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Channel: いちご畑よ永遠に
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80年代の名曲 U2 「 New Year's Day 」「Sunday Bloody Sunday」 「 Pride 」など5曲

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U2は、1976年アイルランドのダブリンで前身バンド結成。1980年アイルランドでレコードデビュー。
1983年、ポーランド民主化運動の独立自主管理労働組合「連帯」について取り上げた曲「 New Year's Day 」が、初めて英10位とヒットした。
Sunday Bloody Sunday」は北アイルランド問題の「血の日曜日事件」を取り上げ、アイルランド共和軍(IRA)の活動を批判する立場を示した。
1984年の「Pride (In The NameOf Love)」はマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)へのトリビュート・ソング。
 
New Year's Day 1983年 米53位。
Sunday Bloody Sunday 1983
Pride (In the Name of Love) 1984年 米33位。
With or Without You1987年 米1位。
  I Still Haven't Found What I'm Looking For 1987年 米1位。
 
これ以降の曲を数曲聴いたが、いいものはなかった。
With or Without You」は初めて聴いたときから名曲だと思った。まず、「With or Without You」は発音したときに語感がいい。メロディーも申し分ない。段々盛り上がるボーカルがあって、そこにエッジのキラキラしたギター音が絡んでくる構成がいい。
 
U2の「BEST OF 1980-1990」という80年代ベストアルバムの中から上記の5曲を2003年にカシオのデジカメ初代エクシリムM1にMP3で取り込み通勤電車でよく聴いていた。
 
87年以前からU2とくにエッジの評判は知っていたが、87年「With or Without You」の大ヒットが印象的だった。ベストヒットUSAでも特集が組まれ、PVをよく見た。90年代後半にNHKBSでダブリンでのライブ公演を見て、曲やライブの良さをさらに実感した。
 
魅力なのは、曲の良さを前提とした上で、やはりギターのエッジのカッティングスタイルに尽きる。
ギターといえば、延々と続くハードロックのギターソロが当たり前だった時代に、リズムギター的なフレーズだけで音色を変化させ、メロディラインを弾く以上の効果をあげているのは素晴らしい。
 
80年代、バービーボーイズのイマサやボーイの布袋たちは影響を受けたに違いない。この原点こそエッジなのだと思った。
 
特に、「プライド」はギターのリズムがカラフルに回転する印象でシンプルに勝負している。この曲と同様に好きな曲は「ブラディ・サンデー」である。「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」は入門曲に過ぎず、すぐに飽きてしまった。
 
2008/4/19投稿を追加改変

80年代の名曲 ハート  「Never」「These Dreams」「Alone」

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ハート (Heart)は、アメリカのアンとナンシーのウィルソン姉妹ひきいるハードロック・バンド。
 
1967年に前身のバンドが結成され、シアトル近郊で活動。1971年ごろアン・ウィルソン(ボーカル)が加入。
1972年ごろに「ハート」と改名、1974年にナンシー(ギター)が加入し、カナダのバンクーバーで活動。
レッド・ツェッペリンに強く影響された音楽性やアンの歌声、姉妹バンドであることなどが注目を集め、1977年にシングル「Barracuda」が米11位とヒットして有名バンドになる。
1979年にウィルソン姉妹と主要メンバーのカップルが破局してメンバーが脱退し、ウィルソン姉妹中心のバンドとなる。その後は商業的に低迷する。
19857月にグラムハードロック路線を強調したアルバム「Heart」をリリース。シングル「Never」は19859月に発売され米4位、「These Dreams」は19861月に発売され、初の米1位となる。
その後、1987年にアリーナロック路線のアルバム「Bad Animals」からシングルカットされたパワーバラードの「Alone」が米1位とヒットした。この曲は年間でも2位、1位はバングルズの「Walk Like An Egyptian」。
 
ハートHEARTは80年代MTV時代に名曲を残した。85年のアルバムから、姉のアン・ウィルソンのボーカルによるロック寄りの「Never」と妹のナンシー・ウィルソンのロック・バラード調の「These Dreams」がヒットし、PVをよく見たものだ。
 
1977年頃、ガールズロックが盛り上がり、ランナウェィズとともにハートの「Barracuda」がよくエアプレイされていたのを思い出すが、その後ブームは去ってしまった。
 
MTV時代にふさわしい美人姉妹はこの「ネバー」で復活を遂げた。姉は黒髪のボーカルで妹は金髪のギター。アンのパワフルのボーカルは今でも人気がある。ナンシーはヘビメタのように左足を蹴り上げる。
今見ても、かっこいい。ロックの健全な様式美といえる。レッドツェッペリンのフォロワーと自称している。
 
These Dreams」はナンシーのボーカルだが、かすれ声が痛々しい。87年のアルバムからのNO1ヒット「Alone」も名曲である。
このあとは、聴くべき曲はないようだ。
90年以後のアン・ウィルソンの太り方は、成功者にありがちな贅沢のし過ぎが原因なのだろうか。
 
2008/2/2投稿を追加改変

狙われる有権者たち、デジタル洗脳の恐怖 「操られる民主主義」の著者に聞く(後編)

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日経ビジネスONLINE  2018109日 伏見香名子
 

狙われる有権者たち、デジタル洗脳の恐怖
「操られる民主主義」の著者、ジェイミー・バートレット氏に聞く(後編)
 
――日本では個人データの流出がここまでの弊害をもたらすとはまだ広く知られていませんし、直接政治的な影響も受けていないため、危機感が高いとは言えません。
 
バートレット氏:世界情勢がどんなに変わり、いかに危険な状況にあるかは明白でしょう。どんな民主主義国家であっても、自分たちには関係ないと思う人たちは、自分たちを騙しているに過ぎません。まさかこんなことが米英や欧州各国で起こるとは思われていませんでしたし、皆、自分に火の粉が降りかかるまで「自分たちは大丈夫だ」と思っているのです。
 
バートレット氏:同じ広告を数百万人に流すテレビ広告よりも、一人ひとりに数百万の異なる広告を流すことの方が、一般的に有効になっていきます。人々が不安を感じている時など、最適なタイミングで働きかければ、当然より良い結果が出るでしょう。
政治家は、格好のターゲット・有権者を、最適な状態とタイミングで捉えるチャンスを得られるようになる、ということです。
 
 数千人、あるいは数万人の有権者を取り込むことができれば、僅差の選挙の場合、それは大きな意味を持ちます。政治家による市民との対話の形も変わり、全く新しい形の政治になるでしょう。長期的には、とても不健全だと考えます。政治家が人々の声に耳を傾け語りかけるのではなく、データを使って、人々の弱点を見極め、そこをつくという方式です
 
――こうした広告企業と、統治する側、つまり政権が手を携えてしまった場合、どんなことが起こりますか?
 
バートレット氏:企業がデータ収集するだけでも問題ですが、政府が企業と共同で行ってしまっては、一体誰が止められるというのでしょう。政府はより洗練された個々人のデータを取得することになります。
 政府の批判を許さない政権が、こうした詳細なデータを基に先手を打って、政権へのトラブルを起こす人物をはじき出したとしたら、どうなると思いますか。当局や警察が、常に全ての人を追跡、行動を把握し、何も悪いことをしていないのに、アルゴリズムが「彼らはトラブルを起こす」と判定したと言う理由で、事前に逮捕してしまったとしたら。
 
SFの世界のことのように聞こえるかもしれませんが、このままの状態で進めば、そう先の未来のことでもないでしょう。中国などでは、すでに民間企業と政府が共同で、得られる限りの市民のデータを取得しています。それはある種、犯罪を減らし、サービスをより早く提供できる、効率的な社会を作るかもしれませんし、人々はこれを歓迎するかもしれません。しかし同時に、前例のない権力を政府の手に渡すことに繋がります
 
――今後、例えば5年間で何も対策を講じなければ、どんな事が起こると思いますか?
 
バートレット氏:政治は急速に変化し、人々が5年前に不可能だと思って来たことが、既に実現し始めています。誰も、現在の政治状況を予測してはいませんでした。公開討論が、こんな悲惨な状態になり、選挙戦に関する人々の怒りや、(外国からの)介入も起きています。次の5年間には、更なる問題が巻き起こるでしょう。
 
突然民主主義が崩壊し、無政府状態になるということではなく、独裁者が現れ「全てのことが崩壊しつつあるようだ。全てを保つために、強いリーダー、強い政府が必要だ」と発信し、「この状態を打開するために、デジタル技術が必要だ」と主張する土壌を作るでしょう。新しい権威主義の波が起こります。
 
 私が恐ろしいと思うのは、5年後、もしかすると人々自身がそれを望み、その主張に票を投じるかもしれない、と言う事です。安定と利便性を、崩壊と困難よりも望むかもしれません。民主主義は人々の積極的な意思によって、消滅するかもしれません。これは1930年代、民主主義が破壊的な、わかりやすい状況で壊れたこととは違います。混乱ではなく安定を約束する強固な権威主義者たちを、人々が民主的に選ぶプロセスで起こるのです。
 
――難しいのは、規制と表現の自由のバランスかとも思います。
 
バートレット氏:唯一の正しい答えはありません。
今は、プラットフォームをそのままにしておいても大丈夫だと思いますが、当局から「コンテンツを削除せよ」と、法的な令状と共に命じられた場合、それを即座に、効率的かつ透明性を持って行わせる法律が必要です。法的に、公的な場で発言される内容について、当局がなんらかのコントロールをしなければなりません。
 
――日本では、政府の要望に応え得る広告企業も存在しますし、また、国民投票において、英国での選挙法のような、広告に関する資金投入の上限が存在しません。
 
バートレット氏:非常に危険なことだと思います。普通は、政府に市民の情報を常に収集させない、つまり、政府の力から市民を守る法律が存在します。できるとしても制限が存在するはずですし、令状など、裁判所からの法的な書類が必要です。
 
 このことは、専制政治から人々を守るため、民主主義国家においての基本であるはずです。しかし、民間企業は令状や、市民を守る法的根拠など必要としません。こうした企業が個人情報を収集した挙げ句、それを政府に渡してしまっているとすれば、政府自体が市民に対する保護もなく、情報収集できることになります。
 
 私は、人々がどれほど無防備に自分たちの情報をさらけ出して、またその情報が、どれほど政府にとって重要なのかに気づいてもいないと感じます。政府は常に、市民の情報を欲しています。初めは「人々を犯罪行為から守りたい」などという良い理由で始まり、徐々に、スピード違反をさせないとか、ゴミの分別を徹底するためだとか、政府が市民のことを知らなければならない理由が、どんどん増えていくのです。
 
