時空を超えて蘇った寛永の美意識。名古屋城本丸御殿上洛殿。
右上に天守閣と小天守、右が鷺之廊下、対面所。
1634(寛永11)年7月、三代将軍家光の京都上洛にあわせて尾張藩が用意した御成御殿である。向かう途中、名古屋城に宿泊した。それに先立ち増築されたのが、本丸御殿で最も絢爛豪華な「上洛殿」と鷺之廊下・梅之間・湯殿書院・黒木書院である。
上洛殿は、家光が一度だけ使用してから将軍が使用することはなく、藩主が稀に巡覧する程度であった。江戸時代は御書院とよばれ、上洛殿とよばれるのは明治30年離宮期以降である。
外観は単層入母屋造の杮葺きで、桁行9間、梁間6間である。
2018年10月17日(水)、名古屋城本丸御殿の重文障壁画「竹林豹虎図」の実物が10月22日まで展示されていたので、4月の参観後、6月に完成公開された本丸御殿の上洛殿・湯殿書院・黒木書院の参観を兼ねて見学した。合せて、西南隅櫓、金シャチ横丁「義直ゾーン」、陸軍第六連隊石碑も見学した。13時ごろから15時30分ごろまで見学した。
本丸御殿、玄関の間の「竹林豹虎図」を鑑賞後、見学済みの表書院・対面所を通り、新規に公開された鷺之廊下を経て、上洛殿へ向かった。
表書院西側廊下から西に上洛殿を見る。
対面所。納戸一之間。南西側。二之間から。
対面所は藩主と身内や家臣との私的な対面や宴席に用いられた建物で、納戸は尾張藩主が最後に身支度を整えた部屋である。
床の間は松図で、壁貼絵には「山水花鳥図」が描かれている。狩野甚之丞画とされる。
鷺之廊下。説明。
1634(寛永11)年、三代将軍家光が京都に向かう途中、名古屋城に宿泊した。それに先立ち増築されたのが、本丸御殿で最も絢爛豪華な「上洛殿」であり、22畳敷の鷺之廊下(さぎのろうか)も対面所と上洛殿を結ぶ廊下として増築され、この御成廊下を通って将軍は上洛殿へと向かった。
鷺之廊下。
金箔地濃彩により雪中柳鷺図が描かれ、心引き締まる空間を作っていた。
長押(なげし)上の小壁まで障壁画が描かれているのが、この御殿がつくられた寛永期の特徴である。
素木板違貼格天井で、天井縁も黒漆塗となっている。
鷺之廊下。雪中柳鷺図。
上洛殿へ向かう。