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Channel: いちご畑よ永遠に
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80年代の名曲 ブロンディ  「Heart of Glass」 「Call Me」 「The Tide Is High」

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ロンディBlondie は、アメリカのロック・バンド。
 
女性ボーカリストのデボラ・ハリーDeborah Harry1945年~)がメインメンバーで、ブロンディとデボラ・ハリーはほぼ同格。1970年代末から隆盛したニューヨーク「ニュー・ウェイヴ」の代表的グループとして知られる。全世界のアルバム・セールスは4000万枚以上。2006年『ロックの殿堂』入り。
当初はニューヨーク・パンク・バンドの一つとされていたが、後に「ハート・オブ・グラス」でディスコ、「ラプチュアー」ではラップといった、当時最先端の音楽にも手を広げ、ニュー・ウェイブの範疇で評価されることもあった。
 
日英wikiでは、1982年に一度解散し、1997年に再結成とあるが、私は1990年にブロンディのライブをロサンゼルスで観ている。あれは幻だったのかと、トムトムクラブのyuutubeを捜したら、「Ramones Blondie Tom Tom Club 1990 the Escape From New York tour」というのがあった。ニューヨークのパンクバンド3組がユニットで全米各地を回ったツアーの1日であった。
 
19908月にナッツベリー・ファーム、ユニバーサルスタジオ、マジック・マウンテンという既に行ったことのあるディズニーランドを除くLA周辺のテーマパーク巡りをしたとき、滞在中に有名バンドのコンサートがないかと現地のプレイガイドで捜すと、宿泊したホテルの徒歩圏内にある劇場で、そのコンサートがあったので、チケットを購入してでかけた。
 
Heart of Glass1979年)のヒットから知っていたブロンド美人のデボラ・ハリーが見られるのかと楽しみだった。トムトムクラブも聴いたことがあった。ラモーンズは名前は知っていたが、聴いたことはなかった。
会場は巨大な映画館風のシアターで、その2階から3組のライブを見下ろした。
 

残念ながら、ブロンディの記憶はない。期待どおりだったのだろう。トムトムクラブは魔法使いジニーの扮装をした女性数人がステージを縦横に動いて面白かった。とりのラモーンズはパンクで、一番盛り上がった。ステージ前の群集の頭の上を数人が飛ばされていた。今思えば、あれがダイブだったのだろう。 

ブロンディだったのかソロとしてのデボラ・ハリーだったのか、正確なところは分からないが、ブロンディ=デボラ・ハリーという認識は当時のアメリカ人も持っていたということだろう。
 
ブロンディは1974年、ガールズ・バンドに所属していたデボラ・ハリーと、バックバンドにいたクリス・シュタインが中心となって結成された。「ブロンディ」というバンド名は通りがかりのトラックの運転手がハリーにかけた言葉("Hey Blondie"=「よぉ、ブロンドのお姉ちゃん」)に由来する。
1976年にデビュー・アルバム『妖女ブロンディ』発表。
 
Heart of Glassハート・オブ・グラス」が1979年にヒットして人気バンドになる。ハリーはセックス・シンボルとしても大いに注目されるようになる。
1975年にメンバーのデボラ・ハリーとクリス・シュタインにより作詞作曲された原曲はブルース・レゲエ調であったが、1978年にロックとディスコの曲調を加えて再録音された。
単なるポップナンバーだとしか思って聴いていない。以降の曲も同じ。
 
Call Meコール・ミー」は1980年、ハリーとジョルジオ・モロダーが共同で作詞作曲した、映画『アメリカン・ジゴロ』に提供され、米英でナンバーワン・ヒットとなった。
 
The Tide Is High」(1980年)も米英1位のヒット。これもよくラジオから流れていた。

販売キノコ 基準超えセシウム 安倍政権は、福島の問題も放置して憲法改正だの言っています

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野生キノコ「サクラシメジ」から基準値超える放射性物質・販売施設が自主回収 山形
yahooニュース 2018/9/22() 18:47配信
 
ロシアは半径300k立ち入り禁止にしてる。
チェルノブイリと爆発の規模は一緒。
どうしてこんなに対応が違うんだ。
子供の甲状腺癌増えてるらしいし、日本の政治家は何考えてるんだ。
 
被災地の風評被害を防ぐのは大事だが、真実を隠してまで被災地やそれに関わる業界を救おうとするのは違うと思う。
例えばメルトダウンして海に染み出た放射線物質はどうなっている?魚介類はクリーンなのか?真実を言えば国内の漁業を潰してしまう?
もちろん当事者は反対するだろうが、感情論じゃなく確固たる証拠を以って安全だと示してほしい。真実と感情を一緒くたに物事を討論するべき問題ではない。
 
きのこ類は怖いからね。検査徹底して欲しいねその辺のきのこ食べちゃってる方は自己責任なのかなー?本当自然を破壊した張本人の政治家がなにも責任もとらずってさ。
 
国民を舐めた基準値ですから、今度は3倍を基準値にするんじゃないですか。
 
あまり知られていないようですが、驚くべきことに「放射性物質の拡散」そのものを処罰する法律は無いそうです。巧妙に例外事項を設けて、対象にならないようにしてあります。
「人の健康を害する物質」であることを立証できないと、訴えることすら難しいとは・・・。
原子力界隈は、ほんと、人のことナメてるとしか思えない。絶対に信用できない。
 
このような事実は、もっと大々的に報道してもらいたい。
特に、原発立地市町村では、実際に電力会社が説明すべきではないか?
福島の事故から一体何年経ってると思ってんだ。
 
やはりあるよなあ、地元の人は自分で食べて消費してる人だっているだろ
基準値も上げてそれの3倍だからな、ゆっくりと体を蝕む猛毒をばら撒いて人殺してんだからな、これが犯罪じゃないのが本当に不思議で仕方ない
 
原発事故から時間がたち、福島ばかりでなく
他の地域にも拡散しているということがこれでわかりましたよね。
安倍政権は、福島の問題も放置して憲法改正だの言っていますが、
その前に国内のこの原発の問題をかたずけないといけないのに
無関心すぎる。
放射能は半減期が恐ろしく長く、今すぐには被害はないものの、
徐々に浸透し、子供のガンが増えているという事も聞いています。
今の政治家は何を考えているんだ?と、思います。
真面目にこの問題は解決できていないし見過ごせないですよ。
富士山ニニギさんの言うことには、
東京でさえ避難レベルらしいです。

80年代の名曲 エイスワンダー 「Stay with me」 「Baby Baby」

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エイスワンダーEighth Wonderはイギリスのアイドルポップグループ。
マドンナ、ユーロビート的なサウンド。
1985年デビューで、1986年に日本紹介らしい。1989年解散。
 
カセットテープに入っているので、おそらくFMエアチェックの音源。PVを見た覚えはない。当時はPVを見られるのはベストヒットUSAぐらいなので、アメリカでチャート上位でないヨーロッパのPVを見る機会は少なかった。
もちろん、ボーカルの美少女アイドルのパッツィ・ケンジットの容姿は知っていた。子役女優出身ということもFMで聞いていた。
初めてラジオで聞いたとき、まずバンド名が面白いと思った。世界の七不思議がセブンワンダーなので、8番目というたいそうな名前に驚いた。
 
単純に楽曲的にいい。良質なポップスといえる。甘い声はくすぐられるようで、松田聖子に通じる。
Stay with me」。よく聴いた。オリコン洋楽シングルチャートで1986414日付から8週連続1[1]を記録するなど、大ヒットした.。本国よりも、日本tイタリアで1位という大ヒットを記録したデビュー・シングル。

