ローリング・ストーンズThe Rolling Stonesは、1962年に結成され、現在も現役。これは驚異的なことだ。ビートルズなど大半のバンドは解散したし、復活といっても中心メンバーが揃っていることは少ない。
なぜかと推測すると、ミック・ジャガーがビジネスマンだからだと思う。音楽をビジネスつまり収入源としている。これは悪いことではない。ロックが儲かれば音楽的才能のある人材、投資がロックに流れ、儲かるような、ヒットするような楽曲が生まれやすくなるからだ。儲からないと、見切られれば、逆回転・悪循環になってしまう。今がそういう状況だ。
ミック・ジャガーは中流階級出身で、多くのノーベル賞学者を輩出したロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通っていた。彼は決して不良ではない。音楽の流れも計算できる。2011年5月、英サンデー・タイムズ紙の「英音楽界での長者番付」では、推定資産が1億9000万ポンドで8位にランクインした。経済に強いせいかミックは、ストーンズ自身の独自レーベル「ローリング・ストーンズ・レーベル」を立ち上げた以降、バンドの運営に大きく関与している。バンドのギャランティはもちろんのこと、印税配分の管理も自身でおこなっている。
キース・リチャーズたちも、人気・カネ・女を欲していたのは当然だ。売れる楽曲を作る才能が彼らにあったことももちろん大きい。リスナーとしては、いい楽曲であれば対価を払うだけのことだ。
私がロック・ポップスを積極的に聴きはじめた1967年春のころ、ビートルズとストーンズは人気を二分していた。ストーンズは不良だといわれていた。しかし、当時ラジオで流れていた「ルビー・テューズデイ」は美しいメロディの曲だったので、ビートルズのファンであった私でも、ストーンズの曲には違和感はなかった。
ビートルズなどのシングルとともに、「ルビー・チューズデイRuby Tuesday」「夜をぶっとばせLet's Spend the Night Together」のシングルを購入した。英米では1967年1月の発売だが、日本では3月か4月ごろの発売だろう。
1978年か79年ごろに、アルバム「スルー・ザ・パスト・ダークリー」(1969年)の廉価復刻盤を購入。1980年代なかばか90年あたりに、NHKでブライアン・ジョーンズ追悼の「ハイドパーク・コンサート」が放映された。
2005年ごろ、BS「ヒストリー・チャンネル」でストーンズの歴史ドキュメンタリーを見た。この番組でミックのビジネスマンぶりを認識した。
2006年4月5日、ナゴヤドームでストーンズのライブを見た。
「ルビー・チューズデイ Ruby Tuesday」は、キース・リチャーズ一人が作ったという。彼が1960年代中頃に交際していたリンダ・キースとの破局を書いたものだとしており、彼女と別れた日がちょうど火曜日だったという。
ビートルズの「イエスタディ」が余りにも評価が高かったので、それに対抗する歌として作られたという説がある。「Yesterday don't matter」なんて思わせぶりだ。
前半ののんびりした曲調が、グッバイのところから力強く転換するあたりが、ひねってある。また、ブライアン・ジョーンズのリコーダーが秀逸で、当時のサイケデリック・フラワームーブメントを象徴している。お花畑の上をチョウチョがふわふわ飛び回っているような光景が目に浮かんでくる。コントラバスの音色もいい。
ビルボードでは、1967年3月4日に1位。3月18日にはビートルズの「ペニー・レイン」が1位。
ミック・ジャガーのイメージ戦略からして、彼が長い間この曲を歌いたがらなかったというのは理解できる。いかし、実際のところ、彼は音楽面では柔軟な人間なので、2006年のライブで歌ってくれたので感激した。
「夜をぶっとばせLet's Spend the Night Together」は、ジャガー・リチャーズの作詞作曲。「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「サティスファクション」についで初期ストーンズを象徴する代表曲。こちらが、イギリスではA面で、ミックは「ストーンズのレコードでは、ダンスするのに向いているのが大変重要なことである思っている。この曲はベスト・ダンス・ナンバーだからA
面にした。」と、発言したと、ライナー・ノーツに朝妻一郎氏は記している。
Let's Spend the Night Togetherという歌詞が性的とされ、マスコミから冷視された結果、英3位、ビルボード55位に終わった。2月15日のエド・サリヴァン・ショーでは歌詞を変更させられたが、1月22日のイギリス人気番組でもストーンズはフィナーレに昇らないという反抗的態度を示している。
「don’t let me down」という歌詞があって、ドレミに聴こえて面白く感じた。