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インドのステゥーパ

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西安3日間のツアー旅行 餃子の名店「徳発長」

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上海空港付近。
201776日(木)から78日(土)まで、中国の西安を旅行した。
クラブツーリズムのツアー「行こまい♪西安3日間」を利用し、費用は基本料金44,800円に一人部屋追加料金12,000円、燃油3,000円などの追加で旅行代金63,870円と現地費用950円の64,820円。
 
見学地は兵馬俑博物館(1~3号館、銅車馬館)、秦始皇帝陵(遠望)、大雁塔の3つの世界遺産と、兵馬俑発見者の記念館、空海ゆかりの青龍寺、漢陽陵博物館、シルクロード出発点の西の唐城門跡公園、南門から西門までの城壁散策。漢長安城の車内からの遠望。
 
618日の新聞広告を見て、その日にネットで申込みして、カードで支払いをした。
中国へは19969月に上海、蘇州、杭州、南京を手配旅行で個人周遊したのが始めで、2006年に北京、桂林、黄山の3回、20109月に九寨溝・黄龍・成都をツアーで回っている。
中国は見るべき観光地が残っているが、中国語が話せない、治安面が不安などの理由で関心を失っていたが、安いツアーがあったので行く気になった。
あとは、敦煌や東北部にも行きたいが、中部国際空港からはLCCの春秋航空がハルビンまで片道6800円、宿も1000円以下のホステルもあるので検討してみたい。
 
旅行直前に「長安」(佐藤武敏、原著19712004講談社学術文庫)を読んだ。西安の緯度は尾鷲、徳島、今治と同じ。肥沃な黄土地帯にある。西安市内には黄河中流域の新石器時代文化である仰韶文化(紀元前5000年から紀元前3000年)の半坡遺跡がある。
周の五都のうち、西周の豊と鎬は西安にあり、秦の咸陽は西安の北西、漢・隋・唐は長安を都とした。
 
76日は、中国東方航空便で中部国際空港発8:55、上海着10:45、発12:30、西安着14:35の予定であった。空港のクラツーカウンター集合時間は7時であった。
名古屋市守山区の自宅を530分頃出て、名鉄瀬戸線、JR中央線で金山へ行き、名鉄常滑線で中部国際空港駅に651分に到着。
空港のクラツーカウンターで航空券などを受領したのはいいが、出発が3時間遅れで1155分になるという。前日の台風3号の影響かと推測した。6日午後の漢陽陵博物館見学はどうなるのか尋ねると、繰り合わせをして見学でいるようにするということだった。
 
中国東方航空MU292便は7割ほどの座席率で、後方は片側3席が空いている箇所もあったので、移動した。
 
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上海空港付近。
 
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上海空港付近。
上海空港に14時過ぎ到着。空港で入国審査を経て、1440分ごろ同じMU292便に乗機。満席になっていた。全く出発せず、機内食が出てきた。
1650分に5時間遅れで西安へ出発。1930分頃、西安空港到着。
ガイドに引率されて、西安市内へ向かった。ガイドは段という男性で、真面目なガイドだった。
車内で5000円を285元で両替した。1万円だと470元になる。21時頃、市内に着き、餃子の名店「徳発長」に向かう。
 
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餃子の名店「徳発長」。
鐘楼の近くにある1936年創業の老舗餃子専門店。
 
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餃子の名店「徳発長」。
 
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餃子の名店「徳発長」。
 
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餃子の名店「徳発長」。
 
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餃子の名店「徳発長」。
13種類ほど出てきて、黒い餃子で終わり。食べきれないぐらいの量であったが、「餃子の王将」のほうが美味い。
 
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「徳発長」
2階から鐘楼方面。
階段に多くの人が座っている。地下鉄の駅がある。
 
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鐘楼方面。
「徳発長」を出て、徒歩で散策。鼓楼方面へ歩く。
 
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鼓楼方面。
このあと、バスに乗り、西門(安定門)見学後、宿泊する玉祥門西の紫金山大酒店(QUEST HOTEL)へ着いたのは23時を過ぎていた。

三重県明和町 斎宮歴史博物館 その4 斎王の食事 墨書土器

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斎王の食事。斎宮歴史博物館。
2017512日(金)。
 
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一進(調味料)。二進(飯)。三進(生もの、焼き物)。
 
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四進(干物の類)。五進(菓子類)。六進(塩辛や和え物)。七進(酒)。八進(水)。
 
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斎王の食事。メニュー配置図。
 
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四進。三進。二進。七進。
 
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一進。五進。八進。六進。
 
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身取鰒(みとりあわび)。
 
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斎宮で使われていた薬の一例。
大黄。芍薬。防風。細辛(うすばさいしん)。
 
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官司名を書いた墨書土器。「酒」。奈良~平安時代。
 
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官司名を書いた墨書土器。「蔵長」。
 
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官司名を書いた墨書土器。「少允殿」。
 
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官司名を書いた墨書土器。「寮□」。斎宮寮印(模造)。
 
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志摩式製塩土器。斎宮跡出土。平安時代。
 
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白黒玉石。斎宮跡出土。平安時代。
 
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人面墨書土器。土馬。斎宮跡出土。平安時代。
祭祀・祓に関わる遺物とされる。
 
1時間ほど見学し、松坂城跡へ向かった。

三重県松阪市 松坂城跡 松阪市立歴史民俗資料館 池大雅の金看板 松阪木綿 伊勢白粉 射和の軽粉 

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松坂城跡。松阪市。
2017512日(金)。
斎宮歴史博物館を見学後、松坂城跡へ向かった。城跡北側にある広大な無料駐車場に駐車。本居宣長記念館下にも無料駐車場があるようだが、城内の石垣に囲まれた狭い上り坂の先にあるため、すぐ南側の道路を走っていたのにもかかわらず、見過ごしてしまった。
 
松坂城は、市街地のほぼ中央に位置し、伊勢平野を流れる阪内(さかない)川と櫛田川に挟まれた標高35mあまりの独立丘陵上に築かれている。
1584年(天正12)羽柴秀吉により伊勢国を与えられ、松ヶ島城に封ぜられた蒲生氏郷が、飯高郡矢川庄
 
四五百の森の独立丘陵に目をつけ、夜を日に継いで同16年(1588)に入城できた平山城がかつての松坂城です。1584年(天正12)に伊勢国を与えられた蒲生氏郷は松ヶ島城に入った。しかし、松ヶ島城は狭小なため、南方にある四五百(よいほ)の森の独立丘陵に目をつけ、翌年から築城を始め、同16年に入城し、松坂城と名付けた。
蒲生氏郷は、松ヶ島城下の商人や寺社を移住させ、また旧領の近江日野の商人を呼び寄せ、城下町の整備を行った。
 
城は大手を北東に、搦手を南東に置き、本丸を中心に二の丸・三の丸・希代(きたい)丸・隠居丸などの曲輪を配置し、本丸には3層の天守が建てられた。本丸・二の丸をはじめ、各曲輪には野面積みによる豪壮な石垣が築かれ、とりわけ天守台の石垣はよく残っている。
 
1590年(天正18)、小田原攻めの軍功により、氏郷が陸奥国会津に移った後は服部一忠が入城した。しかし、一忠は豊臣秀次事件に連座したとされて切腹、その後に入った古田氏も転封され、1619年(元和5)以降、南伊勢が紀州藩の藩領となると、その統治の拠点となった。
 
右奥に見える城内北端の松阪市立歴史民俗資料館へ向かう。
 
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松阪市立歴史民俗資料館。
松阪市立歴史民俗資料館は、もとは飯南郡図書館で、明治44年(1911)建築に着工、翌45年に開館し、昭和53年から歴史民俗資料館として使用されている。
木造2階建で伝統的な和風の意匠をもち,左右に翼部、中央に玄関が突出した左右対称の構成をとる。設計は清水義一である。近代における伝統的な和風建築の展開を知ることができる好例であるとして、国の登録有形文化財となっている。
松阪商人の館との共通入場券を購入して入館。
 
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店の間。
江戸時代の店を復元している。「黒丸子」の看板が懸かっている。
 
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池大雅が書いた薬種商桜井家の看板。
参宮街道沿いの湊町にあった薬種商の三代目主人桜井七郎右衛門は旅人の困っている様子を見て正徳6年(1716)に足の膏薬「萬能千里膏」と腹痛薬「黒丸子」を売り出して成功した。
 
二つの看板は当時京都の書画の大家だった池大雅が書いたもので、金箔地に黒漆で書かれた看板は「金看板」とよばれた。
 
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企画展「松阪商人長谷川家の餅の博物館展」。餅舎(もちのや)の再現コーナー。
松阪の有力商人長谷川家の11代当主可同(かどう)(18681925)が、全国各地から収集した江戸期~大正期にかけての「餅」に関する様々な資料を展示。
可同は1920年、日本初とされる餅の博物館「餅舎」を自邸敷地内に造った。「餅舎」は観光名所として名をはせたが、戦争のため、1941年ごろ閉館した。
餅の包み紙の複製が展示され、紅白の鏡餅の形をした座布団が置かれている。
 
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伝・蒲生氏郷所用「銀鯰尾形兜」。複製と思われる。
 
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松坂城跡模型。上が北。右上が歴史民俗資料館敷地、右中央が大手門。中央上部が本丸・天守台。
 
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松阪木綿の縞帳。
江戸時代、松阪もめん(当時は伊勢木綿、もしくは勢州木綿と呼ばれた)が大流行した。江戸の人口が100万人といわれた当時、年間50数万反を売り上げたといわれる。
 