やがて、政府がより中央集権的、革新的、独裁主義的になった場合、旧東ドイツのシュタージ(秘密警察)が大喜びしたであろう個人情報の山を手にすることになります。私たちは、そのことに気づきもせず、いつの間にか情報を提供してしまっているのです。
 
 自分たちの膨大な情報を通じ、ほんの一握りの企業、そして、究極的には政府に、力と支配を譲り渡してしまっているのかもしれません。物事は次第に、気づかないうちに悪化するでしょう。だからこそ、危険の存在や変化の度合いを知ることは重要です。民主主義とは、当たり前に存在するものではないのです。人間がどう共存するかという「短期的な実験」なのですから。
 
 この510年、それ以前に比べ、世界は民主的ではなくなってきています。これが、私たちが現在たどっている道筋なのです。これに気づき、何かをしなければ、20年後には民主国家がいくつ生き残っているでしょうか。恐ろしいことに、そうなってしまったが最後、もう元へは戻れないのです。
 
――日本はこれから、改憲に向けた国民投票が予想されています。現存の国民投票法で、ターゲット広告などに対応できるとは言えません。
 
バートレット氏:日本で国民投票が実施されれば、米英やその他の国で有効だったテクニックが恐らく使用され、問題にもなるでしょう。こうしたテクニックは、データ・アナリストのチームによって、世界的に提供され、共有されています。有効だと証明されれば、政治家はこれを利用するでしょう。
 同じような技術が日本の国民投票で使われ、これまでと同様の現象や論争が起きたとしても、不思議はありません。その時になって、ようやく対岸の火事ではないことに気づくかもしれませんね
 
――現状、人々は無防備ですね。
 
バートレット氏:今はそうですが、段々とやらなければならないことがわかってきています。まず、いくつか痛い思いをして、それから規制の必要性がわかるのかもしれません。
 

70年代の名曲 オリビア・ニュートン=ジョン 「そよ風の誘惑」「カントリー・ロード」「ジョリーン」「ザナドゥ」 

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オリビア・ニュートン=ジョンOlivia Newton-John1948年イギリス・ケンブリッジ生まれの歌手・女優。
 
父方の祖父Oliver John、父方の祖母Daisy John (旧姓Newton)、父Brinley Newton-John、母Irene Newton-John(旧姓born)。二人は1937年に結婚し、1959年に離婚。

母方の祖父はドイツ出身のユダヤ系でノーベル賞受賞物理学者マックス・ボルン (MaxBorn)。母方の曾祖母の父は「権利のための闘争」で有名な法学者のルドルフ・フォン・イェーリング。

Brinley Newton-John は大戦中MI5Military Intelligence Section 5、軍情報部第5課)将校として、ドイツ軍の暗号エニグマ解読作業に従事していた。
 

1954年父のオーストラリア・メルボルン大学ドイツ語教授就任にともない移住。1965年、出演したオーディション番組で優勝。その懸賞で英国に戻り、1966年にデビューした。1971年にボブ・ディランがジョージ・ハリスンに提供した曲のカバー「If Not ForYouがヒットしたのをきっかけにカントリー系歌手として人気を集めた。1975年アメリカに移住。アダルトコンテンポラリーおよびカントリー系歌手として活躍する。

1978年のミュージカル映画『グリース』でジョン・トラボルタと共演し、大成功を収める。1980年の映画『ザナドゥ』に主演。サントラ曲『マジック』、ELOとの『ザナドゥ』がヒットした。
198111月「フィジカル」が米1位の大ヒットとなる。
 
「カントリー・ロード Take Me Home, Country Roads (1974)・・・当初はイギリスとヨーロッパ圏の一部の国のみ発売。1976年に「たそがれの恋」との両A 面で日本でシングルカットされオリコンBEST10入り。オリコン洋楽チャートで19761129日付から15週連続1位を獲得。
「そよ風の誘惑Have You Never Been Mellow (1975)・・・ビルボード1位。
Jolene (1976)・・・オーストラリア・日本・ヨーロッパ圏の一部の国で発売。
Magic (1980)・・・ビルボード1位。
Xanadu (1980) with ELO・・・ビルボード8位。
Physical (1981)・・・ビルボード1位。

 

ということは、日本では、まず「そよ風の誘惑Have You Never BeenMellow 」でオリビアを知って、人気が出たということか。そんな記憶がある。

ついで、「カントリーロード」「ジョリーン」がほぼ同時にヒットしたということだろう。杏里の「オリビアを聴きながら」が197811月発売されたことからも、当時の人気がうかがわれる。この3曲はそれほどインパクトのある名曲だった。
「カントリーロード」は、やはり本家ジョン・デンバーが一番いい。
「ジョリーン」は、本家ドリー・パートンよりいいし、こちらが有名。

 

「マジック」は今聴くと大した曲ではない。「ザナドゥ」はきらびやかな名曲だ。当時無敵だったアバを意識した曲調を感じる。エレクトリック・ライト・オーケストラはいいバンドだった。
「フィジカル」は今聴くと飽きてくる。
グリース時代はディスコサウンドが嫌いだったので、その時代は興味がない。

90年代の名曲 ザ・コアーズ  「Heaven Knows」「Someday」「Secret Life」「Leave Me Alone」

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ザ・コアーズThe Corrsは、アイリッシュ・ロックバンド。ケルティック・フォーク・ロック。
コアー兄妹(姉妹3人とその兄)により1990年に結成され、1995年にレコード・デビューした。2005年に活動を休止したが、2015年から活動を再開している。
 
アイルランドの伝統的なケルト・サウンドとロックを融合させたサウンドが特徴。
1995年に1stアルバムを発表。1996年に初来日した時に、情報番組で見て関心を持ったと記憶する。
なぜかというと、1972年にマハビシュヌ・オーケストラを聴いて以来、バイオリンの入ったロック・ジャズが好きだから。
早速、アルバム「Forgiven, Not Forgotten」をCDレンタルで聴き、4曲をダビングした。「Heaven Knows」「Someday」「Secret Life」「Leave Me Alone」。あとの曲は魅力なし。なお、アイルランド民謡をロック化した「Toss the Feathers」は評価が高い。
 
魅力なのは、テンポがよく、透明感のあるハーモニーと、バイオリンの演奏で、バイオリンはロック・ポップ的または伝統音楽的に演奏されている。
ケルトミュージックはケイジャンやアメリカン・フォーク・カントリーの源流なのでその点でも趣向的には合う。
アメリカにはアイルランド移民が多く、炭坑労働者の娘・ロレッタ・リンもアイルランド系である。
 
その後、97年のCD「トーク・オン・コーナーズ」もレンタル。良曲は「ソー・ヤング」「クィーン・オブ・ハリウッド」の2曲のみ。その後、2000年に「Breathless」のヒットでアメリカでも知られるようになり、MTVでもよく見かけた。
代表曲は一般的には「ソー・ヤング」と「Breathless」だろう。
日本でも熱心なファンはいるようだが、圧倒的に無視されているのが現実。
 
今回再度聴きなおしたが、名曲といえるのはアルバム「Forgiven, NotForgotten」の中の4曲のみ。「Toss theFeathers」のライブでは、フリートウッド・マックのドラマーであるミック・フリートウッドがゲスト参加している。ティン・ホイッスルがなかなかいい。
ダンスミュージックとしての雰囲気を味わえる「 angel」(2004年)は映像的にもいい。
 
2008/1/2投稿を改変。

クイーンQueen の名曲 「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」 「キラー・クイーン」

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2018119日から映画「「ボヘミアン・ラプソディ」が日本で公開されるというので、youtubeを見ると、予告編を見ることが多くなった。試写会で感動したというラスト場面のライブ「Live at LIVE AID 1985」をyoutubeで見たが、大して感動しなかった。
 
「フレディ・マーキュリー、当初「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」は気に入らず」 2011.1.15  barksという記事がある。
 
2011年調べ)日本全国のラジオでのオンエアー順。

1位「ボーン・トゥ・ラブ・ユー I wasborn to love you」(1985年)

2位「ボヘミアン・ラプソディBohemianRhapsody」(1975年)

3位「レディオ・ガ・ガ Radio GaGa」(1984年)

4位「伝説のチャンピオン We Arethe Champions」(1977年)

5位「愛という名の欲望 CrazyLittle Thing Called Love」(1979年)

6位「マイ・ベスト・フレンドYou'reMy Best Friend」(1975年)

7位「愛にすべてを Somebody ToLove」(1976年)

8位「輝ける7つの海 Seven Seas of Rhye」(1974年)

9位「地獄へ道づれ Another OneBites the Dust」(1980年)

「伝説のチャンピオン」は「ウィー・ウィル・ロック・ユー」付きでかけてくれているのだろうか、とか、あれ「キラー・クイーンKiller Queen」は・・・・・・・・。
 
日本では、「ボーン・トゥ・ラブ・ユー」が「ウイー・ウィル・ロック・ユー」や「伝説のチャンピオン」、「ボヘミアン・ラプソディ」などと並ぶクイーンの代表曲的存在とされるようになっている。
 
「ボーン・トゥ・ラヴ・ユー」は、フレディ・マーキュリーが1985年に発売したソロアルバム「Mr.バッド・ガイ」に収録され、シングルカットもされた。
クイーンのメンバーが1995年に発表したアルバム「メイド・イン・ヘヴン」で、アレンジを大幅に変更したバージョンが収録された。いずれも、英米ではチャート的にはヒットしていない。
 
日本では1980年代にノエビアのCMでフレディのソロ音源が使用された。クイーンのバージョンは、1996年以後、キリン一番搾り生ビール、アサヒスーパードライ、カップヌードルのCM、さらに2004年の木村拓哉主演のTVドラマ「プライド」のテーマ曲としてが使用されて人気曲として定着した。
 
「ボーン・トゥ・ラブ・ユー」が最高の名曲だという日本人の選択・趣味趣向は正しい。私もそう思う。これは世界に誇っていいことだ。
本国イギリスでは「ボヘミアン・ラプソディ」がポップス全曲の中で1位とされている。これは、イギリス人の趣味趣向のなせるわざ。クラシック、オペラなどが好きな国民性が表れているだけ。
ロック・ポップ的には「ボーン・トゥ・ラブ・ユー」のほうがストレートな楽曲。
 
