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広島県三次市 広島県立歴史民俗資料館・みよし風土記の丘 寺町廃寺跡 陣山墳墓群 矢谷墳丘墓 下本谷遺跡 花園遺跡 

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矢谷墳丘墓の特殊器台・特殊壺。重文。平成25年10月18日(金)午後。三次市の比熊山城跡見学後、13時過ぎに三次市の広島県立歴史民俗資料館・みよし風土記の丘に到着。資料館入場料は尾関山公園にあったクーポンを使用し160円の割引料金。

三次地方は西日本でも有数の古墳密集地帯として知られ、広島県内の古墳の約3分の一約4000基がこの地方に集中している。また、直径45.8mの県内最大の円墳浄楽寺12号古墳が存在する。
展示の目玉は国史跡矢谷古墳出土品で特殊器台などが重文に指定されている。

矢谷墳丘墓は国史跡で全長18.5mと弥生時代後期の墳丘墓としては中国山地では最大の規模を誇り、山陰系の四隅突出墓を二つ合体したような前方後方形という特異な墓形をしている。
特殊器台は弥生時代後期(2~3世紀)に吉備南部で有力者の墓に供えるために特別大きく作られた土器で、山陰や近畿などにも運ばれた。周濠から出土したこの特殊器台は高さ99.5僉口径47.5僂婆鐇古擺錣箸靴討和膩拭G歎燭篁鯵儼舛瞭かしが施されている。矢谷墳丘墓にはこの器台の上に大型の特殊壺が載った状態で高さ1.5mのセットになり、墓の周囲に立て並べられていた。この特殊器台は古墳時代の円筒埴輪の起源であることが確認されている。

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矢谷墳丘墓の出土品。重文。埋葬施設から出土。山陰系の低脚杯・高杯形土器、鼓型土器、碧玉製管玉など。当時の三次盆地は瀬戸内と日本海側をつなぐ南北交流の拠点となっていたと考えられる。

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ガラス小玉。松ヶ迫矢谷遺跡。弥生時代後期。矢谷墳丘墓周辺は松ヶ迫遺跡群とよばれ、弥生時代の墳墓、古墳時代後期を中心とした集落跡が発見されている。
このガラス玉は方形区画墓の一つから出土した。最新の化学分析により、ガラスに含まれる蒸発塩成分からがローマ帝国内で製作された可能性が高いと分かった。割れ口からのぞくコバルトブルーが印象的。
一通り常設展示を見たのち、風土記の丘へ。実際の丘陵なので広大。メインは国史跡で県内最大の古墳群である浄楽寺・七ツ塚古墳群。両者とも5世紀の築造という。資料館と風土記の丘の見学時間は2時間ほどになった。

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みよし風土記の丘。旧真野家住宅。県内の重文指定古民家10件の中では最古級で、江戸時代初期、17世紀前半に建てられた農家。世羅町戸張から移築された。入母屋造茅葺。桁行14.9m、梁間9.0m。間取りは土間(ニワ)の上手にチャノマ・ナンド・デイ・オキマを置いた四間取り。
先に、民俗資料常設展示館を見学。

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みよし風土記の丘。七ツ塚古墳群。11号古墳の上から9号・10号古墳方向を眺める。七ツ塚古墳群は60基あり、前方後円墳の9号古墳、帆立貝式古墳の10・11号古墳は55基が円墳、2基が方墳。最大の円墳15号墳は直径28m、9号古墳は全長29,5mと規模はほとんど同じ。5世紀の築造と推定される。

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七ツ塚古墳群。9号古墳。二つの古墳群で唯一の前方後円墳。
遠足の小学校児童が一面を占拠していた。

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七ツ塚古墳群。9号古墳。墳丘想定図。説明文、この古墳は丘陵の最も高い所(標高249m)からやや北西にやや下がったゆるやかな斜面に築かれた全長29.5mの前方後円墳で、前方部を西に向けている。前方部は幅16.0m、高さ2.3m、後円部は直径21m、高さ4.5m、くびれ部の幅は10,5m。埴輪の破片から5世紀後半から6世紀前半頃の築造とされる。

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浄楽寺古墳群入口。1号古墳手前。二つの古墳群は数百m離れている。全体で116基あり、円墳が97基、方墳18基、帆立貝形古墳1基。
しばらく進むと、犬らしき動物がいたが、よく見ると野生のキツネで、すぐに姿を消した。