特に日本橋大伝馬町一丁目には、伊勢国出身の木綿問屋が集まり、「一丁目(大伝馬町)は伊勢店ばかり」と揶揄されるほどで、歌川広重の錦絵にもその様子が描かれている。
当時、江戸では、倹約令によって華美な着物を堂々と着られなくなっており、遠目から見ると無地のように見えて近づいてみると、様々な縞柄模様が粋でおしゃれだとして、江戸っ子をとりこにした。
伊勢木綿のなかでも、特に縞柄のものを「松坂嶋」と呼んで、大流行し、歌舞伎の中にも、縞柄の着物を着ることを「マツサカを着る」というセリフがあるほどであった。
 
松阪の貿易商、角屋七郎兵衛によって、安南国交趾(コーチ・現ベトナム北部)周辺で織られていた「柳条布(りゅうじょうふ)」という、文字通り柳の葉の葉脈のように細い縞柄の綿布がもたらされた。「松坂嶋」のシマは、嶋渡り(舶来)からきており、それがシマ柄といわれるようになったといわれる。
 
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染料。藍などの植物染料のほか、動物や鉱物などが用いられた。
 
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機織り機。
 
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伊勢産の水銀鉱石と伊勢白粉関係資料。
7世紀以降朝廷に献上された朱砂(水銀)の多くは伊勢の丹生鉱山(多気郡多気町)の産物であったと考えられている。特に奈良東大寺の虞舎那仏像(大仏)の建造の際には、熟銅737560斤とともに、メッキ用に金1436両、水銀58620両、さらに水銀気化用に木炭16656斛が調達されている。この際に使用された水銀が全て伊勢産で賄われていたかは不明だが、その後、戦乱によって損壊した大仏を再建するために用いられた水銀は、全て伊勢産であったと考えられている。
 
中世には、丹生には日本で唯一、水銀座と呼ばれる座が存在した。朝廷の中心に位置する摂関家が本所になっていたのではないかと考えられている。
 
室町時代には、丹生産の水銀は従来の用途の他に、伊勢白粉の不可欠な原料として使用されることになった。
 
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伊勢白粉は、丹生鉱山に近接する松阪市射和(いざわ)地区を中心に生産されていたので射和軽粉(かるこ)ともいう。水銀系の白粉の成分は、塩化第
1水銀(甘汞)であり、透明の結晶体である。原料は水銀の他に、食塩・水・実土(赤土の一種)である。
 
製法としては、水銀・食塩・水・実土をこね合わせ、鉄釜に入れて粘土製の蓋である「ほつつき」で覆って約600℃で約4時間加熱する。すると、「ほつつき」の内側に白い結晶が付着する。これが塩化第1水銀であり、これを「ほつつき」から払い落とし、白い粉状にしたものが水銀白粉である。
 
軽粉を作る竈や水銀と混ぜる赤土は、射和にある「朱中(しゅなか)山」の土が最もふさわしく、ホツツキを作る土も射和に近い多気町荒蒔の土が使われたとの報告もある。
 
白粉は鎌倉時代に中国から製法が伝来したとされる。当時の白粉の製法には水銀の存在が不可欠であり、丹生鉱山が存在するこの地域に伝播することになった。
射和の軽粉商は、白粉の他にも小間物等も扱っていた。当初、白粉は化粧品であると同時に、腫れ物といった皮膚疾患を治す薬品として貴族の間で珍重されていた。また、時としては外用ばかりでなく、腹痛の内用薬としても用いられていた。これが一般に広まったのは、伊勢神宮の御師が諸国の檀那に大神宮のお祓いと共に白粉を配るようになった事がきっかけである。
 
室町末期には鉛白粉が輸入されだし、丹生鉱山の水銀から輸入水銀に原料を転換している。16世紀頃に梅毒が流行、18世紀頃になると伊勢白粉は駆梅薬として再び注目される事となった。また、シラミ除けの薬として人ばかりでなく牛馬にも使用された。
 
明治時代に入ると製造過程で水銀中毒が続発した事や洋式の第1塩化水銀の製法が普及した事、医薬品の法的規制の強化によって窯元は減少していった。1953年(昭和28年)に最後の窯元が廃業して伊勢白粉は途絶した。
 
射和の繁栄は軽粉がもたらした。そして、松阪商人の江戸での活躍を支えたのも、松阪木綿とこの軽粉が築いた富だと言っても過言ではない。
 
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1893
年アメリカのシカゴで開催された万博コロンブス博覧会に出品された射和軽粉の小瓶セット。

三重県松阪市 松坂城跡 本居宣長旧宅

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松坂城跡。本丸下段から東方向。商人地区。松阪市。
2017512日(金)。
松坂城は北を流れる阪内川を防御線とした要害の地にあり、丘陵を切り通して、城郭の中核部の北丘と、城の鎮守神を祀った八幡宮のある南丘に分断した。
 
北丘の最頂部に本丸を築き、そこを中心に東側にニノ丸、西側にきたい丸、南側に隠居丸を配置し、両丘の周囲を三ノ丸とした。本丸を中心に渦巻き状に曲輪を巡らせた配置は、渦郭式と呼ばれる。
本丸は上下2段に分かれている。本丸下段には、南に太鼓櫓、東に月見櫓、北に遠見櫓を構えていた。
 
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松坂城跡。本丸上段、天守台。
本丸上段には三層からなる天守があった。天守と隣り合うように敵見櫓、対角の東角に金の間櫓があり、それぞれの櫓の間には多聞が巡らされていた。
このような天守と二基以上の櫓が連結している構造は「連立式天守」と呼ばれるもので、近世城郭の先駆的なものとして高く評価されている。
 
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天守閣跡。本丸上段。
周囲には多聞跡の石垣があり、ぐるりと囲まれていた。
 
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桜松閣(旧鈴屋遺蹟保存会事務所)。松坂城隠居丸跡。国登録。
隠居丸は本丸の南にあり、2棟の道具蔵と宝蔵、米蔵があった。後に米蔵は移築したとされ、御城番屋敷の敷地にある土蔵がそれといわれている。
現在、隠居丸跡には、松阪出身の江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅「鈴屋」が移築されている。明治42年の移築と同時に隣接して現在の桜松閣が建設された。
 
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本居宣長旧宅・旧鈴屋遺蹟保存会事務所の説明板。
 
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本居宣長旧宅。国特別史跡。
本居宣長旧宅の建物は1691年(元禄4年)に本居宣長の祖父小津三四右衛門定治が隠居所として建てたものである。最初建物は松坂職人町に建てられ、後に松坂魚町に移築された。
本居宣長の先祖は代々伊勢国の北畠家の家臣であり、本居家初代の本居武秀は蒲生氏郷に仕えた武将であった。その子七右衛門の代から氏を小津と改めて松坂に住み、小津家は木綿問屋を営んで江戸店持ちの豪商として栄えていた。
 
宣長が11歳のとき、父の三四右衛門定利が病没した。商いは義兄の宗五郎定治が継いだが、小津家の家運は次第に傾き始めた。翌年、母かつは宣長とその弟1人と妹2人を連れて、5人家族で魚町の隠居所に移り住んだ。
 
宣長はこの後、若い頃京都で医学を学んだ7年間を除いて、72歳で亡くなるまでの間この家で暮らした。義兄の死後宣長は小津家を継いだが、商いはやめ、氏を祖先の本居に戻した。そしてこの家で町医者を営むかたわら、『古事記伝』の執筆をはじめとする日本古典の研究や後学の指導に取り組んだ。
 
宣長が53歳のとき2階の物置を改造して新しい書斎を作った。鈴を愛好した宣長は書斎の床の間の柱に掛鈴を吊り下げ、執筆活動の息抜きにそれを鳴らして音色を楽しんでいたという。宣長はこの書斎を「鈴屋」(すずのや)と名づけた。
 
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本居宣長旧宅。建坪
74.25㎡。
反対側に見学用通路が設けられており、二階「鈴屋」の特異な間取りを眺めることができる。
 
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本居宣長旧宅。
「店の間」では、宣長が医療活動をしていた。昼は薬箱を持って患者の家を回っていた。
 
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本居宣長旧宅。
「奥の間」は、来客との応接間であったが、二階増築までの書斎であり、また講釈会場や歌会に使用された。
 
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本居宣長旧宅。二階への上り口。三畳の間。本来の上り口。
 
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本居宣長旧宅。二階「鈴屋」への本来の上り口。
 
隣接している本居宣長記念館へ向かった。

三重県松阪市 松坂城跡 本居宣長記念館 その1 古事記伝

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本居宣長画像。円山応震画。本居宣長記念館。松阪市。
2017512日(金)。
 
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円山応震(17901838年)は円山応挙に始まる円山派の3代目。円山応挙の次男・木下応受の子として生まれるが、後に伯父の円山応瑞の養子となる。
本居大平の賛は、本居宣長の歌「敷島の大和心を人問はば 朝日に匂ふ山桜花」から始まる。
 
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駅鈴。
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古事記伝。版本。本居宣長の代表作。
 
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古事記伝。板木。
 
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薬箱。薬匙。
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日本書紀。本居宣長手沢本。
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古事記。本居宣長手沢本。
 
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万葉集問目。本居宣長問。賀茂真淵解。
 
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本居宣長随筆。
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二十一代集。本箱。
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二十一代集。本箱。
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書斎中蓄書目。
 
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手向け草。
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三重県松阪市 松坂城跡 本居宣長記念館 その2 日記など 本居宣長の墓

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本居宣長七十二歳像。鴨川井特画。本居宣長記念館。松阪市。
2017512日(金)。
 
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日記。
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本居宣長は、享保15年(1730)5月7日(現在の6月21日)、伊勢国松坂本町(三重県松阪市本町)の木綿商の家に生まれた。読書を好んだ少年は学問の道を選び、23歳の年に医学修行のため京都に遊学、28歳で松坂に帰り魚町で医師を開業。その傍ら、松坂の人に『源氏物語』などの古典の講義を行い、また自らも研究に励む。34歳の時、松坂に宿泊した江戸の国学者・賀茂真淵と念願の対面がかない、『古事記』研究の志を打ち明ける。師は激励し、入門と指導を許諾する。この二人の対面が「松坂の一夜」である。感奮した宣長は、以後、35年をかけて『古事記伝』44巻を完成する。また文学の本質は「もののあわれ」を知ることにあるとする『源氏物語玉の小櫛』などの文学説や、国語学の研究、紀行、随筆など、数多くの著作を残した。
 