「キラー・クイーン」(1974年)のころから、ラジオで聴いている。「ボヘミアン・ラプソディ」(1975年)もリアルタイムで聴いた。しかし、ブライアン・メイのギターはいいとしても、「ガリレオ」あたりの部分がテンポがおかしくなっているし、微妙な曲でとどまった。
1970年代後半はイギリスや日本でも一番人気があるバンドだったように覚えている。しかし、1970年代までの私はビートルズの声望を犯すようなバンドはかたくなに嫌っていたので、サイモンとガーファンクル、レッド・ツェッペリン、カーペンターズなどと同じくラジオで流れてくる曲を聴いていただけである。
1978年の「バイシクル」を聴いて、何だ、このふざけた曲はと思ったことは覚えている。
 

80年代になると、クイーンの名が出なくなり、「RadioGa Ga」が 1984年に久し振りにヒットし、ベストヒットUSAでも頻繁に登場するようになった。そのときあたりから、フレディ・マーキュリーが上半身裸とか女装姿になったり、気持ち悪くなっていった。

で、1991年にエイズで死亡である。ニュースでは大きく扱われた。

1990年代後半あたりからだろうか、「We Arethe Champions」や「We Will Rock You」がスポーツイベントで使われるようになったのは。これはこれで、ふさわしい名曲というべきだろう。

 
フレディ・マーキュリーは、タンザニア・ザンジバル島で生まれた。両親はペルシャ(イラン)系インド人であるパールシーで、ゾロアスター教徒、混血していないアーリア人である。
タタ財閥や指揮者のズービン・メータもパールシーである。
 

クイーンが影響を受けたのは、 the Beatles, the Kinks,Cream, Led Zeppelin, Pink Floyd, the Who, Black Sabbath, Slade, Deep Purple,David Bowie, Genesis and Yes,Jimi Hendrixで、フレディ・マーキュリーは、ゴスペル歌手の Aretha Franklinにも影響を受けた。

1970年代前半のクイーンはLedZeppelin Yesを組み合わせたサウンドであった。

なぜかTHE ROLLING STONESは入っていない。ハードロックからブルース音楽の要素を取り去ったバンドで、その後のヘビメタに影響を与えたとされる。
 
全般的にいって、クラシックやオペラへの指向性、こねくりまわす編曲、大仰なアクションなどの点が好きではない。

ロックの名盤  クリームCream  「Live Cream Vol.Ⅱ」(1972年)

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クリームCream1966年結成、1968年解散。日本では1968年始めから人気が出て、半年で解散したので驚いた。
 
現代のロックはジミ・ヘンドリックスとクリームによりロンドンで生まれた。そのあとを継いで、ハードロックを築いたのが、レッド・ツェッペリンであると認識している。
 
エリック・クラプトンはジミ・ヘンドリックスのライブを聴きに行って音造りの参考にしたと自ら言っているので、ジミ・ヘンドリックスの方が師匠だったといえる。
二人を代表する曲が「Purple Haze」と「White Room」で、どちらもリアルタイムでラジオから聴いてサウンドの斬新さに驚かされた。日本ではどちらが先だったか覚えていない。英米でヒットしてから日本でシングル化されるのが普通だったはずだ。
Purple Haze」は19673月に英3位。196710月に米65位。
White Room」はシングルとして米で19689月発売、6位。英で19691月発売、28位。
日本では「Purple Haze」は1968年始めか半ば、「White Room」は1968年暮か1969年初めだろうか。
両曲ともロックの歴史を変えた衝撃的・革命的な神曲である。
 
クリームのもう一つの代表曲「Sunshine of Your Love」はシングルとしては、米では196712月発売、1968136位。85位。英では19689月発売、25位。しかし。日本では「White Room」のあとに紹介された曲だと思う。
Strange Brew」「Spoonful」「Crossroads」もその後、ラジオで聴くようになった。
しかし、ライブ盤などの長尺ものは、ラジオで流されることは少なかったので、アルバムを購入するしかなかった。
私が1972年に大学入学後、ようやくバイト代を貯めて購入したのが、「Live Cream Vol.Ⅱ」(1972年)だった。おそらく、「Live Cream」と比較検討したはずで、こちらの方には、「WhiteRoom」と「Sunshine of Your Love」が入っていることが決め手になったはずだ。
 
Live Cream Vol.Ⅱ」は名盤だ。よく聴いた。
Deserted Cities of the Heart」は、テンポが良く快適なハードロック。ボーカルもギターも快調。隠れた名曲。
White Room」はスタジオ版より見事なクラプトンのアドリブライブ版。
Politician」は、ジャック・ブルースの歌とベースが冴えている。
Tales of Brave Ulysses」は重厚感がある変わった曲調。クラプトンのワウワウソロもいい。
Sunshine of Your Love」は見事なライブ版。
steppin  out」は「Hideaway」と誤記された。インストだけなので記憶がない。ギターソロが延々と続く。
 
最後の1曲を除き、最高の出来である。
 
前作「Live Creamライヴ・クリーム」(1970年)のアマゾンでのクチコミで、こちらが最高のライブという人が多かったので、youtubeで聴いてみた。
 
Sleepy Time Time」 ギター もたつき感がある。
Sweet Wine」 ややスムーズになっている。
Rollin' And Tumblin' イントロのジャック・ブルースによるブルースハープからブルース感が濃厚。マディ・ウォーターズの曲。本家の方がいい。イギリス人にありがちなブルース解釈。しかし、こういうスタイルがブルースロックの定型的な演奏スタイルとなった。
 
全般的に習作・若描き。散漫。リフの幅、スケールが小さい。後代のギターソロへのアイデアの種はちりばめられているが、歌部分のメロディーがいけてない。こちらは、「フレッシュクリーム」の曲のブルース中心のマニアックな仕上がりであるという評価とおり。

やはり、Ⅱの方がクリームの代表曲的な楽曲のライブ版となっていて、名盤といえる。
「レイラ」のように、歌部分のメロディー、ギターソロフレーズのアイデア、美しくインパクトがあると、快感が生まれる名曲・名演となる。ここには、それがある。
youtubeは残念なことに音レベルが悪くて、割れている。
 
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ライナノートを書いた大貫憲章氏は当時21歳。

ロックの名盤 ジミ・ヘンドリックス 「The Essential Jimi Hendrix エッセンシャル・ジミ・ヘンドリックス」

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ジミ・ヘンドリックス Jimi Hendrix19421127日~1970918日)は、クリームとともにロックを革新し、現代ハードロックへ導いたギタリスト。196612月に「Hey Joe」でUKデビュー。
 
私が1977年頃購入した2枚組ベスト盤「The Essential Jimi Hendrix エッセンシャル・ジミ・ヘンドリックス」はイギリスと日本では1977年、アメリカでは1978年に発売されたようである。日本文ライナーノートの日付は19775月になっている。
 
収録曲は

A-1."Are You Experienced?" - 4:07(Are You Experienced?, 1967)

A-2."Third Stone from the Sun" -6:37 (Are You Experienced?)

A-3."Purple Haze" - 2:47 (Are YouExperienced?)

A-4."Little Wing" - 2:24 (Axis:Bold as Love, 1967)

A-5."If 6 Was 9" - 5:32 (Axis:Bold As Love)

B-1."Bold as Love" - 4:08 (Axis:Bold As Love)

B-2."Little Miss Lover" - 2:20(Axis: Bold As Love)

B-3."Castles Made of Sand" - 2:45(Axis: Bold As Love)

B-4."Gypsy Eyes" - 3:39 (ElectricLadyland, 1968)

B-5."Burning of the MidnightLamp" - 3:35 (Electric Ladyland)

B-6."Voodoo Chile (SlightReturn)" - 5:08 (Electric Ladyland)

C-1Have You Ever Been (To ElectricLadyland)" - 2:11 (Electric Ladyland)

C-2."Still Raining, StillDreaming" - 4:22 (Electric Ladyland)

C-3."House Burning Down" - 4:33(Electric Ladyland)

C-4."All Along the Watchtower" -4:00 (Electric Ladyland)

C-5."Room Full of Mirrors" - 3:16(Rainbow Bridge, 1971)

C-6."Izabella" - 2:51 (WarHeroes, 1972)

D-1."Freedom" - 3:24 (The Cry ofLove, 1971)

D-2."Dolly Dagger" - 4:43(Rainbow Bridge)

D-3."Stepping Stone" - 4:11 (WarHeroes)

D-4."Drifting" - 3:46 (The Cry ofLove)

D-5."Ezy Ryder" - 4:09 (The Cryof Love)

 

22曲を聞き比べて、A評価とした曲は「HOUSEBURNINNGU DOWN」「ALL ALONNG THE WATCHTOWER」「ROOM FULL OF MIRRORS」「DOLLY DAGGER」「EZY RYDER」「PURPLE HAZE」「LITTLE WING」「CASTLES MADE OF SAND」。

ベスト盤だが、「フォクシー・レイディー」は入っていない。
 
ディスコグラフィーにシングルの日本での発売年月が記載されている。

The Wind Cries Mary" / "HighwayChile" 196711月。

Purple Haze" / "51stAnniversary"    19682月。

Burning of the Midnight Lamp" /"The Stars That Play with Laughing Sam's Dice 19686月。

Foxy Lady"/Spanish Castle Magic         19688月。

All Along the Watchtower"/ Can You SeeMe  19691月。

Crosstown Traffic" / "GypsyEyes"  19695月。

Changes  / Message To Love         197011月。
 
日本での初シングル「The Wind Cries Mary」は聴いたことがない。
代表曲の「Purple Haze紫のけむり」が日本での実質的な初シングルで、日本のラジオ番組に登場したのは、19682月以降ということになる。
初めて聴いて、変わったギターサウンドに衝撃を受けた。出だしのギターフレーズから緊迫感があふれている。ボーカルやギターソロも迫力があった。クリームの「White Room」が日本で紹介されたのが1968年暮ごろとすれば、「Purple Haze」か半年以上早い。

サイケデリック・サウンドの雄ジェファーソン・エアプレインの「Somebody toLove」は19676月頃日本発売。ロンドンとサンフランシスコで新しいロックが誕生した時代。

ジミ・ヘンドリックスとクリームがブルースロックの創始者で、両者のいいとこどりをしたレッド・ツェッペリンがのちにロックの主流となるハードロックの創始者となった。
 
19709月に急死。その後数年間は日本の音楽雑誌にも回想記事がよく掲載された。エリック・クラプトンの回想では、ジミヘンのライブステージをクラプトンはたびたび聴きにいって、そのアイデアをクラプトンが自身のライブで真似させてもらったと語っていて、私はジミヘンがクラプトンの師匠だったのかと感慨に耽った。
 
