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Channel: いちご畑よ永遠に
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80年代の名曲 リック・アストリー「Never Gonna Give You Up」 デッド・オア・アライヴ「You Spin Me Round」 バナナラマ「Cruel Summer」     

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リック・アストリーRick Astley -。
Never Gonna Give You Up」は、イギリスの歌手リック・アストリーのデビュー曲。19877月に発売され、8月から5週連続全英1位、翌年3月に2週連続全米1位を記録するなど世界的に大ヒットした。作詞・作曲は音楽クリエイターチームのストック・エイトキン・ウォーターマン。

1987年にストック・エイトキン・ウォーターマンのプロデュースのもとでリリースした「Never Gonna Give You Up」と、それに続く「TogetherForever」が世界的な大ヒットとなりスターダムにのし上がる。日本でもデビューアルバムの『WheneverYou Need Somebody』がオリコン洋楽アルバムチャートで1988418日付から3週連続1位を獲得するなどバブル景気真っ只中のディスコブームに乗り大ヒットとなり、数回に渡り来日しテレビ出演やライブを行ったほか、三ツ矢サイダーのテレビCMにも出演していた事がある。

 
Never Gonna Give You Up」がイギリスでヒットしているという情報があったのち、日本でもMVが紹介されていった。「Together Forever」はサビだけがいい曲だった。
 
ストック・エイトキン・ウォーターマン(SAW)はヒット曲のツボを心得ていた職人集団だった。ユーロ・ビートはダンスミュージックであるが鑑賞するだけでも心地よい。
プロデュースした代表的なアーティストに、カイリー・ミノーグ、リック・アストリー、バナナラマ、デッド・オア・アライヴ、シニータほか、多数のアーティストのプロデュースを手がけ、世界中のヒットチャートを席巻した。 SAWのヒット曲を連発させたプロデュース手法は、小室哲哉などにも影響を与えた。
 
デッド・オア・アライヴDead Or Alive 「You Spin Me Round」 1984
有名な曲。気持ちよくなる。眼帯は気持ち悪いが。
 
バナナラマBananarama 「Cruel Summer 1984
ベストヒットUSAの常連だった。多数の曲があるが、私の好みはこの1曲しかない。「ビーナス」はショッキングブルーに限る。
 
シニータSinitta 「Toy Boy」 1987年。
有名な曲なので、ユーロビートのコンピCDをレンタルしたら唯一この曲だけが良かった。

80年代の名曲 ポリス 「Every Breath You Take」「Wrapped Around Your Finger」

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ポリス (The Police) は、1970年代後半から1980年代半ばにかけて活躍した、イギリスのロックバンド。「Every Breath You Take」の大ヒットで名を残した。ロックの枠組みの中に、レゲエの要素を加えた。
 
ジャズバンドで活動していたベーシスト兼ボーカリストのスティング、プログレッシブ・ロック・バンドで活動していたドラマー、スチュワート・コープランド、ギタリストのヘンリー・パドゥバーニの3人で結成。後に、元後期アニマルズのギタリスト、アンディ・サマーズが加入し4人編成となるが、ヘンリーが脱退しトリオとなる。当初は、パンク・ブームメントに乗ってデビューしたが、その後は安住することなく、メンバーの音楽的素養を柔軟に取り入れたロックを生み出した。
解散後もスティングはソロとして人気がある。
 
 
Roxanne 197879年 良曲。レゲエ調またはタンゴ調。
Message in a Bottle 1979年 良曲だが飽きる。
De Do Do Do, De Da Da Da 1980年。全米10位 
                           名前を知った。何、この曲と思っただけ。
Every Little Thing She Does Is Magic 1981年全米3位。
                            良曲。ストレートなロック。
Every Breath You Take   19835月 全米1位(8周連続)
                           代表する名曲とされる。飽きた。
                        プツプツしたフレーズの通奏低音が特徴的。
Wrapped Around Your Finger 19837月、19843月全米8位。 
                             映像が面白い名曲。飽きない。レゲエ調。
                             当時から最高作だと思っている。
Synchronicity II  198310月全米16位。
                             映像は面白かったが曲はいまいち。

80年代の名曲 メン・アット・ワーク 「Down Under」 「Who Can It Be Now?」

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メン・アット・ワークMen  at Workはオーストラリアのバンド。 1979年、メルボルンで結成。
1979年にデビュー。1981年にアルバム『Business as Usual)』をリリース。アルバムの好評を受けて1982年に世界進出する。
 
メジャーデビュー1枚目のシングル「Who Can It Be Now?」は198111月リリースされ、198210月に全米1位となる。メルボルン近郊セント・キルダ(有名な観光地。行ったことがある)で麻薬の売人の住居の隣に住んでいたため、よく間違えてドアを叩かれたことがモチーフになっている。やかましいほどのサックスとコーラスの繰り返しが心地よいフックの印象的な曲。
 
『ワーク・ソングス』は日本ではオリコン洋楽アルバムチャートで1983328日付から4週連続1位を獲得した。
 
コリン・ヘイの飄々とした歌声と、(多くの世界地図は北を上にして描かれるため)オーストラリアのことを世界地図の下側にあるから自虐的に「ダウン・アンダー」と表現するユーモアセンスが受け、一時はオーストラリアのロックを指して「オージー・ロック」なる言葉も生まれるほど、シーンに対する影響力を持った。
 
彼らの代表曲である2枚目のシングル「Down Under」はレゲエ調の曲。1980年のマイナーデビューシングルのB面であったが、フルートのソロを挿入し、テンポを変えて再録音した。198112月リリース、19831月全米1位となり大ヒットした。オーストラリアの国民的愛唱歌でスポーツイベントでよく演奏される。
オーストラリア人ヒッピーの世界旅行をモチーフとして、自国の資源の切り売りやオージー精神の低下を嘆いた国民への応援歌という。スラングでマリファナのことを歌った歌詞がある。
このタイトルが元になってオーストラリアとNZをダウン・アンダーという言い方が広まった。

フルート演奏のリフが子供たちがキャンプ・ファイアーで歌う曲「KookaburraSits in the Old Gum Tree」から盗用したものだとして裁判となり、2010年に盗作という判決が下った。

80年代の名曲 ワム! Wham! 「Freedom」「 Wake Me Up Before You Go-Go 」「Last Christmas」 

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Wham! - Freedom
 
Everyday I hear a different story
People say that you're no good for me
So you love another
And she's making a fool of you, oh
If you love me baby
Don't deny it
But you left me
And tell me I should try it
Tell me I'm a baby
And I will understand
 
But to know that I'll forgive you
Just this once, twice, forever
'Cause baby
You could take me to hell and back
Just as long as we're together
And you do
 
I don't want your freedom
I don't want to play around
I don't want nobody's baby
Part-time love just brings me down
I don't need your freedom
Girl all I want right now is you
 
