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ポップスの名曲 ジョン・デンバー 「Take Me Home, Country Roads」「Sunshine on My Shoulders」「Leaving               

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ジョン・デンバー John Denver1943年~1997年)は、1970年代のカントリー・ポップスを代表するシンガーソングライター。
本名はHenry John Deutschendorf Jr.。芸名の「デンバー」は、彼が愛したコロラド州の州都デンバーにちなんでつけたもの。
「故郷へかえりたい(カントリー・ロード)」「悲しみのジェット・プレーン」「太陽を背にうけて(Sunshine on My Shoulders)」など数多くのヒット曲を生み出した
 
ニューメキシコ州で生まれる。父親は空軍パイロット。11歳のとき、母方の音楽好きの祖母からアコースティック・ギターをもらう。テキサス州に住んでいた高校3年の時、父親の車でカリフォルニア州の知り合いを訪ね音楽活動を開始。父親が友人のジェット機で彼を連れ戻した。テキサス工科大学で建築学を学ぶが、1963年中退、ロサンゼルスに移住、フォーク・クラブで歌う。
1966年、ビートルズなどのカバーを含むアルバム『JohnDenver Sings』を自主制作。アルバムの中に収められていた「悲しみのジェット・プレーン」(当時のタイトルは「Babe, I Hate To Go」)がプロデューサーのMilt Okunによりピーター・ポール&マリーのアルバム『Album 1700』(1967年)に収録され、1969年にシングルカットされビルボードで1位となる。
 
196910月、デビュー・アルバム『Rhymes & Reasons』を発表。
19714月に発表したシングル「故郷へかえりたい(Take Me Home, Country Roads)」はビルボード2位を記録する大ヒットとなった
1976年、デンバーはコロラド州スノーマス近郊にニューエイジ・コミューンを作り、合気道によって宇宙精神と合致することを目指したり、ピラミッドのなかで瞑想を行い、将来自分が大統領になることなどを信じて、生活をした。
1977年、世界の飢餓に対する組織 HungerProject の創設者の1人となり、死まで組織を支える。
1994年、自伝「Take Me Home 」出版、自らの薬物使用、不倫、元妻への暴力を語る。
19971012、米国内ツアーを終えてカリフォルニアで休日を過ごしていたが、単独で操縦するプロペラ機が墜落し死亡した。葬儀はコロラド州で行われた。
 
 
Take Me Home, Country Roads 故郷へかえりたい」。
作詞・作曲はジョン・デンバー、ビル・ダノフ、タフィー・ニヴァート。
197011月のある日、ビル・ダノフと当時妻であったタフィー・ニヴァートが、ニヴァートの家族が再会する場所へ向かってワシントンDCに近いメリーランド州の曲がりくねった田舎道を車で走っているときに、空いた時間を使ってダノフが作ったバラードがもとになった。
ダノフは、歌詞の選択のさい「マサチューセッツ」ではなく、「ウエスト・ヴァージニア」を選んだ。歌詞にあるラジオというモチーフは、ダノフが育ったマサチューセッツで子供のころ聴いていたラジオ番組がウエスト・ヴァージニア州のラジオ局から流れていたことによる。また、マサチューセッツという言葉が音楽的でなく、既にビージーズが使っていたことも理由となった。
12月に、ワシントンDCのクラブでジョン・デンバーの前座としてデュオとして歌っていた二人はジョニー・キャッシュに提供することを考えていたこの曲をデンバーに聴かせると、デンバーは自分が歌うと主張した。二人は考えを改め、三人はダノフのアパートで、歌詞に手を入れ、未完成だったブリッジ部分を仕上げた。
 
19714月にリリースされ、ゆっくりとチャートを上っていき、8月にキャッシュボックスで1位となったが、ビルボードではビージーズの「How Can You Mend aBroken Heart / 傷心の日々」に阻まれて2位にとどまった。
歌詞に繰り返しウェストバージニア州が登場することから、同州の代名詞的な楽曲となっていたが、2014年に公式にウェストバージニア州の4番目の州歌となった。
なお、moonshineとは密造酒のこと。Sheは州、妻、恋人、母などさまざまに解釈されうる。
 
オリビア・ニュートン=ジョンのカバーバージョンは、イギリスでは19731月の全英シングルチャートで最高位の15位にランクインした。1976年には日本でもシングルカットされ、オリコン洋楽チャートで19761129日付から15週連続1位と大ヒットした。
1995年本名陽子でスタジオジブリのアニメ映画『耳をすませば』の主題歌として使われた。
 
Sunshine on My Shoulders 太陽を背に受けて」。
John Denver, Dick Kniss, Mike Taylorの共作である。1971年のアルバム「Poems, Prayers & Promises」に収録、1973年前半に、「I'd Rather Be a Cowboy」というシングル盤のB面として発売され、同年の後半にA面として発売された。19743月にビルボード1位になる。
197311月にガンで亡くなる若妻のストーリーを描いたNBCのテレビ映画のテーマ曲となり、ヒットを後押しした。この映画は、高視聴率のため1974年夏、3か月の間テレビシリーズとなった。
デンバーは、雪解けの時期に、太陽が輝くときを想って書いた。
 
Leaving on a Jet Plane 悲しみのジェット・プレーン」。
ジョン・デンバーが作詞作曲し、ピーター・ポール&マリーが1967年にアルバム収録曲として発表した楽曲。1969年、シングルカットされ全米チャート1位を記録した。
1966年、ジョン・デンバーはアルバム『JohnDenver Sings』を自費で制作し友人や家族に配った。「悲しみのジェット・プレーン」は「Babe, IHate To Go」というタイトルでその中に収録されていた。彼のレコードを聴いたピーター・ポール&マリーは「Babe, I Hate To Go」に感銘を受け、タイトルを変更して、1967318日発売のアルバム『Album 1700』に収録した。
19699月、ピーター・ポール&マリーは本作品をシングルとして発表した。同年1220日付のビルボード・Hot 1001位を記録した。
ジョン・デンバーは、196910月デビュー・アルバム『Rhymes & Reasons』で「Leaving on a Jet Planeとして、本作品を発表した。
 
Take Me Home, Country Roads 故郷へかえりたい」は日本でも1971年ごろ、よくラジオで流れていた。
オリビア・ニュートン=ジョン版もあるが、やはりジョン・デンバー版の印象の方が大きい。
1990年ごろ東京へ出張したときに、現地の同僚が生ギター伴奏カラオケクラブへ連れていkってくれたときに、この曲を歌ったが、うまく歌えずギターの男性にバカにされた苦い思い出がある。
ジブリ版の「カントリーロード」は知らなかった。曲のメロディーを使った日本の楽曲になっている。
PPMの「悲しみのジェット・プレーン」は、かすかに記憶がある。1969年ごろ日本のフォークは盛んだったが、アメリカのフォークへの関心は下火になっていた。ジョン・デンバーが原作とは知らなかった。ベトナム戦争に対する反戦歌であろう。
1974年ごろ「Sunshine on MyShoulders」が流れていたころは、学生運動が下火になって、ゆったりした気分の曲が好まれた時代だった。

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