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Channel: いちご畑よ永遠に
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80年代の名曲 ドリー・パートン 「 ナイン トゥー ファイブ 9 to 5」「ジョリーンJolene」

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Dolly parton  9 to 5
 
Tumble outta bed and I stumble to thekitchen
Pour myself a cup of ambition
Yawn and stretch and try to come to life
Jump in the shower and the blood startspumpin'
Out on the street the traffic startsjumpin'
With folks like me on the job from 9 to 5
 
Workin' 9 to 5, what a way to make a livin'
Barely gettin' by, it's all takin' and no givin'
They just use your mind and they never giveyou credit
It's enough to drive you crazy if you letit
9 to 5, for service and devotion
You would think that I would deserve a fatpromotion
Want to move ahead but the boss won't seemto let me
I swear sometimes that man is out to getme!
 
ドリー・パートン(Dolly Parton, 1946年~)はカントリー・ミュージックではクイーンとよばれる女性歌手で、シンガーソング・ライター、女優である。
1999年カントリー・ミュージックの殿堂入り。
これまで3000曲以上を作曲した。なかでも「オールウェイズ・ラヴ・ユー」、「Jolene」、「9 to 5」がよく知られている。
女優として「9時から5時まで」、「マグノリアの花たち」などに出演した。
パートンの巨乳に関するイメージから、1996年、大人の雌羊の乳腺から採取された細胞からできた初めてのクローン羊がパートンの名にあやかりドリーと名付けられた。
 
1970年代にカントリー・ポップというジャンルから、グレン・キャンベル、ボビー・ジェントリー、ジョン・デンバーなどのポップ歌手がヒットを生み出した。
1960年代後期からカントリーで高い成功をおさめていたドリー・パートンも、1973年の「ジョリーンJolene」、1974年の「オールウェイズ・ラヴ・ユー I Will Always Love You」などドリー・パートンの自作自演した楽曲によりカントリーチャートで1位となり、その後ポップスのスタンダードとなる名曲をヒットさせた。
「ジョリーン」は1976年オリヴィア・ニュートン・ジョンのカヴァーが日本で大ヒットした。
「オールウェイズ・ラヴ・ユー」は1992年にホイットニー・ヒューストンがカヴァーし、映画「ボディガード」の主題歌として使用され、ビルボードで14週第1位を獲得した。
 
9 to 5 ナイン トゥー ファイブ」は映画「9時から5時まで」(1980) のテーマ曲で、ドリー・パートンの自作自演曲。19811月カントリーのチャートで1位、2月にポップ・チャートとアダルト・コンテンポラリー・チャートでも1位を獲得し、トリプル・ナンバー・ワン・ヒットとなった。
パートンはカントリーとポップ・ミュージックの双方同時に第1位を獲得した数少ない女性カントリー歌手の一人となった。
 
映画「9時から5時まで」はコメディ映画で、ジェーン・フォンダ、リリー・トムリンと共に主演し、パートンは秘書役を演じた。日本では19815月に公開。
映画「9時から5時まで」は初週390万ドルをあげて興行収入で成功し、世界中で1300万ドルをあげた。1981年と1982年、この映画の成功によりパートンは「モーション・ピクチャー・ヘラルド」により興行収入スター女優に選ばれた。
1982年、グラミー賞においてカントリー楽曲賞、女性カントリー・ヴォーカル賞を受賞した。
2004年、この曲はアメリカン・フィルム・インスティチュートによる『アメリカ映画主題歌ベスト100』で第78位に選ばれた。
映画撮影中、パートンは長い付け爪でタイプライターを打つ音を使用することを思いついた。パートンは撮影セットで爪を鳴らしてビートを作りながら作曲した。
 
「ジョリーン」は、オリヴィア・ニュートン・ジョンのカヴァーの方がなじみがある。パートン本人のバージョンも当時聴いたような記憶があるが印象は薄い。曲調はたしかにカントリーだがポップ的でもある。
「オールウェイズ・ラヴ・ユー」のドリー・パートン版はいかにも女性カントリー歌手の歌でゆったりして甘い曲調で好きになれない。やはり、ホイットニー・ヒューストン版の方がアレンジが良い。
 
9 to 5 ナイン トゥー ファイブ」は封切りで映画館で見た記憶がある。当時から話題の映画だった。内容も面白かった。この曲は映画とともに聴かないと味わいがないかもしれない。
カントリー調ではなく完全にポップ調の曲なので万人向けだと思う。
 
「歌え!ロレッタ愛のために( Coal Miner's Daughter)」は、1980年のアメリカ映画で、女性カントリー歌手ロレッタ・リンの半生を描いた伝記映画で、シシー・スペイセクが主演した。日本では19816月に公開され、映画館で見た。
なかなか感動的な映画で女性カントリーシンガーの地方ツアーの日常がよく描かれていた。
カントリー・ロックが好きであれば、ロック・ポップ寄りのカントリーは聴ける。
日本ではカントリーが好きな人は少ないので、ドリー・パートンを知る人も少ないとは思う。

80年代の名曲 イエス 「Owner of a Lonely Heart」 

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Yes  Owner of a LonelyHeart 
 
イエス (Yes) は、イギリスのロックバンド。1969年にデビュー。代表的なアルバムに「こわれもの - Fragile 1971年)」、「危機 - Close to the Edge 1972年)」、「ロンリー・ハート - 901251983年)」がある。 1985年度『グラミー賞』受賞。2017年『ロックの殿堂』入り。
1970年代はプログレッシブ・ロックバンドとして、スティーブ・ハウ (ギター)やリック・ウェイクマン(キーボード)を中心に活躍した。この二人は2010年代までイエスへ加入と脱退を繰り返した。
1980年に一時的に解散状態となる。

1982年ごろ、クリス・スクワイア(ベース)とアラン・ホワイト(ドラムス)が南アフリカ出身のシンガーソングライターであるトレヴァー・ラビン(ヴォーカル、ギター)とオリジナルメンバーのトニー・ケイ(キーボード)を加えて、「シネマ」というバンドを結成し、イエスのボーカルであったトレヴァー・ホーンがプロデューサーとなって、のちに「90125」となるアルバムの制作を開始した。
より商業的でポップ的な傾向をめざし、トレヴァー・ラビンの手持ちの数曲が採用された。そのうちの1曲が「Owner of a Lonely Heart」であった。
制作中にイエスのボーカルのジョン・アンダーソンが加わったため、バンド名をイエスとして復活させた。

アルバム「90125」は198311月にリリ-スされ、10月にシングル・カットされた「 Owner of a Lonely Heart」はアメリカをはじめ多くの国で1位を獲得し、イエスは再結成によって最大の成功を手にした。
90125」はポップでモダンなロックに仕上がっており、歌詞も複雑で抽象的なものではなくなっている。その象徴的な楽曲が、アルバムの日本語題にもなっている「ロンリー・ハート」である。「90125」という数字は、ただの発売当時のレコードの品番であり、深い意味はない。
メンバーは、ジョン・アンダーソン(ヴォーカル)、クリス・スクワイア(ベース)、トレヴァー・ラビン(ヴォーカル、ギター)、アラン・ホワイト(ドラムス)、トニー・ケイ(キーボード)の5人。
 
Owner of a Lonely Heart」は198310月にリリースされ、19841月に米1位のヒットとなった。
この曲ではプロデューサーのトレヴァー・ホーンの存在が大きく、彼の手によるサンプリングやリバーヴの処理が曲の持ち味に貢献している。この曲は、現在のところイエス唯一の全米1位の獲得作品である。
 
原曲はトレヴァー・ラビンがロンドンに住んでいた1979年に制作された。その後、数年間デモテープをレコード会社に持ち込んだが奇妙なサウンドだと言われ断られ続けた。19831月に新アルバムを制作中のイエス(当時シネマ)に加入して、曲の採用が決まった。
トレバー・ホーンはラビンのアメリカンロック傾向の歌詩は嫌いだったが、イントロのパワフルさとメインリフへの移行へのジャンプ感と力強いサビにヒット曲への予兆を感じた。

