仏像の拝観は16時30分まで、16時頃に着いたので、一帯は閑散としていた。資料館の職員に拝観を依頼すると、鍵をもって薬師堂横の立派な収蔵庫へ案内してくれた。
古保利は古代には山県郡の郡衙が置かれた地で、安芸国造の一族である凡(おおし)氏が権勢を誇っていた。実権を握っていた。薬師堂の前身である福光寺は凡氏の氏寺として建立された。古保利薬師の裏山には5世紀から6世紀前半までに営まれた古墳群があり、前方後円墳1基を含む50基余りが確認されており、凡氏との関連が指摘されている。平安時代後期にも、この一帯は厳島社領壬生荘の地域であり、凡氏が領有するものであった。中世になると吉川氏の祈願寺になったが、同氏の岩国転封により廃寺となり、その仏像群が小堂の中に眠ることになったのであった。
室内には、日光、月光両菩薩(ぼさつ)立像、十一面観音立像、千手観音立像、吉祥天立像、四天王立像などがあり、いずれ劣らぬ一木造の彫刻である。薬師如来が福光寺の本尊で、日光、月光両菩薩はその脇侍とされている。
職員が丁寧に説明してくれた。早朝は全国吉川会の団体のため時間外開扉したとのこと。
大朝の吉川元春館跡へ向かう。
居城の日野山城の西南の山麓、志路原川の河岸段丘上に築かれ、その志路原川が堀としての役割を担っている。東側の正面には高さ約3メートルの巨大な石垣が約80メートルに渡って続き、後方は山、両側には土塁を築き、その上に塀を巡らせていた。
駐車場から入口に当たる石切場跡を登り、正面石垣へ向かった。石切場跡は東西9m、高さ4mあり、花崗岩の岩盤から石を切り出した跡をそのままにして、三段に積まれた石垣に見えるようにしている。石には所々に石切り時の矢穴が残っている。
16時25分頃到着したが、吉川戦国時代まつりは14時に終わり、資料館は16時30分まで開館なので、誰もいなかった。
城館跡群は「日本の遺跡33 吉川氏城館跡」小都隆、2008年、同成社に詳しく紹介されている。
吉川氏の経済力については、吉川氏領は砂鉄や材木などの資源に恵まれており、13世紀以降製鉄・鍛冶や材木の生産が行われたという。生産に携わる職人や彼らを管理していた山県氏などの階層を家臣に取り込み鉄や材木の生産を掌握した。米・雑穀などの生産、石垣普請・道具・作事などの技術、市を通じての商品流通と併せたものが吉川氏の経済基盤を支えていた。
また、表門から遠ざかるにつれ立石の間隔を狭める遠近法を使っている。
石積みの意匠の独創性には感動を覚える。
庭園は、一乗谷朝倉氏遺跡の庭園とならび、戦国期のものとしては遺存状況がすこぶる良好で、つくりも秀逸な庭園である。池の背後に三尊石、その右上に滝石組を配した庭園で、会所とよばれる建物から鑑賞していた。垂直に立てた石組の護岸と扁平な敷石の池底をともない、たいへん人工的な池庭である。
16時40分頃に見学を終え、万徳院跡へ向かう。
万徳院跡は吉川元春館跡から北へ1辧火野山から続く尾根の南西斜面にある。吉川元春館跡から北方向へ入る道路が一番近いアクセスだったが、案内標識はあるものの、民家の軒先へ入って行くように見えたので入らず、千代田方向にもあったアクセス道路から進入しようとしたが、反対側からは標識が見えず、行き過ぎて戻り、右折。長い距離を進むと駐車場に着き、寺院風の資料館へ向かう。16時30分まで開館だが、16時50分だった。係員がいて、折角だからとビデオを見せてくれ、展示もざっと見て、万徳院跡へ向かった。
創建当初は本堂と庫裏だけしか存在せず、元長の別邸として利用された。元長の死後、弟の吉川広家が元長の菩提寺へと大改修し、石垣や庭園を増築した。吉川氏の岩国転封により万徳院は岩国へと移転し、寺跡は放置されて廃墟となった。
参道は境内の表門まで北へ延びる直線道路で、幅4m、長さ220mある。参道南端部は直角に曲がっており、来客に220mもの直線道路を一気に見せる効果を狙っている。
万徳院跡の見学を終えると、17時10分を過ぎていた。先ほどの係員が帰るところを呼び止め、松本屋敷へのアクセスを尋ね、ほかにも話を交わした。
吉川元春館跡方面への正しいアクセス道路を通り、パン屋の近くにあるという松本屋敷跡へ向かう。
17時30分頃で暗くなっていたが、鈴尾城跡、安芸高田市歴史民俗博物館、郡山城跡、五龍城跡、多治比猿掛城跡を含めた本日の行程を終了し、道の駅豊平どんぐり村へ向かった。
翌日は恐羅漢山登山と三段峡などの見学となる。