三次地方は西日本でも有数の古墳密集地帯として知られ、広島県内の古墳の約3分の一約4000基がこの地方に集中している。また、直径45.8mの県内最大の円墳浄楽寺12号古墳が存在する。
展示の目玉は国史跡矢谷古墳出土品で特殊器台などが重文に指定されている。
展示の目玉は国史跡矢谷古墳出土品で特殊器台などが重文に指定されている。
矢谷墳丘墓は国史跡で全長18.5mと弥生時代後期の墳丘墓としては中国山地では最大の規模を誇り、山陰系の四隅突出墓を二つ合体したような前方後方形という特異な墓形をしている。
特殊器台は弥生時代後期(2~3世紀)に吉備南部で有力者の墓に供えるために特別大きく作られた土器で、山陰や近畿などにも運ばれた。周濠から出土したこの特殊器台は高さ99.5僉口径47.5僂婆鐇古擺錣箸靴討和膩拭G歎燭篁鯵儼舛瞭かしが施されている。矢谷墳丘墓にはこの器台の上に大型の特殊壺が載った状態で高さ1.5mのセットになり、墓の周囲に立て並べられていた。この特殊器台は古墳時代の円筒埴輪の起源であることが確認されている。
特殊器台は弥生時代後期(2~3世紀)に吉備南部で有力者の墓に供えるために特別大きく作られた土器で、山陰や近畿などにも運ばれた。周濠から出土したこの特殊器台は高さ99.5僉口径47.5僂婆鐇古擺錣箸靴討和膩拭G歎燭篁鯵儼舛瞭かしが施されている。矢谷墳丘墓にはこの器台の上に大型の特殊壺が載った状態で高さ1.5mのセットになり、墓の周囲に立て並べられていた。この特殊器台は古墳時代の円筒埴輪の起源であることが確認されている。
このガラス玉は方形区画墓の一つから出土した。最新の化学分析により、ガラスに含まれる蒸発塩成分からがローマ帝国内で製作された可能性が高いと分かった。割れ口からのぞくコバルトブルーが印象的。
一通り常設展示を見たのち、風土記の丘へ。実際の丘陵なので広大。メインは国史跡で県内最大の古墳群である浄楽寺・七ツ塚古墳群。両者とも5世紀の築造という。資料館と風土記の丘の見学時間は2時間ほどになった。
先に、民俗資料常設展示館を見学。
遠足の小学校児童が一面を占拠していた。
しばらく進むと、犬らしき動物がいたが、よく見ると野生のキツネで、すぐに姿を消した。
墳頂部の中央からは、木棺を粘土で包んだ粘土槨とよばれる埋葬施設が、頭部を東南に向けて二つ並んで見つかり、北東側からは鉄鏃、刀子、鉄片、南西部からはガラス小玉約100個、メノウ勾玉2個が出土した。
駐車場へ戻ったのは15時頃だった。周辺の史跡へ向かう。東から西へ、まずは寺町廃寺跡へ。
この遺跡は飛鳥時代後半から平安時代にかけて営まれた備後北部最古の地方寺院跡である。「日本霊異記」には、7世紀三谿(みたに)群郡司の祖先が百済からの渡来僧弘済を招いて三谷寺を建立したとの記事があり、百済文化の影響が濃厚なこの廃寺が三谷寺と推定されている。
伽藍配置は法起寺式で、金堂や塔の基壇は版築土を持った上に、百済の寺院で多用された塼を並べるという構造をとっている。
また出土した水切り瓦からは、安芸・備中・出雲の古代寺院遺跡との交流がうかがわれる。
丘陵の奥まで歩いたが、しっかり埋め戻されているようで、墳丘らしき姿は確認できなかった。
工業団地の中にある三次勤労者体育センターの体育館裏手の丘に登ると見えてくる。北方向を見下ろす丘の上にあり展望が良い。
東側に窯跡があるというので探索したが見つからなかった。
三次インターから北へ向かう道路の左側の丘の上にあるが、分かりにくかった。横の墓へ来た車が数台いた。三次盆地を北へ見下ろす丘陵地にあったようだ。郡衙跡中心部は道路工事で消滅したとは無残。
規模の大きい墳丘墓である1号墓は東西約31m、南北約20mの長方形をなし、周囲の斜面に貼石を設けて区画している。この中には箱式石棺墓や土壙墓など215基以上が密集している。弥生時代前期末から古墳時代初頭ごろまでの墳墓とされ、墳丘墓は有力集団の共同墓地としてとらえられている。
遺跡は貼石の区画のみはっきりしているが、それ以外はよく分からない。
16時45分になり、暗くなってきたので、安芸高田市の道の駅へ向かった。