Baby Baby」(1988)も録音愛聴。
 
ペットショップボーイズが彼女に曲を提供するほどファンだったとは知らなかった。
この頃はUKポップ、ロックもいい曲出してたなあ。
 
 
2007/3/5投稿を一部改変。

80年代の名曲 ホイットニー・ヒューストン 「So Emotional」「Love Will Save the Day」 「How Will I Know」「I Wanna Dance With   

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ホイットニー・ヒューストンWhitney  Houston(1963年~2012年)
 
Love Will Save the Day」(1988年)
 
Sometimes life can make you crazy  It can really put your body to the test
You try so hard to make sure everything goes right
And you find you've only wound up with a mess
 
It's a common situation
Even though you feel abandoned and alone 
Child, you ain't the first to experience the hurt
So don't panic when you hit the danger zone
 
What you need's a little change of heart  Forget this fear and frustration
Love will always play the greater part
When your battles wear you down
Here's my advice
 
When you're feeling down and out   And you've got troubles on your mind
Love will save the day
 
When you're feeling full of doubt    And fear has got you in a bind
Love will save the day    Love will always play the greater part
 
When your world's falling apart    All you have to do is say a prayer
And love will save the day
 
There's an answer in your heart    So let your light shine on, my dear
And love will save the day    Love will save the day
 
Many things in this world bring you down 
 It's a wonder you can make it through the day
Well, you can't sleep because your problems are too deep
And there's always something getting in the way
 
And when you turn on the evening news  
 Mass confusion is the only thing you see
Well, there's no question   That we need a new direction
Because we all could use some peace and harmony
 
 
So Emotional」(1987年)はロックとして評価するべきで、ホイットニー・ヒューストンが1980年代以降最高のロック・ポップ歌手であったことを証明する音楽史上に輝く名曲。
 
1985年、デビュー・アルバム「WhitneyHouston」は大ヒットとなった。1987年に発表した2枚目のアルバム「Whitney」もビルボード200チャートに初登場1位を記録する(女性歌手では初)大ヒット。
1992年には、初主演映画「ボディガード」が公開され、サウンドトラック「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は自身最大のヒットとなった。
 
ベストヒットUSAに出てきたとき、「モデル出身で、従姉にはディオンヌ・ワーウィックがいて幼少時から教会でゴスペルを歌っていた」と紹介されていた。私は、3枚目のシングル「How Will I Know」(1985年)でようやく注目した。
How Will I Know」ではカラフルでエネルギッシュなホイットニーを見ることができる。米1位。
I Wanna Dance With Somebody」(1987年)も同様。
 
So Emotional」(1987年)。19881月米1位。Billy Steinberg Tom Kellyの作品で,彼らの提供した楽曲である Madonna"Like a Virgin," Cyndi Lauper"True Colors," Heart"Alone,"  The Bangles "Eternal Flame,"はいずれも米1位の大ヒットした名曲ぞろいである。
 
Love Will Save the Day」(1988年)ビルボード 9位。
前作まで連続71位という記録を塗り替えられず残念な結果に終わった曲。記憶にない曲なので、シングル曲を聴くと、あっさりとしたアレンジになっており、売れるわけがない。
しかし、ウェンブリー・アリーナのライブでは、この曲の本来の魅力が引き出されており、So Emotional」なみの名曲であると評価できる。
アフロ・キューバン調で、パーカッションの連打がlivelyjoyousと評価されている。
2007年当時、youtubeで、この曲の各地でのライブを聴き比べて、このライブが一番出来が良かった。アップと削除が繰り返されている。
 
この前、衛星放送で映画「ボディーガード」を放映していたが、私は自慢ではないが今回も見なかったし、今までも見たことがない。いずれ、レンタル100円の時に見てもいいとは思うが。
 
 映画「ボディーガード」と主題歌「オールウェイズ・ラヴ・ユー」がヒットし、そのPVを見たがいいとは思わなかった。こんな曲はマライアとかセリーヌ・ディオンが歌っても同じじゃないの。バラードなんて、秋川でも歌える。ホイットニーの持ち味が生かされていないからだ。
 
 SO EMOTIONAL」のPVには惹き付けられるものがあった。中盤(2:00)でホイットニーが後ろに下がっていく場面ではめまいを感じた。このカメラワークは素晴らしい。
 
 歌の出来はもちろんいい。しかし、魅力は歌唱力。アップテンポで、腹の底から力強い声を出すだけでなく、音程をたくみに転がしていくテクニック。
 
 黒人女性歌手は小さいころからゴスペルで鍛えられているからだろうか。白人には無理だな。モデル出身のホイットニーはスタイルもよく美人。オーラが出まくりなのである。
 
この曲は87年の作品で、映画「ボディーガード」は92年。同年にボビー・ブラウンと結婚。で、ここから二人とも変調をきたし、公私ともボロボロになっていった。ホイットニーは今年久し振りに新アルバムを出すらしい。麻薬によるひどいかすれ声だったけど、「SO EMOTINAL」のような曲で復活してほしいな。
 
 LOVE WILL SAVE THE DAY」は知らなかったが、いい曲だ。youtubeでライブ数本見たが、やみつきになりそう。下記の88年イタリアライブ(コメで本当はイギリスだと指摘されていた)がモータウンらしさがあり一番面白い。
 
 SO EMOTIONAL」は88年のライブからもう既に高音が出なくなっている。いかに,難曲かつ奇跡的なレコーディングだったのか。
 
 声が出なくなるとか、私生活が荒れるとか。プロは厳しい。マドンナのヨガ、卑近な例では郷ひろみ。彼女。彼らは毎日トレーニングを欠かさない。このあたりのプロ歌手としての心構えが、ホイットニーにはなかったのか。モデルとしての容姿や音楽的才能を過信したのか。ストレスに負けるような精神力だったのか。
 
2012年に亡くなり驚いた。2015年には一人娘も亡くなり、悲劇の歌姫になってしまった。
 
2007/7/10投稿分を追加改変。

80年代の名曲 ガンズ・アンド・ローゼズ 「Sweet Child `O Mine」

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ガンズ・アンド・ローゼズGuns N' Roses
 
ガンズ・アンド・ローゼズ来日公演(2007年)の話題を先日来、ネットで見た。1988年に「Sweet Child `O Mine」をベストヒットUSAで見たときは、ボンジョビのあとにまたスーパーバンドが突然現われたと思い、期待した。
 
しかし、次の「Welcome to the Jungle」は大したことがなかったし、ヴォーカルのアクセルのガールフレンドは某有名人の娘という話題だけが、ニュースで流れ、そのうち私の関心から消えた。
 
というよりも、80年代まで続いたロックの最後の名曲という点で私の記憶に残る曲。どれだけ、いつまで名曲が出続けるのかと感激し、カセットテープでよく聴いた曲なのである。
 
この曲以後、ロックの歴史は眠りに入ったまま、実に20(今では30)年間になる。その残念さを象徴するバンド。
 
you tubeで数曲を聴いたが、november rain も含め秀曲はなさそうだった。
  
とにかく「Sweet Child `O Mine」は、ギター、ボーカル、メロディーすべての面で完璧な名曲。
このとき思っていたのは、ギターのスラッシュのリフが懐メロ的、つまりヴァン・ヘイレンなどに比べて昔の音(クリームのクラプトン風)に聞こえたこと。時代の革新者ではありえなかったという証明。
タトゥーも不快。
   
 
2007/3/14投稿分を追加改変。

80年代の名曲 スターシップ 「We built this city」「Sara」「Nothing's Gonna Stop Us Now」

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スターシップSTARSHIPの「We built this city」が200710月からフジテレビ「とくだね」のテーマ曲に採用された。前はプリテンダーズのDont get me wrong、その前はスタイルカウンシルのShoutto the topだった。
 