Like a prisoner who has his own key
But I can't escape until you love me
I just go from day to day
Knowing all about the other boys
You take my hand and tell me I'm a fool
To give you all that I do
Bet you someday, baby
Someone says the same to you
 
ワム! (Wham!) は、イギリスのポップデュオ。1980年代前半から中盤にかけ大ヒットを連発し、世界的な人気を誇った。
20161225日、ジョージ・マイケルが亡くなったとき、「ラスト・クリスマス」が代表曲のように紹介されていたが、私の好みでは「フリーダム」がワムの音楽を一番代表する名曲である。
晩年、ジョージ・マイケルがゲイであることをカミングアウトしたのは驚きだった。そういえばとは思ったが。
 
日本で人気になったのは、「 wake me up before you go go」のヒットからで、全然知らなかったデュオがベストヒットUSAのチャートを上昇し、MVでジョージ・マイケルたちが陽気な曲に合わせて踊る姿は新鮮だった。一発屋で終わるのかと思っていたら、この後もヒット曲を連発したのは、作詞・作曲を担当したジョージ・マイケルの才能に負っている。
 
Wake Me Up Before You Go-Go 1984年) 英1位・米1位。名曲。
ジョージ・マイケルによると、この歌は、アンドリュー・リッジリーが彼の親に書いたメモがきっかけで作られた。当初アンドリューは、「父さんが行く前に、自分を起こしてください」という文章(Wake me up before you go)を書くつもりだったが、実際には間違ってupを二回書いてしまったので、Goをわざと二回書いた「Wake me up up before you go go」というものであった。
19845月にイギリスでリリースされ、位となった。その後、アメリカでも10月にリリースされ、8412月に3週間1位に輝いた。この曲によってワム!はイメージを「Bad boys」から陽気なイメージへと変え、世界的なスターに成るきっかけとなった。また、PVで着用した「CHOOSE LIFE」「GO GO」と書かれた服がブームになったのも有名である。
ジョージの作曲意図は50年代・60年代ポップスをアップテンポで若者向きに焼き直すといことだった。それで
イントロがドゥワップ風。MVは陽気で楽しい雰囲気が出ていて面白かった。蛍光色でのダンス風景、女性のミス、ラストのジョージの気の抜けた姿は当時のビデオでは見たことがなかったので新鮮だった。
 
Careless Whisper 1984 1位・米1位。メロディーは美しいがそれだけなので飽きてくる。
ビルボードで1985216日付けの週間チャート、その年の年間チャートともに1位。ワム!にとっても、ジョージ・マイケルにとっても最大のヒット曲。日本ではオリコン洋楽シングルチャートで19841029日付から4週連続1位。
 
Last Christmas  1984年 2位。名曲。
人気絶頂だった1984年のクリスマスに合わせて発売されたクリスマスソング。タイトルは「去年のクリスマス」と言う意味で、クリスマスの失恋をテーマとしている。マイケルが一人で録音している(演奏は打ち込みによるもので、ギターもこの曲には入っていないため、ジョージ自身が実際に演奏しているパートはない)。
日本のオリコンでは、19841230日付の総合シングルチャートで最高12位。洋楽シングルチャートでは19881219日に初の1位を獲得し以後、通算で301位を獲得した。1992年にはオリコン洋楽シングルチャートの年間チャート1位。アメリカではシングルレコードとして発売されていない。
 
Freedom  1985年 1位・米3位。13 August 1984 (UK)July 1985 (US)リリース。名曲。
1985年の欧米バンドでは初めての中国北京公演をビデオに使用。ラジオでは前半部分はなく、音楽部分から流れていた。というか、このビデオは記憶がない。始めの1分は不要。1985年の中国が記録されていて興味深い。454の中国人女性の声が印象的で、効果音になっている。これがないバージョンは淋しい。最後のトランペットはビートルズ「ペニー・レイン」の真似か。メロディーの流れ、詩の響き、ジョージのボーカル、バックのギターカッティングなどすべてが完璧。

80年代の名曲 デヴィッド・ボウイ 「レッツ・ダンス」(Let's Dance) 「スペイス・オディティ」「スターマン」 

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デヴィッド・ボウイDavid Bowie1947年~2016110日)は、イングランド出身のミュージシャン、シンガーソングライター、音楽プロデューサー、俳優。グラムロックの先駆者として台頭し、ポピュラー音楽の分野で世界的名声を得る。役者の世界にも進出し、数々の受賞実績を持つマルチ・アーティストとして知られている。1996年『ロックの殿堂』入り。1985年・2017年度『グラミー賞』受賞。NME誌選出『史上最も影響力のあるアーティスト』など。

 
私としては、1972年の「スターマン」あたりから知った。この曲のサビはなかなか出来がよい。しかし、その後、音楽雑誌で見る姿や音楽には長い間共感できなかった。
1983年の「レッツ・ダンス」は初めてまともなポップスと思える曲で、大ヒットしたのはうなずける。サビの室内シーンの部分は83年当時テレビのCMで見たような記憶がある。2003年のステップワゴンもそうかもしれないが。この曲は名曲。
ただし、代表曲となると、ジャンルが多すぎてどの曲になるかはファン次第。私はファンではない。
 
「スペイス・オディティ」space oddity1969年。
1969年、前年に公開された映画『2001年宇宙の旅』をモチーフにして、アルバム『スペイス・オディティ』を制作。アポロ11号の月面着陸に合わせて、その直前にシングル「スペイス・オディティ」をリリース。全英チャート5位、全米チャート15位まで上がり、人気ミュージシャンの仲間入りを果たした。
メイジャー・トム(トム少佐)が印象的。MTV時代に見て、良曲と思った。ジョン・レノンの「アクロス・ザ・ユニバース」に似た曲調。
 
「スターマン」(Starman)。19724月にシングルとしてリリース。アルバム『ジギー・スターダスト』に収録された。
歌詞は、地球の若者たちへ希望のメッセージを伝えるジギー・スターダストを描写する。ジギーはラジオから、宇宙の存在「スターマン」により救済されるというメッセージを伝える。物語は、ジギーを聴いている若者たちの1人の視点から語られる。
 
「レッツ・ダンス」(Let's Dance)はアルバム『レッツ・ダンス』のタイトルトラック。ファーストシングルとして1983年に発売され、ボウイのシングルとしてトップクラスの売り上げを誇る曲となった。
1980年代はナイル・ロジャースをプロデューサーに起用したアルバム『レッツ・ダンス』はキャリア最大のヒット・アルバムとなり、ファン層を広げた。カルトヒーローからメジャーロックスターの座につくことになった。
 

このシングルはイギリスのシングルチャートで登場週に5位に入り、その週に1位だったデュラン・デュランの「プリーズ・テル・ミー・ナウ」(Is ThereSomething I Should Know?)2週後には追い抜くという、非常に速いスピードでヒットした。そして、その後すぐにBillboard Hot 100でも1位となり、ボウイにとって大西洋の両側で1位を獲得した初めてのシングルとなった。

