旧片山家住宅。吹屋。岡山県高梁市。平成
26年5月23日(金)。吹屋の重伝建地区のメインの町屋建築だが、作業場の蔵にある展示に見応えがある。片山家は宝暦9(1759)年の創業以来、200年余にわたって吹屋弁柄の製造・販売を手がけた老舗である。その家屋は、弁柄屋としての店構えを残す主屋とともに弁柄製造にかかわる弁柄蔵をはじめとする付属屋が立ち並ぶ「近世弁柄商家の典型」と高く評価されている。
赤い石州瓦で葺かれた二階建(一部三階建)の主屋は江戸時代後期に建てられた後、江戸時代末に仏間、明治時代には座敷が増築され、片山家が弁柄商いによって隆盛していく様を今に伝える。
また、主屋は切妻造り・平入りで、通りに面した外観は一階に腰高格子を飾る袖壁や繊細な出格子を配し、二階を海鼠壁で仕上げるなど、吹屋の町並のなかでも、ひときわ意匠を凝らしたつくりとなっています。主屋と宝蔵は通りに面して並び建ち、主屋の後ろに米蔵、弁柄蔵、仕事場及び部屋が連なっている。
旧片山家住宅。主屋。通り土間にある展示コーナー。磁硫鉄鉱、緑礬(ローハ)、ベンガラ。
旧片山家住宅。主屋。神棚。
旧片山家住宅。主屋。
2階、家族居間。旧片山家住宅。主屋。
2階。一段高いところに後継者居間があり、さらに高い段差のある奥の部屋が当主夫妻寝室。見たことがないわけではないが、こういう空間構成は珍しい。備中松山城にも装束の間という段差のある部屋があったが、地方色なのだろうか。旧片山家住宅。弁柄蔵。土蔵造、桁行
17.3m、梁間7.9m、二階建、切妻造、西面庇付、桟瓦葺。旧片山家住宅。弁柄蔵と主屋。
旧片山家住宅。弁柄蔵。内部展示。商品の包装デザイン。
旧片山家住宅。弁柄蔵。内部展示。商品の包装デザイン。
旧片山家住宅。弁柄蔵。内部展示。引き札。宣伝ポスター。
旧片山家住宅。弁柄蔵。内部展示。作業の様子。胡屋の弁柄商品化の最後の仕上げ作業。北側の「入れ場」から「弁柄箱」に仕分けして送られた弁柄粉を、規定の銘柄、等級
(松・竹・梅等)に分別して計量し、袋詰め、木箱詰等の作業をした。スコップや匙で計り分け、詰め終わると、量目、価格等の印字型(木箱には焼印)を打ち、レッテルを貼って、発送用の荷造り場へまわした。奥にはさらに蔵が並んでおり、見学するのに時間を要した。充実した内容であった。
吹屋の町並みを歩いたが、雰囲気は良いが見どころやB級グルメもない。駐車場へ戻り、裏山にある吹屋小学校へ向かう。
旧吹屋小学校校舎本館。開校は明治
6(1873)年で、木造2階建の本館は明治42(1909)年に竣工した。繁栄した吹屋の町の、いわば絶頂期に建設された小学校校舎で、2012年3月に廃校となるまでは、現役で使用される日本最古の小学校として、数々の映画・テレビのロケ地となった。吉岡銅山跡。入口。坂本の本部・本坑道跡。吹屋ふるさと村から坂本に降りる県道の途中に「吉岡銅山跡」の看板がある。
明治6年になって、岩崎彌太郎が買収して以来、近代的な技術を導入、地下水脈を制して日本三大銅山に発展させた。最盛期には1600人以上の従業員がいたが、次第に粗鉱の品位が下がり昭和6年に休山した。戦後になって再開し、ほそぼそと続いたが、昭和47年、ついに長い歴史に終止符を打った。笹畝坑道も本坑につながっており、竪坑は吹屋小学校の北にあったというので、かなり広範囲に銅山が広がっていたようだ。
矢印から狭く急な道路を下る。途中、マムシを轢きそうになったので、降りて移動させた。