ジミヘンは自分のヒット曲をせがまれるのが好きではなく、お馴染みのフレーズをわざとおざなりに弾いたという。ライブの出来にはばらつきがあるので、シングル盤のほうが良い場合がある。
 映画「ウッドストック」は封切で見たが、「星条旗よ永遠になれ」は興ざめだった。ギターを歯で弾いたり、燃やしたりするのも、ギミック過ぎて彼の真価からは遠い。
 
ジミヘンの真価が現れている曲が「オール・アロング・ザ・ウオッチタワー」だ。ワイルドなボーカルやギター。間奏のリズムの切り方、終盤の嵐を思わせるギターの泣きなど劇的な表現が優れている。唯一の欠点はジミヘンの作詞作曲ではなくボブ・ディランの曲ということだけ。ディランも認めるほどのカバー曲という評価は本物だ。最近デイランの原曲もyou tubeで聞いたが、別の曲に聞こえる。ニール・ヤングの「ウオッチタワー」カバーも味があるが、ジミヘンにはかなわない。なお、曲の前半の歌詞はディランとは少し異なっている。
 
ネットで見ていたら、代表曲が「ブードゥー・チャイル」という説があった。70年代には雑誌でよく書かかれていたが、これは駄曲に近い。
Hey Joe」も評価が高いが、一度もいいと思ったことがない。
記憶では、「Purple Haze」の次のシングルは「フォクシー・レイディー」で、この曲もよかったので一発屋ではないなと確信した。ただ、youtubeで聴いてみると、記憶ほど大した曲ではなかった。
 
父の後妻が日系2世で、ジミは日本に興味を持っていた。アトランタの映像では振袖を着ている。
 
Youtubeでは著作権の関係でまともな動画を捜すのが困難。
 
2013/10/13投稿を改編。

ロックの名曲 レッド・ツェッペリン 「Whole Lotta Love」「Black Dog」「Stairway to Heaven」など6曲    

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レッド・ツェッペリンled zeppelin 。イギリスの元祖ハードロックバンド。
ジミ・ヘンドリックス、クリームのブルースロックからブルース色を薄めていき、ハードロックのバンドスタイルを確立した。
アメリカのロックバンドであるボストンやハートなど多くのハードロックバンドに直接の影響を与えた。
 
WIKIに「日本ではディープ・パープル、ブラック・サバスと並んで、三大ハードロックバンドの一組とされる」という記述があるが、誤り。
ディープ・パープルはサイケデリックな「ハッシュ」(1968年)を当時聴いたことがあるが、1972年の「ハイウェイ・スター」以後ハードロックバンドの人気バンドになっただけ。ブラック・サバスは「パラノイド」(1970年)がヒットしたが、一部での人気にとどまった。
レッド・ツェッペリンが元祖・神的存在。ディープ・パープルも歴史的名バンドだが、二番煎じのバンド。格が違う。
 
1970年代まではビートルズが一番と思っていたので、70年代半ば「ミュージックライフ」の人気投票で常に1位を占め、ビートルズ以上に評価され、人気のあったレッド・ツェッペリンは特にファンでもなかったが、チャート上位の常連だったので、聴いてはいた。
 
日本で一般的に知られることになったのは、1969年暮から翌春あたりの「胸いっぱいの愛をWhole Lotta Love」の大ヒットからだろう。
イギリスでは極力シングルを出さず、アルバムのセールスを狙ったという。日米、次のシングルは「リヴィング・ラヴィング・メイド」(1970年)。このころ、「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」や「「コミュニケイション・ブレイクダウン」「ハートブレイカー」 もラジオで流れていた。いずれも名曲だった。
次のシングルは「移民の歌Immigrant Song」(1970年)。19712月にはチャート上位の大ヒットとなったが、この曲はターザンみたいで下らなく聴こえてきた。
「ブラック・ドッグBlack Dog」(1971年)は「胸いっぱいの愛を」とならぶ代表曲。次の「ロックン・ロール」(1972年)まで名曲が続いた。これ以降の曲は知らない。レッド・ツェッペリンはアルバムで聴くバンドだから。


レッド・ツェッペリンを再認識したのは、1980年代初め名古屋シネマテークで、映画「永遠の詩(狂熱のライヴ)」を見たとき。ジミー・ペイジの低いギター位置が印象的だった。成功すると馬に乗りたがるのは面白い。

現在一番人気のある楽曲は「天国への階段」(1971年)だが、この曲を知ったのは70年代後半だろうか。シングル化されてなく、一般的にも知られていなかったと思う。何がきっかけとなったのだろう、記憶がないが、突然スポットライトを浴びたような曲だ。映画「永遠の詩」(1976年)で印象的だったので、このとき以降かもしれない。
しかし、この曲は代表曲とはいえない。ハードロックとしての曲調からして、「胸いっぱいの愛を」「ブラック・ドッグ」の2曲が代表曲だろう。
 
私が持っているのは、中古シングルの「ブラック・ドッグ」1枚のみ。80年代始めぐらいに購入か。B面の「ミスティ・マウンテン・ホップ」がいい曲だった。
 
WIKIを読んでいると、盗作疑惑だらけでどうなっているのかと思うが、アレンジして名曲ができれば、それに越したことはない。
 
Kashmir」が人気曲とされるが、どこがいいのか分からない。
 
三大ギタリストはジミ・ヘンドリックス、エリック・クラプトン、ジミー・ペイジ。
ジェフ・ベックはレッスン・プロ。
 
Good Times Bad Times    (1969年)
Communication breakdown  (1969年)
Heartbreaker         (1969年)
Whole Lotta Love       (1969年)
Living Loving Maid      (1970年)
Black Dog          (1970年)
Stairway to Heaven     (1971年)

ロックの名曲 ディープ・パープル 「ハイウェイ・スター」「ブラック・ナイト」」「バーン」「ハッシュ」

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ディープ・パープルDeep Purple1970年代前半に活躍したハードロックバンド。
 
レッド・ツェッペリンを引き継いでハードロックのスタイルを確立し、のちのヘビーメタル隆盛を導いたバンド。
最も勢いがあったのは、1969年~1973年で、リッチー・ブラックモアのギターの速弾き、印象的なリフが売物。
 
WIKIによる代表作「ハッシュ」「ブラック・ナイト」「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「バーン」は私のようにコアなファンではない者にとって妥当な選曲。
 
「ハイウェイ・スターHighway Star」が最重要曲。
19724月に大学へ入学し、自分の大学の軽音楽部の新歓ライブをやっていた教室を覗くと、CCRの「プラウド・メアリー」などをやっていて、クリーム系じゃないんだ、時代遅れだなと感じた。ジャズ部を覗くと「オン・グリーン・ドルフィン・ストリート」を演奏していた。
19724月中旬、近くの徒歩圏内の別の大学の食堂で夕方からロックのライブがあると聞いて出かけた。そこで、ぶっとんだのが、この「ハイウェイ・スター」だった。
無名のアマプロバンドだったにも関わらず、こんな曲があるのかと思った。まだ、ラジオでも聴いたことがなかった。歌の「ハイウェイ・スター」と盛り上げる歌い方、ギターソロの鮮やかさなど、完コピに近かったようだ。
この曲を含むアルバム「Machine Head」が1972325日、シングル「ハイウェイ・スター」の発売が英米で3月となっている。僅か1ヶ月弱で、この曲に注目し、完コピしたバンドがあるとは驚異的だ。当日な他にも10曲以上聴いたはずだが、この曲しか覚えていない。本物はしばらくして、日本でも大ヒット。
ハードロックの基準曲。
 
1972年以降、ディープ・パープルは大人気バンドとなった。「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「バーン」も続いてヒットした。その後は、飽きた。リッチー・ブラックモアが脱退した1975年以降は知らない。
 
1968年のスマッシュヒット「Hush」はリアルタイムで聴いていて、よく覚えている。アメリカだけでなく、日本でもヒットした。「ハッシュ」と「ナー・ナナナー・ナナ・ナナナー」という歌詞が印象的だった。サイケデリック・ロックとして良曲であった。しかし、その後は、名前がでてこなくなった。一発屋だと思い、バンドの名前は忘れた。
5年ほど前に、youtubeでディープ・パープルの曲と気づき、「ハイウェイ・スター」との落差に驚き、笑った。
バンドの方向性がサイケデリックやクラシックなどハードロック路線ではなかった。
1969年のアルバムはキーボードのジョン・ロードが主導したクラシック音楽路線、1970年からはレッド・ツェッペリンの成功に注目したリッチー・ブラックモア主導のハードロック路線へ転換した。
 
1970年の「Black Night」も名曲だが、そのときに聴いたか不明。「ハイウェイ・スター」以後のような気がする。
ガーシュインの曲が利用されているということに驚かされるが、「ハイウェイ・スター」や「スモーク・オン・ザ・ウォーター」にはバッハの曲のコード進行が利用されていることにも驚く。
 
Smoke on the Water」は1973年夏にアメリカで4位とヒットして、ようやく認められた。
Burn」。1974年。曲の1/3以降はだれてくる。ガーシュインの曲のリフが使われているという。
 

ロックの名曲 ブラック・サバス 「パラノイド」

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ブラック・サバスBlack Sabbath  「Paranoid パラノイド」
 
ブラック・サバスは、イギリスのハードロックバンド。ヘヴィメタルの源流となる始祖的グループとしても知られる。
 
「レッド・ツェッペリン」「ディープ・パープル」と並ぶ、三大ハードロック・バンドに数えられる、なんて誰が言ってるのか。ヘビメタ分野ではトップバンドかもしれないが、ハ-ドロック全体では、はるかに格下のバンドだ。
1968年にバーミンガムで結成。ボーカルのオジー・オズボーンと、ギターのトミー・アイオミの重いギターリフが特徴。
1970年の「パラノイド」がヒット。日本でもほぼ同時期にラジオでよく流されて、聴いていた。歌の流れ、ギターとも良かった。当時を代表する印象的な名曲といえよう。しかし、それ以降は私にとって魅力ある曲はなかった。
 
黒魔術や悪魔のイメージを打ち出していたらしいのは、何となく知ってはいたが、曲自体が快いものでなかったので、聴くことがなかったと思う。
音楽とは聴いて楽しくなるもの、快感になるもので、恐怖心を感じたり、不快になるものは音楽とはよばない。後者の音楽が好きだというのであれば、それは否定しないが、私は聴かないだけだ。
 