 
ナイル・ロジャースが彼のバンド「シック」と活動したときの影響を強く受け、「レッツ・ダンス」はサンプリングしたベースラインをフィーチャーしている。それがボウイの曲の中で最もコマーシャルなレコードになったポイントだ。歌詞は表向きただのダンスミュージックであるが、一部に合致しないところがある。

孤独や絶望が垣間見えるミュージック・ビデオは、デヴィッド・マレットがオーストラリアを舞台に制作した。ポート・ジャクソン湾も含まれる。ビデオではボウイはアボリジニのカップルが西洋の文化的帝国主義のメタファーにもがき苦しむところを見ている。ビデオの中でボウイはバンドと曲を演奏している。

ボウイはこの曲で無名だが天才ブルース・ギタリストのスティーヴ・レイ・ヴォーンを起用した。

80年代の名曲 ペットショップボーイズ 「West End Girls」「Suburbia」「Go West」 

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ペット・ショップ・ボーイズPet Shop Boysは、イギリスのシンセポップデュオ。
1981年に、ニール・テナントとクリス・ロウの2人が出会って結成された。デュオ名は共通の友人がペットショップで働いていたことから。

1984年にエピックから「West EndGirls」でデビューしたが、この時は売れず、1985年にパーロフォンに移籍後、リリースした「West End Girls」のポップアレンジバージョンが大ヒット、全世界で約150万枚を売り上げて一躍有名になった。この曲は、日本でスズキ・カルタスのCMソングに使われた。その後も現在に至るまで数々のヒット曲を提供し続けている。

基本的に歌詞はニール、メロディーラインはクリスが作成している。クリアなウィスパーボイスのボーカルと流れるようなシンセポップが特徴で、ダンスミュージックとして高く評価されている。
 
West End Girls1985年。

ヒップホップ調の音楽。歌詞は階級と都市での抑圧された生活に関するもので、一部はT.S.エリオットの詩「 The Waste Land」を取り入れている。1984年にコロンビアレコードからリリースして小ヒット。 EMI移籍後、アルバム「Please」収録のため、ベースラインやパンチのあるリズムを加えて造り直した。198510月リリース。1986年英米で1位の大ヒットとなる。

ニールは従兄弟の家でギャング映画を見たとき、"Sometimesyou're better off dead, there's a gun in your hand and it's pointing at yourhead"の歌詞を思いついた。娼婦の歌と勘繰る人もいるが、乱暴な若者が金持ちを夢見る歌だと語る。後半の歌詞"From Lake Geneva to the Finland Station"はソビエト革命時のレーニンの列車行路を示唆している。

1986年の初めに、このMVを見た時は新鮮だった。名曲。
 
Suburbia1986年。
アルバム「Please 」からの4曲目のシングル。ロサンゼルス郊外の町の暴力と汚さを描いた1984年の同名の映画からヒントを得た。
19869月リリース。英8位。全米70位。名曲。
メロディーが秀逸。ドライブに最適。
 
Go West1993年。
原曲は、1970年代後半から1980年代前半にかけて一世を風靡した、アメリカのディスコグループ、ヴィレッジ・ピープルの代表曲の1つ。YMCAの次のシングル曲。
「ゴー・ウェスト」という題名は、19世紀のアメリカの新聞人・政治家ホレス・グリーリーが人々に西部開拓を呼びかけた有名な論説の一節、「西部に行け若者よ」(Go West, young man)にちなんでいる。同時に、西部のサンフランシスコをゲイ解放のユートピアとみなして憧れた1970年代のゲイの間での気分が表現されているとも一般には理解されている。
1993年ペット・ショップ・ボーイズがカヴァーしヒットした。なおペット・ショップ・ボーイズの楽曲のプロモーションビデオは、直前に終結した東西冷戦とソビエト連邦の全体主義とアメリカの西部開拓(マニフェスト・ディスティニー)を皮肉ったものとなっている。なお節回しが大きく異なる部分があるほか、オリジナルにはなかった歌詞やメロディーが加わっている。西ヨーロッパ諸国ではオリジナルを上回る大ヒットとなった。
2位。米ダンス音楽部門1位。

「East Bound and Down」 Jerry Reed バート・レイノルズ 「トランザム7000」のサントラ

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「トランザム7000」などで知られるカリスマ映画スターのバート・レイノルズが米国現地時間96日、82歳でこの世を去った。という報道を知った。

ローリングストーン誌によると、「レイノルズが俳優としてのスタートを切ったのは60年代のTVシリーズ『ガンスモーク』だったが、彼を世界的な大スターへと押し上げたのは70年代、80年代に出演した映画作品だった。
 
レイノルズがブレークしたのは米国南部を舞台にしたゴシックスリラーの名作『脱出』だったが、それから程なくして、レイノルズは『トランザム7000』『ロンゲスト・ヤード』『キャノンボール』などの大ヒットアクション映画やコメディ作品で急激にその名を知られるようになったのである。
1978年から1982年にかけて、レイノルズは毎年ハリウッドで最も興行収益を上げたスターだった。4年間連続という記録をレイノルズの前に達成したのはビング・クロスビーだけである。」
 
『トランザム7000』(原題Smokey and the Bandit)は、1977年に制作されたアメリカ映画で、アクション・コメディ映画。日本公開19771022日。“カーアクションの神様”と呼ばれたハル・ニーダム監督による70年代の大ヒット作。特大18輪トラック軍団とトランザム7000が迫力のカーチェイスを繰り広げる。
 
当時、映像を断片的に見ただけだが、サントラがラジオで流れていたのをカセットに録音してドライブ中によく聴いた。
アメリカ・ニューシネマの傑作「『俺たちに明日はない』(米1967年)では印象的な挿入曲「Foggy Mountain Breakdown」(レスター・フラット、アール・スクラッグス)がヒットし、アール・スクラッグスのバンジョー演奏が注目された。
カントリーおよびカントリーロックに親しみをもっていた感覚で、「トランザム7000」のサントラを聴いて、ロックフィーリングおよびエレクトリック化したカントリーが非常に爽快に聴こえた。
現在聴いても、印象は変わらない。

80年代の名曲 カルチャークラブ 「The War Song」 「Do You Really Want to Hurt Me」

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カルチャークラブ The War Song
 
War war is stupid And people are stupid
And love means nothing  In some strange quarters
 
War war is stupid And people are stupid
And I heard them banging On hearts and fingers
 
People fill the world With narrow confidence
Like a child at birth A man with no defense
What’s mine is my own I won’t give it to you
No matter what you say No matter what you do
 
Now we’re fighting In our hearts
Fighting in the street Won’t somebody help me?
 
Man is far behind In the search for something new
Like a philistine We’re burning witches too
This world of fate Must be designed for you
It matters what you say It matters what you do
 
Now we’re fighting In our hearts
Fighting in the street Won’t somebody help me?
 
