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大和政権と非大和勢力(狗奴国)の前方後方墳 読書メモ 「前方後方墳の謎」 植田文雄

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前方後方墳の謎 植田文雄 学生社 2007/11/1刊。
 
「前方後方墳」とは何か!前方後円墳との違いはなぜか?
いつ、どのように生まれ、なぜ消えたか?日本海・近江など地域王権の力と前方後方墳の前史、邪馬台国・卑弥呼との関係など日本古代国家発生の謎に迫る。
 
庄内式と布留式。
古墳時代に入ってからは、弥生土器に代わって土師器が用いられるようになった。土師器の土器形式として庄内式や布留式(奈良県天理市布留遺跡から出土)と命名され、庄内式土器の方が古い段階の土師器とされた。
この庄内式土器の段階では定型化した大型の円墳は未だ出現しておらず、庄内式土器は、古墳出現以前の土器であるとされる。形式順序は弥生V期、庄内式、布留式という順になる。
 
庄内式は200年から300年まで。
布留式は300年から470年まで。
 
滋賀県東近江市・神郷亀塚古墳。 墳丘面積687.1高さ3,8m。

愛知県清須市・廻間SZ01 遺跡。           310,0     0.95m。

 
AD200年から220年ごろ、前方後方墳は近江ないし濃尾平野ではじめて出現した。その後、前方後円墳より先に日本各地に広まって首長墓に採用された。
 
日本海と琵琶湖の王墓。
庄内式期では方形墳が主流で、いち早く前方後円墳を受け入れたのは日本海に抜ける丹後と、北陸および東国との接点になる近江の湖東・湖北である。
北陸では前方後方墳と円墳を首長墓とし、前方後円墳が頂点におかれない。北近畿では方形墓のほかに円形墓も築造した。
但馬。弥生時代から方形墓が主流。
丹後・丹波。弥生時代は方形台状墓。周辺部に比べて早く前方後円墳が導入された。畿内勢力が、瀬戸内・北部九州勢力との緊張予防策として、日本海へ抜ける主要経路の丹後勢力と結んだ。
若狭・越前。方形墓が主流。
加賀。近江と同じく、方形墓から前方後方墳への変化が起こる。
能登。方形墓から前方後方墳への変化。
越中。四隅突出墓から前方後方墳へ。中期以降は円墳。
近江。庄内式期では前方後方墳が湖東・湖北で造られ、3世代のちに前方後円墳。
 
弥生時代末に、日本海域に先進性かつ独自性の強い首長墓が造られた背景には、大陸および朝鮮半島との交流が背景にある。鉄・ガラス・玉の流通を掌握していた。
 
前方後方墳はどのように広まったか。
1期、2期.初期は近江と濃尾に限られる。
3期.二つの東方ルート。太平洋ルート。房総半島の高部古墳。廻間式土器と近江系手焙。
日本海ルート。石川県旭遺跡。近江系土器。
4期.太平洋ルート。終着点である関東内陸部へ。東海系土器と二重口縁壺。近江系手焙。
日本海ルート。終着点である会津盆地へ。北陸系土器と北陸系の二重口縁壺。
5期。東北は宮城まで。関東では栃木から群馬にかけて。
前方後円墳は4世紀後半の前橋天神山古墳から。
 
西日本。山陰・瀬戸内一帯でも前方後方墳が先行する。
初期の首長墓は、大和と讃岐以外は前方後方墳である。
大和。5期に下池山古墳。全長120mの前方後方墳。
岡山。5期。備前車塚古墳。都月坂古墳。特殊器台型埴輪「都月型」(円筒埴輪の直前形式)。
 
卑弥呼の墓。3世紀前半。大和・桜井の纏向古墳群のいずれか。
初期畿内政権。大和で、瀬戸内・大阪湾岸の勢力と連合して成立。吉備の特殊器台、楯築墳丘墓の円形墓。
 
前方後方墳と狗奴国。東方に存在。
静岡県磐田説。平安時代の古文書に久努郷(くぬのごう)。濃尾平野説。
濃尾・近江・越連合説。連合体のリーダーが狗奴国。
弥生後期の終わりごろ丹後・越の方形墓文化の影響を受けて、近江で短い祭壇のついた前方後方墳がうまれ、隣国の濃尾・越の首長も採用した。葬具として、近江型手焙りや尾張の赤い壺が生まれた。近江系の受口甕の影響を受けて、尾張でS字口縁台付甕が完成し、東国各地に広まった。
 
列島最大の前方後方墳。大和の西山古墳(190m)。4世紀後半。
段築の2段目より上は前方後円墳。
大和盆地の王墓が東麓の大和古墳群から北方の佐紀丘陵へ移るとき、両者の中間地帯に造られた。
大和から大阪の河内平野へ移る直前でもある。高句麗・新羅・百済の動乱。東国では前方後方墳世界に前方後円墳が侵入し争乱がおこった時代。
4世紀末から5世紀の河内勢力は瀬戸内海の流通を掌握して百済と結び、34世紀に纏向・大和古墳群を築いた大和勢力を弱体化させた。
大和勢力は、新興の河内勢力と対向するために、東国の前方後方墳世界と通じたのではないか。
東国では4世紀末から前方後円墳が導入された。
西国では河内大王家と結んだ前方後円墳(五色塚古墳、造山古墳、作山古墳)が造られた。
出雲は直接大陸と交流していたので、6世紀後半まで前方後方墳を造り続けた。
 
4世紀後半では倭国の統一はされておらず、前方後円墳体制は近畿の一部、瀬戸内一帯、北部九州の一部の範囲であった。
これ以外の、九州・山陰・関東・北陸・中部・東北の首長は、5世紀に入ってもなお河内政権の傘下に入らず、二つの大王勢力の駆け引きを見ていた。
大和・河内の両大王家ではない近江・越・尾張から擁立された継体大王が出現した意味はここにある。

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