d_trSVbvbm8 テニアン島 潮吹き穴サイパン空港滑走路から北のタポチョ山方向を望む。
2013年4月10日(水)、ガラパンの見学を終え、サイパン空港へは10時50分頃に到着。テニアン島へ向かう航空会社のカウンターへ行き、11時40分の便を予約したと告げると、怪訝な顔をされた。スターマリアナズエアーだった。横にあるフリーダムエアのカウンターへ移り、航空券を発行してもらう。往復69ドル。待合室で待っていると、11時15分頃に搭乗を促された。乗客は2人。11時20分頃に滑走を始め、テニアン島へ向かった。
サイパン空港上空から北のタポチョ山とラウラウ湾・カグマン半島方面。
サイパン島南沖上空からサイパン島南部。左側の海岸部はチャラン・カノア。
テニアン島北部。エーブル滑走路跡、ハゴイ空軍基地、旧日本軍牛飛行場跡。
テニアン島北部。エーブル滑走路跡、ハゴイ空軍基地、旧日本軍牛飛行場跡。
テニアン空港に到着したフリーダムエアのセスナ機。4人乗り。
待合室を出て道路向かい側にあるアイランダーのオフィスでレンタカーを借りる。トヨタ・ヤリス。半日45ドルと保険で74ドル。地図を貰うが、英語・中国語・ロシア語表記。ブロードウェイを北上する。
旧日本海軍通信所跡。ブロードウェイを10分近く北上すると、右側にこの建物がある。頑丈なコンクリート造で状態は良い。近年まで牛の屠殺場として使用されていた。
旧日本海軍通信所跡。内部に入るが、面影は少ない。2階への階段もあるが、薄気味が悪いので昇らなかった。
アメリカ記念碑。戦没した米兵の慰霊碑として戦後にアメリカによって建てられた。鳥居や灯篭を移して配置しているため日の出神社と誤って呼ばれている。
本来の日の出神社跡は、この手前南500mほどのところにあるが、気づかずに通過した。北部見学の最後に見ようとそのまま北の飛行場方面へ向かったことが、50ドルの臨時出費につながった。飛行場からチュル・ビーチを見学し、南西方向へアメリカ記念碑までの短絡路を進んだところ、灌木の枝が道路を覆っていたため、車の側面に擦り傷が付き、ジャングルを走ったのかと言われて修理費用を払わされた。
潮吹き穴。ブロードウェイを北東へ進むと交差点に出た。海岸へ向かうと潮吹き穴のある海岸へ出た。10mほどの高さで常時盛んに吹き出している。日本にもあるが、これほどの潮吹き穴はなかなかない。
北部地区から見るサイパン島は至近距離に見える。タポチョ山の山腹もはっきり確認でき、戦闘時では戦車の動きも逐一視認できたものと思われる。
潮吹き海岸への交差点 に反対の西方向へRUNWAY ABLEと表示がある。道路が粗末だったので、気づかず北進したが、間違ったと気づき、さきほどの交差点へ戻って、エーブル滑走路へ西進した。
日本軍飛行場指揮所跡。エーブル滑走路への表示を西へ進み、いくつかの道標に導かれて、牛飛行場駐機場跡の広大な広場へようやく行き着く。この地区は旧日本軍牛飛行場跡の主要部に相当する。航空隊司令部庁舎跡や防空壕跡も散在するが、まず右奥の当施設から見学。残存状況は良好。
日本軍飛行場指揮所跡。米軍作成の案内板。米軍の日本軍施設・航空機への破壊状況が分かる。
日本軍飛行場指揮所跡から牛飛行場駐機場跡を見る。視線の先には2棟の防空壕跡が見える。右
の北側には日本軍航空隊司令部庁舎跡がある。
日本軍航空隊司令部庁舎跡。この建物には、昭和19年2月以降、角田覚治中将指揮下の第一航空艦隊司令部が置かれた。 マリアナ沖海戦において、第一航空艦隊司令部は中部太平洋方面の基地航空隊を指揮下に置いていたが、第一航空艦隊は米海軍の空襲によって壊滅した。残存の搭乗員・整備員・司令部職員も、その後、テニアン島で米軍との戦闘によって玉砕した。
司令部庁舎らしく2階建ての重厚な建物である。中国人による落書きも多く、内部は現在立ち入り禁止。
日本軍防空壕跡。牛飛行場駐機場跡の西端にある。サイパン島にある旧日本海軍共通の形状。コンクリート製の防空壕で、地上に作られている。
日本軍防空壕跡。入口には鉄の扉があり、当時は隙間にゴム製パッキンが装備され、毒ガスの攻撃にも耐えることが出来た。扉の前には爆風よけのコンクリート製防壁が造られている。
パノラマ写真。左から防空壕跡、左奥に航空隊司令部庁舎跡、全体が牛飛行場駐機場跡、右奥に飛行場指揮所跡。この地区はまとまって見学できる。
航空隊司令部庁舎跡の左側道路から北にある原爆搭載ピットへ向かう。
原爆搭載ピット。長崎へ投下された原爆の積荷場跡。保存と展示の為に現在はガラス張りのシェルターが設置されている。
一帯は広場になっていて、滑走路へ向かうB29駐機場の跡。左方向に少し離れて、広島へ投下された原爆の積荷場跡がある。
原爆搭載ピット。内部。原爆は大型で重量もあったため、大掛かりな搭載設備を必要とした。
日本軍燃料庫跡。原爆搭載ピットへのアクセス道を戻り、周遊道路を200mほど東へ向かうと、北側に日本軍燃料庫跡・弾薬庫跡への案内看板があり、車を中へ乗り入れて駐車。説明看板があり、左右へ各施設への道が分かれている。道が良さそうな、右の日本軍燃料庫跡へ向かうと、すぐに燃料庫跡が見えてきた。
珊瑚礁の崖に挟まれた谷地形を切り開いて建設された燃料庫は谷の奥に造られている。貯蔵された燃料に火災が発生した際、被害を極限する為の配慮という。
日本軍燃料庫跡。燃料庫の入口も分厚い鉄筋コンクリートに覆われた堅牢な造りで、扉も2重になっているのが分かる。燃料庫は米軍上陸直後に火災が発生し、その火勢の為に米軍も近寄ることが出来なかったという。
内部には入ることができる。
日本軍弾薬庫跡。説明看板地点へ戻り、左の道を進む。足元は悪く、5分近く歩かされる。弾薬庫も燃料庫同様、天然の谷を通路として周辺から隔離されて造られた。戦災により、弾薬庫は大きく破壊され、現在は入口付近の瓦礫のみが遺されている。
このあと、北部飛行場西側海岸の米軍の上陸地点となったチュル・ビーチへ向かった。