マジック・サムMagic Sam(1937年~1969年)はシカゴのブルース・ギタリスト、シンガー。50年代から60年代にかけて活躍し、オーティス・ラッシュ、バディ・ガイらとともにシカゴ・ブルースに新風を吹き込み、夭折した伝説のブルースマン。
1937年サムはミシシッピ州デルタ地域で生まれた。1950年、家族に連れられシカゴへ移住。シル・ジョンソンと出会い、彼からギターを教わる。50年代半ばには、シカゴのブルース・クラブに出演するようになり、彼のフィンガー・ピッキングスタイルが知られるようになっていた。
1957年、コブラ・レコードへ初のレコーディングを行う。同レーベルには57年、58年とレコーディングを重ね、"AllYour Love"を始め、計4枚のシングルをリリースした。1959年にコブラが倒産した後、サムは兵役に着くが脱走してしまい、脱走罪で刑務所に服役している。
1960年、音楽活動を再開したサムは、60年、61年とチーフ・レコードでレコーディングを行い、シングルを4枚リリースした。チーフの作品はコブラの作品と比べてよりR&B色が強くなっている。
1966年、デルマークとクラッシュへ相次いでレコーディングを行った。
1967年に、初のオリジナル・アルバム、「WestSide Soul」をリリースした。このアルバムはシカゴ・ブルースを代表する作品として知られるようになり、彼の知名度も以後うなぎ上りに上がっていった。
1969年、セカンド・アルバム「BlackMagic」をリリース。同年、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティバル出演のために渡欧。アン・アーバー・ブルース・フェスティバルへの出演も果たすなど活動を加速させているが、絶頂期の最中、この年の12月1日、心臓発作により32歳で急死した。
生前にリリースしたアルバムは僅か2枚しかないが、1981年にリリースされたライブ盤「Magic Sam Live」は、スタジオ作では味わうことの出来ない、サムの演奏の勢いを感じさせる内容となっている。63年と64年のシカゴのクラブでの演奏と69年のアン・アーバー・ブルース・フェスティバルを収録したもので、没後のリリースながらサムの代表作として知られている。
マジック・サムのギター・スタイル、唱法は多くのブルースマンに影響を与えた。シカゴを舞台にした名作映画「ブルース・ブラザーズ」(1980年公開)では、「Sweet HomeChicago」を演奏する前に、ジョン・ベルーシが「偉大な故マジック・サムに捧げる」と叫んでいる。
1969年ごろからクリームやジミ・ヘンドリックスが脚光を浴びるとともに、ルーツとなったブルースへの関心が世界的に広まった。日本でも、関西を中心にウエスト・ロード・ブルース・バンド、憂歌団などブルース・バンドが登場し、1970年代を通じてブームとなった。
「ニューミュージック・マガジン」でも特集号が発行された。その中でも、定評のあったのが、マジック・サムの「ウエスト・サイド・ソウル」であった。日本での発売はライナーから推定すると1974年ごろと思われる。
それから数年以内には購入しているはずだ。
エリック・クラプトンがいくら逆立ちしてもマジック・サムになれないだろう。マジック・サムが生きていたらブルースというジャンルがどう変わっていったか。80年代以降はロバート・クレイが活躍している。
1989年7・8月にシカゴ、ニューヨーク、ナイアガラを旅行したとき、ミック・ジャガーがよくいくというブルース・クラブ3店のうち1店へブルースを聴きにいった。夜は危ない地区なので往復タクシーを使った。白人青年の姿が多かった。2時間ほど立って聴いていたので疲れてしまった。