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メキシコシティ  国立人類学博物館 第7室メヒカ(アステカ)

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第7室。メヒカ(アステカ)。入口。メキシコシティ。国立人類学博物館。2014年11月11日(火)。
アステカ王国はメシーカ人が建設したメソアメリカ最大の王国で、首都は現在のメキシコシティにあった。
部屋の中央には太陽の石「アステカ・カレンダー」が展示されている。右奥に首都テノチティトランの都市模型の部屋がある。
 
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首都テノチティトランの都市模型。上図は想像図で、西岸から東の方向を見たもの。右奥に富士山型のポポカテペトル山が聳える。テスココ湖上に浮かぶ島に建設されたテノチティトランには幾つもの堤道が走り、市街には宮殿や神殿が建ち並び、大きな市場で賑わっており、最盛期の都市人口は20~30万人と推定されている。
 
メシーカ(アステカ)人は北方の狩猟民族でメキシコ盆地へ14世紀前半にたどりつき、テスココ湖西岸の小島に都市テノチティトランを築いて定住し、都市国家として成長を始めた。当時のテスココ湖沿岸各地では有力な諸部族が都市国家を築き、各都市の王たちが同盟していた。12世紀から14世紀にはテスココ、アスカポツァルコ、クルワカンの三都市連合が有力であった。
15世紀初め、当時の覇権都市アスカポツァルコの王が動乱を起こしたのち、1428年に滅ぼされて、以降はテスココ、テノチティトラン、トラコパンの三都市同盟が形成され、アステカ王国となった。
 
このときのテノチティトランの王は第4代イツコアトル(在位1427~1440年)であった。
イツコアトルは、首都テノチティトランの道路・水路整備、政府や宗教の位階制度の構築など、大国として繁栄するための礎を築いた。
その後、テノチティトランは優勢な軍事力により、メキシコ湾岸や太平洋岸を征服していき、各都市から朝貢させた。1516年にはテスココに王を送り込んで、実質的にテノチティトランのアステカ人がアステカ王国の支配者となった。
 
第9代モクテスマ2世(モンテスマ)(在位1502~1520年)は積極的な遠征と中央集権化をすすめ、アステカの最大版図を築いた。1519年コルテスがメキシコ湾から上陸し、アステカに敵対するトラスカラ人らの部族と共に進軍すると、テノチティトランで会見したのち幽閉され、翌年アステカ市民から無数の石を投げつけられて亡くなった。
アステカ王国が完全に滅ぼされたのは1521年のことで、モクテスマ2世の従兄弟の第11代
クアウテモックはコルテスがアステカの首都テノチティトランを包囲すると、3ヶ月の攻防戦に耐えて勇敢に立ち向かったが、スペイン軍に捕らえられて降伏し、アステカは滅んだ。クアウテモックはコルテスにより1524年に殺害された。
 
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テノチティトラン。中心部には500m四方の聖域があり、そこには様々な神殿、髑髏を並べたツォンパトリ、球戯場などが建ち並んでいた
中心の大神殿の頂上には右(南)側にメシーカ独自の守護神ウィツィロポチトリ、左(北)側には地域の伝統的な雨神トラロックを祀る神殿があった。
ウィツィロポチトリは太陽神の一側面を持ち、太陽と雨は乾季と雨季という一年の季節の循環を象徴している。春分と秋分の日には頂上に並ぶ二つの神殿の間から太陽が昇るように建設された。
 
スペイン人によるアステカ王国の征服後、これらの神殿は破壊され、テスココ湖も埋立てられて現在のメキシコシティが造られた。
 
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交易用のカヌー。
 
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石の台座。第4代イツコアトルの孫の第7代の王ティソク(在位1481~86)が、征服戦争の勝利を記念して火の神に捧げたもの。側面には征服した町の記録や戦う戦士が刻まれている。捕虜を台座の上で生贄としたので、血を流すための溝が掘られている。
 
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神殿への奉納物。変形された幼児の頭蓋骨や生贄用のナイフも見られる。
 