1986年に来日公演があり、私は名古屋市公会堂での公演を見て、パンフレットも買った。客入りは悪かったし、盛り上がりにも欠け、短時間の公演終盤に会場から「ナンバーワン・ヒット」という外人風の声があり、あっさりSaraが歌われておしまいになっってしまい、早く終わらせたいための、やらせのかけ声だったように感じた。
ただ、グレイス・スリックはやはり「あなただけをSomebodyto love」を歌ってくれたので感慨無量だった。
 後ろのスクリーンもサイケデリックな模様が写されることもあり、懐かしかった。
 
スターシップは1985年のアルバム「Knee Deep in the Hoopla」の中から「We built thiscity」と「Sara」の2曲がNO1ヒットとなった。ベストヒットUSAで見た私は早速レンタルコピーしてよく聞いていた。
 
We built this city」はミディアムテンポのキャッチーな曲でシスコロックの象徴的バンドにふさわしいと感じた。挿入されるラジオDJのcity by the bay というあたりはサンフランシスコの雰囲気がある。
バーニー・トーピン、マーティン・ペイジ、デニス・ランバート、ピーター・ウルフらの作曲。
 
Sara」はバラードの名曲。いずれも、MTV時代を代表するPVであり、ミッキー・トーマスのボーカルが売り物である。
 
Nothing's Gonna Stop Us Now19874月、ビルボード1位、オリコン洋楽シングル1位。
アルバート・ハモンドとダイアン・ウォーレンの共作による楽曲。ミッキー・トーマスとグレイス・スリックによるデュエット。
 
ジェファーソン・エアプレインJefferson AirplaneとスターシップSTARSHIPは関係がないというWIKIの解説はそのとおりだろうが、当時の私には継承したバンドというイメージで見ていた。ポール・カントナーからのジェファーソン名義の差し止めは当時から話題にはなっており、公演パンフにも記載があった。
 
ジェファーソン・エアプレインの1967年のヒットシングル「あなただけをSomebody to love」をロックを聞き始めたときに買っていたのだ。シスコサウンド、サイケデリックサウンドのはしりで、この曲の後半のギターソロに斬新さを感じたからだ。福田一郎氏のライナーノートには、ポール・マッカートニーやドノバンがジェファーソンのライブを見て気に入ったとある。
 
グレイトフルデッド、スコット・マッケンジーやらヒッピー・ムーブメントを代表するアーティストがサンフランシスコから輩出していったのをリアルタイムで体験していた。
姉妹バンドのホット・ツナでパパ・ジョン・クリーチのバイオリンを聞き、ロックおよびジャズでのバイオリンに注目するきっかけとなった。
 
2007/10/20投稿を一部改変

80年代の名曲 ジョン・クーガー・メレンキャンプ 「Cherry Bomb」「Check It Out」「Jack & Diane」 

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ジョン・クーガー・メレンキャンプJohn Cougar Mellencamp
 
正統派アメリカンロックのシンガー・ソングライター。80年代半ばによくベストヒットUSAでPVを見た。ブルース・スプリングスティーンの影に隠れた存在といわれている。
今は、ジョン・メレンキャンプという名前だが、最初聞いたときはジョン・クーガーと名乗っていた。
初めて認知した作品は「Jack & Diane」(1982年米1位)で、まあいい曲とは思ったが、カセットに録音していたのは1987年から1988年に出た「Cherry Bomb」「Check It Out」の2曲で、ことらのほうはルーツミュージックぽいので好きな作品である。
 
Cherry Bomb 198710月発売。
Check It Out19881月発売。 
2曲ともアルバム「Lonesome Jubilee」収録である。タイトル通りカントリーフレイバーあふれるロック。田舎のハイスクール生活を想起させる映像と音楽。アコーディオンやフィドルが入っている。私はこの手の曲がつぼなのだ。カントリーではなくルーツ楽器を主調にしたロックスタイルでの音楽が心地良い。
現在のyou tubeVEVOでは「Check It Out」の方は当時のライブだが、当時のPVは別のもののような気がする。ライブではなくアルバム録音の方が崩されていない音源である。「
Cherry Bomb」の方は彼の学生時代の思い出のダンスクラブを再現しており、ダンスシーンがあって印象的だった。
 
ジョン・クーガーは1970年代半ばに、グラムロックのバンドで活動していた時期に、デヴィッド・ボウイの敏腕マネージャーに見出されてデビューしたという。芸名をジョニー・クーガーとするが、移籍後、ジョン・クーガーとした。アメリカでの初ヒットは79年末。大ブレイクしたのが1982年で。アルバム「American Fool(ビルボード誌アルバムチャート全米No.1)」からのシングル「Hurts So Good(青春の傷あと:同1位)」と続くセカンドシングル「Jack & Diane(英語版)」が全米1位の大ヒットとなり、名実ともに人気ロッカーの仲間入りを果たした。
シングル「Hurts So Good」は全く知らない。Youtubeで見たが駄作だった。
1983年にジョン・クーガー・メレンキャンプと改名し、芸名でごたごたしていると小林克也が言っていたのを覚えている。
 
1985年にウイリー・ネルソンと共に、困窮するアメリカの農家のためのチャリティーイベント「ファーム・エイド」を開催。都市から見放されがちな田舎、農村の代弁者としての立場を強くするようになり、音楽性もカントリーやフォークの色が濃いアコースティックなものに変容していった。その音楽性は、1987年に発表した「The Lonesome Jubilee」で強く見出すことが出来、このアルバムから「Cherry Bomb」(8位)、「Check It Out」(14位)のヒット曲を生んだ。
 
2007/3/5投稿を追加改変。

80年代の名曲 ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース 「The Power of Love 」「Do You Believe In Love」

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ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースHuey Lewis and the News
 
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースは、アメリカのロックバンド。1980年代に数々のヒットで高い人気を博した。
骨太のロックンロールを基盤に、ヒューイ・ルイスのハスキーボイスと爽やかなハーモニーを特徴とするキャッチーなサウンドが特徴。アメリカを代表するバンドというほどでもなく、中堅ロックンロールバンドの一つ。
 
最近、テレビを見ていたら聴き慣れたフレーズのイントロが聞こえてきた。まぎれもなく、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの「パワー・オブ・ラヴ」であった。
サントリーのビール「オールフリー」のCM曲で、稲垣吾郎と香取慎吾が出演しているという。Youtubeで見ると確かにそうだった。しかし、この二人が出ている「オールフリー」のCM20182月からバージョンを変えながら流されているらしいが全く見たことがない。
 
Do You Believe In Love」は1982年に米7位。初めてこのバンドを知った曲。ハーモニーが美しくキャッチーなメロディが特徴。
 
The Power of Love 」は1985年の大ヒット映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のサウンドトラックのために書き下ろされた楽曲で1985年にリリースされ全米1位を記録した。
ヒューイ・ルイスのパワフルで爆発的なボーカルは渋いが、人柄が良いことを感じさせる温かみがある。その特徴が一番表出されたチューン。
 
Stuck with You」(1986年)「Jacob's Ladder」(1987)はいずれも米1位で、このあたりまで、ベストヒットUSAで見ていたことは覚えている。youtubuで聞き直してみたが、たいした曲ではなかった。
 

80年代の名曲 トト 「Africa」 「Rosanna」 「99」

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トトTOTO
 

1976年にロサンゼルスでスタジオミュージシャンをしていたデヴィッド・ペイチとジェフ・ポーカロを中心に結成。一般的には、典型的なAORサウンドと評されているが、ハードロックからプログレッシブ・ロック、ジャズ・フュージョンといった、さまざまなスタイルを内包している。

99」(1979年)が彼らを知ったきっかけの曲であり、彼らの代表作と思っていた。セッションマンの集まりと聞いていたので、一発屋で終わったと思っていたら、曲調の違う「Goodbye Elenore」を経て、Africa」、「Rosanna」が大ヒットして驚いた。
 
