五龍城跡。平成25年10月20日(日)。安芸高田市の毛利氏関連史跡のうち吉田地区を終え、甲田の宍戸氏居城五龍城跡へ向かった。吉田からは車で20分程度の近い距離にある。
五龍城は甲立盆地の西南端にあり、可愛川と本村川の合流地点に突き出したような半島状の丘陵に築かれ、南北朝以後、毛利氏の防長移封までの約250年宍戸氏の本城として用いられた。現在は、五龍城の真下を国道54号線が通過している。
宍戸氏は戦国時代末に毛利一門筆頭として遇され、のちに萩藩毛利家の家老職となり、維新後は男爵に叙せられた氏族である。
宍戸氏は宇都宮宗綱の子八田知家に始まる。源頼朝は佐竹氏の勢力を抑えるため、腹心の八田知家を常陸守護に任じた。知家は常陸・下野及び安芸高田郡に所領を給与され、本拠地の小田に嫡子の知重を入れ、四男家政を常陸国宍戸荘に配した。家政は宍戸氏を称し、宍戸氏の祖となった。
宍戸朝家は足利尊氏に従って功があり、建武元(1334)年安芸の守護に任じられて甲立荘に下向し、安芸宍戸氏が始まった。当初は柳ヶ城を居城としていたが、まもなく元木山に城を築いて移った。しかし城内に水が不足したため、五龍王を勧請して祈願したところ井戸水が湧きだしので、これを喜んだ宍戸朝家は城を五龍城と名付けたという。
その後の安芸宍戸氏の中興の祖である宍戸元家や、その子宍戸元源は勇将として知られ、境を接する安芸国人の盟主格の毛利氏とたびたび抗争しこれを苦しめ、毛利氏も幾度かこの城を攻めたが。ついに落城させることはできなかった。
毛利元就の代になると和解し、天文2(1533)年に孫である宍戸隆家の妻に元就の娘五龍局を迎え、以後宍戸氏は毛利氏の重臣として活躍した。所領は約15万石に及んだという。
五龍城は甲立盆地の西南端にあり、可愛川と本村川の合流地点に突き出したような半島状の丘陵に築かれ、南北朝以後、毛利氏の防長移封までの約250年宍戸氏の本城として用いられた。現在は、五龍城の真下を国道54号線が通過している。
宍戸氏は戦国時代末に毛利一門筆頭として遇され、のちに萩藩毛利家の家老職となり、維新後は男爵に叙せられた氏族である。
宍戸氏は宇都宮宗綱の子八田知家に始まる。源頼朝は佐竹氏の勢力を抑えるため、腹心の八田知家を常陸守護に任じた。知家は常陸・下野及び安芸高田郡に所領を給与され、本拠地の小田に嫡子の知重を入れ、四男家政を常陸国宍戸荘に配した。家政は宍戸氏を称し、宍戸氏の祖となった。
宍戸朝家は足利尊氏に従って功があり、建武元(1334)年安芸の守護に任じられて甲立荘に下向し、安芸宍戸氏が始まった。当初は柳ヶ城を居城としていたが、まもなく元木山に城を築いて移った。しかし城内に水が不足したため、五龍王を勧請して祈願したところ井戸水が湧きだしので、これを喜んだ宍戸朝家は城を五龍城と名付けたという。
その後の安芸宍戸氏の中興の祖である宍戸元家や、その子宍戸元源は勇将として知られ、境を接する安芸国人の盟主格の毛利氏とたびたび抗争しこれを苦しめ、毛利氏も幾度かこの城を攻めたが。ついに落城させることはできなかった。
毛利元就の代になると和解し、天文2(1533)年に孫である宍戸隆家の妻に元就の娘五龍局を迎え、以後宍戸氏は毛利氏の重臣として活躍した。所領は約15万石に及んだという。
五龍城は標高312m、比高130mの丘陵の尾根筋およびその山腹約700m×150mの範囲に広がり、尾根を遮断する堀切と土塁により、三つの郭群に分けられる。
両側を堀切によって区切られる中央部郭群は、本城跡の中核をなす部分で、本丸・二の丸・三の丸の名が残る。西側に面した本丸西端には削り残した高さ約5mの土塁があり、堀底からの高さは16mにおよぶ。
西端の郭群には御笠丸の名をもつ郭をはじめ、長大な郭が多い。中央部郭群と同様御笠丸西端にも高さ3mの土塁を置き、その外側は土橋を持つ堀切と竪堀を設けている。
両側を堀切によって区切られる中央部郭群は、本城跡の中核をなす部分で、本丸・二の丸・三の丸の名が残る。西側に面した本丸西端には削り残した高さ約5mの土塁があり、堀底からの高さは16mにおよぶ。
西端の郭群には御笠丸の名をもつ郭をはじめ、長大な郭が多い。中央部郭群と同様御笠丸西端にも高さ3mの土塁を置き、その外側は土橋を持つ堀切と竪堀を設けている。
五龍城跡。登城口。国道54号線の五龍トンネル北交差点を東へ曲り直ぐの甲立小学校前を右折し五龍橋を渡ると、駐車スペースと案内板があり、神社裏参道への道標がある。国道からの案内看板はないので、周辺を10分ほど迷った。