イエスのメンバーは気が進まなかったが、ヒット曲が必要だったので、ホーンとスクワイアが曲と歌詩に修正を加えて収録することになった。
ラビンはサウンドのレベルにラウドネスを強調することを求めた。ホーンが付け加えたのは"Move yourself, you always live your life..."など歌詩全体の15%であった。
ラビンはヘビーなドラム音を望んだが、ホーンの意向でポリスのステュワート・コープランドのような音に落ち着いた。また、ジャズ・ソウルバンド「ファンク」の「Kool  is Back」がドラム・ブレイダウンに使われた。
19834月、ジョン・アンダーソンがボーカルとして加わると、一部の歌詞を"Watch it now, the eagle in the sky"と修正した。
トレバー・ホーンはこの曲を彼の経歴の中でも最高の出来の曲の一つとしている。
 
イエス旧メンバーのスティーブ・ハウ (ギター)などが1982年にエイジアとしてデビューした。プログレッシブ・ロックのエッセンスをポップスとしてアレンジした楽曲を発表した。「Heat Of the Moment」が代表曲だが、イエスの「Owner ofa Lonely Heart」の方が、段違いに優れている。
 
プログレが流行した1972年から76年ごろは、ジャズを中心に聴いていた。ラジオでロックなどを聴いていたので、イエスも知っているが、エマーソン・レイク・パーマーと同じクラシック音楽寄りのバンドなので好みではなかった。曲も長いのでラジオで放送されることも少なかった。スティーブ・ハウ (ギター)やリック・ウェイクマン(キーボード)は人気があり、名前程度は知っていた。
 
1971年の代表曲「Roundabout」を聴いてみたが、スティーブ・ハウのギターは秀逸。ただ、曲の構成がまずく、前半の疾走感が途中で止められ、クラシック鑑賞の気分にさせられて興ざめしてしまった。酷評すれば、魂の抜けた無機質な音楽。

80・70年代の名曲 スティーヴィー・ワンダー 「I Just Called to Say I Love You」「Parttime lover」「You Are the Sunshine of My

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スティーヴィー・ワンダーStevie Wonder1950年~)は、歌手、作曲家、音楽プロデューサー。

未熟児網膜症だが、全盲ではないという。11歳の時にモータウンのTamlaレーベルと契約して「リトル・スティーヴィー・ワンダー」と名乗って以来、現在までモータウン一筋に活動する。
30曲以上のU.S.トップ10ヒットを放ち、計22部門でグラミー賞を受賞、最も受賞回数の多い男性ソロ・シンガーである。
 
1960年代はR&Bチャートで数曲が1位になったが、ポップ部門では1位の曲はなかった。
1970年代からはモータウン・ポップからの脱却と新しい音楽スタイルを模索した。
197211月にリーリースした「Superstition」が19731月に初めてビルボード1位のヒットとなった。
その後、「You Are the Sunshine of My Life」(19735月)、「Sir Duke」(19775月)など5曲が1位となった。シングル化されていないが「Isn't She Lovely(可愛いアイシャ)」(1976年)は日本ではCMに使われる名曲である。


1982
年ポール・マッカートニーの作品「エボニー・アンド・アイボリー(Ebony and Ivory)」で共演し、久し振りに1位となった。

I Just Called to Say I Love You」は1984101位となり、大ヒットした。映画「ウーマン・イン・レッド」のサントラとなった曲だが、もともと1979年に日本のデュオブレッド&バターへ提供した曲という。
Parttime lover」は198511月に1位となった。ロック調のテンポの速い曲である。この曲以降1位となった曲はない。
 
スティーヴィー・ワンダーは60年代遅くから名前は知っていたが、印象に残る曲はなかった。
1972年の「Superstition」からラジオで頻繁にかかるようになった。迷信という英単語を記憶できてうれしかった覚えがある。本来はジェフ・ベックに提供した曲で、ベック・ボガート& アピスのバージョンをyoutubeで見たが、R&B色の濃さが目立つ。ボガートのボーカルはさすがだが、ベックのギターソロは今となれば凡庸。
 
スティーヴィー・ワンダーの本領はスローからミドルテンポの楽曲にある。
音楽的天才とはこの人のことだろう。笑顔で楽しく歌う姿にも好感がもてる。暖かく包み込んでくれるような声質も素晴らしい。
しかし、これまでに5人の女性との間に9人の子供を儲けているとは、どういう人物なのだろうか。

80年代の名曲 アハ 「Take On Me」

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A-ha  Take On Me
 
アハA-haは、ノルウェー出身の3人組シンセポップバンド。
1982年にモートン・ハルケット(ボーカル)、ポール・ワークター=サヴォイ(ギター)、マグネ・フルホルメン(キーボード、ギター)の3人によりオスロで結成された。
198510月に全米1位となった「テイク・オン・ミー(Take On Me)」の世界的な大ヒットで知られる。。
 
Take On Me 」。作詞・作曲はメンバー3人。
1981年ごろ前身のバンドで中心のリフなどの原曲が作られたのち、ボーカルのハルケットが加わり、19831月に最初のバージョンが完成した。ロンドンとオスロを往復しながら、何度もレコーディングを繰り返してレコード発売に至ったが、イギリスではヒットしなかった。
ワーナーと契約後に最新のシンセを利用してレコーディングをし直したのち、アメリカのワーナーがPVを制作し、アメリカ国内で強力にプッシュし、大ヒットに至った。
 
曲は軽快なイントロのシンセリフとファルセットによる高低のメリハリをつけたキャッチーなメロディーのボーカルが特徴。
 
ロトスコープによるスケッチ風アニメと実写とを巧みに合成した当時としては斬新なミュージックビデオの効果も手伝って、全世界的なヒットとなった。1986年のMTV Video Music Awardsでは6部門を受賞した。
ロトスコープとは、モデルの動きをカメラで撮影し、それをトレースしてアニメーションにする手法で、このPVでは3000枚のペンシル画が作成され、編集には16週間を要した。
これだけ凝った映像を造られると、ストーリーを追うことにに目が行って、音楽は単なる伴奏のように聴こえてしまうものか。

ビデオはロンドンのカフェなどで撮影された。ヒロインを演じたバンティー・ベイリー(1964~)はイギリス人のモデル・ダンサー・女優で、当時モートン・ハルケットのガールフレンドだった。彼女は丸顔のブロンド美人で飽きのこない愛嬌のある顔立ちが魅力的だった。
 
続編の「The Sun Always  Shines on T.V.」や「The Living Daylights」(1987年)は一定の水準にはあるが、ポップ性に欠ける曲だった。

フレンチ・ポップスの名曲 イブ・デュテイユ 「子供を抱いて Prendre un enfant」

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イブ・デュテイユYves Duteil  Prendre un enfant 子供を抱いて
  
Prendre un enfant par la main                    子供と手をとる
Pour l'emmener vers demain                        明日へと連れて行くため
Pour lui donner la confiance en son pas      子供の歩みを支えてあげるため
Prendre un enfant pour un roi                      子供を王様のように扱う
Prendre un enfant dans ses bras                  子供を胸に抱きしめる
Et pour la premire fois                                  そして初めて
Sécher ses larmes en étouffant de joie         喜びにむせながら、涙を拭いてあげる
Prendre un enfant dans ses bras                 子供を胸に抱きしめる

Prendre un enfant par le coeur                    子供を心から受けとめる  
Pour soulager ses malheurs                          悲しみを和らげてあげるため
Tout doucement sans parler, sans pudeur     そっと何も言わずに恥ずかしがらず
Prendre un enfant sur son coeur                  子供を心に抱きとめる
Prendre un enfant dans ses bras                  子供を胸に抱きしめる   

Mais pourla premire fois                                けれど初めて

Verser des larmes en touffant sa joie            喜びを抑えながら、涙を流す
Prendre un enfant contre soi                    子供をひしと抱きしめる