宣長の学問により、人々は古典を再発見した。『古事記』の持つ価値、また『源氏物語』の面白さ、藤原定家の歌の味わい。また、宣長は、日本語の基準、たとえばそれまで不統一だった仮名遣いや文法、また五十音図を整然と説明した。そして、「日本」という自分の国の基準で、また言葉で、思想も宗教も、また日常生活から政治に至るまで説明することを提唱した。
 
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遺言書。複製。
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桜と鈴と歌を好み、松坂を愛した宣長は、終生この地を離れることなく、享和元年(1801)9月29(現在の11月5日)、72歳の生涯を終える。墓は郊外の山室山と、菩提寺・樹敬寺(ジュキョウジ)にある。諡(オクリナ)は秋津彦美豆桜根大人、戒名は高岳院石上道啓居士。いずれも自分でつけた。
 
 
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諸用帳。家計簿。
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音信到来帳。
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万葉集。本居宣長手沢本。
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撰集万葉抄。田中道麿編。本居春庭写。本居宣長加筆。
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古事記伝。草稿。
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古事記伝。再稿本。
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源氏物語年だての図。
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購求謄写書籍目録。
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倭音通音。谷川士清著。本居宣長写。
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20173月にリニューアルオープンしたという本居宣長記念館を40分ほど見学し、城跡を下りて、御城番屋敷、商人町へ向かった。その後、17時頃、樹敬寺にある本居宣長の墓を見学して本日の行程を終了した。
 
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本居宣長の墓。樹敬寺。国史跡。松阪市新町。
宣長の墓は二つある。山室の奥墓(おくつき)と、菩提寺浄土宗樹敬寺(じゅきょうじ)の墓である。樹敬寺は少年宣長に大きな影響を与えた寺で、塔頭嶺松院の歌会には、44年にわたり参加した。
 
奥墓が、晩年仏教を廃した宣長の思想の象徴であるならば、妻や家族と眠るこの墓は、社会の一員、また小津家・本居家の当主としての自覚の象徴である。
 
碑面には宣長と妻勝の戒名「高岳院石上道啓居士」「円明院清室恵鏡大姉」(宣長筆)と刻む。その背後には、長男春庭と妻壱岐の墓がある。二人の戒名は「明章院通言道永居士」「雅静院淑和慧厚大姉」。いずれもその生涯を象徴する文字が選ばれている。またこの墓地には、宣長の祖先の歴代小津家、子孫である本居家の合計26基の墓がある。

本居宣長の墓は樹敬寺の本堂とは道路を隔てた向かい側の共同墓地内にある。

三重県松阪市 御城番屋敷 本居宣長旧宅跡 松阪商人の館 三井家発祥地

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御城番屋敷。松阪市。重文。
2017512日(金)。
現存する最大規模の武家屋敷。本居宣長記念館から松坂城裏門跡を出た先に、搦手門(竹御門)跡を結ぶ石畳の両側に、美しく整えられた槇垣を巡らした御城番屋敷がある。
松坂城を警護する「松坂御城番」という役職の武士20人とその家族が住んだ武士の組屋敷であった。
 
御城番武士の祖先は、徳川家康の先鋒隊として活躍した横須賀党で、家康の子頼宣の家臣として紀州藩の田辺に遣わされ、田辺城主安藤家に助勢する使命を帯びた藩主直属の家臣として、「田辺与力」と呼ばれていた。
幕末、突然に、安藤家家臣となるよう通達を受けたため、直臣であることに誇りを持っていた彼らはこれを不満に思い、藩士の身分を捨て放浪の身となった。
紀州藩への復帰を嘆願し続け、6年後の1863年に松坂城御城番として帰藩がかない、彼らとその家族の住居として御城番屋敷が建てられた。
 
商人の町へ向かう。
 
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旧長谷川家住宅。重文。
三井家・小津家とならび松阪商人を代表する松阪屈指の豪商、長谷川治郎兵衛家の本宅。
長谷川家は、数多い江戸店持ち伊勢商人の中でも、いち早く江戸に進出して成功をおさめた。1675年、3代治郎兵衛政幸を創業の祖とし、後には江戸の日本橋周辺の大伝馬町一丁目に5軒の出店を構える木綿商となる。広重作の「東都大伝馬街繁栄之図」には、長谷川家の江戸店が描かれており、その繁栄ぶりがうかがえる。江戸時代後期には、紀州藩への大名貸しをした松坂御為替組の惣代もつとめた。
 
長谷川家の広大な屋敷構えは、その長い歴史の中で隣接地の買収と増築を繰り返し形成されたもので、近世から近代にかけて商家建築の変遷をたどることができる。
正面外観は建ちの低い、つし二階建てで、袖壁の上に立派な本うだつが上がっている。
毎週土曜日・日曜日、祝日に内部が公開されている。
 
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本居宣長旧宅跡・附春庭旧宅、土蔵。国特別史跡。
旧長谷川家住宅から通りを阪内川方向へ向かうとすぐ向い側に本居宣長の旧宅跡がある。
この宅地は、宣長の曾祖父小津三郎右衛門が、承応3年(1654)に本町の家屋敷とともに小津某より購入したものである。本町の家が、小津家の本宅であり宣長が生まれた家であるが、現在は何も残らない。この宅跡とは溝を隔てて地続きで、裏口で通じていた。
周囲には、向かいに御目見得医で親友の小泉見庵、門人長谷川常雄、本町には三井高蔭(三井家鳥居坂家四代目)、中町にも門人の殿村安守、後に宣長の養子となる稲懸大平などの屋敷があった。
宣長旧宅が松坂城内へ移築されてからも、春庭宅とされている離れと土蔵、一部の樹木は残されて当時の名残を今に留めている。最近、この地へ再度旧宅を城内から移築する計画が発表された。
東の通り(旧参宮街道)へ向かう。
 
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松阪商人の館。旧小津清左衛門家住宅。
松阪商人の館は、江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開しているもので、館の前の道は、お伊勢参りの旅人が行き交った参宮街道で、現代に続く三井グループの礎を築いた三井高利が生まれ育った場所も、この街道に面した近い場所にある。

木造2階建ての主屋は17世紀末から18世紀初頭に建設され、明治期まで数度にわたり増改築された。

小津家は、伊勢国司北畠家の一族の木造(こつくり)家に仕えた三好隼人佐長年を先祖としている。
創業の祖とされる3代目長弘は、承応2(1653)年に、江戸大伝馬町一丁目に紙店「小津屋」を開業した。その後、元禄11(1698)年には隣地へ木綿店「伊勢屋」を開業した。
また、松阪においては数多い江戸店持ちの豪商の中でも筆頭格に挙げられ、宝暦5(1755)年には三井、長谷川、長井等とともに紀州藩の御為替御用を命じられている。
明治以降は、紡績会社や郵便船会社等の経営に参画し、また明治32年には小津銀行、同36年には小津細糸紡績所を設立した。現在も、紙業と不動産業を中心に創業以来の場所で脈々と営業を続けている。
 

 
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万両箱。松阪商人の館。
千両箱では足りないほどの財産を、蔵の床下に埋設して収納していた。
 
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座敷。松阪商人の館。
 
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内蔵。松阪商人の館。
18世紀初頭の建設。内部は2階建てで、資料が展示されている。
 
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庭。松阪商人の館。
 
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通り庭。松阪商人の館。
左が座敷・内蔵。右が向座敷・調理場。
 
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大蔵跡。松阪商人の館。
 
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裏側から表方向への眺め。松阪商人の館。
井戸屋形と左手前の厠棟は19世紀前半の建設。厠は使用人や来客用のものと思われる。
 
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三井家発祥地。
松阪商人の館前の通りを松坂城方向へ向かうと大通り手前に三井家発祥地の屋敷がある。
のちの三井財閥となる江戸時代屈指の豪商・三井家は、松阪本町から、やがて「江戸店持京商人」となって天下に飛躍していったが、発祥地はその父祖の記念の地である。
豪商三井家の創業の祖は3代高利(162294)であるが、ここには白粉町来迎寺より移した初代高安と2代高俊の墓、高利の長兄らの供養碑などがある。また高利の産湯に使ったという伝承のある井戸があり、発祥の地の記念碑も建つ。
 
三井家は高俊の代に松阪に居宅を構え、この発祥地周辺に広い地歩を占めていた。しかし、本格的な江戸進出を果たした高利は、京都に居宅を移し、松阪には一族と松阪店を置き、藩の御用も勤めさせた。
 
非公開なので、門扉の中を覗くことはできない。
松坂城跡北の市営無料駐車場へ戻り、宝塚古墳出土の埴輪を展示している松阪市文化財センター「はにわ館」へ向かった。

三重県松阪市 松阪市文化財センター「はにわ館」 宝塚1号古墳 日本最大の船形埴輪

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宝塚
1号古墳。模型。松阪市。松阪市文化財センター「はにわ館」。
2017512日(金)。
宝塚古墳は三重県松阪市宝塚町・光町にあり、伊勢湾を遠望する丘陵に位置する、大小2基の伊勢地方最大の前方後円墳である。一帯では、1928年に推定も含めて88基の古墳が確認されていたが、開発によって現在は、中心的古墳といえる2基だけになり、現在は宝塚古墳公園として公開されている。
 
宝塚古墳1号墳は前方後円墳で。全長111m、後円部径75m、前方部最大幅66m、最大高10mである。前方部を東に向け、北側のくびれ部には祭祀の場と考えられている造り出しがある。5世紀初頭の築造と考えられる。
 
