食堂。トロツキーの家。トロツキー博物館。
2014年11月23日(日)。メキシコ・シティ。
この家はアントニオ・トゥラキの邸宅として1920年に建てられた。北は川の土手に、東はマルセロス通り、南はウィ-ン通りに面していた。その後、トゥラキ家が所有する光学の学校として使用されていた。トロツキーが転居してきたのは1939年3月であった。
1939年3月、スターリンはソ連内務人民委員部(NKVD)長官のベリヤに1年以内にトロツキーの暗殺を命じた。
1940年5月24日深夜に第1回目の襲撃が実行された。実行したのは、スターリンに忠誠を誓っていたメキシコ共産党で、襲撃団を指揮していたのは、有名な画家シケイロスであった。襲撃者の多くはスペイン内戦を戦った農民・労働者で、特製の警察官の制服や軍服をまとった25~30人の男たちが邸内に侵入した。彼らはトロツキー夫妻の寝室に300発の機関銃弾を乱射した。銃撃の激しさに護衛たちは身動きもできないでいた。
トロツキーはこのとき怪我一つなく生き延びることができた。妻ナタリアが素早くトロツキーをベッドの下に押し込み、自らの身でかばってくれたためだった。その場所は銃撃から逃れられる部屋の中で唯一の死角だった。焼夷弾の火を消そうとしてナタリアは火傷をしたが、仕掛けられた爆弾が不発だったことも幸いした。
襲撃が失敗に終わったあと、メキシコ共産党は「トロツキーが打った一人芝居だ」と荒唐無稽な主張をしたが、誰も信用しなかった。シケイロスらは逮捕され、裁判に付されたが、翌年3月に証拠不十分として釈放された。襲撃の不手際ぶりに面目を失った共産党幹部は「襲撃は党の知らぬところで、無鉄砲な輩や、攪乱工作員がやったものだ」と主張した。機関紙も、いったんは英雄扱いさえしたシケイロスを一転して、半狂人扱いとしたり、「トロツキーに買収された男」とさえ書いた。
書斎。
1940年8月20日トロツキーがラモン・メルカデルのピッケルの後頭部への一撃により、致命傷を負った部屋である。
トロツキーは毎日この部屋で10時間執務していた。暗殺されたころは、彼の死により未完成に終わったスターリンの伝記を数か月前から執筆中であった。
隣の机にはエジソン式口述記録器が置かれている。机の左側には、辞典や参考図書類が並べられている。
北側の壁面には大型の書棚があり、トロツキー、レーニン、マルクス、エンゲルスの著作や百科事典などが収納されていた。
シケイロス一派による襲撃が失敗すると、NKVDはトロツキー暗殺の代案を実行に移した。トロツキー周辺の情報を集める役目をしていたラモン・メルカデルを暗殺実行者に指名した。
ラモン・メルカデル(1914~1978)はスペイン人であった。ソ連内務人民委員部(NKVD)のエージェントだった母マリア・カリダドの勧めでメルカデルもエージェントとなり、母の情夫だったナウム・エイチンゴンの指揮の下、トロツキーの暗殺を準備した。
メルカデルは米人トロツキストで妹がトロツキーの秘書となっていたシルビア・アゲロフに接近し、恋人となった。ラモンは「ジャック・モルナール」の偽名を名乗り、1940年5月に初めてトロツキーに会い、知己を得た。8月にはトロツキーの書斎に招かれ、暗殺計画の下見をした。
1940年8月20日午後5時、メルカデルは自分の論文を見せるとして暗殺のためにトロツキーの家に入った。書斎でメルカデルは7cmのピッケルを「論文」を読み始めたトロツキーの頭に振り下ろしたが、トロツキーは意識を失わずに叫び声を上げて、書斎から出て、「見たまえ、奴らの仕業だ」と言いながら、食堂のテーブルの近くで力尽きて倒れた。
