橋野食堂。岡山県津山市。平成
26年5月26日(月)。院庄館跡、美和山古墳群、誕生寺の見学を終え、津山ホルモンうどんを食べるため津山市街地へ向かった。「津山ホルモンうどん地図マップ」を入手していたので、まず一番近い津山駅前の金村食堂へ向かった。昼の混む時間前に着きたいからだ。しかし、開店しておらず、休業のようだったので、有名老舗店で東津山駅近くの橋野食堂へ向かった。場所は分かりやすく、11時45分頃に到着。店前の駐車スペースは狭く、店の人にアソコといわれて、道路向かい側の駐車場に駐車した。店内は予想より広く、奥の小上がりに座った。先客は10人ほど。津山ホルモンうどん。ピリ辛
2玉890円。平成21年のB-1グランプリ3位のころから、名前は知っている。しかし、味は味噌だれが合わないのか,いまいちだった。ホルモンよりも豚肉の方が良い。もやしは味が薄い。醤油味の方が合う。色がベージュの単色。赤や緑の色が欲しいなどと感じた。加茂川を渡って南にある美作国分寺跡へ向かった。
美作国分寺跡。国史跡。津山市国分寺。吉井川左岸、加茂川合流点近くの台地上に位置する。北に向かって南面して建てられていた。。出土遺物から、天平
13年(741)の国分寺建立の詔からほどなく造営され、平安時代末には衰退したものと推定される。中央政府との強い関係が想定され、国分寺造営の実態をよく示すとともに、古代美作国の政治情勢を示すうえでも貴重とされる。左の建物は国分寺公会堂で、この場所は金堂の南東端に相当する。一帯は空き地で、史跡公園への整備待ちの状況。すぐ東に国分寺があり、その手前の駐車場に駐車。
美作国分寺跡。配置図。典型的な東大寺式の伽藍配置をもち、南から南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、回廊が中門と金堂を結び、その東南に塔を配したことが明らかになった。寺域はほぼ
2町(約218m)四方である。美作国分寺跡。史跡整備イメージ図。出土した創建期の軒瓦の文様が平城宮東区の朝堂院上層の礎石建物の瓦と酷似する。瓦の分析から、奈良の瓦工人が国分寺から北西約
5㎞に位置する美作国府を建設するさいに招かれてこれらの瓦を製作し、美作国分寺にもその瓦を使用したと考えられている。美作国は、和銅6年(713)に備前の北部6郡を分割してつくられた新しい国で、その国府は津山市総社に置かれた。美作国分寺の特徴である都との密接な関係は、そういった事情を反映している可能性がある。
なお、美作国府跡は8年前の山陰旅行のさい、見学した。市街地北西の台地上にある。
美作国分寺跡。国分寺の山門前。美作国分寺の巨大な礎石が残る。
龍寿山国分寺。天台宗。美作国分寺跡の東にある。現在の建物は津山藩松平氏の援助により、文政
11年(1828)に再建された建物。境内は庭などが整備されて美しい。鳥居が二つ並んでいるのが珍しい。聖天堂と弁財天の鳥居という。津山駅へ向かった。
旧津山扇形機関車庫。
JR津山駅。駅北西の道路脇から。1936年に建設された津山扇形機関車庫は、奥行22.1m、17線構造で、地方での鉄道が全盛期を誇った雄大な風景を残す、日本で13箇所しか残っていない扇形機関庫の1つで、20線を有す梅小路機関車庫に次ぎ日本で2番目の大きさ。ほんの一部分しか見られなかったが、片鱗をうかがうことはできた。内部公開の日程に合わせるのは難しい。
城東の町並み保存地区へ向かい、散策した。
津山市城東地区。重伝建地区。平成
25年8月に選定された。慶長8年(1603)に美作国に封ぜられた森忠政が津山城を築き、城下町を整備した。城の周囲に武家地、城下町の南半部を東西に通る出雲往来に沿って町人地が形成された。城の東を流れる宮川の東側にも城下町が形成され、出雲往来に沿った町人地が保存地区に当たる。地区の東部には、国指定史跡箕作阮甫旧宅がある。
保存地区は、東西約1050m、南北約480m。出雲往来には、道路が折れ曲がる枡形が2か所あり、東西端と中程に木戸が設けられた。屋敷地は、往来に沿って間口2間から4間程度の幅で割り付けられ、大規模なものでは10間を越えるものもある。奥行きは17間程度で規格的に割り付けられた。