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商業都市トラテロルコからの出土品。太陽と熱を象徴する儀式用容器の火桶と土偶。
テノチティトランから分かれた人々が1388年に交易都市トラテロルコを建設したという。
テノチティトラン第6代の王アシャヤカトル(在位1469~81年)により、トラテロルコの最後の王が殺された。
 
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アステカ王国の交易。最盛期はアメリカ合衆国南西部からグアテマラにいたる広大な領域を交易網としていた。
アステカの商人(ポチテカ)の商人の中には、特別な法や神殿を持つ特権集団を形成する集団もいた。諸国を旅する商人は時に偵察部隊としての役割も果たし、敵情視察や反乱情報の収集に従事した。
 
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テノチティトランには、食料や日用品のほかに、黒曜石、オアハカ地方やメキシコ西部の金・銀・銅製品、アメリカ南西部の産のトルコ石、メキシコ湾岸低地のジャガーの毛皮、マヤ高地のケツァル鳥の羽根や翡翠など、様々な威信財が搬入された。
 
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交易品。
 
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「太陽の石」。アステカ・カレンダー。
直径3.58m、厚さ98cm、約24トンの玄武岩製で、中央の太陽神の周りに神話的図像や暦を表すアステカ文字が刻まれている。
第6代の王アシャヤカトル(在位1469~81年)が作らせ、1479年に奉納したとされている。
破損部のある未完成品ではあるが祭日に剣闘士が戦う舞台としての犠牲壇であったという説もあり、単なる天文学的な石盤であったかは説が分かれている。
 
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「太陽の石」。アステカ・カレンダー。図解。
地面の穴から顏を出した太陽神は一組の人間の心臓を持ち、生贄用のナイフに変容した舌を突きだして生贄を求めている。彼は5番目の太陽に相当し、先行する図上では正方形で区画された4つの太陽に囲まれている。次には20個の日の絵文字が順次刻まれている。星々は天を支える火の蛇神に囲まれている。
メソアメリカの暦は260日暦と365日暦で併記されている。260日暦は20個の日の名前と13の数字が組み合わさっている。
365日暦は1ヶ月が20日の18の月の最後に5日だけの月があり、52年の周期で循環する。52年周期の最後の年は太陽の死の年と畏れられ、「新しい火の儀礼」という儀礼により太陽の再生と存続を祈願した。
メシーカ人の神話では現在までに5人の神が交代で太陽となり、現在は第5の太陽の時代である。太陽が代わるたびに世界は崩壊したという。
 
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コアトリクエ。「ヘビの婦人」を意味するアステカの大地母神で、メシーカ人ををテノチティトランに導いた最高神ウィツィロポチトリの母とされる。
頭の部分は2匹のヘビが向かい合うような形で表わされ、口からはヘビの牙と先が2つに分かれたヘビの舌が出ている。2匹のヘビは斬首された頭の代わりに置かれたもので、首から両肩にかけて流れ出す血がヘビの頭の形で表され、腕を形作っている。切り取られた人間の手と心臓と頭蓋骨が女神のペンダントで、スカートは曲がりくねった無数のヘビでできている。
 
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コアトリクエ。首から流れ出すヘビは豊穣祈願を、手・心臓・頭蓋骨でできたペンダントは太陽を養うために人の血と生贄が必要なことを表し、この像は人の誕生と死を象徴しているという。
 
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オセロトル・クアウイシカリ。大地の神ジャガーの石像。生贄の首と心臓を捧げる台。
 
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ケツァル鳥の羽根で作った王冠。コルテスに贈呈した王冠のレプリカ。
 
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金製品。中央はコルテスらスペイン人が金製品を運搬しやすくした金塊。
 
金製品。
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赤く磨かれた陶器。
 
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扇。
 
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黒曜石の壺。雨を降らす雲を象徴している猿は両手で尾をつかむ仕草をしている。
 
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黒曜石の壺。一つの黒曜石を彫り込んでいる。テスココの職人が制作した。
 
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第7室入口の全景。

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