世界遺産パレンケ遺跡行きのミニバスを捜し、町の中心方向へ数分歩いたところで、遺跡行きのミニバスに遭遇して乗車。運賃20ペソ。途中停車して、遺跡公園の入場料28ペソを支払う。丘陵地帯に入って、博物館地区を右に見ると、急な九十九折の坂道を登り、8時30分頃に終点の遺跡入口に着いた。観光客は多い。チケット売り場でザックを預け、帰りに15ペソを払った。
世界遺産パレンケ遺跡は、ジャングルに囲まれたマヤの古代都市遺跡で、メキシコシティーの国立人類学博物館の至宝であるパカル王の翡翠の仮面が発見された遺跡として有名である。
また、1950年代まではメソアメリカのピラミッドは頂上の神殿を置くための台座に過ぎないと考えられてきたが、1952年メキシコの考古学者アルベルト・ルスがパレンケのピラミッド「碑文の神殿」の内部に、パカル王の墓を発見し、エジプトのピラミッドと同じく王墓であることを明らかにして古代史研究のターニングポイントとなった遺跡である。
「赤の女王」が誰なのかについては、パカル王の母サク・クックという説が有力ですが、パカル王の妻という説もあり、まだ決着はついていないとのこと。
パレンケには女王が存在した。パレンケの最盛期はパカル王とその息子のキニチ・カン・バフラム王が治世した7世紀である。碑文の解読によれば、初代クック・バフラム王は431年から435年まで統治したという。7代目に男性の継承者がいなかったため、イシュ・ヨフル・イクナル女王が8代目王として即位した。女王は604年に亡くなるまで、20年余り統治したが、599年に強大なカラクムル王朝との戦争に敗北した。
11代目として12歳で615年に即位したのがパカル王で683年に亡くなるまで、68年間パレンケ王朝を統治して、パレンケ王朝の黄金期を築いた。
パカル王在世中の675年に着工し、王の死後、息子の12代キニチ・カン・バフラム王(684~702年在位)が、父の遺体をマヤ文明最大の石室墓(長さ10m、幅4m、高さ7m)に葬った。
パカル王の石棺を発見した時、王の顔にはヒスイをモザイク状に組み合わせた豪華な仮面がつけられており、現在、メキシコ人類学博物館に展示所蔵されている。
この神殿は立入り禁止となっている。
マヤ建築の中でも他に類例のない、4階建て高さ15mの搭屋が特徴である。塔屋は、天体観測塔とされるが、物見の塔の役割もあったと推定される。
近くの小川を利用して水洗トイレやサウナなども設置されており、スペインのコロニアル建築を思わせる宮殿上部の中庭や、闘いの歴史を刻んだ壁画、マヤアーチの回廊など見ごたえがある。
西側の基壇から上部へ登る。
「捕虜の中庭」にはパカル王の勝利を記録した碑文の階段とひざまずいた6人の捕虜を描いたレリーフがある。
壁面が東西南北を指していることや、4階に星の観測に使ったと思われるテーブルがあること、踊り場に金星を表す文字があることなどにより、天体観測塔と推定されている。
この塔から見ると冬至の日には太陽が碑文の神殿に沈む。
654年に落成した部屋の壁に、この碑石が嵌め込まれている。パカル王が双頭のジャガーの玉座に座り、摂政であった母から王冠を受け取っている。