広兼邸。岡山県高梁市。
平成26年5月23日(金)。成羽町から広域農道を通って北進して吹屋の南隣する中野地区に入り、広兼邸へ近づくと、道路正面の山腹に石垣が見えてきた。
広兼邸。駐車場から。左へ廻って坂道を登る。横溝正史原作の1977年松竹映画「八つ墓村」のロケ地として有名。
広兼氏は大野呂の庄屋で、同家2代元治が享和、文化の頃小泉銅山とローハ(ベンガラの原料)製造を営み巨大な富を築き、規模、構造とも雄大な城郭を思わせる構えが今もそのままに残る。敷地は781坪(2,581㎡)、母屋は98坪(323㎡)に及ぶ。二階建ての母屋、土蔵3棟、楼門、長屋、石垣は文化7(1810)年の建築。
広兼邸。石垣から見下ろす。山並みに囲まれた土地である。邸宅の向かいには明治初期、天広神社が建てられ、広兼氏個人の神社として祀られていた。社務所もあり、境内には池、築山がつくられ花木が植えられた。
広兼邸。楼門。民家では珍しい城郭風の門。
広兼邸。楼門。門番部屋からは、下を見張ることができる。
吹屋ふるさと村周遊券を購入。広兼邸、郷土館、旧片山家住宅、ベンガラ館、笹畝坑道の入館料合計1200円が850円に割引されている。
広兼邸。座敷。神棚の飾りが面白い。鉱山関係の神様であろうか。人形の展示を片付けていた。
広兼邸。客間。床の間の神飾りが面白い。その他は季節的な展示。
広兼邸。台所から座敷方向。山間部の民家の雰囲気がある。
下男・下女の長屋もよく残存している。内部立入りはできないので、10分ほどで見学を終えた。
笹畝坑道。吉岡(吹屋)銅山は古文書によると大同2(807)年「大深谷に鉱気これあり銀鉱を得」とあり,何時の頃か銅山にかわり採鉱師によって採掘され戦国時代地方の豪族尼子氏,毛利氏の領有するところとなったが,江戸時代は天領となり,代官の支配下で諸国の銅山師が請負採掘した。まず、泉屋(住友)が天和元(1681)年から30余年採掘経営。最も栄えたのは元禄年間で日本6大銅山の一つとなり,町も大いに栄え人口も数千人に及び多くの商人や芸人も集まり,遊女屋も開かれたと伝えられている。
次いで大塚宗俊の子孫代々が吹屋銅山を経営し幕末に至るまで約100年間これに関係している。備中一の宮の吉備津神社の大鳥居は宝暦12年に大塚理右衛門が独力建立寄進したものである。この頃が吹屋は第二期の繁栄期である。
明治6(1873)年岩崎弥太郎(三菱)に移り,水力自家発電により選鉱,精錬,坂本から成羽まで,トロッコ専用道路を敷設するなど近代鉱業として明治年間大いに栄えた。町も第三次の繁栄をしたが,昭和期に入り次第に衰え現在は閉山されている。
この笹畝坑道は多くの銅山抗口の中でも比較的変化に富み,当時の面影を残す坑道跡で,昭和54年から公開されている。
坑道の復元延長は320mで中央部は蜂の巣のように採掘されており,また鉱石搬出用軌道も残されているなど見所が多く,内部気温は15℃と夏は涼しく冬は暖かい別天地である。
笹畝坑道。笹畝坑道は支山であるが、後年は地下で本坑道(坂本)と連絡した。黄銅鉱、磁硫鉄鉱(硫化鉄鉱)が産出されていた。
笹畝坑道。江戸時代の採鉱風景復元。江戸時代には、この地から馬の背にのせて成羽町下原の総門まで運ばれ、高瀬舟に積んで玉島港まで行き、海路を利用して大阪の銅役所へ運ばれていた。
笹畝坑道。江戸時代の採鉱風景復元。内部は意外と奥行があった。
