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比婆山登山口。立烏帽子山東麓駐車場。目の前には立烏帽子山が見える。Clik here to view.
平成25年10月17日(木)。比婆山への登路は、東の県民の森からのルートが一般的だが、道の駅東城の車の中でルートを眺めるうちに、比婆山連峰最高峰の立烏帽子山との両峰のピークハントと考えるなら、立烏帽子駐車場から往復した方がよいと考えた。
8時30分頃立烏帽子駐車場に到着したが、1台も車はいなかった。広くてトイレもある。久し振りの山行なので準備に時間がかかった。
しかし、肝心の登山口がよく分からない。
9時44分、左側に広い道があるので、そこから出発。分県登山ガイドの地図は立烏帽子山への直登ルートしか示していないので、少しおかしいなと思いながら水平に近い巻道を進むと、池ノ段と立烏帽子山への分岐に出た。とりあえず比婆山を優先し、復路に立烏帽子山へ登ることにして、池ノ段へ向かった。
立烏帽子駐車場の登山口は、車を置いた先の案内看板の裏側の一段高い場所にあったのだが、板に隠されていて気が付かなかった。さらにここからは立烏帽子山への直登ルートと、北側の巻道がある。私が辿ったルートは南側の巻道であった。理想的には北側の巻道を往路に、復路に池ノ段から立烏帽子山経由で帰ると距離が短くなる。
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9時58分、池ノ段へ到着。比婆山連峰随一の展望地で、正面に比婆山・御陵、東西に中国山地の山々が連なっている。池ノ段から越原越へはブナ林に囲まれた急坂を下る。右下に別の登山道が見え、どういうルートなのか不思議だった。ここからは緩い登りが続く。県民の森からの直登ルート分岐辺りで、男性2人組と挨拶を交わす。一人が普通のヘルメットを被っていた。Clik here to view.
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10時41分、比婆山・御陵(標高1264m)へ到着。十合目の木標と祠の先に巨岩が頭を覗かせている。頂上付近は緩い登りで人工物が多く、どこが頂上か分かりにくい。本当の頂上には巨石が数個鎮座しているが、鉄鎖の柵で囲まれ、入ることは心理的にできないが、一周すると柵が倒れている箇所もあった。庄原市が建てた説明板があった。ここは広島県史跡の「比婆山伝説地」であり、古事記にいうイザナミノミコトを葬った陵墓として古来から信仰を集めてきた。神域の巨石およびイチイの老木は神籬盤境(ひもろぎいわさか)として伝承されている。山上中央部の径15mの区域内には巨石数個は重畳し、神域とされている。幕末以後、神陵参拝が盛んであったが、明治20年頃、神陵と称することが禁じられたため、登拝は衰えたが、その後徳富蘇峰らによって全国に知られるようになった。Clik here to view.
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山上南側には一対のイチイ(門栂)がおのおの巨石を抱いて茂り、神域の門戸と伝承される。Clik here to view.
11時2分、比婆山・御陵から帰途に着く。往路を下り、池ノ段へ着く手前で、若い女性と老人らの三人組と行き交う。11時44分池ノ段へ到着。雲もないので、四周を再度見渡した。
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11時56分立烏帽子山(標高1299m)山頂へ到着。写真を撮ろうとしていたら、反対側から山頂はどこだと言いながら、老人2人組が登ってきたので、ここだと教えた。山頂での写真を撮ってほしいと頼まれた。12時2分山頂北側方向へ下りていくと。男女5人組と出会ったので、この道が駐車場へ下りる道か確認した。彼らも、山頂はどこだと尋ねてきた。Clik here to view.
12時14分登山口へ帰着。先ほどの2人組も降りてきた。立烏帽子山だけ登りにきた山口県の人たちで、20分ほど話した。
この後、庄原田園文化センターにある歴史民俗資料館へ向かう。駐車場が予想外の場所にあり、面食らった。しかも歴民は特別展準備のため臨時休館中であった。1階の倉田百三文学館は開いていたが、照明が暗かったので点けてもらい見学した。戯曲「出家とその弟子」で知られる倉田百三はこの近くの呉服店に生まれた。展示では郷里の親戚の女性との往復書簡が注目される。彼の一生は宗教的な色合いが濃い。
1階の図書館でしばし、ネット。三次の古墳群地域は時間がかかるので、三次市街地西北の常清滝へ行き、本日の行程を終えることにした。
1階の図書館でしばし、ネット。三次の古墳群地域は時間がかかるので、三次市街地西北の常清滝へ行き、本日の行程を終えることにした。
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常清滝。日本の滝100選。高さ126m、3段の滝に分かれている。作木支所の裏に駐車場があり、階段を上ると、遊歩道入口に鳥居があり、車は駐車できない。500mほど遊歩道を登っていくと、滝が現れる。終点から50mほど登ると展望台があるが、全貌の写真は撮れないので、滝口付近まで下りると、いいアングルになった。Clik here to view.
