古保利薬師。北広島町。平成25年10月20日(日)午後。安芸高田市の多治比猿掛城跡の見学を終えた時は15時30分頃であった。北広島町大朝の吉川元春館方面へ向かう。時間はないが、旧国宝の仏像薬師如来座像が気になったので、千代田IC近くの古保利薬師を見学することにした。しかし、場所が分からず、薬師公園の駐車場に車を停めて周囲を探すが、見つからない。10分以上無駄にして、国道に戻り北進すると、薬師堂の案内看板があり、右折すると小高い森の中に薬師堂があった。
仏像の拝観は16時30分まで、16時頃に着いたので、一帯は閑散としていた。資料館の職員に拝観を依頼すると、鍵をもって薬師堂横の立派な収蔵庫へ案内してくれた。
古保利は古代には山県郡の郡衙が置かれた地で、安芸国造の一族である凡(おおし)氏が権勢を誇っていた。実権を握っていた。薬師堂の前身である福光寺は凡氏の氏寺として建立された。古保利薬師の裏山には5世紀から6世紀前半までに営まれた古墳群があり、前方後円墳1基を含む50基余りが確認されており、凡氏との関連が指摘されている。平安時代後期にも、この一帯は厳島社領壬生荘の地域であり、凡氏が領有するものであった。中世になると吉川氏の祈願寺になったが、同氏の岩国転封により廃寺となり、その仏像群が小堂の中に眠ることになったのであった。
仏像の拝観は16時30分まで、16時頃に着いたので、一帯は閑散としていた。資料館の職員に拝観を依頼すると、鍵をもって薬師堂横の立派な収蔵庫へ案内してくれた。
古保利は古代には山県郡の郡衙が置かれた地で、安芸国造の一族である凡(おおし)氏が権勢を誇っていた。実権を握っていた。薬師堂の前身である福光寺は凡氏の氏寺として建立された。古保利薬師の裏山には5世紀から6世紀前半までに営まれた古墳群があり、前方後円墳1基を含む50基余りが確認されており、凡氏との関連が指摘されている。平安時代後期にも、この一帯は厳島社領壬生荘の地域であり、凡氏が領有するものであった。中世になると吉川氏の祈願寺になったが、同氏の岩国転封により廃寺となり、その仏像群が小堂の中に眠ることになったのであった。
古保利薬師。木造薬師如来坐像。重文。平安時代初期の弘仁・貞観期の仏像。保存状態はいい。京都の古寺にある仏像群にひけをとらない。久々に慈悲深い仏様を拝観した。
室内には、日光、月光両菩薩(ぼさつ)立像、十一面観音立像、千手観音立像、吉祥天立像、四天王立像などがあり、いずれ劣らぬ一木造の彫刻である。薬師如来が福光寺の本尊で、日光、月光両菩薩はその脇侍とされている。
職員が丁寧に説明してくれた。早朝は全国吉川会の団体のため時間外開扉したとのこと。
大朝の吉川元春館跡へ向かう。
室内には、日光、月光両菩薩(ぼさつ)立像、十一面観音立像、千手観音立像、吉祥天立像、四天王立像などがあり、いずれ劣らぬ一木造の彫刻である。薬師如来が福光寺の本尊で、日光、月光両菩薩はその脇侍とされている。
職員が丁寧に説明してくれた。早朝は全国吉川会の団体のため時間外開扉したとのこと。
大朝の吉川元春館跡へ向かう。
吉川元春館跡。国史跡。石切場跡。毛利元就の二男で吉川氏の家督を相続した吉川元春が嫡子の吉川元長に家督を譲り隠居した際に、自身の隠居館として天正11(1583)年に建設を開始した。館そのものは未完ではあったが元春はこの館に入り隠居生活を開始する。しかし天正14年に建設半ばで元春が九州で死去。翌年嫡子の吉川元長も病死。元長の弟吉川広家の頃に完成を見た。広家が天正19(1591)年に月山富田城に移ると、徐々に居館としての機能を失い廃墟と化していった。
居城の日野山城の西南の山麓、志路原川の河岸段丘上に築かれ、その志路原川が堀としての役割を担っている。東側の正面には高さ約3メートルの巨大な石垣が約80メートルに渡って続き、後方は山、両側には土塁を築き、その上に塀を巡らせていた。
駐車場から入口に当たる石切場跡を登り、正面石垣へ向かった。石切場跡は東西9m、高さ4mあり、花崗岩の岩盤から石を切り出した跡をそのままにして、三段に積まれた石垣に見えるようにしている。石には所々に石切り時の矢穴が残っている。