Prendre un enfant par la main                     子供の手をとる
Et lui chanter des refrains                            そして歌ってあげる
Pour qu'il s'endorme la tombe du jour          日暮れが来たとき、眠れるように
Prendre un enfant par l'amour                     子供を愛で受けとめる
Prendre unenfant comme il vient                  子供をありのままに受けとめる
Et consoler ses chagrins                                そして悲しみを癒してあげる
Vivre sa vie des années, puis soudain            何年も生きて、そして突然
Prendre un enfant par la main                      子供の手をとる
En regardant tout au bout du chemin           道のかなたを見つめながら
Prendre un enfant pour le sien                      この子は自分の子供だと思う
 

Prendre un enfant子供を抱いて」はフランス人ソングライターのイヴ・デュテイユ1977年の作品。
1982年に独・仏・伊へ個人旅行しようと、1981年ごろからNHKのフランス語講座をテレビ・ラジオで視聴していたときに聴いて、忘れられない曲となった3曲のうちの一つ。当時、デュテイユが子供たちとこの曲を歌うビデオを見た記憶があるが定かではない。
 
ほかの2曲。
ケベック発祥の民謡・童謡「À LA CLAIRE FONTAINE」。
フランソワーズ・アルディの「 J'écoute de la musiquesaoule」。
当然ながらダニエル・ビダルの「オー・シャンゼリゼaux Champs-Élysées」も紹介されていたが、最近、原曲がイギリスのロックバンドの曲と知った。
 
イヴ・デュテイユは1949年にパリ西部近郊の都市ヌイイ=シュル=セーヌで生まれた。1972年デビュー。2018年に15作目のアルバムを発表し、依然現役の歌手として活躍している。1989年から2014年までパリ郊外の小村の村長を務めていた。
アメリカのフォーク調の歌と評されることが多い。ポップスというよりシャンソンに近いともいえる。
 
1977年のアルバム「Latarentelleタランテラ」は120万枚の大ヒットとなった。このアルバムには、彼の代表作である「Prendre un enfant(子供を抱いて)」や「Lepays des mots d'amour(愛の言葉の国)」が収録されている。
 
Prendre un enfant(子供を抱いて)」は1978年にシングル化され、代表作の一つとなった。
この曲は1988年にレコード発明100周年を記念してSACEM(フランス音楽著作権協会)などが行ったアンケートで、世紀のシャンソン曲のなかで1位に選ばれた。
デュテイユが再婚した妻の娘をモチーフにした歌で、デュテイユにとって実の子どもではなかった娘を、ある日、本当に自分の子供として実感した時の感動を歌ったものという。
 
Le pays des mots d'amour(愛の言葉の国)」はキリンビール「ハニーブラウン」のCMソングに採用された。
ハニーブラウンは2003年から 20051月まで販売された。

80年代の名曲 ネーナ 「99 Luftballons (ロックバルーンは99)」

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ネーナ Nena  99 Luftballons ロックバルーンは99

Hast duetwas Zeit für mich?

 Dann singe ich einLied für dich

 Von neunundneunzig Luftballons
 Auf ihrem Weg zum Horizont
 Denkst du vielleicht grad an mich?

 Dann singe ich einLied für dich

 Vonneunundneunzig Luftballons

 Unddass sowas von sowas kommt

 
Neunundneunzig Luftballons

 Aufihrem Weg zum Horizont

 Hielt man für Ufos aus dem All
 Darum schickte ein General

 'neFliegerstaffel hinterher

 Alarm zu geben, wenn's so wär
 Dabei war'n dort am Horizont

 Nurneunundneunzig Luftballons

 
Neunundneunzig Düsenflieger
 Jeder war ein großer Krieger
 Hielten sich für Captain Kirk

 Dasgab ein großes Feuerwerk

 DieNachbarn haben nichts gerafft

 Undfühlten sich gleich angemacht

 Dabei schoss man am Horizont

 Aufneunundneunzig Luftballons

 
Neunundneunzig Kriegsminister
 Streichholz und Benzinkanister
 Hielten sich für schlaue Leute
 Witterten schon fette Beute
 Riefen: "Krieg!" und wollten Macht
 Mann, wer hätte das gedacht

 Dasses einmal so weit kommt

 Wegen neunundneunzig Luftballons
 Wegen neunundneunzig Luftballons
 Neunundneunzig Luftballons
 

Neunundneunzigjahre Krieg

 Ließen keinen Platz für Sieger

 Kriegsminister gibt'snicht mehr

 Undauch keine Düsenflieger

 Heute zieh ich meine Runden

 Sehdie Welt in Trümmern liegen

 Hab 'n Luftballon gefunden

 Denkan dich und lass ihn fliegen


 
ネーナNenaはドイツのロックバンド。1982年に結成され、1987年に解散した。ボーカルのネーナ(本名ガブリエレ・ズザンネ・ケルナー 1960年~)とバンド名は同じ。

1983年に発表した代表曲「99Luftballons(ロックバルーンは99)」の世界的ヒットで知られる

 
「ネーナ」は彼女が3歳のころ家族の休暇先であったスペインのマジョルカ島で滞在したときに、カタルーニャ語で「小さな女の子」を意味する「ニーニャ」から、周囲に「ネーナ」の愛称で呼ばれたことから。
 
ネーナはハーゲンのギムナジウムに通っていたが17歳で中退し、手に職をつけるために両親の勧めで金細工の技術を習う。197711月にハーゲンのディスコでギタリストのライナー・キッツマンと知り合い、そのバンドThe Stripesのヴォーカルに誘われたのが彼女の音楽活動の始まりだった。1979年に最初のシングルを出したが、1981年にバンドは解散。
ネーナは当時の伴侶であるThe Stripesの元ドラマー、ロルフ・ブレンデルとともに西ベルリンに移る。二人はそこで知り合ったキーボードのウヴェ・ファーレンクローク=ペーターゼン、ベーシストのユルゲン・デーメル、ギタリストのカルロ・カルゲスと共にロックバンド「ネーナ」を結成し、1982年に最初のシングルを発表。
 
1983年、2枚目のシングル『ロックバルーンは99』を発表。ドイツ国内でヒットチャート1位を獲得するにとどまらず、この曲を偶然聞いたカリフォルニア州のDJの耳にとまってアメリカ西海岸のラジオを通じて大ヒット、19843月アメリカ国内チャート2位、そこから火がついて全世界での大ヒットとなった。日本のオリコン洋楽シングルチャートで19844月に1位を獲得した。
 
この曲はヨーロッパでは反戦歌として定着している。
オリジナルの歌詞はドイツ語で、ドイツ語のポップスが世界でヒットした数少ない例である。
 
ベルリンの壁が崩壊する前の1982年にローリング・ストーンズのコンサートが西ベルリンで開かれた。ネーナのギタリストのカルロ・カルゲスは風船が放たれる地平線へ飛んで行く光景を見た。風船は形を様々に変え、奇妙な飛行物体のように見えた。彼は風船がベルリンの壁を越えて東独側へ飛んでいったら、どんなことが起きるか、ミサイルと間違えられて第3次世界大戦になるかもしれないと想像した。
これが、歌詞のモチーフとなった。
また、1973年にアメリカ、ラスベガスの高校生たちがUFOに似せた100個の風船を峡谷に向かって飛ばした、そのとき1個が紛失して99個になってしまったというという新聞記事ももとになっている。
 
地平線にゆらめく99個の風船が未確認飛行物体に間違えられ、将軍が戦闘機に探索させた。子供の風船にすぎなかったが、パイロットはとりつくろって撃ち落とした。その示威行為が国境で向いあう二つの国の防衛大臣を戦争に走らせた。結局、戦争は第3次世界大戦となって99年に及び、勝者のない災厄を99の国にもたらした。
ネーナは世界大戦の廃墟の中を歩き、一つの風船を見つけて空へ放し、飛んでゆくのを見守る、という歌詞になっている。
 
