柳田国男記念館。兵庫県福崎町。平成
26年5月29日(木)。姫路市夢前町の雪彦山登山を終え、柳田国男生家のある福崎町へ向かった。近づくと、道路案内があり、旧辻川郵便局前の狭い道を東進し、北へ曲がると駐車場があった。西にも駐車場があって、観光客らしい客が群れていた。柳田国男なんてマイナーなのに不思議に感じたが、「もち麦」をテーマに観光振興をしていて、私も見事に食事をさせられてしまう仕掛けが存在していた。観光において「食」の比重は大きい。見学施設で貰ったパンフレット群もしっかりしていて、さすがに柳田国男の故郷は教育水準が高いと感心した。ただ、肝心な柳田国男の民俗学の存在感が薄れていることが問題ではある。駐車場から柳田国男記念館のある北の丘へ歩いた。その横のグラウンドにも駐車場があった。
正式には柳田国男・松岡家記念館という。入館は無料。展示コーナーは広くはない。展示資料も少ないが、こんな程度にしかならないだろう。柳田民俗学を味わうためには柳田国男の著作を読むしか方法はない。
柳田国男の生家。柳田國男は「私の家は日本一小さい家だ。この家の小ささという運命から、私の民俗学への志を発したといってよい」と書いている。生家は、記念館の西隣に移設・保存されている。柳田国男は明治
6年(1873)、医師で国学者である松岡操の六男としてこの家で生まれた。この家はもとここから8㎞ほど北の福本という場所に老医師夫婦が住んでいた建物を、松岡操が明治6年に買い取って辻川へ移築し、街道沿いに面して建てた。柳田国男の生家。家は間口
5間、奥行き4間、土間、3畳間と4畳半の座敷、4畳半の納戸、3畳の台所といったいわゆる「田の字型」の標準的な農家の間取りである。当時、ここには両親と長男夫婦、弟の7人が住んでいた。狭かったせいか、松岡家はこの家を売って、先祖代々の故郷を捨てて、母の実家のある加西市へ移り、ついで明治20年に兄・鼎が医院を開いていた茨城県北相馬郡布川村(現・利根町)に移住し、のち千葉県布佐へ移住した。この家は明治18年に東約1㎞の大門へ移築され、昭和47年まで現地にあったが、顕彰会が買い取り、昭和49年現在の地に復元された。
神崎郡歴史民俗資料館。記念館の北にある。入館無料。明治
19年に神東・神西郡役所として、神東郡西田原村辻川に建てられた木造の擬洋風建築である。明治29年に神崎郡役所に改称され、大正15年に郡役所としての使用を終えた。昭和57年3月に現在地に移築された。正面玄関にはギリシア様式を取り入れ、二階にはバルコニーを設け、アカンサスの葉が彫刻されたコリント式の円柱など、この地域の明治の文明開化を象徴する建造物であった。「もちむぎのやかた」と記念館のある丘。丘から南へおりて来ると、公園に池があり、河童の人形が池から顏を出して。子供を泣かせていた。花壇を抜けると。レストランと売店のある「もちむぎのやかた」に着く。
もち麦の「揚げ出し麺」。
756円。入ってみると、もち麦の説明があり、健康によさそうなので、つい食べてしまった。女性職員の接客態度にも好感が持てた。米にもち米とうるち米があるように、麦にももち麦がある。オオムギに属するもち麦は、紀元前3000年頃までに西南アジアで栽培化され、ユーラシア大陸に伝播した。モチ性のオオムギは日本・中国・朝鮮にしかない。日本では中国地方・四国地方・瀬戸内海に面した諸県と九州北部の諸県に僅かに栽培され、自家用として食されて、「もちむぎ」「だんごむぎ」などとよばれていた。福崎でも古くから栽培され黒紫色の麦を粉にして「だんご」として食べていたという。栽培は昭和30年頃に一度途絶えたが、昭和61年から試験栽培を行い、その後、生産組合中心に普及している。
貯蔵澱粉の種類がモチ性とウルチ性では違い、モチはアミロペクチンの含有量が多く、ウルチはアミロースの含有量が多い。もち麦は、食物繊維のひとつであるβ-グルカンを多く含んでいるため、コレステロールを低下させる働きがあるとされる。
食後、入手した地図を持ち、南の街道筋へ向かった。
柳田国男生誕地の石碑。元々はここに生家があった。生家が面した街道は「銀の馬車道」とよばれ、姫路港から生野鉱山まで南北
49㎞に及ぶ日本初の高速産業道路が通っていた。生家前を東に進むと、辻川の四辻があり、生家側に旧神崎郡役所が建っていた。旧辻川郵便局と大庄屋三木家住宅。馬車道を交差点から東へ進むと旧辻川郵便局の前に出る。擬洋風建築の旧辻川郵便局は明治