16時25分頃到着したが、吉川戦国時代まつりは14時に終わり、資料館は16時30分まで開館なので、誰もいなかった。
居城の日野山城の西南の山麓、志路原川の河岸段丘上に築かれ、その志路原川が堀としての役割を担っている。東側の正面には高さ約3メートルの巨大な石垣が約80メートルに渡って続き、後方は山、両側には土塁を築き、その上に塀を巡らせていた。
駐車場から入口に当たる石切場跡を登り、正面石垣へ向かった。石切場跡は東西9m、高さ4mあり、花崗岩の岩盤から石を切り出した跡をそのままにして、三段に積まれた石垣に見えるようにしている。石には所々に石切り時の矢穴が残っている。
16時25分頃到着したが、吉川戦国時代まつりは14時に終わり、資料館は16時30分まで開館なので、誰もいなかった。
吉川元春館跡。北東部隅の石積。
城館跡群は「日本の遺跡33 吉川氏城館跡」小都隆、2008年、同成社に詳しく紹介されている。
吉川氏の経済力については、吉川氏領は砂鉄や材木などの資源に恵まれており、13世紀以降製鉄・鍛冶や材木の生産が行われたという。生産に携わる職人や彼らを管理していた山県氏などの階層を家臣に取り込み鉄や材木の生産を掌握した。米・雑穀などの生産、石垣普請・道具・作事などの技術、市を通じての商品流通と併せたものが吉川氏の経済基盤を支えていた。
城館跡群は「日本の遺跡33 吉川氏城館跡」小都隆、2008年、同成社に詳しく紹介されている。
吉川氏の経済力については、吉川氏領は砂鉄や材木などの資源に恵まれており、13世紀以降製鉄・鍛冶や材木の生産が行われたという。生産に携わる職人や彼らを管理していた山県氏などの階層を家臣に取り込み鉄や材木の生産を掌握した。米・雑穀などの生産、石垣普請・道具・作事などの技術、市を通じての商品流通と併せたものが吉川氏の経済基盤を支えていた。
吉川元春館跡。表門付近。館跡は間口110m、奥行80m。正面から奥に向かって狭まる不整形な形をしている。正面だけは一町にして、当時の将軍邸や管領邸の基準を模した。門跡の幅は8m。
吉川元春館跡。表門付近。正面の石垣は門跡の北側に50m、南側に20m延び、高さ約3.5mの堂々たる石垣である。この地方独特の特徴のある積み方は「石つき之もの共」と呼ばれた石垣職人らの手による。間隔をあけて据えた大きな立石の間に平らな石を横積みにする技法である。
また、表門から遠ざかるにつれ立石の間隔を狭める遠近法を使っている。
石積みの意匠の独創性には感動を覚える。
また、表門から遠ざかるにつれ立石の間隔を狭める遠近法を使っている。
石積みの意匠の独創性には感動を覚える。
吉川元春館跡。表門付近の裏側。石組の様子。石垣は敷地造成の後で、工事は外周縁の土塁と石垣の2段階に分けて行われた。石垣は土塁の前面約3mに位置している。
吉川元春館跡。庭園。国名勝。館跡の北縁に池の護岸が立地し、池の北には築山、その東に滝組の配置となっており、築山頂部には立石をすえた形跡がのこる。
庭園は、一乗谷朝倉氏遺跡の庭園とならび、戦国期のものとしては遺存状況がすこぶる良好で、つくりも秀逸な庭園である。池の背後に三尊石、その右上に滝石組を配した庭園で、会所とよばれる建物から鑑賞していた。垂直に立てた石組の護岸と扁平な敷石の池底をともない、たいへん人工的な池庭である。
庭園は、一乗谷朝倉氏遺跡の庭園とならび、戦国期のものとしては遺存状況がすこぶる良好で、つくりも秀逸な庭園である。池の背後に三尊石、その右上に滝石組を配した庭園で、会所とよばれる建物から鑑賞していた。垂直に立てた石組の護岸と扁平な敷石の池底をともない、たいへん人工的な池庭である。
吉川元春館跡。井戸跡。
16時40分頃に見学を終え、万徳院跡へ向かう。
16時40分頃に見学を終え、万徳院跡へ向かう。
万徳院跡。国史跡。万徳院跡歴史公園に併設されたガイダンスホールで、当時の本堂の外観をモデルに規模を同じく再現した建物。
