すらも他人に売り渡すことになった。
本居宣長は、大著「和訓栞」編纂に対し、「谷川士清は国語学界の猿田彦である」という意味の序を記し、その業績を称えている。
 
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谷川家処方書。安永~文政年間(
17721829)。
多年にわたり複数の人々により書き継がれた薬処方などの資料。上記個所は、安永6年に長崎の蘭医吉雄耕牛に会ったときの聞き書きで、士清の嗣子士逸が書いたものと推定される。
 
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谷川士清 素由禅師宛書簡。
素由は谷川家菩提寺の福蔵寺住職で。浩天和尚の弟子。地震のさい、素由の無事を案じて送った。
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「勾玉考」。
士清は、実証的な古代史研究をも展開した。物産学にも造詣が深く,石の長者・木内石亭と親交があり、安永3(1774)年には「勾玉考」を家塾版として出した。この本には珍しい石のことが書かれている。序は本居宣長。
現在の津市野田で農民が掘り起こした銅鐸を、士清は米一俵で譲り受けて家蔵し、のちに嗣子士逸が専修寺に寄進した。
 
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「読大日本史私記」。
士清は、水戸藩の編纂した「大日本史」に対し、「読大日本史私記」を著してその誤りを指摘し、痛烈に批判した。これが幕府からの弾圧を受ける要因となり、それまでも宝暦事件・明和事件で京都遊学時代の学友竹内式部を擁護してきた士清を、藩は「他参留」(領地外への外出禁止)の処分を課し、幕政に対して批判的な考えを持っていた嗣子士逸には「所払い」(領外追放)の処分を下した。
士清門下の津藩士も何人か罰せられ、藤堂藩藩校からは谷川学統は一掃された。これは、士清と親交のあった7代藩主藤堂高朗が隠退し、藩が水戸学の学風を導入したことも理由とされる。
 
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士清の蔵書箱。
夥しい蔵書箱に納められていた蔵書は、「和訓栞」出版のためほとんどが売り払われたといい、外函のみが残っている。
 
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反古塚に刻まれた士清の辞世の歌。
反古塚は谷川士清旧宅から北東徒歩5分ほどの谷川神社境内にある。
 
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反古塚。
士清は安永4年、自らの著述の原稿やメモの類を、後世に誤った解釈がされないように石の櫃に納めて埋めた。これは神道家の慣わしで、一代の講義原稿や秘伝の書き留めなどは焼却するか埋めるということを守ったものである。これが士清が自ら築いた「反古塚」で、「何故に砕きし身ぞと人問わば それと答えむ大和魂」と刻まれている。
塚を築いた日から3日間玉虫が飛び回ったといいい、「玉虫塚」ともいわれている。これは奇瑞だと士清は諸家に歌を募集し、本居宣長はじめその一門も歌を寄せた。
士清には、大正4年に従四位が追贈され、公にその功績が評価された。また、昭和8年には反古塚の建つ古世子明神の社跡地に士清を祀る谷川神社が創建された。
 
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谷川士清墓。国史跡。福蔵寺境内。
左が谷川士清、右が孫の士行(ことつら)の墓。
嗣子士逸の墓がないのは、士逸が津藩から反幕府的思想の持ち主とみられ、「所払い」(領外追放)の処分を受けたためとされる。
 
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説明板。

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谷川士清墓。右側面。 
「宝永己丑二月廿六日生 安永丙申十月十日終」。
 
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谷川士清墓。
正面には「淡斎 谷川士清之墓」。左側面「孝子士逸謹建」。
 
このあと、伊勢平氏発祥伝説地などを見学。

読書メモ「揺れ動く貴族社会 平安時代(全集 日本の歴史 4)」小学館、2008年、 川尻 秋生

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古代国家の変容と都市民の誕生 
平安時代は災害や戦禍など、激動と破壊の時代だった。変質する政治体制のなかで、人々が翻弄されながら生きる姿や、職能集団としての武士の出現など新しい動きが起こる過程を、文学史料を駆使して鮮やかにたどる。
 
律令制の建前では、縁故などによって私的に官人を登用することは禁じられていたが、この時期になると、天皇や上皇は、近臣を殿上人として組織したり、蔵人などの登用するようになる。いわば、公的秩序に私的近臣関係が入り込み、社会の構成原理が大きく変化した。こうした変化は、次第に貴族層から在地の有力者にまで浸透し、長きにわたって日本社会の基層を形づくった。
 
画期としての宇多朝。光孝王朝の成立。
元慶8884)年、17歳の陽成天皇が退位した。前年、陽成天皇が乳兄弟の源益を打ち殺した(日本三代実録)ため、藤原基経が退位させた。光孝天皇が即位した。仁和3年光孝天皇の死に伴い、皇子の宇多天皇が即位した。
宇多天皇は藤原基経と対立するが、敗北して近臣の橘広相を左遷せざるを得なくなる。
宇多天皇は藤原氏と血縁関係がないため、藤原氏を排除して親政をめざした。唐風文化の摂取。菅原道真を重任した。しかし、醍醐天皇に譲位後、藤原時平により菅原道真は左遷される。
宇多上皇は法皇となり、仏教界の最高権威者となる。仁和寺を完成させる。
 
