ウランバートルのジューコフ博物館玄関から平和大通り方面を眺める。
2014年7月17日(木)。トゥブ県(中央県)エルデネ村のテーマパーク「13世紀村」からウランバートルへ帰り、14時30分頃に平和大通りから中心部へ向かった。7月10日に見学しようとしたが、閉館していたジューコフ博物館に再度チャレンジする時間は充分あったので、事前に運転手には伝えたはずだったが、何故かその手前で南の通りへ向かったので、声や身振りで平和大通りへ戻れと怒鳴ったが、無視してチンギス大通りから北のナサン・ゲストハウスへ向かった。彼は、渋滞を避けて、当初のツアー目標にはないジューコフ博物館には行かずに帰着したということだろうか。とにかく、ナサンさんに私の気持ちを話して、ジューコフ博物館へ向かうことになった。
15時20分頃にジューコフ博物館へ到着。今回は開館していた。プレートには火曜休館。9~17時。と記してある。撮影料込で1万3千TG。展示室は受付を除きコの字型に3室。ノモンハン事件の部屋が大きく、第二次世界大戦以後は2室。モンゴル語の説明がほとんどなので、文字は分からない。
ジューコフ(1896~1974)は、ノモンハンの戦いやベルリン攻略など、第二次大戦で英雄となるものの、スターリン、フルシチョフにより二度失脚、復権するという波瀾の生涯を送った。
戦場風景。ノモンハン事件がどのように展示されているかの関心だけで来たようなものだが、結局はよく分からなかった。ただ、写真があるので雰囲気は分かる。銃砲の展示もあるが、後年代の兵器が混じっているようだ。
1939年のノモンハン事件(モンゴルではハルハ川戦争という)では、日本軍に対抗したモンゴル・ソ連軍が優勢な機械化部隊により勝利した。ただ、日本軍が大敗したわけではなく、ソ連軍も相当な死傷者を出したことがソ連崩壊後に分かってきた。
ノモンハン戦場での日本軍の遺留品。
半藤一利「ノモンハンの夏」はかなり以前に読んでいる。辻政信ら参謀の横暴・無能な作戦指導により、多くの連隊長が自決させられた。この戦闘でソ連軍を指揮したジューコフ元帥は回想録で、「日本軍は下士官・兵は優秀だが、高級司令官は無能」と述べている。
ノモンハンの戦いののち、スターリンはノモンハンでの日本軍への勝利は、日本軍のある弱さを示すものではあるが、そのことがただちに日本軍全体の弱さを語るものではないと理解した。
モスクワに呼ばれたジューコフは、スターリンとの会話で、日本軍の歩兵の動きと、日本兵の規律の厳しさと若い士官たちの能力を非常に高く評価した。
司馬遼太郎はノモンハン事件を題材に小説を書きたかったようだが、断念した。1月11日のBS-TBSで半藤一利が、司馬は日露戦争時代は爽やかな日本人を描けたが、この事件では描けないと判断したという趣旨の発言をしていたが、もう定説になっている。当時の日本陸軍上層部が醜悪すぎたということだ。近年は「本当は日本側が勝っていた」とか「よくぞあれほど善戦・敢闘したものだ」と讃えることで自らを慰める論調があるらしい。手術は成功したが患者は死んだの類。
戦闘におけるソ連側の損害も日本側と比べ少なくなかった。しかしソ連の戦術は基本的に、圧倒的な兵力と物量で戦場の制圧を狙うもので、その勝利の基準は損害の多寡ではなく、目的を達成できたかどうかである。
1939年5月28~29日戦闘要図。中央左(西)にハルハ川が流れる。東岸の一部を含む黄土色部分がソ連の主張するモンゴル領、右(東)上の白色部分が満州領(内モンゴル)。日本・満洲国はハルハ川を国境と主張していた。右上境界の屈曲部にノモンハンの地名が見える。
黒が日本軍、赤がソ連軍の陣地と動向。
日本軍司令部は、ソ連軍の主要軍力が日露戦争の頃と同じくヨーロッパ・ロシアに集中していることを承知していた。モンゴルに駐留しているソ連軍は弱小で、ソ連とモンゴルの間には近代的な交通網が敷かれていなかった。こうした状況は日本軍指揮官たちも赤軍との武力作戦において成功を収めるのは自分たちであるという自信を高めた。