After the bird has flown He walked ten thousand
Miles back home You can’t do that to me, no
 
The War Song198410月(米)。英2位、米17位。名曲。
「戦争なんて馬鹿げてる」(war is stupid)と冒頭から繰り返されている上、ラストでも「センソー、ハンタイ」と歌っている。一方で続く歌詞は「人民は愚かだ、愛に意味などない」(And people are stupid And love means nothing)と非常にシニカル。イギリスの風刺人形劇TVシリーズ「スピッティング・イメージ」のパロディーという。
MVには数百人の骸骨姿の服を着た子供たちを動員。軍服姿の跳躍や行進姿は斬新だった。
ベストヒットUSAでは順調にチャートを上昇したので、MVを見る機会は多かった。「戦争反対」という日本語が聞こえてきて、初めて聴いたときは耳を疑ったが、数か国語版が用意されていたと近年知った。
初めて聴いたときから、曲調は覚えやすいメロディーなので、数曲ぶりに群を抜いていい曲だと思った。
しかし、この曲を最後にベストヒットUSAからは姿を消した。この曲以前のゲイダンス路線からかけ離れていたからなのか。反戦歌が当局から忌避されたのかと思っていた。
 
2007年だったか、ボーイ・ジョージが逮捕されたときの画像が以前のイメージとはまるで別人だったので、日本のネット上で大騒ぎとなったことを覚えている。
 
1982年の「Do You Really Want to Hurt Me」で世界的に知られるようになった。12月にアメリカのチャートに現れ、19834月に2位。1位はマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」。
MVで踊りながら席を回る姿がとにかく印象的で、ゲイが幅を利かす時代になったのかと驚いた。
曲のメロディーはスムーズでダンサブル。名曲。
 
続くシングル群はいずれも水準以上だったので、必ずチャートの上位になった。「カーマは気まぐれ」は大ヒットした代表曲といえるが、どうしても聴きたい曲ではない。
カルチャークラブはイギリス勢進出の初期のグループとして評価される。

80年代の名曲 アラン・パーソンズ・プロジェクト 「Don't Answer Me」

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The Alan Parsons Project  Don't Answer Me
 
If you believe in the power of magic, I can change your mind
And if you need to believe in someone, Turn and look behind
When we were living in a dream world, Clouds got in the way
We gave it up in a moment of madness And threw it all away
 
Don't answer me, don't break the silence Don't let me win
Don't answer me, stay on your island Don't let me in
Run away and hide from everyone

Can you change the things we've said anddone?

 
If you believe in the power of magic, It's all a fantasy
So if you need to believe in someone Just pretend it's me
It ain't enough that we meet as strangers I can't set you free
So will you turn your back forever on What you mean to me?
 
Don't answer me, don't break the silence Don't let me win
Don't answer me, stay on your island Don't let me in
Run away and hide from everyone

Can you change the things we've said anddone?

 
アラン・パーソンズ・プロジェクト(The Alan Parsons Project)は、イギリス出身のロック・バンドで、アメリカで活躍した。
 
ビートルズやピンク・フロイドなどの作品を手掛けた「アビイ・ロード・スタジオ」のエンジニアであったアラン・パーソンズと、主にセッション・ピアニストやソングライターとして活動していたエリック・ウルフソンが1975年に二人のプロジェクトを立ち上げ、コンセプトアルバムを製作していった。
プログレッシブ・ロックを彷彿とさせる壮大なスケールのサウンドから出発し、後半はポップで聴きやすい音楽を展開、英米で大きな成功を手に入れた。作曲面ではエリック・ウルフソンが主導した。
 
 Don't Answer Me 19843月リリ-ス。米15位。

日本ではチャート上位に上昇した。米では"Eye in theSky"1982年)という曲が3位で現在もyoutube再生回数は多いが、聴いたことがなく、聴いてみたが大した曲ではなかった。曲の構造は同じだが、味付けから見るとDon't Answer Meの方が断然よい名曲。日本人のほうが曲の真価を分かっている。

フィル・スペクターのウォールサウンドがベースになっているという。たしかに、ロネッツの「ビーマイベイビー」風だ。当時はデュラン・デュランなどのニューロマンティックが流行し、マドンナが登場する直前の時代で、この曲調はかなり異質だったが、ゆったりした癒し系の曲調に好感がもてた。
1930年代のフロリダを舞台にしたコミックのMVも珍しかった。終盤に描かれたバンドでキーボードを演奏しているのがアラン・パーソンズとエリック・ウルフソン。ボーカルはエリック・ウルフソン。

80年代の名曲 J・ガイルズ・バンド 「センターフォールドCenterfold」

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The  J. Geils  Band センターフォールドCenterfold「堕ちた天使」

 
YoutubeではPVは規制されているようだ。GYAOで見ることができる。
 
高校時代の憧れの女性が男性誌の見開きピンナップページに載っていることにショックを受けた青年の物語である。原題の"Centerfold" は見開きページの(ヌード)写真の意味。
 
1981年の秋に発表され、19822月にビルボードホット1001位に輝く。その後6週にわたって1位の座を保ち続け、初期MTVの常連となった。ビデオが撮影された学校の上の階には少女向けダンス・スクールがあり、その出身者がビデオに出演している。
 
19814月にTV番組「ベストヒットUSA」が放映開始され、洋楽摂取がラジオからテレビの映像・ビデオクリップ・PVMVへと変わった。アメリカでもMTVが19818月に開局し、世界的に音楽を動画映像で楽しむ時代に突入した。それまで、ロックバンドのライブはNHKでよく放送されていた。CCRやドゥービー・ブラザーズなどはNHKで見た。ジョニ・ミッチェルやシルビー・バルタンもそうだった気がする。
それ以前はヤング720だと思うがローリングストーンズの「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」で初めてミック・ジャガーが体を動かして歌う姿を見て感心したものだ。
 
「ベストヒットUSA」は待望していた番組で開始直後から、毎週必ず見ていた。その初期を象徴する曲がJ・ガイルズ・バンドの「センターフォールド」であった。正統的なロック、キャッチーなメロディーと映像が楽しい。
 
J・ガイルズバンドは1967年、J・ガイルズ(ジェローム・ガイルズ)を中心にボストンで結成。1970年にデビュー。ピーター・ウルフの野性的なボーカルとR&B色の濃いロックンロールサウンドは「アメリカのストーンズ」と評された。
1980年代から音楽性が少しずつ変化し始める。1981年発表のアルバム『フリーズ・フレイム』からシングルカットされた「堕ちた天使」は印象的なイントロのフレーズとセクシーなミュージックビデオが話題となり、翌年2月から6週間に渡って全米1位を記録する大ヒット。同アルバムも全米1位を獲得する。しかし同曲は産業ロックに走ったとの批評もあり、既存の支持者などから賛美両論を招いた。
バンドは1985年に活動を停止した