政務の場、奈良時代は朝堂院、平安時代は内裏の紫宸殿、宇多朝は清涼殿へ。国府も、国庁から国司館へ。
上流貴族。ウジからイエへ。10世紀中頃、藤原師輔・実頼兄弟のころ。
下級氏族の家職の成立。土御門家、小槻氏。
天皇。兄弟相続から父子相続へ。
 
唐風化への道。
嵯峨天皇の時代。跪礼から立礼へ。
 
律令から格式へ。
日本では律の存在意義が令より劣った。死刑がなかった。怨霊を恐れる御霊信仰。
 
富豪層の出現と支配の転換。
昌泰4901)年の太政官符、「播磨国の住人の半分は京の衛府の舎人(下級役人)となっている。彼らは実際には在国するにもかかわらず、課役を負担しない。収穫した稲を私宅に収納して、勤務先や上流貴族の稲だと偽って税を支払わない。収納使が催促に赴くと、暴力をふるい、徒党を組んで悪事を働いている。」
 
対処のための抑制策として有名なものが延喜2902)年の荘園整理令。院宮王臣家と在地の有力者の結合を阻止することを目的。
 
古今和歌集に高向利春の歌。武蔵国秩父牧の牧司のちに武蔵守。宇多法皇の近臣。
 
前任国司の子弟など中下級の貴族たちは、都に帰ることをやめ、土着することが多かった。郡司たちと姻戚関係を結び、農商業を営んで富豪化していった。院宮王臣家と主従関係を結ぶことも少なくなかった。
 
律令制国家は財政難と治安の悪化に悩まされることになった。律令制下の税は人頭税であった。戸籍が偽造され、課税対象外の高齢者や、税額の少ない女性の数を多く申告した。
院宮王臣家の荘園には浮浪人が多く集まり、本貫地(戸籍登録地)に税を払わなかった。
 
人頭税から土地を単位とした税(地税)に変わる。
 
荘園制と田堵の出現。「名(みょう)」。公田を耕作する人を国衙が登録し、税の収取単位とする。名の経営者が田堵。田堵は農具や灌漑設備を準備し、国司や荘園領主と耕作を請け負う契約を結んで一般農民を集め、数町にもおよぶ田地を耕作した。
国衙から収納使が派遣され、徴税が行えるようになった。10世紀になると郡司の機能が低下し、受領の権限が大きくなり、直接在地から税を取り立てるようになった。
古代日本では郡司が実際には地方を支配していた。国司は間接的に任国を支配していた。9世紀以降変質。郡司の任命が出身氏族から才能へ。郡司選出に関し、国司の権限増大。広い階層から郡司を選出するようになり、郡領氏族の伝統的支配力が弱まった。
 
受領の時代。
受領国司。上総・常陸・上野は親王任国のため、介が受領。最上位の国司である受領に責任を負わせる。税の徴収や検察権を委ねた。
摂関家が、家司に多くの受領を抱えた(家司受領)。
 
天慶の乱と武士の誕生。
昌泰2年の太政官符。「坂東諸国の輩が、略奪した馬によって東海道と東山道を往来し、人々に甚大な損害を与えた。」
荘園制が発達すると、生産物を都へ運ぶ必要が出てくると、専門の運送業者が不可欠となった。運送業を営みながら、一方で盗賊行為を行ったのが、僦馬(しゅうば)の党。
東国の治安悪化に対して、押領使が設定された。
 
なぜ、武士は発生したのか。
以下、「武士はなぜ生まれたのだろうか? 読売新聞 090706 川尻秋生」。

日本の歴史を振り返ってみる時、「武士」の存在はきわめて大きい。しかし、いつ頃、なぜ武士が生まれたのかという点は、実はよく分かっていない。
 
従来、武士は草深い田舎から発生したと考えられてきた。平安時代の中頃、律令国家の衰退とともに、地方の治安が悪化し、群盗などが発生した。それに対抗するために、荘園領主や有力農民が自衛のため武装し、発展して武士となったという考え方である。
 
それに対して近年では、武士は都から発生したとする見解が有力になりつつある。もともと律令制下の武官に起源があり、近衛府を経由して、10世紀以降源氏や平氏に武芸が継承された。そして平安京の治安を護り、天皇を守護する人たちを、王権(天皇)が職業として認めたものが武士だという見解である。
 
筆者も武士という階層を作り出したのは王権であったと考えるが、その具体的な発生原因については次のように考えている。平安時代の貴族は、個人的に武芸に優れているだけでは武士と呼ばず、特定のイエ・血統に属していることが重要であると考えていた。例えば、勇猛果敢で知られた人物も、武士の家系の出身でなければ、「家ヲ継ギタル兵(つわもの)ニモアラズ」と評されている(『今昔物語集』巻25)。そしてこの血統とは「満仲・貞盛ガ孫」といわれたように(『同』巻19)、源満仲・平貞盛の子孫と認識されていた。
 
源満仲とは平将門の乱の平定に功績のあった源経基の子(清和源氏)、平貞盛とは将門の従兄弟で、将門を殺害した人物である(桓武平氏)。こうしてみると、武士の家系とは、平将門の乱を鎮圧したイエということになる。
 
