ホショーツァイダム博物館。2000~03年のモンゴル・トルコの共同発掘調査に基づいて博物館が建設されたようだ。突厥などのトルコ系モンゴル帝国が自らのルーツとしているトルコ共和国が援助して調査を行い、ハラホリンからこの博物館に至る約45kmの舗装道路も建設したという。
ホショーツァイダム博物館。舗装道路が通じているためか、韓国人団体客がいた。モンゴル人はまばらである。日本人は私一人であった。
ホショーツァイダム博物館。ロビー。内装や展示は日本が関与したハラホリン博物館の方が垢抜けている。
ビルゲ・ハーン霊廟模式図。
ビルゲ・ハーン霊廟。推定模型。門、亀趺、霊廟が直列に並び、石人や山羊などの動物像が各所に置かれている。
ビルゲ・ハーン霊廟跡出土の王冠。
ビルゲ・ハーン(ビルゲ・カガン、毘伽可汗)(在位716~734)は東突厥第二可汗国期のハーンである。
東突厥は、582年に突厥が東西に分裂した際の東側の勢力で、第一可汗国期、唐による羈縻(きび)支配下期、682年に始まり744年にウイグル(回紇)に滅ぼされるまでの第二可汗国期に分けられる。
突厥王族阿史那氏のクトゥルグ(骨咄禄)は682年に唐から独立、モンゴル高原の聖地ウテュケン山(カラコルム周辺)を奪還して、イルテリシュ・カガンと名乗った。イルテリシュ・カガンは690年に病死し、その子の默棘連はまだ幼かったので、弟の默啜が後を継いでカプガン・カガン(在位690頃~ 716年)と号し、しきりに中国の北辺へ侵入し、略奪をおこなった。696年には唐の則天武后に領土と農民などを要求するなど、各地を攻略したが、716年に戦死した。
後継者をめぐりカプガンの直系と初代のイルテリシュ・カガンの子たちの間で対立し、結局後者の兄弟が勝利を収め、兄の默棘連が即位してビルゲ・カガン(毘伽可汗)と号し、即位に重要な軍事的役割を果たした弟のキョルテギン(闕特勤)を左賢王に封じ、東突厥軍の兵馬を統帥させた。
開元8年(720)突厥軍が唐の北辺を侵略したため、唐の玄宗は契丹など周辺の諸民族とともに攻囲しようとしたのに対し、ビルゲ・カガンは機先を制して攻撃の芽を摘んだ。
唐に対しては、その後略奪から交易を重視するようになり、玄宗から毎年国境で大量に絹馬交易をおこなう許可を得ている。
開元22年(734年)、ビルゲ・カガンは大臣の梅録啜に毒を盛られるが、すぐには死ななかったので、梅録啜を斬り、その一味を滅ぼしたうえで死んだ。国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。
ビルゲ・ハーン碑(左)とキョルテギン碑(右)。
ビルゲ・ハーン碑。表面(東面)には突厥文字(テュルク語)で初代ブミン・カガンからビルゲ・ハーン、キョルテギンまでの歴史が刻まれている。
ビルゲ・ハーン碑。冒頭に近い部分にみえる一節は、突厥可汗国の建設を描く。
「上に蒼色なる天、下に褐色なる地の創られしとき、二つの間に人の子生まれたり。人の子の上に、我が祖宗ブミン・カガンとイステミ・カガンと坐したり。(この二人)坐して、突厥の民の国と法とを保ち終えたり、造り終えたり。四方すべて敵なりき。(彼ら)軍旅ひきいて、四方なる敵をすべて奪いたり、すべて服せしめたり。」
これにつづけて、「その後の可汗、重臣たちの「無知」、首長と民衆との争い、それらにつけ込んで中国の弄した策略などのため、第一可汗国が瓦解して突厥諸族が唐の羈縻(きび)支配に服するに至ったこと、そこからイルティリシュ・カガンによって突厥が再興されたこと、などを描き、イルティリシュ・カガン時代からビルゲ・カガン、キュル・テギン兄弟の死に至るまでの彼らの功績を、それぞれの年齢、または十二支獣紀年によって編年して記し、彼らがいかに「賢明」で「勇気ある」「猛き」遊牧騎馬民族の英雄であったか、そして「死すべかりし民」を「生かし養い」、「裸の民」を「衣服持てる者」とし、「貧しき民」を「富裕」たらしめるのにどれほど力を尽くしたか、を讃えている。
ビルゲ・ハーン碑。裏面(西面)には唐の玄宗から贈られた漢文が刻まれている。
キョルテギン碑。キョルテギンは731年に亡くなった。高さ335㎝、幅は東・西面が132㎝、北・南面が46㎝。東面には突厥文字で40行、北・南面にはそれぞれ13行の文が刻まれている。
3面はビルゲ・ハーンの孫のヨルギテギンが刻み、西面は玄宗の甥の張将軍が刻んだ。
東面の表面にはチュルク系民族の象徴と信じられていたヤギのシンボルがあり、上部にはオオカミが突厥族の始祖である子供を育てている姿が彫刻されている。
落雷により、西面と北面の一部が欠けている。
キョルテギン碑。東面には突厥文字で40行の文が刻まれている。始祖から初期のカガンの事績、当代の隆盛を記し、カガンたち英雄の死にさいしては、チベット、ビザンツ、中国、キルギスなどから弔問を受けたと記す。
キョルテギン碑。北面には各地を転戦したキョルテギンの戦績を記している。
キョルテギン碑。裏面(西面)。故闕特勒之碑。「闕特勤」の誤記とされる。
キョルテギン碑。裏面(西面)には唐の玄宗から贈られた漢文が刻まれており、キョルテギンの優れた人格や平和の重要性が讃えられている。
大唐開元廿年(732年)の文字が見える。 のちに2行の突厥文字が追刻されている。
闕特勤が死去したため、玄宗は詔で金吾将軍の張去逸,都官郎中の呂向に勅書を持たせて弔問に赴かせ、同時に闕特勤のために石碑[3]を立てさせ、玄宗自ら碑文を書いた。また、祠廟を立て、石像を作り、周囲の壁には闕特勤の戦陣の状景を画かせた。
ビルゲ・ハーン碑の亀趺台座。
キョルテギン碑の亀趺台座。
キョルテギン碑の旧状写真。
博物館の見学後、博物館の南東約800mにあるビルゲ・ハーン霊廟跡と北西約800mにあるキョルテギン霊廟跡を見学した。