80年代の名曲 チープ・トリック 「The Flame」 「I Want You To Want Me」

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チープ・トリック(Cheap Trick)は1974年にシカゴ近郊で結成、1977年にデビューしたアメリカのロックバンド。ライヴ・アルバム『チープ・トリックat武道館』(1978年)がヒット作となり、日本武道館の名を世界中に知らしめたバンドとして有名である。ディープ・パープル、シカゴ等とともに、2016年ロックの殿堂入り。
 

ロビン・ザンダー(Robin Zander) - ボーカル、リック・ニールセン(Rick Nielsen) - ギター、トム・ピーターソン(TomPetersson) - ベース。 

リック・ニールセンとトム・ピーターソンは、Fuseというバンドで1969年にメジャー・デビューするが、商業的には成功しなかった。リックとトムはイリノイ州に戻り、チープ・トリックを結成。その後ロビン・ザンダーが加入してラインナップが固まる。
 

1977年デビュー、本国アメリカでは成功しなかったが、日本では人気が高まっていき、19784月には、初の日本公演を行う。その時の模様を収録したライヴ・アルバム『チープ・トリックat武道館』(1978年)は、本国アメリカで日本からの輸入盤が売れ出したため、1979年に本国でもリリースされ、バンドにとって初の全米トップ10入り(最高4位)を果たした。また、このアルバムからシングル・カットされた「I WantYou To Want Me」は、Billboard Hot 100 7位まで上昇し、バンドにとって初の大ヒット・シングルとなった。

 
1980年、ロビン以外の3人は、ジョン・レノン「アイム・ルージング・ユー」のレコーディング・セッションに参加。同年発表のアルバム『オール・シュック・アップ』は、ビートルズの仕事で知られるジョージ・マーティンがプロデュースを担当。しかし、同作を最後にトムが脱退。セールス的には落ち込んでいった。
1987年、トムがバンドに復帰。翌年には、アルバム『永遠の愛の炎』が全米16位のヒットとなり、同作からのシングル「The Flame」は、バンドにとって初の全米1位シングルとなった。
 
1980年前後から知っていた。イケメン2人とそうでない2人の対称さがよく言われていた。リック・ニールセンはいかにもギターキッヅという感じで好感がもてた。サウンドもロックの本流だった。ただ、ヒット曲として
I Want You To Want Me」のサビ部分は耳に残るが、ほかのバンドと比べて決定的な楽曲はなかったので、あくまで中堅バンドという風に思っていた。日本の女性は欧米(韓国も?)のイケメンというルックスに惹かれる。それは男もブロンドに惹かれるのと同じだが、最終的には本物のアーチストかどうかだけ。

MTV時代の後半はバングルズの「Eternal flame」などロックバラードの名曲が頻出した黄金時代で、そのうちの1曲として、後世に残る。
この曲は外部からの持ち込みだったので、メンバーは嫌っていたが、大ヒットになり驚いたという。作品は作者の手を離れると作者の思いとは別に評価されるものだ。

80年代の名曲 ビリー・ジョエル 「Allentown」 「Uptown Girl」 「The Longest Time」

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ビリー・ジョエルBilly Joel1949年~)は、アメリカのシンガーソングライター。ポップなメロディと、都会的なアダルト・コンテンポラリー・サウンドで、1970年代後半から1990年代前半にかけてヒットを連発した。
全世界で1億枚以上のレコード・セールスを記録し、アメリカでのレコード総売上第6位のアーティストとなっている。代表曲に、「ピアノ・マン」、「素顔のままで」、「アップタウン・ガール」、「ストレンジャー」、「オネスティ」などがある。

私は「オネスティー」(1979年)あたりから知った。しかし、ピアノ主体に歌い上げるような楽曲は好きではなかった。のちに、「ピアノ・マン」「素顔のままで」「ストレンジャー」も聴いたが、同様な曲調で興味を惹かれなかった。
MTV時代になり、1982年のアルバム「ナイロン・カーテン」の名前が聞かれ、「プレッシャー」がビルボード20位になり、次のシングル「Allentown」が198211月にリリースされ、ビルボード17位のヒットとなった。
 
名曲「Allentown」を聴いたとき、なかなかいい曲だと初めて思った。歌詞でAllentownと歌う部分の発音がいい。ペンシルベニア州の工業都市アレンタウンの衰退と貧困問題、そして、それでも同地で真面目に生きていく人々を歌った曲。MVも秀逸。トランプを勝利させたラストベルト地帯が描かれている。
 
アルバム「イノセント・マン」から19837月「Tell Her About It」リリース。軽快な曲でビルボード1位と大ヒット。ピアノマンからは想像できない曲調で、ポップセンス全開の曲で好感を持った。
 
名曲「Uptown Girl19839月リリース。曲調は軽快。Aメロ、Bメロだけでサビはない気がする。フォーシーズンズの曲にインスパイアされたという。MVの出来がよく、モデルの身のこなし、横歩きに感心した。初めて見て1か月後に、彼女はビリー・ジョエルと付き合っているスーパーモデルのクリスティー・ブリンクリーと知る。ビリーと彼女は1985年の結婚、一女をもうけたのち、1994年離婚。うまくいかないだろうと思っていたが。
 
名曲「The Longest Time」は19843月リリース。ドゥワップ調の歌で、初期のロックンロールバンド「フランキー・ライモンとティーンネイジャーズ」のスタイルをもとにしたものという。ビルボード14位。ビルボード・アダルト・コンテンポラリー部門1位。
 
ビリー・ジョエルには躁鬱病的気質があるようで、1982年から1984年の躁状態のときに作った楽曲は楽しく聴けるが、それ以前の時代の作品には鬱気質が現れており、楽しく聴くことができない。
上の3曲は50・60年代に流行した音楽の焼き直しではあったが、時代は違っても好まれる曲調は継承されるものだということを痛感させられた。それを80年代風によみがえらせたのは、やはりビリー・ジョエルの豊かな音楽的才能だろう。

80年代の名曲 ジョー・ジャクソン 「 Steppin' Out 」

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ジョー・ジャクソンJoe Jackson1954年~)は、イギリス・スタッフォードシャー生まれのミュージシャン。
ロンドンでクラシックの作曲家を目指していたが、限界を感じ、ロックの世界に惹かれていった。
1979年にデビュー。その後、ポーツマスの自宅で静養していたジョー・ジャクソンは、スウィング・ジャズの発展形であるジャイブ・ミュージックのレコードを毎日のように聴いた。1982年にはラテン音楽に惹かれてNYに渡り、アルバム「Night and Day」をリリースする。このアルバムに収録されている「Steppin' Out(夜の街へ)」は、最もよく知られた曲である。
 
Steppin' Out」は、ビルボードで、19821211日に、週間ランキング最高位の6位を獲得。1982年ビルボード誌年間ランキングでは36位。
 
Steppin' Outはニューヨークでの生活にインスパイアされた作品。夜の街をドライブする期待と興奮を歌う。
日本でもラジオでよく流された。都会的で変わった雰囲気の曲だった。MVは見た記憶はない。ドライブ感・グルーブ感がある。ベーシックなリズムの流れでも、それを感じるし、エリック・サティを10倍速くしたようなピアノの不協和音の積み重ねがドライブ感を加速させる不思議な感覚がある。
このころ、ジョー・ジャクソンは「才人」という定冠詞付きで紹介されていた。

