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旅順 203高地 日露戦争 水師営の展示写真

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旅順。
203高地。入口。20181125日(日)。
昼食を終え、交通の便のよい水師営から西の203高地へ向かう。人家まばらな丘陵地帯の奥に広大な駐車場と巨大な張りぼてのような入口建物があった。客は少ない。事前に、入口から登山遊歩道入口まで徒歩だと数十分かかるといわれたので、ツアー客全員が往復20元のシャトルバスに乗ることになり、料金を支払った。 
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旅順。
203高地。
入口を入ると、いくつか丘が見えるので、どれが203高地かガイドに尋ねたが返事がなかった。おそらく左手前の丘であったようだ。丘の麓まで歩く人もいるが、20分強ぐらいは必要だろう。10人乗り程度の小さい電動シャトルバスに乗車して、登り口まで向かった。 
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旅順。
203高地。麓の遊歩道入口。
 
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旅順。
203高地。麓の遊歩道入口。
緩い上り坂に見えた。健康体なら走ってのぼれるような傾斜だが、心臓病患者の私には大変だった。70歳前後の男女に追いつけない。一番遅い老人にも追いつけなかった。平地はいいが、上り坂はまだ駄目なようで、全くピッチが上がらなかった。痛みがでないことが分かって、その点は安心した。
記念碑のある頂上広場まで入口から11分かかった。ほかの人たちは7分ぐらいだったと推定した。 
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旅順。
203高地。記念碑のある頂上広場への遊歩道最終区間。
入口から左方向へ上り、鞍部の建物から右の頂上広場に向かって僅かに折り返す2区間目。
頂上に着くと、最後の私を待っていてくれて、ガイドが説明を始めた。
 
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旅順。
203高地。頂上広場の「爾霊山(にれいさん)」記念碑。
爾霊山(にれいさん)とは爾(なんじ)の霊(れい)の山ということで、203の語呂合わせの意味合いもあり、碑を建立した乃木将軍が名付けたものである。
 
砲弾型の記念碑は高地に散乱していた砲弾などを集めたものだが、ガイドによると、下の鉄の丸いドームは艦船のもので、数か所を日の丸形に刳りぬいたという。


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旅順。
203高地。頂上広場から旅順港方面を眺める。
予想どおり何も見えなかった。旅順港までほぼ5㎞ぐらいか。スマホに大連の大気汚染は中程度と表示されていたので、昼過ぎでは無理だろうと思っていた。早朝なら見られる可能性はあるだろう。
日露戦争当時ならはっきり見えていたのは想像できる。
 
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日露戦争前の旅順口・港の風景。(以下、モノクロ写真は水師営の展示写真から)
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日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)。
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24日の第一次旅順口閉塞作戦。報国丸の広瀬武夫少佐。戦死は第二次。

日露戦争の戦闘は、190428日、旅順港にいたロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃(旅順口攻撃)に始まった。
 
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戦場の日本軍。
日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、430-51日の戦闘で、安東(現・丹東)近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った(鴨緑江会戦)。
続いて第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、526日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を攻略した(南山の戦い)。第二軍は大連占領後、第1師団を残し、遼陽を目指して北上した。
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日本軍に殺害される無辜の百姓。(こういう写真も必要なのだろう)
 
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東鶏冠山北堡塁。
乃木将軍率いる第三軍は68日に大連に到着、626日までに旅順外延部まで進出した。ロシア旅順艦隊を旅順港から追い出すか壊滅させることを目標とした。
第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を819日に開始したが、ロシアの近代的要塞の前に死傷者15,000という大損害を受け失敗に終わる。
 
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鳳凰山で作戦指揮を執る乃木将軍。
第二回総攻撃が919日、1026日の前後に分けて行われた。
第三軍は海鼠山を占領し、旅順港のほぼ全てを観測することができるようになったが、旅順艦隊主力が引き籠っている海域だけが俯瞰できず、このころから海軍は、より旅順港を一望できる203高地の攻略を優先するよう要請をしだす。
 
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高地のロシア軍。
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高地のロシア軍。負傷兵を運ぶ。
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高地北斜面の日本軍将士の死体。
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日ロ両軍の死体。
第三回総攻撃が1126日から始まる。乃木の判断で要塞東北方面の攻撃を一時取り止め、203高地攻略に方針を変更する。激戦の末、124日に旅順港内を一望できる203高地の占領を達成した。第三軍は作戦目的である要塞攻略を続行した。
 
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東鶏冠山砲台を自爆したロシア軍。
190511日にようやく東北方面の防衛線を突破して、旅順要塞のうち最高地点である望台を占領した。これを受けてロシア軍旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏を決意、1116時半に日本軍へ降伏を申し入れた。
190515日にステッセルと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、旅順攻囲戦は終了した。戦死者は日本軍が16000人、ロシア軍は15400人という。
 
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記念碑入口の説明板。
最後に、「(記念碑は)日本軍国主義による対外侵略の罪の証拠と恥の柱となった」と書いてある。
いくらなんでも、余分な言葉だが、こうでも書いておかないと、壊せという世論が起きるからかもしれない。文化大革命でよく壊されなかったものだ。
 
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鞍部のロシア軍塹壕の跡。
 
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白玉山上空から俯瞰した旅順港。鞍部横建物にいた露天商の本より。
 
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重砲観測所。鞍部から反対方向へ数分の場所にある。
 
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重砲観測所。
 
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日本軍
280㎜榴弾砲の説明板。
203高地争奪戦で日本軍は口径の異なる大砲を60門あまり使用して、狂気じみた無差別爆撃を加え、11千発以上の砲弾を撃った。そのうち、280㎜榴弾砲は2254発であった。
280㎜榴弾砲は重さ10.753t、砲弾重量217kg、射程7800m。
「狂気じみた」でなく「激しく」でもいいと思うが。
 
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重砲兵観測所。
日本軍は190412月の203高地占領後、観測所を設置し、旅順口港への砲撃を指揮した。
 
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重砲兵観測所の大砲。日本軍
280㎜榴弾砲と推定。
ここは観測所なので、別の地点から砲撃した。
 
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重砲兵観測所の大砲。日本軍
280㎜榴弾砲と推定。
 
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日本軍280㎜榴弾砲陣地
ツアーなので、ここで下山。下りは上りとは違って問題なく、ほかの人と同じ速さで降りることができた。入口へ戻り、バスで旅順博物館・旧関東軍司令部へ向かう。

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