そこで後世における将門の乱に対する見方を調べてみると、興味深いことがわかってきた。例えば、治承4年(1180)9月、伊豆国で源頼朝が挙兵した第一報を耳にした藤原(九条)兼実という貴族は、「あたかも将門の如し」と、自身の日記に書き付けている(『玉葉』)。将門の乱は、単なる一過性の反乱ではなく、事件から250年を経ても、大事件が起きると想起される「記憶」であった。しかも、思い返される時期には偏りがあり、12世紀後半の源平の争乱期と、14世紀中頃の南北朝の動乱期に集中する。つまり、将門の乱は、大きな兵乱の「負」の記憶として、貴族社会の中で子々孫々へ語り継がれたのである。
 
こうしてみた時、何故、武家の棟梁が、源平両氏に限定されたのかがよく理解される。つまり、将門の乱の鎮圧者の子孫は、「辟邪の武(邪を寄せ付けない武力)」を持つ特殊な家系として、貴族たちから異能視されたらしいのである。中世には、戦いに先だって自らの家系の来歴を大声で名乗り合う「氏文読み」という作法があったが、将門の乱の鎮圧者を先祖に持つことを自慢する氏族が多いのも、そのことと関係するのだろう。
 
それでは、武士が成立したのはいつ頃なのだろうか。おそらく、源氏・平氏ともに、イエとしてのまとまりを持つ、10世紀末頃とみることができよう。とくに、平氏では、貞盛の子・甥たちが一族として、強い結束をはかった時期と重なっている。筆者は、ここに武士の成立をみるのである。
 
ただし、武士は、「名誉の戦士」として、貴族社会に受け入れられたわけではなかったことにも注意しなければならない。戦前の教科書で、「武士のなかの武士」として賞賛された源(八幡太郎)義家について、「多く罪無き人を殺す」(『中右記』嘉承3年〈1108〉正月条)と評されているように、武士は殺人集団として認識されていた。現代社会で、武士といえば、「潔い」というイメージがあるが、歴史的にみればまったく逆で、治安を護るための必要悪という位置づけが正しいだろう。
 
ついでにもう一つ。清和源氏・桓武平氏ともに、最初から武士になりたくて武士になったわけではなかった。このように書くと、「中世には武士が天下を取ったではないか」という反論が聞こえてきそうだが、それは、我々が「歴史の結果」を知っているからである。むしろ、10世紀当時の一般的な氏族は、文官として王権に仕えることを望んだのだが、その道を閉ざされ、将門の乱にたまたま遭遇した氏族が武士化する道を選んだのである。武士という存在は、きわめて特殊な環境から生まれたといえようか。
 

読書メモ 「清盛以前 伊勢平氏の興隆」(高橋昌明2011増補改訂、原著1984)

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 10世紀末、藤原道長の時代から12世紀半ば、保元の乱開始まで、150年にわたる伊勢平氏の興隆、展開、勢力確立を、また清盛の祖父と父、正盛・忠盛の人と動きを描き出す。
 
本郷和人は「日本史を学び直すための130冊、貴族と武士の盛衰編10冊」において、「武家、すなわち中世の原動力となった武士とは何か、を知るためには本書が適当である。石井進は武士の姿を在地(地方。現地)に追い求めた。これに対し高橋昌明は朝廷が武士身分を創出したのであり、都の武士こそが本流であると説く。誰も考え得なかった非凡な発想の転換である。もう一度高橋の「清盛以前」を熟読し、そもそもの武士のありようを再確認したい。私は「地方の武士」を強調する立場なので、批判的であるが。」と評している。
 
第一章「伊勢平氏の成立」
 
998年藤原行成は左大臣藤原道長に平維衡(国香―貞盛の子)と平致頼(国香の弟・良兼―公雅の子)との伊勢における合戦を報告した。「両者は数多の部類を率い、年来の間、伊勢国神郡に住す」。
二人は当代を代表する兵(つわもの)であった。

初期における平氏の勢力は北伊勢を中心にし、尾張に及んでいた。維衡流は鈴鹿郡・三重郡などに、致頼流はその北に本拠をおいていた。
 
平氏の伊勢居住の理由がなんであれ、それをいわゆる「土着」と単純に理解してはならない。九世紀以降、中級官人や貴族が都に本宅をおいたまま、地方の別荘である荘家(宅)に下って居住し、私営田や私出挙を中心とする荘園経営にあたる動きが生じていた。
この経営から生まれた営田の穫稲や私出挙の利稲、荘田の地子や牧場で産する牛馬、土産の物などは、一部荘家(彼の私宅)に留保蓄積され、残部は使者や荘預の管理のもとに都の本宅に搬入される。
 
彼らにとって京都は、地方の荘家経営を維持実現するための人的・物的手段獲得の場であり、本宅に運上された種々の物資を売却する市場でもあった。中級官人・貴族たちは、地方の荘家経営の成功を背景として、中央政界・官界にその地歩を築かんとしたのである。
 