80年代の名曲 ヴァン・ヘイレン 「When It's Love」 「Jump」、「Panama」

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ヴァン・ヘイレン「ジャンプ」特集、BS-TBSSONG TO SOUL〜永遠の一曲〜』が99日に15分の短縮版として放送された。

Jump」は、アルバム『1984』からのシングルカットで全米1位となり、Van Halenの名を、世代を超え世界中に広めた一曲。シンセサイザーを大胆に取り入れ、新しいサウンドにチャレンジした意欲作でもあった。
作曲はエディ・ヴァン・ヘイレン。作詞はボーカルのデイヴィッド・リー・ロス。80年代を代表する一曲となった。

証言者。デイヴィッド・リー・ロス(Vo)、エディ・ヴァン・ヘイレン(G)、アレックス・ヴァン・ヘイレン(D)、テッド・テンプルマン(プロデューサー)、ブラッド・トリンスキー(音楽誌ライター)。
 
ロスアンゼルス北東の町パサデナでバンド活動をしていヴァン・ヘイレン兄弟。エディは10歳のときオランダから移住してきた。最初はエディがドラムで兄のアレックスがギターだったが、お互いの楽器のほうが得意だと気づいた。そこに、他のバンドでベースを弾いていたマイケル・アンソニー、そして、PAシステムを借りることで親しくなったデイヴィッド・リー・ロスが加入した。
パサデナで人気が出た彼らは、ロスアンゼルスの音楽の中心でもあったハリウッドへ本格的に進出。ウィスキー・ア・ゴーゴーなどの名門ライブハウスなどで演奏するようになった。
 
アレックス、「俺たちは、何年も、クラブであらゆる曲をライブ演奏してきた。色んな曲が俺たちの中に染み込み、好みにも影響を与えた。」
デイヴィッド、「クラブで毎晩演奏していたあの数年間が、俺たちの音楽人生のベースになっているのかもしれない。クール&ギャングのナンバーから「スモーク・オン・ザ・ウォーター」まで、何でも演奏した。
レッド・ツェッペリンからオハイオ・プレイヤーズまでカヴァーしたあの時代が、俺たちにとって「大学」時代だった。」
 
Jump」のオープニングのメロディーは夜中にキーボードを弾くエディーに降りてきた。
テッド、「エンジニアのドンも一緒だった。アレックスとエディでレコーディングしてベースをダビングしたものを僕の前で流した。それは完璧なサウンドだった。」
エディ、「Jumpのオープニング・リフがどこからきたのかなんて分からない。
あの頃はキーボードをよく弾いていて、幼い頃からピアノを叩き込まれていたお陰で、どこかからキーボードのリフが俺を通して「出てきた」だけだ。
その源は、経験の積み重ねさ。イジメや失恋、マズいホットドッグ等の色んな経験が、俺という「フィルター」を通して出てきたんだ。人間は様々な経験を溜め込む「スポンジ」みたいなもので、それを絞ると、あの時は「ジャンプ」のメロディーが生まれた。」
アレックス、「創造の過程はどんなものかが分かる。無意識で作ったものに、後から意味付けをしようとするんだ。全ての曲が神秘的に生まれるわけじゃない。
デイヴィッド、「多くの者が、一発で決められたことに「罪悪感」を持ち、イジり過ぎて自滅する。」
 
ブラッド、「キーボードの部分は基本的にワンテイクで完成したそうです。」
テッド、「デイヴが来たので歌詞を書くよう頼んだ。この時のことが忘れられない。彼はクリップボードを腕に抱えて書き始めた。彼は当時49年か50年物の赤いマーキュリーのコンバーチブルに乗っていた。そのルーフを開けて、足を前の座席に乗せて書き始めた。彼は「こんな感じでどう?」と言った。そこには、「ジャンプ」の歌詞が書かれていた。僕は「ダメだ。誰かが窓から飛び降り自殺するみたいじゃないか」と言った。すると彼は「違うよ、挑戦しろ!チャンスを生かせということだ」と言った。それで僕は了解した。彼はスタジオに入り、完璧に歌いあげた。」
デイヴィッド、「ジャンプ」の歌詞には、俺を最も輝かせ、同時に苦痛を与えた「言葉」が入っている。
Might as well jump !(とりあえず飛んでみるか!)
状況で色々変わるけれど、前に進むという意志表示は変わらない。何日も思い悩まず、チェスみたいに何手も先を読まず、とにかく前進を続ける。そんな時に使うのが「とりあえず」だ。
「とりあえず」大きな挑戦して大失敗に終わることもあるが、人生を精一杯生きたという記憶は残る。」
 
英語版WIKIによると、Jumpのシンセ・リフは1981年にできていたが、他のメンバーから拒否されていた。ダリル・ホールはエディからKiss on My Listの一部をシンセに使ったと聞いている。
デイヴィッドは、付き人にマーキュリーを運転させながら曲を繰り返し聴いて、詞を書いた。彼は、前夜のテレビニューズでビルから飛び降りて自殺すると喚いた男のことを思い出していた。彼は、その場に居合わせた誰かなら「飛び降りてしまえ」と叫んだだろうと考えた。しかし、歌詞は自殺による脅迫ではなく、恋への誘いの歌詞として書かれた。
198312月リリース。1984年ビルボード1位。
 
JumpがベスヒットUSAで大ヒットになるまで、ヴァン・ヘイレンを知らなかった。とにかく、サウンドは新鮮だった。エディのライトハンド(タッピング奏法)が若いギタリストに影響を与えているといわれて、そうかと思った。デイヴィッドがやたら足を上げるのも変わっていた。
歌詞の部分のメロディを誰が作曲したのか分からないが、当時はこれが歌か、叫んでいるだけなのかと言われた。
カラオケで歌いづらいという意見が多かった。
 
次のシングルは「I'll Wait」らしいが知らない。次にヒットしたのが「Panama」で、曲もMVも出来がよかったので、一発屋では終わらなかった。Panamaはデイヴィッドが見たラスベカスのパナマ・エクスプレスという名前のカーレースから、またはデイヴィッドの愛車の名前からという。パナマ共和国の歌ではなかった。
 
その後の特集で「ユー・リアリー・ガット・ミー」「プリティー・ウーマン」など以前の曲を聴いたが、普通のハードロックバンドだったんだなと思った。ヘビメタではなかった。
その後のMVではデイヴィッドが新体操のリボンを回して披露してくれたが、笑ってしまった。バービーボ-イズの杏子もリボンをステージで回していたが、当時の流行だったようだ。
 
19857月頃、デイヴィッド・リー・ロスが脱退。後任のヴォーカリストに元モントローズのサミー・ヘイガーを迎える。
デイヴィッド・リー・ロスの「カリフォルニア・ガールズ」(1985年)はビルボード3位のヒットとなり、よくベストヒットUSAで見た。名バージョン。
 
