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Channel: いちご畑よ永遠に
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エリック・クラプトンの名曲 「Layla」「I Shot The Sheriff」「Tears In Heaven」「Change the World」

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エリック・クラプトンEric Clapton1945年~)の来日公演が4月にあるというWEB広告が最近まで、出ていた。いったいどれほど来日したのか、これで22回目になるらしい。
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私も
1990年に見ている。覚えているのは、早く「レイラ」を演奏してくれないかという気持ちで見ていたことだ。
 
「エリック・クラプトン 12小節の人生」(2017年)という映画が201811月から日本で公開されていたようだが、知らなかった。映画を見た人々の感想を読んでいると、ほとんど知っているエピソードだった。
1年から2年前にBS-TBSの「SONG TO SOUL」で「レイラ」の成立物語を見た。こちらのほうが面白い。知ってる人は知っていたようだが、「レイラ」のイントロから何度も使われるギター・リフは「アルバート・キングの「As the Years Go Passing By」の歌メロディを短く縮めたものだということを、この番組で初めて知った。現在のパティ・ボイドもインタビューで心境を語っていた。
 
パティ・ボイドとジョージ・ハリソンの結婚(19661)当時の写真特集が音楽雑誌「ミュージック・ライフ」に掲載されている号を1970年ごろ古書店で入手して眺めていた。美男・美女で幸せそうだった。
同じころビートルズ・シネ・クラブに入会して、「A Hard Day's Night」を何度も見たが、その中で可愛いなと思っていたブロンドの女学生がボイドだったのは最近知った。
エリック・クラプトンがハリソンの妻のボイドに横恋慕して奪い取ったのを知ったのも、1979年に結婚したあたりで、そのころに「レイラ」がボイドへの片思いを歌った歌だと分かった。
ジョージ・ハリソンの「While My Guitar Gently Weeps」でのギター・ソロがクラプトンだと知ったのは1975年ごろだった。
1970年代までは、情報というのは、なかなか簡単に一般リスナーには伝わってこなかった。
 
エリック・クラプトンは母親が16歳のときの子供で、父親のカナダ軍駐留兵士はクラプトンの出生前にカナダへ帰ってしまった。クラプトンは祖父母を父母と、実母を姉と思って育った。実母は幼いクラプトンを残して、別のカナダ軍兵士と結婚しドイツへ移住した。クラプトンは13歳のときにドイツ製の安いギターを貰ったが、安物ぶりに興味を失い、15歳のときから本格的にギターの練習を始め、ブルースに熱中した。
1962年ごろからバンド活動を始めた。
196310月ヤードバーズに加入、リードギタリストとしてスローハンドのニックネームがつく。19653月ポップ化・商業化を嫌い、ブルースに専念するため脱退。
19654月ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズに参加。19667月脱退。
1967年、ロンドンの街中に“CLAPTON IS GOD”の落書きが現れ、「ギターの神」と呼ばれるようになった。
1968年、9月ビートルズ「While My Guitar Gently Weeps」録音に参加。11月クリーム解散。
1969年ブラインド・フェイス結成、6月ハイド・パークでデビューコンサート。10月解散。
19706月デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成。8月からマイアミでアルバム『いとしのレイラ』(Layla and Ot her Assorted Love Songsを録音。デュアン・オールマンがゲストとして14曲中11曲でリード及びスライドギターを演奏した。
1971年解散。クラプトンはデュアンやジミ・ヘンドリックスの相次ぐ死などから精神を病み、ドラッグとアルコールに溺れしばらく音楽活動から遠ざかったのち、ソロとして活動する。
19731月、レインボー・コンサートで復活。
19749月ボブ・マーリーのカバー曲である、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」 (I Shot The Sheriff) で米1位のヒット。同年、パティ・ボイドと同居を始める。
1979年パティ・ボイドと結婚。
1985年イボンヌ・ケリーとの娘が生まれる。
1986年イタリア人モデルとの息子コナーが生まれる。
1988年パティ・ボイドと離婚。
1991年息子コナーがビルの53階から転落死。
1992年「ティアーズ・イン・ヘヴン」(Tears In Heaven) がヒット。亡くなった息子に捧げた楽曲。
1996年「チェンジ・ザ・ワールドChange the World」がヒット。映画『フェノミナン』に提供したカバー曲。
2002年、メリア・マッケネリーと結婚。3人の娘をもうける。
 
クリーム(エリック・クラプトン)を初めて知ったのは「White Room」からで、日本に紹介されたのは1968年暮か1969年初めだろうか。私を含めて一般のリスナーはそれまで知らなかった。
エリック・クラプトンのサウンドがいつ生まれたのか。19669月にジミ・ヘンドリックスが渡英しロンドンで演奏活動を始め、クラプトンたちが聴きはじめた。「フレッシュ・クリーム - Fresh Cream1966年)のサウンドとジミ・ヘンに触発されてできた曲「Sunshine of Your Love」を含む「カラフル・クリーム -Disraeli Gears1967年)」は明らかに違い、この時点でクリームやエリック・クラプトンのサウンドが確立した。
ジョン・メイオール・ブルースブレイカーズのライブ盤と「フレッシュ・クリーム」ほぼ同じサウンドをしていた。
 
ジミ・ヘンドリックスが渡英する条件として、エリック・クラプトンに会わせろ、というほどクラプトンのファンだったらしいので、アメリカでもブルースブレイカーズ時代から有名だったようだ。
クラプトンはジミ・ヘンの「Little Wing」のカバーをよく演奏しているが、ジミ・ヘンドリックスの曲の本質をとらえていない。アレンジもギターもヘタクソ。
 
「レイラ」が日本のラジオで流れだしたのは、1971年か72年か分からないが、聴いたとたん印象的なリフに驚嘆した。現在でも最高のリフだろう。たとえ、アルバート・キングからのパクリでも関係ない。それをリフとして作り出したことが素晴らしい。
このころは、レイド・バック、ダウン・トゥー・アースという言葉が流行していた。
 
ほかのヒット曲は、名曲には間違いないが、べつにクラプトンでなくてもいいのではないかと思う。
クラプトンの絶頂期はクリーム時代の1967年から69年の間である。「レイラ」あたりまでは進歩したといえるが、あとは惰性。アンプラグドというつまらないブームを巻き起こした張本人でもある。
しかし、ギターの神様なので長く現役でがんばってほしい。
 
Albert KingAs the Years Go Passing By

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