このような地方居住は戸田芳実によって留住と概念化された。
彼らは地方豪族ではなく、京に足場をもって農村との間を往来する一種の地域支配領主であった。
 
平維衡は受領を歴任した。また、右大臣藤原顕光(兼通の子)の家人であった。維衡は一条天皇の女御で顕光の娘元子のために、焼亡していた堀河院を修造するほどの財力を蓄えていた。維衡はのちに藤原道長の家人となる。また、藤原実資とも主従関係を結んだ。
道長ら貴人たちは、維衡のような経験豊かな兵を使って、政敵を恫喝し、自己に関係する紛争を強権的に解決した。
 
平致頼一族も多方面の軍務を請け負う傭兵隊長であった。ただ、維衡流と比べると受領経験は圧倒的に少なかった。
 
兵=軍事貴族の性格。
平致頼の子致経に関する治安元年(1021年)に生じた事件。
致経は暗殺・傷害の常習犯であった。源頼光の弟頼親も殺人の上手といわれた。つまり、源氏・平家の軍事貴族は殺人者集団であった。
 
平致経らの在地における存在形態について。
致経は京都東宮町に寄宿するとともに、伊勢神郡から尾張にかけてを勢力圏にしていた。その中心は、尾張の某郡にあった私宅で、周辺には従類の宅が集まっていた。その宅は某郡の郡庁を壊却し、その資財を利用して跡地に新造したものであった。
 
平維衡は、小右記1028年条によれば、伊勢国押領使高橋氏や掾伊藤氏を郎等に組織していた。維衡や致経らの存在は在地民衆にとり不善の輩であった。維衡の郎等は三河の下女等26人をかどわかし、郎等逮捕のための検非違使が伊勢に下向している。
 
維衡と致頼の伊勢での合戦の事後処理は、両者の闘争を封殺するほど強力で真剣なものではなく、子の代まで継承された。地方豪族間の対立は長期化する傾向にあった。
 
これは王朝国家が地方豪族の扱いについて、ほかの国内問題同様、国守の自由裁量にまかせたことと関係している。この場合、国守は多く彼らを政治的軍事的同盟者として処遇し、その動きに強い規制を加えなかった。国守の国内支配が強化された段階においても、直接彼らを押えこみ、その基盤を解体させるなど、ほとんど問題にもならなかった。
地方豪族が、それぞれ中央の顕貴な貴族を自己の政治的保護者として仰いでいるという事情が、この傾向に拍車をかけた。それゆえ地方豪族の闘乱が発生しても、国衙支配への公然たる反逆や大規模な武力衝突など国政上の問題に発展しない限り、国レヴェルの対症療法で糊塗されてしまうのが通例だったと思う。ために問題の解決はおくれ、結局紛争は長期化せざるをえなくなる。維衡や致頼は純粋な地方豪族ではないにしても、右のことはそのままあてはまる。
 
維衡流と致頼流の対立も、根本的な解決をみないまま長期化し、長元年間の在地における再度の武力衝突を迎える結果になった。
 
長元31030)年に維衡の子正輔・正度と致経が伊勢で合戦をし、双方に戦死者が出て、多くの民家が焼亡した。両者は朝廷から裁判を受け、右大臣藤原実資は、正輔は絞刑、正度と致経については天皇の判断に委ねるとの陣定を奏上するが、後一条天皇からは両者を優免すべしとの仰せがあった。
 
長徳四年以来の維衡流と致頼流の対決は、史料上、長元年間の事件を最後としている。和解が成立したと考えるのは非現実的で、なお一定期間対決が継続されたことと思う。
現存諸記録は黙して語らないが、この対決の結果を思い描くのは、さして困難ではない。致経の子孫たちが、その後伊勢より姿を消しているからである。おそらく彼らは年来の仇敵である維衡の子孫たちに圧倒され、駆逐されたのであろう。
いずれにせよ、伊勢平氏を称するようになるのは、維衡流であって致頼流ではない。この素朴だが動かし難い事実こそ、なによりも両者の対決の結果をさし示すものである。
貞盛あるいは維衡が、草深い伊勢の一角に留住してから、同族を国外に放逐するまでに、ゆうに半世紀は経過しただろう。この間、維衡や正輔らは営々と荘家経営にとりくみ、ねばり強く在地に勢力扶植を試みた。そして幾度かの合戦の最後のものに勝利した時、彼らは間違いなく伊勢最大の世俗領主にのしあがっていた。かくして、彼らは伊勢平氏と呼ばれるにふさわしい存在になった。
 
当時、在地では軍事貴族を盟主と仰ぐ諸豪族の連合と再編成が進行していた。石母田正は、古代以来の国造的名族勢力の没落と新しい土豪の進出を基礎とする歴史の転換が、11世紀中葉以降伊賀地方にみられたと指摘しているが(中世的世界の形成)、尾張・伊勢地方では、それは軍事貴族への政治的吸収という形式で実現されつつあった。
 
平致頼流の子孫。
伊勢から転進して、新たに本拠とした所のなかで確実なのは伊勢湾の対岸、尾張の野間空海荘である。平致頼から5代の裔が野間空海荘司の長田忠致である。忠致は、この時期尾張を勢力下においていた源義朝の相伝の家人であった。
 