バラードロックの名曲「When It's Love」(1988年)が出て、初めてまともな曲を聴いた。「Jump」、「Panama」は名曲だが、デイヴィッドの歌詞とメロディは歌と言いづらい。そこに、出てきたのが、サミー・ヘイガーが歌うこの曲。彼が対抗心で足を上げているのが面白かった。ビルボード5位。
当時、ヴァン・ヘイレンはアメリカ(世界)で一番高いギャラを要求するバンドとして有名だった。
 
BS-TBSSONG TO SOUL〜永遠の一曲〜』は2012年か2013年に見たが、デイヴィッド・リー・ロスを陽気なヤンキーだと思ってきたが、実は作詞能力のある才人だったのだと気づかせてくれた。

80年代の名曲 リビングカラー 「CULT OF PERSONALITY」

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リビングカラー LIVING COLOUR は1988年の1stアルバム「VIVID]で人気を得た。ヴァーノン・リードの超バカテクのギターにより、黒いレッドツェッぺリンとよばれた。次第にパンク色を強め全3作発表後解散、01年に再結成。

私はMTVでPV「CULT OF PERSONALITY」を見てすごい迫力に圧倒された。新しいハードロックの始まりを感じた。一時期は日本でも人気があり、来日公演で名古屋に来て、クラブクアトロでライブがあり、当時のチケットがでてきたので、見にいったようだが、印象に薄い。
1stの時期しか知らないのだが忘れがたいバンドだった。検索すると2作目以降も聞いてる人も出てはくるが、日本では無名に近い。
 youtubeを見るとさすがにアメリカでは人気が高い。89年、93年の映像は自然賛美的な内容。04のライブは確かにレゲエ、パンク風でブッシュの批判がテーマで、ジミヘン風のギターソロあり。06年12月イタリア・ボローニャのライブでは超絶テクギターは健在だった。しかし、政治的なメッセージ性のある曲が多い。さすがに、アメリカは懐が深い。
CULT OF PERSONALITY」自体、ケネディ、ムッソリーニ、スターリンなど政治指導者をテーマにしている。06ライブ、90年代はエコロジーロックとでもいおうか、社会的関心が高い。なお、初期のライブ目撃者はジャズバンドみたいだったとのコメントもある。単純にパンクではない。
ヴァーノン・リードのテクはジャズから来ていると思われる。影響を受けたミュージシャンにマイルス・デイヴィス、ジョン・マクローリンがいる。彼は工科高校を経てニューヨーク大学で学んだ。
 
CULT OF PERSONALITY1989年ビルボード13位。1990年グラミー賞(ベストハードロック・パフォーマンス部門)。
冒頭の Malcolm X.のスピーチ。
"... And during the few moments thatwe have left, ... We want to talk right down to earth in a language thateverybody here can easily understand."

John F. Kennedy'の就任演説。Ask not what your country can do for you ...。
 
最後はFranklin D. Rooseveltの言葉。
The only thing we have to fear is fear itself。

PVでヴァーノン・リードの服の裏側は旭日旗。
 
2007/2/7の記事を一部改変。

80年代の名曲 グロリア・エステファン 「1-2-3」「Get on your feet」「 Rhythm Is Gonna Get You」「Conga」  

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グロリア・エステファンGloria Estefanのコンサートを横浜球場で見た。私が関東方面のコンサートへ行った数少ない例である。

今度木村カエラの武道館ライブ(2007年)にいくことと、本の整理をしていて1979年のドゥービーズとか1986年のスターシップの会場販売ブックが出てきたことで思い出した。1987年だと思っていたが、wikiの情報と違うので1989年か1990年ごろのようだ。家計簿をみれば分かるが、今は面倒くさい。
 
私がライブをわざわざ見ようと思ったのは、名曲「1-2-3」(1988年)のPVが素晴らしかったからだ。曲・音がいいのはもちろんだが、それ以上にエステファンが動き回る姿のキレの良さに感動したからだ。単にラテン系というものではない。実際のステージでそれを期待したのだが、それほどではなかったように思う。
 
 片言のように聞こえる英語も魅力的だ。キューバ移民なので、発音はうまくない。これがいい。
 
グロリア・エステファンの経歴については、ベスト盤のCDをレンタルした1988年頃から知っている。20052006年ごろ、CATVの「ヒストリーチャンネル」でバイオグラフィーという番組があり、ロック・ポップスターの経歴が紹介されていた。当然「グロリア・エステファン」も紹介されていた。
 交通事故からの復帰、アトランタ五輪での歌唱など人生自体がドラマチックだ。スペイン系の母性優位的な印象もある。
 
ヒット曲もスペイン語だけのも入れて数多く、現在も新曲を出しているから聞かなければとは思うが、私には80年代後半の数曲で充分なのだ。当時、ベスト盤をレンタルして、カセットに落してドライブ中によく聴いた。
グロリアは美人というだけでなく、知性があり、リーダーシップもあると当時から感じていた。
夫婦共に親日で新婚旅行は熱海温泉とは知らなかった。
半生記のミュージカルが201812月から東京で公演されるようだ。
 
1-2-3            19887月ビルボード3
Get on your feet          19899月発売、全米11
Rhythm Is Gonna Get You  1987年全米5
Conga                    1985年全米10
 
2007/6/7掲載分を一部改変。

80年代の名曲 サマンサ・フォックス「Nothing's Gonna Stop Me Now」「Naughty Girls 」

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サマンサ・フォックスSamantha Fox1980年代後半のイギリスのユーロビート、ディスコミュージック系の歌手。シンセサイザーを主体にしたポップミュージック。
レンタルのCDから4曲カセットテープに録音し、よく聞いた。1989年1月のことだからリアルタイムのファンとはいえない。同時にヴァン・へイレンも借りている。そんな時代。
 
シニータの「トイ・ボーイ」がユーロビートの代表曲といわれていた。マドンナより数年程度後の世代になるようだ。ロックとは分野が違うが、初期のマドンナはよく聴いたのでその流れで私にも抵抗なく入っていけた。この頃、ニューヨークを観光した際、マドンナがよく通っていたという教会を改造したディスコクラブに行ったことがあるが、そういう場所ではこんなダンスミュージックが流れていた。 
 

メロディーラインの良さで私は選んでいる。「NAUGHTY GIRLS」「NOTHING GONNA STOP ME NOW」「YOUR HOUSE Or MYHOUSE」「WALKING ON AIR」。前の2曲は有名。後の2曲は評価されていない。どのCDからなのか、ぴったりあうアルバムが分からないが、日本独自のコンピ盤だったようだ。

 
ネットで見て思い出したこと、ストック、エイトキン、ウオーターマンという作曲チーム。知らなかったことは、もともと巨乳のグラビアモデルだったが、1986年の「タッチ・ミー」でデビューし、これが今でも代表曲だということ。現在も活躍しているようだ。
 

