津山郷土博物館。国登録。岡山県津山市。平成
26年5月27日(火)。津山城跡を見学し、東の坂道を下って南麓にある津山郷土博物館へ向かう。津山郷土博物館は津山市役所庁舎として昭和8年(1933)に建てられ昭和57年まで使用された建物を増改築して開設された。鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建、塔屋付。中央正面に車寄を付け,背面には議場を張り出す。腰に花崗岩を貼り,頂部にはスクラッチタイル貼のパラペットを四周に巡らす。中央には当時流行したアールデコのデザインを取り入れた5層の塔屋を設け、中心性を強調した左右対称の外観が特徴で、昭和初期の典型的な官庁建築である。
津山郷土博物館。展示。伝森忠政奉納鉄楯。森忠政が大坂城攻めで使用した鉄楯で、徳川家康から拝領した可能性がある。楯の重さは約
15㎏、一対で約30㎏。横幅44㎝、縦91㎝。幅11.5㎝、縦91㎝の縦長の鉄板を重ねて並べ、鋲で留めたもの。森忠政が大坂の陣の後に徳守神社に奉納したと伝えられる。楯の表面に残された多くの窪みや貫通穴が激戦を物語る。大坂城攻めで、攻め手は竹束うぃ弾避けとして濠際に陣取ったが、城内からの銃撃により多くの死傷者を出した。そのため、鉄楯10張ずつが諸大名に授けられたと記録されている。
津山郷土博物館。3階。天井の優美な曲線はアールデコそのもの。徳川家康の次男秀康に始まる松平家旧蔵大名駕籠と熊毛槍が展示されている。
津山郷土博物館。3階。円柱が壁に取り込まれるデザインが面白い。
津山郷土博物館。展示。四つ重ね土器。
中宮1号墳出土。津山市福田にある中宮1号墳は全長23mの前方後円墳で、6世紀前半~中頃の築造とされる。四つ重ね土器は、石室内から四つ重なった状態で出土した。下から須恵器器台、須恵器広口壷、須恵器はそう、土師器坩の順に重ねられていた。中宮一号墳が属す佐良山古墳群は津山市の南西,東は神奈備山,笹山,高鉢山,西は嵯峨山,大平山に囲まれた皿川の流域の山頂,山腹,山麓に営造された。
津山郷土博物館。展示。陶棺。粘土を焼き固めて作った棺で、6・7世紀に古墳内の埋葬施設で用いられた。陶棺には土師質と須恵質の2種類があるが、出土している土師質陶棺のおよそ70%は美作地方から出土しており、古墳時代の美作を代表する特徴的な遺物である。
津山郷土博物館。展示。人物埴輪。日上畝山古墳群出土。日上畝山古墳群は美作国分寺跡北西の丘陵上にあり、大半が
5世紀後半から6世紀前半に築造された円墳・方墳56基が現存する古式群集墳で、そのうち、日上天王山古墳は,全長56.9mの美作最古の前方後円墳の一つである。津山郷土博物館。展示。鉄滓(金くそ)。古墳時代。津山市金井。美作は古代からの製鉄コンビナートと評される。
津山基督教図書館。国登録。大正15年(
1926)建築。木造3階建,銅板葺。津山城跡の前面の角地に建つ。内村鑑三の弟子森本慶三が創設した建物で,設計は桜庭駒五郎。イオニア式の壁付柱を持ちゲーブルを設けた南面中央入口部の構え,東面にある時計付の塔屋,壁面各所の浮き彫り等に特徴がある。月曜日休みの多い城東地区を再訪。
箕作阮甫旧宅。国史跡。幕末の洋学者箕作阮甫が生まれ、少年期を過ごした生家。箕作家では阮甫の曾祖父定辨が最初に医業を営み、父貞固は町医者から藩医に取り立てられた。