第二章「伊勢平氏の展開」。
平正度とその子たちは受領経験を重ねた。検非違使などの官人となり、臈を重ねて国守に推挙された。ただし、中下級貴族が諸大夫と侍層に分化する時代にあって、侍身分層上層へ身分低下したと思われる。正度の子たちは、公には諸衛官人・検非違使など、私的には顕貴な貴族の侍、世間的には一種の傭兵隊長として京都を舞台に活躍した。
 
伊勢平氏は、伊勢在地では伊勢神宮から相対的に自立した権力を有していたとみられるが、実態は明らかではない。多くの所領を伝領していったことは明らかである。
 
多度神宮寺の争論。承保21075)年、平正衡(正度の子、清盛の曽祖父)は東寺の末寺多度神宮寺を天台の別院と称し、東寺使を責め、神宮寺付属の所領尾張国大成荘を損亡させている(平安遺文)。伊勢平氏が多度神宮寺を実質的に支配していたことを示す。多度神宮寺は伊勢平氏の氏寺であった。多度神社も伊勢平氏の氏社であったようだ。
 
平正衡の子正盛は白河法皇に取り入り、院の近臣となる。同族の中で庶流であった正衡流伊勢平氏は、院近習化を契機に同族中で優位を占め始める。正衡の兄・季衡・貞衡の子孫は正衡流の従者となっていった。
 
第三章「平正盛と六波羅堂」、第四章「正盛・忠盛と白河院政」、第五章「平忠盛と鳥羽院政・上」、第六章「平忠盛と鳥羽院政・下」、終章「保元の乱への道」。
正盛と子の忠盛の時代になると、伊勢平氏は院政の中核を担っていた中流貴族を通じて藤原摂関家・上皇・女院に荘園を寄進し、中央政界のなかで武士団として成長していった。

三重県津市 平氏発祥伝説地 坂本山古墳群 

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平氏発祥伝説地。津市産品。

2017511日(木)。

津市の郊外、産品の地は平清盛の父忠盛が生まれた所といわれ、忠盛の胞衣塚や産湯を使ったという産湯池があって、伊勢平氏発祥地の伝説地として県指定史跡となっている。


平忠盛は正四位下但馬守に進み武士として最初に内の昇殿を許され、平氏繁栄の基礎をつくった。このときの様子を「平家物語」では、眇(すがめ)な田舎武士の昇進をねたんだ公卿が「伊勢瓶子(平氏)は素甕(眇)なり」とはやしあざけったとある。
ただし、これらの歴史的事実を文献で立証することは困難で忠盛出生地のことも未だ伝説の域を出ない。
 
高望王を祖とする桓武平氏は、その子国香、孫貞盛・将門のころには東国に土着し勢力を張っていた。しかし、平将門の乱、平忠常の乱以後東国は源氏の地盤となり、貞盛の子維衡の時に伊勢・伊賀を根拠地とするようになり、寛弘3年(1006)維衡は伊勢守に任ぜられている。
 
10世紀後半以降,伊勢に勢力を占めた平氏には,維衡流と平良兼の孫致頼の一流があった。両流の998(長徳4)および1030(長元3)の両度の合戦の結果,維衡流が伊勢平氏としての地位を確立した。伊勢平氏は伊勢国多度神宮寺を氏寺とし多くの庶家を分出し伊賀・尾張にまで勢力を拡大した。
 
維衡の子正度のあと、子たちも伊勢・伊賀の各地を支配した。貞衡は安濃津三郎を名乗り安濃津を、正衡は伊賀北部を、季衡は北勢を治めた。
 
維衡―正度―正衡―正盛(―忠盛―清盛)へと継承された系統は、朝廷の諸衛官人・検非違使に任ぜられるとともに,有力貴族の私的武力としての家人になり京都で活躍し,また受領の郎等として地方にも勢力を扶植,さらには院の北面・近臣の地位を獲得することになり、伊勢平氏の嫡流となった。
 
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平氏発祥伝説地。説明板。
 
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産品地区周辺案内図。
 
北西近くにある坂本山古墳公園へ向かった。
 
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坂本山古墳公園。
4号墳。津市片田志袋町。
津市の西郊外に位置する長谷山丘陵一帯は坂本山古墳群を中心に数百基以上の古墳が確認されている。
坂本山古墳群は4世紀末から5世紀初頭に築造された方墳群である。245号墳が現存している。
 
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坂本山古墳公園。説明板。
 
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坂本山古墳公園。
5号墳。
 
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坂本山古墳公園から眺める産品地区。平氏発祥伝説地は右奥。
古墳公園の表示がないので、10分ほど捜した。産品地区から進入した道路右上のコンクリート壁の上側にあった。 

このあと、松阪市松ヶ島町の松ケ島城跡へ向かった。

三重県松阪市 織田信雄・蒲生氏郷の居城 松ケ島城跡

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松ケ島城跡。松阪市松ヶ島町。
2017511日(木)。
松ケ島城は三渡川の河口近くの浜堤に築かれた城である。中世以前は海が入り込み、城は伊勢湾に面していたと考えられる。付近には、安濃津から伊勢神宮へ向かう参宮街道があり、海陸交通の要衝であった。
 