古墳時代の全時期を通して伊勢国最大の前方後円墳である宝塚1号墳は、伊勢の王墓として他を圧倒する規模をもつ。対岸にあたる三河湾岸愛知県西尾市の正法寺古墳も本古墳と類似した形状をしており、両古墳は、伊勢湾、三河湾などの水上交通で覇権を得て、強大な勢力を有した関西系豪族により作られたものとみられる。
 
宝塚1号墳に葬られた人物は、近畿地方との深いつながりをもち、近畿地方から東国への玄関口にあたる伊勢湾西岸の広い範囲を支配する立場にあった人物と想定される。
この地の豪族だった飯高氏の祖、乙加豆知命(おとかずちのみこと)の墓とする説もあり、墓の北西約1kmにある阿形(あがた)を本拠地とした飯高氏は、大和朝廷に接近して繁栄したと考えられている。
 
宝塚1号墳の発掘調査では、古墳のマツリの場とされる「造り出し」の周囲から多くの埴輪が出土した。とりわけ、船形(ふねがた)埴輪は第一級の埴輪資料の発見として、全国的な話題となった。
図書館裏の無料駐車場に駐車。入館料100円。
 
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宝塚
1号墳から出土した日本最大の船形埴輪。重文。
日本最大、唯一立体的な飾りをもつ船形埴輪で、全長140cm、円筒台を含めた高さ90cm、最大幅25cmと、これまでに出土した埴輪の中では最大規模で、実見すると圧倒されるほどの大きさである。
 
船上に立てられた刀・2本の杖(つえ)・日傘などの立体としての飾りは、他に例のない、わが国唯一のもの。この船は、古墳に葬られた人物の生前の業績をあらわす物という考えと、死者の魂をあの世に運ぶ「葬送船」という説がある。
古代の葬送儀式で使われた船に権威を示す様々な品物を船上に立てて飾る風習を立体的に表現したものとして、学術的に最高水準の資料であると評価されている。
 
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船形埴輪の図解と各部名称。
特筆すべき特徴として、他に類例のない豪華な装飾があげられます。船首と船尾には、権威を象徴する複数の鰭(ひれ)状突起で飾られている。また、船体中央には同じく権威を象徴する蓋(きぬがさ)と呼ばれる日傘、王のもつ杖とされる威杖(いじょう)が2本、威厳を示す大刀が立てられている。このような装飾がほどこされた船は、古墳石室に描かれた壁画、円筒埴輪に描かれた線画で知られていたが、立体的な形で確認されたのは、今回が初めてとなった。
 
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宝塚
1号墳から出土した日本最大の船形埴輪。
弥生時代になると、丸木舟を土台としてその上部に部材を足して大型化を図った「準構造船」が造られるようになった。宝塚古墳が造られた古墳時代中期にも準構造船が使われていた。
この船は、大きな波も乗り越えられるように船首と船尾が大きくせりあがった形をしており、波の荒い外海での航海も可能であった。
船を進める艪を差し込むピボットは、左右3対ずつ計6ヵ所あり、艪穴は一定方向に開けられており、船が進む方向もわかった。
ただし、宝塚1号墳の船は船首・船尾のせりあがりが極端であること、ピボットの数が少ないこと、船体中央に立てられた飾りも大きく造られていることなどから、実際の船の形を忠実に再現したものではない。
 
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宝塚
1号墳から出土した日本最大の船形埴輪。
この船形埴輪を詳しく観察すると、表面の窪みに赤色の塗料(ベンガラ)が残っていることが分かった。このことから、造られた当時の船形埴輪は赤色に塗られていたと考えられる。
古代から、赤色には「神聖なものを護り、邪悪なものを退ける」力があると考えられていたので、船形埴輪に塗られた赤色は、宝塚古墳に葬られた人物の魂が何者にも邪魔されず黄泉の国へ旅たつことができるようにとの願いが込められていたのかもしれない。

三重県松阪市 松阪市文化財センター「はにわ館」 宝塚1号古墳 水の祀りにかかわる埴輪群

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造り出しに置かれた埴輪の模型。宝塚
1号古墳。松阪市。松阪市文化財センター「はにわ館」。
2017512日(金)。
宝塚1号墳の発掘調査では、古墳の北側に、祀りの場とされる「造り出し」と呼ばれる幅約18m・奥行き約16mの舞台状の場所が設けられ、古墳本体とは土橋でつながっていた。これは、「造り出し」という「祀りの空間」が定型化していく過程のものとして、また当時の古墳での祭祀の形態を考える上で極めて重要な発見であった。
造り出しの周りから140点もの埴輪が、当時置かれたままの位置で出土した。古墳で行なわれた祀りの様子を研究する上で大変貴重な資料として、平成18年に国の重要文化財に指定された。
 
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造り出し東側の埴輪群模式図。
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囲形(かこいがた)埴輪。導水。
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囲形埴輪。
高い塀に囲まれた空間に家形埴輪が置かれている。家の中には水を流す溝が造られている。
これらは水に関係のある「祀り」の場を表し、古墳に眠る人物がこの「祀り」に関わっていたと考えられる。三重県内では、伊賀市の城之越(じょのこし)遺跡や津市の六大A(ろくだいえー)遺跡で水にかかわる「祀り」の場が見つかっている。
 
奈良県御所市にある南郷大東遺跡では宝塚1 号墳の囲形埴輪に表された導水施設とよく似た施設が見つかっており、水の祀りが行われた場だと考えられている。この遺跡からは水を溜める槽と水を流す溝を持った木樋が見つかっており、不純物を沈殿させ、浄化された水を取り出す仕組みが造られていたことが分かっている。この浄化された清らかな水を使って祈りを捧げていたとされる。
 
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造り出し西側の埴輪群模式図。
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囲い形埴輪。湧水。
 
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囲い形埴輪。家の中には井戸を表す筒状のものが造られている。
 
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盾形(たてがた)埴輪。
戦いで身をまもる盾をかたどった埴輪。実際の盾は、木製あるいは皮製であった。円筒埴輪の台に粘土板を貼りつけて盾面をつくり、その表面に鋸歯文(きょしもん)・斜格子文(ななめこうしもん)などの文様を線で表している。宝塚1号墳から見つかった盾形埴輪は、すべて古墳の外側に向けて立てられていたことから、邪悪なものから古墳をまもる役割があったと考えられる。
 
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盾形(たてがた)埴輪。
 
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家形埴輪。
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屋根の構造から入母屋造り、寄棟造り、切妻造りに分けられる。宝塚
1号墳のものは入母屋造りであることや、鰭(ひれ)飾りをもつものがあることから、特別な意味を持つ建物を表していると考えられている。古墳の中の重要な場所や、その周辺に置かれることが多いことから、死者の魂が生活する場所、生前暮らしていた住居を表したものという説がある。
 
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蓋形(きぬがさがた)埴輪
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貴人にさしかける日傘をかたどった埴輪。その名のとおり、傘部分に絹をはり、傘上部には羽のような立飾りでその威容を強調している。
船形埴輪の船上にも、蓋が立てられている。
 
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家形埴輪と草摺り埴輪。
 
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円筒埴輪。
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古墳のまわりや斜面の途中に設けられた段で、ならんだ状態で見つかることから、死者が葬られている場所を区画する柵のような役割をもっていたと考えられている。
 
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宝塚
2号墳の模型と円筒埴輪。
宝塚2号墳は1号墳の北に位置し、前方部が短い帆立貝式と呼ばれる前方後円墳である。全長89m、後円部径は約83mで造り出しをもつ。時期的に、1号墳より後の5世紀前半頃に築造されたと考えられ、1号墳に葬られた人物の後継者の墓であると考えられている。
2号墳も周囲に埴輪が並べられていた。また、古墳の頂上では、死者を葬った後にその上で儀式をおこなった場所と考えられる小石が敷きつめられた区画が確認された。 

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宝塚
2号墳の円筒埴輪。
2号墳では、1号墳で出土した壷形埴輪は発見されていない。その代わりに、壷形埴輪と円筒埴輪が一体化した朝顔形埴輪が出土した。
 
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須恵器。子持器台。古墳時代後期。西野
5号墳出土。
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このあと、樹敬寺の本居宣長の参り墓を見学し、道の駅「津かわげ」へ向かった。

西安 西安の城壁 兵馬俑坑博物館へ 兵馬俑発見者の記念館

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西安の朝明け。東の玉祥門方向。
201777日(金)。
クラブツーリズムの西安ツアー3日間の2日目。1日目の西安到着が5時間遅れになったので、日程が変更になったが、予定見学地はすべて見学できた。バスの出発時間は730分。
630分から朝食バイキング。内容は安いホテルなのでそれなりのものしかない。
ホテルの紫金山大酒店は城壁北西の玉祥門の南東300mほどの地点にある。6時過ぎに、14階の部屋の窓から東の玉祥門方向を眺めた。
感心したのは、ロータリーの下に自動車道を通していること。
 
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西安の朝明け。
城壁の北西角の向こうには高層ビルが林立している。ビル群は56年前から建設されたという。
城壁内には規制があり、高層ビルはない。
 
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西安の城壁。
4階の食堂から。明代西安城の城壁がようやく眺められた。城壁の外側に水濠と緑地緩衝帯があるので、自動車道からは200mほどの距離がある。
明代西安城の城壁は中国全国で唯一完全に残されている城壁で、明代初期に唐の長安城壁を基礎として構築された。周囲13.7kmの長方形で、高さ12m、基礎部分の幅は1518m、上部の幅は1214mあり、レンガで築かれている。城壁の外側には攻撃孔が開いている。4つの方向にそれぞれひとつの城門があり、全体は外濠に囲まれている。
 
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明代西安城(薄茶色)と唐代長安城(黄緑色)。
玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典などを保存するために大雁塔が建てられた大慈恩寺は唐代長安城の中にあったが、現代の西安市の中心である明代西安城からは遠く離れている。
西安市の人口は800万人ほどなので、唐代長安城の区域はすっかり都会化している。
 