キャッチーで軽快なボーカルのメロディと印象的な低音のシンセリフがドイツ語にマッチしていた。

80年代の名曲 ベルリン 「Take My Breath Away (愛は吐息のように)」 

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ベルリン (Berlin) は、アメリカのシンセ・ニューウェーブバンド。
1978年、ベース・シンセのジョン・クロフォードらが前身のバンドをカリフォルニア州オレンジ郡で結成した。1979年、女性ボーカルのテリー・ナンが加入。バンド名はドイツの都市名からとっているが、単にヨーロッパ風の名前を付けただけという。
1980年、女優を目指して一時脱退していたテリー・ナンが再加入し、シングルを発売。
1986映画「トップガン」の挿入歌としてサウンド・プロデューサーにイタリアのジョルジオ・モロダーが担当した"Take My Breath Away" (愛は吐息のように) が選ばれ、ケニー・ロギンスの担当した主題歌「デンジャーゾーン」と共に世界的に大ヒットした。
 
Take My Breath Away (愛は吐息のように)」。19869月米1位。
ジョルジオ・モロダー作曲、トム・ウィットロック作詞の共作。1986年のアカデミー賞最優秀歌曲賞およびゴールデングローブ賞最優秀歌曲賞を受賞。
映画ではトム・クルーズとケリー・マクリスのロマッティックな場面に使用された。
ジョルジオ・モロダーは、1984年にジョン・クロフォードが作ったベルリンの楽曲「No More Words」をプロデュースしてヒットさせていた縁があったので、ベルリンを起用することにした。
 

ケニー・ロギンスの「デンジャーゾーン」も大ヒットしたが、「Take MyBreath Away 」は心が癒されるメロディーなのでこの曲の方がエバーグリーンとして愛されている。

名古屋城本丸御殿の重文障壁画「竹林豹虎図」特別展示を見学

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20181017日(水)、名古屋城本丸御殿の重文障壁画「竹林豹虎図」の実物が1022日まで特別展示されているので、4月の参観後、6月に完成公開された本丸御殿の上洛殿・湯殿書院・黒木書院の参観を兼ねて見学した。合せて、西南隅櫓、金シャチ横丁「義直ゾーン」、歩兵第六連隊記念石碑も見学した。
13時ごろに入場し、1530分ごろまで見学した。
 
イメージ 1
名古屋城。天守閣と二之丸広場。
広場では1020日・21日に開催される名古屋まつりでパレードに参加する大型フロート車3台に生花を飾る作業が行われていた。
 
本丸御殿入場口には行列用のロープが長く続いていた。1330分ごろの時間帯は比較的すいていたようで、待たずに入場できたが、20分後に出る時には100人ほどが待たされていた。
 
イメージ 2
本丸御殿。玄関。竹林豹虎図。デジタル複製の説明。
竹林豹虎図には実物(本物)、デジタル複製(実物をデジタルで複製したもの)、復元模写(実物を400年前にさかのぼって模写復元したもの)の3種類があり、通常展示されているものは、復元模写である。
デジタル複製は通常展示されていない。
 
イメージ 3
本丸御殿。玄関。竹林豹虎図。デジタル複製。玄関一之間東側襖絵。左側。
 
イメージ 4
本丸御殿。玄関。竹林豹虎図。デジタル複製。玄関一之間東側襖絵。右側。
 
玄関一之間は虎の間とも呼ばれた本丸御殿の正式な入り口で、藩主に謁見する者が控える場でもあった。
 二室の襖・壁・障子の腰には金地に虎と豹が描かれている。なかでも一之間の襖の「竹林豹虎図」や障子の腰貼付絵「三方正面眠り虎」はよく知られている。
慶長191614)年、狩野派絵師が制作した。同じ「竹林豹虎図」でも一之間東側と二之間西側では作者が違う。
一之間東側襖絵については、若年ながら狩野永徳の孫で狩野家嫡流であった狩野貞信(15971623)の手になるとの説がある。
 
実物は展示ケースに囲まれて展示されているため、光源に反射し、撮影は困難。
 
イメージ 5
玄関一之間東側襖絵。右側。
 
イメージ 6
玄関一之間東側襖絵。左側。
 
イメージ 7
玄関一之間東側襖絵。左側。虎の部分。
 
イメージ 8
玄関二之間西側襖絵、左側。
  
イメージ 9
玄関二之間西側襖絵、左側。虎の部分。
 
イメージ 10
玄関二之間西側襖絵、右側、
 
イメージ 11
玄関二之間西側襖絵、右側、虎の部分。
 
見学客が多くてゆっくり鑑賞はできない。本物が良く保存されていることは分かった。
数年前、市長の河村が、本物をすべて展示しろと言って、顰蹙を買っていた。
天守閣に入れないデメリットがあるので、一時的にせよケース越しで本物を見ることができた。
また、別の場所の襖絵も展示されると思われるので、期待したい。
 
見学済みの表書院・対面所を通過して新規に公開された上洛殿方向へ向かった。

80年代の名曲 ロス・ロボス 「la bannba ラ・バンバ」

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ロス・ロボスLos lobos  「la bannbaラ・バンバ」 1987
 
ロス・ロボスは1974年にロサンゼルスで結成されたロックバンド。メンバーはメキシコ系アメリカ人で、ロックにメキシコ音楽の要素を取り混ぜたサウンドが特徴。「ラ・バンバ」のヒットで知られる。バンド名は、スペイン語で「狼たち」を意味する。
1983年にメジャー・デビュー。メキシコ音楽とロックンロールを混ぜ合わせた今日のサウンドの原点というべきサウンドを聴かせた。
1987年、17歳で夭折したヒスパニックのロックンロールスター、リッチー・ヴァレンスの生涯を描いた映画「ラ★バンバ」の同名主題歌が全米1位となった。ロス・ロボスは、このヒットでヒスパニックのバンドとしては抜群の知名度を獲得した。
 
「ラ・バンバ」の原曲はメキシコ東海岸の港湾都市ベラクルスで300年以上昔から歌われていた民謡で、メキシコ民族音楽とキューバのソンがベラクルスで独自に発展した「ソンハローチョ」とよばれる音楽の一つである。スペインのフラメンコやアフリカ系メキシコ人のリズムなどが取り入れている。
ラ・バンバは、ベラクルスの結婚式でよく演奏され、赤く長いリボンを用いた踊りが踊られていた。
 

Para bailarla Bamba

Para bailarla Bamba

Se necesitauna poca de gracia

Una poca degracia y otra cosita

Y arriba yarriba, Y arriba y arriba

Por tiseré, por ti seré, por ti seré

Yo no soy marinero.  Yo no soy marinero.

Soy capitán.  Soy capitán. Soy capitán.

Bamba, bamba...
ラ・バンバを踊るなら、
ラ・バンバを踊るなら、
上品さはちょっとでいいんだ
ちょっとだけ品がよくって、あとはそうだな、
上へ、上へ、上へ、上へ
君のためなのさ、君のためなのさ、君のためなのさ
僕は水夫じゃないよ、僕は水夫じゃないよ
船長さ、船長さ、船長さ
バンバ、バンバ...
 