1977年にオジー・オズボーンは解雇されたが、80年代に音楽シーンへ戻ってきた。そのときに、「パラノイド」のボーカルと知ったが、醜悪な姿は不快だった。
ヘビー・メタルは嫌いな分野なので、今後とも聴くことはない。

ロックの名曲 ザ・バンド 「The Night They Drove Old Dixie Down」ジョーン・バエズ

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                                  2812秒から
 
歌詞も分からないのに魂をゆさぶられる曲というのは誰しもある。名曲とか有名曲でもなくても、アルバムを聴いていると必ずある。それが、ザ・バンドThe Bandのロビー・ロバートソンが作詞作曲した「The Night They DroveOld Dixie Down」だ。1969年の第2作アルバム「The Band」に収録されている。
 
以前から気になっていたこの曲がどう受け止められているのかと、昨日ネットで検索したら、「TheNight They Drove Old Dixie Down もしくは華氏65度の冬」という記事があった。
1992年、ボブ・ディランのデビュー30周年記念コンサートがNHKで放映された時、中学生だった私は、エリック・クラプトンに紹介されてステージに上がってきた「ザ・バンド」という名前のバンドに、なぜか心を惹かれるのを感じた。・・・・ボブ・ディランとザ・バンドの連名の"Before the Flood"(邦題「偉大なる復活」)という二枚組のライブアルバムが最初に買った洋楽のCDとなった。そしてその10曲目に入っていた「オールド・ディキシー・タウン」という曲に、14歳の私は文字通り魂を奪われてしまった。」
しかし、歌詞カードが間違いだらけでこの人はそれから、歌詞の謎解きに邁進し、洋楽歌詞和訳のブログを開くまでになったのだが、「タウン」ではなく「ダウン」というのは誤解で、「華氏65度」が1865年だったということが判明し、以後ネットで歌詞本来の意味を追求し続けた顛末が書かれていた。
 
この番組は私も見ていて、ニール・ヤングの「ウォッチ・タワー」にひどく感動し、ニール・ヤングを聴きなおすきっかけとなったが、ザ・バンドは記憶に残っていない。
しかし、「The Night They Drove Old Dixie Down」に魂を奪われた日本人がいることに感動する。
 
ザ・バンドについては、名曲の「ザ・ウェイト(The Weight)」(1968年)が感動的だった。リアルタイムなのか、映画「イージー・ライダー」の挿入曲として注目された1969年・1970年かそのあたりだろう。
1978年ごろ、名盤「Music from BigPink」を購入し、映画「ラストワルツ」も1978年公開時に見た。
そのときに、「The Night They Drove Old Dixie Down」も演奏されていたのだが、記憶に残らなかった。
 
私が、「The Night They Drove Old Dixie Down」に惹かれたのは、19731月にカンサス・ステート大学で行われたライブを収録した映画のサウンドトラックのアルバム「バンジョーマンBanjoman」に収録されたジョーン・バエズJoan Baezのカバーである。このアルバムは1977年日本で発売され、当時入手してよく聴きこんだ。
 
そのうち、ジョーン・バエズの「THE NIGHT THEY DROVE OLD DIXIE DOWN 」がすごく心に沁み込んできた。曲というのは、バージョンやテイク違いで、随分印象が違ってくる。小倉エージのライナー・ノートにオリジナルはザ・バンドと書いてあるが、気に留めていなかった。
 
you tubeで聴き比べてみると、ジョーン・バエズのシングル盤などのテイクより迫力がある。映画「ラスト・ワルツ」での本家の演奏はテンポがスロー過ぎて残念な仕上がりになっている。スタジオ版は歌い方のテンポが速く平板だった。やはり、ジョーン・バエズの「バンジョーマン」での歌唱には深みがあり、一番感動的だった。
 
最近youtubeでようやく、「Banjoman」全体がアップされ、ジョーン・バエズの「THE NIGHT THEY DROVE OLD DIXIE DOWN 」が聴けるようになった。2812秒から収録されている。

リヴォン・ヘルム とジョーン・バエズを比べると、肝心の「The Night They Drove Old Dixie Down」の部分の節回しが大きく違う。バエズが正調だと思って聴いてきたので、リヴォン・ヘルムのメロディには違和感がある。リヴォン・ヘルムがバエズのバージョンを嫌っていたのもうなづける。
バエズは録音時、歌詞を文字ではなく聞き覚えで歌ったので、"Stoneman's cavalry"を"so much cavalry"と間違えた。のちの演奏では訂正しているという。
 Georg  Stonemanは北軍騎兵隊の将軍でのちにカリフォルニア州知事になった。
ジョージ・ストーンマンのWIKIでも、題名を「彼らが古いディキシーを走った夜」と誤訳している。

私の場合、歌詞カードで「‘65年の冬」とはっきり読めたので、大枠は誤解することはなかった。南北戦争で敗れた南軍兵士が1865年冬の夜とぼとぼと敗走する情景が浮かんできた。しかし、全体を理解していたわけではない。
drive downは道を歩くという意味ではなく、(北軍が南軍を)追い払うという意味という。

youtubeでは、南部人のプライドや魂まで失ったわけではないと、南部人が南軍を憧憬する歌ととる人が多い。戦争の悲惨さを歌ったともとれる。
「ロバート・E・リー」のくだりは、将軍本人のことではなく、ミシシッピ川の木材運搬船の船名だというコメントがあった。

この歌にはホメロスの叙事詩のような感動がある。日本だと平家物語か。
 
youtubeでのコメント。
 
This is one of the most emotionally powerful songs I've ever heard.  I'm not a Southerner.  I grew up in New York, I have no lineage whatsoever, but I feel this song right in the core of my fuckin' soul.  Brilliant stuff.
I live in the south and this is a very emotional song for me
I love this 1971 Joan Baez hit, which peaked @ #3 on Billboard's Hot 100 singles chart!

ロックの名曲 ザ・バンド 「ザ・ウェイト(The Weight)」

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ザ・バンドThe Band は、アメリカのロック・バンド。1976年に解散。前身はカナダ・トロントのロカビリー歌手ロニー・ホーキンスのバックバンドで、1958年から1963年までにメンバーが揃った。1964年にホーキンスと別れてホークスとして独立。1965年ボブ・ディランのバックバンドとなる。1967年、ニューヨーク近郊でディランと非公式は録音を重ねる。1968The Bandと名乗って活動開始、アルバム「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」を発表。高い評価を受ける。ディランとは1974年までライブで共演した。
メンバーは、カナダ人のロビー・ロバートソン(ギター)、リチャード・マニュエル(ピアノ)、ガース・ハドソン(オルガン)、リック・ダンコ(ベース)とアメリカ人のリヴォン・ヘルム(ドラム・ボーカル)。
 
スタジオ制作を重視するロビー・ロバートソンとライブを重視する他のマンバーが対立し、ロバートソンは1976年、ライヴ活動の停止を発表する。
19761124日、サンフランシスコのウインターランドでラスト・コンサートを行なう。コンサートにはホーキンス、ディラン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、ドクター・ジョン、ヴァン・モリソン、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ロン・ウッド、ポール・バターフィールド、ニール・ダイヤモンドら多数の大物ミュージシャンが参加した。コンサートはマーティン・スコセッシにより映画化され、「ラスト・ワルツ (The Last Waltz)」として公開(米19784月、日19787月)された。
 
ロビー・ロバートソン(1943~)はトロント生まれ。父はユダヤ人、母はモホーク族インディアン。
19646月、ボブ・ディランは友人のブルース歌手ジョン・ハモンドjrが「So Many Roads」のセッションで、ハモンドがトロントで発見したロビー・ロバートソンが演奏するのを見ている。ハモンドはマイク・ブルームフィールドとのツインギターを望んだが、マイクはスタジオでロビーのギターを聴くなり、ピアノを弾くことにした。それくらいロビーのギターは素晴らしかったと、ハモンドは語っている。
 
アルバム「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンクMusic from Big Pink」(1968年)。
1970年代の音楽雑誌ではロック史上に輝く名盤として必ず採り上げられていた。
ジャッケトの表紙絵はボブ・ディランによる。
カントリー、フォーク、ブルース、ソウルなどのルーツ・ミュージックに深く根差したアーシーで粘っこいサウンドは、カラフルなポップさが持て囃されたシーンの潮流を一瞬で変えてしまった。(
黒人音楽と白人音楽とが融合したサウンドを作り上げ、独特の渋さを持つ曲が全編を覆っている。
 
エリック・クラプトンは、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を「人生を変えたアルバム」と評しており、1976年に発表されたクラプトンのアルバム『ノー・リーズン・トゥ・クライ』にはザ・バンド全員が参加している。
クリームの高い演奏力を持つ3人だけのライヴは、極度の緊張を強いた。「果たし合いのよう」とも形容されたそのパフォーマンスに観客は熱狂したが、クラプトンは心身ともに疲れ、「もう降りたい」と思うようになった。
まさにその時期、68年初夏、彼は「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」を聴き、強烈な衝撃を受けた。打ちのめされた。後年クラプトンは、あるイベントでザ・バンドを紹介する際、「彼らは僕の人生を変えた」とまで語っている。
オーガニックなハーモニーとでも呼ぶべきか、そこで彼らは、抑制された演奏で、なによりも歌そのものを大切にしていた。「ザ・ウェイト」や「ティアーズ・オブ・レイジ」など、味わい深く、物語性豊かな歌の数々は、クリームと対極にあるものだった。クラプトンは自分たちの音楽を「愚かで、とるにたらないもの」とまで感じたという。
 
ザ・バンドについては、名曲の「ザ・ウェイト(The Weight)」(1968年)が感動的だった。リアルタイムなのか、映画「イージー・ライダー」の挿入曲として注目された1969年・1970年かそのあたりだろう。日本のラジオでもよく放送された。

私は名声につられて、1978年ごろLP「Music from Big Pink」を購入した。しかし、「TheWeight」と「I Shall be Released」しか、いいと思わなかった。今回、数曲聴きなおしたが同じだった。力み、肩に力が入り過ぎていて、リラックスして聴けない。

 
The Weight」は適度にバランスのとれた名曲だった。andとボーカルが重なっていく部分が心地よい。ボーカルはやはり重苦しくもあるが、ホンキートンク風のピアノが軽く、南部風に全体の雰囲気を包んでいる。
 