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西安東郊の兵馬俑坑博物館へ向かう。
バスは滻(さん)水を渡り、灞(は)水を渡っていく。このあたりに、新石器時代の有名な遺跡である半坡遺跡がある。
 
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秦時代の咸陽城と始皇帝陵。                               (拡大可)
秦始皇帝陵及び兵馬俑坑は西安北東30kmの驪山(りざん)の北麓にある。始皇帝陵の西、驪山北西端の麓には楊貴妃で有名な華清池がある。
 
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秦時代の咸陽城と漢の長安城。
 
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始皇帝陵と兵馬俑坑。
驪山(りざん)の北麓にあるため、北の渭(い)水に向かって地形は下っている。
 
鴻門の会の場所は始皇帝陵北東の崖の上にあった。
紀元前206年、楚の項羽と漢の劉邦が、秦の都咸陽郊外で会見した故事で名高い。
秦末の反乱のとき,先に秦の本拠地の関中 (陝西省) に入った者が王となる約束であったが,劉邦が先に占領したので不満をもった項羽が函谷関から入って劉邦を撃破しようとした。その衝突を心配した劉邦の将軍の張良や項羽の叔父の項伯らが和睦をはかり,咸陽の入口の鴻門で両者を会合させた。
項羽の謀将范増 (はんぞう) は会合の機会を利用して劉邦を殺そうとしたが劉邦は張良・樊噲(はんかい)らに助けられて,脱出に成功したという。
 
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兵馬俑発見者の記念館。楊志発氏と妻。
830分頃に兵馬俑坑博物館の駐車場に着き、近くにある兵馬俑発見者の記念館兼住居を見学した。
 
1974329日、臨潼県西揚村の住民6人が村の畑に井戸を掘ろうとして土を掘っていた際に、住民のひとり楊志発氏によって兵馬俑の最初の破片が発見された。
1mほど掘ったら赤く硬い土が出て、普通のスコップでは歯が立たなかった。道具を取り替えてさらに4mほど掘ると、頭のない人形が出てきたという。
発見者は7人の村民だが、ガイドによると公式には楊志発氏ひとりが兵馬俑発見者とされているという。
後の壁にはクリントン大統領との記念写真が貼られている。
83歳の楊志発氏と記念写真を撮るツアー客も多い。無料なので問題はない。
 
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兵馬俑を発見したさいに使用した鍬。兵馬俑発見者の記念館。
 
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馬俑坑博物館。入口。
9時頃だったので、混み始める前だった。
入口から10分ほど歩く。
 
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兵馬俑坑博物館。1号坑展示館入口。
 
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馬俑坑博物館。
2号坑展示館と文物展示館方向。
 
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兵馬俑坑博物館の南にそびえる驪山(りざん)。
 

西安 秦始皇兵馬俑坑博物館 1号坑展示館

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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。
201777日(金)。
紀元前221年に初の中国統一を遂げた秦の始皇帝(趙正)は、前246年に秦王に14歳で即位し、同時に陵墓の建造に着手した。兵馬俑坑から出土した兵器には当時の相邦(宰相)呂不韋の銘文がある。
210年に始皇帝は亡くなり、二世皇帝(胡亥)が即位し、始皇帝は驪山(りざん)に埋葬された。始皇帝陵の工事は継続され、前208年ごろまで続いたとみられるが、兵馬俑坑は1号坑から3号坑まで完成し、4号坑は未完成となった。
207年に二世皇帝は自殺し、前206年に秦王子嬰は劉邦に降り、秦は滅んだ。同年、項羽は子嬰を殺し、秦の宮殿を焼いた。兵馬俑坑も盗掘され、一部が焼かれたという。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。
兵馬俑が納められた俑坑は4つあり、秦の軍隊の編制を象徴している。1号坑は右軍で、歩兵と戦車兵の混合部隊で主力部隊。2号坑は左軍で、戦車兵と騎兵の混合部隊。3号坑は指揮部隊。4号坑は中軍だが、兵馬俑は発見されていない。
軍団の向きは東方向で、戦国時代のライバル国の方向を向いている。
 
1号坑は長方形で、東西230m、南北62mの大きさである。すべてが発掘されているわけではなく、1000体以上が発掘されており、全部で6000体の兵馬俑が埋まっていると推定されている。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。
坑には10の隔壁(坑の天井の梁を通す版築台)で細長く区切られており、その間の廊下に兵馬俑が並ぶ。まず、木柱を立て、天井は重量を受ける梁桁を挟んで、梁と梁の間に棚木を並べて屋根とした。柱の間には版築の壁を造った。廊下の幅は3.5mであった。棚木の上にはむしろを敷いて、2.5mの版築で着き固められた土の層を被せていった。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。
戦車は全部で8台が並んでいる。戦車の前には歩兵が4列縦隊で並び、戦車の後ろには鎧兵の隊列が並ぶ。戦車には将軍、御者、武官が配置されていたが、将軍俑は展示されていない。戦車は木製のため朽ち果てて残っていない。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。
戦車は4頭立てであった。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。
やや低い観覧位置に移動すると、間近にみられる。
正面には軽装の兵士が三列横隊に並んでいる。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。東側正面の観覧台。
観覧台から兵馬俑坑の地面までは10mほどの高さがある。
現在の地表より2m下に秦代の地表面があった。そこから5m掘り下げて地下坑を造った。
表示のある場所が最初に発見した場所。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。東側正面の観覧台下。レンガの部分。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。秦の馬。
秦の祖先は今の甘粛省に居住した遊牧民であり、馬の飼育に長けていたため、周から秦の地を賜ったという。西方や北方の遊牧民と交流し、外来の馬を集めて種を改良していった。
兵馬俑の馬は、高さ170㎝余りで、漢時代の馬より頭が大きく、足は太く短く、首も太くて胸が広く、尻が大きい。
秦の時代には鞍はあったが、鐙はまだなかった。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。
兵馬俑にあるひげと髪型は個人個人で違っている。兵士の多くは腰まで伸びた長髪を頭頂部で髷で結っていた。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。
修理中の兵馬俑。粘土の材料は黄土であった。上に軽く下に重い構造をしている。中は空洞で、焼成のさい破裂を避けるための通気孔が設けられた。頭や手は別に製作して焼いたあとに嵌め込まれた。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。
修理中の兵馬俑。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。1号坑展示館。
西出口から東の入口正面方向。
 
3号坑へ向かう。

西安 秦始皇兵馬俑坑博物館 3号坑展示館

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秦始皇兵馬俑坑博物館。
3号坑展示館。
201777日(金)。
3号坑は、1号坑の北25mに位置する。東西18m、南北21m、面積520㎡程度の小さなもので、凹字型をしている。
右軍(1号坑)と左軍(2号坑)を統率する統幕部、指揮部隊にあたる。
東向きの4頭立て戦車1両、戦車兵4体を中心にして、64体の兵士俑が中心に向かって南北に並ぶ。
ただし、不思議なことに将軍俑は1体もない。別の場所にあるとも、死後の始皇帝が統括者と考えていたからともされる。
 
首を破損した兵士俑が多いが、頭部が残された12体では、冠を着けた武官とそうでない平髷の兵士に分けられる。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。
3号坑展示館。
中心に位置する1組の戦車兵は冠を着け、御者と軍吏の俑の4体がある。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。
3号坑展示館。
兵士は儀仗用の殳(ほこ)を持っている。殳は円筒形の先を斜めに三方から切り裂いた形で、戦車の上の兵士を突き落す武器にもなる。坑内からは30の殳が発見されている。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。
3号坑展示館。
俑には彩色が残るものがある。陶俑の表面に顔料をうまく乗せるためには、まず一面に黒い生漆を塗って下地を整える。兵馬俑のほとんどに、色が残っていないのは、漆が乾燥して剥げ落ち、着色が失われたためである。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。
3号坑展示館。
生漆で下地を整えたあと、顏には厚めの肌色、白眼に黒い瞳、鎧は褐色、髷や鎧の紐は赤、ズボン・脚絆は緑というようにそれぞれの部分に応じた着色をほどこしていった。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。
3号坑展示館。
顔料は自然鉱物の化合物で、赤は朱砂・鉛丹、白はアパタイト(燐灰石)・鉛白、青はアズライト(藍銅鉱)、緑はマラカイト(孔雀石)など、1213色の鉱物顔料を組み合わせていた。
 
秦は五行(木火土金水)のうち水徳をシンボルとし、五行には方角と土壌の色がそれぞれ対応し、北方の黒を王朝の色とした。漢は火徳の色の朱(赤)を採用している。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。
3号坑展示館。出口。
未完成の4号坑の上を通り、2号坑展示館へ向かう。

西安 秦始皇兵馬俑坑博物館 2号坑展示館 兵馬俑坑の建築 跪射俑

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秦始皇兵馬俑坑博物館。
2号坑展示館。
201777日(金)。
2号坑は1号坑の北20mで発見された。形はL字を逆さにした差し金形で、東西96m、南北84m。面積6000㎡と、1号坑の半分弱の大きさである。89台の戦車、472の馬俑、900以上の兵士俑が埋まっているといわれる。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。
2号坑展示館。
この軍団は歩兵・騎兵・弓兵・戦車などの混成部隊で、4部分に分けられる。
前衛は弓兵部隊、立膝をついて弩を構えた鎧兵で、直立して弩を構える軽装兵が囲む。
右後方は戦車部隊(3人乗車)。64台の戦車が並ぶ。
左後方は戦車(2人乗車)・騎兵混合部隊で、6台の戦車の後方に108人の騎兵が馬を引いて並ぶ。
中央後方は戦車(3人乗車)・歩兵部隊で、19台の戦車に鎧兵がしたがう。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。
2号坑展示館。
 
