2018年10月17日(水)。名古屋城本丸御殿上洛殿。三之間。西側(二之間との境)。
襖絵四面。「芦鷺瀑辺松樹図」(ろろばくへんしょうじゅず)。
狩野探幽画。重要文化財。
三之間には四季花鳥図が描かれた。季節は東側襖から北・西・南の順に移る。東が真冬の雪竹を描いた「雪中竹林鳩雀図」、北が早春の雪と梅を描いた「雪中梅竹鳥図」、西が夏の渓流と蓮を描いた「芦鷺瀑辺松樹図」、南が秋の枯柳と芙蓉・芦穂を描いた「柳鷺図」。
上洛殿障壁画の作者は狩野探幽であり、とくに「雪中梅竹鳥図」は現存する探幽の絵画では最高傑作とされている。
狩野探幽は1602(慶長7)年、狩野永徳の次男孝信の息子として山城国(現在の京都)で生まれ、幼い頃から才能の片鱗を見せた。
1612(慶長17)年には徳川家康と謁見、1614(慶長19)年には2代将軍・徳川秀忠の御前で席画、「祖父永徳の再来」と称賛を受けるほか、同年より采女(うねめ)を名乗り始める。
1617(元和3)年に京から江戸へと召され幕府の御用絵師となる(後に鍛冶橋門外に広大な屋敷を拝領し自身も鍛冶橋狩野家を興す)。
1623(元和9)年、当時の狩野家当主貞信が夭折すると弟安信に宗家を継がせ、狩野宗家を江戸へと移す。同年に大阪城障壁画を制作、1626(寛永3)年に二条城障壁画制作に携わる。
1635(寛永12)年、江月宗玩から探幽斎の号を授かり、その後も、御用絵師として様々な仕事に携わる。1653(承応2)年、52歳の時に自身の初子となる長男探信守政が誕生。
1662(寛文2)年、絵師としての最高位である法印を得て、名実共に日本画壇の最高峰に君臨する。1674(延宝3)年に江戸で没した。
狩野探幽は狩野派400年の歴史の中でも類稀な才能を有した同派随一の絵師であり、祖父永徳が築き上げた戦国武将好みである画面からはみ出さんばかりの絢爛かつ豪壮な桃山様式から、画面の中に品良く納まる瀟洒な構成と余白を存分に生かした小気味の良い軽妙で詩情性豊かな表現を用いて独自の美の世界を確立した。
天下太平の世となった江戸時代に相応しいその美の世界は同時代の美意識に決定的な影響を与えた。
狩野派の伝統的な表現手法のほか、土佐派などのやまと絵や古画などの表現を貪欲に吸収していることや、写実を重んじ写生と模写を欠かさなかったことも特筆すべき点である。
天井画。格天井の格間には七宝繋四弁花紋が描かれている。
上洛殿は将軍専用の対面儀礼の場であり、6部屋で構成されていた。そのうち4部屋と入側の天井板には650枚もの花鳥や山水を描いた板絵が嵌め込まれていた。
狩野探幽一門の制作である。
彫刻欄間。「唐松と牡丹に錦鶏」。
二之間・三之間境にあり、表は格の高い二之間側に向けられている。
花熨斗形長押釘隠。
長押に付けられていた釘隠で、生花を贈答するために熨斗紙で包んだ意匠を彫金で打ち出している。葡萄、栗鼠、草花、葵紋などが見られる。
彫刻欄間。「唐松と牡丹に錦鶏」。北側。
彫刻欄間。「唐松と牡丹に錦鶏」。南側。
入側の飾金具。
三之間。北側の「雪中梅竹鳥図」東2面。入側。
「雪中梅竹鳥図」。狩野探幽画。重要文化財。191.3×135.7cm。
紙本淡彩金泥引。
梅が咲き始める春への期待感が描かれ、余白の美が特徴である。尾長鶏が舞うのは、晴れやかさの象徴で、信長・秀吉時代の活力を描いた永徳とは構成や表現が違っている。
画面右側には雪が積もり頭を垂らす若竹と老梅の太い幹、そして真っ直ぐ天へと伸びる若梅の枝が配されている。老梅の幹は左斜め上へと枝を伸ばしているが画面のほぼ中央付近で左斜め下へと枝を落している。
老梅の幹から枝の先端にかけて二等辺三角形が形成されており、画面右側の垂直に延びる若梅の枝と見事に呼応している。
さらに老梅全体は画面の中に品良く収まっており、これら江戸狩野の独自的な表現様式は、しばしば祖父永徳の代表作『檜図屏風』と比較されている。
さらに本作において最も重要視すべき点は二羽の小禽(小鳥)の存在と、余白を存分に生かした詩情性の表現にある。
画面最左には老梅の枝先から飛び立ったのであろう一羽の小禽が描かれているが、振り向くような仕草を見せる小禽の視線は、老梅の枝先と交わるように描かれており、空間的な誘引を導き出している。この小禽と老梅の枝先の上下、そして画面右側の奥(遠景)へと飛び去る小禽の上部には余白空間が十二分に満たされており、本作の詩情性を強調させる効果を生み出している。
なお、現存画では画面中央やや右寄りに鳥の尾のみが描かれていた。本来は枝に留まるオスの雉が描かれていたと推測されたので、今回復元された。