作詞作曲はロビー・ロバートソン。スペイン出身の映画監督ルイス・ブニュエルの作品に影響を受けて書かれた楽曲である。「ブニュエルは聖人であることの不可能性を多くの映画で表した。『ビリディアナ』や『ナサリン』に描かれているように、人々はみな良き人であろうと望むが結局は自分のやりたいことしかやらない。『ザ・ウェイト』も同じことさ」とロバートソンは述べている。
 
旅人がナザレスという町に着いて出ていくまでを歌う。ナザレスは聖書にある地名だが、ロビーによればマーチン・ギターの生産地であるペンシルバニア州ナザレスのことと言っている。ロビーがリボン・ヘルムが育った聖書信仰地帯であるアーカンソー州などアメリカ南部を訪れたときの体験を題材にしたもの。
人生の重荷を歌ったものらしいが、人によってさまざまな解釈ができる曲である。
 
アレサ・フランクリンのカバーを聴いたが、騒々しい。ザ・バンド版のしみじみさの方が味わい深い。
 
映画「ラストワルツ」も1978年ごろの公開時に見た。
ロビー・ロバートソンが仕切っていて、この人がメインのバンドだったのかと思った。
ガース・ブルックスが厳格な家庭に育っていて、両親をなだめ誤魔化すことに苦労した話が印象的だった。
ロビー・ロバートソンのギターはなかなか良かった。
地味なバンドと思っていたが、聴かせるライブもできるバンドだったんだと見直した。
ゲスト陣も豪華でコンサートライブの映画としては満足した。
 

ロックの名曲 プロコル・ハルム A Whiter Shade Of Pale 青い影

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プロコル・ハルムProcol Harum1967年から1970年に活躍したイギリスのロックバンド。
前身のR&Bバンドが1966年に解散し、中心メンバーであったゲイリー・ブルッカーは、プロデューサーの紹介でキース・リードという詩人と出会い、オルガニストのマシュー・フィッシャーを仲間に迎え入れ、1967年にプロコル・ハルムが結成された。
1967年のデビュー曲「青い影」が世界的な大ヒットを記録した、
 
「青い影」。マシュー・フィッシャーのオルガンによる荘重なイントロのハモンドオルガンは、バッハの『管弦楽組曲第3番「G線上のアリア」』からの引用とされる。
メロディーの肝は「And so it was that later」のところで、ボーカルもオルガンも序・破・急の破・急の急展開をするところと思う。このひねり技が効いている。
 
1967512日にイギリスで発売され6月から6週連続1位。アメリカで5位。
 
私は1967年春から意識的にラジオの洋楽番組を聴き始めた。
日本での正確な発売日は分からないが、そんなに遅れてはいないと思う。夏休みの午後に初めてラジオで聴いたような記憶がある。「山の中に籠もって作った」と紹介されていた。
それから、すぐにラジオから頻繁に流されたので、知らないリスナーはいないだろう。
半年以内には、2枚目のシングルが発売された。「月夜のオルガン」のような邦題だったのか、よく覚えていない。「Homburg」ではなかったと思う。そんなに悪くない曲だったので、一発屋ではなくて良かったと思ったが、それ以降のヒット曲は知らない。
 
「青い影」を荒井由美が当時聴いて感動し、ギターでなくてもポップスが出来ると思い、作曲家となったという話は1年前ごろに知った。「青い影」にインスパイアされて「ひこうき雲」が生まれたという。「翳りゆく部屋」もそうらしい。
 
 
作詞者のキースが、あるパーティ会場で、男性が女性に向かって「(ただでさえ色白の)君の肌が更に青白く(=a whiter shade of pale)なってきたよ」と言ったのを耳にしたことが、この曲を作るきっかけとなった、という。エピソードはつとに有名。
歌詞は、英語圏の人々が内容を理解するのを諦めてしまうほど難解だと言われている。
 

パーシー・スレッジpercy sledgewhen  a man  loves  awoman1966年)からの影響が指摘されている。

 
引用がバッハの曲ということに意義がある。バッハの音楽は現代人にも分かる。私は、クラシック音楽で誰の曲が好きかといえば、バッハしかない。「マタイ受難曲」も10年ほど前はよく聴いていた。モーツァルトやベートーベンとなると、一部の曲しか好きではない。バッハの宗教音楽は人類にとり普遍的な要素があるのではないか。
ベートーベンぐらいになると、人間的な色が附いてしまっているという感覚がある。

80年代の名曲 スウィング・アウト・シスター 「 Breakoutブレイクアウト」  

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Swing Out Sister Breakout
 
スウィング・アウト・シスターはイギリスのポップトリオ・デュオ。
1984年、アンディ・コーネル(キーボード・作曲)、マーティン・ジャクソン(ドラム)、コリーン・ドリューリー(ボーカル)の3人で活動をスタート。
89年にマーティン・ジャクソンが脱退。
 
コリーン・ドリュリーCorinne Drewery1959年~)は、ノッティンガム生まれ。彼女の父がトム・ジョーンズやサンディ・ショウなどのサポートを務めたミュージシャンだった事もあって、ドリュリーもクラシックやポップ・ミュージックに囲まれつつ育った。17歳の時にロンドンに移住し、アート専門学校・セント・マーティンズでファッションを学んだ(シャーデーは同窓生)ドリュリーはデザイナー兼モデルの仕事に就いた。モデル時代には、当時BIGIに在籍した菊池武夫のコレクション・ショーで来日したこともあるが、シンガーになる夢も持っていた。
 
85年にデビュー。86年に入ってからリリースしたセカンド・シングル「ブレイクアウト」が英4位とヒット。世界的にも大ヒットした。この曲を収録した1stアルバム『ベター・トゥ・トラベル』(87)は全英アルバム・チャート初登場1位に輝いた。
 
アルバム「ベター・トゥ・トラベル」は、管楽器・弦楽器調のシンセサイザー、ドラムサウンドや木琴などを効果的に織り交ぜ、ジャズと当時流行ったテクノポップを融合させたものとなっている。これは、1950年代後半のナイトクラブ的雰囲気に、テクノポップ調の装いを纏わせたホーンセクションを用いたジャズと解釈されている。
 
「ブレイクアウト」。19869月英4位、米6位。1987年米AOR部門1位。米では現在でもAORおよびスムーズジャズ的な曲として好まれているという。
華やかでリラックスした上質なポップ。「Breakout」と歌うイントロの声が印象的。
 
アルバム「Kaleidoscope World1989年のうち2曲が良曲。
Waiting Game」。「ブレイクアウト」に通じるポップ調な曲で、アメリカのみでシングルカットされた。
You On My Mind」。
 
日本のテレビドラマの主題歌用に書き下ろした「Now Youre Not Here」(あなたにいてほしい)が、ドラマとともに大ヒットし、オリコン洋楽シングルチャートで19968月から11週連続1位を獲得した。
聴いてみたが、たいした曲ではなかった。

米ユダヤ系団体  ナチス帽着用でBTS非難

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11/12() 11:32配信 共同通信 yahooニュース

「米ユダヤ系団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」は11日、原爆のきのこ雲がプリントされたTシャツを過去に着用したことで日本のテレビ出演が中止になった韓国の男性音楽グループ「BTS(防弾少年団)」が、過去にナチス親衛隊(SS)の記章をあしらった帽子をかぶったり、コンサートでナチスを想起させる旗を掲げたりしていたとして非難した。
同センターのエーブラハム・クーパー副所長は「原爆被害者をあざけるTシャツの着用は、過去をあざけるこのグループの最新の事例にすぎない」と指摘。「BTSは日本の人々とナチスの被害者に謝罪すべきだ」と強調した。」
 
K-POP10年ほど前からか、「カラ」あたりから全く嫌いだ。東方神起とか、聴くことはないが、耳に入るたびに聴かないことにしている。彼らは音楽を好きでやっているわけではない。金儲けのために、売れ線を計算している。そのことが見え見えで、あざといしか見えないので嫌いになる。情感のない人工的な音楽だ。
 
2012年、「江南スタイル」で世界的なブームを起こしたPSY(サイ)。このときもyoutubeを人海戦術でクリックしまくりで、ヒットしているように見せかける戦術をとった。やることが汚い。
大体、PSYなどという美称を使うことが許せない。文鮮明もmoonにしている。月なんて美称を使うな。
 
BTSでググると、ブラッド・スエット・ティアーズが出て来る。歴史的名バンドの名前を連想させて騙そうとしているとしか思えない。
 
K-POPが好きなやつは、みんな騙されている。本当の音楽を知らない。
 
反日にしないと、韓国内で反発がある。反日であれば称賛され、勲章も貰える。計算づくだ。

ナチス親衛隊関連の帽子、旗はなぜか分からない。教育されていないアホなのか。歴史的素養がない。ナチス称賛など、日本会議にでも教えてもらったのか。ばかばかしい。杉原千畝の爪の垢でも飲めばよい。安倍晋三は名前の読み方を知らなかったらしいが。


韓国は文化交流を政治問題にするなと言ってるようだ。文化交流なんて、おこがましい。まともな文化でもないくせに。文化交流であっても、政治的意図があったら政治問題になるのは当たり前だ。その計算・配慮ができないところが、韓国文化戦略の幼稚なところだ。

要するに韓国人アーチストには「韓国ファースト」の姿勢が要求されるし、そうなってしまうことが問題だ。
日本人アーチストだったら、他国をわざわざ誹謗しようとは考えないし、他国と共存できるように気を使えると信じている。なので、「日本ファースト」などと言い出さないように望んでいる。
アメリカ人アーチストもまともな人は「アメリカファースト」とはいわない。テイラー・スウィフトやニール・ヤングもそうだろう。
アメリカだけが市場でなく世界が市場であり、国益よりも人類全体の幸福のほうが大事なことだからだ。

ロックの歴史的バンド バーズ 「Mr. Tambourine Man」「All I Really Want to Do」「Turn! Turn! Turn!」

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バーズ (The Byrds) は、アメリカのフォーク・ロック、カントリー・ロック・バンド。
1964年にロサンゼルスで、ロジャー・マッギン、ジーン・クラーク、デヴィッド・クロスビーによって結成され、その後ベースのクリス・ヒルマン、ドラムのマイケル・クラークが加入した。
彼らは、ソロフォーク歌手やフォークグループに参加して演奏活動をしていたが、ビートルズの影響でバンドを結成した。
 
フォーク・ロック時代の名曲に「Mr. Tambourine Man」「All I Really Want to Do」「Turn! Turn! Turn!」。
いずれも1965年。
 