五龍城跡。登城口。尾根末端反対の南側には鳥居と案内板があるが、付近には駐車場はなく。石段は滑りやすく感じたので、先ほどの裏参道へ駐車し、川に沿って進んで、左の山側へ登ると、すぐに神社境内に到着。
五龍城跡。郭群東端の尾崎丸には宍戸司箭神社があり、6代宍戸元家の三男で隆兼の養子となり祝屋城主となった宍戸家俊を祀っている。家俊は幼少期から兵法剣術を好みた司箭流薙刀、貫心流剣術を編み出した。
五龍城跡。一位の段。本丸まで310mの表記がある。東の郭群からは周囲の風景を見渡せる。
五龍城跡。矢倉の段。中央の主郭群の東端にある。尾根が段状に削平された郭が連続する典型的な山城特有の様相が大規模に展開する。
五龍城跡。桜の段。本丸まで69m。
五龍城跡。中央の主郭群には本丸に近づくと、石垣が散乱していた。このあと、本来は左側に付いている道が分からず、右から郭群を抜けて、本丸に至った。
五龍城跡。姫の丸。本丸まで25m。
五龍城跡。本丸へ登る道。簡易な金属柵と手すりが設けられている。
五龍城跡。本丸。登城口から15分ほどで到着。石垣が連続する後背地に登ると、先に高い尾根が見えるが、崖が深く、一見して先へ進む道が分からなかったので、本丸に到達したことで満足する。あとの行程を考えると時間がない。大規模な山城が良好に保存されていることに感心。西の郭群も大規模で良好な状態らしい。
登城口へ戻る。
毛利元就が青少年期を過ごした多治比猿掛城へ。
登城口へ戻る。
毛利元就が青少年期を過ごした多治比猿掛城へ。
多治比猿掛城跡。登城口。吉田を通り、一山越すと多治比に出る。城跡へは案内看板がある。車道は民家の前で終わり、駐車場がある。歩道は整備されており、寺屋敷曲輪群を経て、本丸跡へは簡単に到達できる。
猿掛城は明応9(1500)年、毛利弘元が嫡男興元に家督を譲ったあと、郡山城から4歳の二男元就を連れて移り住み、元就が27歳で本家を相続するまで過ごした城である。
猿掛城は明応9(1500)年、毛利弘元が嫡男興元に家督を譲ったあと、郡山城から4歳の二男元就を連れて移り住み、元就が27歳で本家を相続するまで過ごした城である。
多治比猿掛城跡。寺屋敷曲輪群。中心部郭群の西側約60m下にある。この郭群の下段には教善寺があり、寺の屋敷として造成されたとみられる。
多治比猿掛城跡。本丸跡。南側背後には約13mの深い堀切で背後の尾根続きを遮っている。三方は急峻な崖となっている。北端には約10m四方で、約3mの高い盛土があり、高台として使用したものと思われる。
多治比猿掛城跡。本丸跡からは南を除く三方が見え、石州路に沿う要衝の地であったことがうかがえる。東側からは約4厠イ譴慎氾痛瀉呂箏柑馨訐廚鯔召爐海箸できる。
伝杉の大方の墓と多治比猿掛城跡。杉の大方の墓が近くにある筈なのだが、分からなかったので、城跡近くに墓参りに来ていた老婦人に場所を尋ねると、県道を隔てたすぐ反対側にあるとのこと。城跡へ入る地点のすぐ先に墓へ入る道があり、民家の軒先に墓があった。
伝杉の大方の墓。杉の大方は毛利弘元の継室で、毛利氏以前の覇者・高橋氏の娘と伝わる。5歳で母を失い、10歳で父と死別した元就の養母となった。杉大方は幼少の松寿丸(後の毛利元就)を不憫に思い、実家にも帰らず、他の妻になることもなく松寿丸の養育に専念した。家臣の井上元盛に多治比の所領を横領され、生活が困窮を極めた際も、幼少の松寿丸を一身に支えた。この頃に杉大方は松寿丸に朝日を拝む念仏信仰を教え、元就は終生この朝の念仏を欠かさなかったといわれる。彼女が毛利元就の人格形成に大きな影響を与えたことは確かである。
元就が息子らへ宛てた書状の中に、杉大方への強い思いを伝える記載がある。「吾は、五歳で母に別れ、十歳で父を失った。十一歳の時、兄の興元が京都に上ったので、みなし児になってしまった。 杉の大方殿はあまりに不憫に思ったのか、多治比に留まって見捨てられずに私を育ててくれた。そのため、若い身の上なのに再婚もしないで貞女を遂げられた。」
15時30分になり、古保利薬師を経て、吉川元春館方面へ向かう。
元就が息子らへ宛てた書状の中に、杉大方への強い思いを伝える記載がある。「吾は、五歳で母に別れ、十歳で父を失った。十一歳の時、兄の興元が京都に上ったので、みなし児になってしまった。 杉の大方殿はあまりに不憫に思ったのか、多治比に留まって見捨てられずに私を育ててくれた。そのため、若い身の上なのに再婚もしないで貞女を遂げられた。」
15時30分になり、古保利薬師を経て、吉川元春館方面へ向かう。