2014年11月23日(日)。メキシコ・シティ。
フリーダ・カーロ博物館から徒歩10分余りの距離にあるレオン・トロツキー博物館へと向かった。
東西の道路は北からウィーン通り、ベルリン通り、ロンドン通りの名がつけられており、瀟洒な住宅街が続く。途中、壁が一面密生した葉で覆われた住宅があり、今まで見たこともない風景に驚いた。
ウィーン通りを東に歩くと、塀の内側に中世の城の物見塔のようなものが見えてきた。これが、トロツキーが晩年に住んだ邸宅である。
この家は、トロツキーが引っ越してきたときは、廃墟のようだったが、監視用の塔が増設され、「小要塞」とよばれた。
塀も余り高くないので、侵入者に備えて、内側に警報が鳴るように電線を張り巡らしていた。
北側の大きいな車道に沿って「小要塞」の敷地があり、入口がある。
入口内部はビルのロビーのような雰囲気がある。
トロツキーはマルクス主義の衰えた現在では知る人も少なくなったので、見学者は少ないと思ったが、アメリカ人風の若者やメキシコ人も含めて見学者は意外と多かった。
建物も意外に豪華で、不思議に思った。
展示室を見学してから、暗殺された居宅へ向かう順路になっている。
トロツキー(1879~1940年)は、ウクライナ生まれのソビエト連邦の政治家。革命家、マルクス主義思想家。1917年のロシア十月革命における指導者の1人であり、レーニンに次ぐ中央委員会の一員であった。赤軍の創設者および指揮官として、ソビエト連邦の初期の頃には外務人民委員(外相)として外交問題を担当。ソ連共産党政治局員の1人でもあった。
1920年代、政策を巡って政治局内の多数派と対立、「左翼反対派」を結成した。しかし、権力闘争に敗れたトロツキーはソ連共産党を除名され、1929年にはソ連から追放された。スターリンにより、裁判で死刑を宣告され、世界各地を転々としたのち、メキシコに亡命し、コヨアカンに住んだ。トロツキーは第四インターナショナルを結成し、スターリン体制に反対し続けたが、1940年8月20日、自宅の書斎でスターリンの放った刺客のラモン・メルカデルによってピッケルで後頭部を打ち砕かれ、翌日収容先の病院で死亡した。
ナタリア・セドヴァ(1862~1962年)はトロツキーの二番目の妻である。
トロツキー、妻のナタリア、フリーダ・カーロ、アメリカ人マックス・シャハトマンと護衛。
トロツキーとナタリア。メキシコのカルデナス大統領から派遣された護衛たち。
メキシコは当時世界第2位の石油生産国でありながら英米資本の独占下にあり、資源の国有化を目論んでいたカルデナス政権は欧米からソ連共産党の傀儡ではないかと決め付けられ、非難の的になっていた。
カルデナス大統領はメキシコ共産党創設者の一人であったが、メキシコ共産党の抗議をはねつけて、トロツキーの亡命を許可したのは、すでに共産党を離党していたディエゴ・リベラの要請に応じたというより、強引にトロツキストを追放するスターリンの政策に失望していたこともあって、自分がけっしてスターリンの言いなりになっているわけではないことを、内外に誇示する意図を持っていたとされる。
左から、ディエゴ・リベラ、フリーダ・カーロ、ナタリア・セドヴァ、リーバ・ハンセン(トロツキーの秘書)、アンドレ・ブルトン(シュルレアリスト、詩人)、トロツキー、メルキダス・ベニテス、ヘスス・カサス(トロツキーを護衛する警察の指揮官)、シスト(リベラの運転手)、ジャン・ヴァン・ハイアンオールト(トロツキーの秘書兼護衛、オランダ系フランス人)。
孫息子のセーバ(1926年生まれ)はコヨアカンの家に同居していた。現在はトロツキー博物館の館長。
トロツキー暗殺に使われたピッケルを示す警察。
犯人メルカデルは柄を短く切り落としたピッケルをコートに隠し持っていた。
このピッケルは、事件を担当したメキシコ秘密警察のサラザール長官が盗み隠して、その娘が所有している。未だトロツキーの血の痕が残っているという。