第一次ノモンハン事件(1939年5月11~31日)では、5月21日に小松原師団長が再度の攻撃を命令。兵力は、歩兵第64連隊第3大隊、東捜索隊など兵力2082人で山県支隊とよばれた。
ソ連・モンゴル軍も5月25日にハルハ川東岸に入り、半円形に突出する防衛線を作った。兵力は、第11戦車旅団に属する機械化狙撃大隊などで兵力約1450人。歩兵・騎兵の数は少ないが、火砲と装甲車両で日本・満州国軍に勝っていた。
山県は包囲撃滅作戦を実施し、先行する東捜索隊は、5月28日早朝に突破に成功し、ハルハ川渡河点3か所のうち中央の橋の1.7キロ手前に陣取った。これとともに主力部隊の前進がはじまった。ソ連・モンゴル軍は山県・東の部隊に立ち向かい、日本軍主力の前進は第一線の陣地を突破したところで停止し、東支隊は孤立した。29日にソ連・モンゴル軍は東捜索隊への攻撃を強め、その日の夕方に全滅させ、東中佐は戦死した。日本軍主力は30日に兵力の増援を受け取り、ソ連・モンゴル軍は次の戦闘に備えて防衛線を西岸に移した。
戦場風景。
戦場風景。
1939年8月20~31日戦闘要図。第二次ノモンハン事件。
事前の入念な作戦準備、特に後方の整備と兵站を重視していたジューコフはまず輸送体制を組織し、充分な戦争資材が集積されるのを待ったのち、8月20日から関東軍に対する反撃を開始した。砲兵の支援のもと、自動車化された歩兵と、2個戦車旅団が戦線の両翼を進撃する大胆な機動を行って第6軍 (日本軍)を包囲し、第23師団を壊滅させるなど大打撃を与えた。2週間の内に関東軍は撤退し、その後、国境線はほぼソ連・モンゴルの主張通り確定された。
戦場風景。
戦場風景。
戦場風景。
戦場風景。
戦場風景。
戦場風景。
この武力衝突において、第一段階では日本空軍の空中戦における完全なる優位と、陸上戦でのほぼ拮抗している状況であった。
「人事がすべてを決める」と言ったスターリンは、指揮官をジューコフ将軍に入れ替えた。彼は判断力に優れた指揮官で、彼の決定はしばしば赤軍の軍事マニュアルと対立するものであった。
ジューコフ将軍の指揮の下、スペイン市民戦争において独伊のパイロットを撃墜した経験豊かなソ連軍のパイロットたちにより編成された特別航空隊を秘密裏にモンゴルに投入したソ連軍は制空権を握り始めた。
戦場風景。
ジューコフは戦車の大量投入を望んだ。多くの戦車部隊の指揮官たちは、スペイン内乱での経験を持つつわものたちで、こうした人事の結果、ソ連軍にとって戦況が好転した。
オラホドガ事件。昭和
10(1935)年12月から翌年2月の間、日本・満州国とモンゴル国との間で起きた軍事紛争。ノモンハン事件の舞台となった旧満洲国興安北省ホロンボイル地方はホロン湖とボイル(ブイル)湖にちなみ名付けられた。ブリヤートから移住したモンゴル・バルガ族と先住のダグール族などが住み、満洲国により自治権を与えられていた。
昭和10年12月19日、ボイル湖西方の国境付近を警備中の満州国軍(満軍)は、外蒙軍から攻撃を受けた。翌昭和11年(1936年)1月7日、外蒙古は軽爆撃機を飛ばして偵察する。
2月8日、日本の関東軍は、杉本泰男中佐を司令官とする杉本支隊を出動させた。12日に杉本支隊はオラホドガに到着し、約2時間の激戦の末、外蒙軍を撃攘した。任務を終えて帰還しようとする杉本支隊に対し、外蒙軍は装甲車部隊で追撃し、爆撃も行った。
モンゴル軍は1945年8月10日に日本に宣戦布告して参戦した。
7.62mmカービン銃。ソ連製。騎兵銃M1938か。
7.62mmカービン銃。ソ連製。VINTOV。
7.62mm機関銃。ABC-36。ソ連製。
7.62mm機関銃。DP28軽機関銃。ソ連製。1929年採用。
16時頃退館し、ナサン・ゲストハウスへ帰った。
帰国便は7月18日7時の関西空港行きモンゴル航空OM505便なので、午前4時にナサンさんにタクシーを頼んで空港へ向かった。
7月18日12時頃に関西空港へ到着。南海と近鉄を乗り継ぎ名古屋の自宅へ帰った。