アメリカの音楽シーンは、1950年代末にロックンロールが停滞し、空白期となった。60年から64年まで、ポップスの主流はボビー・ダーリン、パット・ブーンらの白人で、若者たちの間ではフォーク、黒人ブルースに人気があり、モータウンも健在だった。63年ごろから、ビーチボーイズなどのサーフィンミュージックが流行しだす。
ビートルズは1963年初めにアメリカでレコードデビュー、19642月にエドサリバンショーに出演して人気が沸騰、アメリカの音楽シーンを転換させる大きな影響を与えた。
フォークが一気に衰退し、ギターのエレクトリック化、ロック化が始まった。
 
バーズの創設メンバーであるロジャー・マッギン(1942年~)は、ニューヨークでフォークシンガー兼ギタリストとして身を立てようとしていたころ、196413日にビートルズ映像を見て衝撃を受け、グリニッチ・ヴィレッジのレコード店で「ミート・ザ・ビートルズ」を購入した。
19643月マッギンはロサンゼルスへ移り、クラブでビートルズを歌ったが、フォークスタイルだったためブーイングされる。一人だけ気にいってくれたのが、ジーン・クラークで、すぐに意気投合した。そこに加わったのがデビッド・クロスビー(1941年~)で、「ジェット・セット」と名乗り、3人でレコーディングを始めた。
 
1964年夏、プロデューサーのジム・ディクソンはディランの「ミスター・タンブリン・マン」(未発表の1964年版)を取りあげるよう勧めた。当初は自分たちの曲ではないと拒否したが、いい自作曲がなかったので、何度も試作録音を重ねることになった。6410月下旬にほば現在の形が完成し、デモテープがプロモーターのベン・シャピロに渡る。本人は理解できなかったが、11歳の娘が聴いて興奮した。翌朝、シャピロ宅に来たマイルス・デイヴィスが若者に受けた曲があることに興味を示し、ジェット・セットのテープを聴くようにCBSコロンビアレコードに電話した結果、11月に両者は契約を結ぶ。その後、バンド名をバーズと改名。
 
1965120日「ミスター・タンブリン・マン」録音。マッギンのギターとボーカル、クラークとクロスビーがハーモニーに加わり、、あとはセッションマンが演奏した。1965412日発売、626日ビルボード1位。
フォークロックという名称が初めてマスコミに登場したのは1965612日のビルボード誌とされる。ロックという言葉も初めて認知されたので、バーズがアメリカで生まれた初めてのロックバンドということになる。
(以上、「ビートルズとアメリカ・ロック史」中山康樹2009年より)
 
バーズのフォークロック時代は1965年でアルバム「ミスター・タンブリン・マン」と「ターン・ターン・ターン」の時代であり、マッギンの12弦ギターの特徴ある音色はジングル・ジャングル・サウンドとよばれた。
 
「ターン・ターン・ターン(Turn, Turn, Turn! (ToEverything There is a Season))」は、『旧約聖書』の「コヘレトの言葉(伝道の書)」3章を元にしたピート・シーガーの曲。
All I Really Want To Do」もデイランの曲。

私がロックを聴き始めた1967年春には、過去のバンドとなって話題にならなかった。「クロスビー、スティルス&ナッシュ」の「「ティーチ・ユア・チルドレン (Teach YourChildren)」(1970年)が映画『小さな恋のメロディ』19716月に公開され、挿入歌としてヒットしたときに、バーズとバッファロー・スプリングフィールドの元メンバーだったことが話題となり、両バンドの過去曲をラジオで聴くようになった。
流行遅れとされた時代だったので、聴く機会は少なかったが、上記3曲が印象的だった。
 
Youtube20曲ほど聴いたうちの良曲。
Mr. Spaceman」 1966年。
Jesus Is Just Alright」(1969年)ドゥービー・ブラザーズのカバーで知っていた。
Positively 4th Street 寂しき4番街」ディラン作。(1970年)
 
「リムニーのベル(The Bells of Rhymney)」 から影響を受けてジョージ・ハリソンが「恋をするならIf I Needed Someone」を作ったが、駄曲だった。
 
Eight Miles High」。曲自体はたいしたことがない。
 
グラム・パーソンズが唯一参加したアルバム『ロデオの恋人(Sweetheart OfThe Rodeo)』(1968年)を聴いてみたが、カントリーロックといえるのはスティールギターの部分のみで、リードギターには反映されておらず、カントリーロックとしては、まだ未完成と感じた。

ロックの名曲 ママス&パパス 「夢のカリフォルニア」「マンデー・マンデー」

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ママス&パパス(The Mamas & the Papasママズ&パパズ)は、1960年代後半のフォークロックグループ。
代表曲は、「夢のカリフォルニアCalifornia Dreamin'」「マンデー・マンデーMonday, Monday」。
 1998年、ロックの殿堂入り。
ジョン・フィリップス、ミッシェル・フィリップス、デニー・ドハーティ、キャス・エリオットの4人グループ。
 
リーダーのジョン・フィリップス(19352001年)は、1959年ジャズコーラスグループ結成。メンバーにスコット・マッケンジーがいた。1960年フォークトリオ「ジャーニーメン」結成。ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジで活動。64年解散。
ミッシェル・フィリップスは62年ジョンと結婚。モデルや女優を目指していた。
デニー・ドハーティは61年カナダでフォークトリオを結成、63年ニューヨークに進出し、「ハリファックス・スリー」と改称し、レコードを数枚発表した。64年解散。
キャス・エリオットはミュージカル女優を目指すかたわら歌手として、ニューヨークでフォークトリオ「ビッグ・スリー」を結成。63年デニー・ドハーティ、ザル・ヤノフスキー(のちラヴィン・スプーンフル)と「マグワンプス」を結成。ジョン・セバスチャン(のちラヴィン・スプーンフル)も伴奏に参加。
 
64年ジョンとミッシェルのフィリップス夫妻がフォークバンド「ニュージャーニーメン」結成。のち、ドハーティが参加するトリオとなる。651月から6月までヴァージン諸島でリハーサルを重ねる。ワシントンDCでジャズを歌っていたキャスがドハーティを頼って合流。
 
ジョンはハーモニーやコーラスに傾倒しており、ロックンロールを知らなかったが、ビートルズに影響されたドハーティがエレクトリック化を提案し、さらにバーズの「ミスター・タンブリンマン」を聴いてフォークロックへの転換に同意した。
 
ヴァージン諸島からニューヨクへ帰るときには、費用がなくなり、カードゲームで17連勝して費用を稼いだ。
グリニッチ・ヴィレッジに帰ると、仲間はカリフィルニアに移っており、彼らも7日後、車でサンフランシスコへ移った。
「明日なき世界」をヒットさせたバリー・マクガイアを通じて、815日ダンヒルレコード創設者ルー・アドラーの前で「夢のカリフォルニア」と「マンデー・マンデー」を歌った。アドラーはみすぼらしい4人組の天使のような歌に、自分の目と耳が信じられなかったが、契約を即決した。デビューアルバムのタイトルは彼の驚きをそのまま表現し、「If You Can Believe Your Eyes and Ears」と決められた。
 
196512月、フィリップス夫妻によって書かれた「夢のカリフォルニア」を発表。同曲は663月米4位の大ヒットとなった。次のシングル「マンデー・マンデー」は6651位になった。
 
1966年、ミシェル・フィリップスとバーズのジーン・クラークとの不倫が発覚、前年のドハーティとの不倫はジョンと和解していたが、2度の不倫にミシェルは夫のジョンにグループを脱退させられた。しかし、適当な代役が見つからなかったため、ミシェルは結局すぐに復帰した。この顛末をテーマにした1966年発売のシングル「アイ・ソー・ハー・アゲイン」は米5位とヒットした。
 
1967616日から3日間開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。ジョンはフェスティバルのテーマソング的役割を果たす「花のサンフランシスコ」を書き、「ジャーニーメン」時代の同僚のスコット・マッケンジーが歌ったシングルは全米4位を記録した。
モンタレー以降、ジェファーソン・エアプレイン、ジャニス・ジョプリン、ジミ・ヘンドリックスらが注目されて、新しいロックの時代となり、フォークロックの時代は終焉した。
1967年の夏に、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーにヒッピーが集結し、ヒッピー・フラワームーブメントが盛り上がり、サマー・オブ・ラブとよばれた。
 
1967818日、ママス&パパスはハリウッド・ボウルで解散コンサートを開催した。前座はジミ・ヘンドリックスが務めた。その後、メンバーはそれぞれ個人的な活動を始め、1971年に正式に解散した。
 

フィリップス夫妻は1970年に正式に離婚した。ミシェル・フィリップスは1970年に俳優のデニス・ホッパーと8日間だけ結婚した。1987年、ミシェルはベリンダ・カーライル最大のヒット曲「Heaven Is a Placeon Earth」でコーラスを務めた。

 

「夢のカリフォルニア」は、1963年当時ニューヨークに住んでいたジョン・フィリップスとミシェル・フィリップスによって制作された。寒い冬のニューヨークから暖かいカリフォルニアを夢見る歌である。

 
この曲はバリー・マクガイアのアルバム「プレシャス・タイム」の1曲として、リードボーカルをバリー・マクガイアがとり、ママス&パパスがバックコーラスを担当し、6511月に録音された。
P.F.スローンがバーズの「ミスター・タンブリンマン」を意識して編曲し、彼自身がヴェンチャーズの「ウォーク・ドント・ラン」からヒントを得たリズムギターを弾いている。
 
ママス&パパス版は、このオリジナルテープを利用し、マクガイアのボーカルを削除して、ドハーティーに差し替え、間奏のマクガイアのハーモニカをバド・シャンクのアルト・フルートのソロに差し替えた。コーラスや伴奏はそのまま使用した。
 
私が洋楽を意識的に聴きはじめる1967年以前の66年ごろ、「夢のカリフォルニア」はビートルズの「ミシェル」やホリーズの「バス・ストップ」のように人気のある曲としてラジオを通じ誰もが知る曲だった。
スコット・マッケンジーの「花のサンフランシスコ」は1967年後半には日本でも知られるようになり、ヒッピー文化に私も憧れをいだくようになった。
「夢のカリフォルニア」が代表曲すぎて、ほかの曲を聴くことはラジオでは余りなかったように思う。
 
中山康樹は、ママス&パパスを、フィリップス自身の年齢に応じてジャズやスタンダードの要素を加えた「アダルトなフォークロック」をめざしたとする。その結果、それまで未開拓だった年齢層に支持され、先行するバーズ以上の一般的な人気を獲得したと評価している。
 