天正81580)年織田信雄(信長の二男で当時は北畠氏の当主)が、南伊勢統治の居城を田丸城(渡会郡玉城町)からこの地に移し、本格的な築城を行った。織田家一門の中核的な城郭として威容を誇り、五層の天守がそびえていたという。
天正12年、豊臣秀吉の部将蒲生氏郷により攻め落とされ、蒲生氏郷は12万石の大名として入城した。氏郷に従って近江日野から商人が移住し城下町を形成した。
しかし、城下が手狭だったため、天正16年に氏郷が松坂に築城し、城と城下町は松坂に移転した。城下の町人や社寺はすべて強制移住させられて、松ケ島はもとの一漁村に変容した。
 
ここに残る指定地は俗に天守山と呼ばれ、付近から金箔をおした古瓦片などが出土しており、本丸天守台の跡と考えられる。
 
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松ケ島城跡付近遺跡案内図。
古図や検地帳には天主跡・堀之内・丸之内・城の内・南之内・日の丸といった城郭名や、殿町・本町・西町・紙屋町・ほうく町・鍛冶町という町名が見え、往時の繁栄をしのばせる。
 
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松ケ島城跡から西方向を眺める。
 
23号線松ヶ島町交差点から北東に入り、狭い県道に着くと、右横の狭い路地に松ケ島城跡へ向かう道標があった。余りに狭いので躊躇したが、この路次しかないと悟って進むと、畑とビニールハウスの中に城跡の高台が見えてきた。
 
翌日は、明和町の斎宮遺跡を見学するので、「車中泊まとめWiki」で見つけた玉城町の大仏山公園へ向かった。

三重県明和町 国史跡 水池土器製作遺跡 1/10史跡全体模型

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水池土器製作遺跡。国史跡。明和町明星。
2017512日(金)。
水池土器製作遺跡は、斎宮で使う土器が作られたとされる奈良時代の土器製作集落跡。
伊勢平野の南部、松阪市と伊勢市のほぼ中間にある北に延びた高低差約10mの段丘の一端に位置する。奈良時代の工人集団の遺跡で、西方約2kmには斎宮跡がある。
 
発掘調査の結果、高低差約3m、幅約100m、長さ約200mの傾斜のゆるい場所に、掘立柱建物跡4棟、竪穴住居跡3棟、土器焼成坑16基、土坑11ヵ所、粘土溜り2ヵ所、井戸跡1、溝1条などが見つかった。
 
遺構は溝で区画されたなかに建物を中心として焼成坑が配され、井戸もあって、生産関係の遺跡として一つのまとまりを示しており、わが国の土器製作遺跡としてその製作の実態をうかがわせる重要な遺跡である。
現在、一帯は水池史跡公園になっており、入口に広い駐車場がある。車中泊した玉城町の大仏山公園からは至近距離にあった。
 
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掘立柱建物跡。
 
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土器焼成坑。模型。
土器焼成坑はほぼ二等辺三角形で、長さ2.64.2m、幅1.21.8m、深さ0.20.4mの地山を掘っただけの簡単な構造で、壁面や床面は赤く焼けており、炭や灰の交じった土中には多量の土師器片があった。これらの土器の年代は奈良時代前半期のものだが、溝からは灰釉陶器も出土している。
 
このあと、西の斎宮歴史博物館へ向かった。9時前に着いたが、930分開館だったので、関連施設を先に見学することにして、史跡全体模型近くの「いつき茶屋」横の駐車場へ。
斎宮歴史博物館は1990年代はじめに見学しているが、斎宮跡全体の遺跡はその後、発掘や施設整備が進展している。2015年には、「祈る皇女斎王のみやこ斎宮」として日本遺産に認定された。
 
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1/10
史跡全体模型。
斎宮寮の復元模型。斎王が暮らしていた内院などが復元されている。
近鉄斎宮駅の真北にある。
 
このあと、すぐ東にある「さいくう平安の杜」を見学。

三重県明和町 史跡公園 「さいくう平安の杜」

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史跡公園。「さいくう平安の杜」。西脇殿と正殿。三重県多気町斎宮。
2017512日(金)。
「さいくう平安の杜」は201510月に公開された。入場無料。
平安時代前期(9世紀初め)の復元建物3棟(正殿・西脇殿・東脇殿)を、発掘調査で発見された位置の上に実物大で再現している。
3棟が建っていた一画は「寮庁」と推定され、斎王を支えた斎宮寮の中心部分で、斎宮寮長官が役人を前に重要な儀式を行ったり、神宮や都からの使いをもてなした場所と考えられる。
 
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復元建物。
正殿は、室生寺(奈良県宇陀市)の本堂などを参考に入母屋造の檜皮葺き屋根で復元された。
広場の東西には脇殿が復元された。西脇殿は約160㎡と最も面積が広い建物で、宴会などが開かれたと想像される。東脇殿は3棟で最も小さいが柱は直径約30㎝で最も太く、壁のない土間床の建物と推定。役人たちが待機したり、儀式の準備を行った建物とみられる。
 
