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大連 中山広場の近代建築群 その1

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大連・中山広場の近代建築群案内図。
20181124日(土)。
大連の中山広場は、直径213mの大連の中心的な広場で、円形を呈しており、広場から10本の道が放射状に延びている。
中山広場は帝政ロシアが統治する時期に建設され、ニコライェフスカヤ広場と命名された。
日本統治時代には、大広場と改名され、1908年から1935年まで日本人などの建築家の設計により、広場の周辺は続々と10件のルネッサンス様式やゴシック様式などのシンボル的な建築物が建てられた。
現在、残存する9件の建物は、大連中山広場近代建築群とよばれ、2001年、中国の近現代重要史跡及代表建築に分類されている。中国で20世紀前半の建築が集まった場所としては、上海バンドと並んで有名である。
 
日清戦争後、清は日本へ賠償金の支払いを求められた。清の植民地化を狙っていたイギリス,ドイツ,フランス,ロシアは、清にそれぞれ借款供与を行い、その担保条件として清国内の領土や港湾などを租借する権利を得た。大連は、不凍港の確保のため極東進出を図っていたロシアが租借することとなった。
1896年、ロシアと清の間で露清密約が締結され、1898年、「旅順口及大連湾貸借に関する露清特別条約」により、ロシアが遼東半島南端の旅順,大連を清から租借すると、大連湾に面した青泥窪に商業都市「ダーリニー」の建設を開始した。
 
ダーリニーはパリに倣った多心放射状街路を持つ都市として計画された。1899年、都市の中央に配された円形広場(現・中山広場)が造園されてニコライェフスカヤ広場と命名され、周囲に市庁舎・郵便局・銀行・集会場・商業取引所などが建設される予定だった。
しかし日露戦争までの僅かな期間に完成したのは北部の行政市街(現在の旧ロシア人街)だけであった。
1904年日露戦争が始まると、5月に日本軍はダーリニーを占領し、1905ポーツマス条約により、ロシアは関東州(旅順,大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡。大連と改称された。児玉源太郎の方針によりロシア統治時代の都市計画を基本的に引き継ぐことになり、ニコライェフスカヤ広場は大広場へと改称され、ここに大連民政署の新庁舎が建設された。
1906関東州(租借地)を統治する関東都督府が旅順に、また南満州鉄道株式会社(満鉄)が大連に設立された。
以降はこの広場が行政の中心地として発展し、今日に残る近代建築の数々が建設されていった。戦後、大広場は中山広場と改称され、周囲の建物には公的機関や銀行が入居した。以後60年以上に渡り大きく手を加えられることなく維持され、現在は大連の代表的景観として保護されている。
 
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旧朝鮮銀行大連支店。バスの車窓から。
鉄筋煉瓦造3階建。1920年竣工。設計は中村與資平。
ルネサンス様式の建物で、正面のコリント式オーダーは大連で最も美しいといわれた。
朝鮮銀行は日本統治領での中央銀行としての機能を担っており、関東州や東北の鉄道付属地などで日本円の紙幣を発券した発券銀行でもあった。大連支店の業務拡大に伴って建物を新築した。
現在は中国工商銀行中山広場支行が使用している。
設計者は朝鮮銀行の建築顧問として多くの銀行建築を手がけていた中村與資平で、京城に建築事務所を構えていた中村は、この新築工事のために1917年に大連出張所を開設した。
 
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旧大連民政署(警察署)。バスの車窓から。
煉瓦造2階建、塔屋付。19083月竣工。設計は前田松韻(関東都督府民政部土木課)。
中山広場に建てられた最初の建物。
関東都督府民政部の下で大連を管轄した行政機関である大連民政署の庁舎として建てられた。
ゴシック様式の建物で、時計塔を持つスタイルはヨーロッパの市庁舎を参考にしている。レンガは大連市内の満州煉瓦会社製、石材は山東省産の薄紅色花崗岩を使用した。
1922年から大連警察署の庁舎となり、戦後は大広場警察局と中国海軍後勤部が使用した。現在は遼寧省対外貿易経済合作庁が使用している。
 
設計者は関東都督府土木課の前田松韻。前田は中国東北地方に渡った最初の日本人建築家である。日露戦争下の1904年に軍倉庫の建設に携わり、19052月に大連軍政署の嘱託技師となった。しかし2年後の190710月には東京高等工業学校の教授に抜擢され、民政署庁舎の完成を待たず帰国した。在任機関は短かったが、大連の民間建築に一定の規模と耐火構造を求めた建築規則の草案作成にも参画するなど、大連の都市建設に大きな影響を残した。
 
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大連金融大廈。旧英国領事館跡地。バスの車窓から。
旧英国領事館は、1914年に竣工したイギリスの在大連領事館で、設計はイギリス工務局の上海事務所技師長補佐だったH.アシェッド。大広場に面した唯一の在外公館であった。
1995年に取り壊されて、2000年に大連金融大廈が建てられた。
 
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旧大連市役所。西側面。バスの車窓から。大連賓館東側で下車し、大連賓館・中山広場へ。
19198月竣工。和風と洋風の折衷様式。玄関の唐破風など日本建築の意匠が取り入れられており、塔屋のデザインは京都祇園祭の山車をイメージしたとされる。
設計者の松室重光は関東都督府土木課長で、大連民政署を設計した前田松韻の後任にあたる。松室は京都府技師時代に社寺建築の保存修復にも業績を残しており、建物のデザインにもその見識が反映されている。
現在は中国工商銀行大連市分行が使用している。
 
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旧大連ヤマトホテル。大連賓館。
鉄骨煉瓦造4階建。1914年竣工。設計は南満州鉄道。
ヤマトホテルは南満州鉄道が経営した高級ホテルチェーンで、中でも大連ヤマトホテルは最も格式の高いホテルだった。着工から竣工まで5年をかけて入念に建設された大建築である。建物正面は花崗岩のイオニア式オーダーを並べたルネサンス様式。
客室数は115室で、蒸気暖房やエレベーターも設置されていた。
ホテル大連賓館として営業していたが、本年秋から内部には立入りできなくなった。
 
正面階段を護るように鉄製キャノピーが張出しており、入口へ導く。
 
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旧大連ヤマトホテル。大連賓館。
 
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旧大連民政署(警察署)。
 
車道を渡り、中山広場へ向かう。

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