「ラ・バンバ」という名前は、スペイン語の動詞 bambolear(「ゆらめく」「よろめく」などの意)によると考えられている。
 
リッチー・ヴァレンスによる1958年の「ラ・バンバ」は、ソンハローチョのものをロックンロール調にアレンジしたもので、初期ロックンロールを代表する曲と言われるほどの大ヒットソングであった。ヴァレンスの死後、全米22位を記録した
リッチー・ヴァレンス(1941年~1959年)は1950年代後半に大ブームを巻き起こしたロックンロールのスターの一人。
1958年にスカウトされて「カム・オン・レッツ・ゴー」でデビュー。続いてセカンド・シングル「ドナ」「ラ・バンバ」をリリースした。
195923日、アイオワ州でのツアー後に搭乗した飛行機が悪天候により同州のトウモロコシ畑に墜落、同乗していたバディ・ホリーらと共に死亡した。17歳没。
 
ロス・ロボスの「ラ・バンバ」は、1987年ヴァレンスの伝記映画『ラ★バンバ』の主題歌として、カバーされた。映画は音楽監督をカルロス・サンタナがマイルズ・グッドマンと共に務めたこと、そしてヴァレンスと同じメキシコ系アメリカ人バンド、ロス・ロボスが音楽を担当したことが話題となった。
19878月ビルボード1位。世界的にも大ヒットした。
数多くある「ラ・バンバ」のカバーの中でビルボードのシングルチャートで1位になったのは、このロス・ロボスのヴァージョンのみである。
 
リッチー・ヴァレンスの「ラ・バンバ」は1960年代の日本でもよく知られていた。GSのスパイダースが「ラ・バンバ」を演奏するときは、堺正章が「番場の忠太郎」と叫ぶのが定番であった。

ロス・ロボスの「ラ・バンバ」は、80年代風に蘇った明快なロックンロールで、力強いギターとボーカルが爽快だった。
 
1980年代後半はメキシコ系ロックスタイルとしてテックス・メックスがアメリカで流行した。テキサス・トルネードーズが有名で、ロス・ロボスやライ・クーダーなどもその影響を受けている。

メキシコ東海岸の港湾都市ベラクルスには、数時間観光したことがあるが、この曲の故郷だとは知らなかった。
ベラクルス メキシコ湾の港市 コルテスの征服基地。
 

80年代の名曲 デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズ 「Come On Eileen カモン・アイリーン」

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キシーズ・ミッドナイト・ランナーズDexys Midnight Runners Come On Eileenカモン・アイリーン
 
デキシーズ・ミッドナイト・ランナーズは1978年に結成されたイギリス・バーミンガム出身のバンド。
リーダーでシンガー・ソングライターのケビン・ローランドのワンマンバンドであり、ローランドと折り合いがつかず50人ほどのメンバーチェンジがあった。毎回つくる音楽、ファッションが違う。
ケビン・ローランドはイギリス生まれだが、両親はアイルランド出身。ローランドが作る楽曲はアイルランドに根差したものが多く、ボーカルは風変りである。
19834月、「カモン・アイリーンCome On Eileen」が全米1位に輝き、代表曲となる。
 
Come On Eileen
この曲はケビン・ローランドとギターのビリー・アダムス、トロンボーンのビッグ・ジミー・パターソンとの共作であり、バンジョーやフィドルを使用したケルティック風のサウンドとなっている。
 
19827月にイギリスで発売され、アメリカでは彼らの初のシングルであった。この曲の前後の1位はマイケル・ジャクソンの「ビリー・ジーン」と「ビート・イット」であった。
 

イントロのフィドルのソロはアイルランド民謡「Believe Me, if AllThose Endearing Young Charms(春の日の花と輝く)」冒頭の1節。

 
ケルト文化が残っていたのは、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、フランスのブルターニュ地方で、アメリカへ移民したものも多く、アメリカのルーツミュージックとなっている。
私の好きなアメリカ南部のケイジャンもその一つの表れであり、フィドルやアコーディオンが特徴的な楽器となっている。
PVではケルトダンスのように下半身だけで踊るスタイルが見られる。音楽の目的としてダンスミュージックというのも特徴である。こういう要素がこの曲に詰まっており、アメリカでヒットしたと思われる。

80年代の名曲 スザンヌ・ヴェガ  「Luka ルカ」

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Suzanne Vega  「Luka ルカ」
 
スザンヌ・ヴェガSuzanne Vega1959年~)は、アメリカのシンガー・ソングライター。
ドイツ・スェーデン系の母親とスコットランド・イングランド・アイルランド系の父親の間にカリフォルニアで生まれる。彼女の出生直後に両親は離婚。2歳のときに母とニューヨークへ移り、スパニッシュ・ハーレムなど多くの社会的問題を抱えた地域で子供時代を送る。Vegaは母が再婚した父の姓。
10代の頃から始めた作詞・文学・演劇を背景に、社会派のアーティストとして非凡な才能を発揮し、数々の賞を獲得している。2008年『グラミー賞』受賞。
 
高校時代はモダンダンスを学ぶ。大学では英文学を専攻しながら、グリニッチビレッジで音楽活動を始めた。
1984年にレコード会社と契約し、1985年にデビューアルバクを発売し、評価を得た。
 
1987年、2ndアルバム『Solitude standing』を発表し、全米でヒットした。
シングルカットした楽曲「Luka」は児童虐待を受ける子供の視点から書かれており、当時のヒットソングとしては、特異な位置を占める。ビルボード3位。
 
Luka」はフォークロック的な曲調。80年代以降でフォーク調の曲がヒットするとは珍しかった。楽曲に力があったということだろう。
スザンヌ・ヴェガが、数年前に住居の近くで遊んでいる子供たちを見かけたときに、「ルカ」という名前の男の子が一人だけ変わっていたことに気を惹かれたということから、ルカの名が歌詞に書かれた。ただ、彼が児童虐待を受けていたかどうかは分からないという。
 
1987年の来日時、テレビに出演し、「ルカ」を歌った。彼女のあまりの色白さに驚いたことが印象に残る。
 
1995年に結婚して一女をもうけ、98年離婚、2006年再婚。
日蓮宗門徒で創価学会員という。

80年代の名曲 プリンス 「 Let's Go Crazy」

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プリンスPrince Let's Go Crazy
 
プリンス(Prince, 1958年~2016421日)は、アメリカのミュージシャン、シンガーソングライター。12作品のプラチナアルバムと30曲のトップ40シングルを生み出し、アルバム・シングルの総売り上げは12000万枚以上になる。数多くのミュージシャンに多大な影響を与えたカリスマ的な存在として知られる。
 
1978年アルバムデビュー。
1982年、アルバム「1999」によりブレイクした。アルバムからシングルカットされた曲が全米チャートで初のトップ10入りを遂げた。同時に MTV ではじめてプロモーションビデオが放映された黒人アーティストとして、マイケル・ジャクソンと共に名を連ねることになった。
 
1984年、自伝的映画「プリンス/パープル・レイン」で映画初主演、サントラアルバムから「When Doves Cry」、「Let's Go Crazy」の2曲がシングルチャートで1位となり、プリンスは全米でのボックスオフィス、アルバムチャート、シングルチャートですべて1位を獲得するという偉業を達成する。
When Doves Cry」は198477日から5週連続1位。「Let's Go Crazy」は19849月に1位。
 
1989年、映画「バットマン」の音楽を担当する。シングル「Batdance」はチャート1位を獲得した
1994年ごろ、ワーナー・ブラザースとの確執によりプリンスは名前を捨て、シンボルのみとしたので、彼の名前を音声で伝えることが不可能になり、「かつてプリンスと呼ばれたアーティスト」とよばれ、話題となった。
2016421日、鎮痛剤の過剰投与により中毒死。
 
ベストヒットUSAでは常連だったので、よく見た。プリンスファミリーでは、シーラ・Eの「グラマラス・ライフ」(1984)も人気があった。
しかし、ファンクが基調のリズムや様式的なダンスは好みではない。
Let's Go Crazy」ぐらいしか楽曲としてさまになっていない。
他人がカバーまたは提供した楽曲であるChaka Khan の「 I Feel For You」1984)Banglesの「 Manic Monday」1985)が名曲であるのに比べてもったいない。

80年代の名曲 バングルス 「Manic Monday」「Eternal Flame 」「A Hazy Shade of Winter」「Walk Like an Egyptian」    

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バングルス(The Bangles)はアメリカの女性ロックバンド。
1980年代に数々のヒットを放った。

1981年にロサンゼルスでスザンナ・ホフス、ヴィッキー、デビーのピーターソン姉妹らが60年代ロックを指向したバンドを結成。
1984年デビュー。デビューアルバムを聴いたプリンスがホフスを気に入り、1986年に「マニック・マンデー (Manic Monday)」を提供。19864月に米英で2位のヒットを記録する。1位はプリンスの「kiss」だった。
次のシングル「Walk Like an Egyptian」が198612月に1位と大ヒットし、若い女性ファンを獲得して一躍スターとなった。
 