デヴィッド・ペイチ(ボーカル、キーボード)、スティーヴ・ポーカロ(キーボード、ボーカル)、スティーヴ・ルカサー(ギター)、デヴィッド・ハンゲイト(ベース)、ジェフ・ポーカロ(1992年死亡、ドラムス)。
 
彼らのセッション参加作品。
オリビア・ニュートン・ジョン「Physical」(1981年)。ルカサー、ハンゲイト。
クリストファー・クロス「Arthur’s Theme」(1981年)。ルカサー、ハンゲイト、ジェフ・ポーカロ、スティーブ・ポーカロ。
シカゴ「Hard to Say Im Sorry」(1982年)。ルカサー、ペイチ、スティーヴ・ポーカロ。
マイケル・ジャクソン「Beat It   」(1983年)。ルカサー、ジェフ・ポーカロ、スティーブ・ポーカロ。
 
 
Africa」(1982年)。ビルボード1位。メインボーカルはデヴィッド・ペイチ。
 
BSTBSSONG  TO  SOUL」の短縮版。
デヴィッド・ペイチ(kb)、スティーヴ・ルカサー(g)、スティーヴ・ポーカロ(kb)のインタビュー。
3人は高校以来40年間の友だち。1975年、ボズ・スキャッグスのアルバム『シルク・ディグリーズ』の制作時にデヴィッド・ペイチ、ジェフ・ポーカロ、デヴィッド・ハンゲイトが集まったのがきっかけ。次回作で一緒になったスティーヴ・ルカサーを引きいれて、TOTOを結成した。
1978年1stアルバムでシングル「Hold the Line」がヒット。
 
ペイチが曲やフレーズを弾き始めると、ポーカロ兄弟やルカサーが加わり、自分のパートを作り上げていく。ルカサーはペイチやスティーヴ・ポーカロの曲なら聴いた途端にアイデアが浮かんでくるという。
 
Africa」はデヴィッド・ペイチがテレビを見ていたときに思いついたアイデアがきっかけ。ユニセフのコマーシャルを見た時、若かったペイチに「アフリカに行きたい」という思いが生まれ、そこからロマンチックな物語を思いついた。ジェフ・ポーカロとともに曲を書き上げた。ジェフはペイチにプレッシャーをかけて歌詞を書かせる名人だった。
 
ハリウッドのサンセット・スタジオで録音。ジェフが特別な録音を提案した。レニー・カストロ(パーカッション)はジェフと向かい合って演奏し始めた。24トラックのテープに最初から最後までひたすら同じリズムパターンを録音した。30分ぐらいかけて、あたかも悟りを開こうとする禅僧のように、そのリズムパターンだけを繰り返し演奏した。そのあとで、彼らが叩いたリズムパターンの中からジェフが気に入った1小節を選んだ。それを編集して何度も繰り返すループを作った。これが「アフリカ」のベースとなった。それはイントロで聴くことができる。
その上にペイチがCS-80を弾き、ジェフがコーラス部のドラムを演奏して全体の形は決まった。その上にピアノを重ね、ハンゲイトがベースを乗せ、ルカサーがさまざなギターを何層にも重ねていった。さらにシンセサイザーの二人が音を重ねていった。ヤマハCS-80だけでなく、GS-1でマリンバとカリンバの音を作った。さまざまに加工された曲だ。
 
Rosanna」(1982年)。米2位。ロック的にめりはりのある曲。
 
99」(1979年)。米26位。歌詞及びPVはジョージ・ルーカスのデビュー作となった無機的なディストピアを描いたSF映画「THX-1138」へのオマージュである。
クール、透明、ピュアというシンセ主体の曲調は当時のポップミュージックと比べ、新鮮・斬新だったので、カセットでよく聴いていた。映像も当時見た記憶があり、白いジャンプスーツを着た姿が不思議な感覚だった。
人気のある曲だが、ルカサーは歌詞が愚鈍だとして嫌っている。
ペイチのジャジーなピアノやオルガン、エレクトリックピアノ、スティーヴ・ポーカロのブラス系を含む、煌びやかなシンセサイザー・サウンドが特徴。

狙われる有権者たち、デジタル洗脳の恐怖 「操られる民主主義」の著者に聞く(前編)

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日経ビジネスONLINE  2018101日 伏見香名子
 
狙われる有権者たち、デジタル洗脳の恐怖
「操られる民主主義」の著者、ジェイミー・バートレット氏に聞く(前編)
 
膨大な個人情報が、民主主義の根幹を成し、国政に影響する選挙や国民投票の行方を左右させるために、明確な意思を持った何者かに利用されていたとしたら、どうだろうか。
 
変化の速さやテクノロジーの進化、AIの台頭などを考えた時、この問題を早急に解決する必要があると感じました。今後20年以内にこの緊張関係を緩和する策を講じなければ、民主主義が絶滅しかねないと思います。
 
この数年(問題となった)ロシアの選挙介入、荒らし、仮想通貨など。私はこれらが全て、同じ事象の一部であることに気づきました。つまり、現在とは全く異なる時代に構築された、古いスタイルの民主主義と、新しいデジタル技術とが、相容れないということです。
選挙には、自由と公正さを保つための制度があり、選挙戦に使用される広告にも、正直かつ真実であるようにと規制がかけられます。しかし、これらの規制はテレビの時代や、誰でも見られる広告板に即したものでした。
 
ところが突如として、世界の誰にでも、個人をターゲットにし、その人以外の目には触れない広告が打てるようになりました。選挙そのものの正当性が問われることになったのです。「誰か」とは、悪意のある外国の勢力かもしれませんし、人々に嘘やデタラメを流す、国内の選挙キャンペーン担当者かもしれません。私たちが民主主義を運営し続けるために構築したシステムそのものが既に時代遅れであり、機能不全であると言うことです。
 
通常の広告は、テレビや広告板、新聞などに掲載する場合、内容について厳しい規制が存在します。正確であり、誤解を招いてはいけない、真実を示し、他者を中傷してはならない、などです。
 
これがインターネット上、個人に向けたターゲット広告の場合は、ほぼ何でも伝えることができます。しかも、他者には見えないため、信ぴょう性をチェックすることができません。嘘やでまかせなどを流された貴方がそれを信じてしまっても、誰もその広告を確認できない。ここが、根本的な違いです。
 
貴方の内にある最悪の偏見や個人的偏向に、機械が働きかける。感情的で、誤解を生じるものや、非常に差別的で、人種問題を誘発しかねないコンテンツは、最も有効なのです。
政治とは、異なる意見を交わし、その違いを乗り越えるため誠実に議論を行うことです。人種差別的な広告を、誰も見えないところで自動的に流すことではありません。
 
――2016年、こうしたデジタル戦略により、米英で民主主義が大きく揺らいだと言われています。
 
おそらく、インターネットが私たちの選挙と、選挙制度そのものを破壊するツールだと、多くの人が初めて気づいた年だったでしょう。
実際、近年多くの選挙戦で、こうした技術が用いられてきました。(ロシアは)インターネットを使い、米国の選挙介入にも成功したのです。
 
言葉を介さない静かな戦争が、デジタル技術と民主政体との間に起きていると思います。インターネットを制し、究極的に社会を動かしているのは、一体誰なのか。(シリコンバレーの)デジタル企業や民間企業なのか、それとも、民主的に選ばれた政府なのか。
 
意図せずに、インターネットは民主主義を殺していると思います。ネットは民主主義にとって非常に良い側面もあります。表現の自由や、新しい思想、情報へのアクセスなど、これも民主主義には大切なことで、疑問の余地はないでしょう。
 