各敷地では、往来に面して主屋が建てられ、その背後に附属屋や土蔵が建つ。江戸時代から明治に建築された二階部分が低いつし二階建ての主屋が数多く残り、一階の屋根には本瓦を使用しており、低く重厚な軒が連なる特徴ある町並みを形成している。主屋の一階、二階ともに、窓に様々な意匠の出格子が使用される。二階では、むしこ窓もみられ、腰になまこ壁を使用するものや、意匠を凝らした袖壁をもつものが多い。角地では、屋根を入母屋造としたり、往来に直交する小路に面する壁面にも様々な意匠を凝らしている。
城東むかし町家。旧梶村家住宅。入場無料。火曜日休み。
旧梶村家住宅は、江戸後期から昭和初期にかけて建てられた複合的な商家で、町並み保存地区の中心施設である。旧藩時代に札元をしていた豪商梶村家の屋敷跡は間口31.5m奥行34mと大規模な町家で,幕末期の主屋、大正時代の座敷・蔵・洋館、昭和初期の蔵・茶室・庭園かた構成され、変化に富んだ内部を構成していて飽きない。
城東むかし町家
(旧梶村家住宅)。庭園。国登録記念物。主屋と座敷から鑑賞するように配置されている。城東むかし町家
(旧梶村家住宅)。左が座敷(大正期)、右が東蔵(大正期)と西蔵(昭和初期)。正面が茶室の千草舎(昭和初期)。明治中期の当主梶村平五郎は銀行業や県会議員を務める傍ら和歌を得意とし、美作地方の歌壇の発展に尽くした。千草舎の名は歌壇活動にちなんで付けられた。作州城東屋敷。津山町家の典型として復元された建物で、休憩所・案内所・展示場となっている。
真横には復元された火の見櫓が聳え立ち城東地区のシンボルになっている。「男はつらいよ」シリーズの寅さんロケ地では観光休憩所になった。内部で最近描かれた襖絵を見た。
入場無料で水曜日休み。
くくり猿。城東屋敷付近を中心にした民家の軒先に吊るされている。「きんちゃいざる」(来なさい猿)ともいう。軒先に吊るすと縁起が良い、願いを書いて吊るすと願いが叶うといい、中之町の婦人会の皆さんが作っている。城東地区の知人宅を度々訪れていた俳優のオダギリジョーさんの母親が飛騨高山のさるぼぼの作り方を習得して始まったという。
衆楽園へ向かう。
衆楽園(旧津山藩別邸庭園)。国名勝。年中無休。入園無料。衆楽園は、津山藩2代藩主森長継が明暦年間
(1655~1658)に京都から作庭師を招いて造営した近世池泉廻遊式の大名庭園である。元禄11年(1698)に松平家が藩主となって以後幕末までは、家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」、または藩主の私的な別邸として使われ、明治3年(1870)に「衆楽園」と命名、一般公開された。この庭園は京都の仙洞御所によく似ており、島の配置や水面に映る島影の美しさ、四季折々の樹木の枝ぶりにも、洗練された美を感じることができる。庭園内の古い建物群は現存せず、それらを再現した建物(余芳閣・迎賓館・風月軒ほか)が建っている。
衆楽園。睡蓮と橋。庭園の大半を南北に長い池が占め、四つの島が施されている。
衆楽園。東側には全長
210メートルの曲水が設けられている。水の占める割合の多い雄大な庭園であった。
市街地を外れた北西にある中山神社へ向かう。
中山神社。津山市一宮。式内社(名神大社)。美作国一宮として崇敬を受けた。。主祭神鏡作神。本殿(重文)は中山造と呼ばれる構造で、永禄
2年(1559年)尼子晴久による建造。折口信夫・池田彌三郎らは、「古今和歌集」にみえる「吉備の中山」を当社に比定し、平安時代、吉備津神社(岡山市吉備津)の社格が上昇するとともに、「備中の中山」にある同社を指すようになったという。
川沿いに狭い道を進み、丘陵地に出会う場所に鳥居がある。駐車場に駐車してから、しばらく境内を歩くことになる。
市街地の外れで見かけたコインランドリーで、久しぶりに洗濯。短時間の乾燥を含めて300円という亭料金で済んだ。
津山高校へ向かう。
岡山県立津山高等学校本館。重文。設計,施工者は不明であるが明治
33年(1900),岡山県津山中学校の新校舎として建設されたものである。木造2階建,寄棟造,桟瓦葺の洋風建築で,屋根棟に瓦製の装飾をつける。屋根の正面中央には,切妻造鉄板葺の軒に飾りをつけた時計台,更にその背後に一段高く,鉄板葺の塔屋を置き,避雷針がそびえる。また,マンサード風の切妻形明かり窓が屋根の左右前後に置かれている。津山中学校の初代校長菊池謙二郎は夏目漱石と親交があり、「吾輩は猫である」の八木独仙のモデルとされる。B’zの稲葉浩志の母校としても知られる。外観のみ見学できる。
翌日は津山城などを見学するので、道の駅「久米の里」で連泊。