"Nothing's Gonna Stop Me Now"(Stock, Aitken, Waterman) 

                               1987年ビルボード80位。
Naughty Girls   (Full Force) 1988年 ビルボード3位。
Your House or My House"  アルバム「I Wanna Have Some Fun
                              198811月発売
Walking on Air        同上


2007年2月5日投稿分を一部改変

80年代の名曲 ボン・ジョヴィ 「Livin' on a Prayer」「You Give Love a Bad Name」 「Born To Be My Baby」 

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ボン・ジョヴィBon Jovi
 
人気絶頂期の1987103日愛知県体育館でのコンサートへ行った。はっきり覚えているのは、ボイスチェンジャー多用で歌唱が台無しだったこと。聴きに行った意味がまるでなかった。
このころはFMラジオでよく特集が組まれ、以前の作を含めて、主要な曲を聴いた。本国アメリカに先駆けて、日本で人気となったということもその頃聞かされた。
ロックの流れでは、その後のガンズやニルヴァーナがこけてしまい、90年以降は小粒のバンドしか出現していないので、最後の大物ロックバンドだったといえよう。
 
You Give Love a Bad Name」はアルバム「Slippery When Wet」の曲で、1986年秋ごろからベストヒットUSAでチャートを上昇し、PVが繰り返し放送された。198611月ビルボード1位。
正統的ハードロックの名曲。曲の構成がドラマチック。始めのステージの花火から度肝を抜かれた。当時では珍しかった。ジョンのステージアクションもロックスター然としていた。ギターの入りも良い。すべてに満点だった。
 
Livin' on a Prayer」は次にシングル化された曲で、さらに前曲より出来が良く、19872月に1位となったのは当然だ。
レッド・ツェッペリン以降のハードロックの流れの中で、完成されたスタイルとして最高の曲といえる。
 
1988年発表の4thアルバム『New Jersey』もBillboard 2004週連続1位するほどのセールスを記録し、シングルカットされた楽曲の多くがBillboard Hot 1001位となった。
 
Born To Be My Baby」(ビルボード3位)は、このアルバムのなかでは、一番出来がよい。真面目にPVを作れば、もっと大ヒットしただろう。なぜ中途半端なPVなのかと当時思っていた。前2作と同水準の曲である。
 
Wild In The Streets」はアルバム「Slippery When Wet」の曲で、FM特集のときに録音し、よく聴いていた。
 

80年代の名曲 フーターズ 「Johnny B」 「Satelite」

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フーターズThe Hooters
 
1980年代後半活躍したアメリカのロックバンド。
フォーク、ケイジャン、ザディコ、レゲエ、スカなどの音楽を大胆に採り入れたサウンドで一世を風靡した。また主要メンバーのうちの一人ロブ・ハイマンは、シンディ・ローパーのスタンダード曲「タイム・アフター・タイム」の作曲者としても知られている。バンド名はメロディカの異称から採られている。
 
Johnny B1987年(全米61位)はFMエアチェック音源でカセットに落としてよく聴いた。フーターズの名前は知っており、評価は高かったが、放送されることはなかったので実際に聴いたのは数年後だった。
骨太のアメリカンロックだが、哀愁感のあるメロディと大胆なギターサウンド、冒頭のマンドリンなど変わっていて、かつ面白く、楽曲の出来がいい。
 
Satelite1987年(全米61位)も聞き覚えがある。これは、完全なるケイジャンロックである。アイルランド人のコメントもある。チーフタンズをロック化したらこんな音になる。私のつぼの音である。フィドル、アコーディオン、ピアニカの音が南部人にダンスを踊らせる。ケルト文化は世界で健在だ。ケイジャンといえば、「ジャンバラヤ」など名曲は単発では知られているが、なかなか日本人に受け入れられないのが残念だ。ニッティー・グリッティー・ダートバンドにはケイジャンロックの名演が多い。

PVの老夫婦はグラント・ウッドの名画「アメリカン・ゴシック」のパロディー。

And we danced」など、他の曲も聴いてみたが、この2曲がやはりいい。
 
エリック・バジリアンの名前は聞いたことはあったが、よく知らなかった。ルーツ楽器のコレクターでもあるらしい。 シンディー・ローパーのデビュー時のバックバンドで、メンバーのロブ・ハイマンは名曲「タイムアフタータイム」の作曲者。 
1990年代からは個人活動が多くなり、バンド自体は時々活動する程度だったみたいだ。だが、今年(2007年)ひさしぶりにアルバムを出すらしい。


2007/3/6投稿分を一部改変

80年代の名曲 シンディ・ローパー 「Girls Just Want to Have Fun」「Time After Time」 「Money Changes Everything」

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シンディ・ローパーCyndi Lauper
 
Girls Just Want to Have Fun1983年。
日本ではオリコン洋楽シングルチャートで1984430日付から3週連続1位。
ビルボードでは198312月にチャート入り、19843102位。1位はヴァン・ヘイレンの「ジャンプ」。PVで、楽しそうに騒いでいる感じは当時では変わったビデオだった。髪を変わった色に変えているし、服装もハチャメチャでとにかく変わっているという印象があった。
実の母親も出演しているということは当時話題になった。下積みが長かったということも。
シンディ・ローパーには、このビデオのイメージしかない。
デビュー作にして、「「Time After Time」とならぶ代表作。
しかし、おかしな女が歌っているとしか思えず、一発屋で終わると思った。
 
Time After Time」。1984年。
1983年のアルバム『シーズ・ソー・アンユージュアル』の収録曲で、シンディとザ・フーターズのロブ・ハイマンが共作した。翌1984年にはシングル・カットされ、全米1位を獲得している。マイルス・デイヴィス等多数のアーティストにカヴァーされるスタンダード・ナンバーとなった。
 
マイルス・デイヴィスの演奏を聴いてみたら、クールジャズ風のアレンジで、静かにラッパを吹いていた。しかし、ジャズのスタンダードナンバーとしては定義が違う気がする。
カバー例は多いが、シンディの原曲が素晴らしいだけに、それを越えることは難しい。
ベストヒットUSAでよく見ていたが、最近のyoutubeの再生回数がいつのまにか驚異的な数になって驚いた。当時はそれほどまでの評価はなかったが、じわっとくる名曲、飽きのこない名曲なんだろう。
 
She Bop」もある程度ヒット。サビは覚えやすい。
Money Changes Everything」(1984年)。名曲。
The Goonies 'r' Good Enough」(1985年)はメロディーは覚えやすい。PVは違っていたような。
True Colors1986年。名曲。
 
ベストヒットUSAや「笑っていいとも」でも頻繁に出演していたが、真剣に聞いていなかった。
最近、WIKIを読んで、下積み時代に日本人店主に励まされて、親日家になった話しを知った。東日本大震災のときもコンサートをそのまま開催いてくれたことも知った。
日本政府はシンディ・ローパーに勲章を授与する必要がある。
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