万徳院跡は吉川元春館跡から北へ1辧火野山から続く尾根の南西斜面にある。吉川元春館跡から北方向へ入る道路が一番近いアクセスだったが、案内標識はあるものの、民家の軒先へ入って行くように見えたので入らず、千代田方向にもあったアクセス道路から進入しようとしたが、反対側からは標識が見えず、行き過ぎて戻り、右折。長い距離を進むと駐車場に着き、寺院風の資料館へ向かう。16時30分まで開館だが、16時50分だった。係員がいて、折角だからとビデオを見せてくれ、展示もざっと見て、万徳院跡へ向かった。
万徳院跡は吉川元春館跡から北へ1辧火野山から続く尾根の南西斜面にある。吉川元春館跡から北方向へ入る道路が一番近いアクセスだったが、案内標識はあるものの、民家の軒先へ入って行くように見えたので入らず、千代田方向にもあったアクセス道路から進入しようとしたが、反対側からは標識が見えず、行き過ぎて戻り、右折。長い距離を進むと駐車場に着き、寺院風の資料館へ向かう。16時30分まで開館だが、16時50分だった。係員がいて、折角だからとビデオを見せてくれ、展示もざっと見て、万徳院跡へ向かった。
万徳院跡。参道。万徳院は、吉川元春の嫡男吉川元長が天正3(1575)年年頃、に建立した諸宗兼学の寺院であった。
創建当初は本堂と庫裏だけしか存在せず、元長の別邸として利用された。元長の死後、弟の吉川広家が元長の菩提寺へと大改修し、石垣や庭園を増築した。吉川氏の岩国転封により万徳院は岩国へと移転し、寺跡は放置されて廃墟となった。
参道は境内の表門まで北へ延びる直線道路で、幅4m、長さ220mある。参道南端部は直角に曲がっており、来客に220mもの直線道路を一気に見せる効果を狙っている。
創建当初は本堂と庫裏だけしか存在せず、元長の別邸として利用された。元長の死後、弟の吉川広家が元長の菩提寺へと大改修し、石垣や庭園を増築した。吉川氏の岩国転封により万徳院は岩国へと移転し、寺跡は放置されて廃墟となった。
参道は境内の表門まで北へ延びる直線道路で、幅4m、長さ220mある。参道南端部は直角に曲がっており、来客に220mもの直線道路を一気に見せる効果を狙っている。
万徳院跡。門跡と石垣。表門は間口12尺の四脚門であったと考えられる。
万徳院跡。門跡の石垣。石垣は高さ約1.8m、長さ55m。3mから4mおきに立石を配した独特の意匠は吉川元春館と同じ。
万徳院跡。庭園。名勝。主庭は本堂に西にある。境内西側の谷を利用し、南北30m、東西12~18mの南側がやや膨らんだ長円形をなし、中央に南北18m、東西8mの中島を配している。中島の護岸と景石は二段の列石状をなして谷川を表し、南側下流に池と陸が広がる雄大な景観を意図している。池の水は南端にしか溜まらず、水は池尻から石垣の下までの暗渠を通して排出され、大水の際の調整池の役割も果たしていた。
万徳院跡。庭園跡の東側には本堂の礎石が残る。
万徳院跡。南東隅からの風景。庫裡・本堂の礎石が残り、その上部には風呂屋が復原されている。
万徳院跡。風呂屋。1月・2月・12月を除く毎月第3日曜に蒸風呂体験が行われており、当日も実施されたという。
万徳院跡の見学を終えると、17時10分を過ぎていた。先ほどの係員が帰るところを呼び止め、松本屋敷へのアクセスを尋ね、ほかにも話を交わした。
吉川元春館跡方面への正しいアクセス道路を通り、パン屋の近くにあるという松本屋敷跡へ向かう。
万徳院跡の見学を終えると、17時10分を過ぎていた。先ほどの係員が帰るところを呼び止め、松本屋敷へのアクセスを尋ね、ほかにも話を交わした。
吉川元春館跡方面への正しいアクセス道路を通り、パン屋の近くにあるという松本屋敷跡へ向かう。
松本屋敷跡。国史跡。吉川元春夫人の屋敷跡と伝承される。吉川元春館から志路原川を挟んだ北側にあり、東西に連なる幅90m前後の区画の中にある。中央に幅5mの門を置き、前面には長さ70m、高さ2mの石垣が連なっている。
17時30分頃で暗くなっていたが、鈴尾城跡、安芸高田市歴史民俗博物館、郡山城跡、五龍城跡、多治比猿掛城跡を含めた本日の行程を終了し、道の駅豊平どんぐり村へ向かった。
翌日は恐羅漢山登山と三段峡などの見学となる。
17時30分頃で暗くなっていたが、鈴尾城跡、安芸高田市歴史民俗博物館、郡山城跡、五龍城跡、多治比猿掛城跡を含めた本日の行程を終了し、道の駅豊平どんぐり村へ向かった。
翌日は恐羅漢山登山と三段峡などの見学となる。