このころから、スザンナ・ホフスのリードボーカル曲が増えて、他のメンバーとの軋轢が生まれた。
1987年にはサイモン&ガーファンクルのカバー曲「冬の散歩道 (A Hazy Shade of Winter)」、19894月に米1位となった「Eternal Flame」と立て続けにヒットを飛ばす。しかしこの直後にバンドは活動を停止した。
ホフスはソロ歌手に転向。その後、三人を核に再結成される。
 
バングルズの全盛期は、もちろんベストヒットUSAでリアルタイムに聴いていた。まず、「マニック・マンデー」がヒットした。次に「ウォークライク・エジプシャン」がチャートトップになったのだが、このPVの脳天気な振り付けにうんざりさせられた。
 
しかし、サイモン・ガーファンクルのカバー曲「冬の散歩道 (A Hazy Shadeof Winter)」は、PVも演奏もオリジナルを抜いた出来栄えで感心した。
 
その頃から、黒髪のボーカル・スザンナ・ホフスがこのバンド一番の魅力だなと思いだしたときに出たのが、この「Eternal Flame 」であった。
 
Eternal Flame 」はスザンナ・ホフス、ビリー・スタインバーグ、トム・ケリーの共作。
スザンナ・ホフスの声質はミドルなのだが、しっとり、ねっとりして感情がこもっている。一度聴いたら、忘れられない魔力を持っている。ロック・バラードの永遠に残る名曲に間違いない。頭にこびりついて、何時でも聞きたい歌なのだ。
ビリー・スタインバーグによると、ビートルズとバーズが融合した曲。まさに60年代のポップス。
バングルズがエルビス・プレスリーの墓を訪れたときに、墓前の「EternalFlame」を見た体験、ビリー・スタインバーグが幼少のころ、カリフォルニアのシナゴーグで見た「EternalFlame」を見た体験がもとになっている。
 
you tubeの「ウォークライク・エジプシャン」のライブを見て、この曲はあの振り付けがなければいい曲だったのだと気付いた。
 
you tubeでは解散時の三人の葛藤の裏話が聞けるのは興味深い。
プリンスがスザンナ・ホフスに「マニック・マンデー」を提供した気持ちが分かる気がする。
you tubeではスザンナ・ホフスSusanna Hoffsの容姿と声を礼賛する人が多い。

同年代の女性ロックバンドでも、ツェッペリン指向のハートに対し、ビートルズ指向のバングルズという二つのタイプがあったのは面白い。

「冬の散歩道」のPVはyoutubeでは規制されているようだ。2年前ぐらい前までは、見た記憶がある。そのうちに、またアップされるだろう。
 
2008/4/8() 投稿を追加改変。

80年代の名曲 XTC 「Towers of London」

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XTC - Towers of London
 
XTC (エックス・ティー・シー) は、イギリス・ウィルトシャー州スウィンドン出身のロック・バンド。1972年から2006年まで活動した。
創設メンバーのアンディ・パートリッジ(Andy Partridge 1953年~)は、ボーカル、ギターを主に担当し、バンドのメインソングライター。バンド名はアンディ・パートリッジが「Ecstasy」をもじったもの。
 
パンクやニューウェーブの流れから、ビートルズやビーチ・ボーイズといった英米問わず、オールディーズなポップスや、サイケデリック・ロックなどからの幅広い影響をもとに、その活動を通じてポップミュージックのオルタナティヴな可能性を追求した。独特のポップセンスとこだわりに満ちたアレンジを志向しながらポップス・ロックとしてのフォーマットを損なわない大胆なアプローチは、のちのブリットポップ・ムーヴメントにも大きな影響を与えた。
 
197710月にデビュー、1978年、当時勃興してきたパンク・ムーヴメントのなか、セックス・ピストルズを擁するヴァージン・レコードからデビュー・アルバムを発表。
1979年、唯一の日本公演を行った。当時、まったくの無名だったが、多くの日本のマスコミが駆けつけ、ライブは大盛況だった。
 
1982年にライブ活動を停止してからは実験的ポップバンドになっていった。
 
ムーンライダーズ鈴木慶一との親交は深く、アンディは彼らのアルバム『最後の晩餐』で、MCを務めている。また、当時慶一の妻であった鈴木さえ子の才能を高く評価し、彼女の曲のアレンジ/プロデュースを手掛けた。

パートリッジは家族旅行として、小規模な宣伝もかねて1992年に来日している。
2015年には、日本のファン向けに日本語まじりの曲「Doumo Arigato Gozaimasu」をウェブ上で発表している。
 
Towers of London
アンディ・パートリッジの楽曲。
1980年のアルバム「Black Sea」からのシングル2枚目。英31位。
パートリッジはビートルズの「Rain」をギター音が衝突して鳴り響くように書き換えようとしたという。ジョン・レノンがニューヨークで射殺された翌日の夜に、 XTC はリバプールでビートルズへのトリビュートとして「Towers of London」と「Rain」を演奏した。
 
私が聴いたのは、1981年ごろだろう。FM音源をカセットにして、よく聴いた。XTCはパンクロックと紹介されていたが、楽曲に惹かれた。偶然の出会いだった。
アンディ・パートリッジのビートルズへのオマージュ的な曲とは知らなかった。ビートルズという点で思い当たるのは、この曲もいきなりサビから入っている感である。曲調の転換が小気味よい。まともなロックの名曲となっている。

その他10曲ほどを聴いてみたが、全く好みではない。風変りな曲ばかりだ。一連の曲は後期ビートルズの実験音楽の延長だったかもしれない。
  
2007/3/7投稿を改変。

90年代の名曲 ニルヴァーナ  「Smells Like Teen Spirit」 

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ニルヴァーナNirvanaは、1987年に結成された、アメリカのロックバンド。
1991年に発表された2ndアルバム『NEVERMINDネヴァーマインド』の驚異的な大ヒットにより、全世界にグランジ・ムーヴメントを捲き起こした。
ワシントン州のアバディーンでリードシンガー/ギターのカート・コバーンを中心に結成。

1980年後半のグランジシーンにて存在感を増しつつあったニルヴァーナは、1989年に彼らの最初のアルバムである『ブリーチ - BLEACH - 』をリリースした。バンドのメイン作曲者であったカートは、次第に"静かなヴァースと激しいヘビーなコーラスの繰り返し"というダイナミックな対比という手法を確立していく。
1991年に発表した2ndアルバム「ネヴァーマインドNEVERMIND」全米1位を記録、MTVではシングル「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット Smells Like Teen Spirit - 」がリピートされるなど、当時のアメリカ音楽界に衝撃を与え、ヘヴィメタルから一夜にしてグランジが新たなトレンドとなった。
ニルヴァーナを筆頭に、パール・ジャムやアリス・イン・チェインズ、サウンドガーデンなどのグランジバンドは新たな若者達のヒーローとして祭り上げられた。
 
カートはグランジのもう一つの人気バンドパール・ジャムを批判し対立する一方、本人は成功のプレッシャーからドラッグにのめり込み、自殺未遂や奇行を繰り返していた。最後の40日間でも、ドラッグの購入、自殺未遂などがあり、ついには199445日にシアトルの自宅にてショットガンで頭を撃ち、自殺。カートの死により、ニルヴァーナは事実上解散。
 
199448日、シアトルの自宅で薬物を服用の上、ショットガンで頭部を撃ち抜いて自殺しているのが発見される[10]。警察の報告によると、死亡推定日は45日。
遺書には、「観客からの崇拝をフレディ・マーキュリーのようには楽しめなかった」という文章や、親交のあったニール・ヤングの「ヘイ・ヘイ・マイ・マイ」の歌詞の一部「It's better to burn out than to fade away(だんだん消えていくより燃え尽きる方がいい)(錆び付くよりは燃え尽きたほうがいい)」が引用されていた。
 
