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岡山県津山市 日本100名城 津山城跡

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津山城跡。表中門。国史跡。日本100名城。
平成26527日(火)。道の駅「久米の里」から津山城へ向かった。南側の無料駐車場に駐車し、840分の開場時間に合わせ、入場した。津山郷土博物館との共通券は400円。江戸時代初期の本格的な近世城郭の高石垣に圧倒される。
表中門は三の丸から二の丸に繋がる大手虎口にあり、巨大な櫓門が建てられていたとされる。内部は大型の枡形になっている。
 
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津山城復元模型。津山郷土博物館。文献や古写真に基づいて製作された津山城の復元模型。
津山城は比高40mの鶴山に築かれた平山城で、5層の天守を戴き櫓や城門などを合わせ80余棟が建ち並ぶ大規模な近世城郭で、複雑な縄張りによる堅固な防御を誇っていた。
往時は外郭を含めると77棟の櫓を持ち、広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ櫓の多さであったが、明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され、現在は天守台・石垣のみが残り、平成17年に備中櫓が復元された。
慶長8年(1603)信濃川中島藩から森蘭丸および長可の弟森忠政が美作一国186500石にて入封し、津山藩が立藩した。この地は従来、鶴山と呼ばれていたが、忠政により津山と改められた。翌年から津山城の築城に着手し、元和2年(1616)に完成した。元禄10年(1697)に森氏は断絶した。元禄11年(1698)、結城秀康を祖とする越前松平家の分家の松平宣富が10万石で入封、廃藩置県まで松平氏が治めるところとなった。
鶴山には、嘉吉年間(1441 - 1444年)美作守護山名教清が一族の守護代山名忠政に鶴山城を築かせたが、応仁の乱後は廃城となっていた。
 
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津山城跡。本丸下の石垣から城東の町並み保存地区方面の東南部を望む。城を囲む天然の濠として東側には吉井川支流の宮川と南側を流れる吉井川を取り込み、西側には藺田川を外濠として、内側に城下町の主要部を形成した。
 
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津山城跡。本丸下の石垣から眺める備中櫓。
 
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津山城跡。表鉄門跡。本丸への入口ある櫓門で、門扉全体が鉄板で覆われていた。表鉄門は城門としてだけではなく、二階の櫓内部は本丸御殿への正式な入口としての役割も持っていた。本丸の面積が狭く、限られた敷地を有効に利用するためと考えられる。
 
 
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津山城跡。表鉄門。南から見た表鉄門のCG画像。門の二階櫓内部を左から右に向かうと本丸御殿の大広間につながる。
文化6年(1809)の火災により、本丸御殿のすべての建物や表鉄門などは焼失したが、8年後に表鉄門と両脇の石垣が再建された。
 
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津山城跡。表鉄門周辺の絵図。表鉄門から本丸御殿へ向かうルートが赤矢印で示されている。
表鉄門を北向きにくぐると、西向きに石垣がある。石段を登り、南に180度方向を変えると、本丸御殿の玄関がある。この玄関は、先にに門をくぐった表鉄門二階の櫓部分にあたり、全体は北に向かってのびる「コ」の字の形をしていた。玄関の石段を東向きに登ると、式台とよばれる板敷きの部屋があり、42畳の広間へ続く。東南隅の小部屋を過ぎて北に折れると旗竿の間があり、さらに西に折れると鑓の間へと続く。ここから北に向かうと、御殿の大広間につながる。
 
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津山城跡。本丸の石垣から南を眺める。
 
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津山城跡。備中櫓。内部。1階の「御茶席」。
受付の先の小部屋で津山城に関するDVD映像を視聴し、内部を見学した。
備中櫓の名の由来は、津山森藩の基本史料にある「備中矢倉 池田備中守長幸入来之節出来」という記載から推測される。池田備中守長幸は鳥取藩主であり、初代津山藩主である森忠政の長女「於松」はこの長幸に嫁いでいる。於松が亡くなると四女の「於宮」が長幸に嫁いだ。つまり、忠政にとって備中守長幸は娘を2人も嫁にやった娘婿にあたる。その長幸が津山城を訪れるのを機に造られたとされるのが「備中櫓」であると伝わる。
 
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津山城跡。備中櫓。内部。1階の「御茶席」。
反対側から。窓の下には城下町が見える。風流だなと思ったら、この窓は出格子窓で、その下に鉄砲狭間、横には弓狭間が取り付けられている。
 
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津山城跡。備中櫓。内部。2階。「御上段」。
 
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津山城跡。備中櫓。屋根瓦。揚羽蝶紋棟込瓦。「軒丸瓦」に見えるが、丸い部分の直径が通常の軒丸瓦の半分程度しかなく、これは屋根の「棟」の部分を飾る「棟込瓦」の一種で「菊丸瓦」と呼ばれる種類の瓦である。
本丸の発掘調査のさい、備中櫓の周辺でしか出土しない特異な瓦があった。瓦の文様は「蝶」であり、森家の家紋は「鶴丸」と符合しない。「揚羽蝶」文の瓦は池田長幸がいた鳥取城や池田家が藩主であった岡山城で使用されており、文様は池田家の「揚羽蝶」と推測された。
森忠政は、娘婿にちなんだ名前の櫓を建てるにあたって、棟に池田家由来の「揚羽蝶」文様の瓦を使用したと思われる。また、備中櫓周辺から出土した「蝶」の文様は、岡山城出土の「揚羽蝶」文様と比べて随分省略され、簡単な表現となっていて、森家お抱えの瓦師が、ふだん製作したことのない「揚羽蝶」の文様を、記憶を頼りに製作したため、簡略化された表現になったと考えられる。
 
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津山城跡。天守台から眺める備中櫓。
 
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津山城跡。天守台から西を眺める。吉井川が流れる北の低い丘陵に美和山古墳群があり、その向こうに院庄館跡がある。
 
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津山城跡。天守台付近の石垣。築城にあたり、穴太衆が石垣を築造した。天守台にはハート形の石があり、「愛の奇石」とよばれている。捜しても見つからなかったが、ハート形の石は各所にある。
1時間以上滞在し、中途半端な見学となったが、先を急いで、津山郷土博物館へ向かい下っていった。

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