毛利元就誕生地伝説地・鈴尾城跡。安芸高田市吉田町福原。平成25年10月20日(日)。道の駅千代田で起床。予報どおり雨。本日は安芸高田市の毛利氏関連の史跡と吉川氏関連史跡の残りの見学を予定。まず、土師ダム方面から一番南東部にある鈴尾城跡へ向かう。
鈴尾城は毛利氏一門福原氏の居城であった。大江広元の次男時広は武蔵国長井荘を領して長井氏を姓とし、四男相模国毛利荘を領して毛利を姓とした。14世紀末毛利元春の五男広世は長井氏を相続し、父元春から福原村を譲られて移り住み、福原氏と称し、代々毛利氏の重臣となった。
城は標高316m、比高110mで、前面には可愛川が流れ、半島状に延びた丘陵先端を利用して築かれ、頂上の本丸を中心に郭を幾重にも築いている。13代広俊が毛利輝元に従い防長に移るまで、7代219年にわたる福原氏の居城であった。
鈴尾城跡。麓の駐車場横に登城口がある。柵が閉められていたので、一瞬焦ったが、簡単に開閉できる。石段を数分登ると、土居の壇に着く。
鈴尾城跡。土居の壇。福原氏の居城跡。「毛利元就卿誕生之地」と刻んだ石碑が立っている。福原広俊の娘は毛利弘元に嫁し、興元と元就を生んだ。明応6(1497)年3月14日に元就はこの城内で誕生したと伝えられている。
鈴尾城跡。本丸。狭い。方位盤がある。雨のため良く見えないが、南西方向に可愛川を隔てて1劼寮茲両さい丘陵が桂城跡である。
吉田の郡山城跡直下にある安芸高田市歴史民俗博物館へ。
郡山城復元模型。安芸高田市歴史民俗博物館。吉田には高宮郡の郡衙が置かれ、その郡衙に名を由来する北側の郡山には密教寺院が存在した。毛利氏の本城は郡山東南端に築かれ、尼子氏が毛利元就を攻めた天文9(1540)年の郡山合戦頃までは本城があったに過ぎなかったが、元就から輝元の時代に山頂を含めて郡山全山を要塞化していった。内堀や城下町の道路である縄手が描かれている。天文9(1540)年の郡山合戦のさいは、尼子方と毛利方は縄手で小競り合いを繰り返した。
展示の中では「清神社在銘連子窓断片」が注目される。清神社(祇園社)は郡山城南麓に位置する城の鎮守社で、元亀3(1572)年に京都吉田神社神主吉田兼右が参篭したこと、天正4(1576)年に公卿の九条稙道が源氏物語の講釈を行ったことなどが連子窓下窓の落書きとして確認でき、郡山城が大内氏の山口と同じく、京都の公家と文化交流があったこと、戦国武士が源氏物語に寄せる関心の深さを物語っている。
郡山城跡を安芸高田市歴史民俗博物館から眺める。山頂は標高390m、比高190m。博物館を1時間ほど見学。入手した案内説明図を手に道路を道なりに数分進み、大通院谷遺跡の駐車場へ11時50分頃、到着。昨日、日山城跡ですれ違った熊谷ナンバーの夫婦とまた出会った。彼らは、周遊路の右へ進み、私は左の毛利元就の墓を経て山頂本丸へ至るコースに向かった。
郡山城跡。大通院谷遺跡周辺。郡山城西端に約100mもの薬研堀跡が検出された。
郡山城跡。大通院谷遺跡周辺。青光井山。郡山合戦のとき、尼子詮久が本陣を置いた山で、左が青山城跡、右が光井山城跡。意外に近い距離にある。4か月で築いたと思えないほど尾根上に多数の郭を連ねた本格的な山城であった。天正10年1月13日に大内氏からの援軍である陶隆房の軍が
光井山を攻め、尼子久幸が討死して、尼子軍は大敗、出雲へ退却した。
郡山城跡。毛利一族墓所。郡山城城内、城下にあったそれぞれの墓を明治2年にこの洞春寺跡の元就墓所境内に移築したもの。右側には郡山城初代城主毛利時親から8代豊元までの合葬。左側は元就の兄興元、その子幸松丸、隆元夫人(内藤興盛の三女)の墓。