呆然と立っていたメルカデルは、すぐにやってきた護衛に殴りかかり、メルカデルを袋叩きにした。これを見たトロツキーは「殺すな。あいつに話させなくちゃならんのだ。」と叫んだ。結局これが致命傷となり、トロツキーは事件の26時間後の翌日に死亡した。メルカデルがトロツキーを殺したと知ったシルヴィアは卒倒した。
エイチンゴンと母カリダドら首謀者たちはトロツキーの家の近くに置いた車の中で、国外へ逃亡させるためメルカデルを待っていたが、その日のうちに出国した。
8月22日、「プラウダ」紙は、「暗殺者はジャン・モーガン・ワンデンドラインと自称し、トロツキーの信奉者かつ側近である」として関与を否定した。メルカデルは、犯行の状況を除いて自供を拒み続けた。しかし、指紋の分析から1950年9月になってメルカデルの正体が突き止められた。
メキシコの裁判所は彼に最高刑の懲役20年を言い渡した。1960年5月6日に釈放されてキューバに移送され、その後秘密裏にソ連に送られた。同年5月31日、メルカデルにソ連邦英雄の称号、レーニン勲章が授与された。
書斎。
晩年のトロツキーは高血圧を患い、頭痛のため仕事中に休息を必要としたため、部屋の隅にはベッドが用意されていた。
トロツキー夫妻の寝室。
寝室北の浴室へのドア。
防弾装甲されていた。
寝室から、書斎、食堂方向。
事務所。
トロツキーの秘書たちの仕事部屋である。図書はトロツキーと妻ナタリアの所蔵のもの。ナタリアも、この部屋で仕事をした。彼女の机は高い本棚に横にあった。
モレロス通りに面した窓は半分の高さまでレンガで覆われていた。ウィーン通りに面した窓は元は、玄関であったが、レンガで完全に覆われていた。
オットー・シスラー、ジャッキー・クーパー、ハロルド・ロビン、チャールズ・コーネル、ファニー・イワノビッチが最後の数か月ここで勤務していた。トロツキーの古くからの協力者であったヨゼフ・ハンセンは1940年5月にここに加わった。机は常に印刷物で覆われていた。トロツキーが口述録音した音源は秘書のファニーが文章に起こしていた。
夕食後の毎夜9時にはトロツキーも加わって、一日の仕事を振り返ることを慣例としていた。
外庭から書斎の窓を眺める。
孫のセーバの部屋。
1939年8月からここに住んだ。最初の襲撃事件のときに足に重傷を負ったが、その襲撃でただ一人の負傷者であった。
孫のセーバの部屋。
浴室・化粧室。
長く狭い構造をしている。入口は2か所あり、孫の部屋からと、トロツキー夫妻の寝室からとがあった。
バスタブ、薪ボイラー、トロツキーの服、ナタリアの靴、スーツケース、歯磨き粉コルゲートの容器缶などが遺されている。
15時15分頃に見学を終え、トロツキー博物館を出た。
ソチミルコ行きの路面電車・タスケーニャ駅。
フリーダ・カーロ博物館の入場券で共通入場できるアナワカリ博物館へ向かうことにした。
東へ15分ほど歩いて、メトロ2号線のヘネラル・アナヤ駅へ行き、終点のタスケーニャ駅からソチミルコ行きの路面電車に乗り換えた。
レヒストロ・フェデラル駅に16時頃着いたが、結局アナワカリ博物館がどこにあるか分からず、諦めてしまった。駅を降りた歩道橋が北と南の2方向あり、北の大通りの方へ歩いたのが失敗だった。南のやや狭い道路がカリス通りだったようだ。
しかし、フリーダ・カーロ博物館とトロツキー博物館を見学できて、腹が一杯になったので充分というべきだろう。
路面電車でタスケーニャ駅へ戻り、駅の東にある南方面バスターミナルで、次の日曜日のアカプルコ行きとクエルナバカ行きのバス乗車券を購入した。その後、宿の「サンフェルナンド館」へ帰って、3泊分のホテル代69ドルを支払った。
翌日からは、中央高原のコロニアル都市、サカテカス、グアダラハラ、グアナファトへの5日間の小旅行が始まる。