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秦始皇兵馬俑坑博物館。
2号坑展示館。
 
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兵馬俑坑の建築構造。秦始皇兵馬俑坑博物館。
2号坑展示館。
現在の地表から5m下の回廊に兵馬俑が置かれている。回廊は版築で固められた隔壁で区切られており、床はレンガで固められている。
回廊は巨大で強靭な梁と棚木の屋根で支えられ、屋根の上にはむしろを敷いて、土の層を被せた。
 
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鉄製ボルト。秦始皇兵馬俑坑博物館。
2号坑展示館。
 
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鉄製ハンマー。鉄斧。
 
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鉄製鋤(すき)。鉄製鑿(のみ)。
 
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レンガ。
 
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跪射俑。秦始皇兵馬俑坑博物館。
2号坑展示館。
左足を立て、右足を跪いている。
 
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跪射俑。
左手の手相まで写されている。
 
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跪射俑。
くるぶしまでの浅めの麻靴をはいており、右足の靴裏が外側に表れている。靴裏には滑り止めが施されている。重心をかけるかかと部分やつま先に突起が多く、土踏まず部分には突起が少ない。
 
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中級軍吏俑。
 
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高級軍吏俑。

皇兵馬俑坑博物館 2号坑展示館  馬俑と騎兵俑 クロムメッキされた青銅製長剣

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馬俑と騎兵俑。秦始皇兵馬俑坑博物館。
2号坑展示館。
201777日(金)。
馬を引く騎兵の身長と馬の耳までの高さを比べると、騎兵の方が少し高く、小形である秦の馬の特徴がうかがえる。
秦の騎馬隊はその機動力を生かし、歩兵・戦車の本隊を補助するものであった。敵兵の間隙をぬって奇襲したり、敗残の兵を追撃したり、敵軍の糧道を絶ったり、自軍の後方の安全を確保したりする重要な役目を持っているが、本隊から自立することはできない。
しかし、歩兵100万、戦車1000乗、騎馬1万とその強大さを称えられた秦軍の中で、騎兵は主力軍たる歩兵をよく支えて活躍し、秦を統一へと導いた。
 
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馬俑と騎兵俑。
馬俑を見ると、鞍が表面に描かれている。秦の時代はまだ鐙(あぶみ)はなく、乗馬したときには膝で馬の腹を押さえて制御した。鐙がないぶん鞍も安定しないので、尻繫(しりがい)と腹ベルトでしっかり装着されていた。
鞍の下にはクッションが敷かれているが、前後にはまだ前輪、後輪という騎乗者の体を挟む突起はなく、騎乗者は少し前よりに座って安定させた。
中国では鐙は4世紀、前輪・後輪の鞍は唐代になって見られる。
馬の前髪は耳の周りをすっきりと刈りそろえて左右に分け、たてがみも項の部分を切りそろえ、尾は三つ輪か先を結んでいる。
 
馬の腹には、窯で焼くときのひび割れを防ぐ通気孔が見られる。
 
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立射俑。
軽装弓兵。立って、弩を射る姿勢をしている。2号坑からは172体の立射弓兵俑が発見された。
 
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銅殳、銅(ひ、短剣)、銅矛などの青銅製兵器。
兵馬俑坑では矢じりを含めて4万件の青銅兵器が出土したが、鉄の兵器は数件のみである。
銅の錆は内部を腐食から内部を保護する役割を持つ。刃先だけ鋭利さを保つことができる。鉄の場合は、錆びやすく、腐食は内部までおよぶので、青銅製武器は鉄製武器はこの点で優れている。
 
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弩の青銅製引き金部分。
 
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青銅製長剣。
秦の青銅製武器は、錆びを防ぐためにクロムメッキをしていた。剣の表面には1015ミクロンのクロムの層があることが測定された。クロムメッキの方法の詳細は解明されていない。
 
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青銅製鉤。
 
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銅製矢じり。鉄製柄付き銅製矢じり。
 
2号坑展示館から文物展示館へ。
 
参考文献。「始皇帝陵と兵馬俑」(鶴間和幸、2004年、講談社学術文庫)。

西安 秦始皇兵馬俑坑博物館 銅車馬展示館 立車 轀輬車

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秦始皇兵馬俑坑博物館。銅車馬展示館。
201777日(金)。
1980年、始皇帝陵墳丘から西側20mの地点の地下7.8mの深さの坑から、2両の銅車、8頭の銅馬および2体の御者が出土した。始皇帝の巡行を再現する車列と思われる。
銅車馬は現地でのみ保存展示され、兵馬俑と違って海外で展示されることはない秘宝である。
 
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銅車馬出土状況。
坑は、東西と南北が55m、深さは8m前後で浅い地下に設けられていた。車列は、長さ7m、幅2.1m、高さ2mの木のコンテナのような木槨の中に収められていた。車列の向きは秦の宗廟のある西の方向を向いていた。
 
銅車馬は、4頭立ての二輪馬車で、実際の車馬の2分の1の比率でできていた。中国では馬車を車馬とよぶ。
 
遺物は土の中で横倒しになった状態で出土した。青銅で造られた8頭の馬はほとんど原形をとどめていたが、馬車の部分は土の圧力によって押しつぶされ、ばらばらに壊れていた。馬車はそれぞれ約3千以上の部品からなっており、復元には3年ほどの時間を要した。
 
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号銅車馬。
1号銅車馬は、立車(りっしゃ)といい、御者が立って4頭の馬を手綱でさばいている。
車馬の全長は225㎝、高さ152㎝である。
馬の轡には「扇汗」とよばれる精緻な文様が施された円盤がとりつけられ、面繫(おもがい)は金銀で作られた華麗な装飾品で飾られている。
 
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号銅車馬。
車上に立てられた傘の直径は122㎝あり、高さ91㎝の御者と車体全体を覆っている。
傘の棒を馬車本体に固定するために手の込んだ仕掛けが施されていた。傘の棒にはキーがついていて、このキーを軽く抜くと止め金が開き、止め金を閉じるとキーが自身の重みで自動的に戻って、棒をしっかりと穴に固定するのである。
 
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号銅車馬。
傘の中には22本の芯が入っており、103.6㎝の柄で立っている。
傘の内側には夔(き)龍紋あるいは夔鳳紋が描かれている。夔とは伝説上の一足獣をいい、龍や鳳と組み合わせて図案化したもので、天空を表現し、また皇帝にふさわしい図案となっている。
 
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号銅車馬。
御者は背に長剣を帯び、右に盾と鞭、左には弩を備え矢が立て掛けられている。御者の足下にも予備の矢が矢箙(しふく)という箱に納められていた。箱の鎖には留め金をかけて動かないようにしてある。
それらすべての武器の表面には天空を表す雲紋が描かれていた。
 
実際の立車では、御者の左に警備武官が添乗し、2号車の先導と警護の役目を果たしたとされる。
 
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号銅車馬。
2号銅車馬は、安車または轀輬(おんりょう)車といい、正座した御者1体が手綱を引いた。
箱型の車体には横になって乗ることができるので安車といい、車体の側面の窓を閉じれば冬暖かく、開けば夏涼しいので轀輬車ともいった。
 
車馬全体の長さは馬の頭から馬車の端まで317㎝、高さは106.2㎝、車輪の直径59㎝である。
 
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号銅車馬。
御者は一人がようやく入れるほどの小さな箱の中に収まるように正座している。正座して馬車を制御するには、膝までがきっちりと収まる箱型のほうが安定がよく、力も入るのであろう。
 
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号銅車馬。
後部の車室はほぼ正方形で、横幅78㎝、奥行88㎝で、内部には床に正座して乗車したとみられ床には座布団を模した方形に近い彩色された銅板が敷かれていた。
 
車室の壁面は上部と下部に分かれ、その境は段になっている。壁面の上部には白地に夔龍紋が描かれ、下部には幾何学的紋様が配されており、上部は天、下部は地を表すとされる。
 
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号銅車馬。
車室外側の上部と下部の間には、外にせり出した台が後部入口を除いて周囲を廻っている。
楕円形の亀の甲羅のような屋根部分の大きさは、幅1295㎝、長さ178㎝、骨組みは36本ある。車体の天井には天を表すように、流雲紋と龍鳳が描かれている。四囲の外壁にも変形龍鳳巻雲紋と雲気紋が描かれている。
 
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号銅車馬。
直方体の個室と楕円形の屋根は天地の形を表している。
 
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号銅車馬。
車には左右に開閉できる引き窓、前方部には上に引き揚げる窓がある。
後部には外から鍵のかけられる乗降用の開閉式ドアがある。
窓やドアの外側の文様は菱形図案であるが、内側には夔龍紋が描かれており、外と内の世界を区別するような図案配置である。 

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号銅車馬。
BC2107月、始皇帝は第五回巡行の途次、沙丘で亡くなった。丞相の李斯は死を隠して、胡亥と趙高ら数名だけの極秘とし、始皇帝がさも生きているような振る舞いを続けた。
轀輬車の中に宦官を同乗させて、開閉式の小窓から外とのやりとりを行い、外から食事を奉り、官僚からの上奏にさいしては、宦官は皇帝の決裁を行った。夏の暑いときであり、死臭をごまかすため大量の塩漬けにした臭い魚を車内に入れたと史記は伝える。


 

西安 秦始皇兵馬俑坑博物館 銅車馬展示館 銅車馬の付属品

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秦始皇兵馬俑坑博物館。銅車馬展示館。
201777日(金)。
照明を抑えられた室内は見学者であふれている。
 
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銅楯。銅車馬展示館。
1号銅車馬の御者の右側に下げられた袋の中に入れられていた。形状は方形の首、弓状の肩、曲線的な腰部、平たい底部である。高さ35.6㎝、底部幅23.5㎝、厚さ0.4㎝。
 
