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岡山県高梁市 天空の城塞・備中松山城跡 藩校有終館跡 成羽陣屋跡 成羽美術館 三村氏居館跡  

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備中松山城跡。国史跡。重文。岡山県高梁市。平成
26523日(金)。道の駅「かよう」から西進し、国道484号線が高梁市街地へ下るループ橋地点からの絶景を楽しんで、備中松山城跡へ向かった。35年前の5月以来2度目となる。前回は高梁駅から頼久寺庭園を経て松山城跡へ徒歩で登ったので、全身が汗だくになったが、今回は車なので楽に見学できた。
車道には整理員がいて、進入を規制していた。最終の駐車場であるふいご峠駐車場には95分頃着いた。駐車場は狭く14台が定数で、5台ほど先着していた。満車の場合や土・日・祝日などは下の駐車場から有料のシャトルバス利用となる。
駐車場から坂道を10分ほど登って、本丸前の広場に着くと、杖を手にした老夫婦が休んでいた。
備中松山城跡は市街地の北端にそびえる臥牛山(標高約480m)のうち小松山の山頂(標高約430m)ににあり、天守の現存する山城としては随一の高さを誇る。城内には天守、二重櫓、土塀の一部が現存し、平成6年~9年にかけて本丸南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、土塀などが復元された。
 
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備中松山城跡。この城の歴史は古く、鎌倉時代の延応2(1240)年に有漢郷の地頭に任ぜられた秋庭重信により臥牛山のうちの大松山に砦が築かれたことに始まる。その後、元弘元(1331)年に備中守護高橋九郎左衛門が初めて小松山に築城した。城主は上野氏、庄氏、三村氏と変遷し、戦国時代、三村元親の時代には大松山・小松山を範囲とする一大城塞となった。三村氏が滅んだ後は毛利氏の東方進出の拠点となり、江戸時代初期には、備中国奉行として赴任した小堀正次・正一(遠州)父子により修改築がなされるなど備中の要衝としての役割を担っていた。以降、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏と城主がかわり明治維新を迎えた。
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備中松山城跡。現在見られる天守などは、天和31683)年水谷勝宗が修築したものと伝えられている。天守は、22階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守である。現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができる。1重目屋根には、西面に千鳥破風、北面・東面に入母屋破風、南面に向唐破風が付けられている。天守の高さは約11mで、現存天守の中では最も低い。
 
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備中松山城跡。
1階。囲炉裏。板石造り、長さ1間、幅3尺。調理や冬の暖をとるために掘られている。籠城戦の経験から造られたといわれるが、天守閣の中にあるのは全国的にも珍しい。
 
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備中松山城跡。
1階。装束の間。城主一家の居室。一段高い部屋となっており、床下には隙間なく石を入れ、忍びの者の侵入を防いでいる。また落城のさい城主一家が自害をするための場所である。
 
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備中松山城跡。
1階。展示。映像コーナー。備中兵乱が紙芝居式に紹介されている。
元亀元年(1570)年には三村元親が備中に兵を進めた宇喜多直家を迎え撃つ為に出撃した際に、直家と通じた庄高資・庄勝資親子に松山城を占拠されるという事態が起こったが、翌元亀22月に穂井田元清の協力の元で庄高資を討ち、松山城を奪還した。
天正2年(1574年)、三村元親は毛利氏から離反し織田信長に寝返った。翌年にかけて、三村氏と毛利氏の争いが続く(備中兵乱)。城は毛利方の小早川隆景により落され、元親は自害した。最後に残った玉野の常山城も落城した。備中兵乱の後、毛利氏の領有となった。
 
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備中松山城跡。
1階。展示。
元和3年池田長幸が入城し、63千石で立藩。寛永181641)年、2代長常が嗣子なく没し同家は廃絶。寛永191642)年水谷勝隆が5万石で入封。2代勝宗は天和元(1681)年から3年をかけて天守建造などの修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、元禄6年に無嗣子により、水谷家は断絶した。水谷家断絶後は赤穂藩主浅野長矩が城の受取りにあたり、家老・大石良雄が城番となった。元禄81695)年、安藤重博が65千石で入封、正徳元年(1711)年、石川総慶が6万石で入封したのち、延享元年(1744)年、板倉勝澄が5万石で入封し、明治時代まで板倉氏が8代続いた。
慶応41868)年118日戊辰戦争で朝敵とされた松山藩は執政であった陽明学者山田方谷の決断により無血開城した。
 