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正殿。内部への立入りはできない。
正殿は約1.5mの高床が特徴で、南側には長官らが儀式を行ったり、使節に接見したと想定される広場が広がる。
 
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広場の先には近鉄山田線の線路が横切り、その向こう側には斎王が居住した「内院」があったと推定される竹神社の森が望める。
 
斎宮が存在した場所に行かなければ話にならない。シリーズ「遺跡を学ぶ」(新泉社)や「日本の遺跡」(同成社)を事前に読むと、鍛冶山西地区が斎王の住んだ内院の想定位置らしい。奈良時代は史跡の西にあったが、平安時代には東に移動している。
西脇殿に3人の現地ボランティアが詰めていた。鍛冶山西地区を斎宮駅付近と理解していたが、違っていたようだ。話を聞くと、竹神社が内院に相当するという。内院の北に寮庁があったということは承知していた。区画名が紛らわしい。この区画は柳原地区らしい。
竹神社は牛場東地区に属す。斎宮歴史博物館のリーフによると、牛場東地区は斎王の儀式空間、その東の鍛冶山西地区が斎王の居住空間と記している。
 
ボランティアが語ったように、三重県による史跡公園「さいくう平安の杜」(約27ha)の総事業費は約10億円という。それほどの費用対効果があるのかどうかは別として、文化施設に費用をかけることは素晴らしい。
観光客を集めるには、やはり仕掛けが必要だろう。平安時代の食べ物をアレンジしたB級グルメを開発してほしい。
 
内部には、復元にいたる調査の成果がパネルで展示されている。
 
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斎宮跡柳原地区の発掘調査。
 
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柳原地区での「寮庁」の解明。
9世紀前葉から11世紀まで正殿が200年以上にわたり、5回以上建て替えられていたことが分かった。
 
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遺構からみた柳原区画の変遷。
8世紀末~9世紀初頭。
 
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世紀前葉。
 
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世紀中葉。
 
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世紀後半。
 
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世紀末~11世紀前葉。
 
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世紀中葉~後葉。
 
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「内院」牛場東地区の発掘調査。
 
内院のあったという竹神社へ向かった。
 
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竹神社。神宮遥拝所。
伊勢地方の多くの神社に設けられている。
 
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竹神社。
第11代垂仁天皇の御代、竹連(たけのむらじ、竹氏という豪族)の祖宇加之日子の子の吉日古が、天照大神を奉じて伊勢御巡行中の倭姫命のお供をしてこの地に留まり多気郡一円を領して斎宮に住む。
この竹氏の子孫が祖神宇加之日子・吉日古を祀ったのが当社である。当社はもと旧参宮街道の竹川から北へ約300m進んだ松林の中(博物館南側駐車場前の奥の林)にあったが、明治44年旧斎宮村内の23社を合祀し現在の地に移された。
この地は江戸時代には「野々宮」または「旧地の森」とよばれていた。
 
このあと、斎宮歴史博物館へ向かった。

三重県明和町 斎宮歴史博物館 その1

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発掘調査区模型。
8世紀末頃の斎宮内院。斎宮歴史博物館。
2017512日(金)。
入館し、まず斎王群行などの映像を映像室で視聴。室内に復元衣裳などがあるが、撮影禁止。
展示室へ。シリーズ「遺跡を学ぶ」(新泉社)や「日本の遺跡」(同成社)で見た出土品が展示されていた。
内院には、斎王の居住する寝殿と、左に出居殿。寝殿の奥に斎王が祭祀を行なう神殿が設けられた。
 
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初期斎宮。飛鳥時代・奈良時代の斎宮。
史跡西部の台地端部に位置していた。平安時代に東部に移動した。
 
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羊形硯。斎宮跡出土。奈良時代。
 
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羊形硯。斎宮跡出土。奈良時代。
 
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土器。斎宮跡出土。飛鳥時代。
 
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土師器。水池土器製作遺跡出土。奈良時代。
 

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土器。斎宮跡出土。奈良時代。
 
イメージ 7石帯。斎宮跡出土。平安時代。
 
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円面硯。斎宮跡出土。奈良~平安時代。
 
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「寳」施印須恵器。
 
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土師器。杯。「水司」墨書。
 
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緑釉陶器。陰刻花文稜碗。斎宮跡出土。平安時代。
緑釉陶器は、9世紀前半には愛知県の猿投窯の薄緑色の釉薬をかけた製品と、やや濃い緑色の都の北で造られた製品が半々だったのが、こうはんには猿投産がほとんどになった。
10世紀になると猿投産が次第に減少し、濃い緑色の近江や美濃の製品に代わっていった。
 
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地鎮の遺物、あるいは胎盤を入れた容器(胞衣壺)。斎宮跡出土。奈良時代。
銭などを入れて発見される土器は地鎮に使われたものと考えられる。
 
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地鎮の遺物、あるいは胎盤を入れた容器(胞衣壺)。斎宮跡出土。平安時代。
 
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金属製品。斎宮跡出土。平安時代。
把手。鉈尾(だび・留具)。用途不明金銅製品。

三重県明和町 斎宮歴史博物館 その2 鳥形硯 猿面硯 緑釉陶器

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鳥形硯。斎宮跡出土。平安時代。斎宮歴史博物館。
2017512日(金)。
 
