父はノルウェー系で空軍将校。母はスコットランド及びアイルランド系で教師。サスカチュワン州で育つ。思春期を迎えた頃には、ラジオから流れてくるロックンロールに魅せられ、高校卒業後、カルガリーの美術大学に進学したが、折からのフォーク・ブームに刺激されて大学を1年で中退。ミュージシャンの道を歩みはじめた。
1960年代にトロントでフォーク歌手として音楽活動を開始。トロントのフォーククラブで、ニール・ヤングおよびアメリカ人フォーク・シンガー、チャック・ミッチェルと出会う。
1965年2月男友達との子供(娘)を出産。1965年6月にチャックと結婚し、姓をアンダーソンからミッチェルに変える。1967年初め離婚し、ニューヨーク・マンハッタンのチェルシーに移住、グリニッチ・ヴィレッジで活動を始めた。
ジョニの才能をいち早く見い出した人物は、フォーク歌手のトム・ラッシュで、彼はジョニの書いた“Urge For Going”を録音。ほぼ同時期にバフィ・セイント・メリーが“The Circle Game”を、ジュディ・コリンズが“BothSides Now”を採り上げ、しかも後者は67年に全米TOP10ヒットを記録した。こうしたことから、ジョニの名はデビュー作『JoniMitchell』(68年)がリプリーズから発表された時点で、すでに一部の人たちには知られていた。
ジョニはデビュー当時からギターを変則チューニングして演奏し、そのユニークなコードの響きからイメージを膨らませて曲を作っていた。
1968年3月、『Song to a Seagull』でアルバム・デビュー。1969年、2枚目のアルバム『青春の光と影(Clouds)』の成功により、その名が広く知られるようになった。
1970年、3枚目のアルバム『レディズ・オブ・ザ・キャニオンLadies of the Canyon』を発表。映画『いちご白書』の主題歌としてバフィ・セント=マリーに歌われた「サークル・ゲーム」のセルフ・カバー、CSN&Yのバージョンで知られる「ウッドストック」、環境問題を題材にした「ビッグ・イエロー・タクシー」などを収録。
キャニオンとは、1960年代に多くのミュージシャンが住んだロサンゼルス郊外のローレル・キャニオン(Laurel Canyon)を指す。ミッチェルは当時ローレル・キャニオンに家を買い、グラハム・ナッシュと暮らしていた。
1971年のアルバム『ブルーBlue』は名盤として評価が高く、『ローリング・ストーン』誌が選んだ「オールタイム・グレイテスト・アルバム500」(2012年版)において女性ソロ・アーティストとしては最高位の30位にランクされた。
1972年11月、アルバム『バラにおくるFor The Roses』を発表。これ以降、ジャズ系のミュージシャンを起用。
1974年1月に発表されたアルバム『コート・アンド・スパークCourt And Spark』からシングルカットされた「ヘルプ・ミー」は全米7位、「パリの自由人」は全米22位を記録した。
1975年、ボブ・ディランが企画したローリング・サンダー・レヴューに参加。1976年11月、アルバム『逃避行Hejira』を発表。レコーディング時に元ウェザー・リポートのベーシストジャコ・パストリアスと出会う。
1970年代後半には、パストリアスのほかハービー・ハンコックやラリー・カールトン、ウェイン・ショーター、マイケル・ブレッカー、パット・メセニーなどのジャズ、クロスオーバー系のミュージシャンと多く共演した。
1982年、アルバム『ワイルド・シングス・ラン・ファースト』のレコーディングに参加したベーシストのラリー・クライン(Larry Klein)と結婚。1983年に日本公演を行っている。1994年、クラインと離婚。
『Don Juan's Reckless Daughter』(77年)でウェイン・ショーター(サックス)、ブラジル人アイアート・モレイラ(パーカッション)、チャカ・カーンなどとも初共演。世界各地の音楽に対して興味を示した。
ジャズ界を代表するベーシストのチャーリー・ミンガスとのコラボレーション・アルバムの『Mingus』(79年)で、ジャズへの果敢なアプローチのひとつの到達点に達した。
2007年にアルバム「Shine」がリリースされた。
2015年脳動脈瘤を発症、デイビッド・クロスビーによれば2018年11月現在は歩行訓練中。
生涯にわたり恋人も多く、デイビッド・クロスビー、グラハム・ナッシュ、ジェイムズ・テイラー、ジャクソン・ブラウン、レナード。コーエン、ジャコ・パストリアスらの名が挙がる。
1970年代始めにジョニ・ミッチェルの名は「BothSides Now」「The Circle Game」「Woodstock」の作者と知り、音楽的才能豊かな人だと思っていた。1976年か1983年か忘れたが、来日時にNHKで彼女のスタジオライブが放映された。「コヨーテ」など5曲ほど聴いたが、イメージと違い、がっかりした。その後も、たまにラジオで新曲が放送されたが、心に響く曲ではなかったので、関心は薄れていった。
Youtubeで人気曲を20曲ほど聴くと、気になる曲が4曲ほどあった。
「Little Green」「Urge For Going」「Free Man In Paris 」「Amelia」である。
「Little Green」は、1965年2月男友達との子供(娘)を出産し、すぐに養子に出した心の痛みを歌った歌であった。1965年に作り、1971年のアルバム「ブルー」に収録。娘とは1997年に再会した。
「Urge For Going」1965年カナダのフォークフェスティバルでブーイングを浴びたことがきっかけで、その年に書かれた。1967年カントリーシンガーがカバーしてヒットした。本人も67年に録音。
「Free Man In Paris パリの自由人」は、1974年に発表したアルバム「コート・アンド・スパークCourt and Spark」に収録された楽曲。74年7月にシングルカットされた。
タイトルの"Free Man"(自由人)は、アサイラム・レコードの創立者であり、ミッチェルの親しい友人だったデヴィッド・ゲフィンのことを指している。
ミッチェル、ゲフィン、ザ・バンドのロビー・ロバートソン、ロバートソンの妻のドミニクの4人でパリを旅した際の出来事から生まれた。パリではゲフィンの名前を知る者はおらず、彼は音楽業界の重圧から解放された気持ちをミッチェルに語った。彼の言葉はそのまま歌詞に反映された。
「Amelia」は、「逃避行Hejira」(1976年)に収録。1932年に女性初の大西洋単独横断飛行を成功させたアメリア・イアハートのことを歌っている。