結成時のメンバーはリンダ・ロンシュタットのバックバンド仲間であったグレン・フライ(ボーカル・キーボード・ギター)、ドン・ヘンリー(ドラム)、ランディ・マイズナー(ベース)、バーニー・レドン(ギター)の4人。
実質的リーダーとなったグレン・フライ(1948~2016年)は、地元デトロイトでバンド活動を始めるうち、地元で人気のあったシンガー・ソングライターで、のちの「Against the Wind」(1980年)のヒットで知られる3歳年上のボブ・シーガーから弟分としてキャリアを積む上で何かと面倒を見られことになった、その付き合いはフライが亡くなる2016年まで続いた。1968年ロサンゼルスでJ・D・サウザーと知り合ってデュオを組み、レコードを出す。この時期にジャクソン・ブラウンと知り合い、彼からソングライティングを学んだ。
ランディ・マイズナーは、カントリー・ロックバンド「ポコ」の創設メンバー。
バーニー・レドンは元祖カントリー・ロックバンド「フライング・ブリトー・ブラザーズ」のメンバーであった。
1972年にデビュー。アルバム『イーグルス・ファースト』を発表。メンバーのグレン・フライが、当時同じのアパートに住んでいたシンガー・ソングライターのジャクソン・ブラウンと共作したシングル「テイク・イット・イージーTake It Easy」が、ヒットを記録した。シングル3枚目が「ピースフル・イージー・フィーリングPeaceful Easy Feeling」。
デビュー当初は、マルチプレイヤーであったバーニー・レドンの演奏するテレキャスター、バンジョー、スティール・ギター、マンドリンが生み出すサウンドの存在が大きく、カントリー・ロックのイメージが強かった。
1973年、2枚目のアルバム『ならず者』はバーニー・レドンのカラーが強いブルーグラス的な楽曲と、ロック的な要素の曲が共存していた。シングル曲「テキーラ・サンライズTequila Sunrise」。タイトル曲のバラード「ならず者」は、バンドの精神的支柱を表現した曲といわれる。
1974年、3枚目の『オン・ザ・ボーダー』制作においては、よりロック的なアルバムにすべく、バーニー・レドンの紹介で、彼の親友で高校時代のバンドメイトであったフロリダ出身のギタリスト、ドン・フェルダーが収録曲中2曲において参加し、ロック的色彩を強めた。ドン・フェルダーは後にメンバーとして正式加入し、ツアーではカントリー的な楽曲ではレドン、ロック的な楽曲ではフェルダーがリード・ギターを主に担った。
1975年、大ヒット・アルバム『呪われた夜』を発表。タイトル曲「呪われた夜」、「いつわりの瞳」、ランディ・マイズナーがボーカルをとる「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」と3つのヒット曲を生んだ。オリジナル・メンバーの音楽的なルーツであるカントリー色の濃い楽曲も依然見られるものの、全体としてはよりロック色を強め、セールス的にも前作に続き大きな成功を収めた。
しかし、実質的に主導権を握ったドン・ヘンリーとグレン・フライの2人の日頃からの高慢な態度にバーニー・レドンは業を煮やし、バンドの音楽的方向性への疑問も重なったことで1975年12月に脱退した。
レドンの後任には、元ジェイムズ・ギャングのメンバーであったジョー・ウォルシュを迎え、音楽的にはよりロック色を強めた。
1976年、彼らの代表作となるアルバム『ホテル・カリフォルニア』を発表。シングルとして、「ニュー・キッド・イン・タウン」(1977年2月1位)に引き続いてシングルカットされたタイトル曲で代表曲の「ホテル・カリフォルニア」が1977年2月にリリース、5月1位と大ヒットして、世界的な人気バンドとなった。
しかし、ドン・ヘンリーとグレン・フライの高慢な態度の矛先はランディ・マイズナーに向けられるようになり、マイズナーはツアーのストレスや、音楽的志向の違いも相まって、1977年のコンサート・ツアー中に脱退。マイズナーの後継として、元ポコのティモシー・B・シュミットが加入した。
1979年にリリースされた『ロング・ラン』においては、ハードロック、バラード、ディスコにわたる多様な音楽性に挑戦した。この頃、バンドは人気絶頂期だったものの、相変わらずグレン・フライとドン・フェルダーの不仲や、曲作りのスランプなどからバンドは1980年に活動を停止。そして1982年、正式にバンドの解散が発表された。
バンドの活動停止後は各メンバーが個別の活動に入り、グレン・フライは「ユー・ビロング・トゥー・ザ・シティ」や「ヒート・イズ・オン」が大ヒットし、ドン・ヘンリーは「ボーイズ・オブ・サマー」と「エンド・オブ・ジ・イノセンス」でグラミー賞を受賞し、ソロとしても成功を収めた。
1994年に、第1期最終メンバーによって再結成。以後世界規模でのツアーを繰り返し展開した。
2000年に、ドン・フェルダーが解雇された。
2016年1月創設メンバーのグレン・フライが死去。2017年、ライブ活動を再開した。
カントリー・ロックとカントリーは全く違った音楽で、カントリー・ロックとはロックを土台にしてカントリー系のバンジョーやペダルスティールギターなどの要素を取り入れたにすぎないが、最もアメリカらしさを象徴するスタイルのロックである。
一般的に、カントリー・ロックの原型を作ったのはグラム・パーソンズが主導したフライング・ブリトー・ブラザーズ(1968~1971年)で、ポコやイーグルスなどのロサンゼルスの後続バンドに影響を与えたとされる。
カントリー・ロックの標準曲は初期ポコにみられるが、やはり初期のイーグルスのヒット曲3曲もその名曲である。
1977年5月に「ホテル・カリフォルニア」が日本でも大ヒットして、初めてイーグルスの存在に気づいた。ほとんどの一般的な洋楽リスナーも同じだったと思われる。そのときのラジオでの紹介では、「テイク・イット・イージー」が代表曲といわれ、それを聴いてなるほどと思った。しかし、ラジオで聴けたのは、この2曲程度であった。
その後、レンタルCDの時代になり、1990年ごろ、『グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』と「グレイテスト・ヒッツ VOL.2」をレンタルしてようやく全貌の一端を理解した。前者は全米歴代で最も売れたアルバムという。
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2004年10月7日にナゴヤドーム公演が行われ、ようやく実際にイーグルスを見聞することができた。
2007年ごろから、youtubeでライブ映像を見て、バーニー・レドンのカントリー・テイストの間奏に感銘を受けた。そのころに見た動画は現在は削除されたものが多い。 バーニー・レドンの奏でるバンジョーとBベンダーのスティール弦アコースティックギターが絶妙なカントリー・ロックテイストを付加している。一方、ライブでのレドンのソロは不完全燃焼。「テイク・イット・イージー」は、ポップ・ロック的傾向が強く、乾いたギターサウンドが陽性的なウエストコースト・ロック。美しいコーラス・ワークがトレードマークとなっていく。
「ピースフル・イージー・フィーリング」は、フライ周辺の知人であったジャック・テンプチンの作品をフライがアレンジしたもの。原作。バーニー・レドンのBベンダー・エレクトリックギターのソロが秀逸。「テキーラ・サンライズ」はフライとヘンリーの作品。哀愁さを帯びたメロディーのカントリー・ロック。バーニー・レドンの切ないギターが印象的。