18世紀初頭(元禄年間)には、産銅が年間120tないし180tに達した。当時全国で有名な銅山は20カ所あったが、年間120t以上産銅した所は、わずか6カ所であったことからも分かるように、吹屋は西国一の銅山であり、全国的に有名な銅山の一つであった。
笹畝坑道。坑道の一部は、アルコール飲料の長期熟成に使用されている。
北近くのベンガラ館へ。
ベンガラ館。ベンガラ(弁柄)は赤色顔料で古くから陶磁器の赤絵,漆器,衣料の下染,家屋,船舶の塗料など色々の方面に使われた。
弁柄は宝永4(1707)年に全国で初めて吹屋で生産された。ベンガラは酸化第二鉄を主成分とし、吉岡銅山の捨て石である磁硫鉄鉱から偶然発見されたといわれる。ローハ(硫酸鉄)を原料として安永6年(1777年)から工業化し,早川代官の指導による株仲間をつくりその特権と合理制,製品の特異性により日本でただ1ヵ所の特産地として繁栄したが、昭和40年の銅山の閉山に続いて昭和49年に製造を終えた。
この地は吹屋ベンガラ工場跡で,明治時代頃のベンガラ製造工程が分かるように,残された製造用器具とともに保存展示されている。工程ごとに建てられた作業場を周回する。
ベンガラ館。第1工程。
窯場室。原料のローハをよく乾燥して、ホーロクに少量ずつ盛り、それを200枚前後土窯の中に積み重ね、松の薪で700℃位の火力にて1日~2日焼くと、赤褐色の焼キができる。ローハは緑礬ともいい、磁硫鉄鉱を加工して製造される緑色の結晶体である。ベンガラ館。第2工程。
水洗い碩臼(ひきうす)室。焼キを水洗碩臼室に運び、水を加えかきまぜる方法で、粗いものと細かいものにより分ける。それをより細かくするために水車を動力とした石臼で碩く。ベンガラ館。第3工程。
脱酸水槽室。含まれている酸分を抜くために脱酸水槽室に送り、きれいな水を入れてかきまぜる方法を数10回から100回位繰り返して酸を抜く。ベンガラと水は絶対に溶け合わないので時間がたてばベンガラは沈殿し、酸の溶けたうわ水を捨てるという方法である。
ベンガラ館。第4工程。
干棚。酸のぬけたものを干板にうすくのばして、干棚の上に並べ天日乾燥をすると、製品の弁柄になる。吹屋の町並みに向かう。西端の無料駐車場に駐車。
吹屋の町並み。重伝建地区。吹屋郷土館周辺。標高550mの山あいに赤銅色の石州瓦とベンガラ格子塗込造りの堂々たる町屋が建ち並んでいるのは、江戸時代から明治にかけて中国筋第一の銅山町に加えて江戸後期からベンガラという特産品の生産がかさなり、鉱工業地として大いに繁栄したからである。
幕末から明治にかけて吹屋はむしろ「弁柄町」として全国に知られていた。しかも吹屋街道の拠点として銅や中国山地で生産される砂鉄、薪炭、雑穀を集散する問屋も多く、備中北部から荷馬の行列が吹屋に続き、旅籠や飲食店の山間の市場町として吹屋は繁栄した。
吹屋の特異な点は、個々の屋敷が豪華さを纏うのではなく、旦那衆が相談の上で石州から宮大工の棟梁たちを招いて、町全体が統一されたコンセプトの下に建てられたという当時としては驚くべき先進的な思想にある。
吹屋郷土館。中庭。この家は、ベンガラ窯元片山浅次郎家の総支配人片山嘉吉(当時吹屋戸長)が分家し、石州の宮大工・島田網吉の手により明治12年
に建築された。間口5間、奥行き16間、中級の商家の定型で、店から通り庭で母屋の奥に味噌蔵、米倉を配し、母屋の採光のため中庭をとっている。