問題は私たちが「ネットは情報を提供する、市民のためのプラットフォームだ」と、その恩恵にのみ目を奪われていることです。
民主主義はそれ以上に、健全に機能している政府や、法が保たれ、政府が決めた事が実行されていると、人々が自信を持てるものでなくてはなりません。
強く健全なメディアや、人々が、きちんと情報を得た上で、互いを罵ることなく議論ができること。政治家から得たものは、規制に基づき信頼できると思えること。これらは全て、民主主義を形作るものですが、インターネットがそれを破壊しています。
 
歴史的に既得権益がテクノロジーを乗っ取ってきた。
インターネットを、政府や軍、ハッカーなどが、自分たちの権力を強化する、あるいは他者を陥れ、介入・干渉するツールとして利用することは、明白でした。テクノロジーは「デジタル洗脳」を可能にしたのです。
 
人々に、ブログやチャート、意見やニュース記事など、しばしば全く矛盾した情報を流し続け、情報過多にすることは、感情的な反応を呼び起こすだけです。思考をきちんと処理し慎重に考察する時間や、意見の異なる人と、きちんとコミュニケーションをとる時間すらありません。全て「相手が間違っている」と一蹴する、あるいは「自分と相手のテリトリー」を区分けし、他者と戦い続けるのです。だからこそ、昨今の政治は不運にも知識を欠き、より感情的で二極化されています。
 
市民がますますポピュリズムに傾倒している理由の一つは「問題がすぐ解決され、欲しいものは即座に手に入り、妥協の必要など一切ない」といったことが約束されるからです。現在の私たちの生活に合致しているのです。ポピュリストや独裁主義者らは文化的に、世界の現状に即しています。
民主主義国家や主流政党は、これまでと全く異なる時代に、どうやって民主主義自体を再生し、機能させるかを考えるべきでしょう。

簡単な解決法もあります。まず、選挙法を時代に即したものに改定すること。デジタル広告は、テレビ広告と同様の規制をかけ、同時にデジタル以外の広告同様に、資金投入の上限を設定するのです。

80年代の名曲 マイケル・ジャクソン 「Beat It」

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マイケル・ジャクソンMichael Jackson
 
マイケル・ジャクソンといえば、「Beat It」しか聴く曲はない。マイケル・ジャクソンはジャクソン・ファイブの頃からもちろん知っている。子供の頃から歌がうまく人気があった。「I'll Be There」は定番曲でよく聴いた。ボーイソプラノから変声期になってどうなるのか思っていたらソロデビューした。
人気はあるのは知っていたが、ベストヒットUSAでも1982年「Billie Jean」のヒットから特に話題になったが、特にいい曲とも思わなかった。

しかし、次の「Beat It」は良かった。ロック主体の私にも聴ける曲だった。エディ・ヴァン・ヘイレンのギター・ソロというのは知らなかった。「ヴァン・ヘイレン」の「ジャンプ」は1984年始めのヒットだから、エディ・ヴァン・ヘイレンと当時いわれてもぴんとこなかっただろう。
ただ、ギターソロに注目したわけではなく、曲全体のビート感が素晴らしかったということのほうが大きい。

マッカートニーとの共作「Say Say Say」(1983年)はたいした曲ではなかった。「Thriller」(1984年)はPVが気持ち悪い。「Man in the Mirror」(1988年)までは覚えている。その後はスキャンダルで世の中を騒がすたびに名前を見た程度。
 
マイケル・ジャクソンが特に流行させたのが、ダンスしながら歌うスタイル。R&B以来のスタイルだが、この面ではダンス・スタイルを革新し、現在まで続く。マイケル・ジャクソンがやる分にはまだいいが、歌が下手な歌手やグループまでが欧米・日本でこのスタイルになり、このスタイル以外のロックバンドや歌手がダンスをしないといって低く評価する傾向があるのは気に食わない。楽曲は歌であって、ダンスではない。
 
Beat It」。
1983430日ビルボード1位。
ハードロックとR&Bの融合が特徴的で、プロデューサーはクインシー・ジョーンズ。クインシーがナックの「マイ・シャローナ」のようなロックを作ってくれとマイケルに頼んでできた曲という。
エディ・ヴァン・ヘイレン、スティーヴ・ルカサー、ポール・ジャクソン・ジュニアのギタリスト3人が参加しており、エディ・ヴァン・ヘイレンのギター・ソロが曲の評価を高めた。
エディは、電話で依頼を受けたとき、からかわれていると思ったという。
ミュージック・ビデオは、ウエスト・サイドストーリーをモチーフとしている。

80年代の名曲  クリストファー・クロス 「Arthur's Theme (Best That You Can Do)」

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クリストファー・クロスChristopher  Cross
 
クリストファー・クロスは、テキサス州サン・アントニオ生まれのシンガーソングライター。天使のようなハイトーンボイスで一躍AORを代表する歌手となった。
 
クロスが作詞作曲した楽曲「セイリング(Sailing)」は19808月に米1位のヒットとなり、グラミー賞の五部門を独占した。
 
Arthur's Theme (Best That You Can Do)」(「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」)はビルボードで19811017日に1位。日本のオリコン洋楽シングルチャートで1981127日付から6週連続1位を獲得した。

この曲は映画「ミスター・アーサー(Arthur)」の主題歌で、クリストファー・クロス、バート・バカラック、キャロル・ベイヤー・セイガー、ピーター・アレンの共作。
 

When you get caught between the moon andNew York City」の部分は、ベイヤー・セイガーとピーター・アレンが以前作った楽曲の1節で、アレンはJ. F.ケネディ空港に到着した夜の情景から浮かんだという。

 
ベストヒットUSAでも頻繁にPVを見た。しみじみとした名曲。サン・アントニオのクラブで歌っているときにスカウトされたということを覚えている。

80年代の名曲 キム・カーンズ 「Bette Davis Eyes」

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キム・カーンズKim Carnes  Bette Davis Eyes「ベティ・デイビスの瞳」
 
キム・カーンズはロサンゼルス出身のシンガー・ソングライター。1972年にレコードデビュー。1980年にケニー・ロジャースとのデュエット曲がヒットした。
 
Bette Davis Eyes1981年に全米で91位という記録的な大ヒットとなった。年間チャートでも1位。グラミー賞の最優秀楽曲賞、最優秀レコード賞を受賞した。
この曲は1974年ジャッキー・デ・シャノンが歌い同年にアルバムに収録した楽曲(シングル化はしていない)をカバーしたもので、曲はジャッキー・デ・シャノンとドナ・ワイスの共作。
ジャッキー・デ・シャノンは古くから名前だけは知っていて曲は聴いたことがない。1956年から1980年までシングルをリリースしている。ジャッキー・デ・シャノンの同曲をyoutubuで聴いたが、まるで別物だった。
キム・カーーンズ版はシンセサイザーによりアレンジを変えている。
ハスキーボイスというより、しゃがれた音質で、しかも音域が狭いが、味わい深さを生み、馴染みやすいメロディーで、かつブロンド美人であったのが幸いした。
ベティ・デイビスの名前は知らなかったが、大女優であったということは教えられた。
 
ベティ・デイビスはそのとき、73歳で、キム・カーンズ、ジャッキー・デ・シャノン、ドナ・ワイスの3人に礼状を書き、「ロック世代の一員となり、現代に蘇らせてくれて、孫息子からも見直された」と喜んだ。
キム・カーンズはベティ・デイビスが1989年に亡くなるまで何度も自宅を訪れた。
 