ロックの歴史的バンド バッファロー・スプリングフィールド 「For What It's Worth」「Mr. Soul   

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バッファロー・スプリングフィールドBuffalo Springfieldはウエストコーストのロックバンド。
 
バッファロー・スプリングフィールドは、19664月にデビューした。フォークロック、サイケデリック、ロック、カントリーロックなど様々な音楽的要素をもつ。メンバーたちの際立った個性がぶつかり合い、特にスティーヴン・スティルスとニール・ヤングの対立が絶えず、19685月に解散した。
 
活動期間は約2年と短く、大きな商業的成功も得られなかったが、CSN&Y 、ポコなど1970年代以降の音楽シーンの第一線で活躍する人材を輩出し、ウエストコーストロックの集大成であるイーグルスの成功につながる大きな源流となった。1997年にロックの殿堂入り。 
 
1965年、Au Go Go Singers (ニューヨークのグリニッチ・ヴィレッジのクラブをベース)の派生グルウープメンバーとしてカナダ・オンタリオ州を訪れていたスティーヴン・スティルス、リッチー・フューレイの2人が、当地でギタリスト、ニール・ヤングと知り合った。この出会いが後のグループ結成につながる。
バンド解散後、スティルスはカリフォルニアに拠点を移し、プロデューサーのバリー・フリードマンから紹介された仕事をこなすためにバンドが必要になり、リッチー・フューレイをカリフォルニアに呼ぶ。これでスティルスとフューレイが揃う。
 
ヤングは1966年始め前半、トロントでブルース・パーマー(ベース)に会い、彼が所属していたバンドに加入し、レコーディングしようとしたが、ボーカルが米海軍の脱走兵と分かりデビューのチャンスを失う。ヤングとパーマーはスティルスとの再会を望み、ロサンゼルスに向かった。

スティルスの居場所を見つけられなかったヤングとパーマーはカナダナンバーのポンッティアックの黒い霊柩車に乗り、4月6日、サンセット大通りで大渋滞にはまり立ち往生する。すると、対向車線にスティルス、フューレイらが乗った車が偶然通りかかり、彼らは再会を果たす。
 
1966411日にハリウッドのナイトクラブ「トゥルバドール」でデビュー。数日後にはザ・ディラーズ、バーズの前座としてカリフォルニアを短期間ツアーした。
 
ツアー終了後、バーズのクリス・ヒルマンが有名なナイトクラブ「ウィスキー・ア・ゴーゴー」のオーナーに掛け合い、バッファロー・スプリングフィールドは19666月から2カ月間、ウィスキー・ア・ゴーゴーのレギュラーとして採用されて演奏が評判を呼び、アトランティックレコードと契約した。
8月に初シングル「NowadaysClancy Can't Even Sing」が発売された。
 
11月、LAのナイトクラブの閉鎖に抗議してサンセット大通りに集まったジャック・ニコルソンやピーター・フォンダを含む若者の群衆に対し、警察が働いた暴力的行為を目撃したスティルスは、彼のエポック・メイキングとなる曲「For What It's Worth」を書いた。数日後にはレコーディングされ、ロサンゼルスのラジオ局から流された。この曲は67年の3月にビルボード7位と大ヒットし、バンドの代表曲となった。
 
196612月、デビュー・アルバム『バッファロー・スプリングフィールド』をリリース。
19676月、モントレー・ポップ・フェスティバルに出演。この時ヤングは一時的に脱退しており、デヴィッド・クロスビーらをゲストに迎えてステージを務めた。
196711月、セカンド・アルバム『バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン』をリリース。
19681月に薬物不法所持のためパーマーが再び強制送還され、グループは後任にジム・メッシーナを加入させる。パーマーがいなくなったのに続いてヤングも徐々にグループから離れていった。
19684月、メンバー3人に加えてエリック・クラプトンも巻き込んだドラッグ事件が決定打となってグループは解散を決めた。ラスト・コンサートは55日、ロングビーチ・アリーナで開催された。結成からわずか2年後のことであった。
 
CSN&Y。在籍中から衝突を繰り返したスティルスとヤングだが、のちにスティルスが作ったCS&Nにヤングが参加し、CSN&Yが誕生することになる。そこでも2人は対立し、グループの解散の原因となったが、その後もさまざまなかたちで2人は共演している。
 
ポコ。リッチー・フューレイとジム・メッシーナが中心になってポコを結成する。結成メンバーには、後に脱退してイーグルスを結成するランディ・マイズナーがいた。
マイズナー脱退後、後任としてポコに加入したティモシー・B・シュミットは、マイズナーがイーグルスを脱退すると、マイズナーの後任としてイーグルスに加入した。
メッシーナはポコ脱退後、ケニー・ロギンスとのコンビ、ロギンス&メッシーナを結成。
 
私が洋楽を聴きだした1967年では、ジェファーソン・エアプレイン、のちにジャニス・ジョプリン、ドアーズなどがブレイクしており、ウエストコーストのバンドとして名前は見聞きするものの、バッファローの曲をラジオで聴いたことはない。
「クロスビー、スティルス&ナッシュ」の「ティーチ・ユア・チルドレン」(1970年)が映画『小さな恋のメロディ』19716月に公開され、挿入歌としてヒットしたときに、バーズとバッファロー・スプリングフィールドの元メンバーだったことが話題となり、両バンドの過去曲がラジオで流されるようになったが、それでもまとまって聴くことはなかった。ラジオでは聴けないので、アルバムを聴くしかないバンドだった。
ニール・ヤングを再認識した90年代前半にベスト盤のようなものを聴くと、好みの名曲が目白押しだった。カセットに録音してよく聴いた。
 
For What It's Worth        1966年 スティーヴン・スティルス
Go And Say Goodbye        1966年 スティーヴン・スティルス
Nowadays Clancy Can't Even Sing 1966年 ニール・ヤング
Mr. Soul             1967年 ニール・ヤング
Bluebird             1967年 スティーヴン・スティルス                                  
Broken Arrow           1967年 ニール・ヤング 
rock and roll woman        1967年 スティーヴン・スティルス
 
Youtubewikiが充実してくると、スティーヴン・スティルスがモンキーズのオーディションに髪と歯が汚いという理由で落ちたと知って笑った。彼は、友人のピーター・トークを紹介してピーターが選ばれた。
スティーヴン・スティルスの妙な動きにも笑った。
 
A Child's Claim To Fame      1967年 リッチー・フューレイ  

続 BTS問題への解説ニュース

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「原爆Tシャツ」「ナチス帽」で苦境のBTS 全米1位の裏にある“異常”な実態

11/15() 7:30配信ITmedia ビジネスオンライン yahhoニュース
 
あらためてこのBTSというグループの実態について調べてみると、なかなか興味深いことが見えてきた。そもそも英語の歌を歌っていなかったBTSが「全米ヒットチャート1位」になった背景には何があるのか。英語圏での本当の評価はどんなものなのか。そしてそうした背景から、今回の騒動はどこに行くのかを探ってみたい。
 
16年には米フォーブス誌の「ここ30日で最もリツイートされたアーティスト」という世界的なランキングで、なぜか突然、米大物歌手のカニエ・ウェストやジャスティン・ビーバーなどを押しのけて、BTSがトップになるという現象が起きている。
 
この話で思い出すのは、米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」だ。これには随分前から読者がネットで投票できるシステムがあったのだが、なぜか06年から、世界的に知られているとは言い難い韓国人アーティストが何年も続けてトップになるという現象が起きて話題になっていた。おそらくファンが、ネットを使ってどんどん投票を行ったのだろうとの声もあった。
 
韓国系の人たちは、この手の人海戦術は以前から得意だったようだが、それは最近も変わらない。18年版でも同誌のオンライン人気投票は、BTSがダントツの1位になっている。しかも同じランキングの2位は韓国の文在寅大統領。Webサイト内には、米ドナルド・トランプ大統領、カナダのジャスティン・トルドー首相など、そうそうたる顔が並んで掲載されているが、その中で堂々のワンツーフィニッシュはちょっと異様である。冷静に見れば、熱心な支持者がかなり力を入れて投票をしていると考えるのが自然だろう。
 
アーミーは、ネットなどどこかに投票できるチャンスがあれば飛びつき、ソーシャルメディアなどでもBTSを推すことに余念がなかった。ネット投票で決まるビルボード音楽賞のトップ・ソーシャル・アーティストというランキングでは、17年と18年にジャスティン・ビーバーをおさえてトップになったのがBTSだった。世界で最も人気があるというのは、申し訳ないがちょっと違うと多くの人が思ったはずだ。
 
実は、BTS1025日に初めて英語の曲を米国で発売した。だが残念ながら売り上げはパッとせず、全米シングルチャート「ビルボード100」ランキングでは、現時点で最高89位にとどまっている。どうもBTSK-POPが米国で旋風を巻き起こしているというのは言い過ぎのように感じる。
 
もっと言えば、アーティストとしての評判は米英の評価を見ている限り芳しくないようだ。英ガーディアン紙の評価は「あまりにありふれた作品」と特に辛辣で、「曲を聞いたすぐ後でも何も記憶に残らない。右から入った音楽がそのまま左の耳から出ていってしまい、何の印象もない」と書き、「ソーシャルメディアのファンの力による口コミをここまでうまく生かしたものはなかった」と皮肉っている。
 
原爆とナチスについては、認識不足では許されない話だろう。人類史に残る大量殺人である原爆投下や、ユダヤ人に対する大虐殺を行ったナチスについて、軽率に扱うのはあまりにもひどい。
 
もちろん、「若気の至りで事の重大性に考えが至らなかった」、また「軽いノリだった」と理解したい人たちがいるのも分かる。ただそれなら、その事実を認めて潔くきっちりと謝罪でもすれば、日本人やユダヤ系団体の受け取り方も多少は違ったかもしれない。特に、日韓の歴史問題などで「どれだけ謝罪をすればいいのか」と苛立っている日本人は多いだけに、逆に潔く謝罪をすれば、普段は憤っているそんな日本人も寛大さを見せるはずだ。繰り返し蒸し返して謝罪を要求したりはしないだろう。
 
ただ残念ながら、反日教育を行ってきた韓国には、日本に謝罪をさせない空気がある。それがこの問題を複雑にしている。米ニューヨーク・タイムズ紙は「彼らは(番組出演がキャンセルになったことについて)ファンには謝罪したが、Tシャツについては触れていない」と書いていたが、おそらくBTSにとって、韓国の世論を見れば謝罪という選択はできないのだろう。
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