道の駅君田へ行き、併設の君田温泉へ入湯、600円。重層泉で評判はいいらしい。車中泊する車も比較的多い。
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三次の雲海。尾関山公園から。10月18日(金)、道の駅君田から三次市街地へ向かう。終始、霧が濃い。盆地に可愛川・馬洗川・西城川が合流し江の川となる地形で霧が発生しやすく、秋から早春にかけ雲海が見られる。市街地にある標高の低い尾関山の展望台に登ると、雲海とはいえないながら、街を霧が包む風景が見られた。南西方向には江の川が流れている。左には城下町の面影を残す町並みが佇み、さらにその方向の川向うに、駅や市役所のある新市街がある。Clik here to view.
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三次の雲海。尾関山公園から。北東方向には西城川が流れ、霞んでいる山影は比熊山城跡のある日隈山で、その麓に鳳源寺がある。比熊山城は三次地方の国人領主三吉氏が戦国時代末期に築いた城である。Clik here to view.
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尾関山山頂・天文台跡方向。現在は展望台がある。尾関山は比高50mほどで、もとは小丸積山といい、天正年間三吉氏の重臣上里越後守が居城とした。慶長6(1601)年福島正則の重臣尾関正勝が2万石を領して入城してからは尾関山とよばれるようになった。寛永9(1632)年、三次藩主浅野長治が入封すると下屋敷として使われ、長治は山頂に天文台を置いたと伝わる。Clik here to view.
城内は公園化されているが、広く、石積みの残る曲輪の規模は大きく感じられる。
頼山陽の叔父で三次町奉行であった頼杏坪の役宅へ向かうが、道に迷い、三次市歴史民俗資料館に駐車した。
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三次市歴史民俗資料館。資料館の建物は、国登録有形文化財で、1927年に三次銀行本店として建築された。鉄筋コンクリート造で洋風の石積み建築を模している。1945年芸備銀行の三次中町支店になり、1951年から1977年までは三次郵便局庁舎として使用されたのち、1979年に三次市へ払下げされた。Clik here to view.
9時開館と思ったら、10時開館だったので、徒歩で頼杏坪の役宅を探すことにした。10時に戻ったが、辻村寿三郎人形館として入場料800円と書いてあったので、予定も時間もなかったので入館しなかった。ネットを見ると館の一部が人形館ということなのだが、歴史民俗部門が無料のままか、分からない。
道を尋ねながら、三次ふれあい会館に着き、パンフ類を漁っていると、男性職員に声を掛けられた。観光で来たと話すと、三次の歴史を紹介したビデオを10分ほど見せてくれた。三川合流の地で水害に悩まされてきた町で、旭堤という石積みの堤防は尾関正勝や浅野長治の時代に整備されたものという。
ふれあい会館の場所には、三次藩時代には政務を行う御舘がおかれていた。この会館のすぐ北に頼杏坪の役宅、すぐ西に三次社倉がある。
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頼杏坪(らいきょうへい)役宅「運甓居(うんぺききょ)」。県史跡。入母屋造茅葺平屋建て132屬侶は歴代町奉行の役宅で、建築年代未詳ながら江戸時代後期の建築で、頼杏坪が住んだ数十年前に建築されたようで、修復を経ながらも当時を伝えている。Clik here to view.
運甓居とは東晋の武将陶侃(とうかん)が朝夕100枚の瓦を運んで他日の労に備えた故事にちなんで杏坪が名付けたもの。
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頼杏坪役宅。頼杏坪が親しんだ書斎の間は彼の肖像が掲げられた床の間横のわずか2畳の狭い部屋であった。Clik here to view.
