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読書メモ 「海の向こうから見た倭国 」高田貫太

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「海の向こうから見た倭国」高田貫太、2017年、講談社。
 
対外交易ルートをヤマト王権が手中に収めたのは、通説よりもかなり遅い六世紀の前半。北九州の「君主」だった磐井を倒したことで、ようやくその長いプロセスは完成した。
 
古墳時代の日韓交流は、従来、倭も百済、新羅、加耶など朝鮮半島の国々も、強力な権力を有する中央(倭の場合にはヤマト王権)が鉄などの必需品の対外交易を一手に掌握し、地方の権力者に分配していたと考えられてきた。
しかし、交易の主役は「中央」ではなく様々な地方の勢力だったことが明らかになってきた。
 
高句麗が朝鮮半島中南部への進出をもくろむようになると、百済、新羅、加耶、栄山江流域などの社会は、国際情勢を有利に展開するために、さまざまな対外戦略をとった。
その一つに倭との通交があり、モノ・人・情報を倭に提供することで、みずからの側に引き入れ、その関係を他の社会に誇示して、情勢の安定に努めようとした。
 
朝鮮半島南西部の全羅南道西部にある栄山江流域の前方後円墳群。
6世紀前半。百済が栄山江流域を統合しようとした時代、栄山江流域の在地勢力、百済、倭の動向のなかで前方後円墳が築造された。
3説。在地勢力の首長が、倭との交流をアピールするため築いた。百済王権から派遣された倭人官僚が築いた。北部九州から移住または百済復興の援軍として来住した倭人が築いた。
 
高田説。在地首長群の主流は、方形ないし円形の高塚古墳を採用し続けたが、中心地の羅州ではなく、周縁に位置する一部の首長たちは、倭系渡来人の影響下で前方後円墳の墓制を採用した。
百済への編入による既得権益の喪失をおそれ、百済を牽制するため、倭を連想させる前方後円という墳丘を選択した。ただし、副葬品には百済の要素を含み、多義的である。
 
都出比呂志の前方後円墳体制論は、前方後円墳体制には、倭人社会の政治的な秩序が反映されており、その頂点に立つ倭王権が、民族へとつながる文化的な共通圏の形成におおきな役割を果たしたという説であるが、再検討が必要である。
 
栄山江流域の前方後円墳群の多義性は、倭各地にもあてはまる。
吉備の前方後円墳・天狗山古墳を築いた集団は朝鮮半島の東萊(トンネ・釜山)地域や栄山江流域と密接なつながりを示し、瀬戸内のネットワークに参加していた。5世紀後半の吉備の乱で造山古墳などを築いた吉備の大首長一族が雄略王朝に滅ぼされると、倭王権の傘下に入った。
6世紀前半、前方後円墳・岩戸山古墳を築いた筑紫君磐井は新羅と結んで、倭王権に滅ぼされた。
 
倭各地の前方後円墳を築いた地域社会の倭王権への立ち位置はさまざまで、必ずしも倭王権への服属を意図したものではない場合もあった。
倭王権とのつながりを示し、近隣社会への牽制を意図する場合も、面従腹背の立場もあった。
 
古墳時代の倭では、倭王権を核としながら、それぞれの地域社会も拠点となる錯綜した可変的なネットワークが広がり、朝鮮半島まで広がっていた。
倭王権と地域社会は、ときには協調してときには競合して朝鮮半島と交流した。各地の首長層が、みずからの活動を表現し誇示するために、そして倭王権や他の地域社会、ひいては朝鮮半島とのつながりをしめすために、共通のモニュメントや仕組みが必要だった。それが前方後円墳だった。
 
遅くとも六世紀中ごろまでには、日本列島各地の地域社会は、それまでつちかってきた朝鮮半島へとつづくルートや多様なコネクションを、積極的であれ消極的であれ、倭王権へ譲りわたした。
 
序章。日朝関係史のデッサン。
 
弥生時代後半。
北部九州と朝鮮半島南部の交易は漁撈をなりわいとし、優れた航海技術をもつ人々(海民)を通じて行われていた。北部九州の有力者は海民のネットワークを利用して青銅器や鉄を入手し、それを背景にして多くのクニが成立した。
金海(洛東江河口)と北部九州を結ぶ幹線路が整備され、そのルートは日本列島各地の海・河川・陸路とむすびつき、交易の範囲は西日本の内陸部や東日本へも広がっていった。
 
3世紀後半。
博多湾沿岸に大規模な港が整備され、国際的な交易の拠点となった。
倭王権が成立し、鉄や先進文化受容のため洛東江下流域の金官国を重要なパートナーとした。
 
4世紀前半。
倭王権は、博多湾を経由せず、沖ノ島ルートを通り金海と交易するようになった。
博多湾の港は衰退するが、玄界灘沿岸に拠点港が形成され、北部九州は倭王権とは独立して交易した。
 
4世紀後半。
高句麗が半島中南部への進出をもくろんだため、百済は倭王権に接近し、金官加耶を仲介による同名が樹立される。新羅も倭と交渉を始め、半島の文物が列島各地にもたらされた。
 
5世紀前半。
高句麗が半島南部に進出し、金官国は衰退する。代わって台頭した大加耶と、百済、新羅が倭との交流を活発化する。
倭でも、王権だけでなく、地域社会とくに北部九州と瀬戸内は朝鮮半島と独自または王権の外交に参加して半島から先進文化を受容しようとした。
 
5世紀後半。
新羅、百済、大加耶だけでなく、東萊(トンネ・釜山)や栄山江流域などの地域社会も、主体的に倭と交渉した。
倭王権の外交は北部九州や吉備などとの相乗りであったが、半島との緊張度が増すことにより、地域社会がもつ多様なルートを掌握して一元化しようとした。
そのため、倭王権は吉備の中心勢力を抑え込んだ。吉備の周縁に位置して海上・河川交通に長けた集団のうち、倭王権に呼応した集団は既得権を保証された。
 
6世紀前半。
新羅が加耶を攻め、532年に金官加耶が滅亡する。新羅・百済・大加耶は対立し、それぞれが倭との連携を模索した。百済は倭に軍事的支援を求め、見返りに先進の技能者を倭へ派遣した。
大加耶は、倭が百済の進出を支持ため一時疎遠となったが、関係を改善せざるをえず、周縁には倭からの渡来人などと見られる倭系古墳が築かれた。しかし、562年に新羅に併合された。
新羅は加耶進出のため、北部九州の大首長「磐井」に倭の救援を妨害させた。ただし、倭王権との決定的な対立は避けた。
百済からの圧迫を受けていた栄山江流域は10数基の前方後円墳を築き、倭とのつながりをアピールして、自主性を維持しようとした。
倭王権は磐井の乱を平定して外交権を集約した。

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