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名古屋城二之丸 大手二之門 歩兵第六連隊之跡石碑 旧名古屋大学名城キャンパス

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名古屋城推定俯瞰図。江戸時代元禄頃。
20181017日(水)名古屋城本丸御殿、西南隅櫓見学後、二之丸跡へ至る。

江戸時代には、二之丸の中央部に御殿、北に北庭、南に横長の南庭。二之丸北西には大きな池が特徴の御深井御庭があった。
 
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名古屋城平面図。明治末年ごろ。
名古屋城は明治5年に本丸と二の丸が、7年には三の丸全部が陸軍省の所管とされ、二の丸に第六連隊兵舎が設置された。
名古屋鎮台(のち第3師団)および第六大隊(のち第六連隊)は1873年(明治6年)に設けられた。連隊創設時に建てられた歩兵第六連隊兵舎は、フランスの建築書を基に海外の例に学んで造られた。現在明治村には、方形の営庭を囲んで配されていた兵舎のうちの一棟が移築されている。
御深井御庭は北練兵場として使われた。
 
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名古屋城平面図。平成時代。
二之丸大手二之門(西鉄門)から東へ向かい、二之丸敷地に入ると、1964年に竣工した愛知県体育館がある。二之丸は体育館のある南部とそれ以北の通路・二之丸庭園部分は区切られている。
 
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二之丸大手二之門(西鉄門)。重要文化財。
二の丸西側にある枡形の外門で、古くは西鉄門といわれ、内門である大手一之門とともに二之丸正門を形成していた。
枡形御門ともいわれ、一間一戸、屋根切妻造本瓦葺で、高麗門の形式をとる。
 
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二之丸大手二之門(西鉄門)。裏側から西方向。
 
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二之丸大手二之門(西鉄門)。南方向。
 
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歩兵第六連隊之跡石碑。
門から入ると、左奥に旧陸軍歩兵第六連隊の石碑がある。
 
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歩兵第六連隊之跡石碑。
書は第30代連隊長(1932411日~1933731日)の河邊正三。     
河邊正三(18861965年)は、富山県出身。陸士(19期・明治40),陸大(大正4年)卒。
1931年(昭和6年)8月陸軍歩兵大佐。1932年(昭和7年)411歩兵第6連隊長。1943年(昭和18年)3月ビルマ方面軍司令官、第15軍の牟田口司令官と共にインパール作戦を行ったが、英印軍の攻勢で作戦は失敗した。責任を問われて司令官解任。203月大将、同年4月航空総軍司令官。22年まで巣鴨拘置所に収容された。河辺虎四郎中将の兄。
 
河邊正三大将は、インパール作戦を指揮した第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の上官で、牟田口とは盧溝橋事件当時も部下と上司の関係であった。
インパール作戦に際しては「かねてより牟田口が熱意を持って推進してきた作戦なのでぜひやらせてやりたい」と作戦を認可。その後、敗色濃厚となった1944年(昭和19年)6月に牟田口を訪ねて戦況を確認した際、両者とも作戦の中止を内心考えていたが、責任を取ることへのおそれからお互いそれを言い出せず、結果として中止決定が遅れ、損害の拡大につながった。
 
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歩兵第六連隊之跡石碑。裏。
明治71874)年320日創設。昭和20815日解隊。
軍旗親授90周年記念之建。
 
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歩兵第六連隊之跡石碑。裏台座。
1877年(明治10年) - 西南戦争に従軍
1894年(明治27年) - 日清戦争に従軍
1904年(明治37年) - 日露戦争に従軍
1918年(大正7年)- シベリア出兵
1928年(昭和3年)- 山東出兵
1934年(昭和9 - 満州出兵
1937年(昭和12年)- 上海上陸、以後終戦まで中国各地を転戦
 
歴代連隊長から。佐久間左馬太、大迫尚敏、梨本宮守正王、宇垣一成、岡村寧次。
 
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昭和
171942)年、名古屋城本丸前を行進する学校報国隊(名古屋帝大の学生など)。
19422月のシンガポール陥落を祝したもの。
以下「写真集 名古屋大学の歴史 18711991」より。
 
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1960
年当時の名古屋大学名城キャンパス。
1948年名古屋大学本部が当地区へ移転。1948年設立後の名古屋大学文科系学部は、経済学部をのぞいて1950年に名城キャンパスへ移転し、旧第六連隊兵舎を使用した。
東山キャンパスへの移転は、1959年に法学部、1963年に文学部、教育学部、1964年に教養部。

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1960
年ごろの名古屋大学名城キャンパス

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