水師とは清時代に、各地の海岸などに設立されていた水軍のことで、営とは軍の駐屯地のことをいう。そのうち、北洋艦隊は威海衛に本拠があり、旅順軍港から北へ5キロメートルのところに水師営があった。
野戦病院としても使用されていた旅順水師営の農家において、日露戦争中の1905年1月15日に、旅順軍港攻防戦の停戦条約が締結された。日本代表は第三軍司令官・乃木希典大将、ロシア代表は旅順要塞司令官・アナトーリイ・ステッセル中将であった。
建物は文化大革命中に破壊され、現在の建物は1996年に復元された。
旅順市内から緩い上り坂の幹線道路を北へ向かい、西へ脇道を入るとすぐに水師営会見所跡があった。
会見所の門をくぐったところで、施設の女性ガイドが日本語で説明を始めた。親切だなと思ったが、裏があった。すなわち、商売の伏線である。
会見所の外には、ステッセルが乃木に贈った白馬をつないだナツメの木がある。日本人が余りにナツメにこだわるので、何代にもわたって植えかえられといい、周囲も囲繞されている。
中央の入口を入って右が日本の控え室。日露戦争当時の写真が展示されている。
水師営会見所の外に待機するロシア軍将兵。
日本統治時の水師営会見所。
どんどんと、日本のツアー客が入れ替わりに入ってきた。
左の調印室へ入ると、写真撮影は禁止といわれた。
降伏文書への調印が行われた部屋の中央には簡素な長テーブルとそれをはさんで長イスがある。日本人が座る方のイスは、体格を考慮して座面が高くなっている。机の板のみは当時のものらしく、漢字が書いてある。それ以外は再現したものという。
主に時計類などの展示資料がガラスケースに入っていた。満鉄ナークの入った乗務員用懐中時計、川島芳子の肖像が入ったペンダント、ロレックスの古時計、イギリス製の重りが転がってゼンマイ代わりになっている変わった時計などがあった。ガイドによると、どれも1万円で販売するという。
満鉄マークの懐中時計はあと4個という。買いたくなったが、躊躇した。
会見所を出ると、門の反対側に建物があり、展示即売所となっており、日露戦争関連品や日本統治時代の資料が販売されていた。
水師営会見所を含めて、日露戦争の戦跡は日本人しか関心がない。日本人をカモにした商売が横行している。別に買うことはなく、戦跡を回っていればそれでよい。
何度も大連に来ているツアーの参加者によると、大連のヤマトホテルにも販売所があり、たいていは偽物であるという。帰国して、ある会合で数年前に観光した人に聞いても、偽物だという。満鉄マークの懐中時計などいくらもあるそうだ。
会見所と販売所の中間にある食堂で食事をして203高地へ向かった。