Quantcast
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

広島県北広島町 阿佐山登山 吉川氏城館跡 駿河丸城跡 小倉山城跡 日山城跡

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 1
阿佐山登山口付近の尾関神社。平成25年10月19日(土)。広島県安芸高田市の道の駅でゆっくり起床した。週間予報では土日が雨だったので、本日は毛利氏関連の城跡を中心にする予定。しかし、実際には曇りで雨が降る感じではない。来週の水曜日からは台風の雨が予報されたので、数山予定している芸北の山を少しでも早く処理したい。そこで、北広島町の阿佐山を攻めることにして、急遽北西へ車を走らせた。
途中、見学予定の吉川元春館跡を通り、大暮川沿いを北へ遡上、分県ガイド通り天狗石山林道の高架橋地点へ出る。道路状況が格段に悪くなる中を直進すると、深山地区の尾関神社の横に出た。無住となった地区だが、小さい社がある。その後背部には祭場のような広場があった。道路脇に立つツガの高木は町の天然記念物である。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 2
阿佐山登山口の阿佐山橋。尾関神社から100mほど進むと、想像と違う道路の延長のような橋があった。車を停めて、橋が耐えるか偵察したが、問題はなかったので、橋を通り抜けると、正面に阿佐山登山口の標識があった。車道は左へ続き、別荘らしき建物も見える。登山道は右側なので、左方向の路肩に駐車した。9時45分頃。準備をして、10時26分登山口出発。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 3
阿佐山登山道。堰堤付近。この登山ルートの唯一の注意箇所。谷川を渡るには、川の中の飛び石をうまく検索して安全な石かを見極めることが必要。下手したら滑って靴の中まで水浸しになる。何とか石を探して跳んだりしながら渡り切った。もっと水量が多ければ普通の装備では渡れない。ここで、余分の時間を費やした。ストックか木の枝でバランスを取ることも考えられるが、それほどでもない。以後も、これほどではないが慎重に川を渡る箇所が数か所ある。
踏み跡は充分で、枝道もなく、迷う心配はない。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 4
阿佐山登山道。二十丁峠。11時14分着。堰堤を超えて、登山道は谷川の左岸を登り、水音も次第に消える。緩い上りが続き、稜線の縦走路分岐はあとどのくらいかと思うと、二十丁峠に着いた。石標はないが、文字表示やテープなどが幾つかある。
山頂まで稜線は緩やかに続く。1116ピークと書いてあるが、登山道中の高まり程度だった。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 5
阿佐山山頂。最後のやや急な傾斜を登りきると、ベンチ付きの小屋と防災無線塔のある山頂の一角に出た。しかし、ここが終点ではなく、20mほど南の三角点へ急ぐ。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 6
阿佐山山頂。標高1218m。11時44分着。登山口から1時間18分。一等三角点の県境分水嶺で名高い芸北の名峰である。北西方向に僅かに展望があり、三瓶山らしき姿が薄らと見える。
ベンチへ戻り休憩。北の北峰・スキー場方面への道標があるが、こちらが最高点なので行く必要はない。
11時57分に下山開始、往路を下る。二十丁峠12時19分通過、堰堤付近の谷川渡渉に手間取り、登山口へ13時2分に帰着。山頂から1時間5分。
吉川氏関係の旧跡が残る、北広島町大朝地区へ向かう。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 7
駿河丸城跡。国史跡。吉川氏関係の旧跡では最北西部にある。数か月前に「日本の遺跡33 吉川氏城館跡」小都隆、2008年、同成社を通読した。吉川氏城館跡群は寺社などの景観を含めて良好に保存され、近年は整備も進んでいる。大朝地区は毛利氏の本拠吉田郡山城から北西の島根県境近くにある。
吉川氏は駿河国入江庄吉川邑に淵源をもち、吉川経義が源頼朝に従い御家人になった。経光のとき承久の乱の功により、大朝本荘の地頭職を得た。経光・経高・経頼・経任と続く系統が大朝本荘惣領地頭とよばれた。吉川氏は14世紀後半までには大朝本荘に入ったらしい。経高の子経茂は石見の所領を継ぎ、石見吉川氏の祖となる。経茂の子経兼は観応3(1352)年、大朝新庄地頭職を得る。経兼の子経見が大朝の惣領家を譲られ、この系統が吉川氏の惣領家になり替わっていった。経見は大朝新庄に小倉山城を築いて拠点としたので、本荘には庶家が居城していた。
駿河丸城は吉川氏の当初の惣領家の本拠であったと推定され、吉川氏発祥の城といえる。麓には間所(政所)の地名が残り、大朝本庄の中心的な城であった。
城の遺構は寒曳山から南に延びる2本の尾根を堀切により独立させた丘陵の先端部に築かれている。西郭群は比高35mあり、屋敷を構えていたとみられる中心の郭を本丸・二の丸が馬蹄形に囲んでいる。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 8
駿河丸城跡。麓の民家近くに駐車し、道標に従い丘を登るが、丘の頂点近くで道が途絶えた。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 9
駿河丸城跡。城跡は整備されていないので、丘の先端から大朝本荘の田園風景を俯瞰した。
東に一山越えた新庄地区へ移動。図書館内にある大朝郷土資料室を見学。小倉山城跡などが紹介されており、城跡散策のパンフレットを入手。翌日は吉川元春館跡で吉川戦国時代まつりが開催され、全国の吉川氏の集まりも来ている。
図書館のすぐ北にある龍山八幡神社へ向かう。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 10