ベティ・デイヴィス(Bette Davis, 19081989年)はハリウッド映画史上屈指の演技派女優で、大きな瞳と個性的な顔立ちで知られる。1934年デイヴィスは、彼女の女優としての運命を変える事となった名匠ジョン・クロムウェル監督の『痴人の愛』(原作はサマーセット・モームの『人間の絆』)と出逢う。ヒロインであるミルドレッドは、それまでの英米文学史上に描かれることの無かった史上最低最悪のヒロインと呼ばれたほどの悪辣な女性像であった。『痴人の愛』が全米で公開されるや否や、そのデイヴィスの憎たらしいまでの強烈な存在感と悪女ぶりが大評判となり、批評家や評論家も彼女を激賞した。
 

1962年、ロバート・アルドリッチ監督の異色作『何がジェーンに起ったか?』で強烈な復活を印象付けた。この映画におけるデイヴィスの狂乱の演技は凄まじく、映画ファンのみならず、業界人や評論家までもが度肝を抜かれた。この作品は、彼女のキャリアの中でも、重要な作品であり、特に50年代中期より作品に恵まれなかった本人にとっては、起死回生の大ヒットを記録した。

 

「男がやると尊敬されるが、女がやると嫌われる」とは、ベティ・デイヴィスの最も有名な言葉で、男性優位社会のハリウッドや男性と女性の社会的地位の差異を痛烈に批判した言葉である。

この言葉は、アメリカン・ニューシネマのヒロインとして活躍したフェイ・ダナウェイやジェーン・フォンダも、時代は変わってもハリウッドは変わらず「ボーイズ・タウン」であることを皮肉り、二人ともにデイヴィスの言葉を引用して辛辣な発言を多数残している。

ロックの名曲 ステッペンウルフ  「 Magic Carpet Ride」「Born to Be Wild」

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ステッペンウルフSteppenwolf  「 Magic Carpet RideBorn to Be Wild
 

Born to Be Wild」が彼らの代表曲であることは間違いない。
しかし、日本で初めて注目されたのは、「Magic Carpet Ride」(196812月頃)からである。.
映画「イージー・ライダー」の公開はアメリカで19697月、日本では1970131日であったので、挿入歌となった「Born to Be Wild」が日本でヒットしたのは、1969年夏以降、おそらく19701月以降だったと推測するのが妥当だ。
このあたりは、「ミュージック・ライフ」などで検証すれば分かる。
 
Wikiall musicなどでは、「Born To Be Wild」は19688月に全米2位、次のシングル「Magic Carpet Ride」も196812月にキャッシュボックスで2位になったとあり、この順でヒットした、とある。
これ自体は事実だが、ヒットした順番は、アメリカと日本では逆である。
 
当時複数のラジオの音楽番組を聞いてヒット曲をチェックしていた。曲紹介は読者からのリクエストによる番付でされることが多かったのだが、「Born To Be Wild」は聴いた記憶がなく、日本ではヒットしなかったといえる。
初発当時「Born To Be Wild」はイギリスでは30位で留まったという。アメリカ・カナダを除く全世界でも同様だったろう。埋もれていた「Born To Be Wild」が再び脚光を浴びて世界的に大ヒットしたのは、1969年夏以降なのである。

私の記憶では、「Magic Carpet Ride」のあとに「Born To Be Wild」が作られたという感覚しかなかった。
1970年代までは、アメリカでヒットした曲のあとに、その前の曲を日本で後発として発売するということが頻繁に行われていた。

ライナーノーツを見ても、Born To Be Wild」の記述はない。日本でヒットしていたのなら、レーベルが違っても言及されるはずだ。それがないことが、Born To Be Wild」が日本では知られていなかったことの傍証となる。
 
最近、上柴とおる氏の「ポップス再前線デビュー50周年ステッペンウルフ」を見た。
日本での彼らのレコード・デビューは196710月で、「A Girl I Knew(あの娘のおもかげ)」。次が19682月「Sookie Sookie(スキ・スキ・スー)」(ビクター)3枚目の「ワイルドでいこう」は、19689月(ビクター)。
196812月「マジック・カーペット・ライド」が「スキ・スキ・スー」とのカップリングで、ビクターから東芝音楽工業への移籍第一弾としてリリースされた。次の「ロック・ミー」(19695月)では日本独自に「ワイルドでいこう!」がB面に収められた。
 
「マジック・カーペット・ライド」が196812月に東芝の音楽番組で紹介されて、一発で気に入りシングルを購入した。歯切れよく、それでいて幻想的なオルガンに惚れた。ボーカルも力強い。ハードロックというより、サイケデリックロックのジャンルの名曲。
 
ボーン・トゥ・ビー・ワイルド」はアメリカンハードロックの先駆けの曲で以降グランドファンクなどに影響を与えたと思う。付け加えるなら、野太い、豪快まさにワイルドなボーカルは驚きだったこと。
 
リーダーのジョン・ケイの好きなミュージシャンは「クリーム」と「ジミ・ヘンドリックス」という。
古いロックンロールからロックが新しい地平に入ったのはこの頃で、「クリーム」と「ジミ・ヘンドリックス」の存在は大きかった。その派生として多くのバンドが出現したが、「レッド・ツェッペリン」とそのフォロワーがハードロックの主流となっていった。

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90年代の名曲 C+Cミュージック・ファクトリー 「エヴリバディ・ダンス・ナウ!」Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now)

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 C+C Music Factory - Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now
 
シー・アンド・シー・ミュージック・ファクトリー。
1989年に結成されたニューヨークのクラブDJロバート・クライヴィルズとキーボーディストのデヴィット・コールによるC&Cことクライヴィルス&コールのプロジェクト・ユニットである。以前からリミキサーとしての名コンビぶりを見せ、そのセンスは実証済みであった。
 
Gonna Make You Sweat (Everybody Dance Now199012月にリリースされ、19912月に全米1位。世界各地で大ヒットした。
バブル絶頂期の日本ではユーロビート全盛だったダンスフロアにヒップホップの波を本格的に持ち込んだ。
人気バラエティ番組『天才・たけしの元気が出るテレビ』の中の"ダンス甲子園"のテーマとして人気を呼び、アルバムが30万枚のセールスを記録した
 
私が毎週見ていた「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」は19854月から199610月まで放映された高視聴率番組で、「オレたちひょうきん族」(19815月~198910月)の後継番組のようにして見ていたが、19949月ビートたけしのバイク事故による休養により面白さがなくなっていた。
 
「エヴリバディ・ダンス・ナウ!」は「ダンス甲子園」という企画コーナーのテーマ曲のように使用された曲であった。
インパクトのある女性ボーカルが小気味よい楽曲で、はかのダンス曲にはない魅力があった。
 
「ダンス甲子園」には関西の強烈なキャラクターを持った人物が多数いて面白かった。
そのなかで一番面白かったのが、今来た加藤。彼女は1996年、ホモビデオ出演勧誘に関与して逮捕された。現在は串カツ屋で働いているとか。
現在参院議員をしている山本太郎は今見ても当時の「メロリンQ」のイメージで見てしまう。
 

日本人に蔓延する自慢史観あるいは自己満足史観

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「太平洋戦争日本語諜報戦 言語官の活躍と試練」(2018年、武田珂代子、ちくま新書)についての、2018107日付け中日新聞・ソーントン不破直子氏(アメリカ文学・比較文学者、日本女子大学名誉教授)の書評を読み、現代日本社会への警鐘であると感じた。
 
書評の摘要。
「実際の戦闘前にこれほど敵のことを知っていた戦争はこれまでになかった」とダグラス・マッカーサーは言ったそうだ。
本書は太平洋戦争の対日諜報戦において米英などの言語官がどのように関わったかを、言語官の受容条件や処遇などを通して多面的に示している。
米国は明治時代から軍人の日本語習得に対応し、太平洋戦争直前には日系二世と日本育ちの帰米者を軍の言語官として活用した。
二世語学兵は日本軍の交信を傍受し、山本五十六の乗る航空機を特定するなど多くの戦果をあげた。
 