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備中松山城跡。
2階。御社壇。天和3年城主水谷勝宗が松山城を修築したさい、松山藩5万石の守護として三振の宝剣に天照皇太神を始め、水谷氏の守護神羽黒大権現等の神々を勧請し、この御社壇に安置し、事ある毎に盛大な祭典を行い、安康を祈った。
 
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備中松山城跡。
2階。西方面への眺望。高梁川と高梁市街地が見える。
 
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備中松山城跡。大手門石垣崩落の危険監視システム。大手門跡の後方にそそり立つ巨岩と、その上に載る厩曲輪石垣は崩落の可能性が指摘されている。巨岩の割れ目に貫入した樹木の成長により、割れ目が次第に大きくなっている。更に巨岩の上に載る石垣の重みで岩のズレを生じている。これらの影響で上部の石垣が変形しつつあり、将来崩落する危険を孕んでいる。このため、平成
11年より高梁市教育委員会は京都大学防災研究所と共同で、岩盤斜面にペルー・マチュ・ピチュ遺跡などで地滑りの観測をしているのと同様の不安定岩盤斜面監視システムを設置し、調査・観測している。
松山城跡の見学を終え、高梁市街地へ向かう。
 
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備中松山藩藩校有終館跡。紺屋川沿いにあり、現在は市立高梁幼稚園の敷地となっている。山田方谷は幕末に有終館の学頭となった。板倉勝静が藩主に就任すると、藩政の中心に抜擢され財政や兵制などの改革に取り組み成果を上げた。勝静が老中に就任すると、顧問となり幕政にも携わった。
 
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高梁基督教会堂。明治
22年の建築。現存する県下最古の教会。明治12年に始まった高梁でのキリスト教布教活動は、翌13年に新島襄が来高すると急速に発展し、信者の浄財によって教会が建築された。県下初の女学校・順正女学校を創設した福西志計子や社会福祉事業家の留岡幸助らを育てた教会でもある。
西の成羽へ向かう。
 
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成羽陣屋跡。高梁市成羽町。山崎氏
5千石の御殿跡で鶴首城址のある鶴首山の山麓に北向きに築営されている。万治元(1658)年山崎豊治が旗本・交代寄合としてお国入りし、直ちに御殿造営と陣屋町の構築を始めた。御殿は巨大な石垣に囲まれた正面に御庫門・大手門・作事門の三つの門跡があり、屋敷内はお庫・書院・お作事場の三区割になっており、外側は外園・下馬場・お壕がめぐらされていた。御殿は東西に約276m、南北に広いところは約90m、御殿の裏に(南側)幅約3.9mのお壕があった。
  現在、お庫跡は成羽小学校、書院等跡地西側は高梁市成羽地域局、お作事場と書院等東側は成羽美術館となっている。
 
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成羽陣屋跡。左の階段を登り、高梁市成羽美術館へ向かう。
 
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高梁市成羽美術館。昭和
28年に成羽町美術館として開館。平成6年に安藤忠雄の設計により新築開館。コンクリート打放しの建物と流水の庭が設けられている。灰色の壁はマンネリ、内部室内も移動がしづらかった。
成羽町に生まれた児島虎次郎のエジプト美術コレクションや成羽の植物化石群の展示は秀逸。
 
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高梁市成羽美術館。児島虎次郎の多才さを痛感。
 
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高梁市成羽美術館。「
RESTART はじまりの場所―向井修二記号展」を見学。全面記号のインスタレーション。黒住教宝物館で見学を薦められた。
 
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高梁市成羽美術館。館外のトイレ。記号で埋め尽くすモチーフはジャン・デュビュフェに似ているのではないか。
北西約500mにある三村氏居館跡を捜すが、分からず。成羽美術館近くの観光案内所へ戻り、地図を書いてもらった。
 
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三村氏居館跡。備中松山城で滅んだ三村氏の居館跡。天文
21533)年に星田郷(現:井原市美星町)より入部した戦国の武将三村家親が成羽川の北岸の平地に築営した平城で、成羽城とも呼ばれている。高い土塁(高さ4m、幅8m)に囲まれ、その外側には深い壕をめぐらせた堅固で広大な構えの中世の武家屋敷であった。
城主は三村家親、三村親成、三村親宣と三村氏滅亡後は小早川隆景(本陣とする)、毛利氏(代官)、山崎家治である。山崎豊治からは別邸として月見・菊見等の宴に使用されたといわれる。
現在は土塁、石垣の一部と壕の遺構が当時の名残をとどめている。
成美コミュニティセンターの敷地内にある。
このあと、ベンガラの町・吹屋へ向かい北進した。

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