龍山八幡神社。正和2(1313)年、吉川経高が駿河から入部したさい、本貫地の吉川邑から八幡宮を勧請したという。以来、吉川氏が氏神として厚く崇敬して社領260石を寄進したが、福島正則の社領没収により、衰微した。吉川元春により再建された本殿は重文。
翌日の祭礼にあわせ準備が進んでいた。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 11
小倉山城跡。国史跡。15世紀中頃に築かれ、天文15(1546)年に日山城へ移るまで吉川氏の本城であった。新庄盆地の北、比高80mの独立丘陵に築かれた。
北側にある駐車場から整備された遊歩道が城跡へ続いている。丘陵の周りは川が流れ、遊歩道にはマムシがいた。
案内板には、城主吉川国経の娘(法名「妙玖」)が永正15(1518)年、毛利元就に嫁いだと記してある。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 12
小倉山城跡。本丸。削平されており、周囲には山並みが連なる景観である。発掘により、掘立柱などが検出され、その跡が表示されている。
日山城に本城が移転したあとは、兵站基地として鉄製の武具を製作する工房として使われた。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 13
小倉山城跡。本丸からの景観写真。東に日山城跡のある日野山、南に新庄市街地、西に阿佐山、駿河丸城跡方面。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 14
小倉山城跡。本丸から南西に下ると広大な御座所跡に出る。比高は約10mある。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 15
小倉山城跡。御座所跡の井戸。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 16
小倉山城跡。御座所跡下にある堀切。
翌日は雨の予報なので、一番厳しいと思われる日山城跡へ向かう。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 17
日山城跡。国史跡。新庄から南東へ向かい、日野山(火野山)の東麓道路を進む。アクセスが分からず道路を下りきってしまい、道路脇の民家先で住人に尋ねると、名水の看板の地点を山側に入るとのこと。反対側に旧道と寺がある。道路が下る直前の地点まで戻ると、確かに山側へ入るとすぐに城跡への案内看板があった。近くいた墓参りの夫婦に尋ねると、道なりに行けばすぐに、駐車場があるとのこと。16時少し前だったので、今からでは遅いと心配された。案内では標高705m、比高300mの山頂まで50分とある。駐車場に着くと、熊谷ナンバーが1台停まっていた。城跡へ向かうと、登山スタイルの50歳台の夫婦が帰ってくるところだったので、挨拶し、登山靴の方がいいですかと尋ねると、ウォーキングシューズでも大丈夫ですよと答えた。
実際には、小沢の渡渉が2か所ほどあり、登山靴の方がベターであった。踏み跡はしっかりしており、迷うことはないが、入口付近は沢と並行するので、増水時は危ない。翌日、万徳院の職員は、道が厳しいので余り薦めない、クマも出るしと語っていた。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 18
日山城跡。本丸。急いだので、登城口から20分余りで到着。三角点もある。余り広い区域ではない。樹木と雑草に覆われ、展望は少ないが、当時は北の大朝本荘・新庄方面を俯瞰できたという。
日山城は吉川興経が大内氏・毛利氏に対抗するため小倉山城に代わる本城として天文15(1546)年に築いた。興経は尼子氏と結んだため、重臣らは興経を隠居させ毛利元就の次男元春を養子として相続させた。吉川氏を継いだ元春は天文19(1550)年、日山城に入り、同年、興経は隠居地で殺害された。以後、日山城は改修・拡張を重ね、元春の三男吉川広家が天正19(1591)年に出雲富田城に移るまで本城として機能した。
城の遺構は山頂を東西に延びる尾根上700mの範囲に築かれた郭群などからなり、本丸・二の丸・三の丸・大広間の段など大小約30の郭が築かれた。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 19
日山城跡。本丸下。三の丸への道が分かれる。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 20
日山城跡。二の丸。本丸の南東にある。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 21
日山城跡。二の丸から南を見下ろす。吉川元春館方面。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 22
日山城跡。大広間とよばれる平坦地。本丸・中の丸の下にあり、左上は二の丸。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 23
日山城跡。中城。米蔵段の上にあり尾根上の平坦地にある。

Image may be NSFW.
Clik here to view.
イメージ 24
日山城跡。米蔵段への道標。米蔵段は中山口からの大手道をたどると最初に現れる郭で、谷沿いに登る通路が急に曲り、石垣で補強した直線の通路を経て尾根上に出る最初の郭である。城内では最も広い郭という。
日山城跡は、大規模な山城であった。ただし、整備はされていない。発掘調査もされていないという。
17時頃に駐車場へ帰着。近くの田原温泉5000年風呂へ入湯。夕方割引500円。道の駅千代田で車中泊。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1170

Trending Articles