この上段に毛利元就の墓がある。
郡山城跡。毛利元就墓所。元就は元亀2(1571)年6月14日郡山城内で75歳の生涯を終えた。墓標にはハリイブキが植えられ、3回忌には菩提寺洞春寺が建立された。
郡山城跡。百万一心碑。毛利元就墓所の向かい側にある。郡山城拡張にさいして、元就が人柱の代わりに「百万一心」と彫った石を埋めたという伝説がある。一日一力一心と読み、一致団結の大切を教えたとされる。幕末に長州藩士が山中で実物を発見したと記しているが、現在に至っても発見されていない。昭和6年にこの石碑が建立された。
ここからは快適な尾根道を登り、15分で本丸西下の御蔵屋敷跡に着いた。
郡山城跡。御蔵屋敷跡。東西約20m、南北約30mの広い敷地を持つ。北に釣井の壇、東に三の丸、西に勢溜の壇に通じている。上に二の丸がある。
郡山城跡。本丸跡と櫓台。山頂中心部には本丸・二の丸・三の丸などがあり、元就や輝元が住んでいた。
郡山城跡。北端最高点にある櫓台から本丸を見下ろす。
郡山城跡。二の丸跡。本丸のすぐ下にあり、下の三の丸に通じている。
郡山城跡。三の丸跡。三の丸は東西約40m、南北47mの広さがあり、城内で最大の曲輪である。曲輪内は土塁や削り出しによりさらに四段に分かれている。この西の段は三の丸虎口で御蔵屋敷、から帯曲輪を経て二の丸に至る導線の途中にある。
西の段は周囲を石垣や石塁で囲まれており、城内では最も新しい時期の遺構であったとされる。
郡山城跡。三の丸下通路の石垣跡。三の丸に入る大手道にあたり、石が散乱している。
郡山城跡。勢溜の壇跡。本丸の峰から南西へ下る支尾根に面積500mから700mの曲輪を四段連ね、その先にこれらうぃ取り巻く帯曲輪を加えている。東南の尾崎丸、大手道方向へ特に厳重な防御を意識した配置をしている。本丸を守護する家臣団の居住区とされる。
郡山城跡。満願寺跡。三の丸の西南下にあり、勢溜の壇跡から大手道を下る途中に立ち寄ることができる。礎石と蓮池が残る。
毛利氏が入城する以前のかなり前からあったと伝えられる。大栄3(1523)年元就の本家相続が決定し、郡山城に入城する日を満願寺法師の説で決めたという。その後も、寺内では幸若舞、能狂言、法華経読誦会などが行われた記録が残る。
寺は広島、萩城内に移り、現在は防府にある。
郡山城跡。尾関丸と大手道の間にある堀切。尾関丸には隆元が本城から移り住んだといわれる。
さらに下ると、本城の本丸へ至る脇道があるが、時間がないので寄れない。
郡山城跡。麓やや上の展望台から眺める吉田城下町。
麓やや上の巻道を西へ大通院谷方向へ戻る。
郡山城跡。常栄寺跡。毛利隆元の菩提寺で、現在は山口に移り、雪舟庭のある寺として有名。寺跡は60m×25m、40m×10mの2段の曲輪からなるが、建物の配置は明らかでない。
郡山城跡。毛利隆元墓所。毛利隆元は永禄6(1563)年出雲攻めへ向かう途中、和智誠春の館で饗応を受けた翌日41歳で急死した。死因は食傷とも毒殺ともいわれるが真相は不明。その後、厳島在陣中、毛利元就から切腹を命じられた和智誠春は永禄12(1569)年殺害された。墓は土饅頭式のように思える。
清神社。郡山城の南麓にあり、郡山築城以前から祇園社として存在していた。戦国時代は郡山城の鎮守社として毛利氏に篤く崇敬された。現在の社殿は元禄7(1694)年に再建されたもの。毛利元就育ての親・杉の大方を祀る椙若社がある。
13時過ぎになり、本日も押してしまった。このあと、五龍城跡、多治比猿掛城跡、北広島町の古保利薬師、吉川元春館、万徳院跡を見学。