楯の表裏には彩色された文様が描かれていた。縁取りの部分には白の穀壁紋を地に藍色の雲紋があり、そのなかに藍色で左右対称の四つの夔龍紋が描かれている。
背面の中央には取っ手があるが、その左右には同じように四つの夔龍紋が見える。
 
実戦用の楯は漆を塗った木製のもので、この銅の楯は明器と考えられる。
 
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銅矢。
1号銅車馬からは66本の矢が出土した。うち62本の矢は四辺にエッジが付けられ、鋭い先端部がある。残り4本の先端部は平たく、練習用で殺傷能力はない。
 
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矢箙(しふく)。
御者の足下に予備の矢が矢箙(しふく)という箱に納められていた。箱の鎖には留め金をかけて動かないようにしてある。
箱の表面の文様は、朱・青・黄・白・黒と五色を細やかに配色していた。
 
イメージ 4連接工法。
銅車馬は夥しい数の部品を組み合わせて製造されており、部品製作には鋳造や溶接など様々な技術を用い、紀元前の時代としては驚異的なレベルの技術が使われていた。たとえば、車輪と車輪をつなぐためには焼成法という技術が採用されていた。複製品が展示されている。
 
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手綱および馬具。
 
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馬具と扉金具。
馬具は鋲留めなどで連接、扉金具などは蝶番で出来ている。
 
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銅製品。

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金銀製馬綱。
 
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字型銅製品。
12号銅車馬から各2本出土した。用途は不明。
 
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銅製品。
 
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方壺。
左。1号銅車馬の右前隅から出土した。高さ14.5㎝、底の長さ12.7㎝、厚さ6.1㎝。白色で戊(5番目)と番号付されていた。内部には3つの銅製鉤が入っていた。
 
右。
2号銅車馬の車室内から出土した。高さ19.2㎝、底の長さ12.6㎝、厚さ5.8㎝。白色で丙(3番目)と番号付されていた。内部は空だったが、緑色の粉末が付着していた。水または酒の容器と推定される。
 
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発掘事業紹介展示室。
1974年に兵馬俑が出土した始皇帝陵周辺の様子。
 
1時間半近く秦始皇兵馬俑坑博物館を見学。西安市内へ戻る。

西安 秦始皇帝陵 華清池 青龍寺

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秦始皇帝陵。西安。
201777日(金)。
秦始皇兵馬俑坑博物館を見学ののち、西安市内方向へ1.5㎞ほど戻ると、すぐに秦始皇帝陵を南側から遠望する地点にきた。
陵域は広く、バス道路から北は秦始皇帝陵の公園となる予定で、敷地内の建物は撤去されるという。
 
墳丘の外側には内城と外城の城壁が囲んでおり、外城は東西940m、南北2165mの広さがある。内城の墳丘北側には寝殿と便殿があった。寝殿は、始皇帝の霊魂が地上に出て飲食し、衣服を受け取る建物である。便殿は、始皇帝の霊魂が休息する場所である。
外城の東側中央には巨大な門が設けられていた。そのイメージは翌日見学した前漢景帝の陽陵に復元された門で想像することができた。
 
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秦始皇帝陵。
始皇帝陵は、東西350m、南北345mの広さで、高さ76m、体積は約300万立方m70万人が38年をかけてつくったといわれる。
 
始皇帝陵の地下宮殿はまだ発掘調査がされていない。司馬遷の「史記」には、「地下に銅板を敷いて、宮殿や楼閣を築いた。自動発射の弓を置いて、忍び込もうとする者を射殺する。水銀を流して河や海をかたどった。天井には、宝石で描かれた星がまたたいている。」などと、記されている。
200311月、最新の科学技術を駆使した調査により、実際始皇帝陵の中に宮殿のような空間があること、水銀の反応があることなどが確認された。
 
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華清池。
始皇帝陵のすぐ西の驪山の北西麓にある有名な温泉池で、唐の玄宗皇帝と楊貴妃のロマンスで名高い。
周代から温泉地として知られ、歴代の皇帝も、ここを行楽の地として大掛かりな造営をした。玄宗皇帝も華清宮を作り、毎年冬から春にかけて、楊貴妃を伴い、酒楽の日を明け暮れ多くのロマンスを生んだ。「春寒くして浴を賜う華清の池、温泉の水滑らかに凝脂を洗う。」白楽天の「長恨歌」は二人の愛情を如実に歌うと同時に二人の贅沢きわまった生活振りも反映している。
 
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華清池。
現在、かつての楊貴妃が「凝脂」を洗っていた浴槽が昔のまま保存されている。楊貴妃が入浴したとされる「海棠湯」は、海棠の花の形をしている。玄宗が入ったといわれている「蓮花湯」と「海棠湯」、「星辰湯」は復元され華清宮御湯遺跡博物館として一般公開されている。湯泉は、現在でも入浴でき、リューマチや関節炎に効果があるという。華清池は、1936年に西安事件が起きた場所としても有名である。

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華清池。
驪山の北西麓一帯は多くのホテルなどが並ぶ地区となっている。

西安市内の東南部にある青龍寺へ向かう。
 
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青龍寺。入口。
青龍寺は西安市東南郊の雁塔区にある仏教寺院で、弘法大師空海ゆかりの寺として知られている。唐の長安城においては、左街の新昌坊に位置した。

青龍寺は隋の開皇2年(582)に、文帝が長安城を造営する際、予定地に散在する古墓を城街区へ移送し、その鎮魂のために楽遊原の新昌坊内に創建した霊感寺が前身である。
 
初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となったが、龍朔2年(662)に太宗の城陽公主が「観音経」の霊験で病が治癒したところから、廃寺跡に「観音寺」が創建された。景雲2年(711)に青龍寺と改称。新昌坊が城内東の端に位置するので、四神の東方を守護する青龍があてられたと考えられている。
 
746年、不空三蔵が「金剛頂経」を中国に請来した。不空三蔵の高弟が恵果である。不空は密教を鎮護国家仏教として位置づけ、密教が全盛期となる。
空海が青龍寺に入ったのは805で、空海は恵果に学び、806年多数の仏教経典や書籍を携えて帰国した。その後も天台宗の円仁や円珍らも密教を学んだ。
 
会昌5年(845年)会昌の廃仏によって再び廃毀されたが、大中6年(852年)復興し、護国寺と改められた。その後、唐末五代の動乱により、長安は急速に寂びれ、青龍寺も廃墟となってしまった。
 
1982年以来、青龍寺は復興され、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建てられた。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられた。
 
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青龍寺。入口横の青龍寺庭園築造之碑。
19931111日、青龍寺跡付属庭園落成式典の記念碑。四国四県などが建立した。
 
青龍寺の日本語女性ガイドに引率されて見学。
 
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青龍寺。「青龍寺早夏」。白居易の詩碑。
詩碑廊という回廊を回る。「青龍寺早夏」は810年頃に詠まれた。
 
「青龍寺早夏」。白氏文集卷九。
塵滅經小雨  塵は滅す小雨を経て
地高倚長坡  地は高し長坡(ちょうは)に倚(よ)りて
日西寺門外  日は西す寺門の外
景氣含和  景気清和含む
閑有老僧立  閑(かん)にして老僧の立てる有り
靜無凡客過  静(せい)にして凡客の過(よぎ)る無し
殘鶯意思盡  残鶯(ざんおう)意思尽き
新葉陰涼多  新葉陰涼(いんりょう)多し
春去來幾日  春去りて来(このかた)幾日ぞ
夏雲忽嵯峨  夏雲忽ちにして嵯峨たり
朝朝感時節  朝朝時節を感じ
年鬢暗蹉跎  年鬢(ねんびん)暗に蹉跎(さた)たり
胡爲戀朝市  胡為(なん)すれぞ朝市を恋ひて
不去歸煙蘿  去りて煙蘿(えんら)に帰らざる
青山寸歩地  青山寸歩の地
自問心如何  自(みづから)問う心如何んと
 
小雨を経て塵は洗い流された。丘陵に寄り添ってこの地は高い。 日は寺の門のかなた、西へ傾いた。景色は清らかで和やかな気を含んでいる。 境内はひっそりとして、老僧のたたずむ姿がある。しんとした中、参拝客の通る姿はない。 里に留まっていた鶯も、啼く意思は尽き、木々の若葉は繁り、涼しげな陰が多い。
 春が去って以来、幾日が経ったろう。夏雲がにわかに峨々と聳え立つ。 朝毎に移りゆく季節を感じ、年と共に鬢の毛はひそかに少しずつ衰えてゆく。
 何ゆえ私はいつまでも俗世に恋々とし、煙霧に包まれた山奥へと帰らないのか。 青々とした山は目睫の地にある。自らに問う、私はどうしたいのかと。
 
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青龍寺。「青龍寺早夏」。白居易の詩碑。画の部分。
青龍寺一帯は小高い丘の上にあった。
 
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青龍寺。空海の漢詩碑。「留別青龍寺義操阿闍梨」。
「経国集」の卷第十、詩九に所載。
「経国集」は平安前期の勅撰漢詩文集で淳和天皇の命で、良岑安世が滋野貞主らと編纂した。天長4年(827)成立。嵯峨天皇・石上宅嗣・淡海三船・空海ら178人の作品千余編を収める。
 
空海が帰国するさい、青龍寺で仲の良かった義操に与えた詩という。
「青龍寺にて義操阿闍梨に留別す」。
同法同門、遇うを喜ぶこと深し、空に随う白霧、忽ち峰に帰る
一生一再び見(まみ)え難し 夢に非ず 思中に数数(しばしば)尋ねん
 
同じ仏門の友としてあなたに出会えたことに私は深い喜びを感じている。しかし、空を漂って流れる白霧がたちまち峰に帰るように、私も故郷に帰る時が来た。今生、ひとたび別れしてしまえば次に会う事は難しいだろう。だが、夢の世界の中ではなく、この現実世界においていつも胸の中であなたを思う事にしよう。
 