頼杏坪は宝暦6(1756)年頼山陽の父春水の弟として竹原の商家に生まれた。天明5(1785)年広島藩の藩儒となり、宋学の興隆に専念,春水に代わり江戸藩邸の藩侯世子や在府子弟の教育に努めるとともに,甥山陽の教導にも力を注いだ。文政元(1818)年『芸藩通志』編修の命を受け,7年で完成させた。文化10(1813)年60歳近くになって三次・恵蘇・三上・奴可の代官として百姓一揆伝統の地である備北において民生の安定を第一として施政にあたり、専売制の強化が農民の利益を奪い,郡村犠牲のもとに城下町の富強を図ることの矛盾を鋭く指摘した。しかし建議は入れられず,杏坪は,代官を罷免されて文政11(1828)年から3年間,三次町奉行を勤めた。杏坪は,彼の罷免で郡中が動揺し再び郡廻りを兼務することになったほど,郡民に信望が厚かったという。
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三次社倉。県史跡。白壁の建物。2軒おいた右側の大きな建物が三次ふれあい会館。広島藩は安永8(1779)年に、藩内全村に飢饉対策として社倉の設置を命じ、三次社倉は頼杏坪の町奉行在職中に設けられ、明治時代初期まで存続した。社倉には村内のものが穀物を出し合って貯蔵し、天明期には麦113石が貯蔵されていた。この建物は当時のものといわれ、木組みなどの遺構が残っている。Clik here to view.
歴民へ戻ったのち、尾関山公園の駐車場で見かけた比熊山城跡の平面図と説明に引かれて、尾関山公園に行き、登城口のある鳳源寺へ行く。
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鳳源寺。三次藩主浅野長治が寛永10(1633)年に、比熊山南麓に建立した浅野家の菩提寺。境内には藩主の墓、長治の女阿久利姫(瑤泉院)が浅野上野守長矩に輿入れした縁から大石内蔵助手植えと伝える桜や阿久利姫の遺髪塔がある。Clik here to view.
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鳳源寺。義士堂。墓域手前に最近建てられたようで、赤穂浪士出陣の姿を模した木造が堂内に並んでいる。社会見学のツアー一行が見学していた。Clik here to view.
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比熊山城跡略測図。尾関山公園駐車場にある三次市教育員会の案内板。略測図と説明がある。Clik here to view.
代々、畠敷町の比叡尾山を居城としていた三吉氏ですが、戦国時代の天正年間(1573~92)になるとこの比熊山に築城します。比叡尾山城を廃墟した理由は解りませんが、おそらく畠敷町の五日市が三次町に移ったので河川交通の発達などから将来的に三次の地を城下町として機能を整備する必要があったのでしょう。
頂上の標高331mの城跡は戦時中に畑に転用されていたとはいえ、全山に郭・土塁・井戸・竪堀の構えを残しています。特に千畳敷と呼ばれる本丸に相当する郭は90×50mの広さで東端には高さ3m、幅5m、長さ30mの基壇も残り相当な建物があったことを想像させます。
現在は鳳源寺境内から山道が登っていますが本来の大手道はさらに西の谷にあり、登り切った所には両側を土塁で囲んだ枡形と呼ばれる郭が設けられ正面玄関としての役割を果たしていました。
三吉氏は関が原の合戦で豊臣方に味方した毛利氏の武将であったため、改易となり三次の地を去ります。築城からわずかの年月でしたが、当時の築城技術を知る上で当城は大変貴重な史跡です。
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比熊山城跡。枡形虎口付近のたたり石(神龍石)。江戸時代にここへ登った少年が祟りに合う伝説が残る。鳳源寺境内からは道標があり、道に迷うことはないが、余り登られていないようだ。石仏群に導かれて、東南端の郭に至ると道は緩くなり、左に曲がった先にこのたたり石と説明板が現れる。山上での説明板は他になく、現地にも何らかの説明板が欲しい。Clik here to view.
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比熊山城跡。本丸東端の基壇の上から本丸(千畳敷)の様子を眺める。確かに広いが杉の植林で覆われ、薄暗くて気味が悪い城跡である。それでも踏み跡は北西側に向かっていたので進むと、堀状の凹地帯があり、土橋から回り込んでその先の郭らしき地帯へ踏み込んだが、遺構らしきものはなかった。この北に延びる郭は普請途中で造成が中止されものという。Clik here to view.
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比熊山城跡。たたり石付近の展望所から三次盆地の南東方向を眺める。Clik here to view.
天正19(1591)年に三吉広高がそれまでの居城比叡尾山城(三次市畠敷町)本拠から移して築城した。関ヶ原の戦い後、毛利氏が防長へ転封するが、三吉広高は浪人となり、京都で隠棲していたのを広島藩主の浅野氏が三次まで連れて帰り、子孫は広島藩士として続いた。また、長府藩士として続いた家系からは幕末の志士、三吉慎蔵が出ている。
城跡から降りたら、正午頃になり、みよし風土記の丘へ向かった。
なお、数日後に備北名物のワニ料理を食べ忘れたことに気づき、世羅郡方面から再度三次市に向かい、11月1日に比叡尾山城を併せて見学した。