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Channel: いちご畑よ永遠に
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ポップスの名曲 ヘレン・レディ タニヤ・タッカー 「Delta Dawn デルタの夜明け」「I Am Woman」 

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Delta Dawn デルタの夜明け」は、タニヤ・タッカーTanya Tucker1958年~)が1972年に発表したデビュー・シングル。ヘレン・レディHelen Reddy1941年~)のカバー・バージョン(1973年、全米1位)で主に知られる。
ロカビリー・デュオで活動していたラリー・コリンズと、アレックス・ハーヴェイが作詞作曲した。
 
邦題の「デルタの夜明け」は誤訳である。かつて人々から「Delta Dawn」とよばれあがめられたテネシー州ブラウンズビル出身のサザン・ベル。彼女は現在41歳になったが、若いころ彼女に求婚した"Mysteriousdark-haired man" の幻影にとりつかれ、スーツケースを持ったまま街をさまよい歩く。
 
Chicken Soup for the Soul」というHPに、アレックス・ハーヴェイが「Delta Dawn」を書いた経緯が書かれている。
ある人は私(ハーヴェイ)が育ったテネシー州ブラウンズビルの狂った女性のことだと考えているようだが、本当のことを言おう。15歳のとき、私が所属していたバンドがコンテストで優勝して、ジャクソンでテレビ・ショーに出演することになった。それを聞いて、私の母も行きたいと言った。彼女が酔っぱらて、恥かしいことをすると思い、私はその夜は来ないように頼んだ。テレビ局での録画を終えて、帰宅すると彼女はいなかった。すると、母親の知り合いの女性たちが運転する自動車が家に来て、「あなたの母親は亡くなった」と告げた。母は酒を飲んで猛速で車を走らせ、立木に衝突して亡くなった。どうも自殺らしいという。それ以後の高校時代や青年時代は、テレビ出演での同行を断ったことが自殺の一因だ思い、罪悪感をもちつづけた。楽曲制作の道を選んだのは、それを克服する手段でもあった。
10年後の1973年(間違い)、私はロサンゼルスに住み、ある日、ドティー・ウェストのライブを音楽仲間たちと聴いたのち、一同でラリー・コリンズの家に行き、作曲仲間のラリーと朝の4時半までギターを弾いていた。皆は寝てしまったが、ふと気が付くと、母が部屋に入ってきて、ロッキング・チェアーに座って笑いだした。
母はミシシッピデルタからやってきて、まるでいつも手にしたスーツケースをどこにも置く場所がないような生涯を送った。彼女は町の美容師で、自由な精神を持った人だったが、小さい町の人々には理解されず、人間的な成長を遂げる道を閉ざされた。「She's forty-one and her daddy still calls 'er "baby" All the folks 'round Brownsville say she's crazy」はこのときに、浮かんだ歌詞だ。すると、ラリーが起き上がってきて、ギターを持ち、こういうふうに演奏しようといって、20分ほどで曲が出来上がった。
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サザン・ベルとは南部美人のことである。「Delta Dawn」は実在の名前なのかと思ったが、あだ名でもなく、母親を意識した架空の名前のようだ。
 
作者のアレックス・ハーヴェイが1971年にアルバム『Alex Harvey』にレコーディング。これがオリジナル・バージョンとされる。そのとき、バックで歌ったトレイシー・ネルソンがニューヨークのボトムラインで歌った。トレイシーのファンだったベット・ミドラーが曲を聴いて、レパートリーに加え、19736月シングルとしてリリースしたが、2日前にヘレン・レディがリリースしたので、B面になった。
 
1972年、プロデューサーのビリー・シェリルは、この曲をベット・ミドラーのシングルとして出そうとしたが、ミドラーはエピックと契約してしまった。
当時13歳のタニヤ・タッカーはコロムビア・レコードと契約したばかりで、シェリルは「The Happiest Girl in the Whole U.S.A.」をタッカーのデビュー曲として考えていたが、タッカーはトーク番組『ザ・トゥナイト・ショー』でベット・ミドラーが歌っているのを聞き、「デルタの夜明け」にしたいと主張した。同年5月、シングルA面として発表。ビルボード・Hot 10072位、カントリー・チャートで6位を記録した。
 
1973年、ヘレン・レディのプロデューサーを務めていたトム・カタラーノは、タッカーのバージョンに似せたアレンジのインストゥルメンタル・トラックを作りバーブラ・ストライサンドに歌わせようとしたが、ストライザンド側が断ったため、タッカー・バージョンに比べキーを上げてレディが歌うことになった。
同年6月にシングルA面として発表され、ビルボード・Hot 1001位を記録する大ヒットとなった。ビルボードの1973年の年間チャートでも14位を記録した。

もちろん、夜明けの歌だと思い込んでいた。カントリーというよりも、もともとR&Bに近い曲調で、力強く歌う歌手に向いた歌。
 
ヘレン・レディはオーストラリア・メルボルン出身。1960年代末にロサンゼルスに渡った。1972I Am Woman私は女」、1973年「デルタの夜明け」、1974年「アンジー・ベイビー」の3曲がナンバー1に輝いた。1970年代、国際的な成功を収めた。
「私は女」(1972年)は大衆文化で大きな役割を果たし、彼女は「フェミニストのポスターガール」、「フェミニストのアイコン」として知られるようになった。
 
タニヤ・タッカーは、カントリー界でおもに1970年代にヒットを出した。
当時、ラジオで名前だけでなく何曲か聴いたはずだが、曲は記憶に残っていない。1977年ごろ、ある施設で売店担当責任者として勤務していたころ、ポニーキャニオンのカセットテープ販売コーナーがあり、3か月ごとに営業担当者が来て、商品の補充をしていた。彼に、マーシャル・タッカー・バンドを愛聴していると言っていたら、あるとき、タニヤ・タッカーと関係がある名前ですかねと、聞いてきた。実際には、何の関係もなかったのだが、当時は情報が乏しい時代だったので、そうかも知れないと答えた。今、思えば、彼は業界の人間なので、本当のことを知っていたのではないかと思う。私をからかっていただけかもしれない。タニヤ・タッカーの名前にはそんな思い出がある。
従業員割引があったので荒井由美の「14番目の月」のカセット・アルバムを買ったが、1年もたたずに盗まれてしまった。しっかり記憶するぐらい曲は聴きこんだので、まあしょうがないと思って諦めた。

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