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浄楽寺古墳群。12号古墳。両古墳群の中で最大規模の円墳。直径45m、高さ6m。県内でも最大級。墳丘には下から約1.5m上がったところに、幅2.5mの段が造りだされている。この段から下部は自然の地形を削って形を整え、段から上は人工的に盛土をして墳丘を造っている。段から上の斜面には葺石が施され、段の部分と墳頂部の縁辺には円筒埴輪が並べられていた。
墳頂部の中央からは、木棺を粘土で包んだ粘土槨とよばれる埋葬施設が、頭部を東南に向けて二つ並んで見つかり、北東側からは鉄鏃、刀子、鉄片、南西部からはガラス小玉約100個、メノウ勾玉2個が出土した。
駐車場へ戻ったのは15時頃だった。周辺の史跡へ向かう。東から西へ、まずは寺町廃寺跡へ。

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寺町廃寺跡。国史跡。丘陵地の田園風景の中にある。休耕田の中を看板めがけて歩いてゆく。
この遺跡は飛鳥時代後半から平安時代にかけて営まれた備後北部最古の地方寺院跡である。「日本霊異記」には、7世紀三谿(みたに)群郡司の祖先が百済からの渡来僧弘済を招いて三谷寺を建立したとの記事があり、百済文化の影響が濃厚なこの廃寺が三谷寺と推定されている。
伽藍配置は法起寺式で、金堂や塔の基壇は版築土を持った上に、百済の寺院で多用された塼を並べるという構造をとっている。
また出土した水切り瓦からは、安芸・備中・出雲の古代寺院遺跡との交流がうかがわれる。

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寺町廃寺跡の復原想像図。

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寺町廃寺跡。水田の中に見える石塔の一番下の石は、当時の塔心礎石であるという。

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陣山墳墓群。国史跡。丘陵地の中にある。陣山墳墓群は5基の四隅突出型墳墓で構成されている。弥生時代中期後葉(1世紀)から3世紀にかけ、中国地方山間部から山陰・北陸にかけ出現した特異な墳墓形式である。陣山墳墓群からは1世紀頃の塩町式土器が出土しており、最古期の四隅突出型墳墓とされ、三次盆地でこの形式が発生したとの説もあるが、近年出雲でも同時期の墳墓が発見され、やはり出雲が始源で、中国山地へ伝播しとの説が有力になっている。
丘陵の奥まで歩いたが、しっかり埋め戻されているようで、墳丘らしき姿は確認できなかった。

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矢谷墳丘墓。国史跡。県内で唯一の四隅突出型前方後方形墳墓。全長18.5m、溝の部分まで含めると22.6m、幅10~12m、高さ約1mの規模を持ち中国山地の弥生時代後期の墳丘墓としては最大規模を誇り、地域の首長墓と考えられている。
工業団地の中にある三次勤労者体育センターの体育館裏手の丘に登ると見えてくる。北方向を見下ろす丘の上にあり展望が良い。

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矢谷墳丘墓。模型。県立歴史民俗資料館。墳丘には11基の埋葬主体が確認されるが、中心となる主体部は後方にあり、大型の墓壙に木棺を納めていた。墳丘墓西側には2基の方形区画墓がある。

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矢谷墳丘墓。隅部。墳裾は石を並べ立てた列石で区画し、墳丘の斜面には石を貼り付けている。墳丘長辺の一辺にくびれ部がある。

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矢谷墳丘墓。墳丘の上部は平らで広い。墳丘の先に工業団地の一群が見えている。
東側に窯跡があるというので探索したが見つからなかった。

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下本谷遺跡。国史跡。三次郡郡衙跡。中心部の北西の建物の一部区画が保存され、柱の跡を植樹で示している。発掘調査では郡衙の政庁の正殿と脇殿にあたる建物の掘立柱建物が検出された。遺物からは、8世紀後半から9世紀頃まで営まれていたとみられる。
三次インターから北へ向かう道路の左側の丘の上にあるが、分かりにくかった。横の墓へ来た車が数台いた。三次盆地を北へ見下ろす丘陵地にあったようだ。郡衙跡中心部は道路工事で消滅したとは無残。

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花園遺跡。国史跡。弥生時代後期を中心とした集団墓地で2基の墳丘墓と6基の溝による区画墓が検出され、墳丘墓が保存されている。埋葬施設の総数は400基以上なると推定され西日本でも有数の弥生時代墳墓である。
規模の大きい墳丘墓である1号墓は東西約31m、南北約20mの長方形をなし、周囲の斜面に貼石を設けて区画している。この中には箱式石棺墓や土壙墓など215基以上が密集している。弥生時代前期末から古墳時代初頭ごろまでの墳墓とされ、墳丘墓は有力集団の共同墓地としてとらえられている。
遺跡は貼石の区画のみはっきりしているが、それ以外はよく分からない。
16時45分になり、暗くなってきたので、安芸高田市の道の駅へ向かった。

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