他方、日本軍兵士は日記をつけ、捕虜となったらいかに返答するかも教えられず(日本軍は囚われたら自決することになっていたから)、彼らの無防備な日記中の情報や返答が日本語通訳官を通して米軍に筒抜けだった。 
日本の敗戦、いや開戦自体が、いかに日本の自己満足の結果であったかが今さらながらに分かる。

戦後、米英の軍専用の言語学校が優秀な日本学者を輩出し、日本を世界に開き、日本人自身が自己を世界的視点で見る機会を提供している。
戦後の高度成長期に、日本は戦前のような自己満足に浸っていなかったかを思わずにいられなかった。(以上)
 
<感想>
日本軍捕虜が米軍に情報を提供してしまうことになった例が多かったのは、ドナルド・キーン氏の随筆やNHKの特集番組でも紹介されており、既知の事実。
 
「日本軍は囚われたら自決することになっていたから、日本軍兵士は日記をつけ、捕虜となったらいかに返答するかも教えられていなかった。」
これは、原発安全神話と同じだ。最近、田辺文也氏の放送大学の特別講義「未来への教訓 検証・福島第一原発事故」を見て、思い出した。原発は安全だから事故を想定しての安全訓練はしないという発想と同じだ。
 
「戦後の高度成長期に、日本は戦前のような自己満足に浸っていなかったかを思わずにいられなかった。」
戦後の高度成長期どころか現在の日本でも現状に自己満足する人が多い。「日本はすごい、日本の技術が一番だ、日本独自の技術でいい、海外に学ぶ必要はない」という人が多い。批判すると、日本バッシング、とか自虐とか騒ぐ。
 
グローバルな経済競争をするには世界標準の技術を知りマスターすることが必要だ。
日本だけでしか通用しない技術方式でいいと言っていたら、結局は中国や韓国の家電製品を使わねばならなくなる破目に陥る。私は安全・安心・安価な世界標準の日本製品を使いたい。
だから、「日本を世界に開き、日本人自身が自己を世界的視点で見る」ことは是非とも必要なのだ。中国や韓国に勝つ国力を持つためには、内弁慶ではだめなのだ。
 

あきれる名古屋市の文化行政 名古屋ボストン美術館跡地問題

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018108日付け中日新聞 「夢は描けたか 閉館 名古屋ボストン」下 宙に浮く跡地
 
記事を読んであきれた。名古屋はバカにされても仕方がない。
文化不毛の地を象徴する出来事だ。
名古屋ボストン美術館の跡地はビルの35階部分に相当しているが、建築基準法の特例により、商業施設への転用ができず、展示施設として用途しかない、ということを今年の3月に名古屋市がようやく把握したというのだ。
 
9月上旬の記者会見で、ビルの家主である名古屋市の河村市長は「責任は誰もとらんでしょう」と他人事のように笑い飛ばした、という。誘致をした名古屋財界は跡地利用に無関心。
 
美術館が入居する建物を所有する名古屋市は跡地利用を模索しているが、美術館以外に用途変更できないなど課題があり、新たな事業者の公募が遅れている。
 
2018/6/26日本経済新聞。
名古屋市は26日の市議会で、10月に閉館予定の名古屋ボストン美術館(同市中区)の跡地利用の提案募集を7月末に始める方針を示した。公募条件の説明会や現地見学会も開催して国内外の民間事業者から募集。有識者の協議を経て、年内にも事業者を選びたい考え。
 
同美術館は金山駅前の「金山南ビル」35階に入居する。展示施設でない用途には数十億円規模の工事が必要で、市は美術館や博物館としての跡地利用を想定している。ただ市が2月に中部地域の事業者98社にアンケートしたところ、こうした利用希望はなかった。
 
同美術館は1999年にオープン。名古屋国際芸術文化交流財団が運営し、米ボストン美術館から借り受けた絵画などを展示してきた。入場者の低迷で赤字が続き、2016年に閉館を決定。市は同館にこれまで約62億円を拠出したが、30億円以上が回収できない見通しという。
 
200389日付12面『朝日新聞(夕刊)』。
美術館運営・管理学の岩淵潤子は、朝日新聞の取材に応じ、名古屋ボストン美術館の姿勢を批判して次のように述べた。「美術館は入場料収入だけで賄える施設ではありません。開館時すでに不況で、これほど不平等な契約では赤字拡大は予測できたはず。美術館は一度つくったら続ける義務があるとの考えが無かったのかと疑いたくなります」。
学芸部の廃止については、「運営する財団がハコさえあればいいと表明したわけで、美術館は学芸員がつくるものだという発想が無い。施設の根幹に関わる問題です」と述べた。「名古屋ボストン美術館閉館へ 文化資源生かす観客育たず-静岡文化芸術大・岩淵潤子助教授に聞く」
 
 
文化行政については、愛知県・名古屋市はまったく後進地区。
生産性がないからと考えて、人もカネも使わない土地柄。
私は35年ほど前からそうではないと主張してきたのだが。
当時、北村想、なぞなぞ商会、センチメンタル・シティ・ロマンスを例に挙げて、もっと活用して育てろと主張したのだが、大金で芸文センターなどという箱ものを作ってカネを費消してしまった。
現在でも、美術・音楽・演劇で育てるような人材はいるのではないか。具体的には知らないが。
 
跡地は現代美術でもなんなり美術展の会場でいい。トリエンナーレの優秀作品のパーマネント展示会場でもいいではないか。赤瀬川原平記念現代美術館とか。
名古屋市美術館・愛知県美術館の収蔵品で常設展示していない作品などいくらでも展示できるはずだ。
高額な展示ケースを無料で払い下げたという記事もあったが、返してもらえ。

70年代の名曲 シカゴ 「長い夜」「Questions 67 & 68」いったい現実を把握している者はいるだろうか」「サタディ・イン・ザ・パーク」 

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シカゴChicago1967年にロバート・ラムらによって結成されたバンドを前身とし、翌年にシカゴ・トランジット・オーソリティに改名し、69年に2枚組アルバムでデビュー。シカゴと再改名した70年には「長い夜」が大ヒットを記録し、ブラス・ロックの代表格として人気を確立。その後も幾多のメンバー・チェンジやサウンドのAOR/ポップ化を経ながら、82年の「素直になれなくて」などのヒットを放ち、今も現役で活動を続けている
 
ブラス・ロック(brass rock)はロックのジャンルの一つで、ロックのアレンジを基調とし、ジャズの要素を加味してトランペットやトロンボーンなどの金管楽器(ブラス)を前面に押し出した音楽性が特徴。1960年代後半から1970年代前半に流行した。シカゴはブラッド・スウェット・アンド・ティアーズBSTと並ぶ代表格の存在で、チェイスが二者に続く存在、バッキンガムズはブラス・ロックではない。
 
主要メンバーはロバート・ラム(Vo,Key)、テリー・キャス(Vo,G)、ジェイムズ・パンコウ(Tb)、ピーター・セテラ(Vo,Bass)
 
深夜寝ながら、深夜のラジオから流れる「25 Or 6 To 4(長い夜)」、「Questions 67 & 68」、「いったい現実を把握している者はいるだろうか」を聴いていた。長尺の曲が多かったので、深夜の特集で流れることが多かった。
「サタディ・イン・ザ・パーク」(1972年)は、日曜日の午後になると、ラジオからよく流れた曲だった。
 
25 or 6 to 4」(長い夜)。ロバート・ラムがシカゴのために書いた曲である。2枚目のアルバム『シカゴ』(1970年)向けに録音され、ピーター・セテラがリード・ボーカルを務めた。6月にシングルとして発売され、アメリカのビルボードで4位と大ヒットし、9月までトップ10圏内にあった。日本でも、ほぼ同時にヒットした。