箕作阮甫は寛政11年(1799)に生まれ、京都で医術を習得した。文政6年(1823)藩主の供で江戸に行き、津山藩医宇田川玄真の門に入り、蘭学の習得に努めた。天保10年(1839)幕府天文台に出役し、「蛮書和解御用」を命ぜられた。嘉永6年(1853)ペリ―来航時に外交文書の翻訳にあたり、同年、ロシアのプチャ―チンが長崎に来航した際は、筒井政憲・川路聖謨について長崎に行き、外交書簡の翻訳に携わった。安政3年(1856)蕃書調所教授職となり、文久2年(1862)には幕府の旗本に取り立てられた。文久3年(1863)江戸で没した。
住居は普通の町屋で特徴はない。
津山洋学資料館。津山が輩出した洋学者や、幕末の藩医箕作阮甫の偉業を紹介する。
有名な医学書「解体新書」に始まる江戸の蘭学。初めての解剖“腑分け”に驚く当時の様子や、木製の人骨模型、今も使われる医学用語の誕生秘話などを展示。白い建物は洋学に関係する図書を集めた図書室。さらにその後方が津山洋学資料館。
津山洋学資料館。展示手法は最新で、分かり易い。
津山に本格的に洋学を紹介したのは、江戸詰の津山藩医宇田川玄随で、彼とその跡を継いだ玄真・榕菴の三代は、いずれも洋学研究の大家であった。宇田川榕菴は都市計画にも興味を示していた。
津山洋学資料館。展示。「ターヘル・アナトミア」。ドイツ人医師クルムスの解剖学書のオランダ語訳書。題名は「オントレートクンディヘ・ターフェレン」。
津山洋学資料館。展示。解体新書。安永
3年(1774)刊。ターヘル・アナトミアをもとに杉田玄白らが日本語に翻訳したもの。このあたりで、館内撮影禁止に気がついた。
津山洋学資料館。GENPOホ―ル。津山洋学を紹介した映像「素晴らしき津山洋学の足跡」を上映している。
津山の見学を終え、翌日の岡山県の最高峰・後山登山の登山口である西粟倉村を泊地とし、その間に美作市湯郷・大原を経由した。
美作市歴史資料館。美作市林野。建物は大正
10年に妹尾銀行林野支店として建築されたもので、ルネサンス様式をとり入れた赤煉瓦造りの優美な外観である。館内には資料が展示されているが、普段は開放されておらず、見学には予約が必要とのことで、内部には入れなかった。南1㎞ほどにある湯郷温泉の元湯「湯郷鷺温泉」へ向かい、入浴。湯質は薄くて残念な湯だった。
岡山県美作ラグビー・サッカー場。湯郷ベルの本拠地。湯郷温泉の北近くにある。当日は公開練習日でもないので全体が休日モードだった。
美作市大原へ向かう。
宮本武蔵生誕地の碑。美作市大原。吉川英治先生文恩記念碑もある。武蔵の里として様々な施設がある。宮本武蔵の出生地に関しては、播磨説があり、美作出生説では吉野郡讃甘村という。武蔵の父は平田無二斎といわれ、母は別所林治の女と、新免宗貞の女との二説がある。そして武蔵は新免武二の養子になったという。戦国時代、この地方では新免氏が有力な豪族であった。
武蔵神社の横を通り、鎌坂峠の一貫清水へ向かう。
一貫清水。
鎌坂峠の頂上手前にある湧水で、一貫の価値があるといわれたことから名づけられたとされる。鎌坂峠は因幡街道の峠で、武蔵の義母が住む播磨・平福宿に通じる。旅立つ宮本武蔵と森岩彦兵衛が別れた場所と伝わる。峠へ向かう道路は産業廃棄物が目立ち、雰囲気が悪いと思ったら、水汲み場は全く荒廃していた。
翌日水を汲んだ東粟倉の「愛の水」に負けてしまったせいだろうか。
がっかりしながら、西粟倉村の道の駅「あわくらんど」へ向かった。翌日は、「愛の水」経由で後山登山からスタートした。