15年頃に郵便局として竣工した。土地・建物ともに三木家の所有で、1階が郵便局、2階が電報局として使用された。隣の大庄屋三木家住宅は現在修理工事中である。代々姫路藩の大庄屋であった三木家は英賀城主三木氏の後裔で、明暦元年(1655)に姫路藩主に新田開発を命じられ、辻川の地に移ったと伝えられる。江戸時代中頃の建築とされる住居には屋敷・門塀・蔵が現存する。柳田國男は10歳から12歳頃まで三木家で生活し、「三木家の四千冊余の蔵書を乱読したことが民俗学の基礎となった」と書き記している。
15時20分頃、国宝本堂のある加東市の朝光寺へ向かった。
朝光寺。本堂。国宝。加東市畑。伝承によれば、651年、法道仙人が権現山に開基したとされる。法道は天竺)から紫の雲に乗って日本へやって来たと伝えられる。法道開基伝承をもつ寺院は兵庫県東部地域に多数あり、当寺もその1つである。
本堂は方七間、寄棟造、本瓦葺。宮殿裏の羽目板の墨書により応永20年(1413)に本尊を移し、正長元年(1428)に屋根の瓦葺きが完成したことがわかる。建築年代の明らかな、室町時代密教仏堂の代表作の1つであり、和様に禅宗様の要素を加味した「折衷様」建築の代表例でもある。
東条湖方面に北進し、西へ行くと二つほど寺院が見えてきたので、車から降りて確かめるが違う。南に駐車スペースがあり、バイクが1台停まっていた。見ると、朝光寺の看板があったので、ここへ駐車し、木立ちの中を南西へ進むと、朝光寺の境内に入った。こちらは、裏側で南の駐車場から滝の音を聞きながら、石段を登り、山門へ至るルートが望ましかったようだ。
朝光寺。本堂。山門から眺める。
朝光寺。本堂から山門を眺める。山号を鹿野山と称し、真言宗。本尊は平安時代後期と鎌倉時代後期の木造千手観音立像で、後者は京都蓮華王院
(三十三間堂)から移されたもの。格子戸と菱格子欄間によって内陣と外陣に区切られ、内陣には須弥壇を置き、唐様の宮殿を安置している。
朝光寺。本堂。礎石と柱。床下が現れていて見応えがある。
朝光寺。本堂。礎石と柱。
朝光寺。本堂。礎石と柱。豪快さに感動した。
16時30分頃、西脇市の黒田庄町へ向かった。
兵主神社。西脇市黒田庄町岡。兵主神社は式内社である。祭神は。 祭神は大国主命の別名大己貴命。社伝によれば、播磨の国衙に赴任した播磨掾岡本修理大夫知恒が延暦
3年(784)に創始したという。兵主神社。拝殿。戦国時代、豊臣秀吉が三木城の別所長治を攻める際、家臣の黒田官兵衛に戦勝祈願させた。その奉納金で改築された拝殿は、茅葺入母屋造の長床式で安土桃山時代の建築様式をとどめた貴重なもの。天正
19年(1591)の棟札がある。内部は吹き放ちで、正面中央部3間を広間床とし、両脇間境を円柱配列とした特異な意匠である。黒田城跡。西脇市黒田庄黒田。中世・戦国時代に築かれた山城で、黒田氏9代の居城。現在稲荷神社がある比高約
40mの半独立山上に城があったと考えられる。黒田官兵衛の生まれは、黒田庄町黒田だという説が地元では古くから伝えられている。
黒田庄町の荘厳寺に伝わる黒田家系図によれば、黒田氏は赤松円心の弟円光を祖とし、その息子重光が黒田城に拠って黒田姓を名のったことが始まりとされる。初代重光の子孫が、代々黒田城の城主を継ぎ、八代・重隆の子として生まれた孝隆官兵衛尉(黒田官兵衛)が小寺職隆の猶子となって、姫路城を守ったとされる。官兵衛の兄・治隆が黒田城主を継いだが、近隣からの攻撃を受けて落城、宗家は断絶した。
JR本黒田駅から東へ進むと、官兵衛生誕の里石碑があり、稲荷神社の手前に駐車スペースがある。
黒田氏発祥の里を見学したので、夕食に有名な西脇大橋ラーメンを食べることにした。
西脇大橋ラーメン。西脇市上野。かつて西脇大橋のたもとにあった一軒が播州織に従事した女性のために考案した、スープの甘い特製ラーメンが「播州ラーメン」の元祖と言われる。
道の駅「北はりま」から南へ進むと、交差点の角にあり、すぐ分かった。観光客と地元の客で賑わいかける時間帯であった。
西脇大橋ラーメン。甘めのスープは醤油ベースで後味はさっぱりとしている。麺は中太のちぢれ麺で、具はアバラとモモのチャーシューが
1枚ずつ、モヤシと海苔、刻みネギ。特製ラーメン680円と小ライス120円を注文。美味かった。すぐ北にある道の駅「北はりま」へ向かった。翌日は市川町の笠形山登山から始まる。