疾走感、ドライブ感、緊張感あふれる楽曲。冒頭のギター・リフがキャッチーだった。ピーター・セテラの2度目の「25 or 6 to 4」の4の絞り出すような声に、今まで聴いたことのない快感を覚えた。ワウワウペダルを利用したギター・ソロも当時では秀逸だった。
曲名は「午前4時の256分前」で、ドラッグの分量などいう深い意味はない。
 
Questions 67 & 68」。ロバート・ラムの曲。1969年のデビュー・シングル。「長い夜」のヒットにより、短く編集されて19719月に再発され、キャッシュボックスで13位。1971年、日本語バージョンが発売されたが、記憶がない。1967年から1968年にかけて、ロバート・ラムがつきあっていた女性との間のことが内容。
 
Does Anybody Really Know What Time It Is?(いったい現実を把握している者はいるだろうか)」。
ロバート・ラムの曲。1969年のデビュー・アルバム収録。197010月シングル化。
 
歌詞の後半に、誰もが時間を忘れて、走りまわっているという表現がある。
And I was walking down the street one day
Being pushed and shoved by people trying tobeat the clock, oh, no I just don't know
I don't know  And I said, yes I said
 
People runnin' everywhere   
Don't know where to go
Don't know where I am
Can't see past the next step
Don't have time to think past the last mile
Have no time to look around
Just run around, run around and think why
 
Does anybody really know what time it is
Does anybody really care
If so I can't imagine why
We've all got time enough to cry
 
Saturday in the Parkサタディ・イン・ザ・パーク」(1972年)。ロバート・ラムの楽曲。
ロバート・ラムがピアノとリード・ボーカル、ピーター・セテラがベースとバッキング・ボーカル担当。。
ベトナム戦争当時、シカゴはアメリカン・リベラルの有名バンドであり、それゆえに反戦的な意味合いも持っている曲である。ビルボード8位、キャッシュ・ボックス3位。
シカゴのメンバー、ウォルター・パラゼイダーによると、ラムは197174日、ニューヨークにおけるレコーディング中にこの曲を書く気になったという。
 
初期のシカゴに学生っぽい曲が多いのは、当然ながら1968年のシカゴ民主党大会の騒乱事件のためだ。ステューデントパワーが国政に異議を唱えた象徴が都市としてのシカゴとなり、CSN&Yのグラハム・ナッシュの名作「Chicago」(1971年)などを生んだ。

80年代の名曲 シカゴ 「Hard to Say I'm Sorry 素直になれなくて」

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シカゴChicago  「Hard to Say I'm Sorry 素直になれなくて」
 
「素直になれなくて」(Hard to Say I'm Sorry)は、アメリカのロックバンドであるシカゴが1982年に発表した楽曲で、代表曲のひとつ。

シカゴ1969年に2枚組アルバムでデビュー。1970年に「長い夜」が大ヒットを記録し、ブラス・ロックの代表格として人気を確立した。

1970年代後半からはAOR路線を歩むようになり、1980年代に入って、デイヴィッド・フォスターをプロデューサーに迎えて復活した。以後は1982年の「Hard to Say I'm Sorry(素直になれなくて)」(1982年ビルボード年間12位)など、ラブ・バラード路線のヒットを出した。
 
Hard to Say I'm Sorry」はバンドメンバーのピーター・セテラとプロデューサーのデイヴィッド・フォスターが制作した。同年、全米1位。日本でもオリコン洋楽シングルチャートで198211月に1位を獲得した
 
この曲は、シカゴがホーン・セクションを中心にしたソフトロックスタイルから大きな転換をみせた曲である。ホーンは最小限に抑えられ、その代わりに1980年代の流行であるシンセサイザーと、重く歪んだエレキ・ギターが中心となっている。

シカゴのメンバーからは、リードボーカルとベースのピーター・セテラとドラムのダニー・セラフィンが参加し、ピアノはプロデューサーのデイヴィッド・フォスター、敏腕セッションマンとして知られるTOTOのデヴィッド・ペイチとスティーヴ・ポーカロがキーボード、スティーヴ・ルカサーがギターを演奏している。
 
デイヴィッド・フォスターはカナダ人の作曲家・プロデューサーで、数多くの楽曲を作曲し、グラミー賞を15回受賞している。日本の歌手にも楽曲を提供しており、松田聖子の「抱いて…」(1988年)の作曲者でもある。
 
ピーター・セテラは1985年にシカゴを脱退し、ソロになった。2016年シカゴがロックの殿堂入りするときの記念演奏に、セテラが加わる動きもあったが、ボーカルの扱いで意見が分かれて実現しなかった。

ベストヒットUSAを見ていたら、いきなりこの曲が登場し、これがあのシカゴかと驚いた記憶がある。

80年代の名曲 シーナ・イーストン 「モダンガール Modern Girl」

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シーナ・イーストンSheena Easton Modern Girlモダンガール
 
シーナ・イーストン(Sheena Easton, 1959年~)は、イギリス・スコットランド出身のポップ歌手。透明感のある歌声が特徴的。19802月にイギリス・EMIから「モダン・ガール(Modern Girl)」でデビュー。
 
10代の頃バーブラ・ストライサンドに興味を持ち、スターとなるため、グラスゴーのロイヤル・スコティッシュ・アカデミー・オブ・ミュージック・アンド・ドラマ(現:ロイヤル・コンセルバトワール・オブ・スコットランドで学んだ。
 
BBCの『Big Time』というドキュメンタリー番組がシーナのEMIレコードのオーディションから楽曲制作までに密着。そこでできたデビュー曲が「ModernGirl」である。ドキュメンタリーが大きなプロモーションとなり、彼女の華々しいアーティスト生活がスタートした。
Modern Girl」は初発はUK56位だったが、19808月に再発されUK8位。「モーニング・トレイン」が米1位となったのち、米で2枚目のシングルとして19815月に発売され、7月に18位。
 
2作目『9 To 5 (モーニング・トレイン)(Morning Train (Nine to Five))』が、アメリカでのデビューシングルとなり、19815月に1位を獲得した。米1位はイギリスの女性歌手ではペトゥラ・クラーク、ルルについで3人目。
同年には『007 ユア・アイズ・オンリー』の主題歌「For Your Eyes Only」を歌い、米4位のヒット。
 
Modern Girl」はディスコ調のシンセポップとされる。
クリアーなハイトーンボイスで歯切れのよい歌い方がいい。中間のシンセソロも洒落ている。その直後の「She's been dreaming 'bout him all day long」の部分の切換えが効いている。
 
日本で紹介されたのが、「モーニング・トレイン」と「モダンガール」のどちらが先なのかは知らない。シングルにデビューと書いてあるので、日本でもこの曲が先だったようだ。
日本では、「モダンガール」の方が大ヒットしたことは間違いないし、彼女の代表曲といえばこの曲しかない。
「モーニング・トレイン」も「ユア・アイズ・オンリー」も当時聴いたことがあるし、今回改めて聴いてみたが、陳腐なメロディは私の好みではない。後年のプリンスやケニー・ロジャースとのデュエット曲もたいした曲ではない。
 
「モダンガール」がラジオで流れたとき、シーナ・イーストンは音楽学校出身の優秀な学生だと紹介されたことは覚えている。音楽学校だからクラシックかと思って、ポピュラー歌手としてはどうかと思った。
ロイヤル・スコティッシュ・アカデミー・オブ・ミュージック・アンド・ドラマは伝統校ではあるがクラシック専門ではないようなので、危惧だったようだ。しかし、ロックやブルースには向いていないだろうとは思う。
女性の容姿として、私の好みとしては短髪は好きではないので、その点でも評価が低かった。
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