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Channel: いちご畑よ永遠に
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ポップスの名曲 ペトラ・クラーク 「Don't Sleep in the Subway天使のささやき」 「恋のダウンタウン」 

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You wander around on your own little cloud
When you don't see the why or the wherefore
You walk out on me when we both disagree
'Cause to reason is not what you care for

I've heard it all a million times before
Take off your coat, my love, and close the door

Don't sleep in the subway, darlin', don't stand in the pouring rain
Don't sleep in the subway, darlin', the night is long
Forget your foolish pride, nothing's wrong
Now you're beside me again

You try to be smart, then you take it to heart
'Cause it hurts when your ego is deflated
You don't realize that it's all compromise
And the problems are so overrated

Goodbye means nothing when it's all for show
So why pretend you've somewhere else to go

ペトラ・クラークPetula Clark1932~)はイギリス・サリー州出身の女性歌手。1960年代にはダスティ・スプリングフィールドと人気を二分した。
幼少期をウェールズで過ごし、歌手や俳優を目指した。第二次世界大戦中の1942年、BBCの戦地向けラジオ番組で偶然歌手デビューし、兵士たちのマスコットになり、ジュリー・アンドリュースらと巡業したり、国王ジョージ6世やチャチールの前で公演をした。
戦後は歌手・子役俳優として活躍。マネージャーであった父がうとましくなったころ、1957年フランス・オランピア劇場での公演時に、レコード会社の事務所が停電したときに電球を交換したフランス人広告担当者に一目惚れして結婚、フランスへ移り、ヨーロッパを中心に歌手活動を続けた。セルジュ・ゲンズブールやジャック・ブレルらと交流をもち、1960年代初めはフランスおよびイギリスでもレコードはヒットを続けた。
1964年に発売したシングル「恋のダウンタウンDowntown」がビルボード1位となり、アメリカをはじめ世界的に人気を得た。女性歌手では初めてのブリティッシュ・インヴェイジョンといわれる。
その後は、アメリカのテレビショーに出演を重ねた。1968年の番組で、黒人のハリー・ベラフォンテと腕を組んだことが、白人女性ではテレビで初めての映像となり話題となった。
このころ、ハリウッド映画に出演し、フレッド・アステアやピーター・オトゥールの相手役となった。
また、ジョン・レノンのプラスティック・オノ・バンドの「平和を我等にGivePeace a Chance」ではバック・コーラスなどで協力した。
このあたりまでが全盛期だったようだが、現在も活躍している。
 
「恋のダウンタウンDowntown」。196411月発売、19651月ビルボード1位。
作詞作曲・プロデュースはトニー・ハッチ。彼はサーチャーズを育てたことで有名。
196410月トニー・ハッチはアメリカの音楽業界視察のためニューヨークを訪れた。ブロードウェイの繁華街タイムズパークを歩いていたときに、サビのダウンタンの部分のメロディーが浮かんだ。米語ではダウンタンは下町と繁華街の意味があり、繁華街の意味のつもりだったが、NYでは南端のバッテリーパークをさすことをのちに知った。
ハッチは次のシングル曲を選定するため、ペトラ・クラークが住むパリへ行き、数曲を提案したが、ペトラはすべて却下し、ほかにないのかとハッチに尋ねた。ドゥ・ワップグループのドリフターズに提供する予定だった未完成のこの曲を聴かせると、ペトラがサビのメロディを気に入り、完成させるように頼んだ。
ペトラと一緒にフランスを廻っていたピアニストで音楽監督のケニー・クレイトンによれば、ペトラは音楽的直感力が優秀だと評価している。
歌い方がアメリカ風のアクセントではなく、イギリス流のアクセントだったこともアメリカでヒットした要因となった。
ロンドンで録音したあとの社内での評価は低かったが、レコード会社を訪れたアメリカ・ワーナーの担当者がこの曲を聴いてアメリカで売れると判断し、早速リリースすることになった。(Song to Soulより)。
 
Don't Sleep in the Subway天使のささやき」。19674月発売、ビルボード5位(7月)。
作詞・作曲トニー・ハッチ、ジャッキー・トレント。
トニー・ハッチがもともと作っていた3つのメロディーを合成して作曲した。バースの部分はポップスとシンフォニー、コーラス部分はビーチ・ボーイズに似た曲調である。
Subwayは地下歩道のことで、ジャッキー・トレントはニューヨ-クのミュージカル「Subways Are for Sleeping」の題名に準拠して使用した。
this song was banned on some radio stations for the phrase "take off your coat, lie down and close the door"- some thought it said "take off your clothes, lie down and close the door". The record label clarified and it was soon back on the radio everywhere.
 
Call me」。1965年。作詞・作曲トニー・ハッチ。
 
1967年春ごろから、ラジオの洋楽ランキング番組を聴きはじめた。そのころ、ビートルズの「ストロベリーフィールズ・フォーエバー」と「ペニーレイン」がヒットしており、レコードを購入した。前者は曲の終わりに、付け足し部分があり変わった構成だった。
ペトラ・クラークの「Don't Sleep in the Subway」を聴いたのは、初夏のころだと思うが、ストロベリーフィールズ・フォーエバー」と同様に曲調が変化する構成が印象的だったので、記憶に残る曲となった。
その後はラジオで代表曲とされる「Downtown」を聴くことも多くなったが、今聴いても「Don't Sleep in the Subway」のほうが、後世に残るメロディーだと思っている。

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