1990年代を迎えた頃、グランジの隆盛と共にシーンの最先端で活躍していたニール・ヤングはカートが遺書でニールの歌詞を引用していたのを知って、打ちのめされたと語っている。
 
Smells Like Teen Spirit1991年。
ニルヴァーナの代表曲で、ビルボードで6位を獲得。
ソフトで静かな曲調からたたみかけるようなラウドでハードな曲調の転換を繰り返すことによる強烈なメッセージ性にシンプルかつパワフルなリフは新たな若者達のアンセムであるといわれ、驚異的な売り上げを示した。
カートは「Pixiesピクシーズからリフをパクって(元は“U-mass”といわれている)出来た曲」という。
カート自身はこの楽曲をいわゆる「クールな」若者たちを皮肉ったものとして制作しており、その意図が間違って伝わってしまったことに不快感を示し、この曲を嫌っていた。
 
当然ながらリアルタイムで聴いていて、名曲だと思った。新譜扱いから外れた頃に、アルバム「ネヴァーマインド」をレンタルして全曲を聴いて驚いた。「Smells Like Teen Spirit」の1曲しかまともな曲がなかったからだ。
この時点でニルヴァーナはダメだなと思った。
グランジも膝の破れたジーパンをはくだけのファッションであり、ロックの主流にはなりえなかった。

90年代の名曲 シェリル・クロウ 「Everyday Is a Winding Road」 「If It Makes You Happy」

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シェリル・クロウSheryl Crow1962年~)は、ミズーリ州ケネット出身のシンガーソングライター。
彼女の音楽はロック、フォーク、ヒップホップ、カントリー・ミュージック、ポップ・ミュージックの要素を組み込んでいる。これまでに9回にわたってグラミー賞を受賞している。
 
ミズーリ大学コロンビア校に進学し、作曲、演奏、教育の学士を取得。
1986年に、自らの音楽への夢を追うため、カリフォルニアに移住する。翌1987年から1989年、マイケル・ジャクソンのコンサート・ツアーでコーラスを務めた。
1993年、アルバム『チューズデイ・ナイト・ミュージック・クラブ』(Tuesday Night Music Club)でソロ・デビュー。
1996年にセカンド・アルバム「シェリル・クロウ」を発表。このアルバムには妊娠中絶、ホームレス、核戦争についての曲が含まれている。
このアルバムからの1枚目のシングル「イフ・イット・メイクス・ユー・ハッピー」は主にラジオでも大ヒットを記録し、1997年の第39回グラミー賞で最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞、最優秀ロック・アルバム賞の二部門を受賞した。このアルバムからの他のシングルは、「エヴリデイ・イズ・ア・ワインディング・ロード」である。
 
1998年にサードアルバムをリリース。この時期のインタビューで、エリック・クラプトンとの短期間の交際によると推測される重いうつ状態に陥っていた。
2000年代には乳癌に罹病した。
 
「イフ・イット・メイクス・ユー・ハッピー (If It Makes YouHappy)」。
アルバム「シェリル・クロウ」に収録され、アルバムからは最初のシングルとして1996920日にリリースされた。全米10位を記録した。1997年のグラミー賞では、最優秀女性ロック・ヴォーカル・パフォーマンス賞を受賞している
 
「エヴリデイ・イズ・ア・ワインディング・ロード(Everyday Is aWinding Road)」。シングルは199611月に発売された。
日産・シルビア(S15) の前期型のCMソングとして使われていた。
 
山間地のくねくねした崖道を走る車を撮影した「Everyday Is a Winding Road」のCMを聴いて、名曲だと思った。アルバム「シェリル・クロウ」をレンタルして、「If ItMakes You Happy」も名曲だと思い、両曲ともドライブ用の曲とした。
サビを作るのがうまい。

90年代末、職場の若い人数人に、最近いい洋楽はありますかと聞かれ、シェリル・クロウがいい、と答えたが誰一人知らなかった。今でも、同じだと思われる。

70年代の名曲 ロッド・ステュワート 「マギーメイ」「アイム・セクシー」

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ロッド・スチュワートRod Stewart1945年~)。イギリスのシンガー。

1960年代後半からジェフ・ベック・グループ、スモール・フェイセズ、フェイセズでの在籍を経てソロで活躍。個性的なハスキーボイスが特徴。元サッカー選手。
1967年ジェフ・ベック率いるジェフ・ベック・グループに参加する。バンドは1969年末に解散した。
1969年ジェフ・ベック・グループのベーシスト、ロン・ウッドに誘われてスモール・フェイセスへ加入。バンドは、2人の加入と共にバンド名をフェイセズに変更した。
また、ロッドはソロ・アルバムの契約にサインし、ソロ歌手としてマーキュリー・レコードと、そしてフェイセズとしてワーナー・ブラザースと2つのレコード会社と契約することとなる。
1975年には、ロン・ウッドがローリング・ストーンズに参加し、この年にバンドは解散した。
フェイセズ解散後、イギリスでの重税を逃れるため、渡米。
アルバム「アトランティック・クロッシング」(1975年)からは「セイリング」がヒット。
Da Ya Think I'm Sexy? アイム・セクシー」(1978年)は、ディスコ・ミュージックの要素を取り入れて、19792月全米1位に輝く。
のちに、「アイム・セクシー」は、ブラジルのアーティスト、ジョルジ・ベンの「タジ・マハール」に非常によく似ているため、裁判となった。裁判の結果はロッドの敗訴だった。後年、盗作である事をロッド本人が認めている。
 

Maggie Mayマギー・メイ」。197110月に英米1位。

は、ロッド・スチュワートのアルバム『エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー』の収録曲。
スチュワートとマーティン・クイッテントンとの共作。
「マギー・メイ」は当初シングルB面扱いだったが、同曲を気に入ったDJ達が後にA面扱いにした
年上の女性との関係に葛藤する若い男の感情を表しており、それはロッド自身が1961年に始めて関係した女性との経験したに基づいていると述べている。女性の名前はマギー・メイではない。マギー・メイの名はリバプールの有名な民謡に出て来る売春婦の名前から使われた。
ギターはロン・ウッド(当時フェイセズ、のちにローリング・ストーンズ)。録音時のマンドリンはリンディスファーンのレイ・ジャクソン。

ロッドは、「私は未だにこのシングルがどうしてここまで大きなヒットになったか分からない。この曲にはメロディーがない。十分な個性と見事なコードはある、けれどメロディーはない」と語っている。

 
「マギー・メイ」はリアルタイムで聴いていて、しみじみ味わい深いメロディーに感銘を受けた。とくに、「Oh Maggie I couldn't have tried any more」の部分は秀逸。
ロッド・・スチュワートの代表作といえば、この曲しかない。永遠に残る名曲。
 
「セイリング」は代表曲とされるが、凡庸な曲。
 
「アイム・セクシー」も非常に流行した。シンセのリフは当時のディスコを象徴しており、名曲といえる。

80年代の名曲 マドンナ 「ホリデイ」~「チェリッシュ」の10曲

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マドンナは1958年ミシガン州に生まれた。高校を成績がオールAの優等生として卒業、ミシガン大学へダンス部門の奨学金を得て進学した。1978年大学を退学して、ニューヨークへ移り、キャリアが始まった。
 
ホリデイ (Holiday)  1983年、米16位。
ボーダーライン (Bordorline)  1983年、米10位。
ラッキー・スター (Lucky Star)  1984年、米4位。
ライク・ア・ヴァージン (Like A Virgin)  198412月、米1位。
イントゥ・ザ・グルーヴ(INTO THE GROOVE)1985年、ダンス部門1位。
パパ・ドント・プリーチ (Papa Don't Preach) 1986年、米1位。
オープン・ユア・ハート (Open Your Heart) 1986年、米1位。
ラ・イスラ・ボニータ (La Isla Bonita)  1987年、米4位。
コモーション (Causing A Commotion)  1987年、米2位。
チェリッシュ (Cherish)  198910月、米2位。
 