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青龍寺。詩碑廊。
 
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青龍寺。知恵の輪。
数珠の形をしており、零を意味する。四国88個所巡りの零番札所という意味もある。
 
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青龍寺。空海記念碑へ登る石段。
 
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青龍寺。空海記念碑。
1982年、空海ゆかりの四国4県と真言宗の主たる門徒が中心となって、西安市政府、中国仏教協会の協力を得て、空海記念碑を建立した。
四隅の丸い置物は四つの県を表しているという。
 
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青龍寺。記念植樹碑。
四国四県からは桜の苗木が贈られ、青龍寺境内は桜の名所として賑わうという。
 
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青龍寺。恵果・空海記念堂内。
 
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青龍寺。恵果・空海記念堂内。
1980年代の日中友好ブームがなつかしい。
 
青龍寺の御朱印が全員に配られて、見学は終了した。

西安 明代長安城 城壁上のウォーキング

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明代長安城。南門(永寧門)。入口。西安。
201777日(金)。
青龍寺の見学を終え、明代長安城城壁のウォーキングへと向かった。
 
西安の城壁は、現在中国で完全に残っている城壁に中でも最大のものという。西安の城壁は、明の洪武年間(1370年~1378年)に、唐代の長安城をベースにレンガを積み重ねて築かれた。
城壁は一周13.79km、頂部幅1214m、底部幅1518m、高さ12m、頂部には12m毎に楼があり全部で98楼ある。
城壁の東西南北の城門には、内側に城楼、外側に箭楼(せんろう)の二つの楼が重なっている。
 
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城楼、箭楼(せんろう)。西門の説明板。
箭楼(せんろう)は楼門の入口の上に建てられた防御設備である。敵を攻撃するため、前方、左右に窓が開けられて、火力を集中できるようになっている。
城壁の門には、「門三重、楼三重」といわれる3重の防御システムが備えらえていた。
 
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永寧門(南門)から城内へは鐘楼へ通じる南大街が伸びている。
 
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永寧門(南門)。城内への通路は防御のため狭い。
自動車通行のためには、近くの城門の一部が別途開口された。
 
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城楼と箭楼(せんろう)の間の広場。日本の城でいえば、枡形または武者溜まり。
 
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広場と箭楼。
 
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城楼横の城壁。広場から城壁へ登ったあたり。
 
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箭楼と城外の西安市街地。
 
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城壁から西の方向を見下ろす。
 
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城壁を西へ歩く。
 
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城壁を西へ歩く。
 
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城壁と南側市街地。
 
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レンタサイクルがある。
城壁の頂部は外側が少し低くなっており僅かに傾斜が付けてある。
 
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南側を見下ろす。緩衝帯と水濠で防御している。
 
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途中の望楼。
 
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電気自動車。
14人のツアー客のうち11人が電動車に乗り、3人が歩いた。
 
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南西隅部に近付く。
 
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南西隅部の城内側。
 
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南西隅部。角楼が置かれていた。
城壁から突出した位置に建てられ、広大な視野を有した。戦時では、弓矢・鉄砲を発射するだけではなく、周囲の望楼の守備兵と連携して防御にあたる体制をとっていた。
 
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角楼の跡地と説明コーナー。
 
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角楼跡から城内方向。
 
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南西隅部から南門方向。
 
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西門へ歩く。城壁内側建物の屋根。
 
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西門。(安定門)。箭楼。
45分ほどで南門から到着。
 
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西門箭楼の構造図。


 
イメージ 25西門。城楼方向。
 
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広場と城壁。
 
次は玄奘三蔵ゆかりの慈恩寺・大雁塔へ向かった。

西安 世界遺産 三蔵法師ゆかりの大慈恩寺・大雁塔

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世界遺産。大慈恩寺・大雁塔。西安。
201777日(金)。
大雁塔は西安最古の建築物で、玄奘三蔵がインドから将来した仏典・仏像を収めるために建てられた塔である。
 
大慈恩寺は、唐の第2代太宗のとき648年(貞観22年)、皇太子の李治(高宗)が、亡母(文徳皇后)追善のため、北魏時代の浄覚寺および隋の大興城にあった無漏寺の故地に建立した。寺名は「慈母の恩」に由来する。
寺の規模は、子院(塔頭)10数院を擁し、建築物は総数1,897間、公度僧だけで300名という大寺であった。
 
玄奘三蔵は貞観191月(645年)に帰国し、657部の経典を長安に持ち帰った。玄奘は、太宗の勅命により、2月から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始した。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移った。さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立された。
 
帰朝した玄奘は、本寺の上座となり、訳経に従事する。麟徳元年(664)に、玄奘三蔵は62歳で没する。訳業19年、死の間際まで漢訳への翻訳に打ち込んだが、持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったという。
玄奘三蔵が翻訳した経典の数は、大般若経600巻をはじめ741335巻にのぼる。玄奘の弟子である基(窺基)は、師から相承した法相宗を宣教し、「慈恩大師」と呼ばれた。
 
南側入口から入場。寺の女性ガイドに引率されて見学。
 
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大慈恩寺・大雁塔。
唐代半ば以降、大慈恩寺の境内には、大きな戯場があり、俗講や見世物が行われていた。また、牡丹の名所としても知られ、それを詠んだ多くの漢詩が知られ、藤も植えられていた。春には、寺が所有していた南にある通善坊の「杏園」で杏の花が、夏には、寺の南池で蓮の花が咲き、秋には、柿がなり、紅葉につつまれたと伝えられる。
845年(会昌5年)の、武宗による会昌の廃仏の時には、大薦福寺・西明寺・大荘厳寺と共に、廃寺を免れた。
しかし、唐代末期に戦乱のため焼き払われ、現存するものは当時の十分の一に過ぎない。
明時代の1550年(嘉靖29年)に、現在の大慈恩寺が建立されたといわれる。
 
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大雁塔。大雄宝殿。
当初は5層の塔であったが、則天武后の時代に改造して10層になった。しかし、戦乱などで上部が崩壊し、現在は7層で高さは64 mである。
その後、1550年頃に重修されており、人民中国成立後にも修築されている。
 
塔の名は、菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を埋葬したことに由来する。
 
各階に仏舎利がおさめられ、経典は上層部の石室に置かれていた。当初は表面を磚に覆っただけで土によって作られていたために、老朽化してしまった。そのため、武則天の統治時代に、全て磚でつくられ、上まで登れるようになり、現在の7層の塔になった。
 
唐代には、杜甫、章八元、岑参など多くの著名な詩人が、大雁塔を登った時に詩を詠んでいる。
また、進士試験の合格者が大雁塔に登って、壁に記念の署名をしたことから、「雁塔題名」の成語も生まれた。
27歳の白居易が進士になった時は、「慈恩塔下題名処、十七人中最少年」と書き残した。また、訪れるものに自分の名を書くものもあり、唐代の詩人、李商隠の名が残っている。また、日本から訪れた円仁も登ったことがあった。残念なことに北宋神宗年間の大火で貴重な壁は焼け落ちてしまった。
 
大雄宝殿へ登る。
 
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大雄宝殿内の本尊。釈迦像。
 
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新しい仏堂。
数年前に建てられた仏堂。屋根瓦は愛知県の三州瓦。
 
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雁塔。
大雁塔は楼閣式、レンガ造りの塔で、高さは64.517m、底辺は25m、形状は四角錘。底辺42.5×48.5m、高さ4.2mの、レンガ造りの土台の上に建つ。
塔内には木製の螺旋階段があって、上へ登ることが出来る。各階の四面にはアーチ状の入口があり、そこから外を眺めることができる。階段は最上部7階まで250段続いている。
 
ここで、寺の女性ガイドが、大雁塔へ登る人はいますか。いませんよね。という風に一行に尋ねた。私は当然登るつもりだったので、もう一人の男性と二人で登ることになった。
ツアーの男性ガイドが塔下の入場券売り場へ引率し、登楼料を払って登った。

時間がなさそうだったので、あわてて登った。最初は上り専用階段だったが、降りる人も多く、怒鳴ってどいてもらった。しかし、帰るときは私も、間違えてこの階段を下ってしまった。
5分ほどで、最上層に到着。
 
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大雁塔。最上層。東方向。
開口部はガラス窓になっている。
 
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大雁塔。最上層。北方向。城璧方向。直下は公園となっている。
 
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大雁塔。最上層。西方向。
 
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大雁塔。最上層。南方向。
南だけは、ガラス窓の中央下の一部が刳りぬかれており、カメラを直接外界に突き出せる。そのせいか、人が滞留しやすい。
 
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大雁塔。最上層。南方向。
初めて西安盆地を囲む山並みが見えた。直下の南側広場の中央には玄奘三蔵像がある。
 
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大雁塔。螺旋階段を下る。
 
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大雁塔。下層階。唐時代のレンガ。
 
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大雁塔。下層階。1999年にインドの玄奘寺から寄贈された舎利容器。
 
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大雁塔。下層階。三蔵法師が訳した経巻。
 
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大慈恩寺境内の待合室にあった切り抜き。中部経済新聞。
201163日。
日中仏教交流協会(本部・名古屋市)の名誉会長である大慈恩寺の住職が名古屋に来て、東日本大震災復興の義捐金として10万円を寄付するとともに、日本経済復興のため新寺院の屋根瓦に三河の三州瓦を使用するという援助を表明した。
 
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大雁塔。南側広場。玄奘三蔵像がある。バス車内から。
大慈恩寺を出たのは1830分過ぎで、閉まりかけの通用門から観光客が大勢出ていった。
 
翌日は、空港に近い漢陽陵博物館見学を残すのみとなり、初日の5時間遅れの影響はなくなり、予定見学地を網羅することができた。ツアーに付き物の絨毯店、工芸品店という土産屋も回った。
 
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明代長安城城壁。南側。
20時頃。夕食後、ホテルへ帰る途中。
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