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サイコロ型土製品。櫛。雁股鏃。斎宮跡出土。平安時代。
 
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ひらがな墨書土器。斎宮跡出土。平安時代。
 
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猿面硯。斎宮跡出土。平安時代。
 
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緑釉陶器印刻花文皿。緑釉陶器(唾壺)。緑釉陶器(香炉)。レプリカ。斎宮跡出土。平安時代。
 
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緑釉緑彩陶器。
 
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発掘風景。
 
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緑釉陶器。大壺。斎宮跡出土。平安時代。
 
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緑釉陶器。大壺。斎宮跡出土。平安時代。
 
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土師器。台付き碗。把手付き甕。甕。高坏。斎宮跡出土。飛鳥時代末期~奈良時代初期。
 
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刻書須恵器。甕。斎宮跡出土。飛鳥時代末期~奈良時代初期。
瓫(ほとぎ)と刻まれている可能性がある。
 
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須恵器。杯身。杯蓋。平瓶。土師器。碗。斎宮跡出土。飛鳥時代末期~奈良時代初期。
 
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蹄脚硯(脚部)。斎宮跡出土。奈良時代。

三重県明和町 斎宮歴史博物館 その3 別れのお櫛 斎宮女御 斎王居室復元模型

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延喜式。一条家本。複製。斎宮歴史博物館。
2017512日(金)。
延喜式巻第五。神祇五。斎宮。
 
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延喜式巻第五。神祇五。斎宮。
 
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櫛と櫛箱。複製。
「別れのお櫛」。斎王は、京から斎宮へ旅立つさい、内裏の大極殿で天皇と対面する。天皇は「都の方に、おもむきたもうな」と声をかけ、斎王の額髪に櫛を差し、別れの儀礼とした。
 
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餌袋。斎王群行時に斎王が所持した袋の再現品。

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餌袋。
 
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延喜式。伊勢大神宮式。版本。江戸時代。原資料は平安時代。
斎王のつとめは、伊勢神宮の祭りに参加することで、9月の神嘗祭、6月・12月の月次祭で、いずれの月も、外宮は1516日、内宮は1617日に行われ、斎王は2日目に参加した。
斎王は、太玉串とよばれる榊の枝に麻の繊維を付けたものを宮司から受け取り、神宮の瑞垣御門の前の西側に立つのが恒例であった。
この太玉串は、神の宿るもの(神籬ひもろぎ)で、祭の初めに神の来臨を招くものであった。斎王は天照大神を案内する御杖大(みつえしろ)の象徴とされた。
 
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続日本紀。
神亀4727)年9月の項に、聖武天皇の第1皇女・井上内親王(717年~775年。母は夫人県犬養広刀自、のち第49代光仁天皇の皇后となるが、廃される)が、伊勢へ群行したという記事がある。
同月、出羽の国に渤海使24名が漂着し、大使高仁義らが、蝦夷に襲われ仁義ら8名が殺害され、生き残った高斉徳ら8名がのちに入京した事件があった。
 
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斎宮女御集。資経本。複製。藤原定家家に伝わった歌集。
 
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斎宮女御集。資経本。
 
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斎宮女御。
徽子(よしこ)女王。延長7年(929年)~寛和元年(985年))は平安時代中期の皇族、歌人。式部卿宮・重明親王の第1王女(醍醐天皇の皇孫)。母は藤原忠平の次女・寛子。朱雀天皇朝の伊勢斎宮、のち村上天皇女御。斎宮を退下の後に女御に召されたことから、斎宮女御と称され、また承香殿女御、式部卿の女御とも称された。三十六歌仙および女房三十六歌仙の1人。
 
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斎宮女御。
三十六歌仙の中でも5人しかいない女流歌人の1人で、しかも唯一の皇族歌人である斎宮女御は、後の歌仙絵の中でも際立った存在感を示している。絵柄は数種の構図が知られており、高貴な身分を示す繧繝縁の畳に伏し美麗な几帳の陰に姿を隠したものが最も一般的である。現存最古の作品として名高い佐竹本三十六歌仙絵巻でも、束帯や華麗な十二単の正装に居住まいを正す歌仙が大半を占める中で、一人くつろいだ袿姿で慎ましく顔を伏せた斎宮女御は、いかにも深窓の姫君らしい気品漂う姿が華やかな色彩で美しく描かれている。なお、大正8年(1919年)にその佐竹本が切断・売却された際には、六歌仙の一でもある小野小町をも上回って斎宮女御に三十六歌仙中最高の価格が付けられたといわれ、益田孝(鈍翁)の所有となった。
 
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原寸大の斎王居室復元模型(十二単姿の斎王と命婦の人形や調度)。
 
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斎王居室復元模型。
 
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斎王居室復元模型。

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斎王御殿復元模型。
 
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角盥(つのたらい)。再現した調度品。坂本曲斎(木工)、北村昭斎(漆工)作。
 
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唐櫛笥(からくしげ)。再現した調度品。坂本曲斎(木工)、北村昭斎(漆工)作。
 
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唐櫃(からびつ)。
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