チェリッシュ (Cherish)は、2007121日版のイギリス、タイムズ誌ではマドンナの曲の中で「パパ・ドント・プリーチ」、「マテリアル・ガール」を押さえて史上最も優れたポップ・ソングの一つとして賞賛された。
軽快なリズムと爽快なヴォーカルはモータウンに習い、80年代風にアレンジしたポップ・チューンである。
 
1990年の「Vogue」以降は、洋楽の環境悪化により、聴く気がなくなった。 
 
80年代後半に車の中でよく聴いたのがマドンナであり、唯一の自作のCDには「ホリデイ」「ボーダーライン」「ラッキースター」の3曲が入っている。
 
83年から84年にかけ、この順でヒットしていったのだが、私がマドンナを知ったのは次の2枚目のアルバムの「ライク・ア・バージン」で、84年の暮れぐらいだと思われる。この曲はたけし・さんまの「おれたちひょうきん族」でもパロディーをするぐらいの注目度があった。
 
音楽やファッションで、マドンナ以前以後、「ライク・ア・バージン」以前以後という感覚がある。
 
基本は今も昔もクラブ・ハウス・ダンスミュージックなのだが、80年代の楽曲のメロディーラインは美しい。「チェリッシュ」も名曲である。
 
「ホリデイ」は20年ほど前カラオケで歌ったこともあるが、当時20才代の他の若い人たちは知らなかったので、一般的には今でも知られていないだろう。この曲を聴きたくなるのは最後のピアノソロがしゃれているからだ。こんな聴き方をしているのは私だけだろう。
 
15年前「ラッキースター」をMP3化して、カシオエクシリムで聴いたら最初のキラキラ音が左右に細かく移動していったのには驚いた。
 
彼女はイタリア系移民の出身なのでカトリックのはずだが、十字架のペンダントがPVでよく目立った。当時同様にファンだった本田美奈子がマドンナの路線を踏襲し、十字架のペンダントを身に着けてマドンナ風な曲をテレビで歌い踊っていたのは印象的で、私が当時の職場で十字架のペンダントを土産商品に開発した主な要因になった。
 
2008/5/4投稿を改変。

80年代の名曲 ジャーニー 「Lights」~「Separate Ways」の6曲

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ジャーニーJourneyの名前は知っていたにせよ、私が注目し始めたのは、やはり1981年の「 Who's Crying Now」のPVからだろう。その次に「オープン・アームズ Open Arms」、83年の「セパレイト・ウェイズ - Separate Ways」がベストヒットUSAでのリアルタイム視聴になる。
 
当時、新旧曲の特集が組まれて、「Lights」や「Don't Stop Believin'」を知った。
 
Lights」は余りPVを見る機会がなかった。長髪のスティーブ・ペリーは面白い。この曲は加入直後のスティーブ・ペリーをフューチャーした1978年の曲で、ペリーとショーンが作った。
ジャーニーの出発点であるサンフランシスコをテーマに、しっとりとしたメロディーラインとボーカルは素晴らしい。ニール・ショーンのギターも素晴らしい。
ブリッジを除く原曲を作ったスティーブ・ペリーによれば、ロサンゼルス時代に作った曲で、元の歌詞は'when the lights go down in the city and the sun shines on LA.' だったのだが、音韻的に気に入らなかった。ジャーニーに加入してサンフランシスコの bayが気に入って歌詞を書き換えて'When the lights go down inthe city
and the sun shines on the bay'とした。太陽が湾に架かる橋を昇り沈む情景が歌詞にフィットした。
 
Don't Stop Believin'」は日産・エルグランドのCM曲として20048月~20061月まで使用され、聞くたびに心地良かった。歌詞は田舎出の少年が都会の味を知っていくようなイメージだったような気がする。
 
レンタル店落ちの90年代までのベスト盤CDを持っているが、半分以上は大したことはなかった。
 
渋谷陽一が産業ロックと否定的にジャーニーを評したらしいが、「音楽にはいい音楽と悪い音楽しかない」というのがジャズ界から伝わる古来からの箴言である。
 
ジャーニーは1973年にサンフランシスコでサンタナ・バンドに参加していたニール・ショーンとグレッグ・ローリーを中心として結成された。
ほどなく二代目ヴォーカリストとしてスティーヴ・ペリーが加入。スティーヴ・ペリーの加入により、バンドの方向性はハードロック的でポップな作風へとシフトした。
 
1978年、4作目のアルバム『インフィニティ』では前作までのプログレッシヴ系ロックバンドとしての作風も維持しつつ、伸びの良いヴォーカル・パートを生かした躍動感ある楽曲との和合が特色となり、その後のバンドの方向性を明確に示した。シングルカットされた「ライツLights)などがヒットした。
 
1980年後任のキーボーディストとして当時ジャーニーの前座を務めていたベイビーズのジョナサン・ケインが加入。シンセサイザー世代であるケインはメロディックな曲を書くソングライターとしての素質も持っており、ジャーニーの楽曲に幅広いレパートリーを与えた。また演奏面でも爽快なサウンドをジャーニーの楽曲に加味した。
 
1981年に発表されたアルバム『エスケイプ』は、全米1位を獲得。
1983年の『フロンティアーズ』も全米9週連続2位のメガヒットに輝く。
 
Lights        1978 (全米68位)
Any Way You Want It  1980(全米23)
Who's Crying Now    1981(全米4)
Don't Stop Believin'  1981 (全米9)
Open Arms        1982(全米2)
Separate Ways      1983 (全米8)

「Separate Ways 」はWBCの侍ジャパンのテーマソングとして使用されている。
その頃、ネットではPVの振り付けがダサいと言われていた。
昨今は、踊って唄うスタイルが当然となってしまったが、セットでないと面白くないというのは子供じみている。
ダンスは付けたしに過ぎない。アカペラやギターまたはピアノの伴奏だけで、心うたれる楽曲を知経験していないから、業界に踊らされてしまう。
K-popなどは最低の音楽だ。視たくも聴きたくもない。

 
2008/4/22投稿を追加改変。
 

Galaxy note9 のCM曲   LSD - Thunderclouds ft. Sia, Diplo, Labrinth

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 LSD - Thunderclouds  ft. Sia, Diplo, Labrinth
 
LSDLabrinthSia, Diplo三人のユニット

20188月リリース。ビルボード67位。
最近、久し振りに聴ける曲と出会った感じ。ググってPVを見た。
女性ボーカルの声が素晴らしい。高音が耳に快い。メロディーも悪くない。
ミニバスには「サンダー雲」号と書いてある。
少女のダンサーはマディー・ジーグラー。運転手はDiplo。Labrinthは別の雲に乗っている。

シーアSiaはシーア・ケイト・イゾベル・ファーラー(1975年~)は、オーストラリアの歌手、シンガーソングライターで、ヒップホップ、ファンク、ソウルをベースにしている。PVに顔出しはしていない。別の女性が出演するスタイル。
1990年代中期にアシッドジャズバンドのボーカルとしてその経歴を開始した
2014年にシングル「Chandelierシャンデリア」が世界的にヒットした。ダンサーのマディー・ジーグラー(2002年~)をフィーチャーしたミュージック・ビデオが、MTV Video Music Awardsの最優秀振付賞を受賞。
2016年、日本映画『秘密 THE TOP SECRET』の主題歌に「Aliveアライヴ」が採用される。
公式バージョンは日本で撮影され、少女空手家の高野万優(まひろ、2006年~)がダンサーとして出演、日本版PVには女優の土屋太鳳がダンサーとして出演している。
高野万優(まひろ)のKARATEには外人も好反応。
土屋太鳳のモダンダンスもなかなかいい。
 
シーアの「The Greatest」も結構面白い。
LSDの「audio」「Genius」は、いい曲ではなかった。「Thunderclouds」はいい。
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