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旅順 旅順博物館 大谷コレクション 青銅器

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旅順。旅順博物館。別館。
20181125日(日)。
203高地の見学を終え、旅順市街地西側の新市街地にある旅順博物館・旧関東軍司令部へ向かった。手前で、川島芳子の父が住んでいた粛親王府跡を過ぎると、バスは海方向に曲がり、旅順博物館近くで停車した。
 
旅順博物館には、本館と別館がある。どちらも立派な洋風建築である。まず、別館の横を通って、本館へ向かった。
 
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旅順博物館。別館。正面玄関。こちらには入館しなかった。 
 
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旅順博物館。本館。
建築については不詳。ロシア軍の将校クラブの建物を、1917年、関東州を統括する関東都護府が改築し、満蒙物産館として開館したようだが、詳細は不詳。1919年、関東庁博物館、1934年、旅順博物館と改称、1945年、ソ連軍により旅順東方文化博物館となり、1951年、中国政府に移管、1954年、大連市により旅順博物館と改称した。
 
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旅順博物館。本館。展示室。
旅順博物館は、入場無料だが、入口でパスポート提示が必要。青銅器・陶磁器・仏像などが展示してある。展示室に入ると、昔の東京国立博物館に来たような感じがした。
 
展示の中では、のちに西本願寺の門主となった大谷光瑞が1902年から1914年にかけて3回にわたり中央アジアやインドに派遣した大谷探検隊が収集した大谷コレクションが展示されている。とくに、第三次大谷探検隊がシルクロードのトゥルファンで発掘したミイラが2体展示されていて、館内は撮影自由だが、ミイラの部屋だけは撮影禁止となっている。
 
大谷コレクションは、現在、中国・旅順博物館、韓国国立中央博物館、東京国立博物館、龍谷大学などで分蔵されているという。
浄土真宗大谷派では、1904(明治37)年に大連に本願寺関東別院を創設し、1915(大正4)年に南山麓の地に本願寺関東別院の伽藍を建立した。
大谷光瑞が大連に足を運んだのは、実に24 回にも及ぶという。大谷光瑞は、19458 15 日、敗戦の詔勅を大連ヤマトホテルで聞いた。翌年6 月ソ連軍統治下の大連市公安局にスパイの嫌疑をかけられ、拘禁された。石堂清倫らが光瑞の帰国に奔走し、石堂はソビエト軍司令部に談判に行き、何とか光瑞の引揚げを認めさせ、光瑞は引揚げ船で帰国することができた。
当初、大谷探検隊が将来した多くの文物は、神戸の光瑞の私邸「二楽荘」に集められたが、程なくして実業家の久原房之助の手にわたり、一部を残して昭和初年頃朝鮮総督府博物館と旅順博物館に分散したという。
 
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父丁角蓋。殷(商)時代。
BC1600BC1046年。酒器の蓋。
角(かく)は、温酒・飲酒器で、殷後期から西周中期にかけて製作された。
殷の時代から、器に銘字を鋳出するものが現れるが、長文の銘はなく、器の所有者が属する一族の名と、その器を祀る対象となる祖先の名が記されている。
祖先の名は「父」「母」「兄」などの文字と十干(甲乙丙丁など)の組み合わせで表記される。本品は父の丙のために製作された。
 
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父丁角蓋。キャプション。
 
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逢叔盤。春秋時代。
BC770BC476年。羅振玉旧蔵。
盤(ばん)は水器で、注いだ水を受けるための器。殷後期から戦国時代まで製作された。
羅振玉(らしんぎょく18861940年)は清末から満州国時代にかけて活躍した考古学者で甲骨文字の研究で知られる。溥儀の家庭教師を務め、のちに満州国参議府参議、日満文化協会会長を務めている。
 
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逢叔盤。キャプション。
 
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戦国時代の青銅器。旧蔵品の写真。
現在は台北の台湾中央研究院歴史語言研究所歴史文物陳列館が所蔵している。
終戦後の国共内戦時に国民党軍が持ち去ったのだろうか。
 
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水陸攻撃図。
 
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杯耳豆。戦国時代。
BC475BC221年。
豆(とう)は盛食器で、高脚を伴う高杯状の容器で、身の部分は浅い皿状。穀物、スープ、漬物などを盛った。青銅器としては西周前期からあるが、増えるのは西周後期以降で、戦国時代まで製作された。
 
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オルドス式青銅装飾帯飾り。春秋戦国時代から後漢時代。
 
大谷探検隊がシルクロードのトゥルファンで発掘したミイラ2体を鑑賞。
20分ほど見学して、すぐ北にある旧関東軍司令部へ徒歩で向かった。

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