吉岡銅山跡。選鉱場、精錬所への道標がある。明治以降、三菱金属の経営となり、付近の小銅山を吸収合併し、自家発電所を設け、日本で初めて洋式溶鉱炉を造り、精錬などの作業を機械化した。
背部に沈殿池が見える。銅鉱石を精製するときに出る鉱滓(からみ)煉瓦で造られている。
吉岡銅山跡。選鉱場・三番坑口への道標がある。
道路にも雑草が生い茂り、マムシ注意の看板もあるので、冬ならまだしも、これ以上の探索は無理だった。
西江邸。ベンガラの大量生産を行った豪農商西江家の邸宅。
6代目兵右衛門が宝暦年間(1751~ 1761年)、本山鉱山から採掘された鉄鉱石から、日本で初めて弁柄(酸化第二鉄)の精製に成功した。以来350年にわたり、弁柄の原料となる緑礬(ローハ)と弁柄(酸化鉄)の生産で富を成した。また、西江家は惣代庄屋で代官を兼ねて天領地の支配を許され、代官御用所を兼ねており、白洲跡・郷倉・駅馬舎・手習い場・式台などを残している。敷地は約3000坪、部屋数は41部屋,161畳を数える。邸宅としては珍しく櫓門がある。現存する建物の創建は宝永・正徳年間(1704~1715年)である。
西江邸。吉岡銅山跡から下って、すぐ南に駐車場がある。道路反対側の坂道を
5分ほど登ると玄関の門に出た。邸内の一部を公開しているが、当日は臨時休館となっていた。15時50分頃、北の新見市へ向かう。
新見美術館から眺める新見市街地。新見美術館は中世新見庄名主屋敷跡に建つ。新見は、中世、京都東寺の荘園・新見庄として栄えた。中世史を学ぶ施設として、館内に新見庄展示室があるはずなのだが、「生誕100年佐藤太清展」が開催されており、受付で尋ねると、新見庄展示室の見学はできないとのことだったので、入館は諦めた。歴史展示のあり方に疑問を感じた。
寛正4(1463)年、東寺から代官として派遣された祐清は飢饉にもかかわらず厳しい年貢催促をsたため現地で殺害された。新見の荘官惣追捕使福本盛吉の妹たまがきが荘園領主東寺に宛てて祐清の形見を求める手紙が東寺百合文書に残っている。
大佐の方谷庵へ向かう。
方谷庵。新見市大佐小南。明治3年山田方谷66歳の時、小阪部(現新見市大佐)に移寓し、母の実家西谷家の墓地がある金剛寺の境内に小庵継志祠堂を建て、外祖父母の霊を祠った。方谷は、毎月何回かこの継志祠堂にお参りして瞑想にふけっていたという。方谷はこの継志祠堂を「方谷庵」と命名した。
仏間3畳、床の間3畳を中心にした平屋の簡素な建物である。
山田方谷記念館から山側に200mほど入った場所にある。
山田方谷記念館。新見市大佐小南。山田方谷の人となり、財政改革の手法、教育者としての山田方谷、年表などのグラフィックパネル、方谷山田先生遺蹟碑拓本複製、ビデオコーナー、山田方谷が書いたとされる大政奉還上奏文の草案、書などが展示されている。
月・火休館、16時までなので入館できなかった。ランドマークにはなっている。
夏日の極上水。平成の名水百選。新見市大佐上刑部夏日。大佐山の北側に位置する。夏日地域の地滑り防止工事による取水工事によって、地表に湧き出した水。ミネラル分を多く含んだ美味しい極上の水ということで、この名が付けられた。
県道から遠いが、道標があり、分かりやすい。坂道の途中だが、数台分の駐車スペースがある。取水はしやすい。
備中の旅を終え、美作の新庄村にある道の駅「新庄」へ向かった。翌日からは登山が主体の旅となる。